https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12408768931.html

より続きます。

 

私のブログをご覧下さった方々より、

大変ありがたい御教示・コメントを頂いております。心より感謝申し上げます。

本当にありがとうございます。

コメントを頂いた方々には、ブログ『御教示ありがとうございます』の方で

お返事を書かせて頂きましたので、ご覧ください。

 

私のブログは、まるで子供が書いたかのような文章であったり、顔文字を使用したりと、

本当に拙い文章しか書けませんが、先祖の真実を知りたい、古代の真実を知りたい!

と言う考えには、ふざけた気持ちは全く、出来るだけ沢山の方々に、自分が知った事

地元の伝承、気が付いた事等をお伝えしたいと言う一心でございます。

時折、摩訶不思議な事を書く場合もありますが(妙な感や夢の話など)

これからも、日々勉強を重ね、しっかりと調査を前にすすめて、先祖の真実に少しでも近づきたいと思います。

皆様方、私のブログをご覧頂いて、お気づきの事など、おありになりましたら

ぜひ、御教示を賜りたいと願っております。

これからも、どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

今回は、私の住む旧岡原村に古来より続いていた「儀式」について書かせて頂きます。

前回のブログで、神社見聞牒様から頂いた御教示により、あらためて「久米物部氏」について書かせて頂きました。

この事により、以前から知っていた、私の住む旧岡原村に古来より続いていた『儀式』が

頭をよぎりました。

それは岡原霧島神社における儀式です。

 

岡原霧島神社について
岡原霧島神社は球磨郡旧岡原村(現あさぎり町)の岡本谷と宮原谷に挟まれた尾根の麓に位置しています。
明治42年(1009年)に旧岡本村宗社「大炊神霧島神社(大炊神権現)」と

旧宮原の「中嶋霧島神社(中嶋大権現)」の合併が許可され、翌年現在地に移転し社号を改めたとあります。
御祭神は天津彦火火出見命ほか二十二神。
村内数か所に鎮座の神社を、岡本の大炊神霧島神社(大炊神権現)と宮原の中嶋霧島神社(中嶋大権現)の合併の際に合祀されました。

御祭神 はブログ『大同元年(806年)大神惟基 草創の我が故郷の神社です』を御参考下さい。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12281217989.html
足 ※麻郡神社私考では
大炊神権現(大炊神霧島神社)は大同年中(806年~810年)草創。日向国霧島神社と同体。
中嶋大権現(中嶋霧島神社)は大同元年(806年)草創。日向国霧島神社と同体。

と記されていますが、中嶋大権現(中嶋霧島神社)地元では大同元年より草創はさらに遡ると言い伝えが残っています。

 

この岡原霧島神社について書かれた
免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行 

に大変興味深い記述がありました。

今から、3年前にこちらの記述に気が付いたのですが、
御紹介させて頂きます。
取材当時(昭和48年~49年1月頃)岡原霧島神社の宮司であった横瀬安住氏の談です。

 

※補足 岡原霧島神社の宮司家「横瀬家」は

明治42年(1009年)に旧岡本村宗社「大炊神霧島神社(大炊神権現)」と

旧宮原の「中嶋霧島神社(中嶋大権現)」の合併が許可され、翌年現在地に移転し社号を改めた際に、人吉の相良神社の宮司家「横瀬家」から、岡原霧島神社の宮司として岡原にお越しになられて代々宮司をお務めになられていらっしゃいました。

 

(岡原村)民族資料 横瀬安住氏談
①子供名付けの儀式
嬰子に手箕をかぶせ、弓に麻殻の矢をつがえて、嬰子の男女の性別を聞いてから短い言葉を唱えて(唱え言葉を失念)手箕を射た。
 

②七夕の日に詠う
「七夕さん七夕さん、月に三反、七苧桶、紡いで織らせて下しゃんせ、下しゃんせ)

 

③弓引きの式
子供名付けの悪魔祓いの作法が宮中にては親王、内親王御命名の時 鳴弦の儀とて、弓弦を鳴らす儀式があるが、岡原地区には昔弓引きの式があった。明治四十年頃、横瀬氏はその席に列席したことがある。
他、家の棟上げに弓矢をつくり、鬼門、鬼門裏に立てるのも同じ趣旨と思う。


と免田郷土研究会 郷土 第二号 昭和49年2月発行に記されていました。

 

私が特に興味を抱いたのは『子供名付けの儀式』と『弓引きの式』です。

弓弦を鳴らす儀式 「弓引きの式」・・・弓・・・もしや?物部氏の儀式か?・・・・

そこで、父に聞いた所

「小学校に入学する前に、神社で弓を使った儀式を受けた記憶がある」と言っておりました。

父は慶尚南道で産まれていますので、おそらく儀式が遅くなったのでは・・?

もしくは、小学校入学前の子供達は皆、弓を使った儀式を受けたのか?

と私は推測いたしました。

 

「弓」を鳴らす儀式について調べていると以下のサイト様の記述に非常に興味が湧きました。

石上神宮 
http://www.a-namo.com/guest/akisan/tochugesha/2002/0206/isonokami/isonokami.htm


こちらのサイト様のページ一番下にある記述です。勝手ながら転記させて頂きます。

古(いにしえ)、神宮の神庫には歴代天皇や諸氏族から奉献された楯・鉾・太刀・玉・装身具でなど、多くの神宝が『延喜式』にある伴、佐伯の2殿に納められていたという。平安京への遷都に伴い、桓武天皇の時に、その神宝を山城国葛野郡の兵庫(京都府)へ運ぶのに延べ15万7000人が働いたが、異変があり、再び元の神庫に戻されたとも伝える。
  石上を支配していたのは、かの大化の改新に登場する物部(もののべ)氏。“モノ”は精霊を意味し、平安朝になったモノの怨霊と解せられて“モノノケ”といわれた。この“モノ”を取り扱うのに著しい呪術を伝えたのが物部氏で、中でも十種神宝をもって、天皇の霊を扱ったという。
大嘗祭(天皇が即位後、最初に行う新嘗祭)の時、物部氏が宮門の威儀に立ち、大楯を楯、弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行い、悪霊を追放する役目を務めた。
この呪術にたけ、部門の棟梁であった物部氏が、のちの“モノノフ=武士”の原型でもあるという。 

――同神宮パンフレットより

 

物部氏

★弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行い

 

岡原村での儀式

★弓引きの式

 

『太宰官内志』に
久米郷 
和名妙に球磨郡久米郷あり・・・
久米物部の住めりし處なるべし。

と記された旧球磨郡久米郷の岡原村(おかはるむら)に伝わる「弓引きの式」と

物部氏の「弓の弦を鳴らして鳴弦の呪術を行う」・・と言う記述が

私には偶然だとは到底思えないのですが、皆様はどうお感じになられますか?・・・・

 

実は、この「弓を使う儀式」。うちの「宮原家」は無関係ではありませんでした。

うちの「宮原家」の後を継いだ「星原家」の長女であるおば(現在82歳)から聞いたのですが

おばが、子供の頃に見た写真には

『私の曾祖父(宮原家の)が、弓を持って何かを行っている姿』が写っていたそうです。

おばが言うには、おそらく岡原霧島神社での事であろう・・との事でした。

私は、この話を聞いた時に

「何故?曾祖父は宮司でもないのに、そのような事をしていたのだろう?」

と疑問を感じました。

おばが言うには、「その写真は、探せば星原家にまだ残っているかもしれない」

との事でしたが、今、星原家を継いでいるおばの弟(戦後生まれの方)は

「自分は何も解らない」と言われるだけで、非常に残念です。

一度、こちらのおじ(戸籍上は私のふた従兄)に古い写真を全て見せてもらおう!と思っています。

 

 

前回のブログでありがたい御教示を ひぼろぎ逍遥 古川 清久様に頂きました。

ひぼろぎ逍遥 古川 清久様 ありがとうございます。

 

御教示頂いた

ひぼろぎ逍遥 古川 清久様の伊倉 天子宮は誰を祀るか?を拝読させて頂きました。

非常に勉強になりました。 ありがとうございます。

 

実は

伊倉008 天子宮は誰を祀るか? 008 “球磨地方の天子地名” を拝読させて頂き

私は、球磨の「二三ケ所」の天子の地名の分布を拝見して大変驚いた事があります。

http://hiborogi.sblo.jp/article/172715619.html

 

 

「二三ケ所」の内

錦町    一武の寺村。西村の京カ峰。木上の平良。平川にニカ所。

人吉市  大村の芦原。中原の中神と原田。
山江村  山田の合戦峯。万江の城内。

相良村  柳瀬の三石。
深田村  草津山。
免田町  久鹿。

全て、「平河氏」の所領地です。

 

さらに

多良木町 多良木の牛島。

湯前町  東方。

岡原村  天子水流。

は、橘氏の所領地であり「牛島」は橘氏縁故の「地名」です。

家の宮原家の親戚にも「牛島家」があります。

 

さらに

上村   榎田の八十別府と中別府。塚脇。麓。石坂。

榎田・塚脇・麓・石坂 全ての地区に家の親戚があります!

他、先に書いた

免田の久鹿(くしか)にも親戚があり、湯前町東方、多良木の牛島にも親戚があります!

どう言う事なのだろう??? 非常に驚きました!

 

岡原村 天子水流

ここは、旧宮原村の字「鶴」と旧岡本村の字「天子鶴」の事ですね。

字「鶴」と字「天子鶴」は、井口川(宮原村古地図には久米川とあり)を挟んだ場所に位置しています。

この両「字」を結ぶ橋が「天子鶴橋」です。

以前、ブログ『昭和初期の宮原家で撮られた写真』にアップさせて頂いた写真。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12123383239.html

 

昭和三十年初頭に新しく架けられた橋を代表で最初に渡る「平川家三代」

とは、「天子鶴橋」を村民代表として最初に渡る、祖母の実家「平川家三代」の写真でした。

 

平川家三代

 

先頭を歩くのが、平川家の私の曾祖父と曾祖母です。

後ろに祖母の長兄夫婦、その後ろが長男夫婦(私の父の従兄)。

実は、先に書いた「宮原の曾祖父の写真」について教えてくれた「おば」も写っています。

(長男の方の奥さんだったのですが、後に離婚されていらっしゃいます)

 

何故?当時の村長さんより先に、「平川家三代」が「天子鶴橋」の渡り初めを行ったのか?

全く不明です。

父は「三代に渡る家族だから、村の永い繁栄を祈ったんじゃないか??」とは言います。

しかし・・・・?? はたしてそれだけなのか・・

余談になりまして、申し訳ございません。

ひぼろぎ逍遥 古川 清久様の

伊倉008 天子宮は誰を祀るか? 008 “球磨地方の天子地名” を拝読させて頂き

地元、岡原の「天子地名」にも御着目頂けていた事を知り、私は、大変嬉しくなりました。

ありがとうございます。

私はまだまだ勉強不足で、未知識であります。

しっかりと勉強させて頂きますので、今後ともよろしくお願い申し上げます。

 

 

所で、皆様。

この「字 天子鶴」の井口川(旧久米川)を挟んだ真向かいが「字 風山」で、

昔は風の神をお祀りの祠があったそうです。

実はこの「字 風山」は、家の宮原家の所有地でした。

曾祖父から祖父への「家督相続」の書類には

字「馬場田」・字「外園」・字「和田」(全て)・字「高鳥」(全て)・字「三反田」(全て)・

字「風山」(全て)・他 等の土地が、曾祖父から祖父へと譲られた事が「家督相続書」

に記されていました。

(他にも、久米村・奥野村・岡本村・何故か?球磨村 にうちの宮原家の所有する土地がありました)

 

しかし・・昔は昔、今は今で・・・

昭和22年の農地改革で、土地の大部分が別の方に移りました。

しかし、宮原家の山や田地を継いだ星原のおじ(祖父の従姉の夫)は、その後、一生懸命働いて、土地の幾らかを買い戻して下さったそうです。

若くして亡くなった私の祖父も、先祖伝来の土地が幾らかでは戻り、喜んでいると思います。

私は、「宮原の土地を守って下さった」星原のおじを心から尊敬して感謝しています。

星原のおじは「岡原村村会議員議長」も務められました。

 

岡原村旧字位置図

中心近くを流れる「井口川(旧久米川)の右側が旧宮原村です。

北は球磨川方向になります。

岡原字

 

字「風山」には「岡原中学校」が建ちましたが、家には、当時、曾祖父が岡原村に土地を贈与した事が記された書類が残っています。

 

 

昨日、小学校の運動会のテントの片づけに行ったのですが、その際、秋を向かえた

旧久米郷にそびえる黒原山と麓の写真を『字 三反田』付近から撮りました。

よろしければ、皆様、ご覧ください(^'^)

 

山の麓に見える集落あたりまでが字「外園」・字「和田」・字「高鳥」・字「三反田」 です。

 

方向を変えて撮りました。建物(ライスセンター)は、字「和田」にあります。

 

中学校付近は、今では家が沢山建っているので、さすがに撮るのは控えました(..)

 

字「外園」の端から、稲積妙見が御鎮座であった「字 馬場田」の下方向を撮りました。

 

 

建物(家)の後方付近から、昔は緩い丘があり、その丘の上に「稲積妙見」が御鎮座だったそうです。

今は、農地構造改善により、当時と風景が一変してしまったそうです。

 

実は、このお家がある場所が・・元の、「うちの宮原家」でございました(..) (今は星原家です)

後方先には、球磨の霊峰「市房山」が大きく見えます。

(昨日はあいにく雲に覆われていました)

写真右側が、黒原山方向になります。 

東側真正面には市房山、南側真正面に黒原山、西側真正面に白髪岳、が見える位置に、うちの「宮原家」は建っていたようです。(ようやく、昨日理解出来ました)

 

この「字 馬場田」なのですが、別の場所に家が移っても、家の「宮原家」の本籍は、

「馬場田からは絶対に動かしてはいけない!」

と、父は教え込まれていたそうです。 理由は・・・解りません。

この事で、私も非常にややこしい目に遭った事があります・・・・(父が絡んでおります(..) )

 

最後に 「字 外園」の端、幸野溝の下から写した久米郷の山々をご覧ください。

 

 

電柱の奥に見える手前の低い山が「金山」。

ここが、かの『肥後宮原銀山』でございます。

右側の低い山が「宮原城跡」です。

左端が「妙見山」です。

 

旧久米郷宮原村も秋を迎えました(^'^)

 

次回 『球磨弁とヘブライ語』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12410694963.html