前回のブログ

『速報 大発見『免田村』は慶長年間まで『面田村』だった!!

”平安時代までの球磨と面土國” 』 より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12432667068.html

 

2019/01/21 PM 22:15 追記

リンクの設定等を修正致しました。 19日より主人の実家(小倉)に里帰りをしていまして、

本日球磨に戻りました。確認、修正等が遅れました事をお詫び致します。

 

前回のブログで、旧球磨郡免田村(現あさぎり町免田)の「免田」は慶長年間(1596年から1615年)までは『 面田村 』 であったと言う事に気が付きました。

私がこの数年間調べ続けてきた「先祖の真実」・「古代の球磨の真実」、この数カ月間で一気に『この謎』に近づいて来た事を実感致しております。

ただ、痛感する事は『どの時代』においても、記紀に書かれた『熊襲』正しくは『球磨曽於』の記述が『球磨の真実』に覆い被されてしまい、その事によって、例えば、球磨以外の土地に住まう『歴史に関わる時代の”その時々の方々”』が『此の地 球磨 』との関わりを避けて来られたのでは?と言う事度々遭遇致しました。

今回の「免田」は実は「面田」だった・・この事も九州全体を見ると『前回のブログのコメント』に書かせて頂いたように『記紀』から想像する『球磨』とはかけ離れる事をまるで『避ける』かのように『真実を隠す』事に繋がっているような気がしてなりません。

ただ、近年に入り、才園古墳から、日本全国でも3枚しか見つかっていない「金メッキされた鎏金獣帯鏡」が出土したり、同じく出土した「黄金に輝く馬具はセット数でも全国最多」であったりとする事等、『球磨を語る上で真実への物証』が次々と見つかる事で『本当はどう言う場所』だったのだろう?と疑問を抱く方が多くいらっしゃると思います。

 

今回、意を決してご紹介する『書籍』は、上記の球磨の遺跡発見前の『大正15年』に記された物です。時代背景は日清戦争後、つまり『李氏朝鮮(李朝)の地位確認と朝鮮半島の権益を巡る争いが直接の原因となって引き起こされた中国と日本の戦争』の後で、さらなる朝鮮半島への侵攻を日本が行っている真っただ中に書かれました。

この『書籍』は、日本だけではなく、朝鮮半島に住まわれる方々にも向けて書かれた物です。

日本の進出を正当化する為に、記紀の記述を元に『熊襲』(正しくは球磨曽於)を日本国内だけではなく『古代朝鮮半島』における、あたかも『最大の悪役』のように記しています。

だから、触れたくありませんでした。

どこまで、私の故郷を侮辱するのだろうか・・当時の政府までもが「球磨」を影の存在にしたてて利用している・・・私の率直な感想でした。

『この書籍』には、当時の複数の某神社も関わっていらっしゃいます。

それが、とても悲しかったです。

 

触れたくなかった『書籍』。ただ、先に書いた『古代朝鮮半島においての最大の悪役』として記された『球磨曽於』の方々は何故?そのような形で利用されたのか。

そこが、以前からずっと不思議でなりませんでした。

『根底』にはきっと何かあるはずだ・・最近そう考えるようになりました。

 

だから、意を決して皆様に御紹介させて頂く事に致しました。

紹介させて頂くにあたり、あらためて書かせて頂きますが、以前から何度も書いているように

私は祖母から『過去の過ちは決して繰り返してはならない』と教えられて育ちました。

祖母は、当時の日本の行為を『過ちだ』と断言していました。

平和の大切さを祖母は私にずっと語り続けてくれていました。

ですから、この書籍を紹介する前に、決して私が『過去の肯定論者ではない!』と言う事だけは皆様に御理解して頂きたいと心からお願い致します。

 

ご紹介する『書籍』は大正15年発行の浜名寛祐氏著『日韓正宗溯源』です。

国立国会図書館デジタルコレクションで一般公開されています。

後ほど、国立国会図書館デジタルコレクション公開書籍を御紹介させて頂きますが、その前に某サイト様に記されていた『同書籍』に関する概要を一部転記させて頂きます。

 

日露戦争中の明治38年、鴨緑江軍の兵站経理部長として奉天郊外のラマ教寺院に駐屯中の浜名寛祐は、広部精という博識の軍人から奇妙な巻物を見せられた。もとはある古陵墓より出土した秘物であり、兵禍をおそれて移動したのちに、同寺院に厳重に保管するべく託されたものであるという。これを書写した浜名寛祐は十年の歳月をかけて研究し、日韓古語の研究からその解読に成功し、大正15年に『契丹古伝』(日韓正宗遡源)を発表した。
『契丹古伝』は、10世紀に東丹国(契丹の分国)の耶律羽之によって撰録された漢文体の史書で、『耶馬駘記』『氏質都札』『西征頌疏』『神統志』『辰殷大記』『洲鮮記』など、幻の渤海史料によって構成されていた。そのため固有名詞の音借表記が契丹音によるべきか、渤海音によるべきか同定が困難であったが、古代日本語による解読を許容すると推定される部分もあり、古代においては東アジア全域に共通する言語圏が存在したことが想定される。
浜名によれば、『契丹古伝』はスサノオ尊と同定しうる神祖がコマカケとよばれる天の使いである鶏に乗って、聖地・白頭山に降臨したという神話を核心とし、シウカラ(東大神族)とよばれたその末裔たちが韓・満洲・日本の3大民族の祖として大陸に雄飛したことを伝える。
古代中国の尭・舜・殷はこのシウカラ系の国家であったが、「海漠象変」と表現される天変地異とともにシウカラ族は没落し、西族(漢民族)によって中原を追われる。
『契丹古伝』によれば、のちに東夷とよばれるようになる日・韓・満民族こそが中国大陸に超古代王朝を築いた先住民であり、契丹王朝もその末裔であった。

さらに満洲にオロチ族とよばれる呪術をよくする異民族がいたことを伝えるが、これは『上津文』に登場するオルシ族ではないかと思われる。また鳥人・熊襲族が沖縄・南韓へ侵入したという記述や、匈奴・扶余・高句麗などの騎馬民族国家の成立、倭国と古韓国との交流、馬韓にあった邪馬台国の伝説など、環日本海文明の存在を伝えるきわめて貴重な伝承の宝庫として、今後の再評価が大いに待たれる異色の超古代文献である。

以上 某サイト様より 転記

 

概要を御紹介致しましたが、この「概要のみ」の情報がネット上に溢れている事に気が付きました。その中には先に書いた、書籍が発行された当時の「時代背景」等を踏まえた「真摯に過去と向き合う姿勢」を元に検証を行ったサイト様が極端に少ない事は悲しい事だと思います。

 

皆様がこの書籍をお読みになってどのような感想をお持ちになられるかは、それは個々の自由だと思います。

ただ、私は、祖母からの教え、過ちは繰り返してはならないと言う言葉を念頭に置き、読ませて頂きました。

浜名寛祐氏著『日韓正宗溯源』を最初から読んでみたいとお考えの方は以下のアドレスからお読みになられますが、こちらのブログで私は『球磨』に関わる記述等のみをピックアップさせて頂きます。

 

国立国会図書館デジタルコレクション 浜名寛祐氏著『日韓正宗溯源』

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/2 (別ウィンドウで開きます 以下リンク先項目同)

 

目次

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/11

 

 

浜名寛祐氏著『日韓正宗溯源』 より『球磨郡』に関わる記述をピックアップ致します。

目次項目 巻の一 第三章 日韓両語の異同より 

新羅始祖(正しくは前身の 斯蘆国の初代王)赫居世居西干(姓 朴) 以降歴代王の記述 17ページ

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/30

 

書籍冒頭から球磨曽於に関わる衝撃の記述が記されていました。

20ページの後半に記されています

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/32

 

東族古傳に従えば、新羅の赫居世・昔脱解・金閼智(之を三姓の祖と為す)は熊襲族の三姓にて、我が筑紫(九州)より傳従した者としてある、従って其の姓稱の釋義も別にあるのであるが、ここでは只現存韓史の言う所に追随して釋し、委曲は後巻に於いて辨することにする。

 

※委曲は後巻に於いて辨することにする。

とあり、 「東族古傳に従えば」の解釈を記されたページがありますが、そのページの御紹介の前に数か所の「球磨曽於」、「球磨郡」、「球磨郡久米郷」に関連した記述をピックアップ致します。

 

巻の一 第四章 日韓古地名の相通より 

素戔嗚尊様と「熊」・「球磨」の文字の関連性について記されていました。

33ページ後半から~34ページにかけてです。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/71

34ページより抜粋

クマとは何のことかと云うに、クは大の義で、マはマルのつづまった音であるから、やはりコマと同じく人の多く集まっているところを指したのである。

金海が任那の都府となる前には、恐らく熊川がこの邊の大都会で素戔嗚尊も、ここを目當てに御出でになったのであろう云云

いかにも明確にて敬服されるが但コマは大陸族の太古神話に淵源した名で神に縁故ある稱と思えども、其の説明は後巻に譲り、而して考えるに、古韓の熊川と相通じる名は、筑紫(九州)に球磨郡あり、球磨川あり、また熊本の市もある、また出雲にも紀伊にも熊野の神域があり。兵庫県に神代村(クマシロ)・神稻(クマシロ)郷・長野県に神稻(クマシロ)村などあって、

クマは多く神を意義し居る・・ 以下略

 

ここでは「球磨郡」・「球磨川」等を例にあげ、クマは多く神を意義し居る 

と書かれています。

 

巻の二 第四章 親魏倭王卑弥呼より

邪馬台国は馬韓国(後の百済)にあり親魏倭王卑弥呼は馬韓に住されていた・・という

浜名氏の自論が展開されていました。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/128   以降~

 

ネット上や書籍で邪馬台国が朝鮮半島にあったと推論されていらっしゃる方々を拝見した事があったのですが、実際の所・・この書籍を読まれたのだな・・と言う事は解りました。

 

では、本題に入ります。

先に書いた 巻の一 第三章 日韓両語の異同より 

東族古傳に従えば、新羅の赫居世・昔脱解・金閼智(之を三姓の祖と為す)は熊襲族の三姓にて、我が筑紫(九州)より傳従した者としてある、従って其の姓稱の釋義も別にあるのであるが、ここでは只現存韓史の言う所に追随して釋し、委曲は後巻に於いて辨することにする。

の『委曲は後巻に於いて辨することにする。』の記述です。

 

巻の三 第十八章 五原以前の支那原住種族

第二節 熊襲族の新羅侵入   

以下、浜名氏が自ら「楛盟舒」を「クマソ」と解読した後の自論が展開されています。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/239

 

海を歴て灘波を踏み、蔚都(うつ)に據り、巨鍾(くし)を猾し(みだし)、遂に辰藩に入る。

とあるは、熊襲族の去蹤来路を審かにせる奇異の言葉である。

中略・・・

一たびクマソと讀めてから、蔚都(うつ)を宇豆(うつ)と知り、巨鍾(くし)を筑紫(※九州)と覚り、箔箘籍(※朴金昔)を楛盟舒(クマソ)の姓氏と考證するに至った。

宇豆(うつ)は延喜式神名巻にある韓國宇豆峯神社(からくにうつみねじんじゃ)の所在地で、大隅国囎唹郡に属している。

當時囎唹玖摩(※曾於・球磨)の二郡は熊襲の本拠なれば、宇豆の名は遠く海外に聞こえたものと察しられる。

乃本章の言う所は、宇豆に據り、筑紫(※九州)を亂した(みだした)ことである、其の宇豆に来った経路は灘波を踏むとあって琉球を経て来たことに解される、ナハは浮沫で今言う那覇のことであろう、宇豆から遂に辰藩に入ったとはつまり熊襲が新羅に入ったと云うことなのである。

以下略・・・(私は略しますが皆様方はよろしければ本文をご覧ください)

440ページより

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/243

鳥獣率いて舞い天地振動は、軍士の躍進と地響である。それを彼等三姓の子孫に由りて、極めて神秘的に作成された残影が、現存韓史の上に奇異なる映書と為って遺留されたのである、其の映書中に、阿衡(伊尹の稱)か呂尚(太公望の名)かと思われるような異人が點出されてある、三國史記に曰ふ・・・

以下、瓢公について記されていますが、浜名氏は瓢公、この方を倭人を装った球磨曽於族であると推論、瓢公の馬韓王に対する答弁は堂々たる者であった等の記述がありました。

 

補足 瓢公 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%93%A0%E5%85%AC

瓠公(ここう、生没年不詳)は、新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。また金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。もとは倭人とされる。新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと『三国史記』は伝えている。

初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠から取られているため、同一人物を指しているのではないかという説がある。 
また、脱解尼師今が新羅に着した時に瓠公の家を謀略で奪ったと言う。この瓠公の屋敷が後の月城(歴代新羅王の王城)となった。

赫居世38年(前20年)、王命に従って馬韓を訪問し国交を開こうとした。このとき馬韓王からは馬韓の属国である辰韓諸国の一国に過ぎない新羅が貢物を送らないことを責めたが、瓠公は逆に新羅に聖王(赫居世と閼英夫人)が現れたことを主張して馬韓王の失礼を咎めた。馬韓王は怒って瓠公を殺そうとしたが、馬韓の重臣が王を諌めたため、許されて新羅に帰国した。

以上 ウィキペディアより

 

以下 浜名寛祐氏著『日韓正宗溯源』 では 朴氏・金氏・昔氏の記述が続きます。私は今回途中略させて頂きます。

さらに読み進めると、遂に記紀に記された「仲哀天皇」様の熊襲征伐(球磨曽於)の話が登場致します。

453ページです。 

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/249

 

若夫れ新羅の王統が真の韓人種であったならば、神話古傳の如きは之を失わざるに務めたこ猶我れの如くであったであろうに、卵櫝説を持たせる鳥人楛盟舒(クマソ)族なりしため、韓族萬年再ひ取り返しのつかぬ惨禍を演じたるは口惜しき限りである。

我が仲哀天皇が熊襲征伐を念とされたる、それが為馬■海峡開■に六年の聖慮を労せられたる、神功皇后の波涛を越えたまえる、いずれも皆熊襲の主體を新羅に認められたからである、當時筑紫(※九州)には熊襲の叛は無かった。

今ぞ知る皇后の征韓は、我と同族の韓人征討に非ずして韓人に非ざる者を征討されたのであったことを。

本説熊襲の新羅侵入は我が国史及び韓史の裏面を・・・

以下、書きたくないので省略します。

 

記紀に基づいた「クマソ」の記述を引用し、神功皇后様の三韓征伐をも「熊襲の主體を新羅に認められたからである」

我と同族の韓人征討に非ずして韓人に非ざる者(クマソ)を征討されたのである・・・

とまで書かれています。

凄く悲しくなりました。

この書籍が書かれた時代背景を考えると、日本の朝鮮半島進出を踏まえ、「進出」を正当化する為に「クマソ」の方々を史上最悪の人々のように記されている・・

その・・大変失礼な言い方ですが「魂胆(こんたん)」が見え見えではないのか・・?

どこまで、私の故郷、愛する故郷の古代の方々を愚弄すれば気がすまれるのか?

 

だから、この書籍には触れたく無かったのです。

しかし、感情的になっては、真実は何も解りません。だから、一度冷静に分析しなければと思い、ブログへの転記を意を決して行いました。

 

転記して気が付いた事

浜名氏は「クマソ族の新羅侵入」の項、最後の最後で、「クマソ」の方々、さらに新羅国を愚弄するような記述を書きならべていますが、この項の最初には

※鳥獣率いて舞い天地振動は、軍士の躍進と地響である。・・・躍進・・??

※瓢公の馬韓王に対する答弁は堂々たる者であった・・・堂々・・??

と、「愚弄」する「クマソ」の方々へ対する言葉とは到底考えられないような記述が度々出ています。

さらに

素戔嗚尊様と「熊」・「球磨」の文字の関連性について

※而して考えるに、古韓の熊川と相通じる名は、筑紫(九州)に球磨郡あり、球磨川あり、また熊本の市もある、・・クマは多く神を意義し居る

・・・・??? 何故「球磨郡」・「球磨川」を例に挙げたのか・・???

 

実は、以下のページにも不思議な事が記されていました。

『天孫遠征して同族を救援す』

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/285 以降

浜名氏は「高天原」を奈良大和にあったと自論を書かれているのですが、天孫降臨に

関して529ページには

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/980706/287

 

オオクメミコトは久米部の首領であって、部は軍隊を意義する、喜田博士の説なりと云うを聞くに、クメは肥人(クマビト)や熊襲(クマソ)と関係のある西南民族であって、久米部は其の種族の者を以って編成した軍勢であると言われたそうであるが、後の所請熊襲という者は當時まだ無かったであろう、併し地方豪族の者を以って編成したる軍勢と言われたのは、何処にもそうであったろうと思う・・・

 

※喜田博士の説なりと云うを聞くに、クメは肥人(クマビト)や熊襲(クマソ)と関係のある西南民族であって、久米部は其の種族の者を以って編成した軍勢であると言われたそうであるが

喜田博士が久米部の古代本拠地と唱えられた地は『球磨郡久米郷』です。

『後の所請熊襲という者は當時まだ無かったであろう、・・・と思う』

何とあいまいな表現なのか・・その事に驚きました。

 

もしかしたら、浜名氏ご自身も「球磨」と「久米郷」と「クマソ」の関係に「疑問」・「謎」を感じていらっしゃったのではないのでしょうか・・?

 

今回は私を応援して下さっている皆様方に一度こちらの書籍をお読み頂きたいと考え

意を決してご紹介させて頂きました。

 

次回『祈願の地「球磨」と「五七の桐紋」そして「虎岡名」について』 に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12435421041.html