前回のブログ『リブログ”平河 ヘブライ語・ポリネシア語の混合地名の某所”』

より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12413118243.html

 

前回の最後に書きましたように

古代、球磨川北岸と球磨川南岸には、其々異なる「部族」の方々が住されていたのでは?

と私は推測を立てたのですが、その球磨川南岸にあたる、球磨郡久米郷の私が住む

「旧宮原村(みやのはる)」と「旧岡本村」は黒原山(くろばるやま)の麓に広がる扇状地の上にあります。

旧宮原村と旧岡本村は明治22年に合併して「岡原村(おかはる)」となりました。

合併前の明治12年、戸長役場設置に際に建設された宮原村役場。

実は、ブログ『御教示へのお礼 及び 弓を用いた旧岡原村での 儀式』 の最後に私が写真を写した場所のすぐ後ろが「旧宮原村役場跡」となります。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12409467784.html

 

まさしく、私が写真を撮る為に立っていた場所の背中側が字外園に建設されていた

旧宮原村役場跡となります。

 

現在、私の住む集落「宮麓」は、あさぎり町岡原北となり、以前の面影は完全に失われましたが、旧宮原村役場が建設されただけではなく、「 府本小学校 」もこの地に建てられました。

最初は稲積妙見(稲積神社)拝殿が小学校として使用されたようです。

 

学校の沿革

明治7年  4月       府本小学校創立、
              府内稲積神社拝殿に附設草葺平屋37坪
明治13年 4月 1日  外園に移転開校
明治18年 3月 1日   移転開校
明治21年 9月 12日 麓小学校と改称
明治26年 9月 8日   岡原尋常小学校と改称
明治40年 3月      高等科併置 岡原尋常高等小学校と改称
明治41年 3月      高等科廃止
大正 5年 3月      高等科併置
大正10年 9月      別府桧山現在地に移転増築

 

ご覧頂くとお解り頂けますように、稲積妙見(稲積神社)は「府内」であり

「府内」・「府本」の称、外園(字) 等が確認出来ます。

そもそも・・この「府内」とか「府本」とか、ましてや「外園」とか、この地名は一体何なのだろう・・???と以前から思っていました。

宮原村(みやのはる)字外園・・・・?????

 

平成元年9月に発行された『おかはる』には、文化8年に作成された「宮原村古地図」が、表紙に使用され、他にもページ内に小さく記載されているのですが、その写真を見ると

『府内や外園』地区だけ、何だか特種な空気感?を出しているのが解ります。

※補足・・・ちなみに平成元年当時の岡原村村長は「伊勢」様とおっしゃいます。

 

『おかはる』記載、宮原村古地図(拡大)※拡大の為、文字が読み取れません。

 

 

枠で囲んだ部分が「馬場田(府内)」と「外園」です

枠で囲んだ左側中央付近が稲積妙見鎮座地「府内(馬場田)」です。

中央の空白部分も「府内(馬場田)」です。

この「府内(馬場田)」は、私が以前ブログで書いたように、家の宮原家の本籍地となり、

今は、外園に住んでいますが、父曰く、「本籍地は馬場田から絶対に動かしてはならない!」という掟(おきて?)をきつく言われております。

 

『おかはる』の表紙に使用された「宮原村古地図」

 

残念ながら、「府内(馬場田)」・「外園」が途中で切れています。

黒原山の頂上付近には「雨引嶽」と記されています。

この辺りが「雨引明神」御鎮座地となります。

★社家傳云 垂跡神三所
雨引明神 山王権現 八大龍王
傳云雨引明神ハ罔象女命ミツハメノミコト

 

黒原山の麓、最初に見える鳥居が「中嶋大権現(中嶋神社)」御鎮座地です。

中嶋大権現(中嶋霧島神社※宮原神社)宮原中嶋山

中嶋大権現

☆中嶋大権現(中嶋霧島神社※宮原神社)宮原中嶋山
大同元年(806年)大神惟基 神託を受け草創 
社人 宮原主馬 (麻郡神社私考編纂時)
日州霧島神社同體
應永十四年丁亥(1394年)神殿修復
永亨四年(1432年) 藤原前續公御願ニ依テ別當龍泉寺重慶修造 
 ※藤原前續・・相良前続 相良氏第九代当主
天文年中(1532年~1555年) 藤原晴廣公本殿改造 文禄五年 拝殿修復
 ※藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主

 

宮原村古地図の中嶋大権現から少し左側に下った所に見える鳥居が

「切畑大明神(切畑神社)」御鎮座地です。

切畑大明神

 

切畑大明神 湯前領切畑山 (切畑大明神は宮麓地区内にある旧湯前領の飛地でした)
祠官 星原内記
阿蘇神社同體 大同年中鎮座
永萬元年(1165年) 平頼盛公により再興
延文年中修復(1356年~1360年)
天正十一年(1583年)火災により宮殿が焼けた為に
同十三年(1585年) 藤原忠房公御願トシ藤原重興 再興
同十八年(1590年) 藤原頼房公及家門ノ祈願トソ神體ヲ安置セラル

 ※平  頼盛・・平清盛公弟
 ※藤原忠房・・相良忠房 相良氏第19代当主(父:相良義陽)
 ※藤原頼房・・相良頼房(相良長毎)相良氏第20代当主(父:相良義陽)
  ★肥後人吉藩の初代藩主

 

さらに、宮原村古地図では写真が途中で切れていますが、

府内(馬場田)御鎮座 稲積妙見

稲積妙見

 

稲積妙見 久米領稲積山 (稲積妙見は宮麓地区内にある旧久米領の飛地でした)
社人 椎葉久左衛門
八代郡白木社妙見同體
草創年紀未考 此社ハ當郡妙見勧請ノ最初ナリ
※球磨・人吉地方においての妙見宮勧請の最初となる社です。
明應五年(1496年) 藤原為續公長輔公 御祈願トシ
※藤原為續・・相良為続 相良氏第12代当主(父:相良長続は球磨郡を統一)
代官 最所式部少輔綾(アヤノ)末繼 宮原出雲橘續久 及
宮守石井太郎兵衛 阿部貞豊等 再興

※再興に関わる方々

代官 税所(綾)末継 ・ 宮原出雲橘続久 

宮守石井太郎兵衛 ・ 阿部貞豊
 

天文廿一年(1552年) 地頭阿部貞次修造 國郡泰平 藤原晴廣公武運勝利 并富役藤原長陸安全ノ願辞アリ
 ※藤原晴廣・・相良晴広 相良氏第17代当主
 ※藤原長陸・・上村長陸 奥野村地頭(父:上村頼孝)

 

稲積妙見の再興に関わった方々

代官 税所(綾)末継 (税所氏※本姓綾氏) 

※補足:綾氏は日本武尊(やまとたけるのみこと)の後裔氏族であります。

宮原出雲橘続久 (橘氏)

宮守 石井太郎兵衛(石井氏) ・ 阿部貞豊(阿部氏)

 

ここで・・税所氏(綾氏)・宮原氏(橘氏)・阿部氏は、相良藩内(球磨郡内)で

すでに鎌倉時代から確認出来る「氏族」なのですが、

「石井氏」・・・? 宮守 石井太郎兵衛 と言う方は何処の系の「石井氏」でいらっしゃるのか?現在、「宮麓地区」には「石井氏」は住まわれていないので、詳しく解らないのであります。

 

私の住む集落「宮麓」に御鎮座であった神社様を三社ご紹介致しましたが、お隣の岡本村にも、もちろん沢山の神社様が御鎮座でありました。

後日、詳しく書かせて頂きます(..)

 

その中で、一つ・・あれっ?と気が付いた神社様がありました。

皇紀二六〇〇年記念事業として出版された球磨郡誌で発見したのですが

何故か???岡本の菅原神社様に「仲哀天皇」様がお祀りであったのです・・・!?

旧宮原村・旧岡本村の神社様の多数は岡原霧島神社に合祀されていらっしゃるのですが

合祀されていない神社様でした。

球磨郡誌より

菅原神社 岡本字新村にあり。

菅原道真公及び同村鎮座たりし、藤崎八幡宮祭神應神天皇、

帯中日子天皇、息長帯姫を祭る。

勧請の年紀は詳でない。

 

と記されています。

ここで・・私は???となりました。

岡本の永岡藤崎八幡宮は菅原神社とは別のはずだけれど・・・

さらに、熊本市内の藤崎八幡宮の御祭神、應神天皇様と神功皇后様はお祀りであったと記憶していますが、「仲哀天皇」様は確か御祭神では無かったような・・・?(勉強不足かな?)

と思い、手元にある旧岡本村の神社様についての資料を確認したのですが

不思議な事に

永岡藤崎八幡宮の御祭神は

應神天皇・住吉大神・神功皇后外 と記されていて

天満宮の項には御祭神

菅原道真公・應神天皇・帯中日子天皇(仲哀天皇)・息長帯姫神(神功皇后)

と記されていました。

何故なのだろう・・??

頭が混乱致して参ります・・・

非常に気になって調べたのですが、現在こちらは「永岡地区」の「永岡八幡宮 天満宮」でありました。

 

でも・・しかし(p_-)

熊襲の地と言われ続けた、この球磨郡。

球磨郡久米郷岡本村には帯中日子天皇(仲哀天皇)様をお祀りの神社様が御鎮座であったと言う事を「世間の方々」がお知りになられたら・・どうお思いになられるのかな・・

と考え、今回はとても気になるので書かせて頂きました。

 

他、旧岡本村にはもう一社、とても気になる神社様が御鎮座です。

それは斉堂(ときどう)の正八幡神宮様であります。

旧岡本村斉堂の正八幡神宮様は、鹿児島神宮(正八幡宮)ではなく、不遇の死を遂げられた

岡本城主岡本頼春(相良頼春)をお祀りされていると伝わっています。

ただ、以前から何故?正八幡神宮なのか?と考えていました。

私が、非常に気になっているのは、旧岡本村斉堂の正八幡神宮の御神像なのであります。

地元宮麓に住されている、元求麻郷土研究会の会員でいらっしゃった土屋様が会をお辞めになられる時に、長年集めて来られた、旧宮原村・旧岡本村の資料を私に下さいました。

「あなたの目で、この資料を見たら何か解るかもしれないよ。」と その時おっしゃって

下さいました。

その資料の中に旧岡本村斉堂の正八幡神宮の御神像の御写真もありました。

 

岡本正八幡神宮 当初の木札

 

御神像

 

 

こちらの御神像は、岡本頼春(相良頼春)公の御神像と伝わっています。

いるのですが・・・・

どうして、こちらの御神像は王冠をお被りなのか・・・

ずっと・・ずっと・・不思議だったのであります・・・・・

罰あたりな事を書くようですが

こちらの王冠をお被りの御神像は、はたして、本当に岡本頼春公なのか・・?

 

何も球磨と鹿児島神宮(正八幡宮)との間に繋がりがなければ、こう言う疑問は湧かないのですが、しかし、球磨と鹿児島神宮(正八幡宮)とは、繋がっているからこそ、疑問を感じるのです。

 

先祖「平河氏」を調べていて、「税所氏」と平河氏の深い絆を感じました。

先に稲積妙見の再興に関わった「税所氏」一族です。

相良長頼、この方は住人・税所助三郎の勧めで、地方豪族である平川氏に使者を出して、

矢瀬氏討伐を依頼・・

平河氏の数回に渡る鎌倉幕府への訴訟の際にも、税所氏は関わり、さらに、平河氏所領の山田城も税所氏が代官を務められていた記述が残っています。

そこで、私は税所氏を調べたのですが、税所氏は鹿児島から鎌倉時代初頭に球磨に来られていた事が解りました。

税所氏の鹿児島時代は鹿児島神宮の神職を務めた家系であり、鹿児島神宮の高い社格から有力国人へとなられています。(後日詳しく記させて頂きます)

 

さらに、鹿児島神宮と相良氏も繋がっています。

相良長頼の弟『 佐原頼忠 』。この方は大隅国正八幡地頭でいらっしゃいました。

大隅国正八幡地頭 佐原頼忠の妻は税所圓昭(員昭)の娘の方でした。

さらに「佐原頼忠」の子は相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)。
妻は・・紀氏 西山九郎道房(税所氏被官向笠氏?)女子。
ここで「紀氏」に繋がります。
上記の相良兵衛長継(矢上孫三郎長継)から・・略・・相良又三郎「薩摩郡光富領主」

となります。

ちなみに、平安時代末期においては

「綾(税所)圓實(員実)」の妻は球磨の良峯依高の娘でいらっしゃいます

 

と言うように、鹿児島神宮(大隅正八幡宮)と税所氏・相良氏・平河氏さらに紀氏は強い絆が見えるのです。

 

ですから、私は非常に気になります。

岡本村の正八幡神宮の御神像は、本当はどなたをお祀りなのか・・?と・・・

 

 

 

 

球磨郡誌記載の神社様で、気が付いた事が岡本村以外にもありました。

私の家から400メートル程先に歩いて行くと「龍王神社」様が御鎮座です。

ここは、旧久米郷奥野村となる場所です。

宮麓と奥野は隣同士で、奥野には「白木妙見神社」も御鎮座です。

奥野地区には鳥居が至る所に見受けられるので、気になり、球磨郡誌の久米村(当時は奥野は久米村)の項を見ると

白木妙見神社(白木神社)以外に

久米村奥野には、龍王神社、白山姫神社、彦山神社、菅原神社、山神神社があり・・・

と記されていました。

全く知らなかったのですが「白山姫神社」様が旧久米郷奥野村には御鎮座でありました。

白山神社様は、旧深田村の白山神社様を平河氏が平安末期に勧請された事は知っていましたが、奥野村にも「白山姫神社」様が御鎮座であったとは・・・

さらに

奥野村に 彦山神社・・・知らなかったです・・・

※補足 平河氏は、平安末期に旧深田村(現あさぎり町)に白山神社様以外、

鹿児島神宮(正八幡宮)も勧請されています。

 

さらに、気になったのが、水上村江代の神社様です。

水上村江代とは、山の奥の・・さらにかなり奥の地域なのですが、

こちらに御鎮座の白水阿蘇神社様には

江代の各神社様を明治二十二年に合祀されてあり、御祭神の中に

荒神盛祭神、火産竈神、沖津彦神、沖津姫神各二體・・と記されていました。

江代は、椎葉村のお隣で、ものすご~い山の中です。

その地に沖津彦神、沖津姫神をお祀りの神社様が御鎮座であったとは・・驚きました。

 

沖津彦神、沖津姫神を合祀の白水阿蘇神社様が御鎮座の江代の昨年の秋の風景です

白龍妃橋より撮影(高所恐怖症でこちらに伺い始めて3年目にしてようやく・・・)

 

眼下に見える江代集落

 

江代の白水の滝には、雄滝・雌滝にそれぞれ

白龍王橋・白龍妃橋が架かっています。

 

こう言う場所に何故?沖津彦神、沖津姫神をお祀りなのだろう・・・?

 

今回は、宮原村古地図から「府内(馬場田)」・「外園」を御紹介、さらには

岡本の正八幡神宮の謎、そして奥野村の「白山姫神社様」、水上村の神社様と立て続けに御紹介させて頂きました。

 

これからも、「何故だろう?」・「どういう意味だろう?」と感じた事を度々書かせて頂きます。

私はまだまだ勉強不足でございます。今回、私が「???」と感じた事に関して、

ぜひとも、皆様方に御教示を頂きたいと願っております。

よろしくお願い申し上げます。

 

次回 『 相良藩秘中の秘義と「おかはる村」 』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12414157968.html