前回のブログ
中国のドラマの中で「鯰」さんを発見!(p_-) より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12342592277.html
※2018/01/11 一部内容を変更致しました(..)
ブログ『平氏と肥後の関係』で書きましたように
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12337438347.html
平安時代の承平年間(931~938)、わが国最初の百科事典『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』によれば、球磨郡には『久米(くめ)』『球玖(くく)』『人吉(ひとよし)』『東村(ひがしむら)』『西村(にしむら)』『千脱(ちぬぎ)』の六郷がありました。
球磨郡久米郷の領域は、水上村・湯前村(現湯前町)・久米村(現多良木町)・奥野村(現多良木町)・宮原村(現あさぎり町)・岡本村(現あさぎり町)・上村の一部(現あさぎり町)
であったと推測されています。
球磨盆地の中心を流れる球磨川の南岸地域であり、以前書かせて頂いたように
この地域には鹿児島の霧島神宮と同體である御祭神を御祀りの神社が鎮座。
宮崎の鵜戸神宮と同體である御祭神を御祀りの神社が鎮座する地域でもあります。
球磨川の北岸には阿蘇神社が多く鎮座されています。
平安時代における久米郷は藤原姓久米氏の所領域でありましたが、一部異なる「氏族」が所領する「村」がありました。
そこが『岡本村』と『旧上村の一部”永里”』です。
平安時代末期までの『岡本村』の開発領主は『菊池氏一族の合志氏』でした。
相良氏入部以前の平安時代末期球磨地方の開発領主は人吉氏(藤原姓)・須恵氏(藤原姓)・合志氏(藤原姓)・久米氏(藤原姓)・平河氏(良峯姓)・湯山氏(平姓)・伊勢氏(本姓不明)でありました。
岡本村の開発領主である『合志氏』の系図は日本の苗字七千傑様のサイトで確認させて頂く事が出来ます。
日本の苗字七千傑様サイト内
《菊池氏》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006b.htm
《合志氏/赤星氏/甲斐氏》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006c.htm#002
日本の苗字七千傑様サイト内
《合志氏/赤星氏/甲斐氏》 姓氏類別大観を拝見すると「合志経明」後裔に
『岡本季隆』・『永里基季』と言う方々が見えますが、
球磨郡久米郷岡本村・球磨郡久米郷永里の開発領主であった方々です。
この事により、古代久米族の元祖的本拠地であった球磨郡久米郷には
平安時代に「菊池氏(合志氏)」の所領する地域があったと言う事が解ります。
拝見した姓氏類別大観は《合志氏/赤星氏/甲斐氏》の系図ですが
実は、家の親戚に「赤星家」があります。祖母の従妹の嫁ぎ先です。
さらに
今回、球磨の合志氏を「再確認」させて頂いている時に
とても「重要な事」に気が付く事が出来ました。
日本の苗字七千傑様サイト内
《菊池氏》 姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/020/02006b.htm
の中に
菊池則隆 ⇒ 兵頭経隆 ⇒ 経平・・「迫間」氏・「迫」氏が見えます。
菊池の「迫間」・「迫」を名の由来とされた事が解ります。
菊池の「迫間」・「迫」とは・・・・菊池郡山門郷の比定地と言われている地域です!
実は、以前から菊池郡山門郷とは何処なのか?と調べていたのですが
以下のサイト様で公開されていらっしゃいました。
九州王朝(「邪馬台」倭国=豊国)説(福永晋三先生の説 = 和歌が解き明かす古代史)様
サイト内 『[姫氏(きし)=紀氏、火国山門(神来)に来朝』 より
・山門郷 迫間(はざま)川流域
★菊池則隆 ⇒ 兵頭経隆 ⇒ 経平・・「迫間」氏・「迫」氏
★菊池郡山門郷 = 迫間(はざま)川流域
(p_-)・・・・松野連系図には
呉王、夫差の子息「公子忌」が「孝昭天皇三年来朝住火国山門」とあり、
後裔 宇也鹿文(鬼毛理)の項に「火国菊池評山門住 永初元年十月通漢」とあります。
私は・・・個人的には
呉王、夫差の子息「公子忌」が住された「孝昭天皇三年来朝住火国山門」の山門が
100%『菊池』であったとは考えられません・・・(あくまでも個人的にですが・・・)
しかし後裔 宇也鹿文(鬼毛理)と言う方は
「孝昭天皇三年来朝住火国山門」であり、この方が住した地は
菊池郡山門郷 = 迫間(はざま)川流域であった!と言う事は系図で明記されています。
その菊池郡山門郷 = 迫間(はざま)川流域を名前の由来とする菊池則隆後裔
経平・・「迫間」氏・「迫」氏の祖。
こう言う風に繋がるものなのですね・・・(p_-)
その菊池氏族「合志氏」が平安時代の開発領主であった場所が球磨の旧久米郷旧岡本村と
隣の上村永里であった・・・と言う事です(p_-)
あらためて・・・こう言う風に繋がるものなのですねぇ・・・(p_-)
さらにもう一つとても気になる地名が
九州王朝(「邪馬台」倭国=豊国)説(福永晋三先生の説 = 和歌が解き明かす古代史)
様サイト内 『[姫氏(きし)=紀氏、火国山門(神来)に来朝』
に記されていました。
菊池郡山門郷 = 迫間(はざま)川流域 現在の「熊本県菊池市野間口」
野間口・・・ここで野間が登場しました。
実は、平安時代末期に球磨に入部したと言われる「平河氏」。
広大な所領地の中の本拠地は「木上(きのえ)」(現錦町)にありました。
その「木上(きのえ)」にある高原(たかんばる)台地に登る入り口の地名も「野間」です。
さらに、木上(きのえ)岩城(いわんじょう・平河氏の本拠地)周辺の地名は「迫(さこ)」です。
さらにさらに・・・球磨郡内の家の親戚には多数の「平川家」があるのですが(20軒近く)、
その中で私の祖母の妹の嫁ぎ先の平川家は『字迫田』にあります。
(旧宮原村の平川家から別の平川家へと嫁ぐ)
以前からこの「迫」・「迫田」・・・迫と言う地名は気になってはいたのですが・・・
★菊池則隆 ⇒ 兵頭経隆 ⇒ 経平・・「迫間」氏・「迫」氏
★菊池郡山門郷 = 迫間(はざま)川流域
★菊池郡山門郷 = 迫間(はざま)川流域 現在の「熊本県菊池市野間口」
またあらためて・・・こう言う風に繋がるものなのですねぇ・・・(p_-)
ここで(p_-)
平河氏の鎌倉時代初期までの所領地は球磨川北岸だけではなく、球磨川南岸にも達していました。
球磨川南岸の平河氏の旧所領地内にあるのが、以前から御紹介してきた
現錦町の「京ガ峰古墳群」であり、さらに現あさぎり町免田の才園古墳、本目遺跡であります。
平安時代末期に平家没官領として一旦幕府に没収されて、その後に
良峯師高子息字平紀平次不実名(良峯師貞※平河師貞)に安堵された所領地「永吉庄」内であります(p_-)
この良峯師高子息字平紀平次不実名 と言う摩訶不思議な名前ですが特に
『字平紀平次』(あざたいらきのひらつぐ)の「紀平」とは何か?を以前調べて、
とても面白い?事に気が付いていました(p_-)
実は以前から九州内の同時代(鎌倉時代初頭)に「紀平」を名乗られていた別の人物を
発見していました(p_-)
鹿児島の上原氏が「紀平次」を名乗っていらっしゃったのです。
詳しくは鹿児島市史 松元町の歴史 95ページ以降 127ページより記されています(..)
http://www.city.kagoshima.lg.jp/kikakuzaisei/kikaku/seisaku-s/shise/shokai/shishi/documents/201251016312.pdf
★上原氏・・紀平二元保・・鹿児島の上原氏
※『紀平二元保』と言う方は筑後国山門郡瀬高下庄の鷹尾別府にある高良大社別宮の大宮司に補任されていらっしゃいます。
皆様、お気づきになられたと思います(p_-)
★筑後国山門郡瀬高下庄の鷹尾別府にある高良大社別宮の大宮司
筑後国山門郡・・・です。
まとめると(p_-)
※平河氏・・字平紀平次不知実名・・平河師貞
永吉庄を所領。現錦町の「京ガ峰古墳群」、現あさぎり町免田の才園古墳、本目遺跡等他、多数の古代史跡が存在。
本拠地は永吉庄内『木上(きのえ)』。岩城(いわんじょう)周辺の地名は「迫」
『木上(きのえ)』高原(たかんばる)台地への登り口の地名は「野間」
★菊池郡山門郷 = 迫間(はざま)川流域 現在の「熊本県菊池市野間口」
※上原氏・・紀平二元保・・鹿児島の上原氏
★『紀平二元保』と言う方は筑後国山門郡瀬高下庄の鷹尾別府にある高良大社別宮の大宮司に補任された。
となります。
またまたあらためて・・・こう言う風に繋がるものなのですねぇ・・・(p_-)
しかし、ご覧頂いている皆様も『こう言う風に繋がるものなのだぁ』とお考えになられたのでは
ありませんでしょうか?
私は、あくまでも先祖調査の視点から古代の球磨や肥国について調べているのですが
先祖を調べるとやはり古代の謎に繋がっているような気がしてなりません。
★字平紀平次不知実名・・平河師貞
★紀平二元保・・鹿児島の上原氏
共通の文字は「紀平」・・・「紀」と「平」。
やはり・・・「紀」(きの)か・・・・独り言です(-.-)
しかし、これだけでは私の妙な感?(閃き?)は終わりませんでした。
平河氏の旧所領地内、現あさぎり町免田の才園古墳、本目遺跡。
現あさぎり町免田は江戸時代まで免田村(めんだむら)でした。
この地で出土した土器が、殆どの方が学生の時に習ったであろう『免田式土器』です。
私は免田村(めんだむら)を単純に免田(めんでん)があった村だったのかな?と考えていました。
免田(めんでん) ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%8D%E7%94%B0
免田(めんでん)とは、日本の古代末期から中世にかけて、国が規定の課税を徴収するのを免除する田地。国衙に納める官物・雑役のうち、雑役を免除されて官物だけを納める田地を雑役免田(ぞうえきめんでん)と言う。
以下詳しくはウィキペディアをご覧ください(..)
そこで、全国に免田村はどれくらい存在していたのかを旧高旧領取調帳データベースを利用して調べたのですが
全国にわずか4か所でした。
①能登国 羽咋郡 免田村 めんでん村 加賀藩領 696石
②能登国 羽咋郡 免田村 めんでん村 加賀藩領 632石
③能登国 羽咋郡(《森本村/中沼村/免田村/八野村/二屋村/野寺村》請新田
もりもと/なかぬま/めんでん 加賀藩領 5石
④肥後国 求麻郡 免田村 めんだ村 人吉藩領分 3385石
ここで、気が付いたのですが能登国 羽咋郡の免田村はあくまでも「めんでん村」
しかし球磨郡の免田村はあくまでも「めんだ村」なのです・・・・
何か気になる・・・
そう考えて思い出したのが平河氏の良峰師高所領譲状案です。
平川三郎師高重代所領田数 注文の中で免田村は「目田之村」となっていました。
参考 『角川地名大辞典 永吉庄(中世)』 より
http://jlogos.com/ausp/word.html?id=7453223
建久2年5月3日の良峰師高所領譲状案(平河文書/県史料中世3)に「平川三郎師高重代所領田数 注文」として「肥後国求磨郡永吉庄之内」の「横瀬」「青山之村」など20か所が書き上げられており,嫡子師貞らに譲渡されている。
これらの地名の分布をみると,荘域は,北に「五木之村」(現五木村)があるが,球磨川と免田川の合流する付近の「目田之村」(現免田村)が東端で,そこから西に「永池之村」「平野之村」(以上,現免田村),「平野之村」(現錦町)が並び,球磨川支流の川辺川の流域に,北から「はしかミ之村」「田代之村」「川辺之村」「深水」(以上,現相良【さがら】村)とあり,同じく支流の山田川の上流に「山田之村」(現山江村)がある。
さらに人吉荘の西側に球磨川に沿って「原田之村」「中神之村」「をうかき」(以上,現人吉市),「渡之村」「尾瀬之村」「高野瀬之村」(以上,現球磨村)と並んでおり,人吉荘の荘域を取り巻くように,球磨川の流域に散在していたことがわかる
★球磨川と免田川の合流する付近の「目田之村」(現免田村)が東端
さらに、以前ブログ『球磨郡球磨村神瀬(旧神瀬村)の地名』で御紹介した
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12314802139.html
現『熊本県球磨郡球磨村神瀬(大字)箙瀬』一体も平河氏の所領地「永吉庄」であった事が解ります。
※箙とは矢を入れて肩や腰に掛け、携帯する容器のこと。矢筒。「やなぐい」とも読む。靫(うつぼ、ゆぎ)とも呼ばれる。
永吉庄
預所 は 大江広元
地頭 は 平河氏 となります。
ちなみに平河氏の鎌倉時代初頭における通字は「師」です。
師高・師貞・師忠・師里・師種・師頼 他、多数の平河氏に「師」の文字が見えます。
※補足 球磨郡久米郷の鎌倉時代初頭の領家は・・・西園寺家です。
平頼盛の外曾孫である「西園寺公経」と私を含む宮原の一族の先祖「橘公業」が
橘氏の本領「伊予国宇和郡」と「西園寺公経」の領地「球磨郡久米郷」を替地した事から明白です。
「西園寺公経」とは ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B5%8C
平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。
宮原の一族の先祖「橘公業」と「西園寺公経」が替地した土地はウィキペディアにも書かれています。
橘公業 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%98%E5%85%AC%E6%A5%AD
『嘉禎2年(1236年)に、本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ・・』
私は・・・球磨郡久米郷以外の上記の「土地」も古代の謎に深く関わる「地」なのでは・・と考えています。
球磨郡「免田村」の記述に戻ります(-.-)
平河氏の所領地
★球磨川と免田川の合流する付近の「目田之村」(現免田村)が東端
この「免田川」こそが久米郷の西端です。
ちなみに、この免田村域が『和名類聚抄』における『球玖(くく)』郷ではなかったのか?と推測される研究者の方も多数いらっしゃいます。
古来からの免田(めんでん)、国が規定の課税を徴収するのを免除する田地と
球磨郡の免田(めんだ)「目田之村」とは何か全く別の意味があるのではないか?
郷の境界線となる川の名にもなる「免田・目田(めんだ)」と言う地域は元々「めんだ」と言う古代からの地名だったのではないか?
などと、実は以前から妙に気になっていました・・・
そして最近、一つの「古代の国」の名前に気が付きました。
北宋版『通典』 安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口
※安帝永初元年 倭面土國王師升等が生口を献じた。
『倭面土國王師升』・・・倭の面土國
面土國・・めんど國・・めんど?・・・あれっ??
面土國の国王の名は「師升」 ・・・「師」・・・あれっ??
めんど・・・めんだ・・?
師升・・・平河氏の球磨における通字は「師」・・・?
偶然かなぁ???などと考えながらしかし(p_-)
ここ免田(めんだ)には1世紀からの遺跡「本目遺跡」が在ります。出土した破鏡のペンダントは3世紀頃に中国浙江省付近で製作された方格規矩神獣鏡の破鏡で穿孔して加工されたものでした。
何だか妙にみょう~に気になりました。
そこで『倭面土國王師升』と言う方を調べました(p_-)
師升 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%A5%E5%8D%87
帥升(すいしょう、生没年不詳)は、弥生時代中期・後期の倭国(まだ統一国家ではないクニの一つ)の有力な王と推測される。西暦107年に後漢に朝貢した。日本史上、外国史書に名の残る最初の人物。
後漢書東夷伝の記述からはこの倭国の所在地は明確でないが、九州の可能性が高い。
また、帥升(師升)とは名前なのか職名なのかもはっきりしない。これより以前の西暦57年に後漢に朝貢して金印を授けられた倭国奴国との関係は不明。
『後漢書』「巻八十五」の「東夷伝」の「第七十五」
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見
安帝の永初元年(107年)、倭国王帥升等が生口160人を献じ、謁見を請うた。
『翰苑』「蕃夷部」「倭国」の条
後漢書曰 安帝永初元年 有倭面上國王帥升至
後漢書に言われていることには、 安帝の永初元年、倭面上國王帥升が来た。
北宋版『通典』
安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口
安帝永初元年(107年) 倭面土國王師升等が生口を献じた。
『唐類函』の「百十六巻」の「邉塞部一」の「倭」の条
安帝永初元年 倭國土地王師升等獻生口
安帝永初元年 倭國土地王師升等が生口を献じた。
『日本書紀纂疏』「一」
東漢書ノ伝二曰…倭面國此方ノ男女皆面ヲ點シ身を文カサル故二面ノ字ヲ加テ之呼フ 東漢書二曰安帝ノ永初元年倭面上國王師升等生口百六十人ヲ獻ス
東漢書に言われていることには、…倭面國は、その国の男女は皆、面(顔)と身体に入れ墨をしている。よって面の字を加えてこれ(国の名?)を呼ぶ 東漢書に言われていることには、安帝の永初元年、倭面上國王師升等が生口160人を献じた。
『釈日本紀』「第一 解題」
後漢書二云孝安皇帝永初元年冬十月倭面國使ヲ遣テ奉獻ス 註二曰倭國ハ樂浪ヲ去ル万二千里 男子皆面ニ點シ身ヲ文ケテ其ノ文ノ左右大小ヲ以テ尊卑ノ差ヲ別
後漢書に言われていることには、云孝安皇帝永初元年冬十月倭面國が使を遣わして奉献した。 註に、倭國ハ樂浪から万二千里のところ、とある。 男子は皆面(顔)と身体に入れ墨をして、その入れ墨の左右大小によって尊卑の違いを区別していた。
「東夷伝」の「第七十五」の「建武中元二年倭奴国…」と「安帝永初元年倭国王…」の記事は魏志倭人伝には載っておらず、何を基に書いたのか不明とされている。
帥升(師升)以前に日本史上の個人名は外国の史書に見られない。そのため、帥升(師升)が外国の史書に名が残っている最初(最古)の人物とされている。帥升(師升)の次に現れる人物は卑弥呼(魏志倭人伝に記載)である。
帥升(師升)に関しては、『後漢書』『翰苑』『通典』などの短い記述を元に、様々な推論が試みられている。
称号
帥升(師升)に先だって、建武中元2年(西暦57年)に倭奴国(倭の奴国?)の大夫が後漢へ朝貢し、光武帝から印綬(「漢委奴國王印」)を授けられているが、帥升(師升)については生口を献じ謁見を請うたことしか記述がない。このことから、倭奴国は後漢に王として承認されたが、帥升(師升)は王と認められなかったとする説がある。一方、『後漢書』に「倭国王」と記載されていることを根拠に、倭国王として認められていたとする説もある。
姓名
『後漢書』の原本は残っていない。現存する『後漢書』の写本には、「帥升等」と書かれている。『翰苑』の、『後漢書』を引用した箇所には「帥升」とある。また、北宋版『通典』には、「師升等」とあり、『唐類函』「百十六巻」「変塞部一」「倭」の条の、『通典』を引用した箇所には「師升等」とある。「帥升(師升)」が、姓名(「帥」または「師」=姓、「升」=名)であるのか、名(「帥升」または「師升」=名)であるのかは議論が分かれている。中国に「帥」という姓が非常に希なため、「帥」は誤記ではないかとする説もある。同様に「升」を「斗」の誤記とする説もある。また、「帥升」「師升」ではなく「帥升等」「師升等」で一つの名だとする説や、「帥」を名ではなく職名(元帥を意味するか)とする説も提出されている。
「倭國王」の解釈と帥升(師升)の所在地
(p_-) 江戸時代から様々な推測が行われているようですが・・・
私が非常に気になったのは・・・球磨郡を狗奴國と推測されていた内藤湖南博士の記述でした。
『内藤湖南博士はこれらの記事に注目し、『後漢書』の原本には「倭面土國王師升」とあったのではないか、しかし難解な表現なのでそれが転写されていき、諸書に引用されていく中で、いろいろと書きかえられ、書き誤られ、「倭國」になったり、「倭面國」になったりしたのではなかろうか、という結論に達した。そしてさらに、「倭面土」は「やまと」の中国式表記ではないかとした。本居宣長は、『通典』では「倭面土地王師升等」と表記されていることに気づき、「面土地」の三字はどういう意味か明らかでないが察するに「一つのちひさき國の王」のようだ、と述べている』
「面土國」を「末盧國」にあてる説や帥升を伊都国王だったとする説などがあるようですが・・・
『「面土」を青刺のことだと解釈して、「倭面土國」を入れ墨の風俗の国だとする説も
ある。』 ここも中々気になる所です・・・
とても気になるのは面(顔)の刺青の話が出ている事です・・・
面(顔)の刺青と言えば久米族の風習です(p_-)
その証拠が大久米命の刺青でしょう・・・
大久米命 コトバンク様より
https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E4%B9%85%E7%B1%B3%E5%91%BD-1060069
記・紀にみえる久米直(くめのあたい)の祖。
「古事記」によれば,神武天皇の東征にしたがい,大和(奈良県)の宇陀(うだ)の豪族兄宇迦斯(えうかし)や,忍坂(おさか)の土蜘蛛(つちぐも)を討った。そのとき,兵の士気を鼓舞するためにうたわれたのが,久米歌とされている。「日本書紀」では大来目。
このとき歌われたという戦闘歌久米歌は,この集団の半農半猟的性格をよく表している。
のちに宮廷歌舞のひとつとなり,儀式の際に演奏された。現在も宮内庁楽部で行われる勇壮な所作を伴う歌舞である。『古事記』によると,大久米命は結婚前の皇后に歌で呼びかけ,神武天皇との仲をとりもったとあり,近侍的性格をもっていたことを示している。また目のまわりに入れ墨をしていたともあり,初期の征服戦争時代の未分化な王権の形態や,原始の残存をしのばせるものがある。
目のまわりに入れ墨をしていた大久米命。原始の残存をしのばせるもの。
この古代久米部の元祖的本拠地であったと言われる球磨郡久米郷。
すなわち・・面(顔)の刺青を施す古代の方々の元祖的本拠地。
球磨視点の私は
1世紀からの遺跡「本目遺跡」(3世紀※200年代に中国浙江省付近で製作された
方格規矩神獣鏡の破鏡を穿孔して加工されたペンダントが出土)がある
「めんだ」と面土(めんど)國の関係。
その本目遺跡を含む地域を所領地とした平河氏の通字「師」と面土國王の「師升」と
言う方の関係。
非常に気になります(p_-)
ただ・・・どなたも着目されてはいないと思いますが・・・・
何せ私はど素人ですから(..) 一笑されるのかな((+_+))
私の調査は先祖を調べる事ですが・・・
古代からの日本の歴史を調べる上で「その土地」に後世どのような氏族が住していたのか
これは、重要な事なのじゃないのかなぁ・・・と考えています・・・
何せ私はど素人ですから(..)
今回は平安時代までの球磨の勉強・調査から古代の面土國までを少し勉強してみました。
次回
内部構造が全国的にも非常に珍しい球磨の古墳 に続きます。