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ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバーの感想。

観てからちょっと時間経っちゃったけど、ブラックパンサー/ワカンダ・フォーエバーの感想を下書きに放置していたのをアップしておく。今年中に。ネタバレ注意!

 


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絶対泣けるだろうと思ってたけど予想より泣いてしまった。現実世界のチャドウィック・ボーズマンの死を、映画内でどう表すのか?というところが一番気になっていたところだけど、冒頭で同じく病死のように語られていた。

 

この映画の簡単な感想。チャドウィック・ボーズマンの死があったからといって死を綺麗事にすることなく、死の恐ろしい側面を描いていたところが最高だった。悲しいことが立て続けで終始暗い雰囲気なのだけれども、それが「死」だ。

 

この映画については賛否両論あるみたいだが、「生」とか「善」が主題であることに慣れてしまった人たちは否定したくなる内容なのかもしれない。誰だって「死」に直面するのは嫌なもの。

 

一番衝撃的なシーンは、シュリがブラックパンサーになる例の儀式で仮死状態になったあと、出会ったのがキルモンガーだったというところ。

 

シュリは天才科学者であり、兄とは違う気質を持っている。古臭い伝統を嫌う現代っ子。「生きること」がある程度「科学」でリスク管理できている現代社会。生まれた時からそんな中で生きていると「死のリスク」が低減されていて「死」が遠いものになっている。

 

最新の科学技術を持ってしても兄を助けられなかったシュリ。兄が死にそうだというのに「科学」で兄を助けるためにラボに篭りっきりだった。シュリは兄の死に向き合いたくなかったのかもしれない。「科学」でも太刀打ちできない「絶対の死」であった。

 

シュリがハーブを人工的に制作しラボでハーブを飲み儀式に挑んだこと。シュリが「精神世界」より「科学」を信じていて、儀式に敬意を払っていない感じが表れていた。

 

幻覚物質を飲むのにセッティングが大事とはよく言ったもんだけど「儀式をすること」は『現実と精神の区切りをつけること』。明かりとか音楽とか匂いを整えリラックスして「精神世界」に入る準備をしないと「現実の不安」を持ち込んでしまうのでバッド(恐怖)に落ちやすい。古の人たちはそれを良く理解している。

 

準備もせず安易に幻覚物質を飲むのは危険だとも思うけれど、荒療治としては良いのかもしれない。私たちが本来知るべき大切なものは「死」なので、手っ取り早さはある。そう考えると「生」が当たり前な世界に生きるシュリのこのハーブ体験は必然だ。

 

「祖先の平原(精神世界)」で母に会えるのかと思ったら、平原どころかそこは燃える部屋の中で、王の椅子に座るキルモンガーが。精神世界に入ることで知るのは、普段は意識できない心の中にあるもの。

 

シュリは儀式で見るものについて、母に馬鹿にしたように語っていたと思う。けれど自分の負の精神状態を体験してしまいショックを受けていた。心のどこかでは母と再開し美しい別れを体験できるのかも、と希望を抱いていたのかもしれない。

 

シュリは自分の中にある「醜い心」を知ってしまった。燃える炎は「怒り」、王座に座るキルモンガーは「復讐を果たす」という隠された野望。本当の自分が恐ろしい者であることに気がついてしまったのである。

 

キルモンガーに出会ってしまったことを周囲にはひた隠しにするシュリ。何故それを隠すのか。「怒り」や「復讐心」を持つことを恥ずかしいものだと思っているから。

 

アダムとイブが葉っぱで陰部を隠したのと同じように、わたしたちは悪を隠したがる。それは人間に初めから備わったものであるのに。

 

シュリの心にあった「怒り」や「復讐心」。それが明らかになったのが、今回の物語の一番重要なところ。

 

兄ティ・チャラがハーブを飲んだ時、妹シュリがハーブを飲んだ時の対比が「善」と「悪」の対比になっているところが面白い。

 

ティチャラは幻想的で原始的な平原で父と出会った。一度目は不安な心を打ち明けアドバイスをもらったり、善良な心があることを認めてもらったりした。二度目では先祖の元にいこうと「死」の提案を受けるが、父の過ちを正すために、キルモンガーから王座を奪う決意を持った。この二度のハーブ体験で、自分自身が「善」であるということを強調させるものになっていた。

 

一方シュリは炎に囲まれた場所でキルモンガーと出会った。広がりのある平原ではなく、暗い建物の中というのは精神の奥深くへ潜っていったことの現れである。そこは自分の内にある「悪」を知る場所。

 

人間は「善」が自分にあることを認めることはたやすいが、「悪」が自分にあることを認めるのは難しいということ。

 

人間誰しもがこの『憎しみ・復讐心』を持っていること。この感情を持っているからわたしたちの世界には「死」が存在している。そのことに直面することは辛く苦しい。今回シュリは兄の死、母の死、ワカンダに迫りくる死を通して自分の内にある「死をもたらす悪」を理解したのである。

 

シュリは母の仇をうつために「ネイモア」を殺す決意をした。「仕事を果たすべき」というキルモンガーの言葉の『正しさ』を感じているのである。そう感じるのも、自分の内に『憎しみ・復讐』の心があることをはっきりと理解したからこそ。

 

けれど、キルモンガーに出会ったこと(憎しみの心があること)を恥ずべきものだとも思っているから隠す。『復讐は正しいこと(正義)』と『復讐は恥ずかしいこと(悪)』という感情の矛盾。

 

兄ティ・チャラは一度は父の復讐を考えたけれど復讐の連鎖を断ち切ろうとしていた。シュリは復讐を肯定し、否定もしている。これが兄との違いであると思う。

 

シュリはタロカンに行きその世界の美しさも体験していた。敵国ではあるが、そこにはワカンダと変わらぬ人々の生活があった。ネイモアが自国を守るために戦うことの道理も理解していた。シュリは和解を試みるが、やはり戦いになってしまうことは避けられない。

 

『平和の為に戦わない』という選択をしたとしてもそれはただ「死」を待つだけのこと。結局は戦わなければいけない。それがこの世界の掟。

 

キルモンガーの言葉を思い出しながらネイモアを追い詰め、ついに復讐を果たす瞬間を迎えたシュリ。その時「自分が何者かを示せ」という母の声が聞こえる。シュリは自分の中にある「善」を思い出し、復讐を果たすことはなかった。

 

シュリは兄の「死」をきっかけに、キルモンガーによって自分の内に「悪」が存在することを悟り、自分の内にある「善」を母から知った。血の繋がりから「悪」と「善」を知ったのだ。

 

血は脈々と受け継がれるもので、その中には『恥ずべきもの』も含まれている。キルモンガーが「悪」を行わなければ、シュリは自分の内にある「悪」を認識できなかっただろう。

 

そして母から「善」を知ること。ラモンダが「祖先の平原」に現れなかったのは、母のちょっとした意地悪である。現実の出来事から「善」を見つけることがシュリのやるべきこと。

 

ネイモアとの戦いの最中に記憶の中に現れたラモンダ。シュリは母が伝えたかったものを、ハーブという幻覚物質を使用することなく、現実で導き出したのである。

 

現実(科学)しか信じていない存在であるシュリは「死」の本当の恐ろしさを知らないからこそ、強いのかもしれない。一方で経験も多く「死」の恐ろしさを知るティ・チャラは「祖先の平原」で自分の内にある「善」から「悪(死)を退ける」力を貰う。

 

シュリは「ゲーム脳」だ。現実を現実だと思っていない強さが、女にはある。けれど、それは弱さにもなってしまうから、畳み掛けるような「現実における死の試練」を母は与えたのかもしれない。

 

現代に生きる私達がブラックパンサー(善)の力を呼び起こすためには「科学の力」が必要だ。新ブラックパンサー を生んだ「人工ハーブ」は、兄のDNA・タロカンの海草・シュリの科学力、3つの力から作り出されたもの。

 

ティ・チャラのDNAは『血の繋がり』。タロカンの海草は『血の繋がらないもの』。その二つを繋げるのが「科学の力」。

 

「科学」は精神世界を遠ざけてしまうものだと思われている。儀式は忘れ去られ、精神世界で「善」を感じることも少なくなっている現代である。けれど私たちは「科学の本質」を理解していない。

 

「科学」が十分に発達することで、わたしたちは遠い遠い祖先と繋がることができる。今現在血が繋がっていなくても、遠い昔、同じ存在であったこと。アダムとイブだった頃の記憶を導き出すもの。

 

シュリは、血は繋がらないが、自分と同じ経験がネイモアにもあると知った。憎むべき敵であったとしても、彼も母から生まれ祝福されるべき子どもであること。

 

自分自身に脅威を与える存在であっても、同じ存在であるということを受け入れるための力が「科学」の中にはある。

 

世界を「科学」で解明していくことは恐ろしい。ヴィブラニウムがワカンダ以外から見つかったこと。これは「科学の力(アイアンハート)」であった。

 

「科学」をきっかけに「悪の血」が自分自身に流れていることを、わたしたちは知ることになるだろう。だとしても、わたしたちはシュリのように、血の中に「善」があることも見つけることができる。

 

わたしが常々思っていることは「悪」は必然であり、「善」を内側から引き出すものが「悪」だということ。シュリはそれを知っているから、キルモンガーと同じく金色のスーツを選んでいる。キルモンガーの仕事は果たされたのである。

 

 

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フェーズ4を締め括るのにふさわしい作品でした。大満足。

さて、わたしは来年のアントマンをものすごい楽しみにしている。「科学の力」の集大成。ミクロな世界で明かされることは何なのか!たぶんアレだ。

 

初日に観にいったけど「すずめの戸締り」も同じく初日で混んでた。こっちのが人気だった。最近マーベル離れが増えているらしい。マルチバースやっちゃうとそうなる気持ちもわかる。輪廻はもうたくさんってね。



 

猫のたましい。

うちの猫が死んだ。

 

糖尿病性ケトアシドーシスと拘束型心筋症で救急病院で治療したが、回復は難しかった。敗血症の疑いもあった。

 

どちらかというと、猫より犬の方が好きだから犬を可愛がっていた。猫は可愛がろうとしても逃げるので嫌いだった。

 

けれど猫が苦しんで死んでゆく様を見続けていると沢山の思い出が蘇ってきて、後悔ばかりが心に積み重なった。まだまだ長生きできたかもしれない。ちょっと早すぎた。





冷たくなってたましいが抜けた猫は、まだ生きているようだった。目に見えるものとしての肉体が焼かれ消えてしまうのは、思い出までもが消え去ってしまうようで、すごく嫌だった。けれど骨を受け取ったら少しすっきりした。

 

骨を受け取るまえ、本を売る為ブックオフに寄った。河合隼雄の本が読みたいと思っていたのだけど「猫だましい」という本を見つけたから買った。これから読む。

 

猫が死んで理解したことがあった。今、出雲大社の記事と、もう一つの記事を書いているのだけどここ一ヶ月くらいどちらもうまく書き進められない感じがあった。それは「たましい」に関することについての理解に何かが足りない感覚のためであったけど、その答えを猫がくれたのかもしれない。

 

猫はわたしだった。にゅいにゅいの性格を事細かに思い出すとわたしそのもので、紛れもなくわたしのたましいの一部だった。

 

『他者は自己投影』という言葉をよく聞くけれど、投影とかいうレベルを超えリアルで実体がある。わたしのたましいの一部が、生きていて動いていて一緒に生活していたのだ。しかもふわふわでかわいい。

 

猫のたましいは女の部分。犬のたましいは男の部分。わたしには動物だった時代があった。実現できなかったことを人間で完成させる。

 

全ての存在が実体として有ることの意味が深く深く理解できた。にゅいちゃんの置き土産だった。こんな簡単なことを思い出すために殺してしまってごめん。DNAを採取してもらったから、また絶対に会おう。

 

 

にゅいにゅいは沢山兄弟がいたけれど、一匹だけ柄が違った。他はみんな虎柄で、にゅいだけが白とグレー模様だった。他の猫が貰われていったあと最後の二匹のうちの一匹がにゅいだった。他と違うのが気に入ってわたしはにゅいを選んだ。もう一匹の虎柄くんと比べるとかなり臆病な性格だった。

 

入院の際、判明したのはB型だということ!雑種だと9割がA型らしい。ABはほとんどいない。輸血をお願いした猫ちゃん二匹の血液検査をしたら、一匹が奇跡的にB型だった。最期の2日間おうちで一緒に過ごせたのは、血をいただいたおかげなのだと思う。12年間ありがとう。

 



 

出雲大社とスサノオと死。

出雲大社の謎を解く記事、第二弾書き終わりました!すっきり。やっとまとめられたけど、後編もあるよ。今年中に完結できるのか。

 

出雲大社面白いですね。最初、御神体について書こうと決め書き始めるのだけど、その時は出雲大社のことなんか1ミリも知らなかった。

 

調べ始めるとあれやこれやと繋がってきて、今回の記事のように八岐大蛇神話について考えることになったり、三種の神器ついて考えることになったり自分が予想していなかったものを書くことになって、それが実に面白い。


物書きの人ってみんなこんな感じなのだろうか???そしてひとつの記事が書き終わる時の須賀須賀しさよ。(byスサノオ)

 

出雲大社に足を運んだ人の記事や調べてる人の記事を参考に書けています。ありがたいや。行かなくてもいーんだから。サムネ画像も出雲大社に行った友人たちからもらった写真!

 

もう11月になりそうですね。今年は山の家に全然行けなかった。猫が突然の糖尿病になり。とにかくここ数年いろんな病気に悩まされている。わたしも来月検診があるがやばいかもしれない。ついに死ぬのかもしれぬ。それもまた良し。

コロナになってた。

友人とかにコロナ感染が増えてきて、現実にコロナの足音がしてきたな〜と思ってたら、ついにわたしもコロナになった!今は鼻の奥が変な匂いのまま。ご飯を食べてる時だけご飯の味で変な匂いを相殺できる。看病してくれてた旦那は感染しなかった。つよい。

 

それよりもコロナにかかると保険金がいっぱいもらえたり、支援物資がもらえたり、ホテルに無料で泊まれたりするらしい。いいなぁ。

 

コロナにかかるとすごい至れり尽くせりだな、と思った。こうやって私たちはどんどん甘やかされていってもう後には戻れないんや、、、これがコロナの陰謀だ!楽になっていこう。

 

七夕の次の日は。

七夕の由来ってなんだろなと調べてみた。京都地主神社のサイトより、3つが合わさったものらしい。

 

(1)もともと日本の神事であった「棚機(たなばた)」

(2)おりひめとひこぼしの伝説

(3)奈良時代に中国から伝来した「乞巧奠(きこうでん)

 

私たちのよく知っている『おりひめとひこぼし物語』の原型は中国の神話『牛郎織女』からで、さらにその起源をたどると、古詩十九首(こしじゅうきゅうしゅ)という五言詩の中の『迢迢牽牛星』という作品らしい。

 

明の馮応京著『月令広義・七月令』の引く梁の殷芸『小説』には更に詳しく記されており、河東に住む天帝の娘である織女(織姫)が河西の牽牛郎(牛飼い、彦星)に嫁ぐことを許したが、嫁いだ後に機織りをやめたことで天帝の怒りを買い、河東に戻ることを強要、1年に1度だけ会うことを許した、と記されている。

牛郎織女

 

遙かなる牽牛の星 白く輝く天の河の女 ほっそりと白い手をあげ サッサッと機織りの杼を操る 一日かけても模様は織りあがらず 涙は雨のごとく流れ落ちる 天の河は清らかでしかも浅い 二人の距離もいったいどれほどのものか 端麗な織女は一筋の河に隔てられ 言葉を交わせずじっと見つめているばかり

牛郎織女(迢迢牽牛星の訳)

 

 

ともかく7月7日のキーワードは

 

女の機織りの仕事

男の牛飼いの仕事

一年に一度の男女の出会い

そして、水(涙・雨・河)

 

これらが何を意味するのか。ということについての記事を7月7日にアップしました。

 

 

出雲大社の謎を解いていく記事ですが、7という数字と先ほどのキーワードの結びつきは後編で具体的に書く予定です。

 

7が重なる日は、会えそうで会えないから悲しい。7の次は8。8には何かがある。昨日は悲しい出来事がありました。わたしは、ツイッターでこんなことをつぶやいた。

 

 

 

自分の仕事(ツイッターのちょっとしたつぶやきなど)がいつかどこかで、なにかの実を結んでしまうのがこの世界。

 

自分の仕事ひとつで世界は変わる。あべちゃんの死に自分は関係ないと思っているそこのあなた。大国主に怒られちゃいます。とても小さな点と点であっても、それらはどこかで繋がっていることを教えてくれるのが、出雲という場所。

 

出雲大社は「縁結び」で有名なのだけれど、男女の縁結びだけで考えてはいけない。出雲は『すべての点をつなげる仕事』が行われる場所。八百万の神が一年に一度集まって、ありとあらゆる縁を結ぶ。この恐ろしさがわかるだろうか?

 

「生きる」ってどういうことか、これから日本人はほんとうに実感していくのかもしれない。


「生きる」ことは目に見える現実の、全てを負うこと。縁を背負うこと。


苦しみを背負うことは、とても辛い仕事で、それが人間が生まれたときに課せられたもの。大きな責任を負いきれない人が、他殺したり自殺したりする。

 

おりひめとひこぼしが会えそうで会えない7月7日。

ほんとうは、出会っているのに、出会っていないと感じてしまうのがわたしたちなのかもしれない。

8を「悲しみ(死)」の始まりにするのか「喜び(生)」の始まりにするのか。

けれど、8の中には『悲しみも喜びも同時に存在する』ことを、わたしたちは知っているはずだ。七転び八起きってやつだ。

 

それを思い出すためにすべきこと。織姫は、織仕事をせねばならぬし、牽牛は牛を育てなければならぬ。苦しみを背負いながらする仕事が大事。8の日に完成を迎えるまで続けること。そしてまた始めること。区切りを意識することが肝心。

 

出雲大社に特徴的なお参りの4拍は「区切り」の強い意識なのではないかと、いまふと思った。田の字、四隅にある忌竹のイメージ。音を発するものは中心に。

ドクター・ストレンジ/マルチバース・オブ・マッドネス から学ぶ女性性と男性性。

さっそく見てきた!!!ということで今回もネタバレだらけの超オカルトな感想を書いていこ。

 

映画館では初めての4DXで見てきたんだけど座席が激しく動きすぎて背もたれに何回も頭を打ってひとりで笑ってた。背もたれ固いから地味に痛い。ホラーな場面もびっくりして声出た。IMAXみたいな迫力は映像にないけど4DXはホラーに合ってたと思う。

 

さて、肝心の内容について。以前エターナルズの感想書いたときMCUフェーズ4のイメージについてこんなこと書いた。

フェーズ4から「精神世界突入後、その中に精神世界と現実世界を創り、それぞれ分かれていく」はなしなイメージ。

これは、精神世界と現実世界が分かれてどちらも認識できるようになるということであり、そうなってしまうと、もうどっちが現実か分からなくて混乱してしまう。最終回を迎えた「ムーンナイト」もまさにそんな世界観だった。

 

現代では、陰謀論とか集団ストーカーとか、アニメや漫画の内容に本気で怒ってしまう人とか、精神世界のお話を現実だと思ってしまう人々が増えていることと同じである。それはまったく非難することでもなく、仕方がないこと。人間が進化するための通過点なのだ。

 

「ロキ シーズン1」の最終回では、在り続ける者が『境界線を超えた』と言っていたシーンがあったけれど、現代はまさに現実と精神を隔てていた境界が曖昧になり混じり合う時代。

 

「ワンダヴィジョン」で、ワンダは創り出した精神世界にどっぷりと浸かってしまったから現実に戻ってこれなくなった。そして、スカーレットウィッチである自分を選んだ。「MoM」ではワンダ(現実)とスカーレットウィッチ(精神)との対比で境界を超え行き来する混乱が表現されていた。

 

もちろんストレンジも違う世界線の自分に出会うのだけどワンダほど惑わされてはいない。主人公というものは、変わらない自分自身を肯定する強さを持っている。世界線の違う自分に出会ったとしても、現実の自分が絶対である。

 

そしてこのワンダとストレンジの現実世界/精神世界の捉え方の違いが、女性性と男性性の大きな違いでもある。今回の感想文は『ドクターストレンジ/MoMから学ぶ女性性と男性性』というテーマで書いていくことにする。

 

 

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●「MoM」スカーレットウィッチから学ぶ女性性

 

スカーレットウィッチとは、前回の日記でも書いたグレートマザーの悪の側面だ。一方ワンダは善の側面である。

 

グレートマザーとは、心理学者であるユングが見出した夢の中に登場するイメージのうちの1つ。それらイメージは元型(アーキタイプ)と呼ばれており、人間の心の奥底に古代から存在し、人類はそれを共有している。

 

あらゆる物を育てる偉大な母のイメージで、女性の成長の究極的な目標だとされています。ただ、母という要素には二面性があり、一つには子どもを慈しんではぐぐむ力、もう一つは子供を束縛し、のみこんで破滅させてしまう恐ろしい力です。

 

夢に現われるグレートマザーは、年長の女性、女神、老婆、魔女などの姿を取り、否定的イメージが強い時には鬼婆、化け猫、メスの猛獣、渦巻きなどの姿になるそうです。

ユングの夢分析と5つのアーキタイプ

 

グレートマザーは全てを生み出す母であるからこその悪を表現する。大きすぎる愛故の悪。魔女であり老婆であるスカーレットウィッチは予言されていた存在であった。予言されていた存在もなにも、世界とは女から生まれている。ワンダゴア山のスカーレットウィッチの銅像は、世界が『始まった』頃から存在しているのだろう。

 

産みの苦しみとはよく言ったものだけれど、その「苦しみ」は女しかわからないものなのかもしれない。世界を産んでしまう者の苦しみ。それは『現実も精神も結局全ては幻想である』という真実を理解している苦しみであったりする。

 

確か、ストレンジがワンダに対して『子供たちはただの幻想だ』って諭している場面があったと思うのだけど、それに対するワンダの返答にものすごいドキッとした。しかしそのセリフ忘れてしまった!『女は全部幻想だと知っている』みたいな返答だったと思うけど、もう一回見ないといけないな。

 

ワンダの恋人も生身の人間ではないし幻想のようなもの。現実でさえも全ては儚く虚しいということを理解しているワンダ。幸せを手にしたとしても、それはどうせいつか消えてしまう幻なのだ。だから、ワンダはヘックス内で創造した自分の息子たちを愛し留めようとする。世界が幻想であることを忘れるために。

 

息子たちへの愛が強い執着へと変わる時、強大な悪に変貌する。これがグレートマザーの悪の側面である。

 

「ブラックウィドウ」はナターシャの過去のお話だったけれど、レッドルームで殺し屋として育てられたこと、『作られた家族』とのエピソードなどが明かされた。レッドルームの女性たち、作られた家庭、どちらも幻想である世界を表現している。

 

エヴァでも綾波やアスカは自分がクローンであることを知っていて、世界を見る目がどこか冷めていた。やはり女は世界が幻想であるということを知っている。

 

女は世界が幻想だということに納得した上で、それを乗り越えていくことが使命なのである。ナターシャは作られた家族であっても、そこに本物の愛があったことを最後には認識できたから救われた。乗り越えたからこそブラックウィドウは強い。

 

一方スカーレットウィッチの強さは、儚いものをなんとか留めておこうとする執着心から。どうせ幻想なのだから、自分の思い通りにしてしまおうと思っている。そしてワンダの時よりさらに強くなっているのは、自分自身が太古から存在する魔女であること(グレートマザーであること)を知ったからである。

 

闇に落ちて初めて自分の原点(女であること)を知り、性質を理解することができる。そして自分の本当の能力をも理解する。ワンダゴア山で自分の銅像を見た時、そこが自分の玉座であると納得した描写がその瞬間である。だからこそイルミナティなんて瞬殺なのだ。

 

ヨハネの黙示録に登場する『太陽を着て足の下に月を踏んでる女』はまさにグレートマザー(スカーレットウィッチ)のこと。産みの苦しみのために、破壊をもたらすのである。

 

 

●「MoM」ドクターストレンジから学ぶ男性性

 

ワンダとは対照的なストレンジは現実世界と精神世界の境界線を曖昧にしない。それは現実世界が幻想であると思っていないということであるし、現実の自分が絶対だという自信でもある。

 

『他人に絶対にメスを渡さない』ストレンジの傲慢さとも取れる性質は、自分自身が現実を支配しているという強い意識である。現実は精神世界であるということを認めない。けれど心のどこかでは精神世界であってほしいとも願っているのかもしれない。

 

ストレンジは今回自分の世界線を守るために戦ったのであるが、他の世界線に移動し、他の自分の可能性を知ることになる。オープニングでは夢の中で魔物と戦う自分を見た。アメリカチャベスを犠牲にして世界を救おうとしていたが死んでしまった世界線。

 

ストレンジが世界を救おうとすると必ず犠牲が出てしまう。エンドゲームでのトニースタークの死もある意味犠牲である。ストレンジがタイムストーンで可能性を探った中で、世界が救われる世界線はトニースタークが死ぬ世界だけだった。

 

ストレンジは、おそらく、世界を救う為には犠牲が必要だと感じていた。しかし「ホワットイフ」ではクリスティーンが犠牲になる世界線から逃れるために、何度も時を戻しクリスティーンが死なない世界を探していた。犠牲は必要であるけれど、犠牲は伴いたくない。このような矛盾した気持ちと葛藤しているのがストレンジであると思う。


「ホワットイフ」の中でエンシェントワンは、クリスティーンの死は絶対点であり、変えることができない、その点こそが魔術師ストレンジの出発点であると語った。

 

映画版ドクターストレンジの世界線においては、自動車事故で両手が使えなくなることが魔術師ストレンジ誕生のきっかけである。外科医の仕事ができなくなるということは『現実の死』を意味する。男の本当の人生は『死(女)』から始まるものなのだ。

 

男は『女の産みの苦しみ』から産まれる者。女の苦しみは『産みの苦しみ』であったが、男を苦しめるものは『女の死』である。「MoM」はストレンジが「死」の苦しみを乗り越える物語である。「死」から始まる試練は再び「死」を体験し乗り越えるしかない。

 

現実世界が絶対で、そこは幻想ではないと思っているストレンジ。しかし、今回はアメリカチャベスの力によって違う世界線(精神世界/アース838)へと足を踏み入れることになる。アース838はイルミナティというヒーロー軍団が守っている世界。

 

そこではストレンジもイルミナティの一員であったが、既に死んでいた。アース838にもサノスから世界を守る戦いが存在していたのであるが、その際ストレンジは闇の魔術書ダークホールドを用い、別の宇宙を消滅させてしまっていた。イルミナティはそんな行動をするストレンジを危険視し、排除したのである。

 

現実世界を絶対とし自信過剰すぎるストレンジであるが、別世界線では死んでいる。オープニングの夢もまた別世界線であったが、そこでもストレンジは死んでいた。

 

ストレンジにとって別世界線(精神世界)は自分自身の「死」を教えてくれる場所である。ストレンジの意識は、現実世界=生、精神世界=死、と境界線をきっちりと引いているのであろう。

 

ストレンジは心のどこかで、世界を救うには犠牲が必要だと思っている。そんな深層心理が目にみえるものになったのがストレンジの別世界線(精神世界)である。別世界線では、犠牲者が自分自身になっている。誰かが犠牲になることは自分の「死」を意味する。そうストレンジは感じているのだ。

 

オープニング夢の世界線ではアメリカチャベスを犠牲にするという選択をし、アース838ではドリームウォークしたことで、インカージョンが起きてひとつの世界線を犠牲にする選択をしたストレンジ。

 

別世界線では自分の選択によって世界に「死」がもたらされている。それを知ったとしたら普通の人間はすごく落ち込むであろう。そして自分の選択に自信を失い、選択することを止めてしまうだろう。

 

しかしストレンジには至高の魔術師になる素質があるから普通じゃない。その素質とは現実世界と精神世界にきっちりと線引きをすること。現実に存在する自分が確かであることを信じているストレンジであるから、別世界線(精神世界)に起きる「死」という結果を見ても諦めないのである。

 

つまり、本当の自分が存在するアース616では結果を変えたいという強い意志がある。それは「ホワットイフ」という世界線でクリスティーンを亡くしている悲しみに由来する。女とは「死」の象徴である。「死」をもたらしたくないという強い願いなのである。

 

ストレンジは自分の考えを曲げない。自分の選択が正しいと信じている。アース838ではストレンジの選択は非難され、ストレンジ自身もひとつの世界線を破壊した罪悪感を持っていたようだが、それは精神世界のお話。

 

現実世界(アース616)のストレンジの強さは、そんな精神世界(アース838)の自分を知ったとしても、現実世界でやはりダークホールドを手にしてスカーレットウィッチと対決したところなのである。ダークホールドを使って戦うことを恐れていない。

 

違う世界線の自分を覗くことは自分の「死」を知ること。「死」を別世界線(精神世界)で擬似体験しているようなもの。精神世界とはそういう役割を持っている場所である。

 

精神世界において自分自身の選択で「死」が起きているということを学んだ上で、現実世界の自分自身の選択に強い意志を持つこと。これが至高の魔術師の姿である。

 

ストレンジは現実世界(アース616)に存在する強大な悪スカーレットウィッチと対峙することになる。精神世界では「あったかもしれない死(自分/男)」に対峙し、現実世界では「現実の死をもたらす者(女)」と対峙している。

 

ストレンジは、ワンダと同じく闇の魔術書ダークホールドを手に入れドリームウォークで他の世界線の自分に乗り移る。

 

現実世界(アース616)のストレンジは別世界線(シニスター・ストレンジがいたとこ)に飛ばされ、その世界線にあるダークホールドを用いドリームウォークして現実世界(アース616)に置いてある自分の死体(夢の世界線のもの)を操った。

 

ストレンジは自分の死体に群がる悪霊に苦戦していた。悪霊たちとは精神世界(別世界線)の生き物であり、悪霊とは死んでしまった者たちである。「死」とは選択の間違いによって引き起こされるものであるから、悪霊たちには大きな後悔がある。だから生きているものに対する執着があり、足を引っ張る。(ストレンジの肉体は死んでいるのであるが、、、)

 

ストレンジは悪霊に乗っ取られそうになったが、クリスティーンが助け舟を出してくれた。悪霊を利用することを教えてくれたのだ。女とは死を司るものであるから悪霊のことを一番理解しているのも実は女である。

 

「死」から感じる強い苦しみ、「死」とは自分自身の選択でもたらされているということ。「死」の擬似体験によって学ぶことができるのはこの2点である。ストレンジは「死」について精神世界で充分に学んでいる。

 

ストレンジは既に「死」を学び、クリスティーン(女)の助けもある。悪霊たちの苦しみや後悔を理解するための駒が揃っているのである。悪霊のことが理解できてしまえば、簡単に利用できてしまう。このように死(闇)の力を手にいれたストレンジはスカーレットウィッチと対等に戦えるようになった。

 

今までのストレンジにあったものは、現実世界は自分だけが舵を握っていると思っている傲慢さ、世界は自分の力だけで救うことができるという過信。他人の力を信用することができない心の弱さがあった。『他者を受け入れることが自分の弱さ』であると思っていたストレンジ。

 

そして、弱さを認めることは『負け』だとも感じていたのだろう。勝ちや成功にこだわるのがストレンジである。しかし、弱さが自分自身の中に存在することは当たり前であるし、弱さは自分自身の防御にもなる。弱さを否定してきたから、精神世界の自分が「死」んでいたのだ。

 

今回はアメリカチャベスを犠牲にすることなく彼女の力を信じることができた。自分の考えを曲げないストレンジは、その強みを保ったまま、他者を受け入れることは『負け』ではないことを理解した。自分の中に弱さ(死)があることを認めたのである。これがストレンジの大きな成長であった。

 

闇に打ち勝つには光が必要であると思われがちだが、実際には闇の力でしか対抗できない。世界は悪霊で表される悲しみや苦しみで満ちている。悪霊やゾンビは、苦しみから抜け出したいから生きている者を脅かしてくる。

 

スカーレットウィッチもまた苦しむ者である。アメリカチャベスの力によって悪のスカーレットウィッチと善のワンダが出会うことができたのも、ストレンジが苦しむ者の気持ちを理解したからであろう。闇に落ち世界を破壊する悪に対処できるのは、同じく闇に落ち苦しむ者の気持ちを知っている者だけである。

 

このように闇の力でスカーレットウィッチに打ち勝つことができたストレンジであるが、ダークホールド(闇)の対極にある『ビシャンティの書(光)』が戦いに使用されることはなかった。全ての悪に対抗できる書であるようだが、それはなぜなのか。

 

光の力というものは『目には見えないもの』。だからビシャンティの書は精神世界にしか存在しない。つまり現実にはそんな都合の良いものは存在しないのである。

 

冒頭でクリスティーンの結婚式に参列するシーンがあった。同僚がサノスの事件について、あの選択は正しかったのか?と問う。ストレンジは躊躇なく「その選択は正しかった」と答えるが「けれどクリスティーンを妻にできなかった」と痛いところを突かれる。

 

現実世界のストレンジはクリスティーンを妻にすることはできなかった。けれどスカーレットウィッチとの対決において、違う世界線のクリスティーンがそばにいて協力してくれた。クリスティーンもワンダと同じく、女の善の側面として登場している。

 

アース838(精神世界)のクリスティーンは『目に見えない善』としての存在であり、ストレンジが自身の精神の中に『目に見えない光』が存在していることを見つけるのが今回の物語の終着点である。そしてスカーレットウィッチとして覚醒したワンダが、自分自身の中に存在する光(母であるワンダ)を認識することも、ワンダの物語の終着点となっている。

 

光(善)というものは、現実世界には目に見えるように存在していない。精神の中に宿っていて、手でつかむことができない幻想のようなものである。ストレンジもワンダも『死』という経験を通し、自分自身の中に光(善)が存在するということを確実に認識できたということである。

 

現実世界のストレンジがクリスティーンを妻にすることはないが、精神世界に存在する善(全ての世界線のクリスティーン)を愛している。あのセリフがそれを物語っている。

 

 

▲「MoM」から学ぶ女性性まとめ

 

現実世界と精神世界がどちらも幻想だと知っている。そんな悲しみ故に現実を自分の思い通りにしようとする。幻想の世界に光(善)があることを認めるまで破壊を続ける存在。しかし本質的には世界を愛しているから、破壊の後には必ず再生をもたらす善の部分もある。破壊(死)と再生(生)を司り、二面性を持っているのが女性性である。

 

あらゆる物を育てる偉大な母のイメージで、女性の成長の究極的な目標だとされています。

ユングの夢分析と5つのアーキタイプ

女性の成長目標は、自分自身が善と悪の二面性を持っていること(グレートマザーであること)を理解することである。

 

▲「MoM」から学ぶ男性性まとめ

 

現実世界は現実、精神世界は幻想としっかり境界線を引いている。精神世界(幻想)を信用していない節がある。精神世界において死が自分自身の選択の結果であることを知り、光(善)見つけることで成長する。生と死を分けて考え、現実世界でも精神世界でも変わらない自分自身を貫く強い意志を持っているのが男性性である。

 

女性だけでなく、グレートマザーのイメージは男性にも重要な意味を持ちます。すなわち、母の影響力から逃れること、自立、精神的乳離れの際に、このグレートマザーと対決しなければならないと。

ユングの夢分析と5つのアーキタイプ

男性の成長目標は、母(死)からの自立。女(死)との対決の中で、母の持つ善を受け取り自己を確立することである。

 

 

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ユングの提唱した元型(アーキタイプ)にはいろいろあるけれど、全てはグレートマザーに集約することができるのではないか、と今回MoMを見て感じた。

 

ワンダは二面性を持つ女性性、ストレンジは不動の男性性。男性性は(1)という数字で表すことができるし、女性性は(2)という数字で表すことができる。そして(3)という数字は男性性の中にある女性性のこと。

 

現実世界のストレンジ、ディフェンダーストレンジ、シニスターストレンジと3人のストレンジが登場した。スパイーダーマンノーウェイホームでも3人のスパイダーマンが集結。これからは(3)の時代なのである。

 

ダークホールドの代償として、ストレンジの額に3つめの目が現れていた。それは人間が進化した末、神のような存在になるということ。今までは世界線を移動するのにも必死であったけど、神の領域では宇宙そのものを変化させるような力を手にいれているということだろう。ストレンジはまた帰ってくるようなので続編もたのしみだ!

 

今回ホラー要素満載だったんだけど、個人的に一番怖かったのはアメリカチャベスのセリフ。『夢を見ない』『他の世界線に自分がいない』新人類のメタファーすぎてゾッとした。

 

新人類は生まれた時から他の世界線というものを認識し、移動することもできる。なのにそれをコントロールできない。そういった新人類を導いてあげることができるのは、ストレンジのような人だけなのだと思う。なんだか予言ぽかた。

 

オカルトすぎる考察になってしまったけれど、現実世界と精神世界の関係、3という数字、についてはUOZAまじめなオカルトブログのいろんな記事の中に書いているので気になる方は読んでみてください。このアメブロ日記には他のMCU作品についての感想もあるのでぜひ。

 

今後UOZAブログの中で、結局マルチバース(多次元/多世界線)とは何なのか??というところも解説していきたい。マルチバースの真実は人間にとってかなり衝撃的なものではあると思うが、時期がきたら書いてゆきたい。

 

 

 

死霊のはらわたTシャツ着て観にいった。旦那のTを奪った。わたしはドラマシリーズしか見てないんだけど、最終回がすごい好き。あの終わりかた最高。エンディングは笑いたいものだ。

グレートマザー。

グレートマザー(大母)とは。心理学用語。

あらゆる物を育てる偉大な母のイメージで、女性の成長の究極的な目標だとされています。ただ、母という要素には二面性があり、一つには子どもを慈しんではぐぐむ力、もう一つは子供を束縛し、のみこんで破滅させてしまう恐ろしい力です。


女性だけでなく、グレートマザーのイメージは男性にも重要な意味を持ちます。すなわち、母の影響力から逃れること、自立、精神的乳離れの際に、このグレートマザーと対決しなければならないと。

 

夢に現われるグレートマザーは、年長の女性、女神、老婆、魔女などの姿を取り、否定的イメージが強い時には鬼婆、化け猫、メスの猛獣、渦巻きなどの姿になるそうです。

ユングの夢分析と5つのアーキタイプ

 

わたしの中でグレートマザーとの対峙が

ひとまず、終わったのだと思う。

苦しかった。

 

母という要素には二面性があり、一つには子どもを慈しんではぐぐむ力、もう一つは子供を束縛し、のみこんで破滅させてしまう恐ろしい力です。

 

これは、子育ての話というよりかは

人間の根源的なところのはなし。

「子ども」というのは一人の人間のこと。

 

「子ども」を慈しみはぐくむ力というのは、

人間の善の部分であり、生の力。

純粋な慈愛で世界を成長拡大させていこうという意識。

「子ども」を束縛し、飲み込んで破滅させてしまう力というのは

人間の悪の部分であり、死の力。

憎しみ、傲慢、欺き、等々で世界を縮小させ破壊してしまう意識。

 

グレートマザーの死の力に対峙する時

真の恐怖を目の前にする。

グレートマザーには二面性があるのに、

その死の側面はあまりにも大きい。

意識が死を捉えたら、沼に引きずり込まれたようなもの。

光(生)など存在していないように感じる。

まだ死は訪れていないのにもかかわらず

死を迎えることしか想像できなくなる。

 

母の癌はやっかいで、切っても切っても転移する。

そんな状況を受け入れることができない自分。

母の死を何度も想像して苦しんだ。

死を認め、生を見つけるまでの道のりは、長かった。

その暗くて長いトンネルを抜けたのかもしれない。

苦しむ母の中に自分の本当の姿を見た。

その詳細は言葉にするには長くなりすぎるので

心の中にしまっておこう。

ちなみに生きてます!

 

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「死」とは掟のようなもので、無しにすることはできないから、

いつかどこかで向き合うべきもの。

そんな機会が訪れるということは、

2018年1月に無意識の中でなんとなく感じていたのだろう。

 

思い返せばこの時、

『世界は重ね合わせ状態にある』

ということを無意識で理解したのだ。

意識では、単に、「悪は必然」という理解であったけど。

2018年から自分という存在について

検証できる時間が充分すぎるほどあって

同時に「重ね合わせ」についても

完全に理解することができた。

「死」と「生」が重なっていることが理解できていれば

おのずと「死」への覚悟もできる。
 

しかしまさか自らの母の癌を使うとは。

そのまんまじゃん。許せん。

本番(自分の死)はもう大丈夫。たぶん。

 

脳が熱くて変になったあの1週間

量子計算機のように脳が整えられんだきっと。

そして機械学習的に訓練を頑張ったので

今回のグレートマザー対決に勝利できたのだ。

 

グレートマザー(二面性)に対抗できるのは

重ね合わせ(二重性)で考えられる脳だけだ。

夢(空想)の世界と、現実(科学)の世界が

やっと繋がった。

だから2022年なのか〜!なっとく。

 

女性はグレートマザーの両側面の矛盾について理解するのが目的で

男性はグレートマザーの悪の側面を倒すのが目的である。

女の敵は女。グレートマザーの二面性を理解することで対決は終了する。

男にとっての敵は「母(女)」か「父(男)」どちらかをとる。

男性は、その時その時でどちらかを敵とし、交互に対決を繰り返すものである。

 

アマプラで「The Boys」みてるけどめちゃくちゃ面白い。

ボーイズたちが打倒グレートマザーをするお話。

わたしたち人間はどちらかといえば、ボーイズ。

同じことを永遠と繰り返す単独な存在である。

 

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ここ最近、石井ゆかりの毎週の星読みが当たりすぎてすごかった。

2/28からの流れがよーくまとまっている。

グレートマザーとの対決記録として。


そーいや、すごく悲しかった時に

うんこちゃんの結婚式があって

精神的にかなり助けられた。

で、最後に流れた動画が物議を醸してたけど

あれはまさにグレートマザーに勝ったということだ。

母の死を乗り越え、

グレートマザーの役割は嫁に移行した。

次は嫁との対決が待っているのだろう。

人生とは繰り返しで、そうやって成長していく。

2月20日にあったこと。

誕生日を迎えた。

38になったらしい。

変な感じだ

仕事もせず毎日ゴロゴロしてるから

なんだか大人になれない。

そんな記念すべき2022年2月20日

UOZAブログに新しい記事アップしました。

 

あるバラバラ殺人事件を知ってから

ぼんやりと頭の中で描いていたものを

文字にできた。

色々なテーマで記事を書き始めては

進まなくて下書きに溜め込んでいたけど

今回の記事を書き始めたらすらすら。

書ける時期みたいなもんがある。

 

1987年2月20日は

そのバラバラ殺人事件の被害者が

「悪魔に憑かれた」と言い出した日。

2月22日には悪魔祓いが行われ、その後

彼の身体はバラバラにされてしまった。

被害者がやっていたバンドが変わっていて

メンバーがそれぞれ家族の役を演じるスタイル。

 

理由は不明だがバンドのコンセプトとしてファミリーがテーマとされており、メンバーも「女房に逃げられた親父」「祖父母」「ドロップアウトした息子と娘」という設定でコスプレまでしてステージをこなしており「崩壊寸前の家族が送る涙の衝撃作」なるコピーも意味深だ。 

 

 

 

被害者はバンドのリーダーで、娘役だったみたい。

崩壊寸前の家族、、、

祖父母がいて、母親は不在で、ドロップアウトした子供たち。

意味がわかると怖いのだ。

 

 

IRONMANは救世主。

さぁ早くヒーローにならなきゃね。

ヒーローといえば

昨日満を持してノーウェイホーム見てきた。

詳しい感想は後日書くとして

マルチバースって結局なんだろな?

っていう謎解きがついに始まった感。

マルチバースとバラバラ殺人事件は

すんごく繋がっている。

やっぱり3人が象徴的だった。

 

2月20日の気になる話をもういっこ。

昨日ツイッター見てたら流れてきて知った。

なんてグッドタイミング。

1974年2月20日、

フィリップ・K・ディックは神秘体験をしたらしい。

その体験から書いた小説が「VALIS(ヴァリス)」。

ヴァリスとは『巨大にして能動的な生ける情報システム』

のことらしい。

ヴァリスのことについては今回の記事で

「神の正体」として書いた。

ヴァリスが私たちの創造主で

まさに、生きてる情報システム。

ヴァリスも呼吸しているんだ。

システムがマルチバースを作っていて

マルチバースこそがこの世界の基礎。

 

彼はその「超越的な理性的精神」を "Zebra"、"God"、"VALIS" などと呼ぶようになる。

 

フィリップ・K・ディックはそれをゼブラとも言ってる。

ゼブラとは縞(しま)だ。

前にユング関連の本を読んだ時、精神病患者?の夢の内容として

やはり、それを「縞のようなもの」だと描写していた箇所があった。

とても印象に残ったのでその箇所だけ写真とってた。

ここに書き写すが、この本のタイトルはわからん。

 

 

広大な灰色の平原が彼にむかって押し寄せてきて、近づくにしたがって、一面の灰色は色とりどりの縞模様に次々と変わってゆく。太い縞もあれば細い縞もあって、それらが互いにくっついたり離れたり、奇妙な動き方をしている。それから、たくさんの人々がその縞のために働いているのが見える。縞の形を整えたり、流れを導いたり、方角を変えたり、混ぜ合わせたりしようとしているらしい。しかし他の縞がぐいぐいと押してきて、仕事の邪魔をする。こうした妨害の為に、結果はしばしば人々の本来の意図とはだいぶ違うものになってしまう。『原因と結果(因果)』と彼は心の中で言う。そして彼は、人々に手を貸そうとして縞と取り組んでいるうちに、その縞が結局、川下へ向かってとうとうと流れる大河のような、巨大な塊の表面だということに気づく。それが動くのは、その塊が溶岩のように流れているからなのであり、その流れの中に縞が現れてはまた消えているのだ。それと同時に彼は、すべてが透き通って光を発しており、彼のたとえによれば何か滑らかな光のようなものが、その魂だけでなく周りの空気や人々、そして彼自身にまで浸透しているのに気づく。それが浸透したものにおびただしい影響を及ぼすことが、彼にはわかっている。『人間の運命、人々の運命、世界の運命』と独り言を言いながら、彼は依然として自分の縞を形づくることに没頭している。

 

 

ミクロな視点マクロな視点を行ったり来たりしながら

人間の運命を知り、受け入れる。

縞というのは有ると無いのこと。0と1でもいい。

それは、超越的なのにものすごく原始的なもの。

それは実際グレースケールの平原であるが、

人間にはカラフルに見えるもの。

 

縞をわたし的に言うと、漫画。

白黒で描く漫画。

マーベルが原作を大切にしてるのは縞のことわかってるから。

日本が漫画大国なのは原始の人たちだから。

 

フィリップ・K・ディックはすごいね。

イクトゥスとヴェシカパイシスはわたしの好きなシンボルだ!

1番好きなのはコレだけど→⦿

虎視眈々とやる。

四ヶ月ぶりくらいに東京の家に戻ってきた。

久しぶりすぎなので調子を戻している。

なぜか猫アレルギーが再発して辛い。

空気がきれいな実家に慣れすぎたのかも。

 

ブログ記事がかけてないよー。

去年からchromeで何かしらのサイトを見ようとすると

「この接続ではプライバシーが保護されません」

って出るようになってしまった。

ブログ書くためにワードプレスにログインしようとすると

その画面が出てくるから面倒なことになってしまった。

今日それが解決した!っていうか真面目に調べた。

ルート証明書ってやつが期限切れてるらしい。

わたしのブログはいちおーSSL化している。

httpsからはじまるやつ。

わたしの使ってるサーバで無料でつけてくれる?SSLの

ルート証明書に問題が起きてるぽい。

わたしのデスクトップMacが古いのでルート証明書の更新が

上手くいってないということらしい。

ということでこれ見て直した。

ルート証明書ってなんだよーと思って調べたけど

簡単に言うとこういうことらしい。

証明って大変なんだな。

下の存在の頼りなさよ、、、どんだけ証明書いるの。

 

そろそろブログの手入れなどをしたい。

サイトの読み込みが遅いのを解決したい。

SEO対策をちゃんとにしないとグーグル様は

検索結果にのせてくれないもん。

わたしがブックマークしているいくつかの古めかしいサイトなんて

もう検索に引っかかってこないんじゃないかと思う。

そう思うと古いブックマークは財産かも。

 

「よーさん」でグーグル検索かけると

わたしのブログが一番上にでてくる!いまのところ。

「エメラルドタブレット 解説」でも2番目にいる。

SEOがんばったんじゃないか。

ルート証明書じゃないけど、

上の存在に認めてもらうことは大事だ。

最近は「上の存在」は嫌われものであるが、

「上の存在」に気に入られることができると

物事はスムーズに進むものだとおもう。

それができればあとは虎視眈々とやればいいのでは。

したたかに。今年は寅年ですね。

 

虎視眈々の語源由来

虎視眈々の出典は、五経の一『易経』の「虎視眈眈、其ノ欲遂遂タレバ咎无シ」。「虎視」は虎が獲物を狙い見ること。

 

 

 

現在では「虎視眈々」は、下の立場から上の立場を狙うような場面で使われることがありますが、本来は上の立場の者が下を見下ろすシチュエーションで使われる言葉だということが、由来の文章からお分かりいただけるのではないでしょうか。

 

 

 

易経が由来とな。

今年は中国思想を勉強してゆきたい。

とりあえず「大学」と「老子」を読む。

太極拳は24式の動きを大体覚えたので

細かいところを丁寧にやりたい。

もちろん易占いもやってゆきたいですね。

中国ブームきてる。

ビンドゥンドゥンのマスコット欲しい。

ナグ・ハマディ写本。

UOZAブログの記事が進まないので、これ読んでた。

 


ナグ・ハマディ写本の内容を知りたい!と思い買ったらなんか予想と違った。


ナグ・ハマディ写本、この写本群が発見され世間に知られるまでの経緯がいわくつきな感じで、死海文書よりもオカルトチック。


最初に写本を見つけたムハンマド・アリーさんが怖い。彼は写本発見後、父親を殺された復讐を果たし、その犯人の心臓を食ってる。


偶然にも写本をみつけた者は、その後偶然にも父を殺したものをみつけ、復讐を果たした。これは偶然なのだろうか。その他にもナグ・ハマディ写本はいざこざが絶えない。


同じ頃に発見された死海文書とは異なり、ナグ・ハマディで発見されたグノーシス文書は、当初から今日に至るまで、政治的障害と訴訟、それになによりも学者の嫉妬心と「先陣争い」に絶えずつきまとわれていた。(p.23)


なんと写本の一部は、ユングにプレゼントされるために、ユング研究所にあったこともある!


そんな興味から入って読んだけれど、初期キリスト教の、正統(カトリック)と異端(グノーシス主義な人々)を比較しているまじめーな、現実的な内容だった。タイトル見ればわかるものを。ナグ・ハマディ写本からの引用は沢山あったので満足。


これ読んで、グノーシス主義者たちの内実というものがはじめて理解できた気がする。


グノーシス主義のテオドトスさんは、グノーシス主義者というものは、このような問題の認識に到達した人だという。


われわれは何者であったか、また、何になったのか。われわれはどこにいたのか……どこへ行こうとしているのか。われわれは何から解き放たれているのか。誕生とは何か、また、再生とは何か。(p.16)


そして、グノーシス主義者は、自己認識から神を知ること、内的な霊との出会いから神を知ることを目指している。


神とか、創造とか、これに類似したことを捜し求めるのはやめなさい。あなたがた自身を出発点にして、彼(究極的存在)を求めなさい。(p.16)


それって、人間にとって一番難しいこと。外側に神を探す方が簡単なのである。そんな簡単でもないが、、、。内側で神と出会うには素質が求められるし、それは孤独な作業である。日常を普通に生きてる人々にはちょっと無理かもしんない。つまり万人向けではない。


一方、正統派は「万人にわかること」を教会の軸とした。そして、人間イエス・キリストを通して神を知ることを目指す。


正統派のキリスト教徒は、人間は神に近づくために自己の力を超えた道ー神の与え給うた道ーを必要とする、と主張したからである。そして、これをカトリック教会が、それなしでは自己を失うであろう人々に与えるものである、と彼らは宣言した。(p.206)


神から与えられた道を信じること。外側から与えられたものを信じること。何かにすがっていないと自己を失う人々を救うものを用意した正統派。万人に開かれたキリスト教。広め、大きくする道を選んだ正統派。政治的で過激な場面もあったけども、だからこそキリスト教の今がある。


けれど、ナグ・ハマディ写本が発見され、そこから見えてくる異端の思想。内側にある神のこと。初期キリスト教には、今のキリスト教にはない、多様なキリスト教観があったことも忘れないでね〜というのがこの本の要約。


学ぶところが多いこの本の内容については、UOZAブログに書くかもしんない。



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グノーシス主義者が言うように、確かに内側に在る神を知ることが人間の最終目的であるけども、内側を知るきっかけは必ず外側のものである。外側のものごとを取り込み内側で成熟させる。完成したならば(神を知ったならば)外側へと解放する。これがわたしの理解した人間の正しい道筋。そして外→内→外→内…の繰り返しが永遠に続く。神とはこの繰り返す道筋のことで、永遠そのもの。



お葬式でもらった花。天台宗の葬式はかっこよかったし(坊さん3人のお経最高)、その地域独特なお通夜の儀式も興味深かった。


死んだ人を丁寧に丁寧に送り出す。死の本質を知ろうとする試みだ。まるで死に何かが隠されていることを知っているかのようだ。