前回のブログ『No200 千早振る神の残せし姿 極意秘密 と縄文時代の日本国外への脱出

より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12554798668.html

2019/12/22 追記

2019/12/19 18:04:19投稿させて頂きました当ブログ、すでにお読み頂いた御方々、初めてお読み頂く御方々にぜひお伝えしておきたい事があります。

私は、当ブログ内において 御幼少でいらした皇太子殿下(現 上皇陛下)の当時のお気持ちを推測するような内容は書かせて頂く事を控えました。

私のような物がそのような事に触れる事、推測する事は不敬にあたると考えたからです。

ただ、二人の子供を持つ、一女性として、度々「胸が熱くなりました」と言う表現を使わせて頂いております。

12月19日、当ブログを投稿した後に、一部転記させて頂いたウィキペディアの記述をさらに読ませて頂き、信国鉄蔵氏が、御幼少でいらした皇太子殿下(現 上皇陛下)にお仕えなさっていらした当時の状況を、あらためて、文章内に追記させて頂きました。

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私が球磨から発信するこのブログを御覧頂いた皆様方に心より感謝申し上げます。

前回のブログも沢山の方々に御覧頂けました。

ありがとうございました。

 

前回、この201投稿目に関して

極意秘密・・・次回 新たに理解出来た事を書かせて頂きます。 と書いたのですが

実は、前回のブログを投稿した翌日、12月14日に、私の不勉強さを心から反省する事になった「お話」をある御方から伺う事が出来ました。

その後、伺った「お話」の主人公でいらっしゃる御方について勉強させて頂き、心から感動致しました。

この感動を記念すべき201投稿目に書かせて頂きたい! 

ぜひ、皆様方にご紹介させて頂きたい!

心の声に従って、本来201投稿目に書くつもりであった内容から変更させて頂きます。

もちろん!前回の続きは次回必ず書かせて頂きます<m(__)m>

 

12月14日、参加させて頂いている求麻郷土研究会の例会の際、探索地であった宮崎県都城市からの帰りの車中、球磨で盛んな剣道のお話になりました。

すると、ある御方から

「宮原さんは上皇様にお仕えされていた多良木町出身の信国さんの事は知っていますか?」と聞かれました。

私はとても驚いて

「上皇様にお仕えしていらした御方!?多良木町出身!? 初めて伺いました!」

と答えると

「勉強されたら良いですよ。多良木町史に信国さんのお話はちゃんと記されています」

と。

知らなかった・・存じ上げておりませんでした・・・

信国さんとはどのような御方だったのだろう・・!??

帰宅後、早速、多良木町史を本棚から取り出し、勉強致しました・・・

 

上皇様から頂いた二首のお歌

東宮内舎人でいらした信国鉄蔵氏について

皆様方は信国鉄蔵と言う御方を御存じですか?

 

上皇様 ウィキペディアの記述に一行の文章が記されています。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E4%BB%81

 

来歴
御幼少時代 より

1936年(昭和11年)3月29日、皇室の伝統的慣習に基づき、将来の天皇になるべくして皇太子明仁親王は満2歳で両親の元を離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって養育される。当初は週に一度の日曜日には宮中に参内して両親と面会する機会もあったが、1か月を過ぎる頃から日曜日も東宮仮御所で過ごすようになった。

1940年(昭和15年)に学習院初等科に入学。学習院就学時代は山梨勝之進院長の下で教育を受け、内舎人、信国鉄蔵を師として剣道を練成した。

 

2019/12/22 追記 ウィキペディアからの転記を続けます。

1941年(昭和16年)12月8日、自身の学習院初等科2年次在学時に、日米開戦。

学習院初等科5年次の1944年(昭和19年)、第二次世界大戦の戦火の拡大により、初めは栃木県日光市の田母澤御用邸に、後に奥日光、湯元の南間ホテルに疎開。

当地で翌1945年(昭和20年)8月15日に、他の疎開児童らとは別室にてラジオでの父帝による玉音放送を聴き、終戦を迎えた。終戦後に帰京。

1946年(昭和21年)10月から1950年(昭和25年)12月まで、父、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ばせる」という新しい皇太子への教育方針に従い、アメリカ合衆国の著名な女性の児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・ヴァイニング(日本では「ヴァイニング夫人」として知られている)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。

以上 ウィキペディアより

 

※内舎人、信国鉄蔵を師として剣道を練成した。

 

信国鉄蔵氏について、昭和五十五年一月発行 多良木町史に詳しく記されていました。

以下、多良木町史より転記させて頂き、ご紹介を致します。

 

信国鉄蔵氏
昭和五十五年一月発行 多良木町史 より抜粋
明治二十二年三月十二日、黒肥地村(現熊本県球磨郡多良木町黒肥地)にて出生。
黒肥地小学校、多良木村外八カ所村組合立高等小学校を卒業後、免田村(現あさぎり町免田)の角郵便局に勤務、この間、通信事務員検定に合格。
明治四十二年七月熊本県巡査となり、県内の複数の署を経て、大正十三年警察講習所(現警察大学)を卒業、警部に昇進、ついで熊本警察署、警察部衛生課・警察部警務課に勤務後、昭和二年四月十一日付で、宮内省出向、
内舎人(うとねり)兼皇室警部(御警衛事務)となり、以来十六年間、側近の警衛に当たる。


十八年九月、選ばれて東宮内舎人となり、二十一年定年退官まで、丸二年三か月間、皇太子殿下(現上皇様)の御養育係を拝命、誠心その任に当たり、無事大任を果たした。
二十二年、内閣総理大臣官房人事課嘱託となり、三十四年末退官。その間、昭和二十五年五月から、「球磨学寮」の管理を依嘱され、昭和四十三年十二月辞任するまでの十八年間、終戦後の、浮薄に流れ勝ちな郷里出身大学生の薫陶に当たり、その面倒を見、相談相手となった。
当時、氏は、午前一時頃から二時頃、必ず寮を一巡して、怠慢な学生をいましめ、勤勉な学生を励まし続けた。また、寮の敷地三百余坪の庭の掃除や庭木の剪定は、終始氏が独りで行った。「庭の掃除は私がやる。君等は心の掃除をやれ」これが氏の心情であったという。
氏のバックボーンとなったものは剣道であるが、氏は大正十四年剣道精錬証(現在の錬士号)を受け、昭和十二年に五段、十五年に教士、三十三年、ついにアマチュア最高の七段位となり、八十才の高齢にいたるまで剣を離さず修練を続けたという。
昭和十八年、叙従六位、二十一年、叙勲六等、授瑞宝章、四十二年、賜杯(木杯一組台付)

四十三年、天皇皇后両陛下より園遊会に召された。

昭和四十九年 八十六才で死亡。


次に、氏(信国氏)が専任内舎人時代の思い出を綴った短文を掲げる。

皇太子にお仕えした九年の歳月
※皇太子(現 上皇様)


東宮内舎人は、皇太子側近奉仕者の官名である。御警衛内舎人の時は、御五才からお付きしたが、専任内舎人としては昭和十八年九月、学習院初等科四年であらせられた際、わたしのほか二名がそれまでの女子職員と交替したのである。
勤務の内容は、お身のまわり一切のお世話で、お目覚めからお召し替え・三度のお食事・お登校・お帰り・おふろ・御寝となって一日が終わるのである。
お運動の際は、傳育官・侍医と共にお相手申し上げねばならない。
そのかたわら、わたしは剣道のお相手を申し上げた。以上は平常の仕事であるが、勤務の性質上他の御用も多いからほとんど付切りであった。また、お守役という立場でもあった。
時の皇后宮大夫からは、
「君に特に頼んでおく。それは、自分の子どもを育てるつもりでお世話をしてくれ。」

と言われた。大変なことになったと思わざるを得ない。
わたしは最初から剣道の達人で通った。剣道の達人がよほど頼もしいものにおぼしめしになったのか、何やかと相談なされる。
なかには、おためにならないと思うこともあったが、当初は何事もはい、はい、と申し上げるのみであった。
これでは真の御奉公とはいえない。大夫の頼みもここにあったのであろうと思うと勇気がでた。
わたしは先ず辞表を書き、それを懐にしての御奉公となった。以後は思うことを一切を遠慮なく申し上げた。

剣道の達人は、がんこで困ると仰せられたが、そのがんこがお気に入られたのか、何事も信国ということになった。
ごきげんの悪いときでも、わたしがご前にでるとすぐにおなおりになり、いつしか気骨の内舎人、大久保彦左とよばれるようになったのにはいささか恐縮した。

このようにして、自然と呼吸もあい、いちばんお手のかかる初等科四年から六年のお時代をお相手申し上げ、大過なく退任することができたのは、なによりの幸せであった。
お別れの際の殿下のお涙は、今も忘れることはない。
今日もなお、おりにふれわたしのことを側近にもらされるという。
ありがたいことである。


賜ったお歌
    永き日を使へし信国さがりては
        燈火の消へし心地こそする


このお歌は、昭和二十一年一月十一日退官当夜の御作である。
家族は戦災にあい帰郷していたから、翌十二日ごあいさつに上がったところ、主席傳育官から、昨夜このようなお歌をおつくりになった。
殿下の仰せでは、まだでき上っていないから伝えるなとのことであった。
しかし、燈火の消えた思いがするとのおぼしめしに、これ以上のものはないと思うから申し上げておくといっていただいたものである。


    うち寄せる波の如くに思ふかな
        今は信国如何におるらむ


このお歌は、昭和二十一年一月二十一日の御作である。
翌二十二年十月、主席傳育官から、このようなお歌までお詠みになって信国さんのことを案じておいででしたと聞かされて感激したものである。
このお歌は、皇太子に関する数々の出版物に掲載されている。
一個人を対象に詠まれたお歌は他にはないので、わたしはもとより全くの野人、しかし、至誠は天に通すの信念で、まっ裸でぶつかっただけである。
もし、半可通であったら右顧左べんとなり、ほんとうのご奉公はできなかったろうと思う。
したがってお歌を賜ることもなかったであろう。
わたしはただ、郷土の名をそして山河をけがさないようにと念じつつご奉公したまでのことである。


以上 信国鉄蔵氏  皇太子にお仕えした九年の歳月 より

なお、右文中に出て来る、氏個人を対象に詠まれた皇太子のお歌につき、いくつかの出版物が解説したが、その二・三を引用する。
 

「退職せる側近者を思われたのであった。帝都を離れ、故山に悠々晴耕雨読の日を送りつつあった硬骨漢も、都よりこの思し召しを伺って涙をこぼしたという。(中略)
このようなお歌になさるなどは余程のことである

(「大内山」元女官 草間笙子著 昭和二十二年刊)

「内舎人はお身まわりのお世話をする役人をいう。お仕えしていた気骨ある老いた内舎人、信国退官一週間後、昭和二十一年一月二十一日のみ歌、
寄せて来る波のように、とみに激しく思う。いろいろ世話してくれた信国、今もその姿が目に浮かぶ。あの信国は今、何をしているのであろうと、吐息をつく如く偲ばれる。
上句はその時のヒューメンな情感の高まりを思わしめる。

(「主婦の友」昭和二十五年新年号 歌人 五島 茂)

「『うちよする』の第四首については、若干の説明を必要とする。殿下のお身まわり、たとえば、お食事とか、お召物とか、おふろの世話をする役目に内舎人というのがあって、その一人に信国鉄蔵という人があった。
長年、側近に仕えていて、老令のために退官したのが二十一年の一月、食堂にあてられたお部屋で、お食事の際、突然、筆者にお示しになったのがこのお歌である。
気骨をもって鳴る老信国のまごころが、常日頃、如何ばかりかお心に通じていたかを、我々はこれによって改めて知らされた。
同氏は今尚かくしゃくとして総理府に勤めているが、このお歌を当時の穂積大夫から色紙にしたためて贈られた時の気持ちは察するに余りがある。
『うちよする』の比喩は、あのお好きな沼津や葉山の海で、得意な抜手をきって乗り越えられる大波小波の連想でもあろうか。」

(「皇太子殿下」 元主席傳育官 角倉志朗著 昭和二十七年妙義出版社刊)

以上 昭和五十五年一月発行 多良木町史 より


私は全くの不勉強で、信国鉄蔵と言う御方の事を存じ上げておりませんでした。

御幼少の皇太子殿下(現 上皇様)が御作りになられたお歌 

辞表を書き、それを懐にしての御奉公 真の御奉公を全うされた信国鉄蔵氏

多良木町史を拝読して、胸が熱くなりました。

今回、ブログを書くにあたって転記を続けていると何度も何度も胸が熱くなりました。

 

『わたしはただ、郷土の名をそして山河をけがさないようにと念じつつご奉公したまでのことである。』

この言葉を転記している最中、感動で涙が止まらなくなってしまいました。

郷土の名をそして山河をけがさないようにと念じつつ

私は自ら皆様方に『今を生きる私は、自分に出来る事を精一杯勉強して、球磨の歴史を皆様方にしっかりとお伝えして行こう!』とお伝えしているにも関わらず、

本来であれば、今回のブログの内容は、令和が始まる前の平成の時代にご紹介すべきとても貴重なお話であったのに・・

とまだまだ、勉強不足であった自らをとても恥ずかしく思いました。

 

私事ですが・・

『わたしはただ、郷土の名をそして山河をけがさないようにと念じつつご奉公したまでのことである。』

このお言葉を拝見して、私は若くして亡くなった祖父の事が頭に浮かびました。

過去ブログ『私は何故?「先祖を調べるのか」その理由』の中の初告白と題して書かせて頂いた、ある「御方」と祖父の御話、大役を仰せつかった祖父のお話です。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12359064164.html

 

過去ブログ『続 祖父について』で書かせて頂いたように、祖父は昭和十五年、

二十六歳の時に明治勲章ノ勲六等單光旭日章の叙勲をお受け致しました。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12361471048.html

 

祖父は大役を仰せつかった際に、叙勲をお受けした際に、

信国鉄蔵氏と同じように郷土の名をそして山河をけがさないようにと念じつつ任務にあたっていたのではないか!?

当時の祖父の気持ちが、信国様のお言葉で少しだけ解ったような気がして、涙が溢れて止まらなくなってしまいました・・・

じいちゃん、不甲斐ない孫で本当にごめんなさい。

 

信国鉄蔵氏についてネット検索を行っていると、素晴らしいエピソードが記された記事を拝見する事が出来ました。

2019/05/02 (木) 配信の人吉新聞社様のコラム『瀬音』にそのエピソードが記されていました。

https://hitoyoshi-sharepla.com/seoto.php?seoid=972

 

勝手ながら転記させて頂きます。

2019/05/02 (木) 配信の人吉新聞社様のコラム『瀬音』 より 

上皇陛下が皇太子殿下のころの昭和37年、郡市をご夫妻で訪問された裏の、信国鉄蔵さんの存在も知っていてほしい▼平成最後の日のテレビの天皇陛下特集で、皇太子殿下の英語教師だったヴァイニング夫人を見て改めて思った。夫人は、当時の上村小八ヶ峯分校で親子で教壇に立ち、「月明学校」を執筆した三上敬子さんを訪ねて来人。宿泊した鍋屋旅館からの球磨川の素晴らしさに感嘆したという▼信国さんは多良木町出身で、皇宮警察を定年退職後に宮内庁へ入り、皇太子殿下の近侍としてお世話。学習院初等科時代には剣道も指導。以来、「信国のじいや」とお呼びになっていたそうだ。信国さんが退職の折、「長き日を仕へし信国さがりては あかりの消へし思ひこそすれ」など二首を頂いたといい、密接な関係がうかがえる▼退職後も時折ごあいさつに伺い「じいやよ、出身地の人吉はよい所だそうだね」と言われてびっくり。「なぜ人吉をご存じですか」と尋ねたら、「ヴァイニング夫人から聞いた。機会があれば行ってみたい」と答えられたという▼信国さんは郡市出身の在京大学生の寄宿舎球磨学寮の寮長にも後に就いた。当時の本紙を確認しながら記した。

以上 2019/05/02 (木) 配信の人吉新聞社様のコラム『瀬音』 より 

 

ヴァイニング夫人が人吉市にお越しになられていた事も、私はこちらの記事を拝見するまで

全く存じ上げておりませんでした。

エリザベス・ヴァイニング ヴァイニング夫人 ウィキペディアより 抜粋致します。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%B6%E3%83%99%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%8B%E3%83%B3%E3%82%B0

 

エリザベス・ジャネット・グレイ・ヴァイニング(Elizabeth Janet Gray Vining、1902年10月6日 - 1999年11月27日)は、アメリカ合衆国の司書・作家。

日本ではヴァイニング夫人の名で知られている。

戦後しばらくの時期、当時皇太子であられた少年時代の明仁親王(第125代天皇明仁様)の家庭教師をしたことで広く知られる。

 

ヴァイニング夫人が人吉にお越しになれて、宿泊した鍋屋旅館からの球磨川の素晴らしさに感嘆なされ、当時の皇太子殿下にお話をされていた事。

皇太子殿下(現 上皇様)が信国氏に

「じいやよ、出身地の人吉はよい所だそうだね」

「機会があれば行ってみたい」

とおっしゃった と記された人吉新聞社様の記事。

 

※上皇陛下が皇太子殿下のころの昭和37年、郡市をご夫妻で訪問された裏の、信国鉄蔵さんの存在も知っていてほしい

令和を迎えた二日目の人吉新聞社様のコラム『瀬音』。

 

とても感動致しました。

信国鉄蔵氏について勉強させて頂く事が私は遅すぎました。

家は人吉新聞を長年取り続けているのですが、父はいつも私に「お前は興味のある記事しか読まない。それではダメだ活字離れも程がある」と苦言を言います。

今回ご紹介したお話も実は私は読んでいませんでした・・・

父の言う通りです。 反省致しました。

 

先に書いたように、本来であれば、もっと早く、平成の時代、令和を迎えた直後にでも、球磨からの発信として、ブログに書くべき内容だった事を知りもせずに、私は「球磨からの発信」などと大それた事を書き続けていた事を心から反省致しております。

私はまだまだ、勉強不足です。もっともっと、しっかりと勉強をしなければいけない!

あらためて、心に誓いました。

 

時代は少し遡るのですが、もう御一方、ご紹介させて頂きたい皇室の方々とご関係のあられる人吉出身の御方がいらっしゃいます。

じゅぐりっと先生 こと一井正典先生のお話です。

 

一井正典先生 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BA%95%E6%AD%A3%E5%85%B8

一井 正典(いちのい まさつね、1862年7月4日(文久2年6月8日) - 1929年(昭和4年)6月5日)は日本の歯科医師。近代西洋歯科医学の先駆者。

明治・大正・昭和三代の天皇の歯科侍医も務めた。

江戸末期の1862年(文久2年)、九州・人吉藩(現熊本県人吉市)に人吉藩郡奉行・一井五郎の子として誕生。明治維新の後に14歳で西南戦争に従軍、人吉市で紙問屋を営んでいた江嶋五藤太の支援により上京、文明開化の幾多の波涛を越え、1885年(明治18年)に牧師・美山寛一の世話で渡米。

現地で、サンフランシスコのドクターバンデンバーグに師事。その縁により歯科医学を専攻、東海岸の
フィラデルフィア・デンタルカレッジに進み大学を首席で卒業

 日本人として、初めて米国本土で歯科医院を開業。

更に、日本人初の教授並びにアメリカ歯科医師会会員になった人物である。その後大学の推薦を受けて講師としてオレゴン州ポートランド市に赴任。 

渡米10年後の1894年(明治27年)には日本に帰国し、東京神田に開業。

後に、高山歯科医学院(現東京歯科大学)の講師、文部省開業試験委員を歴任。

東京歯科医師会にも寄与し、1908年(明治41年)に宮内省侍医療御用掛となり、明治・大正・昭和の3天皇と皇族の侍医なども務め1927年(昭和2年)に退官し、従五位に叙せられた。1929年、脳溢血により67歳で死去。
1997年、人吉市歯科医師会によって顕彰碑が建立されている。

2001年には熊本県近代文化功労者として熊本県から顕彰された。

 

エピソード
ジュウグリット(もしくはジュグリット)先生というあだ名がある。

これは「ぐるりっと」という意味の熊本県人吉球磨地方の方言が由来であり、ある日一井が発したこの言葉の意味が分からなかった学生が質問したところ、

「日本語も分からんのか」と叱られたという。

以上 ウィキペディアより

 

一井正典先生については以前から存じ上げておりました。

今回、信国鉄蔵氏について書かせて頂きましたので、一井正典先生についてもお話をご紹介したいと考えました。

一井正典先生については

『人吉市の松本歯科医院』様のホームページ『人吉の偉人たち』に詳しくお書きになられていらっしゃいます。

http://matsumoto.hp-kuma.com/greatman/index.html

 

さらにウィキペディアの記事にもあった「日本語も分からんのか」のエピソードは

東京熊本県人会様のホームページに詳しく記されていらっしゃいます。

http://kumamoto-kenjinkai.com/big_name/index.php?bunyakey=6

 

「口のまわりをジュグリット・・・」と使うので、
学生が 

「先生、ジュグリットは英語ですか、ドイツ語ですかと質問すると
「バカモン、君達、日本語もわからんか」と叱ったそうだ。

 

ジュグリットは球磨弁です(^'^)

普段から、皆、『ジュグリット回ってん』(ぐるっと回って)とか使います(^'^)

 

一井正典先生じゅぐりっと先生と言うニックネームが付いていらっしゃって、とても親しみやすい御方に感じますが、しかし、

明治・大正・昭和三代の天皇様の歯科侍医をお務めになられた御方です。

 

一井正典先生も信国様と同じように

郷土の名をそして山河をけがさないように、いえ

お二人とも、いえ、私の祖父も、いえ、当時の中央で頑張って来られた方々は皆さん

郷土の名、山河に、誇りを感じていらっしゃったのだろう!

と私は感じました。

 

若輩者の私ですが、これからは、

郷土の名、山河に誇りを持ち、けがさないように、しっかりと勉強を重ねて参ります。

(きっと郷土の山河は・・宮原の娘は縄文時代早期の事とか新しい時代の事を調べとるバッテン、まだまだ甘いな~と苦笑いされているのかもしれません・・・)

えっ!? 石器時代から!? まだまだ道筋は遠いようです・・・

 

最後に必ず書きます!とお伝えした次回の予告編?ですが

故郷に御鎮座であった神社様『中嶋大権現』様の『本来の御祭神』が解りました!

さらに「府内」・「府本」・「稲積」の意味が見えて参りました!

等のお話を書かせて頂きます!

 

今回は私の遅すぎた感動を皆様方にご紹介させて頂きました。

最後までご覧いただきましてありがとうございました。

ひろっぷ

 

次回 『橘氏・大神氏が関わる神社様と稲積・府の古代における意味』に続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12563446858.html