前回のブログ
遠江国を出自の地とする曾祖母の実家「新堀氏」
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12317128956.html
から続けて書かせて頂きます。
前回に書きましたように
家の宮原家の曾祖母(新堀家の娘)の弟が養子(婿養子ではありません)に入って「名」を継いだ家や、私の住む集落「宮麓」内の数軒に渡る家々が使用されている家紋。
調べたのですが、こちらは「楓紋」でした。
楓紋に剣がありますが、正式な名称は残念ながら解りませんでした。
「楓紋」に剣の家紋。
そこで、「楓紋」について調べました。
harimaya.com 様の サイト 家紋の由来「楓紋」より
http://www.harimaya.com/o_kamon1/yurai/a_yurai/pack2/kaede.html
楓は、古人も紅葉の美しさに感動していた。平安時代に「紅葉の賀」などが催されたりした。しかし、紅葉とは 紅に染まった葉のことで、特定の植物名ではない。黄色く染まる葉もある。「万葉集」では多く「黄葉」をあてている。 紋章上では紅葉に「楓の葉」を採用している。この紋はカエルの手の形をしている。これは、 楓の葉が蛙の手のように見えることから、カエルデがカエデに訛ったことに由来するという。(一つ楓)
【主な使用家】
楓紋で有名なのは、公家の今出川氏である。これは、「丸に三つ楓」とよばれて三ッ葉が葉先を中心に向けているものである。絵巻物の文様から工夫されたものと思われる。
清和源氏義光流の市川氏、桓武平氏良文流の高山氏、日下部氏流の八木氏などが楓紋を用いている。
多くは風雅から選んだようだが、信仰や地名から用いたものもありようだ。
信仰からきたものでは、静岡県浜松氏の秋葉神社、奈良県三郷町の龍田神社の氏子が用いている。
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※楓紋で有名なのは、公家の今出川氏
※清和源氏義光流の市川氏、桓武平氏良文流の高山氏、日下部氏流の八木氏などが楓紋を用いている。
※御神紋 静岡県浜松氏の秋葉神社、奈良県三郷町の龍田神社
さらに
同じく harimaya.com 様の サイトより 名字と家紋より 楓(紅葉)紋
http://www.harimaya.com/kamon/column/kaede.html
中略・・・
楓の紅葉は古来より人々に賞でられ、楓の葉を文様にして、衣服の装飾に用いられたことが『枕草子』『栄華物語』などから知られる。『大要抄」』の車文の条には、俊成卿「?冠(カエデ)円」とある。また『太平記』には、粟飯原弾正左衛門が?冠木を描いた直垂を着用していたことが記されている。?冠とはトサカであり、赤く染まった楓の葉がトサカに似ていることからきたものである。
中略・・・・
楓紋で有名なのは、藤原北家閑院流の今出川氏である。今出川氏は右大臣西園寺兼季が、京の今出川に邸を構えたことから家号となったもので、今出川氏の家紋は「丸に三つ楓」とよばれ、三つの楓の葉が葉先を中心に向けたものである。風雅を愛する公家においては多用されるように思われるが、唯一、今出川氏だけが用いている。
戦国武将では、伊予の西園寺氏を支えた穂積氏流の土居氏が「一つ楓紋」、大和武士として勢力のあった古市氏が「楓に菊紋」を用いた。その他、清和源氏義光流の市川氏、
桓武平氏良文流の高山氏、日下部氏流の八木氏などが楓紋を用いているが、他の紋と比較するとその普及度は相当に低いようである。 紅葉したのち散っていく様子は美しいものの、縁起をかつぐうえからは敬遠された結果かも知れない。
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※今出川氏は右大臣西園寺兼季が、京の今出川に邸を構えたことから家号となったもので、今出川氏の家紋は「丸に三つ楓」とよばれ・・風雅を愛する公家においては多用されるように思われるが、唯一、今出川氏だけが用いている。
※戦国武将では、伊予の西園寺氏を支えた穂積氏流の土居氏が「一つ楓紋」
※大和武士として勢力のあった古市氏が「楓に菊紋」を用いた。その他、清和源氏義光流の市川氏、桓武平氏良文流の高山氏、日下部氏流の八木氏などが楓紋を用いている。
※他の紋と比較するとその普及度は相当に低いようである。
ここで・・・・私は記述を読みながら・・・
思わず・・・ええええええっ!!\(◎o◎)/! と叫んでしまったのであります(..)
今出川氏・・右大臣西園寺兼季
この方は西園寺公経の後裔となられる方です!
ブログ 五木村の縁戚の方々と私の先祖が繋がる椎葉村 で書いたように
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12307536148.html
宮原の一族の先祖「橘公業(公成)」は
※本領であった伊予国宇和郡を西園寺公経に譲り、替地として肥前国杵島郡長島庄、大隅国種ケ島、豊前国副田庄、肥後国球磨郡久米郷を与えられ・・・
この肥後国球磨郡久米郷旧宮原村に住んでいるのが私「宮原」でございます(..)
すなわち・・・「橘公業(公成)」が所領する前の、この地、私の住む旧宮原村宮麓集落は
西園寺公経の領地であったと言う事になります。
私の住む集落に多い 楓紋に剣の家々・・・・?
さらに
※伊予の西園寺氏を支えた穂積氏流の土居氏が「一つ楓紋」
伊予の西園寺氏・・ここは・・・元は宮原の一族の先祖「橘公業(公成)」、橘氏の本領。
私の住む集落に多い 楓紋に剣の家々・・・・?
ここまで、書くと、何だろう・・・・決して偶然ではないのでは?・・私は考えるのですが・・・
さらに・・・
※日下部氏流の八木氏
「日下部氏」まで登場でございます(p_-)
日下部氏は 日下部氏と日向日下部氏が有名ですが・・・・
ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E4%B8%8B%E9%83%A8%E6%B0%8F
起源にはいくつかの説がある。
開化天皇の孫・狭穂彦王に始まる、但馬国造の日下部君の後裔(『古事記』、『大日本史』)。
孝徳天皇の孫・表米親王(日下部表米)に始まる、日下部宿禰の後裔(『朝倉始末記』)。
いずれの説も表米以降の系譜はほぼ同じであるが、部民制度の成立を考えた場合にとくに後者は疑問点が多いとされる。
また、雄略天皇の皇后であり仁徳天皇の皇女でもある草香幡梭姫が生活する資用に充てられた料地の管理等に携わった部民が、この皇后の名に因む(いわゆる名代部)とする説がある。そして、この部民は各地に配置されて屯田兵のような軍事集団の性格を持つものでもあったとされる。
くさかべ(日下部)の表記は、和歌の枕詞、「日の下の草香(ひのもと の くさか)」より生じた表記と言われる。同様の表記には「長谷の泊瀬」、「春日の滓鹿」、「飛ぶ鳥の明日香」などがある。
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上記の
※雄略天皇の皇后であり仁徳天皇の皇女でもある草香幡梭姫が生活する資用に充てられた料地の管理等に携わった部民が、この皇后の名に因む(いわゆる名代部)とする説
草香幡梭姫 とは ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%89%E9%A6%99%E5%B9%A1%E6%A2%AD%E5%A7%AB%E7%9A%87%E5%A5%B3
草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ、生没年不詳)は第21代雄略天皇の皇后。古事記には若日下(部)王(わかくさかべのみこと)或は波多毘能若郎女(はたびのわきいらつめ)とある。父は仁徳天皇、母は日向髪長媛(日向諸県君牛諸井の女)。大草香皇子の同母妹。子女は無し。
安康天皇元年(454年)2月以降、大泊瀬皇子(後の雄略天皇)の妃となった。雄略天皇元年3月3日(457年4月12日)、雄略天皇の皇后に立后された。古代の部民である日下部氏は、この皇后の生活の資用に充てられた料地等の管理に従事した人々とする説があり、各地に配置された屯田兵のような軍事集団でもあったとされる。
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※父は仁徳天皇、母は日向髪長媛(日向諸県君牛諸井の女)
日向諸県君牛諸井・・・この方は!!日向日下部氏に繋がる方ではありませんか!!!!
「日向諸県君」の祖は「景行天皇皇子」の「豊国別命」(母は襲武の娘”襲武”)であり
「豊国別命」の後裔が『諸県君牛諸井』。髪長媛の父となられます。
参考 日本の苗字七千傑様 サイト
http://www.myj7000.jp-biz.net/
日本の苗字七千傑様の【日向国造】姓氏類別大観。
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/01/012/01236.htm
【日向国造】
景行天皇皇子の豊国別命の後裔にして、応神朝、三世孫老男主命を国造に定める。
仁徳朝に牛諸井は諸県君を賜姓され、後裔は諸県郡司、本庄八幡宮大宮司となる。
日本の苗字七千傑様の【日向国造】姓氏類別大観より
さらに
日本の苗字七千傑様の 【日下部氏】(隼人族)姓氏類別大観
http://www.myj7000.jp-biz.net/clan/02/021/02153.htm
【日下部氏】(隼人族)
火闌降命の後裔にして隼人族なり、仁徳天皇の両日下王(大日下王、若日下王)の母が諸県君牛諸井の娘髪長媛なるに拠り御名代部が日下部を称する。
日本の苗字七千傑様の 【日下部氏】(隼人族)姓氏類別大観より
日向の【日下部氏】(隼人族)と
父は仁徳天皇、母は日向髪長媛(日向諸県君牛諸井の女)である「草香幡梭姫」が生活する資用に充てられた料地の管理等に携わった部民が、この皇后の名に因む(いわゆる名代部)とする説がある「日下部氏」
結局は・・・繋がっていると言う事が理解出来ました。
ちなみに、時代が下って、平家政権下の球磨郡。人吉の領主であった「平頼盛」。
「平頼盛」の子息は「平光盛」(八木光盛)。
鎌倉時代初期の人吉庄の預所でもあった方です。
「平光盛」(八木光盛)の子息は
八木盛定(薩摩八木氏) 八木宣盛 平川景家(薩摩八木氏と共に行動)
となります。
さらにさらに
「平頼盛」。この方は「西園寺公経」の母方の曾祖父でもある方です。
平頼盛の孫となられる平川景家(薩摩八木氏と共に行動)と言う方と球磨の平河氏の関係は未だ不明です・・・・
西園寺公経とは ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%9C%92%E5%AF%BA%E5%85%AC%E7%B5%8C
西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、
四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。
また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。
中略・・・・
源頼朝の姉妹・坊門姫とその夫一条能保の間にできた全子を妻としていたこと、また自身も頼朝が厚遇した平頼盛の曾孫であることから、鎌倉幕府とは親しく・・・以下略。
と言う方でございました。
私の住む、旧球磨郡久米郷宮原村の宮麓集落に住する『「楓」に剣』の紋を使用する家々。
「楓」紋 を調べたら・・・・
①西園寺公経の後裔、右大臣西園寺兼季を祖とする今出川氏が使用
※西園寺公経と橘公業は肥後国久米郷他と伊予宇和郡を替地
②伊予の西園寺氏を支えた穂積氏流の土居氏が「一つ楓紋」
※伊予の西園寺氏・・・
橘公業の本領地であり替地となった伊予宇和郡に入った西園寺公経の後裔
③日下部氏流の八木氏が使用
※日向日下部氏と日下部氏は結局、
日向諸県君牛諸井の女であった日向髪長媛で繋がる
④西園寺公経の曾祖父である平頼盛。この方の子息「平光盛(八木光盛)」は八木氏を名乗り、さらに「平光盛(八木光盛)」は人吉庄の預所でもあった。
子息は
八木盛定(薩摩八木氏) 八木宣盛 平川景家(薩摩八木氏と共に行動)
★旧肥後国球磨郡久米郷宮原村の宮麓地区には『「楓」に剣』の紋を使用する家々が多い!
今回、調べた事(①~④)に全て関連している気がするのは私だけでしょうか・・・・
私はやはり・・・こんな偶然あるわけない!(ー_ー)!!
と思います・・・
最後に独り言を(..)
やはり・・・・何を調べても・・・古代 → 中世 → 近代
私の調査・・繋がっていると思います・・・
次回『球磨の宮原村に移住された小豆島の方々』に続きます。