前回のブログ『後漢書を読んで。奴国と狗奴国』 より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12442972003.html

 

2019年3月9日 追記

2019年3月7日に書かせて頂いた今回の内容に加え、本日、最下部に追記を書かせて頂きました。

 

前回書かせて頂いたように

後漢書では

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫倭国之極南界也 光武賜以印綬
倭奴國は倭国の極南界也 と記されている

続けて
安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

さらに 魏略では

※文身點(黥)面、猶稱太伯之苗。

と記されており、古代元祖的久米族の本拠地と言われる球磨郡久米郷に関わるであろう
大久米命様は「黥(さ)ける利目(とめ)」とあり、目のまわりに入れ墨をしていた。

不思議な事に
「後漢書」では『狗奴国(後漢書では拘奴国とあり)』の記述を女王国の東と記されており
しかし、魏略では女王之南、又有狗奴國と記されていた。

と言う事から、あくまでも私の推測ですが

倭国の王都は九州南部から九州北部に移動したのでは・・?

と考えました。

以前リブログさせて頂いた、ブログ『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様

No.091 江戸幕府降伏王政復古祈願の地・球磨郡宮原村皇大神宮 ④ の中で

https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12435195732.html

 

球磨の免田が帥升(師升)面土国と証明されることを期待します。

※倭国の中心は、球磨免田→福岡市西→糸島とつながることとなります。

※倭の国王・帥升(師升)は球磨郡あさぎり町免田を中心とする九州王朝(姫氏きし)の太祖であった。倭国(伊国)の原点は球磨の免田にあった。

※「平河氏」は九州王朝姫氏の流れが強くなります。

と言った御言葉を頂きました。

さらに

香川県丸亀市綾歌町に宇倍神社を勧請した宇閇神社(うべじんじゃ 祭神・武内宿禰)が鎮座です。社殿には「丸に剣片喰」の紋があります。
本来であれば、神社の神紋に武内宿禰の紋章である五七桐紋が付くべきでしょう。
しかし、日本書記の手前、武内宿禰は臣下になられ、各豪族の祖となっています。
さらに、「松野連系図」では「夫差王」「宇閇王」が記載されています。

武内宿禰は古代九州王朝の皇族、そして呉の太伯王姫氏の流れとなります。

とのお話を伺う事が出来ました。

 

「松野連系図」では「夫差王」「宇閇王」

「平河氏」は九州王朝姫氏の流れが強くなります。

 

「平河」と言えば・・ブログ『平河 ヘブライ語・ポリネシア語の混合地名の某所』で書かせて頂いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12412960617.html

 

ヒラ Hirah 「高貴な」 ヘブライ語

「河」・・「コウ・ゴウ」とはポリネシアのカウ、タウ(舟)の意味。
 

つまり、ヒラコウ・ヒラゴウ(平河)とはヘブライ語・ポリネシア語の混合で読むと
「高貴な舟」と言う意味になります。
「高貴な舟」と言う意味の「地名」に隣接して「天子神社」が御鎮座である・・
さらに

江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となり、明治維新後の東京奠都で『宮城(きゅうじょう)「皇居」』へと、時代の大きな流れを受け止めてきた「江戸城」
江戸城の旧名は
「平河城」です。その旧「平河城」(後の江戸城)は東京奠都で
宮城(皇居)が建設された”その「地」”が「平河」です。

 

※「松野連系図」では「夫差王」「宇閇王」

※「平河氏」は九州王朝姫氏の流れが強くなります。

「球磨」と「姫(き)姓」と風神「エンリル」・・・

 

「平河氏」と「松野連系図」、「面田(免田)」と「倭面土国王師升」・・と考えながら「松野連系図」をあらためて「じ~っ」と見ていると・・あっ!!! と気が付きました!!!

1.面田(免田)の久鹿(クシカ)と松野連系図

面田(免田)※現球磨郡あさぎり町免田 久鹿(クシカ)と言う地名があります。

球磨郡内に数社御鎮座の「天子神社」が、ここ久鹿(クシカ)にも御鎮座です。

面田(免田)は『平河氏(平川氏)』の所領地に含まれていました。

以前から久鹿(クシカ)の地名に関して「クシカ」・・もはや、日本語ではない(ー_ー)!! などと

私は考えていました(p_-)

先にも書いたように『松野連系図』をじ~っと見ていると・・「クシカ?」・・あっ!!

「クシカさんがいらっしゃる!!!」と気が付いたのです。

 

古川様のブログ『淀姫』に平野雅廣氏著書の『倭国史談』が紹介されており、お話の一番下の方に『松野連系図』が転載されています。

(平野先生と古川様は親しい関係にいらっしゃったと伺っています)

http://chimei.sakura.ne.jp/f-32yodohime.htm

 

古川様のブログ『淀姫』より松野連系図を転載させて頂きました(..)

 

玖志加也 『クシカヤ』 もしくは 『クシカ也(なり)』

あった!!ありました!!「クシカ(久鹿)」とは姫姓「呉王夫差」後裔の方の名前だっ

たのか!?

凄い!と驚きながら「地名」と「名前」・・と考えながらさらに気が付きました!

 

布怒之 『フドノ』 ・・ふどの・・あっ!「不土野(ふどの)」 

「不土野(ふどの)」 は球磨郡水上村のお隣の椎葉村の地名です!

みやざき文化財情報様ブログより『不土野神楽』

http://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/mch/kagura/fudono-movie.html

 

【不土野神楽】
  不土野地区は、椎葉村の西端、不土野川流域の山間地に位置している。

球磨人吉地方との交易の歴史は古く、旧庄屋那須源藏邸には約50点の近世文書があり、明治41年に柳田国男が宿泊したことでも知られている。

 

 

椎葉村不土野は球磨郡水上村のすぐお隣で、車で向かう場合、私の先祖の縁故の地

椎葉村矢立を過ぎて、すぐの地でもあります。

上記の地図上に2か所も・・

あさぎり町免田(面田)の久鹿(クシカ)・・・

玖志加也 『クシカヤ』 もしくは 『クシカ也(なり)』

椎葉村不土野(フドノ)・・・

布怒之 『フドノ』

こんな偶然って本当にあるのでしょうか!? いえ・・偶然なのでしょうか!?

★不土野地区・・・球磨人吉地方との交易の歴史は古く

 

あさぎり町免田(面田)の久鹿(クシカ)・・・

玖志加也 『クシカヤ』 もしくは 『クシカ也(なり)』

あさぎり町免田(面田)の久鹿(クシカ)には、先にも書いたように天子神社様が御鎮座です。さらにあさぎり町深田(旧深田村)にも天子神社様が御鎮座。

免田(面田)も深田も、古くは『平河氏』の所領地でした。

あさぎり町深田(旧深田村)にも天子神社様

一年半程前に書いたブログ『天子神社の御神紋について』 より

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12323615604.html

 

天子神社様の御神紋

 

『六芒星』の中心部のみが何故『天子神社の御神紋』なのか?

『元伊勢籠神社の絵馬には籠目の中、中央に「太陽」と「月」が描かれている』と言う記述を多数目にしました。
天子神社の御神紋は、太陽と月の部分を表している・・・と言う事になります。

『太陽と月』が天子神社様の御神紋である・・・

 

日本の家紋データベース様より 日月紋

http://kakeizudo.com/japanese_crests/nature-crests/jitsugetsu-mon.html

日月紋(じつげつもん)は、太陽と月を対にして組み合わせた紋で、まさしく万物の象徴といえる象形をなしている。
皇室の御紋といえば、十六菊紋(十六弁八重表菊紋)を真っ先に思い浮かべると思うが、

実は元々はこの日月紋が皇室の家紋であった。日は天照大御神(あまてらすおおみかみ)、月は月読尊(つきよみのみこと)を表し、古来の日本の自然崇拝の象徴ともいえる紋章である。

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天子神社様の御神紋は、やはり本来『太陽と月』を表す紋ではなかったのでしょうか・・!?

 

松野連系図に記された『脚注』について

○備考 名前、住居など以外、左側の( )内は、鈴木真年氏による注記と思われる。

本系図については、尾池誠氏著『埋もれた古代氏族系図』参照

と記されていました。

 

つまり、多くは『鈴木真年』氏による注記である・・・

『鈴木真年』氏は「後漢書」および「魏略」等の記述と「古事記」・「日本書紀」の記述を参照されながら注記を書かれたのだと推測致します。

その為、注記には重複する内容が数か所に見られ、混乱された事が想像出来ます。さらに

おそらく、『鈴木真年』氏は松野連系図の中に、記紀に記された熊縣(現在の球磨・人吉地方)の『熊津彦』と言う方の名が記されていた事、さらに中国の古代史に記された

『難升米』『掖邪狗』と言う方が『熊津彦』の御子息として記されていた事に驚きを隠せなかった!と私は思います。

多くは『鈴木真年』氏による注記である・・・

 

私は記紀を編纂した方々は、古代の中国史、朝鮮半島史を参照された事は明らかだと思います。

記紀は『上記の古代中国史・朝鮮半島史』に、記述を合わせる必要も当然あったはず

です。

実は、松野連系図とウィキペディアの『上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧』を合わせて見ていた所、大変興味深い事に気が付きました!

 

2.西暦との検証

『上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%8F%A4%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E5%9C%A8%E4%BD%8D%E5%B9%B4%E3%81%A8%E8%A5%BF%E6%9A%A6%E5%AF%BE%E7%85%A7%E8%A1%A8%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7

上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧では、初代神武天皇から第25代武烈天皇までの天皇在位年と西暦との対照表を一覧する。
全て、『古事記』『日本書紀』の(神話的)記述を源に暦を「復元」した日本長暦にもとづくものであり、考古学的なものではない。

 

私は、調べている事の西暦での時代推定が目的で、『上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧』を拝見しているのですが・・・

 

建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。
倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。

 

『上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧』を参照すると

西暦57年とは垂仁天皇86年となります。

 

ウィキペディアより 垂仁天皇様

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9E%82%E4%BB%81%E5%A4%A9%E7%9A%87

※歴史的事実と認められる記紀伝承は少ないが、実在したとすれば3世紀後半から4世紀前半ごろと推定される。

活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと) - 『日本書紀』

伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと) - 『古事記』

ずっと気になっていました。

伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)

『伊』・『久米』

『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様の御言葉

※倭の国王・帥升(師升)は球磨郡あさぎり町免田を中心とする九州王朝(姫氏きし)の太祖であった。倭国(伊国)の原点は球磨の免田にあった。

 

私の推測を不敬だと言われる方もいらっしゃると思いますが、ご了承下さい。

古事記編纂をした方々は、

建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。
倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。

の記述より 垂仁天皇様を伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)

つまり球磨郡久米郷に関わりのある「御方」として、記す必要があったのではないのでしょうか!?

西暦57年に倭奴国が朝貢した事に対して中国側からの指摘があった場合に必要な「答え」の為ではなかったのでしょうか!?

『伊』・『久米』

 

さらに

安帝の永初元年(107年)に倭面土国王帥升らが生口百六十人を献上し、朝見を請い願った。

 

『上古天皇の在位年と西暦対照表の一覧』を参照すると

西暦107年とは景行天皇 35年となります。

景行天皇 様と言えば、皆様ご存知のように記紀により「クマソ」を討伐した方として記された御方です。

後漢書の記述で解るように、もちろん西暦107年当時、「クマソ」などと呼ばれる方々など存在していないはずです。

そこに記されているのは『倭面土国王帥升』

景行天皇紀に記された熊縣主の名前は『熊津彦』

『難升米』・『掖邪狗』の父『熊津彦』この方です!

 

私には『熊津彦』と言う方が、実はとてつもなく『重要な人物』に思えてまいりました・・

 

記紀は何故?『球磨・人吉』を隠蔽する必要があったのか・・・?

「熊襲(クマソ)」と言う名称を使用して、後世の方々の視点を完全に『球磨・人吉』から外す事に成功した・・記紀の編纂者の方々・・

それにより、歴史は完全に塗り替わったのではないでしょうか!?

 

「球磨」と「姫(き)姓」とシュメールの最高権力者であり最高神 風神「エンリル」

「天子神社」の御神紋・・「太陽と月」

「球磨」と「熊津彦」・「天津久米命」・「大久米命」・「師升」と言った方々・・・

やはり、見えてきたようです。

 

2019年3月9日 追記

今回の『面田(免田)の「クシカ」と松野連系図 西暦と対照』で書かせて頂いた事は

2017年12月に書いた過去ブログ『球磨の入り口「八代」について』と連動しているように、

私自身が感じました。

皆様、よろしければ、過去ブログ『球磨の入り口「八代」について』も今回の内容と照らし合わせてご覧頂ければと願います。

『球磨の入り口「八代」について』

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12336355091.html

 

旧久米郷である私の集落から見た「白髪岳」(しらがたけ)

 

不敬にあたる事だとは思いますが、しかし・・

「垂仁天皇」様 ・・・「伊久米伊理毘古伊佐知命(いくめいりびこいさちのみこと)」

「清寧天皇」様 ・・・白髪武広国押稚日本根子天皇(仁徳天皇の曾孫様となられる清寧天皇)

          (しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)

やはり、御名がとても気になります。

 

次回 『続 ”古代と記紀と『遺伝性の筋肉の病』”』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12445968075.html