前回のブログ『②縄文晩期に遡り 祖父母の行動を探る その1』 より続きます。

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12507974017.html

前回のブログも、沢山の方々に御覧頂けた事を心よりお礼申し上げます。

ありがとうございました。

2019/08/24 11:28

当ブログ、最下部近くにご紹介した音声データが聞き取れるように、参考サイト様を変更致しました。

2019/08/24 15:08 追記
当ブログ、最下部近くに中国語 「呉」をクメール語ではどう発音するのかも調べて追記致しました。

2019/08/24 17:20 再追記

コメントのみで止めておきたい情報があります。 コメント3 に書きましたので、ぜひご覧ください。

 

前回、

今から約2,400年前に、球磨には有肩打製石斧と共に、「ツクシガヤ」と共に渡来した方々がいらっしゃった

と言う事を書かせて頂きました。

その方々が元々いらっしゃった場所は有肩打製石斧の海外の出土地、及び、ツクシガヤの生息地から推測すると

有肩打製石斧の海外の出土地:マレー半島部のタイを除くタイ全域、ベトナム、カンボジア、ラオス、中国南部の水稲農耕文化発生地域。

ツクシガヤの生息地:長江流域の春秋戦国時代の呉国(国王姫姓)、三国時代の呉国(国王・孫氏)の領域辺りである

と言う事まで解って参りました。

 

ちなみに・・・何故?それまで縄文時代には無いと考えられてきた有肩打製石斧が出土したにも関わらず、この球磨では大騒ぎにならなかったのか・・その理由がようやく解りました。

私がブログでご紹介した調査報告書は球磨の数か所の町には、配布されていたそうです。

がしかし・・・

大騒ぎにならなかった理由は、球磨の数か所の弥生時代初頭の遺跡からすでに水稲稲作に欠かせない打製石斧が大量に出土していたから・・だそうです・・・

 

昭和の焚書となった書籍では真偽の程は別にして以下の記述があります。

数万年前以降縄文時代中期の間にすでに日本に来られていた方々は以下の義には含まれていません。

 

 

倭人派 ・・・前インド モン・クメール族

他のページには天皇家は上記の中でも、純粋なシュメール人つまりスメル人であり、天孫族の中にはバビロニア第一王朝以降のセム系バビロニア人も含まれていたと言う旨の記述がありました。

 

球磨郡久米郷。以前から書かせて頂いているように、

第二次世界大戦前の日本の歴史学者、文学博士。考古学、民俗学も取り入れ、学問研究を進めた「喜田貞吉」氏、日本の歴史学者、氏族制度の研究で知られ、立命館大学教授、近畿大学ならびに専修大学の教授を歴任された「太田亮」博士。

喜田貞吉氏は「久米は球磨であり、久米部は球磨人、即ち肥人ならん」と述べているが、太田亮氏はそれに同調して、「久米族の山部連は山部の総領的伴造(とものみやつこ)である」

という。

その「久米」に関して 焚書となった書籍では

 

 

大久米命のクメはシュメール語の武具の義であると武人の稱(となえ)である。

と記されています。

 

しかし、以下のページをご覧頂くと

 

要約すると肥人族(前印度モン・クメールで倭人)は比較的柔和なので、到底チアム族や東海道以南にいらしたクメール派、チアム派、さらには紀伊大和山陰地方にいらしたツングース派の敵ではあるまい。(無理だ!・・と) 大伴氏の配下であったのだろう・・と推測されています。

私は以前、この文章を読んだ時にはクメはシュメール語の武具であると書いておられる割には「酷い事を書かれているな・・」と単純に立腹しただけだったのですが、最近、あらためて、この文章を読み返した時に、気が付いたのです・・

肥人族(前印度モン・クメールで倭人)と他地域のクメール派とは区別が行われている・・

と言う事を!

さらに気が付きました! この書籍を読む限り、球磨に有肩打製石斧を持って来られた方々は・・前印度モン・クメールで倭人 となる訳です!

肥人族(前印度モン・クメールで倭人)って どう言う方々だったのだろう・・!?

 

肥人族 前インド モン・クメールで倭人とは

検証致しました。

先に書かせて頂いたようにこの方々が元々いらっしゃった場所は有肩打製石斧の海外の出土地、及び、ツクシガヤの生息地から推測すると

有肩打製石斧の海外の出土地:マレー半島部のタイを除くタイ全域、ベトナム、カンボジア、ラオス、中国南部の水稲農耕文化発生地域。

ツクシガヤの生息地:長江流域の春秋戦国時代の呉国(国王姫姓)、三国時代の呉国(国王・孫氏)の領域辺りである。

となります。

 

①次々と繋がる謎

球磨の約2400年前の地層から出土した有肩打製石斧

★稲のわが国への長江南部地方からの伝来も、ほぼこの時期であることが最近明らかになり有肩石斧の伝来経路と時期がこの問題の鍵(かぎ)を握るものと思われる。

稲作 ウィキペディアの記述 南方経由説(黒潮ルート) にも深く関わる事です。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E4%BD%9C

日本への伝来ルートより

南方経由説(黒潮ルート)
柳田國男の最後の著書「海上の道」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説である。石田英一郎、可児弘明、安田喜憲、梅原猛などの民俗学者に支持され。佐々木高明が提唱した照葉樹林文化論も柳田の南方経由説の強い影響を受けている。
北里大学の太田博樹准教授(人類集団遺伝学・分子進化学)は、下戸の遺伝子と称されるALDH2(2型アルデヒド脱水素酵素)遺伝子多型の分析から、稲作の技術を持った人々が中国南部から沖縄を経由して日本に到達した可能性を指摘している。

 

球磨で有肩打製石斧が発見されたと言う事は南方経由説(黒潮ルート)との関係が見えたと言う事になるのでは!?

 

実は南方経由説(黒潮ルート)を提唱した柳田國男氏は球磨郡あさぎり町須恵、旧須恵村とはとても関わりの深い方と言う事を最近知りました。

旧須恵村には戦前アメリカのアメリカの文化人類学者ジョン.F.エンブリー夫妻が約1年間滞在されて、日本の農村の研究をされていらっしゃいます。

須恵村 ウィキペディアより

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A0%88%E6%81%B5%E6%9D%91

歴史
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行により須恵村が発足。
1935年 - 1936年 - アメリカ合衆国の文化人類学者ジョン.F.エンブリー (1908年 - 1950年, John Embree) によって部落社会の構造が実地調査され、「Suye Mura: A Japanese Village」(Chicago,1939)によってまとめられる。日本文化理解の教科書、「菊と刀 (1944)」の参考文献として挙げられる。

エンブリーの妻エラ(日本育ちで、のちに再婚してウィズウェル)により『須恵村の女たち』も執筆された。

須恵村が選ばれたのは柳田国男の助言による。
※須恵村が選ばれたのは柳田国男の助言による。

 

何故?柳田国男氏は日本全国の中から須恵村を紹介されたのだろう??

と思いながら、不勉強な私が調べていると、思いもかけない事に気が付きました!

コトバンク様より https://kotobank.jp/word/%E6%9F%B3%E7%94%B0%20%E5%9B%BD%E7%94%B7-1678264

 

柳田国男氏

別名筆名=久米長目など

久米長目

久米!!! ナンデスト~!! 思わず声を上げてしまいました・・・

 

さらに、柳田國男氏の最後の著書「海上の道」で提唱した中国の長江下流域からの南西諸島を経由して稲作が日本に伝播されたとする説を評価されて、尚且つご自分の説を唱えていらっしゃる方がいらっしゃいました。

司馬遼太郎氏です!

サイト 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」様が記事『生きている出雲王朝』の中に司馬遼太郎氏のエッセイについてお書きになられていらっしゃいました。

https://ameblo.jp/rekishi33/entry-10436945490.html

 

歴史エッセイ集「今昔玉手箱」様 『生きている出雲王朝』 より

司馬遼太郎のエッセイを読んでいて、思わず椅子からズリ落ちそうになった。 中略・・・

この天孫族とは何ものなりや? という話になる。司馬は「天孫族が何人種であれ、勇敢なポリネシア人を多数引き連れていたことは間違いない。隼人(はやと)であり、中核は久米」と書いている。
久米とは隈・球磨・熊・亀・久米・久留米につながり「クメイorクマイ」とも発音するが、もともとはシュメール系クメール族(地上のメル族)で、コウメイと転じた。もともとはインダス文明の中心都市モヘンジョ・ダロを根拠地として交易を行っていた海人族で、タイ、ビルマ、ラオス、ベトナム方面にも進出。黒潮に乗って、中国長江から台湾・沖縄・九州へも進出し、大量のジャポニカ米をもたらしたものと思われる。
クメール語は現在のカンボジア語であり、コメの語源はコウメイである。

以上 歴史エッセイ集「今昔玉手箱」様 『生きている出雲王朝』 より

 

司馬遼太郎氏と言えば・・・

著書『街道をゆく』の中で球磨・人吉を

『日本でもっとも豊かな隠れ里』

と記された方です! \(◎o◎)/!

※久米とはシュメール系クメール族(地上のメル族)

 

この説を、実は歌手のあの谷村新司さんもラジオでお話になられていらっしゃいました!

谷村新司さんは、さらに、物凄い御推考をなさっていらっしゃいました。

谷村新司さんのラジオ『まあるい日曜日』様 公式サイトより

http://www.1242.com/tanimura/index.cgi?line=102&go=back

 

メソポタミア文明のもとになったと言われている「シュメール文明」。 
このシュメール文明は突然花開いた文明と言われています! そこで疑問が! 
シュメール文明を伝えた人達がいるのではないか? 
そのシュメール人と呼ばれている人たちは、どこから来たのだろうか? 
その謎を紐解くと・・・・ 

シュメールは、カンボジアなどのアジアエリアでは「クメール」、 
日本エリアでは「
クメ(久米)」と呼ばれています。 
その久米の人たちが西に流れて、クメールと呼ばれるようになり、 
やがてある地域からシュメールになった!? 

シュメールとはもう一つ呼び方があって「スメル」 
「スメル」とは、「まとめる」ということ。 
別の言い方をすると「スバル(昴)」。 
「スバル=スメル」は同じ意味を表しています。 

以上 谷村新司さんのラジオ『まあるい日曜日』様 公式サイトより

 

久米の人たちが西に流れて、クメールと呼ばれるようになり、 
やがてある地域からシュメールになった!? 

物凄い御推考をなさる方だな~と驚きました。

しかし・・

肥人族 前インド モン・クメールで倭人

 

②モン族とは

ウィキペディアより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%97%8F_(Mon)

モン族( - ぞく、Mon)は、東南アジアに住む民族の一つ。古くから東南アジアに居住しており、ハリプンチャイ王国を建てたことで有名で、後にミャンマーのペグーに移り住んだのでペグー人とも言う。ラーマンあるいはタラインと呼ばれることもある。その後一部が中国の雲南から南下してきたタイ族やビルマ族などと混血した。現在800万人程度がモン族を自称している。
浅黒い肌にギョロリとした目、巻き舌音の多い言語、高床式住居、焼畑耕作、水牛供犠、精霊信仰、魔術、壺酒、精緻な竹藤細工、狩猟・罠、腰機織り、ゴング音楽などが、ラオス国内のモン・クメール民族に共通している。
なお、中国国内に多く住むミャオ族(苗族)の支系で、自称をモン (Hmong) という民族集団とは全く別であり、混同に注意。こちらについてはモン族 (Hmong)またはミャオ族を参照のこと。

歴史
紀元前1500年頃には東南アジアに到達していたとされ、現在の東南アジアの少数民族としてはネグリト(オーストラロイド)のマニ族(英語版)などに次いで古い民族と考えられている。
スワンナプーム王国
伝説では、紀元前300年ごろ現在のスパンブリー県周辺にスワンナプーム王国(英語版)を建国し、紀元前200年ごろにはアショーカ王の遣わした伝道者により上座部仏教を信仰し始めた。しかし、モン族はそれ以前から海路による仏教との接触があったと主張する。

言語
モン語はいわゆるオーストロアジア語族モン・クメール語派に属し、モン文字はブラーフミー文字系の独自の文字である。モン文字はクメール文字と並んでマレー半島や島嶼部を除く東南アジアの文字の形成に大きな役割を果たし、ビルマ文字、ラーンナー文字などの元になった

伝統的な衣装をまとった少女たち

以上 ウィキペディアより

伝統的な衣装をまとった少女たちの写真を拝見すると、確かに日本人に似ていらっしゃる気が致します。

浅黒い肌にギョロリとした目、巻き舌音の多い言語、高床式住居、焼畑耕作、水牛供犠、精霊信仰、魔術、壺酒、精緻な竹藤細工、狩猟・罠、腰機織り、ゴング音楽などが、ラオス国内のモン・クメール民族に共通している。

 

③クメール人

ウィキペディアより https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%AB%E4%BA%BA

クメール人(クメールじん)は、カンボジアを中心とする東南アジアの民族。カンボジアの総人口の約90パーセントを占めるほか、タイ東北部、ラオス南部、ベトナム南部などにも住む。身体的特徴では一般に、波状の頭髪や体毛の多さといった特徴が比較的多く見られるが、皮膚は比較的濃色である。

6世紀に真臘(後のクメール朝(アンコール朝))を建国し、アンコール・ワットに象徴される壮大なカンボジア文化(英語版)を築いた。

以上 ウィキペディアより

 

アンコール・ワットは9世紀初頭となりますので、今から2400年前に球磨に来られた方々とは時代が異なりますが、さらにクメールについて調べてみました。

まっぷるトラベルガイド海外おでかけ情報満載!「まっぷる」の観光旅行メディア様サイトより

https://www.mapple.net/global/article/9318/

 

アンコール・ワットとは?

クメール語で“アンコール”は都、“ワット”は寺院という意味。創建者スールヤヴァルマン2世が自身を神格化し、その力を世界に誇示するために建設したといわれている。約30年の歳月をかけて建てられたこの寺院は、ヒンドゥ教の世界観を体現。中央祠堂はヒンドゥ神話のなかで宇宙世界の基軸を意味する須弥山(メール山)、それを取り囲む回廊はヒマラヤの山、張りめぐらされた濠は海を表している。中央祠堂への参拝はまさに“神へ近づくための登山”なのだ。

※宇宙世界の基軸を意味する須弥山(メール山)

須弥山(メール山)・・梵語ではスメールとなるそうです。

 

さらにクメールの方々はインドのナーガ神ともご関係があるようです。

龍学様サイト 癩王とネアク をご覧下さい。

http://www.hunterslog.net/dragonology/world/cambodia/Angkor/01.html

カンボジアではナーガはネアクと呼ばれ、とりわけ王権をめぐる伝承に重要な役割を果している。たとえばクメール族は彼らの王朝の起源を、初代の王とネアク(ナーガ)族の王の娘との結婚にもとめている。

中略・・・

扶南とクメール(もともと同系とも言われるが)双方に共通するのは「外来の僧・英雄が土着のネアク(ナーガ)の娘との婚姻により王権を得る」というモチーフであり、これは次のような祭儀として、当時も履修されていたらしい。
十三世紀にカンボジアを訪れた周達観が、アンコールの都で聞いたところによると、王宮の中に金塔があり、王は夜ごとにその下に臥す。土地の人の話では、塔のなかは九頭の蛇の精がいて、この一国の土地の主であって、女身である。

 

モン族・クメール を少しだけ勉強した所だけで、モン族・クメール 共にシュメールとの繋がりが濃厚のように私は感じました・・・

さらにナーガ神との繋がりも見えます。

 

今回、私が調べている事は約2400年前の球磨に来られた方々に対しての調査ですが、その方々より遥か以前に日本に来られていた方々にも龍・蛇に対する信仰があった事は、縄文時代を通しての遺跡から発掘された土器等ですでに明らかになっています。

 

モン族・クメール DNA的にはどうなのか?と考えました。

実は、先日ある御方よりメッセージにて、DNA解析を大変詳細にご研究されている御方のサイト様をご紹介頂きました。

メッセージを送って下さった御方には心より感謝致しております。

この場を借りて、あらためて、お礼を申し上げます。

ありがとうございました。

先に、ウィキペディアの記述にもあったように、モン語はいわゆるオーストロアジア語族モン・クメール語派に属す とあります。

ご紹介頂いたのはサイト日本人のガラパゴス的民族性の起源様です。

表紙は以下になります。

http://garapagos.hotcom-cafe.com/

 

膨大な資料、ご研究の中、私が最初に着目したのは、以下の資料でした。

http://garapagos.hotcom-cafe.com/16-2,30-23,30-24,30-25.htm#30-25

 

30-23. Y-DNAから見た日本語の成り立ち考 より 抜粋させて頂きます。

最初の外来文化言語である長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)の弥生系語彙が追加。

このオーストロアジア古語系「O2b」は呉音を持ち込んだようです。日本列島に越音が残っていないということは呉系の稲作農耕民が北方へ逃れ 「O2b」になったようです。

またオーストロネシア語系の古単語も古日本語には見つかっているそうですが、それは当然「O1a」が話していたはずの オーストロネシア古語の持っていた語彙のはずです。

 

さらに、次の資料を拝見して、非常に驚きました!

1-7. 極東遺伝子度調査 Y-DNA「O」(O1,O2,O3」

http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-7,19-6,18-3.htm#18-3

Y-DNA「O2b」,「O2b1」 より

長江文明系の呉系と思われるY-DNA「O2b」は呉が滅んだあと楚や越の遺民やもともと含まれていた奴隷等を交えて、南下した越とは 反対の北方に逃げ満州辺りで「O2a」から「O2b」に分化し、 稲作適地を求めて南下し朝鮮半島南部で水田稲作農耕をおこない遺伝子は現在に至っています。

「O2b」は更に水田稲作適地を求めてあるいは中華王朝の朝鮮半島出先機関の圧政から逃れるためか更に南下しボートピープルとして 日本列島に逃げ込みここで弥生文化を花咲かせたわけです。 この間縄文遺伝子のY-DNA「D2」と密に交配し「O2b1」に分化し、未分化の「O2b」と併せ日本列島でも朝鮮半島とおなじく 30%のY-DNA「O2b+O2b1」遺伝子頻度を現在持っています。 「O2b」は基本的に満州族、韓(朝鮮)族と日本人(琉球民族も含む)のみに高頻度で現れる特殊な遺伝子子亜型なのです。

長江文明呉系遺伝子と考えられるY-DNA「O2b」を今日まで維持する民族は世界で、 朝鮮民族(韓民族)と日本民族のみでしょう。弥生時代の朝鮮半島南部と西日本は長江系呉系水田稲作農耕文化圏を形成していた 可能性が極めて高いでしょう。

以上 サイト日本人のガラパゴス的民族性の起源様より

 

まとめました。

オーストロアジア語族モン・クメール

長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)

★長江文明呉系遺伝子と考えられるY-DNA「O2b」

弥生時代の朝鮮半島南部と西日本は長江系呉系水田稲作農耕文化圏を形成

理由

長江文明系の呉系と思われるY-DNA「O2b」は呉が滅んだ為に移動を開始したから。

 

サイト様は朝鮮半島南部より九州へと水稲稲作が長江文明呉系遺伝子と考えられるY-DNA「O2b」と共に南下したとお考えのようです。

もちろん、九州北部は該当されるのだと思います。しかし・・・

おそらく、球磨には水稲稲作と長江文明呉系遺伝子と考えられるY-DNA「O2b」は沖縄(久米島)を経由して直接入ってこられたのだと私は推測致しました。

つまり柳田国男氏(別名=久米長目)が唱えた南方経由説(黒潮ルート)です。

だから、国内でもいち早く呉国が滅んで間もない時期2400年前の地層から水稲稲作にはかかせない有肩打製石斧が9個出土したのではないのか!?

 

球磨の久米族

肥人族 前インド モン・クメールで倭人

モン・クメールの方々は、明らかにシュメールとの繋がりが見える・・

オーストロアジア語族モン・クメール

長江文明呉系遺伝子と考えられるオーストロアジア語族Y-DNA「O2b」

 

球磨の久米族 肥人族 前インド モン・クメールで倭人

呉と モン・クメールの方々と倭人の関係・・・

ここで、ぜひ皆様方にお聞き頂きたい「言葉」があります。

この事に気が付いたきっかけ等のお話は次回に書かせて頂きます。

 

呉は中国語では「ご」とは言わない

呉は中国語では「wú」です。

https://translate.google.co.jp/?hl=ja#view=home&op=translate&sl=ja&tl=zh-CN&text=%E5%91%89

 

画面右の中国語(簡体)下のスピーカーマーク

再生ボタンを押してぜひ

聞いて下さい

 

 

「ご」ではありません!「ウー」もしくは「ヲォゥ」と聞こえませんか!?

 

2019/08/24 15:08 追記

中国語 「呉」クメール語ではどう発音するのかも調べました。

https://translate.google.co.jp/?uact=5&um=1&ie=UTF-8&hl=ja&client=tw-ob#view=home&op=translate&sl=zh-CN&tl=km&text=%E5%91%89

画面右のクメール語 下のスピーカーマーク

再生ボタンを押してぜひ

聞いて下さい

クメール語で「呉」は・・・wú .

やっぱりそうか・・・独り言です。

 

球磨の2400年前の地層から発見された有肩打製石斧

ツクシガヤと共に移動して来られた方々

肥人族 前インド モン・クメールで倭人(ワ人)

とは・・

 

肥人族 前インド モン・クメールで

ヲォゥ人・(呉人)ではなかったのか!!?

この方々は古代シュメールと深い関わりがあった・・・・

 

おそらく、焚書を書かれた方もこの事を十分承知の上で、隠されたのではなかったのか・・

 

今回も、最後までご覧頂きありがとうございました。

次回はタトゥーとの関係等、さらに、深く進めて参ります。

と書きましたが、怒りに震えるフェイク記事に気が付きましたので、以下に続きます<m(__)m>

緊急 拡散希望 天皇家のDNAと称して悪質なフェイク記事が広がっています

https://ameblo.jp/hirom0211/entry-12519442380.html