前回のブログ『孝霊天皇様後裔の方と白髪岳 と パイプ状ベンガラのプレゼント

より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12485134756.html

 

皆様に、御報告があります。

ついに、孝霊天皇様と球磨の確かなる「繋がり」を見つける事が出来ました。

今回の内容も、おそらく永久保存版になると思います。

長い文章ではありますが、お付き合い下さい<m(__)m>

 

前回のブログでは『球磨産のベンガラと鉄鉱石』さらに、

霧島・球磨・葦北には孝霊天皇様の後裔がとても深く関わっている!
と言う事が私にはようやく理解出来た!事を書かせて頂きました。

前回、書かせて頂いたように、わたくし共、宮原の一族を含む、伊予橘氏。

伊予橘氏とは、皇統の「橘氏」と孝霊天皇様の後裔「越智氏」との姻戚関係により派生。

孝霊天皇様の後裔「越智氏」は、孝霊天皇様の皇子『彦狭島命(伊予皇子)』様の系であり、物部大新河から進む「小市国造」の系さらには、『紀大人』から進む「紀氏」の系とも姻戚関係にありました。

彦狭島命 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A6%E7%8B%AD%E5%B3%B6%E5%91%BD

彦狭島命(ひこさしま(古事記ではひこさめま)のみこと)は、古墳時代の皇族。孝霊天皇の皇子で、母は、絙某弟。氏鹿氏、越智氏の祖とされる。子に小千王子(三男)。父の命で、伊予を統治し、伊予皇子という別名をもつ。また、愛媛県伊予郡松前町にある伊予神社の主祭神でもある。

物部大新河命とは コトバンク様より

https://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E6%96%B0%E6%B2%B3%E5%91%BD-1061041


古代伝承上の豪族。
「先代旧事本紀」にみえる伊香色雄(いかがしこお)の子。物部武諸隅(もののべの-たけもろすみ)の父。垂仁朝の大臣で,物部連公の氏姓をさずかり大連となる。

とあります。

 

さらに 紀大人とは ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%80%E5%A4%A7%E4%BA%BA

紀 大人(き の うし)は、飛鳥時代の人物。姓は臣のち朝臣。紀大口の子。官位は大錦下・御史大夫、贈正三位。
672年の壬申の乱の際、大友皇子(弘文天皇)側の重臣だったが、乱後罰されなかった。

 

私はブログのメインタイトルにもありますように、 『古代→中世→近世の先祖の繋がり』の

調査を続けて参りました。 このように、一族の系図から『人物』を調べて書き出してみると、『垂仁朝の大臣』の言葉が見えて、あらためて、自分の考え『古代→中世→近世の歴史は全て繋がっている』は間違っていなかった・・と思いました。

しかし・・私が、最も知りたいのは、

何故?伊予橘氏である一族が球磨の久米郷を領したのか?(古代の球磨との縁は?)

何故?私は旧球磨郡久米郷宮原に住んでいるのか!?

記紀に『まつろわぬ人々』が住んでいたかのように書かれてしまった、この地に

何故? 一族が代々系を繋げて来たのか!?

以前から書いていたように

何故?旧宮原村の字は天皇様の御縁の地に付く『字 宮野』なのか?

等であります。しかし、遂に『この答え』がようやく『見えて』参りました。

ご説明させて頂きます。

 

孝霊天皇様と球磨川のかっぱ様について

①御祭神 孝霊天皇様 の神社様

鳥取県日野郡日南町宮内にご鎮座の樂樂福神社(ささふく神社)様を勉強致しました。

樂樂福神社(ささふく神社)様 公式ページ 由緒略記 より

https://sasafuku.jimdo.com/%E6%A8%82%E6%A8%82%E7%A6%8F%E7%A5%9E%E7%A4%BE-%E7%94%B1%E7%B7%92%E7%95%A5%E8%A8%98/

 

旧縣社・願望成就の福の神 
樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 由緒略記
人皇第七代孝霊天皇を主神とし、皇后をはじめ后妃や皇子など、其の御一族を祀る旧縣社。
創建は千百年以上の昔と伝わる屈指の古社で、古くは鉄生産の守護神として崇敬された日野郡開拓鎮護の総氏神です。孝霊天皇が当地を巡幸された折に鬼林山に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞し召され、御一族を従えて彼の邪鬼を退治された伝説が伝わっています。爾来、開運招福・願望成就の福の神として人々の崇敬を集めています。
かっては日野川を隔てて対岸に(西)樂樂福神社が鎮座され本社と共に二社一対の祭祀が続けられて居りましたが平成16年11月3日に当社に合祀され一社となりました。

ご祭神
大日本根子彦太瓊尊 第七代孝霊天皇
(おおやまとねこひこふとにのみこと だいななだいこうれいてんのう)
天皇が当地を巡幸された折に鬼林山(きりんざん)に蟠踞する邪鬼が里人を悩ます由を聞召され御一族を従えて彼の邪鬼を見事に退治された日野郡開拓鎮護の総氏神。

 

細媛命 皇后(くわしひめのみこと こうごう) 通称 ほそひめ・ほそ媛さん
孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。平安時代末期頃までは「臍」(へそ)のことを「ホソ」と発音した。此即ち細媛命を安産の大神と敬い奉る所以である。
若建吉備津彦命 皇子(わかたけきびつひこのみこと おうじ)
兄皇子の大吉備津彦命(おおきびつひこのみこと)と共に四道将軍として吉備の国を平定された知慮と武勇にすぐれた大神。
福媛命 后妃(ふくひめのみこと きさき)
孝霊天皇の皇女とする説もあり。日南町印賀に鎮座の「樂樂福神社」は主祭神の皇女「媛姫命」(ひめのみこと)を此の福媛と同一のお方として奉斎する。
彦狭嶋命 皇子(ひこさしまのみこと おうじ) 別名 歯黒皇子(はぐろおうじ)
此の皇子はお生まれになった当初から鐡(てつ)の如き黒々とした強い歯がすでに生え揃い、ご性分もすぐれておられたので、天皇巡幸の御時は必ず此の皇子を伴われた。此即ち 彦狭嶋命を歯の大神と敬い奉る所以である。

旧(西)樂樂福神社ご祭神
大日本根子彦太瓊尊 
細媛命 
大吉備津彦命(若建吉備津彦命の兄皇子) 
彦狭嶋命
絙某弟命(はえいどろのみこと) 
大山祇命(おおやまづみのみこと)

合祀神社ご祭神
応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 大山祇命 金山彦命 軻遇槌命 素盞鳴命 大巳貴命 経津主命
武甕槌命 市杵島姫命 猿田彦命 倉稲魂命 彦火々出見命 高淤加美命 蛭子命 大日霊貴命 
大正八年に近隣の川上神社 愛宕神社 内裏原神社 坂根神社 宮谷神社 厳島神社 大森神社 村尾神社を合祀して奉斎する尊き神々。 
摂社 若宮神社ご祭神
磯城縣主大目命(しきあがたぬしおおめのみこと・細媛命の御父神)
欝色雄命(うつしこおのみこと)
大矢口宿禰命(おおやくちすくねのみこと)  
大水口宿禰命(おおみなくちすくねのみこと)

孝霊天皇に随従され当地方の開拓に功績を残された大神達。
末社 木野山神社ご祭神  
大山祇命(おおやまづみのみこと)  
木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)

「たたら製鉄」に必要な大量の木炭の安定供給を図り、孝霊天皇の御聖徳を援け給う大神として天皇御自ら親しく奉斎された大神達。
明治以降は病気平癒や疫病除けの神として人々の信仰を集める。 
神社左側の杉の大木は同社の御神木との伝承のほか、叶う荒神(かのうこうじん)として人々の願いをかなえる願掛けの木とも伝わっています。

以上 樂樂福神社(ささふく神社)様 公式ページ 由緒略記 より

 

拝読させて頂き、孝霊天皇様と鉄の関係、さらには大山祇命様、木花開耶姫命が製鉄に必要な大量の木炭(木)孝霊天皇様の安定供給を図り、御聖徳を援け給う大神として天皇御自ら親しく奉斎された大神達として末社 木野山神社ご祭神となられていらっしゃる事も解りました。

樂樂福神社(ささふく神社)様の御祭神に彦狭嶋命皇子(伊予皇子)様もいらっしゃいます。

彦狭嶋命皇子(伊予皇子)様はわたくし共「宮原の一族」を含む『伊予橘氏』のご先祖様でも

いらっしゃる御方です。

 

孝霊天皇様の皇子様でいらっしゃる『孝元天皇』様

『孝元天皇』様の御後裔の方「那須国造」の系に「那須氏」がいらっしゃいます。

「那須氏」は家のとても身近な方々でいらっしゃいます。

以前より、ブログで何度か書かせて頂いていますが、家は数軒の那須家と親戚関係にあります。

さらに『孝元天皇』様の御後裔の方々に「阿部氏(安部氏)」がいらっしゃいます。

球磨郡あさぎり町皆越は白髪岳を望む高原です。皆越の地頭皆越氏、そして私がいつも見上げる「黒原山」の裏側球磨郡現多良木町「槻木」の地頭「槻木氏」。

皆越氏と槻木氏は本姓阿部氏であり、通字を「貞」とされる方々です。

参考 日本の苗字七千傑様サイト

【安倍氏/那須国造/膳 氏/佐々貴山氏/難波吉士氏】 姓氏類別大観

http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01208.htm#000

 

過去ブログでも数回ご紹介した、うちの宮原家のすぐ近くにご鎮座であった稲積妙見。

中興に携わった方々の中に「橘(宮原)氏」と「阿部氏」が見えます。

麻郡神社私考より 稲積妙見

八代郡白木社妙見同體 (御祭神 天之御中主神
草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ

補足 球磨・人吉地方においての妙見宮勧請の最初となる社です。
明應五年(1496年) 藤原為續公同長輔公 御祈願トソ

補足 藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続)
代官 最取式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久 及
宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興
天文廿一年(1552年) 地頭阿部貞次修造 國郡泰平 藤原晴廣公武運勝利 并富役藤原長陸安全ノ願辞アリ

補足 藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主
補足 藤原長陸・・上村長陸 奥野村地頭(父:上村頼孝)

 

宮原出雲橘續久  阿部貞豊  阿部貞次

つまり、稲積妙見の中興には 孝霊天皇様の後裔である伊予橘氏の「宮原氏」と

孝元天皇様の後裔でいらっしゃる「阿部氏」が関わっている!

と言う事をあらためて理解致しました。

 

球磨盆地内には越智氏族「白石氏」・「別府氏」・「河野氏」・「正岡氏」等の越智氏族が相良藩士として名前を連ねていらっしゃいます。

那須氏は椎葉衆であり、後世は相良藩士として盆地内に降りて来られています。

山間部には孝元天皇様の後裔、盆地部には孝霊天皇様の後裔、孝元天皇様の後裔の方々が名前を連ねている・・

ここが球磨なのです!

こう言う地域が日本国内でどれくらいあるのでしょうか!?

この事は普通の事なのでしょうか!?

皆様、どうお考えになられますか!?

 

実は、樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 様の由緒略記を拝読して、非常に気になる記述がありました。細媛様のお話です・・・曾祖母の実家の御神像が目に浮かびました・・

細媛命 皇后(くわしひめのみこと こうごう) 通称 ほそひめ・ほそ媛さん
孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。平安時代末期頃までは「臍」(へそ)のことを「
ホソ」と発音した。此即ち細媛命を安産の大神と敬い奉る所以である。

曾祖母の実家にお祀りの女神様も『安産の神様』です。

 

②曾祖母の実家にお祀りの男神様女神様

私の曾祖母(宮原家の)の実家は新堀家です。

以前ブログ『遠江国を出自の地とする曾祖母の実家「新堀氏」』でもご紹介致しました。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317128956.html

 

球磨の新堀家のご先祖様は平安末期、『相良頼景』この方と共に球磨に来られた
新堀又四郎頼兼』と言う方です。

新堀又四郎頼兼の妻は『相良頼景』の娘の方でありました。

曾祖母の実家の新堀家は南北朝時代以降、代々宮原村に住しており、江戸時代の初頭には、宮原一族である相良家家老『宮原宇右衛門 公全』の弟(もしくは次男)

長盛(次郎正市丞 剃髪而称一斎房山伏也)の子『宮原金兵衛 公行』と言う方が 曾祖母の実家の新堀家に養子に入り新堀家を継がれています。

※補足 長盛(次郎正市丞 剃髪而称一斎房山伏也)  ★一斎房 ブログを書きながら   気が付きました・・いちきまつるフサ です 

参考 夫差王を斎祀る山。虎岡名の地名さらに黒原山麓の鳥居から・・

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12436713225.html

 (鳥肌が立っていますがこの件は次回に・・)

 

つまり、曾祖母の実家の新堀家は宮原の一族でもあります。

家は、うちの宮原家のすぐ近くで、曾祖母の実家も稲積妙見様にはとても近い場所にありました。

明治以降旧宮原村の「新堀家」の方々は所縁の地『多良木町の黒肥地』や 『免田(面田)の黒田』等に移られました。曾祖母の実家には曾祖母の弟の方が残られ、医師となり新堀病院を経営されていましたが、後に『免田(面田)の黒田』に移られて、実家の家や田畑は別姓に養子に入られた、曾祖母の弟の方が継がれました。

 

以前から書かせて頂いていたように、家の親戚一族は其々の家の敷地内にご先祖様(氏神様)をお祀りのお堂が建てられています。

曾祖母の実家の新堀家にも、もちろんお堂が建立されています。

お堂には、妙見様と何故か真っ黒に施された『神棚?』がお祀りで、真っ黒に施された『神棚?』の中には何故かご神体としてとても古い古い『扇』がお祀りになられています。

さらに、比較的新しい(江戸時代初頭以降建立か?)の男神様と女神様の御神像。

そしてかなり古い時代の男神様と女神様の御神像がお祀りです。

曾祖母の実家のお堂は『安産の神様』がお祀りと、地域の方々や親戚が安産祈願にお参りに来られていたと聞いています。

 

比較的新しい(江戸時代初頭以降建立か?)の男神様と女神様の御神像。

 

細媛命 皇后(くわしひめのみこと こうごう) 通称 ほそひめ・ほそ媛さん
孝霊天皇の皇后にして第八代「孝元天皇」の御母神。平安時代末期頃までは「臍」(へそ)のことを「ホソ」と発音した。此即ち細媛命を安産の大神と敬い奉る所以である。

 

こちらのお話を拝見して私の脳裏をよぎった安産の神様は

曾祖母の実家にお祀りの『かなり古い時代の男神様と女神様の御神像』です。

※平安時代末期頃までは「臍」(へそ)のことを「ホソ」と発音した。此即ち細媛命を安産の大神と敬い奉る所以である。

「ホソ」・「ホゾ」とは臍 つまり「穴」の事ですが、曾祖母の実家の女神様はお顔の下、お腹の辺りに大きな穴が開いています。

 

良く見て頂くと、お顔と長い髪と御着物が解るのですが、あえて、お顔の輪郭と髪の一部に線を描いてみました。

 

 

細媛様

※平安時代末期頃までは「臍」(へそ)のことを「ホソ」と発音した。此即ち細媛命を安産の大神と敬い奉る所以である。
「ホソ」・「ホゾ」とは臍 つまり「穴」の事

 

先にも書いたように、曾祖母のご先祖様は孝霊天皇様の後裔「伊予橘氏」である「宮原の一族」でもありさらに、家の宮原家と曾祖母の実家の新堀家の近くにご鎮座の『稲積妙見』の中興には 孝霊天皇様と細媛様の御子、「孝元天皇」様の後裔『阿部氏』が関わっています。

私は非常に気になり、こちらのお写真を、数々の神社様の御神像をご覧になられていらっしゃるブログ『新ひぼろぎ逍遥』の古川様とブログ『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様にメールにて送りご覧頂きました。

お二人とも、共通に『原初的なお姿ではないのか!?』とおっしゃって頂けました。

さらにブログ『宮原誠一の神社見聞牒』の宮原様からは『より綿密な調査を行うと、必ず何か球磨との繋がりが見つかるはずです』とおっしゃいました。

『より綿密な調査』・・私は『球磨』と樂樂福神社(ささふくじんじゃ) 様とは何らかの繋がりがあるのではないか!?と考えました。

そこで、頭に浮かんだのが樂樂福神社様の近くを流れる『日野川』の言葉でした!

 

③孝霊天皇様と球磨川のかっぱ様

『日野川』については、ブログ『球磨と古代の製鉄①』で触れたはずだ!とすぐに思い出しましhttps://ameblo.jp/hirom0211/entry-12335294512.html

かっぱ共和国様 サイトに記されていた

ここ米子を河口とする山陰地方の大河、日野川流域には河童の息づかいが確かに聞こえます。中略・・・日野川カワコ(河童)の大親分が球磨川渡来の九千坊(の子孫)という話しが米子の出版社・立花書院発行の『日野川の伝説』には一番目に載っております。

こちらのお話でした。

かっぱ共和国様 サイトは現在リニューアルされていらっしゃり、より詳しく記されたページを

私は遂に目にする事が出来ました!

 

カッパ共和国様サイト 内

日野川紀行 河童九千坊と砂鉄(タタラ)文化  田辺達也氏 より

http://tycoon-com.com/kappa/archives/396

隠岐ノ島で河童の講演をしたあと帰りを一日延ばし、境港から米子へ出て鳥取県西部を流れる日野川を散策した。日野川の河童代表が球磨川から移り住んだ九千坊という、楽々福(ささふく)神社(鳥取県日野郡)の伝説が気になって惹かれていたからだ。

日野川の九千坊は、米子市の出版社(立花書院)発行の『日野川の伝説』(1996)と『漫画・日野川の河童』(98)に収録されている。前書は第一話に《河童の親分九千坊のこと》後書は付録《日野川の河童伝説・日南町の楽々福神社の河童》に載っている。 

 

★日野川の河童代表が球磨川から移り住んだ九千坊という、楽々福(ささふく)神社(鳥取県日野郡)の伝説

 

私はこの記述を読んだ瞬間に『ついに!球磨と孝霊天皇様、楽々福(ささふく)神社様と球磨川のかっぱさんが繋がった!!』

と大声で叫んでしまいました。そして、嬉しさのあまり、涙が止めどなく溢れて参りました・・

 

日野川紀行 河童九千坊と砂鉄(タタラ)文化の中で田辺様は

蘆立さん(蘆立宮司様)は、日野川の砂鉄産出と山陰製鉄史の視点から、楽々福の神々とは、実は、稲作農業と砂鉄文化をもった大陸渡来のカッパ族と考察されており、後日、そのことで自説の論稿をおくっていただいた。

中略・・・

八代の「オレオレデライタ」伝説によると河童九千坊の一統が古代中国(呉の国)から新しい文物を携え渡来した。九千坊は新しい農業(稲作技術)と新しい金属(製鉄技術)を日本に伝えたのだった。

と記されていらっしゃいます。

 

蘆立さん(蘆立宮司様)も、田辺様も、その「球磨川」の上流球磨郡内に多くの孝霊天皇様の後裔、そして孝霊天皇様の御子「孝元天皇」様の多くの後裔の方々が住している事をお知りになられたら、さぞかし驚き、お喜びになられるだろう・・そう考えたら、あらためて涙が溢れて参りました。

 

孝霊天皇様は球磨川のかっぱさん方とご一緒に日野川周囲に御巡幸なさったのでしょう・・

球磨川のかっぱさんとは新しい農業(稲作技術)と新しい金属(製鉄技術)を日本に伝えた呉の方々・・

 

私は今まで自分が調べてきたこと、考えて来た事は間違いなく『大きな御力によるお導きである』そう確信致しました。

記憶のDNAと呼ぶ方が正しいのかもしれません・・

私は考えます。

孝霊天皇様は球磨にいらっしゃったのではないのか!? と。

父帝が崩御した年の12月、黒田廬戸宮(くろだのいおどのみや)に都を移す。それまでの山裾にあった宮と異なり・・

黒田の地名は球磨にもあります!

日本でわずが3枚しか出土していない黄金の鏡と日本最多の黄金の馬具が出土した

才園遺跡のすぐ近く、岡留熊野座神社様ご鎮座地

球磨郡面田(免田)黒田 です!

山裾にあった宮とは・・・天皇様に所縁の地と言われる 字宮野 周辺ではないのか!?と

人吉・球磨郡は平安時代末期まで『球磨御領』と呼ばれる王家領であり荘園領主

治天の君、天皇様でした。

 

私は考えます。

記紀は、古代の球磨の歴史を完全に抹消してしまわれたと・・

クマソの話を盛り込む事によって、古代の貴重な球磨の歴史に対して、後世の方々の意識が完全に目を背けるようにと・・

その理由は一体・・

 

今回の調査はあくまでも新たな『始まり』だと思います。

まだまだ、沢山の記憶のDNAが私を導いて下さるような予感がします。

最後に

故百嶋由一郎先生が御残しになられた神代極秘系図には

細媛様は卑弥呼宗女 イヨ と記されていました。

卑弥呼宗女 台与(イヨ)様です・・

 

次回 『孝霊天皇様の妹君「雨宮媛」と雨宮神社様』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12489690058.html