前回のブログ
『本題』肥国のトーテム「鯰さん」と奈良の久米寺様 より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12340557469.html


私のブログをご覧下さって頂いている皆様
今年も皆様にとって幸多き一年でありますようにお祈り申し上げます。


最初にお詫びを(..)
前回のブログにおいて最初にアップさせて頂いた内容の中で、日本の苗字七千傑様のサイトにリンクがうまく貼れていませんでした。申し訳ございませんでした。
1月1日の午前中に修正を致しました。
私が修正する前に内容をご覧頂いた皆様、よろしければ、再度ご確認の程よろしくお願い申し上げます。
今後も、前回のブログの内容を引き続き勉強・調査をさせて頂きます。
球磨郡久米郷を故郷とする私にとって、「必ず勉強しなければいけない事だ」と、そう思っています(p_-)。

 

今回のテーマは「中国のドラマの中で「鯰」さんを発見!」でございます(p_-)

1月5日。

父が最近見ている中国の三国志時代を描いたドラマ「「三国志~趙雲伝~」を初めて一緒に見ました。

最初は、三国志時代の単なる恋愛ドラマかな?と思いながら見ていたのですが・・・

あるシーンで目が釘付けになりました!

洛陽で、王允(おういん)が董卓(とうたく)に近づこうと画策。

王允(おういん)の自宅のシーンで、『王允家』のシンボルとなる並んだ二つの装飾が映し出され、その装飾の下で、「伝書鳩」を飛ばす話が行われていました。

その二つの「装飾」とは・・・・「鯰」さんだったのです!

私は思わず

「あっ!!鯰!!!」とテレビに向かって叫んでしまいました。

父が

「何処に?」と言うので、「ほら!!ここ!!」とテレビの画面を指差すと

「あっ!本当、鯰だ・・・」と父。

最近、私が調べている事を父に話していたので、父も「ううぅ・・ん」と(p_-)

しかし、冷静沈着な父は

「しかし、何でもこじつけてはいけない(ー_ー)!!」と言うので

私が「だって!このドラマは三国志時代がテーマなんでしょう!」と言うと

「そんなに気になるなら、自分で調べなさい!お父さんはドラマを見てるだけ!」と言われてしまい・・・

ならば(p_-) ! と、わたくし調べました(p_-)

※テレビのドラマから本格的に調べるなんて・・・と全国には呆れた方もいらっしゃると思いますが(..)  お付き合い下さい(..)

 

まず、鯰をトーテム?とする「家」に住まわれた「王允」とは?

「王允」 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%85%81

 

王 允(おう いん、137年 - 192年)は、中国後漢末期の政治家。字は子師。并州太原郡祁県(現・山西省晋中市太谷県)の人。呂布と共謀して董卓を殺害したが、その部下に逆襲されて殺害された。兄は王宏。子は王蓋・王景・王定(王宗)。孫は王黒。甥は王晨・王淩。

前歴
若い頃、名儒として名を馳せていた郭泰から「王允は一日に千里を走り、王佐の才(王を佐(たす)ける才。主君に仕えてその人を偉大足らしめる才能)である」と英才の誉れと評されていた。

中略・・・・

184年の黄巾の乱に際しては豫州刺史となり、荀爽・孔融らを幕僚に迎え黄巾軍を撃破した。乱終結後、王允は十常侍の張譲が黄巾軍と繋がっていたことを告訴したが、張譲が謝ったことで霊帝がこれを許してしまったため、張譲からの逆恨みで投獄されてしまった。死刑に処されるところであったが、多数の助命嘆願により命を救われた。

霊帝が死去すると、何進は妹(何太后)の子であった劉弁(少帝弁)を帝位に就けた。王允は何進に招かれて河南尹(首都洛陽を含む郡の長官)となり、劉弁が即位すると尚書令に任じられた。

 

 

※王 允(おう いん、137年 - 192年) 兄は王宏。子は王蓋・王景・王定(王宗)。孫は王黒。甥は王晨・王淩。

 

王氏 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E6%B0%8F#

王氏(おうし、わんし)は
中国などにおける氏族の一つ。新を建てた王莽の一族の他、前漢から後漢末~三国時代の貴族・琅邪王氏と太原王氏、高麗の王族などが特に知られる。
日本における王氏は諸王の集団であり、令制では二世から四世まで(後に五世)までの皇族を範囲としていた。

中略・・

琅邪王氏、太原王氏などの始祖は東周霊王の太子・姫晋とされる。姫晋は王位継承前に死去(『春秋左氏伝』)、あるいは廃され(『新唐書』)、王位は弟が継承した。姫晋の子孫の家は「王家」と呼ばれ、その呼称が氏になったと伝える。

 

※琅邪王氏
秦の将軍王離の長子の王元の末裔といわれる王吉を祖とし琅邪郡臨沂県を本貫とする。

太原王氏は同族にあたると伝わる。

※太原王氏
上記の王離の次子の王威を祖とする氏族で、琅邪王氏とは同族と伝わる。後漢末の王允とその甥王淩などが著名である。

 

(p_-)・・・と言う事は

王允。この方は秦の将軍王離の長子の王元の末裔といわれる王吉を祖とし、さらに

始祖は東周霊王の太子・姫晋。

 

鯰さんをトーテム(装飾)とする家に住まわれた「王允」の始祖『東周霊王の太子・姫晋』

 

霊王・・・ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%8E%8B_(%E5%91%A8)

霊王(れいおう)は周朝の第23代王。簡王の子。
子沢山で、兄弟順として太子姫晋、姫佞夫、姫貴(景王)、姫還、姫姑、姫溌、姫弱、姫鬷、姫延、姫定、姫稠、姫趙車などが大勢いた。
彼の多くの子たちは戦乱に巻き込まれて殺害された。また、太子が早世したため、同母弟の姫貴が太子となり、その後を継いだ。

 

東周霊王・・・東周 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8

周(しゅう、拼音: Zhōu、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛陽遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。

 

歴史
克殷
周の伝説上の始祖は后稷と言い、帝舜に仕えて、農政に功績があったという。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。
古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴の子の昌(後の文王)が誕生する際にさまざまな祥瑞が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言っていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った太伯と虞仲は出奔して南の荊蛮の地に赴いた。太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。

 

びっくりしました!! 驚きました!!

鯰さんをトーテム(装飾)とする家に住まわれた「王允」の始祖

『東周霊王の太子・姫晋』。

「王允」とは国姓を姫(き)とする「周」の太子姫晋の後裔。

句呉(こうご)と号して国を興した姫(き)姓「呉王太伯」さらに肥後に来られたと言われる

姫(き)姓「呉王夫差」、この方々の系とは同族!!!

 

うっわぁ・・・・・(この事に気が付いた時には本当に言葉が出ない程驚きました)

 

偶然、父が見ていた三国志時代をテーマにした「中国ドラマ」を初めて一緒に見て・・

見始めて数分後に偶然「鯰さん」のトーテム(装飾)がある事に気が付き・・

家の主「王允」と言う方が気になって調べたら・・・

「王允」とは国姓を姫(き)とする周王朝第23代王霊王の太子姫晋の後裔である事が解り

さらに句呉(こうご)と号して国を興した姫(き)姓「呉王太伯」さらに肥後に来られたと言われる
姫(き)姓「呉王夫差」、この方々の系とは同族である事が解りました・・・・

 

もしかしたら・・・鯰さんは姫(き)姓の方々のトーテムであったのではないか????

私はそう考えてしまいました・・・

しかし・・・何故?偶然、私はあのドラマを見たのだろう・・・???(?_?)

 

所で・・・・

ウィキペディアの「王允」この方の記述にとても気になる事が書かれていました(p_-)

三日天下 の項で「王允」が亡くなった記述の後に

※長安の人々は、老若男女問わず全員が涙を流したという。後に許都へ移った献帝は、その忠節を思い殯(もがり)を改めて葬ると、司徒の印綬を郷里の郡へ送った。孫の王黒が安楽亭侯に封じられた。彼の墓は現在許昌市郊外にある。

※殯(もがり)

この時は2世紀末(192年)。殯(もがり)とは中国の風習?だったのですね(p_-)

以前、ブログ『柿本人麻呂と球磨の古代 現代の 肥人(こまびと)の独り言⑥』で「もがり」について書かせて頂いていました。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12332345831.html

 

国姓を姫(き)とする「周」の太子姫晋の後裔「王允」の家にある鯰さんの装飾。

肥後国※旧熊(球磨)国後の肥国 の山門に来られた姫(き)姓呉王夫差(フサ)。

旧肥国である、熊本・佐賀・長崎には「鯰さん」のトーテムが沢山残り・・・

奈良の久米寺様にも「鯰さん」のトーテム・・・

奈良の久米寺様の鎮守社久米御縣神社(くめのみあがたじんじゃ)の御祭神は

久米部の祖神である大来目命(天久米命)。

和名妙類聚抄に見られる肥後国球磨郡久米郷は久米族の古代元祖的本拠地と言われている・・

鯰さんは「古代中国」から ⇒ 「熊(球磨)国※肥国」から ⇒ 全国 へと広がっていったのではないのかなぁ?・・・と私は考えます(p_-)

 

 

★王 允(おう いん、137年 - 192年) 兄は王宏。子は王蓋・王景・王定(王宗)。孫は王黒。甥は王晨・王淩。

★王 允がお仕えした『霊帝』 

 

『霊帝』 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E5%B8%9D_(%E6%BC%A2)

霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯劉萇の子。解瀆亭侯劉淑の孫。河間王劉開の曾孫。章帝の玄孫に当たる。

王朝    後漢
在位期間    168年2月17日 - 189年5月13日
都城    雒陽(洛陽)
姓・諱    劉宏  ※姓「劉」・諱「宏」
諡号    孝霊皇帝

 

上記の内容に「宏」の文字が見られます・・・

霊帝・・・※姓「劉」・諱「宏」  王 允の兄「王宏」

 

霊帝の後裔は日本に来られています。

阿知使主 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E7%9F%A5%E4%BD%BF%E4%B8%BB

阿知使主(あちのおみ、3世紀 - 4世紀頃、または5世紀前半)は、応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われる。

渡来
『日本書紀』応神20年(289年)九月条には、「倭漢直(やまとのあやのあたひ、東漢氏)の祖阿知使主、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県を率て、来帰り」と伝わる。
『続日本紀』延暦四年(785)六月の条によれば漢氏(東漢氏)の祖・阿智王は後漢の霊帝の曾孫で、東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので帯方郡から「七姓民」とともにやってきたと、阿智王の末裔氏族東漢氏出身で下総守の坂上苅田麻呂が述べた。

 

漢氏(東漢氏) ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%BC%A2%E6%B0%8F

 

渡来集団として
『記・紀』の応神天皇の条に渡来したと記されている漢人系の阿知使主を氏祖とする帰化系氏族集団である。

『日本書紀』応神天皇20年9月の条に、「倭漢直の祖の阿智使主、其の子の都加使主は、己の党類十七県の人々を率いて来帰した。」と伝える。
また『続日本紀』延暦四年(785)六月条によれば、阿智王は七姓(朱・李・多・皀郭・皀・段・高の七姓漢人)と共に渡来した。
また、『古事記』応神天皇の件に、「秦造の祖、漢直の祖、が渡来してきた」とある。

 

漢氏と東漢氏・西漢氏
漢氏 (あやうじ)は東漢氏(倭漢氏、やまとのあや)と西漢氏(河内漢氏、かわちのあやうじ)の両系にわかれる。西漢氏は王仁の後裔を称し、東漢氏とは同族であるが、氏は異なる。
その後に渡来した今来漢人(新漢人)(いまきのあやひと)も加えられる。
阿知使主の末裔の漢氏は飛鳥に近い檜隈を拠点とした。大和に居住する漢氏は東漢氏(東文氏)となり、河内に本拠を持っていた漢氏は西漢氏(西文氏・西書氏)となった。織物工芸に長けていたため、両氏とも「漢」と書いて「アヤ」と読ませている。

 

氏族の特徴
東漢氏は、先来の秦氏と同じく漢土由来の製鉄技術をもたらしたと考えられている。また、記紀等の記録から土木建築技術や織物の技術者が居た事を窺い知れる。東漢氏の一族に東文氏があり、7世紀から8世紀頃には内蔵省・大蔵省などの官人を輩出している。
また、東漢氏は軍事力にも秀で、蘇我氏の門衛や宮廷の警護などを担当している。『肥前国風土記』によれば、602年の新羅征討計画の際には兵器の製作を担当した。崇峻天皇暗殺の際にも東漢氏の東漢駒(東漢直駒)が暗殺の実行役となっており、蘇我氏の与党であったが、壬申の乱の際には、蘇我氏と袂を分かって生き残り、奈良時代以降も武人を輩出し平安時代初期には蝦夷征討で活躍した坂上氏の坂上苅田麻呂・田村麻呂親子が登場する。

 

後裔  中略・・・

坂上氏のほかに東漢氏から出た諸氏には、平田氏、内蔵氏、大蔵氏、丹波氏、調氏、文部氏、谷氏、佐太氏、井上氏などがある。

 

上記の「内蔵氏」。実は、以前ご紹介した球磨の「王宮神社」に金銅板の径十三.八糎の毛彫の聖観音を奉納されていらっしゃいます。

佐藤光昭氏は論文”「麻郡神社私考」について”の中で

『王宮神社には金銅板の径十三.八糎の毛彫の聖観音が伝来していた。

「奉納人 王御前 文永十二年正月 内蔵金弘」と記す内蔵氏は太郎天像に四名も見え「宇佐大鏡」にも記されている。その外、建久八年閏六月の図田帳にも見える久米氏・紀氏も太郎天像にあり、須恵氏は応永廿八年二月廿七日・日向国図田帳写には諸県郡内安楽寺領馬関田庄の地頭須恵氏と見えている』

と書かれています。

 

さらに・・・調氏ですが ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AA%BF%E6%B0%8F

調氏(しらべし)は、古代の調氏の後胤。朝鮮半島からの渡来人である。河崎氏の筑後河崎氏(調一党)は筑後国に拠点を持った一族である。筑後十五城の一つに数えられる。同じく筑後十五城の星野氏・黒木氏と並んで有名である。

※星野氏は黒木氏と同じく古代の調氏の後胤。

 

上記にある「黒木氏」ですが、平河氏系図には黒木氏との姻戚関係が見えます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12084345646.html

画像③です。

 

実は、私の曾祖父(平川家)の弟も黒木家に養子に入り家を継いでいるのです・・・

平河氏(平川氏)と黒木氏とは何らかの縁があるのでは?と以前から考えていました。

※補足 祖母の実家の旧宮原村の平川家は江戸時代中期までその姓は「平河」でした。

(分限帳より)

 

先にも書きましたが

★黒木氏・内蔵氏を含む東漢氏・西漢氏の祖、

中国後漢の第12代皇帝『霊帝』

姓・諱    劉宏  ※姓「劉」・諱「宏」
諡号    孝霊皇帝

★王 允(おう いん、137年 - 192年) 兄は王宏。子は王蓋・王景・王定(王宗)。

孫は王黒。甥は王晨・王淩。

「宏」の文字が見られます・・・

霊帝・・・※姓「劉」・諱「宏」  

王 允の兄「王宏」

 

ここで・・・本当に偶然なのだと思うのですが・・・

気になるので・・・私の叔父(父の弟)の名前について書かせて頂きます。

 

私の祖父は、陸軍士官候補生学校を卒業して軍人となりました。
陸軍少尉となっての配属先は中国。
中国で陸軍中尉となり、その後一旦熊本に戻りまた中国へ・・・
有名な事件で重傷を負い帰国。その後は東部軍司令部へ所属。
昭和16年、太平洋戦争突入前に陸軍を退官。
軍属として慶尚南道の道庁の課長に赴任しました。

 

叔父(父の弟)の名前・・・
当時の慶尚南道の道庁長官の方が、現地で産まれた叔父(父の弟)の名付け親となって下さいました。

叔父の名前に付く「文字」は中国の昔の大変偉い御方の名前であったと聞いています。

その文字は「宏」です・・・

中国の昔の大変偉い御方がどなたであったのか?

祖父は戦場での負傷が原因で亡くなっていますし、祖母も十数年前に亡くなっているので

今は誰にも聞く事が出来ません・・・

慶尚南道の道庁長官であった方から付けて頂いた名前、叔父はその名前に誇りを持っています。

ただ・・・叔父は名前負けした(-.-)・・と先日も笑っていました・・・トホホ

 

叔父の名前の由来となった中国の昔のお偉い方とはどなたなのか?

今回の調査で偶然ですが「宏」という文字を拝見して、さらに興味が湧いているのですが・・

あまり調べると不敬に当たりそうなので・・・止めておきます(..)

 

脱線しました(..)

 

今回の内容は「偶然見たドラマ」がきっかけとなった勉強・調査でした。

私の調査を一笑されている方々もいらっしゃると思います・・・

何せドラマがきっかけですから・・・

しかし・・・私は偶然とは閃きに似た、何かのお導きのような気がするのです・・・

(マタマタ(ー_ー)!! との声がいずこから・・・)

 

最後に(..)

私のブログをご覧の皆様。

ご覧下さって本当にありがとうございます。

 

突拍子もない発想も多々あるかと思いますが(..)

お付き合い下さい。

よろしくお願い申し上げます。

私は今年も勉強・調査に励んでまいります。

(^-^) お正月食べ過ぎて現代の別の意味での肥人度?が益々加速した

ひろっぷより

 

次回「平安時代までの球磨①と面土國」 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12343058000.html