前回のブログ『(再追記あり)石杵と赤いお顔と王冠の御神象 古代の井処』より続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12547026537.html
私が球磨から発信するこのブログにご興味を抱いて下さる方々に
心より感謝申し上げます。
前回のブログも沢山の方々に御覧頂けました。
ありがとうございました。
初めに
前回のブログでウィキペディアの記述から邪馬台国(連合国)と狗奴国について触れましたが、私は・・・・最後は一つになった
と考えています。
邪馬台国とは古代連合国の一時的な名称にしか過ぎない・・・
と私は考えています。
今回のタイトルは 球磨の少年が発見していた有肩打製石斧と鯨の骨の写真と「丹」の神様 です。早速(p_-) <m(__)m>
①球磨郡深水村(現相良村深水)で発見された有肩打製石斧
発見された方は1953年18歳の若さで天国へと旅立たれた球磨郡あさぎり町免田の遍照寺様の御子息でした・・
球磨郡の縄文時代の地層から発見された有肩打製石斧については過去ブログでも何度も取り上げさせて頂きました。
最近ではブログ『古代からの井処(いどころ)球磨と繋がる方々』でも触れています。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12543056818.html
稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。
私は幸運にも「有肩打製石斧」の現物を拝見する事が出来ました!!!
\(◎o◎)/! \(^o^)/
11月23日、求麻郷土研究会の例会で、球磨郡あさぎり町免田(旧免田町 ※面田)の
「高野山 遍照寺(へんしょう寺)」様で毎年行われる庚申祭に参加させて頂きました。
※求麻郷土研究会の庚申祭の由来について
「遍照寺」様の先代のご住職『故 井上快竜氏』は求麻郷土研究会の前身である『免田郷土研究会』の初代会長をお務めになられた御方です。
昭和五十五年(1980年) 庚申塔建立 免田郷土研究会 資料によると
『故 井上快竜氏』の三回忌の年であった昭和五十五年(1980年)が六十年に一度の庚申の年にあたり、当時の免田郷土研究会の方々が『故 井上快竜氏』がご住職をお務めになられてた免田の「高野山 遍照寺(へんしょう寺)」様の本堂の前庭に庚申塔を建立されて、昭和五十五年(1980年)十二月十三日夜(六十年に一度の庚申の年の最後の庚申の日)に庚申待を行われました。
求麻郷土研究会の庚申祭の由来となります。
こちらの庚申塔は『全国で最も新しい庚申塔』となります。
庚申塔建立の目的は『全国で最も新しい庚申塔』を郷土研究に御貢献された『故 井上快竜氏』がご住職をお務めになられた免田の「高野山 遍照寺(へんしょう寺)」様に!
であった事が若輩者の私にも理解出来ました。
庚申祭の後、現在求麻郷土研究会の会員でもいらっしゃる
熊本県立装飾古墳館 元館長 木﨑康弘先生による講習会が開かれました。
2017年6月発行の木﨑先生の著書
『肥後と球磨
その原史世界に魅せられし人々』
肥後と球磨の考古学史
は、発行直後、私はすぐに買わせて頂きました。
書店で書籍の表紙を拝見した瞬間『わ~っ!!カッコイイ”タイトル”』と心釘付けとなり、すぐにその場で購入したのですが、その木﨑康弘先生が求麻郷土研究会の会員となられて、例会にて度々貴重なお話を伺う事が出来る事がとてもありがたく、私は本当に幸せな恵まれた環境で勉強させて頂いている事に感謝、さらに、ここ数年の沢山の方々との出会いに感謝しております。
今回の講習会の内容は、
木﨑先生が2015年に週刊ひとよしに連載された
『 球磨の考古地誌Ⅱ 弥生時代の球磨 』石包丁を見つけた猪(いい)ちゃんの話 の主人公でいらっしゃる球磨の考古学に貢献された遍照寺様の御子息『井上猪一郎氏』のお話でした。
不思議なご縁にて木﨑先生は『井上猪一郎氏』の発見された石包丁の資料(昭和26年)と出会い、その資料との出会いから『井上猪一郎氏』と言う方に興味を抱かれ、さらに、次々と続く不思議なご縁にて『井上猪一郎氏』の御生家「遍照寺様」まで辿り着かれたそうです。
『井上猪一郎氏』は小学生の頃から球磨の考古学に興味を抱かれた考古ボーイでした。当時の新聞にも、その類まれな才能が掲載され、「小学校低学年の頃から考古学に興味を覚え、今では膨大な遺物を集めている」と言った内容だったそうです。
当時、県立球磨農業学校(現在の熊本県立南陵高校)の教員でいらした乙益重隆先生(※後の國學院大學教授)も「すばらしい考古ボーイがいる。井上猪一郎といって免田小学校の六年生だ」とおっしゃっていらしたそうです。
井上猪一郎氏は小学生の時から乙益重隆先生(※後の國學院大學教授)、さらに球磨の歴史研究家として貢献された高田素次氏とも交流を重ね、18歳までの間に、膨大な遺物(資料)を自らの手で集めていらっしゃいました。球磨だけではなく、九州内の様々な土地まで行かれて、収集をされていらっしゃったそうです。
1953年(昭和28年)、高田素次氏が書かれた『新球磨風土記』が熊本大水害でずぶぬれになった為、刷り直しとなりようやく1か月後に発行出版となった際は井上猪一郎氏は自ら熊本までもらいに行かれて、人吉高校の文化祭で売って下さったとのお話がありました。
木﨑先生は『そのエピソードには若き高校三年生では想像も付かないようなバイタリティーが、そしてまた高田への愛情が透けてみえる』と『球磨の考古地誌Ⅱ 弥生時代の球磨』石包丁を見つけた猪(いい)ちゃんの話の中で書かれていらっしゃいます。
しかし、その2か月後、「京都大学で考古学を学びたい」と言う希望を持たれていた1953年(昭和28年)12月17日。井上猪一郎氏はわずか18歳の若さで白血病により天国へと旅立たれて行かれました・・・
木﨑先生は、先に書いた『新 球磨風土記』のエピソードを講習会でお話されていらっしゃる時に唇を震わせて涙を浮かべていらっしゃいました。
私も、こみ上げてくる涙を抑えきれなくなりました・・・
井上猪一郎氏が収集された膨大な遺物(資料)は「遍照寺様」で大切に保管されていらっしゃいました。
講習会の後、その遺物(資料)を拝見する事が出来ました!
小学校低学年の時から18歳まで井上猪一郎氏が自らの手で収集された遺物を目の前にして私は非常に驚きました。
膨大・・・言葉では言い表せない「数」であり、そこには井上猪一郎氏が生きた証がしっかりと残されていたのです。とても感動して、私は井上猪一郎氏の御遺影に手を合わせて「拝見させて頂きます。ありがとうございます。」とお伝えしました。
しかし・・ど素人の私は目の前の素晴らしい資料を見ても、実の所、何が何だか良く解らないでいたのですが、そんな中、木﨑先生が箱の中から一つのかけら(私にはそう言う風にしか見えない物(@_@。)を手に取られて
「ほら!これが鯨の骨ですよ!」
と教えて下さいました。 そうです!!私がブログ『常識を覆した球磨からの出土品 鳥が先か卵が先か・・』でご紹介させて頂いた『あの鯨の骨でした』!
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12464570216.html
熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 より
鼓ケ峯遺跡では瀬戸内地方で一般的な船元式土器が出土していて、その人吉盆地への
入り方が問題となる。また、この二つの遺跡から見つかった、底部に鯨の脊椎骨の痕跡が残る土器は興味が湧く。ただし、この時期は遺跡数も少なくて、その様子がはっきりしていない。
木﨑先生は『土器を作る際に土をこねる台の上に鯨の骨が偶然あって、それが混ざってしまったのでしょう』とおっしゃっていらっしゃいました。
私は、『あっ・・あの鯨の骨!! ぎえ~っ!! 凄~い!! 井上猪一郎さんが発見されていらしたのですか!!!』
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
と思わず叫んでしまいました・・・!!(お恥ずかしい・・)
私は、ブログに書いていた鯨の骨が、まさか!目の前に現れるとは夢にも思わず、大興奮致しました!
皆様、ご覧下さい!こちらが縄文時代の土器の底部にくっ付いていた鯨の脊椎骨です!
手に取って見たのですが、明らかに「石」とは違い「命」を感じました(p_-)
(なんちゃって・・)
さらに、私が沢山の箱の中を何だろうこれは(?_?)と思いながら覗いていると・・
木﨑先生が、私には先の尖った石にしか見えない物を手に取られながら「石斧ですね」と教えて下さいました。
「石斧・・!? では有肩石斧ではないのですね?」と伺うと
「有肩打製石斧はこちらです」 と
えええええ~っ!!有肩打製石斧 えええええ~っ!! と私はさらに大興奮となりました!
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
井上猪一郎さんは当時すでに有肩打製石斧を発見されていらっしゃったのです!!!
球磨郡錦町木上の大原天子遺跡からの発見よりずっと以前に発見されていらっしゃったのです!
有肩打製石斧
稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。
皆様、こちらがその!有肩打製石斧 です!!
熊本県球磨郡相良村深水(旧深水村)で
井上猪一郎さんが発見されていた有肩打製石斧
くびれた所が有肩と言われる部分です!
※後で、会員の考古学専門の方に伺ったのですが・・・
縄文時代 との事でした(p_-)
球磨郡あさぎり町の弥生時代の遺跡からも大量の有肩打製石斧が出土しているそうです(p_-)
私は、有肩打製石斧を握ってみたのですが、縄文時代の方々、今、このブログで調査している方々が使用された有肩打製石斧が自分の手の中にある・・と感動して涙が出そうになりました。
さらに、免田式土器
美しい重弧紋をご覧下さい(^'^)
私はまじまじと目の前で見たのは初めてで(殆どはガラスケース越し)文様の美しさだけではなく、何と言うか・・とても薄く精巧に作られている事に感動しました。
「薄い~!よほど、手の器用な弥生人がこの辺りに住んでいらしたのですね~!!」
と言うと、皆さん笑って「そうですね(^'^)」と言われていました。
(ど素人の私の感動にお付き合い下さる、お優しい方々です<m(__)m> )
さらに、とても珍しい免田式土器
何が珍しいのかと言いますと・・・(p_-)
壺の口の部分が「この形」は免田式土器として非常に珍しい・・とのお話でした。
ど素人の私には「縄文土器」と「免田式土器」の融合?のように見えました・・・
私、触ってみたのですが・・弥生時代の人達の生きた証に触れて、当時の方々の心に触れたようで、とても温かく感じました(^'^)
(え~っ!!?触ったのかい!? (ー_ー)!! とのお声がいずこから聞こえたような・・
ハイ(^'^) 手のひらでソっと触りました (*^-^*) )
私は幸せ者です。
ブログで書いていた古代の方々の生きた証に直接手を触れる事が出来た事を
天国の井上猪一郎様に感謝申し上げました。
井上猪一郎と言う方が、生きた証、短くも素晴らしい人生だったと言う証に触れて感動致しました。
でも、井上猪一郎さんは、ご存命であれば考古学の世界で大活躍された方だったことは間違いないと断言出来る御方です。
さぞ、ご無念だったろう・・とあらためて若き希望に胸が痛みました・・・
実は、この時に、木﨑先生や会の皆さんに『旧岡原村熊野で縄文時代の石杵が発見されていた』と言うお話をさせて頂いたのですが、皆さんご存じありませんでした。
「えっ!!石杵が知らなかった!?」と口々におっしゃっていらっしゃったのですが
「現物が何処にあるのか」も皆さんご存じありませんでした。
ただし、ネットで資料公開されている・・と言う事は確実に何処かに保管されている事は間違いないとの事だったのですが・・・
あさぎり町には保管されていないとの事で、一体、何処に保管されているのか・・
速報!(再追記あり)縄文時代の遺跡から石杵が出土していた私の住む村 古代の井処
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12545434168.html
で、宮广様から辰砂(水銀朱)について伺った際に
『槻木の辰砂(しんしゃ)については求麻郷土研究会の住吉先生が特に詳しく、以前、求麻郷土研究会の例会で、辰砂(しんしゃ)採掘地に会員の方々と伺って見てきたけれど、とても赤い石が確認出来ました。』とのお話でしたので、住吉先生にもお伝えしたのですが
住吉先生は「石杵が出土していた!素晴らしい! 自分は、岡原から黒原山を超えて辰砂(しんしゃ)が行き来していたと言うルートも考えていたので、教えてくれて本当にありがとう!」
とお喜びになられていたのですが、現物が何処にあるのかが解らない現実が私にはとても悔しく感じました。
辰砂(しんしゃ)と出土した石杵の関係を「加工用」と関連付けする為には、石杵から水酸化銀の成分が見つからなければ考古学的な資料とはならないのですよ・・
と木﨑先生はおっしゃいました。
しかし・・その石杵が所在不明・・・
先にも書いたように『ネットで資料公開されていると言う事は何処かに資料として保管されているはず』との事でしたので、私なりに、今後もしっかり追跡して行こう!!と心に決めました。
余談ですが免田の井上猪一郎さんの御生家「遍照寺(へんしょう寺)」様には、私の祖母が生前大変お世話になっておりました。
2014年に書いたブログ『球磨郡久米郷宮原の里に帰ってきました』(アメンバー限定記事)
では
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-11742582917.html
当時(2014年)、小倉に住んでいた私が、久しぶりに実家に帰省した際に、父がどうしても外す事が出来ないでいた、祖母が毎年大事に貼らせて頂いていた「遍照寺(へんしょう寺)」様のお札の写真を載せていました。
祖母は毎年「遍照寺」様から頂いたお札を、北九州に住む私にも送ってくれていました。
当時の私は祖母の温かい心と「遍照寺」様のお札に見守って頂いている・・と辛い日々を乗り越えて行く「心の支え」となっておりました。
祖母が亡くなってからはもちろん、お札は私の手元には届く事は無くなったのですが、父は祖母の思い出として、このお札を剥がす事がずっと出来ないでいたのです・・
私が球磨に戻って4年半。求麻郷土研究会に参加させて頂いて4年以上が過ぎました。
毎年「遍照寺」様に庚申祭でお伺いするたびに、祖母の温かい優しい気持ちを思い出していました。
そして、今回、「遍照寺」様に保管されている井上猪一郎さんが発見された貴重な品を拝見して、手に触れて、ご縁とは不思議なものだ・・とあらためて感じました。
帰宅後、父に例会の話をしていた時に、ふ~っと「遍照寺」様のお寺の名前で以前から気になっていた事が頭に浮かびました・・・
祖母方の平河氏。本姓は「良峯」。祖は良峯安世。良峯安世の子息「遍照」(良峯宗貞)
ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%8D%E6%98%AD
遍昭(へんじょう、弘仁7年(816年) - 寛平2年1月19日(890年2月12日))は、平安時代前期の僧・歌人。俗名は良岑 宗貞(よしみね の むねさだ)。大納言・良岑安世の八男。官位は従五位上・左近衛少将。花山僧正とも号す。六歌仙および三十六歌仙の一人。
父に、この事を話すと
『何でもこじつけたらダメだ!「遍照寺」様の遍照とは遍照金剛、弘法大師様、つまり空海様の事ではないのか?』
と言われました。
空海様・・?? お父さん!私の疑問はこじつけじゃない!かもしれないよ!!
と思わず私は叫びました。
先日、おちゃも様へのコメントの返信に書いたばかりだったからです!
良峯安世 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%AF%E5%B2%91%E5%AE%89%E4%B8%96
人物
若い頃から狩猟を好んで、騎射を能くした。一方で書物の読解も得意とし、始めに孝経を読んだ際、儒教の教えここに極まると嘆息したという。また、歌舞・音曲など多くの伎芸も身に付けていたとされ、天長2年(825年)の嵯峨上皇の40歳を祝う宴では、中納言という高官ながら
冷然院正殿の南階から降りて舞を踊ったという。
漢詩に優れ、作品が『凌雲集』に2首、『文華秀麗集』に4首、『経国集』に9首が入集している。また、空海との親交でも知られ『性霊集』には安世に贈られた詩が多数収められている。
良峯安世 父:桓武天皇、母:百済永継(百済第24代の王『東城王』の末孫)
空海との親交でも知られ『性霊集』には安世に贈られた詩が
多数収められている。
父にこの事を話したら、父は
「球磨の平河一族のご先祖様、ばあちゃんのご先祖様は空海様と親交が厚かったとは素晴らしいな~ 嬉しいな~!」と感慨深げに・・・
(私 球磨の平河一族のご先祖様、ばあちゃんのご先祖様って、お父さんのご先祖様でもいらっしゃるのだから・・解ってるのかな? 面白い(ー_ー)!! でも父さんは毎晩般若心境を唱えているから感慨深いのだろうな~・・ あれまてよ・・と言う事は・・私のご先祖様でもいらっしゃる訳だから・・・ああああ~(@_@。 きっとご先祖様は私の至らなさにお嘆きだろうな~トホホ(@_@。 )
私は、(p_-) やはり何かありそうだ!
と考えました。
空海様と辰砂の関係についてネットでお書きの方々が多数いらっしゃる事は存じております(p_-)
この事から、祖母方のご先祖様をあらためて調べた所、また別の大発見を致しました!
良峯安世 父:桓武天皇、母:百済永継(百済第24代の王『東城王』の末孫)から派生した良峯氏は 後漢帝国に由来し、霊帝の末裔を称している東漢氏の阿知使主を始祖とする坂上氏の一族と姻戚関係にあった事に気が付きました。
\(゜ロ\)(/ロ゜)/
この事は次回以降に詳しく書かせて頂きます。
さらに気が付いた事があります!
地元の縄文時代の遺跡から発見されている石杵
この石杵が所在不明だからと言って、何も出来ないでいる事に不甲斐なさを感じていた時に
私は気が付いたのです。
私には、考古学的資料だけではなく、今まで皆様方から頂いた、沢山のありがたいご教示がある!と言う事を。
丁度、一年前。ブログ宮原誠一の神社見聞牒の宮原様と古川様が私の家にお越しになられました。
お二人は神社様の御祭神をご研究なさっていらっしゃる方々です。
沢山の方々との巡り合わせは全て、大きな御力のお導きだと私は考えています。
神社様の御祭神・・・
と考えながら、前回のブログでご紹介した「図」を見ていました。
丹生神社様・・・・
お調べした所
丹生川上神社様の御祭神と、私が毎日見上げている地元の黒原山頂上付近「あまひき嶽」に御鎮座の雨引神社様の御祭神は
同じ神々様でいらっしゃる事が解りました!
丹生川上神社様の御祭神と
雨引神社様の御祭神は
同じ神々様
詳しくは次回書かせて頂きます。
今回は18歳の若さで天国へと旅立たれた御方が残された貴重な遺物に触れる事が出来た感動を皆様方にぜひお伝えしたいと考えて、ご紹介させて頂きました。
今を生きる私は、自分に出来る事を精一杯勉強して、球磨の歴史を皆様方にしっかりとお伝えして行こう! あらためて、心に誓いました。
次回『No200 千早振る神の残せし姿 極意秘密 と縄文時代の日本国外への脱出』に