前回のブログ『球磨郡球磨村神瀬(旧神瀬村)の地名』 より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12314802139.html

 

 

 

以前

ブログ『五木村の縁戚の方々と私の先祖が繋がる椎葉村』で

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12307536148.html

 

私の住む集落「宮麓」内の家々で遠縁も含め数軒が使用されていた家紋であり

知識不足で「何と言う家紋」なのか?解らなかった家紋がありました。

 

こちらです

 

調べたのですが、こちらは「楓紋」でした。

楓紋に剣がありますが、正式な名称は残念ながら解りませんでした。

 

しかし、この「楓に剣」?の家紋を使用している家々の中の1軒は

家の宮原家の曾祖母の弟が養子(婿養子ではありません)に入って「名」を継いだ家でもあり

とても興味があります。

 

家の宮原家の曾祖母の実家は「新堀家」です。

球磨の新堀氏の祖は、平安末期、『相良頼景』この方と共に球磨に来られた

『新堀又四郎頼兼』と言う方です。

相良頼景。この方については相良藩史「求麻外史」「南藤蔓綿録」「歴代嗣誠濁集覧」等に

詳しくきされているのですが、今回は、ネット公開の記述を使って御説明いたします。

 

『相良頼景』 ウィキペディア 相良長頼より

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E8%89%AF%E9%95%B7%E9%A0%BC

相良頼景は、源頼朝より遠江守に任じられていた安田義定に逆らって相良荘の大半を失い、建久4年(1193年)に肥後国球磨郡の多良木荘を与えられ、追放同然で下向した。この時、長頼は相良荘の一部を相続して遠江に留まった。

 

武家家伝様 サイト 相良氏より

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/sagara_k.html

 

治承四年(1180)、源頼朝が平氏追討の兵を挙げたが、ときの相良荘司頼景は文治元年(1185)に平氏が滅亡するまで、平氏方の武士として行動していた。その結果、領地没収の憂き目となるが、謝罪につとめて許され、鎌倉幕府に仕えるようになった。そして、建久四年(1193)、肥後国球磨郡多良木荘を賜り、相良氏は肥後国と関係をもつようになったという。しかし、一説には相良頼景は建久四年、領地没収のうえ九州肥後国球磨郡多良木荘に追放されたとするものもある。
 頼景の多良木荘下向に関しては、領地を賜ったとするもの、罪をえて追放されたとするものがあるわけだが、いずれも建久四年であったことは一致している。当時の御家人は鎌倉にあって、遠隔地にある所領の支配は代官に委ねることが多かった。ところが、頼景はみずから多良木荘に下向していることから、おそらく罪をえて追放されたものと推測される。

頼景は弟の頼兼、一族の平原頼範らを従えて多良木荘に下向したが、多良木は平家没官領であり、そこには伊勢氏が入部していた。頼景はこの伊勢氏にあずけられたか、頼っていったかしたものであろう。それから四年後の建久八年、頼景は鎌倉に行き将軍頼朝に謁見、ついで頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、御家人の列に加えられたのである。そして、所領として多良木荘を授けられたのであった

 

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上記にあった

※頼景は弟の頼兼、一族の平原頼範らを従えて多良木荘に下向したが・・・

頼兼・・この方が私の曾祖母の先祖である「新堀又四郎頼兼」と言う方です。

 

人吉市史より
 上相良氏系図・・平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の出自について

人吉市史第一巻 の巻末附録記載の上相良氏系図に平原次郎頼範と新堀又次郎(四郎)頼兼(頼金)の項がありました。
平原次郎頼範・・一説藤太頼寛ノ甥 又工藤太夫光頼ノ弟ノ子
新堀又次郎頼金・・一説頼範ノ弟
右二人ハ頼景下向ノ折随身猶子トナリ、弟分トナル、頼金(頼兼)ハ頼景ノ女ト合縁

とあります。

※一説・・工藤太夫光頼ノ弟ノ子・・・と言う事は

工藤太夫光頼は伊東祐時の“二男もしくは孫”であり
すなわち、一説によると

平原次郎頼範と新堀又四郎頼兼の兄弟?は父もしくは祖父が「伊東祐時」と云う事になります。

系図の内容は未だ深くは調べてはいないのですが、いずれにしても、私の曾祖母(宮原家)の御先祖様は、「遠江国」から球磨に来られた・・・と言う事は解っています。

 

新堀又四郎頼兼の妻は『相良頼景』の娘の方でありました。

相良頼景、この方は須恵小太郎家基こと「藤原家基」の娘を後妻とし、二人の間に生まれた娘さんが新堀又四郎頼兼の妻となりました。

(須恵小太郎家基こと「藤原家基」の娘であったとの記述は須恵村誌に記載されていました)

 

相良頼景と妻の方(須恵氏の娘)の菩提を弔うために鎌倉時代の永仁3年(1295)、上相良三代頼宗(よりむね)が創建したお寺が

熊本県球磨郡多良木町黒肥地 にある『青蓮寺』で上相良家菩提寺となります。

 

※相良頼宗が鎌倉時代・1295年(永仁3年)に、初代・相良頼景の菩提供養のため

黒肥地・亀田山に阿弥陀堂を創建
※永仁6年には、頼影婦人青蓮尼の位牌所として青蓮寺を建立しました。寺名は頼景後室・青蓮尼に由来

 

以前、ブログに写真をアップしていましたが、あらためて御紹介いたします。

 

 

 

青蓮寺阿弥陀堂 3尊は法印院玄の作で「相良氏と京都とのつながりがあり彫られたものではないか?」とされています。

美しいお姿は「日本遺産 人吉球磨」様のサイトでご覧いただけます。

http://hitoyoshi-kuma-heritage.jp/heritage/heritage23.html

 

他、多良木町公式ページ より
http://www.town.taragi.lg.jp/gyousei/soshiki/kyouiku_shinkou/kunishitei/135.html 

※この三尊は、青蓮寺阿弥陀堂の内陣に安置され、鎌倉時代院派の仏師法印院玄の作である。円満にして柔和、慈悲深い眼、親しみを感ずる面貌で、鎌倉時代を代表する気品高い彫作である。

 

『仏師法印院玄』 とは

蓮華王院(三十三間堂)本堂千躰千手観音 の 仏師の方々のお一人でした。

 

新堀又四郎頼兼の妻の両親である「相良頼兼」と「青蓮尼」(須恵氏の娘)。

このお二人から生まれた方々が球磨の新堀氏として代々続いています。

 

新堀氏は当初、黒肥地村(現多良木町黒肥地)に新堀城を築城して、居城していました。

相良藩史である「求麻外史」「南藤蔓綿録」「歴代嗣誠濁集覧」等に度々登場しています。

しかし、1400年代に上相良氏が「永留長続」によって滅ぼされ、下相良氏が球磨郡を統一した後、上相良氏の一族であった新堀氏一族は球磨の数か所に別れた模様で、私の曾祖母の先祖は、「旧宮原村」の宮麓集落へと来られたようです。

 

ここで南九州(島津藩・相良藩)における「麓」の意味を御説明致します。

「麓」 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%93

薩摩藩の外城制度において郷士が居住していた集落を麓集落と称し城下町的機能を有していた。知覧麓(現南九州市)・入来麓(現薩摩川内市)・出水麓は国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。

※相良藩も薩摩藩と同じく外城制度がありました。 相良藩士(在郷)と郷士の方々が麓集落に住していました。(麓集落以外に住される郷士の方ももちろんいらっしゃいました)

相良藩は、藩全体の住民の内 1/3が郷士であるという全国的にも非常に珍しい藩であり、

その中でも、旧宮原村は在郷の藩士を除く郷士が、村民の内1/2を占めるという、やはり全国的にも極めて珍しい村でもありました・・・

 

曾祖母の先祖の「新堀氏」については以下にも登場します。

相良氏の第18代当主相良義陽の時代に、相良義陽のおじの方々、

上村城主「上村頼孝」弟の上村頼堅(豊福城主)、稲留長蔵(岡本城主)が

弘治3年(1557年)6月反乱を起こし

稲留長蔵(岡本城主)方には現えびの市”飯野”、そして同じく現えびの市真幸の”真幸衆”と呼ばれた北原氏一族が加勢に来られて「岡本方」と「人吉方」の大激戦が繰り広げらました。

※岡本とは旧宮原村の隣村であり、私の住む集落『宮原城下の「宮麓」』に隣接するのが

『岡本城下の「岡麓」』になります。

 

相良藩史の一つである「歴代嗣誠濁集覧」には「岡本城落城之事」の記述があり
右同日人吉方手分ノ一勢ハ押寄岡本ニ候処ニ、此処ハ僅ノ籠城故乍チ致ニ落城、長蔵モ日州飯野ヘ退去也、然処ニ岡本貝ノ崎久保田ト申処ヘ北原勢少々相残候由因ニ注進ニ、是モ追懸討取申候

と記されています。

 

上記の激戦地「貝ノ崎」や「久保田」は私の家のすぐ近くです。
岡本方の討死された方々の名前が「歴代嗣誠濁集覧」記述されているのですが
「新堀右衛門」・・・新堀氏の名がありました。
新堀氏は岡本方として戦ったようです。

 

さらに「歴代嗣誠濁集覧」の「岡本城落城之事」を続けると

翌日岡本衆并真幸衆宮ノ原ニ相残候由相聞ヘ、是モ雑兵六十余人御当家ヘ討取申候、

宮原麓首塚是也、又奥野ニテ敵方ノ余党 田中民部、田中安芸、同左近討死
とあります。
真幸衆と岡本衆は宮原村に残り、翌日、討たれてしまわれた・・
宮原麓首塚是也・・今でも、岡原霧島神社のすぐ近くの丘に亡くなった「真幸衆」60余人の方々を御供養する首塚があります。

当時の宮原村の宮麓集落には「肥後宮原銀山」があり、相良藩の日明貿易の拠点となっていたので、新堀氏も、おそらくこの事に携わっていたのでは?と私は推測しています。

 

その後、江戸時代初期から末期にかけても曾祖母の実家「新堀氏」は旧宮原村の宮麓に

系を続けた事を相良藩士分限帳で読みとる事が出来ます。

承應四年(1655年)、集落内に建立された庚申塔2基には、集落内に住された31名の

姓・名が残されていて新堀氏は平河氏・椎葉氏・他 さらに沢山の「宮原氏」の名 と共に名前があります。

(この庚申塔には相良氏族である蓑毛氏他多数の相良氏族以外に、何故か?有馬氏数名の名が残っています。この事はいずれか後に書かせて頂くつもりです)

 

他にも

集落に鎮座であった大同元年(806年)大神惟基草創

「中島大権現」(中島神社※宮原神社)に江戸時代に寄進された大きな石灯篭にも「新堀氏」は名前を残されています。

(今は合祀となった岡原霧島神社本殿前にこの石灯篭は移されています)

他、集落内にお祀りのとても『大きな石地蔵様』も江戸時代中期に新堀氏が建立されていました。

こちらの石地蔵様のお祭りは、今でも毎年、集落で行われています。

 

明治維新以降も、宮原村の新堀氏の名は人吉市史、岡原村史等にて確認出来ます。

西南戦争の際には、曾祖母の父(私の高祖父)は薩軍ではなく「官軍」として戦っていました。

何故?だろう・・と以前考えたのですが、この事を父に話すと

「やっぱりな・・・」と答えるだけで、この「やっぱりな・・・」の意味は今でもよく解りません。

(父も説明してくれません・・・)

 

しかし、西南戦争の際に、宮原村にそびえる『黒原山』すそ野の山城『旧宮原城跡』は、

球磨郡内にあった官軍の拠点の一つでありました。

昭和15年発行の球磨郡誌の記述により

『黒原山を奪回せよ!』との命令が薩軍に下され、黒原山の反対側にあたる、須木村(現小林市)方向から薩軍が攻め入り、官軍対薩軍の激戦地の一つが「黒原山」であった事が解ります。

 

『黒原山を奪回せよ!』・・・・薩軍内の命令・・・

さらに・・官軍は黒原山のすその旧宮原城跡に拠点を構え『黒原山』を死守した事も解り・・・・

 

両軍にとって『黒原山』には一体どういう意味があったのだろう・・・?

宮原村の激戦については、地元の人達にはしっかりと受け継がれていますが、他、書籍ではあまり取り上げられていません。

今でも、宮原城跡には、当時官軍の人達が使用された器等がゴロゴロと転がって残っています。

 

『黒原山を奪回せよ!』・・・・薩軍内の命令・・・

さらに・・官軍は『黒原山』を死守した・・・

 

ここで、私の頭はやはり「古代」に向くのです・・・

以前、書かせて頂いたように

この「黒原山」は”古代久米族の権利の象徴であり守護山である”と、ある歴史研究家の方からお伺いしました。

 

そう考えると・・・

古代、日本の曙の時代にこの地にいらした「元祖的久米族」の権利の象徴であり守護山であった『黒原山』の争奪戦・・・のような気もするのです。

(あくまでも、私の考えですが・・・)

 

「黒原山」様が言葉を喋られたらなぁ・・・・・

独り言です・・・・(..)

 

最後に

曾祖母の兄弟(新堀家の子供達)は

曾祖母 ・・・・家の宮原家に嫁ぐ

弟・・・祖母の実家の平川家のお隣の別の「平川家」に養子に入りこちらの平川家を継ぐ

弟・・・深松家に養子に入り、深松家を継ぐ

弟・・・宮原家と縁戚関係にあった「久保本(元)家」に養子に入る

そして、他の兄弟達や他の新堀氏の一族は・・・

明治以降から昭和初期にかけて、其々が先祖の縁故の「地」である『黒肥地』に移っていかれました・・・・

 

今回は遠江国から球磨に来られた、家の宮原家の曾祖母の実家「新堀氏」について書かせて頂きましたが

最初に書いた「家紋」について、あらたに解った事がありますので

次回

『集落に見られる「楓紋」を使用される家々』

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317196195.html

に続けます。