ぱんちゃんブログ
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進撃の巨人見終わった!

どーも。

進撃見終わりました。すごいや。

すすめてくれたカベガミミッミさんありがとう。

これを見たタイミングは必然です。

全てが繋がってる道って感じ。

 

見終わって色々な人の考察を漁った。

わたしはどんな考察を書こうかね?

全部で9つの巨人で3つはエレンが持ってることとか

始まりと終わりに関わる3人の女のこととかかな。

ユミルとエレンの母とミカサっていう3人。

三体という物語も、「女」が始まりを作っていて、

終わりも「女」がしめるのですが

そういうことなんです。どういうことだ。

TENETとも比較したいね。

 

進撃のいいところは綺麗事で終わらないとこ。

犠牲の多さについて賛否両論あるのかもですが

心の中の平和を求めれば求めるほど犠牲は増えていく。

平和を求める私たちはそこを理解せねばね。

この恐ろしき世界の中にこそある美を共有したいし知らしめたい。

 

今日は3.11ですが、朝からXで当時の震災動画見て涙し

その後すぐにふわっち配信者が配信中に刺されたニュースを知り

その瞬間の動画や画像を必死に探すという。血溜まりができてた。

死に涙するけど、死に興奮もする。そういう人間性ではある。

母が死んだ

どうも。

母が亡くなりました。希少がんの平滑筋肉腫というやつで。

 

体調急変の連絡を受け13日に実家に帰る。せん妄が始まっていて、呼吸がなんだかおかしいし、完全に立ち上がれなくなった。「痛いよー」と夜中に5時間も叫び続ける日などがあり、家族も眠れない日々が続く。もうこれはそろそろだな、と感じた。父はまだまだ生きると思っていたらしい。自宅での看取りは医師が不在なので、全てが未知で混乱した。初めてヘルパーさんを呼んで介護を頼んだりしたけども、ほとんどお世話になることなく17日に亡くなってしまった。そこからは葬儀の打ち合わせなどでばたばた。あっという間のようで長い1週間であった。

 

6年間の闘病生活、身体中の痛みと精神的苦しみに耐えて最期は楽になれたと思う。

癌になったからこそ母と話す機会も増えて家族について改めて考えることもできた。けれど母の希望は癌が治ることだったから無念、という感じ。

せん妄で意識があるのかないのかわからない中、最期の言葉は「もう一度生きたい」だった。

母を近くで見ていてこんな苦しみって必要なのだろうか?とも思ったし、苦しみを経験しなければ理解できないこともあった、とも思うし。複雑な気持ち。

ここ数年母と共に死の中にあったけれど、引き続き生きている者たちの人生は続く。母は死んでも朝が来る。

 

母の苦しそうな状態について訪問看護師さんに相談した時

天国が山の頂上で、今はそこを目指して登っている所

と教えてくれて、そうか死が山のてっぺんだったのかと目から鱗だった。

高い山に登っているのだから、空気が薄くて苦しいだろうし、身体も痛いし。

生きるとは死という頂上を目指して山を登っているようなものなのだ。

人間死に方は様々だろうけど、最期に苦しむ癌はある意味正しい姿なのかもしれない。楽に死ねたら山を登ってるとは言えないから。

けど、苦しみは無くても良いとも思うから安楽死という選択肢が今後増えるといいと思う。

苦しみを経験することによって世の中はより良くなっていくものだから、もどかしいですね。

 

せん妄中「なんでー?」という言葉も多かった。闘病中『何故癌になってしまったのが私なのか?』の答えを探していた母。「悪(死)」について納得するのはとても難しいことだ。

今回葬儀を頼んだ所は、母が闘病中に決めていたところ。その葬儀社の代表の方も母を癌で亡くしているらしく、葬儀に関する後悔から葬儀社を作ったらしい。自宅でゆっくりと美しいお別れができたのは、癌のおかげとも言える。

 

今回の体験を通してまた新たに目標が定まった。

「神をぶっ殺す」

厨二病ぽくてすいませんけど、人間が新たな神になっていこう、という誓いを新たに。

まあ、わたしの思想は最初からこれなんだけどね。

病気苦しみなど全てをコントロールできる、永遠の命を求めよう。

そして既存の宗教を全てぶっ壊していきたい。

天国や救いなんて全部嘘ですよ。騙されないように。

神をぶっ殺さない限りこの世は地獄のままです。

そう、このことを伝えるために、わたしはUOZAブログを始めたのだ。

 

穏やかな夜に身を任せるな
老いても怒りを燃やせ 終わりゆく日に
怒れ 怒れ 消えゆく光に

これは映画インターステラーの中で引用されていた詩人ディラン・トマスのある詩の冒頭。

この詩が身にしみる程の経験をここ数年何度もした。

人間の心を奥深く潜ると、そこには燃え尽きない怒りの炎がある。

ここ最近の通り魔の多さも致し方なし。

生きるのと死ぬのは表裏一体、喜びと悲しみもまた表裏一体。

そして、地獄の底に落ちるのと天国を頂上とした山に登ることは表裏一体。

天国も結局「死」なので逃げ場がない。生きるとはなんて苦しいんだ。

ちなみにわたしは至ってポジティブな気持ちでこれを書いてます。

 

去年布団ちゃんがやったとあるゲームに衝撃を受けたけど、

つまり生きるってこういうことなのさ。亀に注目。

 

 

書きたいことはまだまだあるけれど一旦ここで。

今年の目標

どうもー。

 

最近また羊毛フェルトをちくちくやっている。

作るのはいいが売るのは大の苦手。

なので今年は大嫌いな宣伝を頑張ってみる。

嫌なことはいつまでーも先延ばしにしていたいけど

重い腰を上げてインスタを久々に再開してみた。

そしてスレッズ


を制作専用に活用してみるぞ。

スレッズてハンドメイド作家多いのかな?

そんな気がする。


今はストーリーズとかリールを活用しなきゃいけないと思うのだけど

わからなすぎてchatGPTちゃんに相談している。

chatGPTちゃんは優しい。

 

そしてついに例の2025年なので、UOZAブログにその件書いとくべきだよね。

今年もオカルトモチベを保つののが目標だ。

UOZA BBSでいつもの常連さんにすすめられた進撃の巨人も見ていく。


母の調子が悪いらしく、明日急遽実家へかえる。

いつ死ぬのか分からん状態が続いている。

そろそろなのかもしれない。

2025年の運勢を占った

どーも。

 

今年も易で占ってみました!

2025年のわたしの運勢です。

まず去年の振り返りをしておこ。

 

2024年は水雷屯 五爻(すいらんちゅう ごこう)

これ四大難卦のひとつだったみたいで良い運勢ではなかった。困難の相。

去年を振り返ると当たっていたと言える。

母の話になるが、癌で余命宣告を受けついに寝たきり介護状態になってしまい、さらに精神も壊れてしまったのでわたしもその影響をもろに受けて辛かった。まさか自殺未遂するとは思わなんだ(母がね)。地獄って現実にあるんだわ。

 

2024年は苦しんでいる人が目の前にいたとしても、自分の力ではどうしようもできないこともある、と悟った。そして他人の地獄に一緒に飲み込まれてみるのも大切だと思った。ここから抜け出せないことがどんなに辛いかがわかる。

 

飲み込まれたままになりそうだったが、心の切り替えがうまくなったと思う。

2017年から心というものの理解を深めていたので掌握している実感がある!

 

地獄を体験したい人に抜け出そうと誘っても無理なわけで、それがもどかしかったな。力があるのに発揮できない、上から押さえつけられているような卦なのでやはり「水雷屯 五爻」の通りだったのではないだろうか。

 

そして今年の卦はこれが出ましたよ。

 

雷地豫 四爻(らいちよ よんこう)

 

やったー良いやつ出たー。ここの説明がわかりやすかったので引用させてもらいます。

爻辞↓

四爻は「由豫 大有得 勿疑 朋盍簪」ゆうよ おおいにうるあり うたがうなかれ ともあいあつまる。

 

「豫」は喜び楽しむの意味がある。しかも四爻が中心となって。唯一の陽が四爻なのだ。事を行なっても、大いに得ることあり。

 

しかし「陰位」に「陽」ですから、力強いとも強すぎるとも言えます。位、不正です。

 

とはいえ、不正なので油断は禁物。人を疑ってはいけないらしい。

 

『雷が地の上に出てあたりを振い動かすのが豫である。』とのことなのだけど、2024年は水の下の雷が力を蓄えているのに、水(坎)によって芽生えることができない卦だったので、2025年でついに雷が出るのだと思うと嬉しい。

 

地 水 雷

地 雷 地

 

坤為地(地と地)→水雷屯(水と雷)→雷地豫(雷と地)。この2023年から2025年の流れよ。大地の始まり生みの困難、さらに我慢を経て、たのしい準備期間が始まる。調子に乗らず慎重に行こう。

 

 

 

初詣のおみくじは大吉だった。というか近年大吉しか出てないような気が。

謹賀新年

あけましておめでとうございますヘビ

巳年ですね。

今年もよろしくお願いします。




今年のおせちです。筑前煮となますと角煮は作った。



お雑煮はおいしい。



今日はいつもの友人に誘われ町田でお茶。元職場の話を聞くなど。
新しい小田急のマスコットキャラがかわいい、と教えてもらい。
確かにかわいかった。もころんってやつ。ぬいぐるみ欲しい。
今年も町田しか行かないんだろ〜な〜
なるべく遠出したくないだけなんだけど。
よく食べた三が日でした。


2025年の易占いは明日やるぞ!

クリスマス→年末→来年

どーもー。

 

年末ですね!

昨日は好きな惣菜などを買い漁りキリストの誕生を祝うささやかな夕飯をしましたよ。その前にも友人宅で素敵なクリスマスディナーをしたので素晴らしい料理の写真を載せておきたい。

 

さつまいもの上にスモークした鯖のなんか美味しいやつ乗ってた。

 

なんか美味しいスープ。緑は春菊と菜の花の色。

 
モザンビークの辛い調味料ピリピリが和えられた鶏肉ひよこ豆小松菜。うまい。

 

鴨だしの炊き込みごはん。出汁が濃い。うまい。
 

胡椒などの香辛料ブラウニー。お酒のつまみに最高。

 

この他カルパッチョなどもあったよ。今年もすずなシェフ(友人妹)によるコースで『バスコ・ダ・ガマが開拓したポルトガルからインド航路の地』をテーマに、それぞれお料理で表現してくれた。無教養なのでバスコ・ダ・ガマについては今調べたよ。クリスマスに死んどるやんこの人。ガマ以外の人も含め計3回の航海で香辛料を大量にゲット、ポルトガルの貿易を有利にしたと。なのでいろんな香辛料が効いた料理だったんだね。大航海時代は夢がある。けれど、食に金に戦争に宗教に人間の欲の歴史だ。

 

教養があるようなクリパっぽいけどそんなことは全然なく、独身ゆえ金だけはすごい持ってる女たちが今年もギャーギャー騒いでおった。麻布のマンションで。みんな立派な会社で働いている。バリキャリの休日を久々に体験した。友人の中で子育て中の主婦のぞいて無職なのってわたしだけじゃね??やばい(やばいと思ってない)




 

さて、そろそろおせちの準備。おせちは毎年作りたい派。ほぼ詰めるだけだけど、おせち好きなんだよね。

ただいまとうきょー

どーもー。

山から下りてきました。

 

山やっぱ寒いわ〜と思ってたら意外とあったかい日もあった。

空気がキリッとしてていいね、秋。

カビ臭い押し入れをどうにかしたり障子張り替えたり焚き火やBBQしたり、山の家はやることが尽きない。もちろん常にニコ生を見ながら作業をしている。今回でかいスクリーン(布)買って、外で焚き火しながらカップラーメンをすすり映画を見た。映画っていうかアガサ・オール・アロング見た。非常に面白い。

 

どんどん進め〜魔女の道〜♪

 

のメロディーが頭から離れない。

 

 

斜面を掘って平らにして焚き火場を作ったなり

 

 

イグチ類ぽいので鍋の汁で煮て食べてみたがまずかったのでやめた

その後喉がチクチクしたので毒キノコだったのかもしれない

来年はホコリタケを食べたい

 

 

フレンチトーストとコーヒーで朝

 

 

寒すぎる日の犬

 

 

二拠点生活も6年目で板についてきたぞ。山の家を手に入れたのは2018年、自分で登記をやったんだわ。来年は植物を植えたりしたいな。

 

どんどん進め〜魔女の道〜♪

 

アガサの感想を書きたいです。来週完結だ。

けいじばんつくった!

どーもー。

 

UOZAブログに新しい記事をアップいたしました。

「悟り」と「解脱」について今一度考えてみました。

よろしくおねがいいたします。

 

 

 

そして、UOZAブログに掲示板をつくってみた!

需要あるだろうか?

とりあえず書き込みをまってみます。

 

 

 

九月は東京であれこれ用事をすませたので、また山に行く。

癌である母の様子見ついで、というテイで。

秋を少し楽しみ水抜きして山じまいしなくては。

 

 

そういえば旦那の漫画が発売されたのです↓

https://natalie.mu/comic/news/592687

ぜひぜひ読んでほしい。

目指せ印税生活。

 

いろいろあるね(オカルトハウス紹介)。

どーもー。

このブログもUOZAブログも全然書いてなかったんで久しぶりにかきこ。

いろいろあってお休みモード。来年から本気出す!

 

考えていることもいろいろあるけれど怠惰なのでそれを文章にするということもなく、ひたすらニコ生監視員やってる。ニコニコ復活してよかった。

 

八月からは山に行っていたり。九月に入ったらもう秋の気配というか、寒くてさっそくストーブつけた。

山の家を買って6年も経ったことに気がつき、時の流れの速さがすごい。

オカルトをテーマにした山の家作りをしているから載せよう。室内の特にあやしいところを。

 

 

 

ヤフオクで買ったエジプトの皿、メキシコで買ってきた皿、土偶ミニレプリカなど。そして池田大作先生の書いた「正義」、シワをとりたい。

 

 

 

お気に入りのぬいぐるみはムーミンの先祖とウワバミ(星の王子さま)

 

 

 

台所との仕切りはアリエクで買ったあやしい布、メソポタミア神話?

壁には三十三間堂で買った両界曼荼羅(胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅)の胎蔵の方のポスター

胎蔵曼荼羅が真理を実践的な側面、現象世界のものとして捉えるのに対し、金剛界曼荼羅では真理を論理的な側面、精神世界のものとして捉えていると考えられる。

Wikipedia(両界曼荼羅)

客体(胎蔵)と主体(金剛界)なんだってー。金剛界曼荼羅はまだしまってあるのでそろそろ出すか。下ふたつは縄文のヴィーナスと仮面の女神ポスターです。茅野市の考古館で買った。

 

 

 

岡山の温羅伝説で有名?な鬼ノ城で買ったてぬぐいは鬼ノ城西門に飾られていた盾に描かれた図、怖いしかっこいい、シワをとりたい。

 

寝室へのドアの上にあるのはアステカ文明の双頭の蛇のレプリカ。

 

 

 

ここでいつもお香を焚いてる。寺で買えるお香が好きで。ムー付録の風水羅盤を飾って中国思想のエッセンスを。中国的オカルトなものを増やしたい。右にはでっかくてとても重いこけし。いいかんじに育っている山の家なので毎回行くのが楽しい。

 

 

ところでこれを書いてる途中で「二分心仮説」というものを知ってこれは、、、と思った。わたしも昔は意識がなかった時代があったと思われるので、なるほどなっとく。そうか古代人がもう少しわかりやすくなった。二分心とべき乗則でわたしはいつか世界をうまく説明したい。そろそろ考えをまとめたい。

 

陽の重なる日とオッペンハイマー。

どーもー。

 

やばい。平凡な日常で満足していてオカルトから興味が離れすぎている。わたしをオカルトに引き戻してほしい、、、、あやしい隕石とか落ちてこないかな〜

 

 

本当はこわい節句

 

GWは特に出かけることもなく。いつものように。ところで5月5日(日)は端午の節句でした。中国から伝わった節句。奇数を「陽数」と呼び、縁起のいいものとして奇数が重なる日を祝うもの。けれど陽が重なり陽が極まっているのだからそのあとは陰に転じる、ほんとうは怖い節句だったりするのかも。

 

こないだ書いたスリーセブンはほんとうは怖いという話にも通ずる。スリーセブンの方は人間の苦しみ(7)を繰り返し(×3)体験するという意味。陰極まって次は陽がやってくるからラッキー7と言うけれど。

 

 

反転の繰り返し

 

陽が極まり陰に転じる、そしてまた陰が極まり陽に転じる。この繰り返し。

 

世間には苦しみがあり、乗り越えたら喜びがある。けれどその喜びもいつかは終わり苦しみがやってくる。その繰り返しが『人間の人生』である。

 

そんな繰り返しにほとほとうんざりしたらどうするか。もう飽きたよ。

 

 

区切る、終わりを決める、切り替える

 

繰り返しにはどこかに必ず区切りがある。その区切りを自分できっちりと決めないと繰り返しがメリハリを持たず、どこかすっきりとしない。

 

なので、陰から陽へ・陽から陰へ切り替わった瞬間を自分で決める。だがそれが難しい。切り替わった瞬間を決めることは、切り替わりに納得すること、その根拠を見つけること。

 

例えば、苦(陰)を終わらせるには、苦が終わったことを納得する為に、自分が何故苦しんでいたかを理解する。結局苦しみの根源にたどり着けないのならば、区切ることは出来ないのだ。

 

苦(陰)という状況が過ぎ、なんとなく喜(陽)に戻ったとしても、同じ苦(陰)はまた繰り返す。

 

けれど区切ることができていれば、同じ苦(陰)はやって来ない。もう原因がわかっているのだから。原因がわかっても認められないということもあるので、同じ苦しみは何度もやってきて認める瞬間が訪れる。それが切り替わり。

 

 

 

陰陽五行では、季節の変わり目を「土用」と言うが、春(木)夏(火)秋(金)冬(水)4つの季節に当てはまらないのが土(季節の切替)。方角でいうと、東(木)西(金)南(火)北(水)で方角に当てはまらない中心に土を置く。

 

繋ぎ目で時を、中心で方角を司るのが土。陰と陽(季節と季節)の違いを感じその間をつなぎ、現実世界の中心にいるのは自分である。現象を捉え感じるのは自分。だから苦の原因も自分の中にある。それは自分以外の所には絶対に無い。

 

世界の中心に自分を置いて、切り替わり・区切りを意識するならば、変化の中でもどっしりと構えていられる。

 

 

切り替えない区切らないで曖昧にする自由

 

切り替わりを決めるのが自分だからこそ、ずっと苦(陰)でいることもできるし、ずっと喜(陽)でいることもできる。切り替えない区切らないことで、同じ季節(感情)を繰り返すことだってできるのだ。同じ気分から抜け出せないのは、自分がそうしたいから。

 

 

苦しいが楽しい

 

現象に一喜一憂心が左右され疲弊してうんざりすることがある。けれど過ぎてしまえば、心が左右されることが懐かしい。困ったことに!

 

「生きてる」と感じるのは、苦(陰)が続いていたり、心や身体が傷ついている時だったりする。リスカってそーゆーことね。「生きてる」を感じるのは楽しい。苦しいのに楽しいという矛盾を知ってしまった。

 

今「あずみ」を読んでいるんだけど、戦の興奮を求めている武士たちの気持ちがよーくわかる。死のギリギリに生を感じること。とはいえ苦の中にいる時は抜け出したいとしか思わないのだけどね。

 

今は平和すぎてオカルトも盛り上がらん。陰謀論にはまったり、怪しい宗教やった方がまだ楽しいのかもしれない。

 

ともかく、最近は長い周期や短い周期をとても意識しており、今は長い周期が一周回った感じがある。またおんなじことを始めているなあ、という感じ。成長も感じており、満足。というか前の周期の時はあまりあれこれと考えていなかった。人間になったんだわなあ。

 

 

オッペンハイマー観た

 

ちょっと前にオッペンハイマー観にいった。終始人間であることの罪を突きつけられて心臓にわるかった。ホラーだった。

 

日本では『長崎、広島、原爆被災者の描写が無い!』とかいう批判もあったけれど、そう思うのなら「人間の罪を糾弾する側」に立っているのであろう。「人間の罪を背負う側」になるということが、オッペンハイマーの人生に自分の人生を重ねること。

 

核をどこが作ろうがどこに落とそうが、正直どうでもいい。人間がやることは、自分もやること。オッペンハイマーがやったことは、全人類の罪。皆平等に平和になるべきと思うのならば、皆平等に罪をも背負うべき。唯一原爆を落とされた日本人こそが気づくべきこと。そう思いました。

 

 

主観と客観が表裏のパラレルワールド

 

ところで、劇中のカラーパートはオッペンハイマーの主観(台本では台詞が1人称で書かれている)、白黒パートは外から見たオッペンハイマー(台本では3人称で書かれている)らしい。白黒パートは主にルイス・ストロースから見たオッペンハイマーであった。

 

そして、カラーパートには「核分裂」(原爆)、白黒パートには「核融合」(水爆)というタイトルがそれぞれ付いている。

 

主観、自分、罪を背負う。そして核分裂を起こす者。

客観、他者からみた自分、罪を糾弾する。そして核融合を起こす者。

 

罪を背負うならば、その罪を糾弾される必要がある。主観と客観は表裏なのが世界。登場人物にはそれぞれ役割があるけれど、主人公(自分)こそが核分裂を起こす罪を背負う。

 

白黒パートは主観の記憶を意味している。自分以外の視点(他者)は自分の記憶なのだ。自分(オッペンハイマー)と自分の記憶(ストロース)が同じ時代を生き同じ場所に居るけれど、主観と客観の間には時空の隔たりがある。時空の隔たりが他者という存在を生む。それがパラレルワールドである。

 

 

時と空間の不思議

 

カラー(罪を背負うこと)と白黒(罪を糾弾すること)を分ける意図。TENETと同じ手法である。順行がカラーパートで逆行が白黒パート。

 

順行と逆行、分裂と融合、破壊と再生、オッペンハイマーとストローズ。それら相反するものの同時性。つまり、自分と他者が同時に存在するこの世界は不思議なのだ。それに気づいているか?

 

原爆と水爆で地上と海の対比にもなっているね。しつこいくらいの対比。陰と陽は裏表。裏表とは同じ時間、同じ場所にあることを意味する。陰陽(1と2)を合わせ持ち、時をつなぎ、空間の中心であることは「3」だ。わかってるようでわかることが難しいこと。

 

TENETでは、アルゴリズム9つのパーツを全て集めたが、すぐに「3つ」に分割した。名もなき男は、3つのアルゴリズムのうち2つ(陰陽)を受け取った。それが始まり。

 

そしていつか「3」になった時、必ず言う台詞がこれだ→『我は死なり、世界の破壊者なり』。名もなき男は「3」を免れていたが。(あえて言えばセイターが破壊者)。TENETとオッペンハイマーもまた裏表だ。

 

「トリニティ実験」の由来、創造のブラフマー・維持のヴィシュヌ・破壊のシヴァでこれも「3」だ。一番の難関が破壊。CERNにはシヴァの銅像があるんですよ。

 

その先に死が待っていようとも、科学への興味関心探究心は止められない。人間はそうやって神(3)への道のりを進む。

 

むりやりパラレルワールドの話をぶっこんだけど、まだまだこの話を続けていこう。よろしく。

 

 

 

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