高知県の民俗、師走男と正月女について解説したい。 | ぱんちゃんブログ

高知県の民俗、師走男と正月女について解説したい。

どもー。

 

最近は部屋をセルフリフォームしていたり、実家に帰ったりで文章を書くモードにならず。現実にやることがあると精神(妄想)の世界から遠くなる。わたしにとって書くことは精神世界に没入することなので。ということでリハビリでかく。

 

最近Xで見かけた高知県の民俗が面白かったので、考えてみようかなと。「師走男と正月女」という言い伝えについて。どんなものかtogetterまとめから。

高知の広い地域では12月に男性が、1月に女性が亡くなるとその年に7人を連れていくと信じられ、死者の男性には女装、女性は男装をさせたり、連れて行かれない様に7体の身代わり人形を棺に入れる

これはおもしろい。

 

1年の終わり(12月)に男性が、1年の始まり(1月)に女性が亡くなるとその年に7人連れて行く(7人死ぬ)ということだけど、男性が死んだ時は12月中に連れて行くということなのだろうか?

 

7人連れて行くことを「七人ミサキ」と言うらしい。都市伝説にもなっていたらしく。聞いた事あるようなないような。

 

こちらの論文(PDFに飛びます)によると、何故7人なのか何故正月は女なのか、などその地域の人も意味合いを理解していないらしい。

 

しかし、わたしにはなんとなくわかるぞ。

 

 

 

 

●数字で表すことができる人間の成長段階

以前わたしは出雲大社についての記事を書いたのだけど、その中で『数字の意味合いについて』考察した。その考察を簡単にまとめてみるとこんな感じである。

 

1〜6→獣、人間になるまでに必要な過程

7→人間、輪廻=死という認識、目に見える強さ

8→神、輪廻=生という認識、目に見えない強さ

 

わたしたち人間は10進法をよく使っているので、10までをひとくくりとしたい。9と10は神のその先のこと。8までくれば9でまた目に見えるものになって10で完全になる。10は同時に1でもある。これで最初と最後が重なる1サイクルとなる。1〜3、1〜7、1〜12など様々な1サイクルがあるけれど、この過程はだいたい一緒。

 

数字で表されることとは、人間の精神的な成長過程。成長過程はサイクルしているから何度でも繰り返す。

 

8までくれば成長過程は大体終わり。あとは9と10を忍耐しつつ楽しむのがわたしの考える「解脱」というものである。8は人間の頭の中(目に見えないもの)の理解であり、9と10はそれが現実に現れる(目に見える)過程なのである。この基本を押さえながら伝承や神話に登場する数字を読み解いていけばよい。

 

●何故七人なのか

「七人ミサキ」の七という数字は「人間」の数字となる。精神的な成長段階は人間レベルにあり、繰り返される「死」を恐れている段階であるということ。「死」に対する認識が「七人ミサキ」のに現れている。

 

7は『目に見える強さ』をも表す。7の段階にあるとき「死」に対する恐怖をどのように表現するのか。まさに今世間を騒がしているのは自殺のニュース。自殺という行為は『目に見える強さ』である。

 

人間が憎しみから人を殺すのも、自殺するのも、心が傷ついた末の行動。心が傷ついた時、防衛本能が働くから現実で表現する。「自分の死」を選ぶのは心が弱いからだと思われがちだけど、本当は強いこころ。この先社会で生きて行くことの恐怖に耐えられなくなり、死ぬ怖さを乗り越えてしまうくらいの強いこころ。

 

他人を殺すこと自分を殺すこと、どちらも現実で「死」を表現すること。それが『目に見える強さ』を発揮した結果。「死」に対する恐怖は自分を守るための強いこころとなってそのまま殺人や自死行為に繋がってしまう。「七人ミサキ」はこのような『死に対する恐怖』から起きる『目に見える強さ』を警告している。

 

『目に見える強さ』は他の七人も連れて行ってしまう。殺人や自殺は社会に影響を与える。そのような情報は人々に「死の恐怖」を呼び起こし行動を促す。一人の起こした「死」が七人(多数の人)に影響を与えるのだ。

 

●世界は8人で構成され、影響し合っている

死んだ一人と連れていかれる七人を合わせると八人となる。いまこちらの記事でパラレルワールドについて書いているところなのだけれど、世界の全人口を8人と仮定し話を進めていたりする。もしかしたら「七人ミサキ」の話も、この世界にいる人間が全部で8人であることを前提としているのかもしれない。

 

世界が8人で構成されていることの意味は、たった一人の死であってもその他全ての死に関わっているということ。一人の行いが確実に世界に影響している、ということでもあるけれど、その世界の実状を決めているのは「行い」というよりも「見方」である。

 

7や8という数字は「多数」という意味をも持つ。同じ多数でも7と8の違いは、多数の人間が存在するこの世界に『神がいる(8)』か『神がいない(7)』か。7と8の精神段階は世界をどのように見ているか、という違いでもある。

 

世界の中に「神の存在」を感じているか、感じていないかは人によって異なる。「神の存在」を信じているからといって8の精神段階にあるとは限らないが。

 

●精神段階7の世界

世界の中心人物とは「自分」である。わたしたちには自我があり、自分・わたし・ぼくという視点で世界を見ている。そんな世界の中で誰かが「死」を迎えた時、「死」に向き合い、「死」への認識を改めたりすることがある。

 

無意識で「死がさらに死を呼び起こす」ことを理解しているのが7という精神段階である。そのような世界の見方、「死」への認識が他の七人を連れて行く。「死」を「死」としてしか捉えられていなくて、「死」を強く警戒している。「神の存在」など信じられない状態にあるだろう。

 

七転び八起き、春の七草、七福神、七つの大罪、初七日、世界の七不思議、、、などなど7にまつわる言葉は多い。7が3回重なることがラッキーセブンと呼ばれ縁起がいいのは、神がいない状態を3回ほど繰り返すと8という世界への扉が開くから。『神がいない世界(7)』について何度も深く考えるのはとんでもない地獄ですが、、、その先に8の世界がある。

 

●精神段階8の世界

精神段階が進み8になった時、神の視点が現れる。『死はまた生でもある』という視点である。「死」があるから「生」がある、むしろ「死」がなければ「生」も存在しないことを理解する段階。そういった理解に進む事ができたならば、世界に存在する「死」への視点が変わる。

 

ひとつの「死」が起きたとしても、七人を道連れにしたりはしない。「死」を目にした時、新たな『七人の生』を感じるような視点が8の段階である。

 

どんなグロテスクな「死」を見たとしても、そこに「生」を感じてしまう段階であるので、神の視点はサイコパスっぽさがある。けれど「死」を喜ぶのではなくて「生」の裏にある「死」に感謝する視点である。死とか血を見て喜ぶ人は1〜6の段階。お間違えなきよう。

 

●死の理解と世界の見方

精神段階とは「死」への理解の違い。だから『世界の見方』も変わる。「七人ミサキ」は精神の成長段階が7レベルにある人間の為の物語で、その段階から一歩先に進むための知恵も教えてくれるのが伝承や神話なのである。「七人ミサキ」における、一歩先に進むための知恵とは。

 

●本当は、女は師走・男は正月

男が師走・女が正月に死んだら七人を連れて行ってしまうという言い伝え。何故、師走は男で正月は女なのか。正しくは「女は師走」に、「男は正月」に死ぬ必要があるから、悪い事が起きてしまうのである。

 

1サイクルには必ず始まりと終わりがある。1年で言えば始まりが1月で終わりが12月。男と女、陽と陰、太陽と月、朝と夜、始まりと終わり。このように、男は最初(正月)で女が最後(師走)なのは誰もが知っていること。聖書にもそう書いてある。この決まりはこの宇宙に於いて絶対的なもの。

 

『終わり(師走)が男』で『始まり(正月)が女』だとあべこべなので恐ろしい事が起きる。だからこそ、男を女装・女を男装させ埋葬することで正しい状態に戻している。そして、あべこべだとしても、男も女も死ぬ必要がある。

 

●何故女は終わりに死ぬ必要があるのか?

人間の精神の成長過程、最後の難関と言えば「母殺し」。暗闇で母を殺して自立すると朝を迎えることができる。母殺しとは心の中で「母(陰・死)」と言う困難を乗り越えることであって、決して現実で母を殺してはいけない。

 

人間(7)が神(8)の精神に到達するための試練は「死」を認めることである。8という数字には『輪廻=生という認識』という意味があった。母の属性は「死」。「死(母)」の認識を「生」に改めなければいけないのである。「死」に「生」を感じることができればサイクルが一周する。そして新たな始まりには男が死ぬ必要がある。

 

●何故男が始めに死ぬ必要があるのか?

人間の精神の成長過程、最後の難関にはもう一つある。それが「父殺し」である。何度でも言うが決して現実で父を殺してはいけない、心の中の話なので。

 

「父殺し」とは『目に見える強さを出さない』こと、強さを隠すこと。8という数字には『目に見えない強さ』という意味もあった。神の精神へ到達するには、強さを隠すことが必要になる。それが「父殺し」なのである。

 

自分の心が傷ついたとしても、現実で表現しないことが『目に見えない強さ』。逆に、心が傷ついたときに、何かしらの行動に移してしまうのが『目に見える強さ』。現実的に他人や自分へ攻撃することである。それが最終的に殺人や自殺をもたらす。

 

『目に見えない強さ』とは傷ついた心を全て自分一人で受け止めること。様々なモヤモヤを自分の心の中だけに留めるのだ。苛立ちや悲しみを我慢できなくなると大体の人は外に漏らしたり、発散して気分を変えたくなるものだろう。

 

現代では「病む前にしかるべき機関に相談しよう」みたいなことを言われたりもするが、自分一人だけで考え処理するのが『目に見えない強さ』である。全てを受け止め、自分の心を傷つけ続けるのである。まともなことではないのでとても人にはおすすめできないが。

 

このように強さを外に出さないことが「父殺し(男の死)」である。全ての苦しみを自分自身で負うということ。師走に「女」が死ねば、正月で『男(目に見える強さ)』も死ぬのである。そして8の世界が開かれる。

 

●重ならない終わりと始まりは線、重なる終わりと始まりは輪

最初に言ったけれど1サイクルの「終わり」と「始まり」は重なっている。「母殺し」と「父殺し」はほぼ同時に行われサイクルが完成する。「母殺し」と「父殺し」が両方達成されなければ、終わりと始まりは繋がることはない。

 

サイクルとは始めと終わりが同じ一点である「輪」のこと。始まりと終わりが繋がらないのなら、最初の生の点と終わりの死の点が一本の線で結ばれるだけ。ほとんどの人が感じている「人生」は一本の線なのではないだろうか。

 

1〜7の精神段階は「母殺し・父殺し」が同時に行われていない為、一本の線の世界を繰り返すこととなる。8の精神段階では「母殺し・父殺し」が同時に行われ世界が輪になっている。

 

輪廻転生というものを信じている人もいるかもしれないが、そもそも輪廻(輪)を生きていないのなら解脱もできやしない。一本の線を繰り返し何度も生きていることを輪廻転生と呼んでいるだけなのである。

 

ほとんどの地域で,「正月女」が出ると,2月に入ってから門松を立てて正月をやり直した,ということである。

最初にリンクした論文からの引用。このように『正月をやり直す』というのは一本線の世界をやり直すということを表している。輪にならないから、最初に戻され正月をやり直さなければならない。けれど「終わり(師走)」に正しく女が死ねば、一本の線は輪になることができる。

 

輪の世界は「始まり」と「終わり」を担うのが自分自身だと気が付くことなのである。何故なら、母は死に父も死んでしまったから。その代わりは自分自身しかいないのだ。

 

●順番が重要

「母殺し・父殺し」はほぼ同時行われるが、正確には「母殺し」が少し先になる。だから、師走に女・正月に男が死ぬ。母殺しが他者の死で、父殺しが自分自身の心の死である。他者の死を受け入れるからこそ、自分自身の心の死も受け入れることになる。物事には必ず順番がある。

 

「母殺し」は世界に「死」が存在する意味を理解すること、「父殺し」はいつかは訪れる自分自身の「死」をも認めること。このようにして順序よく「死」を理解していくと精神が成長していく。

 

●8は目に見えないもの

『目に見えない強さ』を獲得するのが8という精神段階。だれもがそのような心を獲得し、世界に平穏が訪れるのが10という段階になる。8でサイクルが一周したように解説してきたけれど、実際にサイクルが一周するのは10。目に見えない心の中でサイクルを理解するのが8という段階で、その理解が現実社会にも現れてくるのが9、そして10で完成と同時に最初の1に戻る。また学びの最初に戻るのである。その時はまた新鮮な気持ちで世界を見る。そして世界に慣れ親しんできた頃に大切なことを忘れているのが人間(7)なのである。

 

●終わり(師走)の時代

2024年、今まさに世界は7の終わりの段階にある。7の3回目に入ったかな?苦しいけれど「母殺し・父殺し」を成功させれば8の世界は必ず開かれる。

 

※今回わたしが解説してきた「母殺し・父殺し」は、世間一般の心理学用語の解釈とは少し違います。とはいえ、「父殺し」は母とひとつになる為に古い父(死)を殺し、自分が新たな父(生)となる過程。「母殺し」は母の支配から逃れる為に古い母(死)を殺し、自分が新しい母(生)として自立する過程。だから一般的な意味合いと根本は同じ。

 

 

 

 

そんなわけで、師走男・正月女の解説でした。間違った「死」が起きたら、正しいことをする。だから男を女装させて、女を男装させる。

 

『間違った死』とか言うのは、実際死んでしまった人に失礼なのかもしれないけれど、生きている者たちにとって誰かの「死」は最大の学びだ。「死」という特殊な出来事に過剰に意味を持たせて戒める。他者の死から自分の本当の人生は始まる。

 

 

 

 

床も壁も黒い部屋をつくった。暗黒部屋。