前回のブログ 『球磨と「アモリ」と「呉人」と「風神族」』 より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12442157354.html

今回は 速報 大発見『免田村』は慶長年間まで『面田村』だった!!”平安時代までの球磨と面土國”  のリブログとさせて頂きます。

未だ、ご覧頂けていない御方はぜひ、ご覧頂く事を願います<m(__)m>

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12432667068.html

 

前回のブログの最後に、私は

「球磨」と「姫(き)姓」と風神「エンリル」・・・見えて参りました(p_-)

と書かせて頂きました。

ここまで至る事が出来たきっかけは、私の地元に残る、神社での儀式からの調査でした。

ブログ『シュメール起源 いて座のアルナスルと古代の麻可胡矢と岡原村』

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12438649379.html

 

子供名付けの儀式 『手箕(てみ)』と『弓』と『麻殻の矢』

嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た。

 

ブログ『夫差王を斎祀る山。虎岡名の地名さらに黒原山麓の鳥居から・・』では

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12436713225.html

※「市房山」は、呉王『夫差王』を斎祀る山(姫姓の国王国家 呉国)

※呉王闔閭(こうりょ)のお墓『虎丘』と鎌倉時代初頭まであった地名

『人吉南方刁岡(とらおか・虎丘・虎岡・寅岡等の表記あり)』について

※『人吉南方刁岡(とらおか)名』の地頭職を譲られた方は平河氏に嫁がれていた相良長頼の娘「尼妙阿」

と言う事を書かせて頂きました。

さらに、今回リブログした

大発見『免田村』は慶長年間まで『面田村』だった!!”平安時代までの球磨と面土國” 

では

※肥後慶長国絵図※慶長年間(1596年から1615年)では球磨郡免田村は「面田村」であり、後に「文字が変わった」と言う事。

※東漢書に言われていることには、…師升の倭面土國は、その国の男女は皆、面(顔)と身体に入れ墨をしている。よって面の字を加えてこれ(国の名?)を呼ぶと記されている事。

※球磨郡面田(免田)の各遺跡が残る地を平安時代に所領していた「平河氏」の鎌倉時代初頭における通字は「師」である事

「師升」と「師高・師貞・師忠・師里・師種・師頼 他、多数の「師」の文字が名前に付く

平河氏」

等を書かせて頂きました。

 

★「球磨」と「姫(き)姓」と風神「エンリル」・・・見えて参りました(p_-)

と書いた上に、上記の事がすでに解って来たにも関わらず、未だ何か「大きな壁」があるようで、その「壁」をバ~ンと打ち破る事が必要になっている・・そんな気持ちになっていました。

ネットに展開する「師升」と言う方についての推論も様々で、「推論」に迷わされてしまいそうでした。

でも・・ついに私に「物凄い衝撃」を与えてくれる文書を見る事が出来たのです!

それは・・・

「後漢書」そのものだったのです!!

(今更・・?? と言う声が聞こえて来るようですが、お恥ずかしい限りです(..) )

 

1.後漢書を読んで

今まで、『後漢書』に記された内容を研究した方々の「独自の解釈」を書籍やネットで目にする事はあったのですが、私自身は不勉強で、『後漢書』そのものを、自らの目で読む事はしていませんでした。

ウィキペディアの『師升』の記述をあらためて読んでいて、『後漢書』が国立国会図書館のデジタルコレクションで公開されている事に初めて気が付きました。

師升 ウィキペディアの脚注部分にネット公開されている『書籍』が一覧で記されています!

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%A5%E5%8D%87

 

ここで、私が衝撃を受けた『後漢書』の記述を皆様方にもぜひ、ご自分の、そう自らの目で御読み頂きたい!と思いご紹介させて頂きます。

(もちろんすでに、御読みになられていらっしゃる方もお付き合い下さい)

 

国立国会図書館デジタルコレクションより 『後漢書120巻.32』コマ番号18

※注 こちらは寛永前期頃に作成された『後漢書』の写本となります。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544816/18

 

画像 赤いラインを引いた所から御読み下さい

 

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫倭国之極南界也 光武賜以印綬

 

建武中元二年(57年)、倭奴国は貢物を奉じて朝賀した。使人は自ら大夫と称した。

倭国の極南界なり。光武は印綬を賜った。

 

つまり・・

倭奴國は倭国の極南界也 と記されている訳です・・・!!?

 

この事を、様々な推論にて、「倭国」は朝鮮半島南部を含めるので、福岡県がその南端であった等の記述を多数目にしたのですが、もちろん、そう言った考えもあると言う事を理解した上で・・・

しかし、先入観を抜きにして『素直に読む』と、どうしても、建武中元二年(西暦57年)当時

倭奴國の位置は倭国(九州)の南部であった・・と記されているように私には見えるのです。

もしかしたら・・やはり・・建武中元二年(57年)時点の倭奴国は九州南部の何れかの地にあり、その後「女王卑弥呼」の時代までの約200年間の何れかの時期までに、九州北部に移動したのではないのか・・!??

そこが、「奴国」、福岡県の那珂川市を源流とし博多湾にそそぐ那珂川周辺域では

ないのか?

私はこのように考えてしまいました・・・

 

続けて

安帝永初元年 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升らが奴隷百六十人を献上し、朝見を請い願った。

 

※先にも書いたように、こちらは寛永前期頃に作成された『後漢書』の写本となります。

「師升」の記述について、ウィキペディアでは

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%A5%E5%8D%87

『後漢書』の原本は残っていない。

現存する『後漢書』の写本には、「帥升等」と書かれている。『翰苑』の、『後漢書』を引用した箇所には「帥升」とある。また、北宋版『通典』には、「師升等」とあり、『唐類函』「百十六巻」「変塞部一」「倭」の条の、『通典』を引用した箇所には「師升等」とある。 中略・・・

『翰苑』の、『後漢書』を引用した箇所には「倭面上國王帥升…」とある。また、北宋版『通典』には「倭面土國王師升等…」とある。また、『唐類函』「百十六巻」「邉塞部一」「倭」の条には、『通典』からの引用として、「倭國土地王師升等…」と書かれている。また、『日本書紀纂疏』の、後漢書を引用した箇所には、「倭面上國王師升等…」とあり、『釈日本紀』「解題」の、後漢書を引用した箇所には「倭面國」とある。『異称日本伝』の、『通典』からの引用には、「倭面土地王師升等…」とある。

内藤湖南博士はこれらの記事に注目し、『後漢書』の原本には「倭面土國王師升」とあったのではないか、しかし難解な表現なのでそれが転写されていき、諸書に引用されていく中で、いろいろと書きかえられ、書き誤られ、「倭國」になったり、「倭面國」になったりしたのではなかろうか、という結論に達した。

と記されていました。

 

「倭面土國王師升」 面土 「めんど」・・「ど」は漢字で「奴」でもある・・

つまり「倭面奴國王師升」 とも考えられます・・・

肥後慶長国絵図※慶長年間(1596年から1615年)では球磨郡免田村は「面田村」であり、後に「文字が変わった」・・・

師升 

安帝の永初元年(107年)に倭国王帥升らが奴隷百六十人を献上し、朝見を請い願った。

西暦107年「倭面奴國(倭面土國)」

倭国の王都は九州南部から九州北部に移動したのでは・・?

 

「後漢書」では続いて

倭国大乱について記された後、女王卑弥呼について、そしてさらに「狗奴国」(後漢書では拘奴国とあり)について『皆倭種』と記されています。

『倭種』・・・

文身點(黥)面、猶稱太伯之苗。 魏略より
【魏略曰:「女王之南、又有狗奴國、女(以)男子爲王、其官曰拘右(古)智卑狗、不屬女王也。自帯方至女〔闕「王」〕國萬二千餘里。其俗男子皆點(黥面)而文〔闕「身」〕、聞其舊語、

自謂太伯之後、昔夏后少康之子、封於會稽、斷髮文身以避蛟龍之吾(害)。

今[イ妾](倭)人亦文身、以厭水害也。」】

 

※文身點(黥)面、猶稱太伯之苗。

大久米命様は「黥(さ)ける利目(とめ)」とあり、目のまわりに入れ墨をしていた・・・

 

一つ不思議な事は

「後漢書」では『狗奴国(後漢書では拘奴国とあり)』の記述を女王国のと記されており

しかし、魏略では女王之、又有狗奴國と記されている事です。

 

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。

本紀10巻、列伝80巻、志30巻の全120巻からなる紀伝体。

成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で、編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。

魏略』(ぎりゃく)とは中国三国時代の魏を中心に書かれた歴史書。

著者は魚豢(ぎょかん)。『三国志』の裴松之注に引用され残る文により、劉表と面識があったこと、その後魏に仕えたことが記述されている。

劉 表(りゅう ひょう、漢安元年(142年) - 建安13年8月(208年10月)の方。

つまり・・

『後漢書』編者 『范曄』 398年 - 445年

『魏略』編者 劉 表と面識があった『魚豢』 (劉 表142年-208年

『魏略』の方がより古い事が解りました。

 

おそらく・・『後漢書』編纂の時期(398年 - 445年の間)には、女王卑弥呼の時代の

『狗奴國』を形成した主力勢力はすでに東に移動していた・・と言う事ではないでしょうか・・ あくまでも、私が感じた率直な自論ですが・・

 

さらに「朱儒国」についての記載が続きます。

前回のブログでコメントを頂いた方は朱儒国民様・・・こう言う事ですね!

 

朱儒国 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%8F%E5%84%92%E5%9B%BD

後漢書や、『三国志』のいわゆる魏志倭人伝に倭国の女王国を去ること四千里、南方にあるとされている。

種子島が侏儒国であると比定される動きが、一部に出ている。これは、種子島から発掘された弥生期から古墳時代にかけての人骨の調査結果で、「極端な」短頭、低頭、低身長特徴を持ち、魏志倭人伝に記述されている侏儒國の人類学的特徴と一致しているとの見解による。 この特徴は同時期の人骨が発見されている沖縄や九州、本州などには見られない特徴で

「小人並」の成人の人骨は種子島だけにしか見られないとのことである。 邪馬台国九州説を唱える者の中には、種子島は九州北部から短里という概念で約四千里、南方に位置することにもなるので、比定する者がいる。

 

魏略に従い女王卑弥呼の時代には九州南部にあったと私が考えた「狗奴国」

九州北部の「奴国」と「狗奴国」(後漢書では拘奴国とあり)の関係・・・

「なこく」と「くなこく」・・と言葉に出して考えていたら・・・気が付きました!!

ブログ『ひぼろぎ逍遥』の古川様より以前頂いたご教示を思い出したのです。

 

2.「く」の文字が表す「奴国」と「狗奴国」

 

芦北の久多良木と球磨の多良木の関係について、ブログ『ひぼろぎ逍遥』の古川様より

『久多良木』(くたらぎ)と『多良木』(たらぎ)の違いは「く」が付く事によって『久多良木』の方が『多良木』より古い(元祖多良木)、つまり『多良木』とは『新多良木』と言う意味ではないのか?

と言ったお話をお伺いした事がありました。

久多良木(くたらぎ) = 元祖的 多良木

多良木 (たらぎ) = 新多良木

 

「く」が付く地名と付かない地名

確かに、呉国を見ても

ウィキペディアより 

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)

呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。

君主の姓は姫。元の国号は句呉(こうご、くご)。 勾呉の表記もなされる。

虞仲の子孫である寿夢が国名を「句呉」から「呉」に改めた。 

元祖「呉」は句呉(こうご、くご)。その後「呉」に改めた・・・ 

くご → ご

「奴国」(なこく)と「狗奴国」(くなこく)・・・「奴国」と「元祖的奴国 くなこく」・・・?

くなこく → なこく ・・・? 

 

確かに、ブログ『消えた縄文晩期の大都市「球磨」と大国主命様』で書いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12423455121.html

「球磨・人吉」地方は、縄文時代において、熊本県内では最多の遺跡数(合計302か所)を誇る「大都市」でありました。
九州全体を見ても、『佐賀県の伊万里市・唐津市・武雄市地域』(海側の大都市)に次ぐ遺跡数であり
縄文時代の九州第2位の大都市「球磨・人吉」は言うなれば『山側の大都市』であったと言う事になります。

 

さらに、ブログ『縄文時代晩期『人吉の中堂遺跡』は凄い!遺跡だった』で書いたように

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12427746204.html

西日本(近畿地方を含む)で唯一の落内群構造の認められる例『住居跡63棟』
石器製場所や土器捨場があって、他地域との交流を示す天城式土器、古閑式土器、
黒川式土器等を使用して、装飾品としてヒスイの勾玉、管玉を使用する

「縄文晩期の最先端を走る」人達。

球磨・人吉は縄文晩期終末期には九州第2位の大都市圏であり、西洋風のワンちゃんの土偶を造り、石器製場所まで在り、西日本(近畿地方を含む)で唯一の集落内群構造の認められる例『住居跡63棟』が発見される遺跡等を造った方々が住んでいた

土地・・・

『人吉市の中堂遺跡』とは
『BC400年(縄文時代晩期終末期)』 つまり今から2400年前。 

呉国が滅んだ紀元前473年と・・

一致します!

 

「奴国」(なこく)と「狗奴国」(くなこく)・・・「奴国」と「元祖的奴国 くなこく」・・・?

くなこく → なこく ・・・・・・? 

しかし・・今回解った事は、

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫倭国之極南界也 光武賜以印綬

西暦57年当時の倭奴国『倭国の極南界』にあり、生年西暦142年-208年の『劉 表』と面識があった『魚豢』編者の「魏略」では”その地”(倭国の南部)「狗奴国」となり、

さらに『後漢書』編者 范曄 398年 - 445年の時代には「狗奴国」のおそらく中心勢力が九州南部どころか・・九州より東の地に動いていた事だけは私なりに良~く理解出来ました。

さらに「狗奴国」は「邪馬台国」と同じ「倭人(倭種)」の国であり

倭人・・文身點(黥)面、猶稱太伯之苗。

大久米命様は「黥(さ)ける利目(とめ)」とあり、目のまわりに入れ墨をしていた・・・

點(黥)面・・・面田(めんだ)

と言う事もしっかりと理解出来ました。

 

金印については・・・どう考えれば良いのか・・?

王都が移動する事は、古代の中国・朝鮮半島、いえ、もっと遡ってメソポタミアでも珍しい事ではありません。

王都の移動と共に「国宝(王の宝)」も一緒に移動する事は当たり前ではないのでしょうか・・

ど素人の私の推測に激怒なさった方々がいらっしゃったら申し訳ありません<m(__)m>

御許し下さい<m(__)m>

 

次回 『面田(免田)の「クシカ」と松野連系図 西暦と対照』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12444947549.html