陽の重なる日とオッペンハイマー。 | ぱんちゃんブログ

陽の重なる日とオッペンハイマー。

どーもー。

 

やばい。平凡な日常で満足していてオカルトから興味が離れすぎている。わたしをオカルトに引き戻してほしい、、、、あやしい隕石とか落ちてこないかな〜

 

 

本当はこわい節句

 

GWは特に出かけることもなく。いつものように。ところで5月5日(日)は端午の節句でした。中国から伝わった節句。奇数を「陽数」と呼び、縁起のいいものとして奇数が重なる日を祝うもの。けれど陽が重なり陽が極まっているのだからそのあとは陰に転じる、ほんとうは怖い節句だったりするのかも。

 

こないだ書いたスリーセブンはほんとうは怖いという話にも通ずる。スリーセブンの方は人間の苦しみ(7)を繰り返し(×3)体験するという意味。陰極まって次は陽がやってくるからラッキー7と言うけれど。

 

 

反転の繰り返し

 

陽が極まり陰に転じる、そしてまた陰が極まり陽に転じる。この繰り返し。

 

世間には苦しみがあり、乗り越えたら喜びがある。けれどその喜びもいつかは終わり苦しみがやってくる。その繰り返しが『人間の人生』である。

 

そんな繰り返しにほとほとうんざりしたらどうするか。もう飽きたよ。

 

 

区切る、終わりを決める、切り替える

 

繰り返しにはどこかに必ず区切りがある。その区切りを自分できっちりと決めないと繰り返しがメリハリを持たず、どこかすっきりとしない。

 

なので、陰から陽へ・陽から陰へ切り替わった瞬間を自分で決める。だがそれが難しい。切り替わった瞬間を決めることは、切り替わりに納得すること、その根拠を見つけること。

 

例えば、苦(陰)を終わらせるには、苦が終わったことを納得する為に、自分が何故苦しんでいたかを理解する。結局苦しみの根源にたどり着けないのならば、区切ることは出来ないのだ。

 

苦(陰)という状況が過ぎ、なんとなく喜(陽)に戻ったとしても、同じ苦(陰)はまた繰り返す。

 

けれど区切ることができていれば、同じ苦(陰)はやって来ない。もう原因がわかっているのだから。原因がわかっても認められないということもあるので、同じ苦しみは何度もやってきて認める瞬間が訪れる。それが切り替わり。

 

 

 

陰陽五行では、季節の変わり目を「土用」と言うが、春(木)夏(火)秋(金)冬(水)4つの季節に当てはまらないのが土(季節の切替)。方角でいうと、東(木)西(金)南(火)北(水)で方角に当てはまらない中心に土を置く。

 

繋ぎ目で時を、中心で方角を司るのが土。陰と陽(季節と季節)の違いを感じその間をつなぎ、現実世界の中心にいるのは自分である。現象を捉え感じるのは自分。だから苦の原因も自分の中にある。それは自分以外の所には絶対に無い。

 

世界の中心に自分を置いて、切り替わり・区切りを意識するならば、変化の中でもどっしりと構えていられる。

 

 

切り替えない区切らないで曖昧にする自由

 

切り替わりを決めるのが自分だからこそ、ずっと苦(陰)でいることもできるし、ずっと喜(陽)でいることもできる。切り替えない区切らないことで、同じ季節(感情)を繰り返すことだってできるのだ。同じ気分から抜け出せないのは、自分がそうしたいから。

 

 

苦しいが楽しい

 

現象に一喜一憂心が左右され疲弊してうんざりすることがある。けれど過ぎてしまえば、心が左右されることが懐かしい。困ったことに!

 

「生きてる」と感じるのは、苦(陰)が続いていたり、心や身体が傷ついている時だったりする。リスカってそーゆーことね。「生きてる」を感じるのは楽しい。苦しいのに楽しいという矛盾を知ってしまった。

 

今「あずみ」を読んでいるんだけど、戦の興奮を求めている武士たちの気持ちがよーくわかる。死のギリギリに生を感じること。とはいえ苦の中にいる時は抜け出したいとしか思わないのだけどね。

 

今は平和すぎてオカルトも盛り上がらん。陰謀論にはまったり、怪しい宗教やった方がまだ楽しいのかもしれない。

 

ともかく、最近は長い周期や短い周期をとても意識しており、今は長い周期が一周回った感じがある。またおんなじことを始めているなあ、という感じ。成長も感じており、満足。というか前の周期の時はあまりあれこれと考えていなかった。人間になったんだわなあ。

 

 

オッペンハイマー観た

 

ちょっと前にオッペンハイマー観にいった。終始人間であることの罪を突きつけられて心臓にわるかった。ホラーだった。

 

日本では『長崎、広島、原爆被災者の描写が無い!』とかいう批判もあったけれど、そう思うのなら「人間の罪を糾弾する側」に立っているのであろう。「人間の罪を背負う側」になるということが、オッペンハイマーの人生に自分の人生を重ねること。

 

核をどこが作ろうがどこに落とそうが、正直どうでもいい。人間がやることは、自分もやること。オッペンハイマーがやったことは、全人類の罪。皆平等に平和になるべきと思うのならば、皆平等に罪をも背負うべき。唯一原爆を落とされた日本人こそが気づくべきこと。そう思いました。

 

 

主観と客観が表裏のパラレルワールド

 

ところで、劇中のカラーパートはオッペンハイマーの主観(台本では台詞が1人称で書かれている)、白黒パートは外から見たオッペンハイマー(台本では3人称で書かれている)らしい。白黒パートは主にルイス・ストロースから見たオッペンハイマーであった。

 

そして、カラーパートには「核分裂」(原爆)、白黒パートには「核融合」(水爆)というタイトルがそれぞれ付いている。

 

主観、自分、罪を背負う。そして核分裂を起こす者。

客観、他者からみた自分、罪を糾弾する。そして核融合を起こす者。

 

罪を背負うならば、その罪を糾弾される必要がある。主観と客観は表裏なのが世界。登場人物にはそれぞれ役割があるけれど、主人公(自分)こそが核分裂を起こす罪を背負う。

 

白黒パートは主観の記憶を意味している。自分以外の視点(他者)は自分の記憶なのだ。自分(オッペンハイマー)と自分の記憶(ストロース)が同じ時代を生き同じ場所に居るけれど、主観と客観の間には時空の隔たりがある。時空の隔たりが他者という存在を生む。それがパラレルワールドである。

 

 

時と空間の不思議

 

カラー(罪を背負うこと)と白黒(罪を糾弾すること)を分ける意図。TENETと同じ手法である。順行がカラーパートで逆行が白黒パート。

 

順行と逆行、分裂と融合、破壊と再生、オッペンハイマーとストローズ。それら相反するものの同時性。つまり、自分と他者が同時に存在するこの世界は不思議なのだ。それに気づいているか?

 

原爆と水爆で地上と海の対比にもなっているね。しつこいくらいの対比。陰と陽は裏表。裏表とは同じ時間、同じ場所にあることを意味する。陰陽(1と2)を合わせ持ち、時をつなぎ、空間の中心であることは「3」だ。わかってるようでわかることが難しいこと。

 

TENETでは、アルゴリズム9つのパーツを全て集めたが、すぐに「3つ」に分割した。名もなき男は、3つのアルゴリズムのうち2つ(陰陽)を受け取った。それが始まり。

 

そしていつか「3」になった時、必ず言う台詞がこれだ→『我は死なり、世界の破壊者なり』。名もなき男は「3」を免れていたが。(あえて言えばセイターが破壊者)。TENETとオッペンハイマーもまた裏表だ。

 

「トリニティ実験」の由来、創造のブラフマー・維持のヴィシュヌ・破壊のシヴァでこれも「3」だ。一番の難関が破壊。CERNにはシヴァの銅像があるんですよ。

 

その先に死が待っていようとも、科学への興味関心探究心は止められない。人間はそうやって神(3)への道のりを進む。

 

むりやりパラレルワールドの話をぶっこんだけど、まだまだこの話を続けていこう。よろしく。