前回のブログ『球磨の台地に広がる遺跡 さらに大和の言葉』 から続きます。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12463574424.html
2019/05/29 14:50 追記
最下部に追記を書かせて頂きました。
前回は球磨盆地を東西に流れる球磨川の北岸に広がる台地について、簡単ではありますがご説明をさせて頂きました。
今回は、ご紹介させて頂いた『台地』の各所の『遺跡』からの『出土品』についてと・・・
後半では、少し(かなりかな・・)危険?な お話『鳥が先か卵が先か・・』と言うお話(意味深)を書かせて頂こうと思います<m(__)m>
実は、ここ数日考えたのです。
球磨を調べるにあたり、邪馬台国や狗奴国と言った
そんな新しい時代の事から考えたって真実には到達出来ない!(ー_ー)!! と・・・
もっと、以前(古い)の時代に『覆い隠す事』があったからこそ、球磨は影の存在に仕立て上げられてしまった・・
『覆い隠す事』とは・・おそらく縄文時代中・後期から晩期にかけての事ではないか(p_-)
と私は『本日』以下に知った事により「そう考える」に至りました。
おそらく、今回私が書くことは、皆様方の今までの常識を覆す「記録」についてです。
今回の内容は「永久保存版」になると思います・・
以前にもご紹介させて頂きましたが
球磨の高原台地(たかんばる)の『夏女遺跡』 については
奈良文化財研究所様のサイト内「全国遺跡総覧」から
熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 をダウンロードして読む事が出来ます。
http://sitereports.nabunken.go.jp/ja/search?all=%E5%A4%8F%E5%A5%B3%E9%81%BA%E8%B7%A1
熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 の中で
『常識を覆した』縄文時代の出土品が発見
された球磨の遺跡について記されていた事を
初めて知りました!
その事も含め、まずは球磨の遺跡全体の概要を転記させて頂きます<m(__)m>
熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 より
(1)先土器時代
夏女遺跡では、先土器時代に属するナイフ形石器1点が出土した。
球磨・人吉地方の先土器時代遺跡は、今日までに42箇所が見つかっている。ナイフ形石器文
化以前1遺跡(深田村中里遺跡)、ナイフ形石器文化27遺跡、細石器文化12遺跡、不明6遺跡
がその内訳である。
ナイフ形石器文化では、人吉市血気ケ峯遺跡でみつかった石器文化がもっとも古い。
台形石器や刃部磨製石斧が伴うもので、今から3万年ほど前のものである。次に古い石器文化が山江村狸谷遺跡で見つかった狸谷I石器文化(木崎・隈1987)である。ナイフ形石器、
掻器、削器挟入石器、彫器、磨石・敵石等の多くの石器が出土した。出土層位が入戸火砕流の直下にあり姶良T、火山灰降灰(以後、ATとする)直前の段階である。この他、球磨村久保遺
跡など盆地内でも数遺跡がみつかっている。その意味で、人吉盆地は、AT直前の様相を知る上での貴重な資料を提供する地域の一つに数えられる。
★補足 ATとは・・・姶良T、火山灰降灰(入戸火砕流)ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%88%B8%E7%81%AB%E7%A0%95%E6%B5%81
入戸火砕流(いとかさいりゅう、いりとかさいりゅう)は、約2万5千年前に姶良カルデラの大噴火で発生した大規模な火砕流。
転記を続けます<m(__)m>
AT以後のナイフ形石器文化は、剥片尖頭器や三稜尖頭器、台形石器、切出形ナイフ形石器
などによって特徴づけられる。人吉市白鳥平遺跡では、剥片尖頭器や三稜尖頭器が発掘されている。同じく人吉市天道ケ尾遺跡、同市鼓ケ峰遺跡、同市村山・闇谷遺跡、同市血気ケ峯遺跡山江村大丸・藤ノ迫遺跡、同高城遺跡、狸谷遺跡でも関係する石器文化が検出されている。夏女遺跡で見つかったナイフ形石器は、この時期のものである。
細石器文化の遺跡としては、山江村城馬場遺跡があり、たくさんの細石核や細刃器が出土した。また、人吉市白鳥平遺跡でも当該期の資料が出土している。
(2)縄文時代
夏女遺跡では、後期から晩期にかけての石器が出土している。
人吉盆地では、草創期の遺跡が数遺跡見つかっている。
もっとも古いものは、山江村狸谷遺跡と多良木町里城遺跡で、隆起線文土器が伴っている。石器としては、前者が細石器で、後者が細石器と石鍍である。次に来るのが白鳥平II遺跡で、爪形文土器が伴っている。石鍍が一緒に出土していて、この時期になると細石器が消滅することがわかる。
早期の遺跡では、球磨村大瀬洞穴遺跡と同村高沢洞穴遺跡が有名である。いずれも石灰岩地帯にある鍾乳洞の遺跡で、骨や貝殻などの保存に適した条件を備えている。
出土した動物関係の資料には、鹿の骨の他、アワビ・ハマグリなどの海の貝殻が発掘されている。このように、海との関係を示唆する貝殻が出土したことは、縄文時代早期社会を考える上でとても重要なデータである。
早期社会と言えば、山江村狸谷遺跡で当時の竪穴式住居跡が検出されたことが想起される。今後の資料増加によって、さらに細かい検討が可能となろう。
また、縄文時代早期の壷形土器が出土したとして有名になった山江村城馬場遺跡、塞ノ神式土器を多く出土した大丸・藤ノ迫遺跡、押型文土器で著名な村山遺跡群、多様な種類の手向山式土器が発掘された天道ケ尾遺跡など、数多くの遺跡が盆地内で見つかっている。
その発見される場所は、台地や丘陵地だけではなくて、山地内にもある。球磨・人吉地方でもつもと多くの遺跡が残されている時期である。
前期では、人吉市鼓ケ峯遺跡で轟式土器と曽畑式土器が多く出土している。また、人吉市八
峰遺跡で快状耳飾りが採集されている。伴出土器は、墨式土器が予想される。曽畑式土器は、人吉市棚平遺跡で採集されている。
中期の遺跡では、球磨村の大無田周辺で数遺跡がみつかっているが、表面採集の資料である。発掘資料としては、人吉市鼓ケ峯遺跡や湯前町米山遺跡がそれにあたる。
鼓ケ峯遺跡では瀬戸内地方で一般的な船元式土器が出土していて、その人吉盆地への
入り方が問題となる。また、この二つの遺跡から見つかった、底部に鯨の脊椎骨の痕跡が残る土器は興味が湧く。ただし、この時期は遺跡数も少なくて、その様子がはっきりしていない。
後期になると遺跡数も増える。発掘例としては、鼓ケ峯遺跡がもっとも古い土器を出土して
いる。南福寺式土器や出水式土器がそれで、このようにまとまって土器が出土したのはこの遺跡の他には、湯前町米山遺跡があるくらいである。
天道ケ尾遺跡は、西平式土器が出土しているので、後期の中頃の遺跡である。
後期の終わりから晩期にかけての遺跡としては、人吉市中堂遺跡が重要である。
辛川式土器、三万田式土器、天城式土器の時期の集落遺跡として著名である。
なお、この遺跡では晩期になっても集落は継続し、古閑式土器や黒川式土器の住居跡も発見されている。主な石器や石製品では、十字形石器や円盤状石器など後期末から晩期にかけての特徴的な石器、長崎輩翠製の玉類、及び生業関係の石錘(漁業)や打製石斧、そして佐賀県腰岳からもたらされた黒曜石などがみつかっている。北部九州との関係を考える上でも注目に値しよう。
上記した中堂遺跡の他、人吉市アンモン山遺跡もある。黒川式土器のほぼ単純な遺跡で、打
製石斧も数多く発掘されている。また、球磨村近江原遺跡では、石刀の柄の部分が採集されている。
弥生時代との境あたりの年代の遺跡もある。例えば、相良村の中学校庭からは夜臼式土器の深鉢形土器が出土しているし、多良木町の思川でもその壷形土器が見つかっている。
また、黒川式土器の中でもっとも新しい頃の土器が、錦町大原天子遺跡や人吉市七地遺跡などで出土した。
特に、大原天子遺跡では、それまで縄文時代には無いと考えられてきた有肩打製石斧が出土していて、物議を醸しだしそうだ。
以上 熊本県文化財調査報告 夏女遺跡 2歴史的環境 より
※大原天子遺跡では、それまで縄文時代には無いと考えられてきた有肩打製石斧が出土
この事がいかに重要な事なのか、私は全く今まで理解出来ていませんでした・・・
有肩打製石斧とは コトバンク様より
https://kotobank.jp/word/%E6%9C%89%E8%82%A9%E7%9F%B3%E6%96%A7-144704
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
磨製石斧の頭部両側に肩部をつけた石器。硬質の岩石を選び板状につくられ片刃のものが多いが、肉厚な方柱状のものもある。マレー半島部のタイを除くタイ全域、ベトナム、カンボジア、ラオス、中国南部の水稲農耕文化発生地域に広く分布する新石器時代末の特徴的石器。本来のものは手斧(ちょうな)的な木工具と考えられる。
中国の長江(揚子江)南部杭州(こうしゅう)付近からも数例の出土品が報告され、わが国の弥生(やよい)文化の遺跡からも長さ5センチメートル前後の小形品が3例ほど出土している。
松本信広は、水稲農耕文化が東南アジア圏からの波及に伴い、言語、神話伝承などとともに渡来したものではないかとする考説を発表した。本来のものは最小長さ7センチメートル前後、大きなものは20センチメートルを超すものもあり、弥生文化遺跡出土のものは本来の有肩石斧の用途を失ったものと思われる。
近年、西九州地方長崎県島原半島、熊本県南西部などで、縄文文化後期末ないし晩期の
遺跡から長さ10センチメートル前後の硬質な岩石でつくられた片刃変形有肩石斧が発見されており、稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。
以上 コトバンク様より
※近年、西九州地方長崎県島原半島、熊本県南西部などで、縄文文化後期末ないし晩期の遺跡から長さ10センチメートル前後の硬質な岩石でつくられた片刃変形有肩石斧が発見されており、稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになった。有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。
上記の・・熊本県南西部 とは
球磨郡の錦町大原天子遺跡
※大原天子遺跡では、それまで縄文時代には無いと考えられてきた有肩打製石斧が出土
\(◎o◎)/! うっそぉ~ えええええ~っ!!!\(◎o◎)/!
なんで!!?どうして!!?
このような、古代の『謎』に関わる『最重要』とも言える、出土品が球磨でも見つかっていたのに日本の考古学会の方々はこの事を大々的に研究しないのだろう!!???
その理由を教えてくださ~い!!\(゜ロ\)(/ロ゜)/と私は叫びたい!気分です
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説でも何故でしょうか・・
長崎県島原半島 つまり「島原」は地名を明記しているにもかかわらず、球磨郡は単に
「熊本県南西部」と記されているだけです・・・
凄く・・悲しい このまま放置されるのでは・・と、とても不安です。
ど素人ですが、単純に先祖を調べているだけの私ですが
私の調査にご興味を抱いて下さる皆様にお願い申し上げます。
球磨郡の錦町大原天子遺跡ではそれまで縄文時代には無いと考えられてきた水稲農耕文化には欠かせない有肩打製石斧が出土していた
この事をぜひとも、ご記憶に留めて頂きたい!と心よりお願い申し上げます。
奈良文化財研究所様のサイト内「全国遺跡総覧」から
熊本県教育委員会 1998 『大原天子遺跡1』熊本県文化財調査報告138 をダウンロードしてご覧いただけます。
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/16417
熊本県教育委員会 1998 『大原天子遺跡1』熊本県文化財調査報告138 より
なお、この時代(縄文晩期)の遺物としては、C-4区を中心とした一角から、集中して「山ノ寺
式」相当の、浅鉢・深鉢などが出土している。土器は粗製土器、および黒色磨研系の2種
が認められる、出土総数は831点である。
また、ほぼ同様の分布で、石器が出土している。打製石斧が、15点、くさび型石器2点、
黒曜石剥片62点、また注目される石器では「有肩打製石斧」が9点出土したほか、それら
石器の素材としての剥片が41点と多数出土している。
これらの少ない遺構と、遺物の出土のあり様は、当遺跡の‘性格を考える上で重要である。
以上 熊本県教育委員会 1998 『大原天子遺跡1』熊本県文化財調査報告138 より
★「有肩打製石斧」が9点出土
どうぞ、皆様、しっかりとご記憶の程よろしくお願い申し上げます。
実は、球磨の台地部分の遺跡の中で、前回言及した「須恵」について全く知らなかった事がありました。
球磨郡あさぎり町深田の小枝遺跡についてです。
奈良文化財研究所様の 全国遺跡報告総覧 の中で
熊本県教育委員会 2007 『小枝遺跡1』熊本県文化財調査報告237 をダウンロードしてご覧頂く事が出来ます。
https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/15924
熊本県教育委員会 2007 『小枝遺跡1』熊本県文化財調査報告237 の中の73ページに
私が全く知らなかった球磨の「須恵」・「須恵器」について記されていました。
熊本県教育委員会 2007 『小枝遺跡1』熊本県文化財調査報告237 の中の72・73ページ より
縄文土器は、晩期のものが大半を占めている。黒色磨研土器と粗製土器が中心である。
黒色磨研土器は非 常に丁寧な処理を施してある。第42図31のように器形的におもしろいものも出土している。縄文早期と思わ れる押型文土器も出土したが、それが伴う遺構は確認できなかった。
石器は、打製石斧に石材の荒割り時の工夫の跡が確認できるものがある。また、打製石斧は柄に抉りを入 れているものが多く、この形態のものが多いことは本遺跡の打製石斧の特徴といえるだろう。石器の石材は、 石斧のようなやや大きめのものは地元の石を使用していると思われる。石鏃のような小型品も、桑ノ木津留 や日東などの比較的近くの産地の黒曜石を使用しているが、腰岳、姫島などの遠方の黒曜石も存在すること は注目すべきである。
石器組成をみると、石鏃が最も多く、食料加工用の石器は少なかった。そのため弓矢 を用いた狩猟や、弓矢で球磨川の魚を捕ることが多かったと考えられる。
土師器は、墨書土器が出土した。土師器の坏は、S008出土のものと器形・調整が類似するものが多いため、 同様の技術を持った人たちが本遺跡の周辺で生産していたと推測できる。また、これらの土師器は明らかに ロクロ成形したものであるため、須恵器製作集団が関与していたことも考えられる。本遺跡東方にある高山 には未調査の須恵器窯跡、瓦窯跡が存在するということなので、それらにも関係してくる課題といえる。
中世の遺物は、灯明皿と陶磁器が出土した。これらは西に隣接する中世城の深田城や、本遺跡の東方にあ る中世城の高山城と関連のある遺物だと思われる。
理化学分析
発掘調査で出土した須恵器のうち13点は、胎土蛍光X線分析を行った。
その結果、球磨郡錦町の下り山窯 跡産と推定される須恵器が数点あることを確認できた。
これらの須恵器は肉眼観察においても下り山窯跡産 と考えていたもので、蛍光X線による胎土分析結果は肉眼観察による産地推定を裏付けるものであった。
また、下り山窯跡産以外のものについては、肉眼観察では焼成や胎土などから3~4のグループに分ける ことができる。これは胎土蛍光X線分析でも同様の結果が出ていることからも裏付けられる。この各グルー プの相違は、産地の違いによるものと思われる。
球磨地域では古代になると下り山窯跡をはじめ、いくつか の窯跡が成立し須恵器生産を開始する。そのため下り山窯跡産とされたもの以外は、球磨地域内の別の窯跡 の製品であるとも考えられる。ただ、他地域の須恵器の特徴をもつものも出土していることから、球磨地域 外の生産地から供給されたものもあると考えられる。
球磨地域は、古墳時代中期(TK216~ TK208型式)の須恵器が確認されており、熊本県内で最も早い段 階に須恵器が導入される地域の一つである。しかし、球磨地域で須恵器生産が開始されるのは古代からであ るため、球磨地域への須恵器の流通状況を検討するためにも、須恵器の生産地推定は重要な課題であるとい える。
以上 熊本県教育委員会 2007 『小枝遺跡1』熊本県文化財調査報告237より
※球磨地域は、古墳時代中期(TK216~ TK208型式)の須恵器が確認されており、
熊本県内で最も早い段 階に須恵器が導入される地域の一つである。
※しかし、球磨地域で須恵器生産が開始されるのは古代からであるため、球磨地域への
須恵器の流通状況を検討するためにも、須恵器の生産地推定は重要な課題であるといえる。
知りませんでした・・・
球磨地域は『熊本県内で最も早い段 階に須恵器が導入される地域』であった・・とは
全く知りませんでした・・・
さらに・・・
しかし、球磨地域で須恵器生産が開始されるのは古代からである・・・
球磨地域への須恵器の流通状況を検討するためにも、須恵器の生産地推定は重要な課題
須恵器は全国どこでも見つかっているものだから・・と今まで全く重要視していませんでした・・でも、球磨と須恵器の関わり、いえ、古代須恵氏との関わりは
そんな簡単なものではない! と言うことがようやく理解出来ました。
須恵器は古墳時代からの物・・・そんな常識は何方が決められたのでしょうか・・?
須恵器 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E6%81%B5%E5%99%A8#cite_note-1
須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、初期の須恵器は半島のものと区別をつけにくいほど似ているが、用語としては日本で製作された還元焔(かんげんえん)焼成の硬質の焼物だけを須恵器という。朝鮮半島のものは、普通名詞的に陶質土器と呼ばれるか、伽耶土器・新羅土器・百済土器などもう少し細分した名で呼ばれている。
中略・・・
歴史
古墳時代
高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したとの記述がある一方、垂仁天皇(垂仁3年)の時代に新羅王子天日矛とその従者として須 恵器の工人がやってきたとも記されている。そのため新羅系須恵器(若しくは陶質土器)が伝播していた可能性が否定しきれないが、現在のところ、この記述と関係が深いと思われる滋賀県竜王町の鏡谷窯跡群や天日矛が住んだといわれる旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない。結局、この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。
※旧但馬地方でも初期の須恵器は確認されていない
だから・・古墳時代が始まり と何方かがお決めになられたのでしょうね・・・
※高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり、朝鮮半島に伝えられた。
どなたも・・中国江南地域に始まり、直接人と共に日本に伝わった・・・
とはお考えにならないのでしょうね・・
それは何故でしょう・・? きっと「近畿地方では見つかっていない」からでしょうね・・・
★高温土器生産の技術は、中国江南地域に始まり
弥生時代前期からの免田式土器も高温土器生産の技術ですが・・・
中国江南地域や長江流域の江蘇省地域と球磨の関わりはブログ『全国的にも珍しい球磨の植物や蝶ちょさん』等でも今まで書かせて頂いた通りであります。
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12347579763.html
先にも書いたように
球磨郡の錦町大原天子遺跡ではそれまで縄文時代には無いと考えられてきた水稲農耕文化には欠かせない有肩打製石斧が出土していた
のであります・・・
中国 ⇒ 球磨 ⇒ 古代朝鮮半島
皆様 この図式は私のブログの『どこかで』ご覧になられていらっしゃるはずです・・・
「ある書籍」に記されていた事
https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12433956906.html
『須恵』を勉強して、ようやく気が付きました・・・
怖いけれど・・ようやく理解出来ました・・・・
この技術は百済から伽耶を経て日本列島に伝えられたと考えられている。
逆かもしれない・・・・
伽耶 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%BD%E8%80%B6
中略・・・
歴史
金官国(駕洛国)
詳細は「狗邪韓国」を参照
首露王 ウィキペディアより
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A6%96%E9%9C%B2%E7%8E%8B
首露王(しゅろおう、수로왕)は、金官加羅国の始祖と伝えられている古代朝鮮半島の王で、金海金氏の始祖。首露王は158年間国を治めたとも伝えられている。
妃はサータヴァーハナ朝の王女と伝わる許黄玉。ただし、首露王についての記述は金官加羅国滅亡の500年ほど後に書かれた駕洛国記が本となっているため史実か判断が難しい。
伝説ではクジボン(クジの岳)に降臨したと言う。金官加羅国には須恵器に影響を与えた土器が発掘されている。
出生神話
『三国遺事』に抄録された『駕洛国記』(『駕洛国記』自体は逸書)によれば、亀旨峰(クジの岳)の6個の金の卵から, (西暦42年)3月3日に首露王が生まれたとされる。また、このとき1人ではなく5人の王子とともに6つ子として卵から孵って、九干たちに育てられたとされているこの年代に、首露王を中心とした国家連合(六加耶連合、後の新羅の複伽耶会)が成立したと見なしている。金官国伽倻は『魏志倭人伝』には狗邪韓国(くやかんこく、くうじゃかんこく)と伝えられる国である。
首露王は金の卵から生まれたという伝説により金姓を名乗る。
※東族古傳に従えば、新羅の赫居世・昔脱解・金閼智(之を三姓の祖と為す)は熊襲族の三姓にて、我が筑紫(九州)より傳従した者としてある
※宇豆(うつ)は延喜式神名巻にある韓國宇豆峯神社(からくにうつみねじんじゃ)の所在地で、大隅国囎唹郡に属している。
※當時囎唹玖摩(※曾於・球磨)の二郡は熊襲の本拠なれば、宇豆の名は遠く海外に聞こえたものと察しられる。
※鳥獣率いて舞い天地振動は、軍士の躍進と地響である。
もしかしたら・・・球磨は
卵を産む鳥の「三日月」の形をした故郷なのかもしれない・・・・
最後に
古川様より頂いた百嶋先生が残された系図をご了承して頂いた上で私が公開させて頂きます。
月読命様 = 大山祇命様 は
金首露王の末孫でいらっしゃり、母君は天之御中主神様。
家の宮原家は天之御中主神様を奉斎する氏族であり
祖母方の氏神様の御一柱は 月讀廿三夜比賣尊様である。
金首露王の王妃はインド サータヴァーハナ朝の王女と伝わる許黄玉。
三日月・・
鶴・龍・球(玉)・象・・・・
象・・ようやく繋がったのかもしれない・・・・
2019/05/29 14:50 追記
錦町大原天子遺跡は、60軒以上の集合集落が見つかった人吉の中堂遺跡とほぼ同じ今から約2400年前の遺跡である事が解りました。
春秋時代の呉国が滅びた時期の直後となります。
有肩打製石斧(作成の技術)は呉人と共に祭祀と共に稲作と共に球磨にやって来たのかもしれません・・
さらに・・もう一つ「ナルホドナな~」と思うことがあります。
球磨では野生の柿を「伽羅柿」と呼んでいるのです・・
伽羅柿は庭に植えても30年程経ってようやく甘くなる柿です。
何で名前が伽羅柿・・伽羅なのか・・ず~っと不思議でした。
4年程前から気になっていたのは伽耶国のウィキペディアの記述(脚注)に
南斉書での表記は加羅。伽羅
と記載されている事でした。
ずっと伽羅柿の名の由来について悩んでいたのですが、今回納得致しました。伽羅(伽耶)もインドの伽羅も繋がっているのですね・・・
球磨の伽羅柿は里帰りした方々が持ち帰ったのかもしれませんね・・・
次回 『呉人が見た球磨人は・・ベンガラで彩色した耳飾り』に続きます。