
初夢は火事。
どもー。
あけましておめでとうございます![]()
初夢は火事でした、という新年初ブログ。正確には初夢ではないのだけど、元旦明け方に見た夢が印象的だったのでわたしの中で初夢とさせてもらう。ハッとなって目覚めた。
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自宅の二階にいたわたし。外から消防車の音が聞こえて、だんだんその音が近づいてくる。窓から外を確認すると自宅の前に消防車が止まっていたので急いで下に降りると、一階のキッチンが焼けている。もう壁がなくて外が丸見え。火はもう消えている。
たぶん、姑がまた鍋を火にかけっぱなしにしたのだろうと思う。姑はわたしじゃないよ、という顔をしてとぼけている。自宅が焼けてしまったのを見た旦那もわたわたとしている。一方わたしは「これから大変になるぞ…」と思いながらも「やるっきゃねえ!」と何故か闘志を燃やしてニヤリとしていた。
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火事の意味について調べたら自宅が燃えるのは良い意味でもあり悪い意味でもある。自宅は自分自身。台所の家事は幸運らしいので期待。とにかく何か悪いことがあってもめげないのでしょう。やる気が表れているいい夢ですね。
年明け早々、地震による火災、飛行機の火災、福岡の火災をライブ配信で見ることになった。不安と恐怖を煽るような情報ばかりで人々が不安定になりそうな2024年がスタート。
不安は感情を昂らせます。ひどく悲しくなったり怒りがわいてきたり。感情コントロールを学ぶような一年になるかもしれません。コントロールしきれなくて暴れちゃうのもアリだと思う。ブチギレないとわからないこともあるんだ。
ありとあらゆる感情を学んで、やっと一人前になれる。一番難しいのが怒り。今年は心を燃やそう。
2023年おわり。
どもー。
12月は忙しくてブログも書けやしなかったが、なんとか来年の運勢だけでも。
今年は自分の筮竹でやってみた。
水雷屯 五爻(すいらんちゅう ごこう)
「潤いが全体に行き渡らない。このような時には、日常的な仕事を正しく行うこと。なんとか打開しなくては、と言って大きなことをするのは凶」
この五爻は、水雷屯という悩みの時代にいる王様です(五爻は王様や社長です)。
ですので、国全体を豊かに潤したくても、行き渡らないのです。
これは王様に力がないのではなく、水雷屯という難しい時代にあるがためです。
このような時は、日常的な仕事をきちんとこなすのが良く、打開を焦って大きなことに打って出るのは危険です。
なんだ来年も我慢の時か。日常を大切に大きなことをしないとな。わかった。地味に生きる。
彖伝によると、屯の卦は陽気と陰気が始めて交わって、生みの困難が生じた状態である。危険の中に動く(上卦☵坎は落とし穴、険という意味、下卦☳震は雷で、動くという意味)。「願いごとは大いに通る。正しい道を持続するのが良い。」という判断の文句は、上半分が雲、下半分が雷で、雷と雲の動きが今や満ち満ちているからである。ちょうど宇宙が初めて創造されたような、時の動きがまだあわただしくて暗い状況では、諸侯を立てて自分の補助とするのが良い。安穏と構えていてはいけない。
知恵の森
水雷屯は「生みの苦しみ」がキーワードらしい。来年も苦しむか、、、
九五は陽剛の爻、「中」を得、「正」であり、最も尊い位にいる。しかし時は屯(=難)の時。下には六二が「応」として応援してくれるが、二は陰柔で、力弱く、何を救うに足りない。初九は最下層にあって民心を得て、民衆がこれについてしまった。九五は穴にはまりこんでいる。ほどこすべき恩沢を所有しながら、下に施すことをようしない。
五爻の象伝。どうも時代が困難らしい。どんな2024年になるのやら。
というか易の理解が浅すぎるので来年は本を買って勉強します。
そういえば、今年の運勢は坤為地 五爻(こんいち ごこう)だった。
有天地然後萬物生焉。
天地ありて然る後万物生ず。
てんちありて、しかるのちばんぶつしょうず。天と地、すなわち乾と坤があって、その後初めて天と地の間に万物が生じる。
彖伝によると、大地の根源である坤の徳は最高である。万物はこの坤の卦を元として生じた。しかしながら、坤の卦は乾に当たる天の手柄を素直に受け継ぐものである。坤は大地であって分厚く、あらゆるものをその上に乗せている。
坤為地って万物の元で、水雷屯が『陽気と陰気が始めて交わって、生みの困難が生じた状態』ならすごく流れ通りだ。地があって陰陽交わり生まれ始め。落ち着くのは2025年か?
今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。
ロキが解脱してしまったのでさみしい。
どもー。
文字を書く気分にならないよ。でも無理やりでも書くよ。
最近マーベルズを映画館で見て、LOKI最終回をディズニープラスで見ました。
ロキよ、わたしを置いていかないでーーーそういう気分です。
LOKIは『マルチバースの秘密』を教えてくれたし、ロキは解脱してしまった!私たちは今まさに「マルチバース」を生きている。そのあたりはUOZAブログに書き始めているのでぜひ。
LOKIのネタバレになりますが、ロキは最後に本当の神になった。世界樹であるユグドラシルになったのです。なんて結末なんだ、、、、
●トリックスターのロキ
シーズン1の感想でも書いたけど、ロキはトリックスター。フェーズ3までは悪さをしていたけど、LOKIという物語では善を学んだ。
●未来で死んだロキと現在生きているロキ
ロキは2018年に死んだが、2012年から分岐した時間軸を辿りTVAという時間の無い場所へ。死んでしまった世界線のロキとは違うロキっぽさを感じるが、世界線が違ったとしても、ロキはロキでひとつの存在。それがマルチバース。
●時間を進めたり戻したり止めたりしてわかること
LOKIは「時間」がテーマでもあった。最後には時間の秘密を暴いたロキ。タイムスリップを習得、時間を止めることもできた。時間を止めるのが一番難しい。
わたしも時間を止めたことがある。うさんくさいがそんなうさんくさい話でもない。その時の話はこちらにあるよ。
時間の停止や、時間の巻き戻しや、繰り返し再生を実体験すると『この世界は消滅と再生を永遠に繰り返していて、それがこの世界の掟である』ということがわかる。体験すると、なんだかそれが身に染みるのである。
●永遠の解釈の違い
1.悪役 2.他者への慈悲 3.時間の理解 ロキはそれら全ての体験を経たのだから、あとは何をすればいいのかは自ずとわかる。強い覚悟を持って、全ての世界線を自らが繋ぎ止めること。ロキは「これまでの世界の破壊」と「新しい世界の再生」を行った。それがロキの考える永遠。一方、カーンはこれまでの世界が破壊されても「また同じ世界を再生」するという永遠。
●正義は勝つ世界、正義も悪も勝つ世界
これまでの世界は「時間織り機」でひとつの世界(時間)として様々な世界線がまとめられていたが、『悪は滅びる』というひとつの世界であった。だから悪役は虚無に捨てられ「正義は勝つ」という信念のもと神聖時間軸として束ねられていた。
最後に明らかになったことは「時間織り機」はあくまでも安全装置の役割を果たしているだけで、いつかは神聖時間軸に破壊がおきるということ。そうなったとしても、また作り直せばいいとカーンは言う。つまり、また神のような管理者をひとり置き「正義は勝つ」という世界にまとめる。自分ひとりの「正義」の定義で世界を回していくのが「神聖時間軸」である。
だが、ロキは「神聖時間軸」を新しい世界に書き換えた。「時間織り機(今までの世界)」を破壊し、自らが犠牲となって、どの世界線も剪定させない。人が望むもの、ありとあらゆる世界線を現実とする覚悟。世界には良いこと悪いことがあるが、全てを現実にするということは『正義も悪も守る』ということにもなる。
●ロキの覚悟とユグドラシル
その覚悟を表現するのが「世界樹ユグドラシル」。自然(世界)と一体になる、という感覚。そこには強い覚悟と強い信念が存在している。自然と一体になることは『自然を愛する』ということではない。
ロキはありとあらゆる世界線(善も悪も)を受け入れたから、自らも自然(世界)の一部となった。世界の一部となり中心で世界線の消滅を防ぐ。ロキは全ての世界線を担保するという、大きな責任と役割を負ったのだ。
●善を見つけるために悪が存在する
嫌いなもの、理不尽なもの、自分には理解できないもの。それらは悪である。けれど、悪には悪の苦しみがある。世界に存在する悪は必然であり、それも受け入れること。悪役のロキだったからこそわかること。
神聖時間軸で悪役であったロキは多くの人を傷つけ、死を迎えた。悪という経験の中から、自分の「本当の願い」を見つけた。仲間の人生を守ることは世界を守ること。それがロキに芽生えた善であり、ユグドラシルの一部になるという覚悟に繋がったのである。
自己犠牲=世界の全てを受け入れること。どんな世界であっても消滅させず、続けていく。それが永遠。永遠を理解したロキは全ての世界線を見守る時間の神になった。
●体と心、実体と仮想、男と女
あと、面白かったのはミスミニッツ。彼女は「在り続ける者(カーン)」の頭脳であり心。カーンが「体」ならミスミニッツが「心」。だから彼女は人間の体をほしがった。
体は男性性、心は女性性を表す。カーン(男)は心(女)を信用していない。だから神聖時間軸を作る時、一緒に勝利を勝ち取ったレンスレイヤーの記憶を消した。信用できないのは、男(体)と女(心)は別の存在で考え方が違うからだろう。シーズン1の最後にシルヴィもそう言ってた。考え方が違うと目的も別になってしまう。
カーンは、戦争に勝利した後、体(男)と心(女)を分離した。そしてミスミニッツという仮想の心を作った。「在り続ける者」の心は分離されたまま、実体(レンスレイヤー)から仮想(ミスミニッツ)へ。
●本当の望み
ミスミニッツは「本当の望み」を隠し持ちながら、システムを守る仕事をする。レンスレイヤーも「本当の望み」を隠し持ちながら、TVAを指揮する。だから二人は共闘するのだろう。ミスミニッツは実体になることを望み、レンスレイヤーは勝利を自分のものにすることを望む。
分離されてしまった心たち(ミスミニッツとレンスレイヤー)は自分に足りないもの(肉体・勝利・男)を補おうとするのだ。
ロキの頭脳であり心はシルヴィだった。実体があり、ロキが時間の移動をしても記憶を失わない女である。ロキはユグドラシルになることで「自由」というシルヴィの願いを叶えた。ロキ(男)とシルヴィ(女)は一体になったのだ。「本当の望み」が同じになったということ。
「神聖時間軸」は『正義が勝つ』という単純なシナリオであるからカーンは全てを決めておくことができる。そのシナリオの中で予想外の動きをするのがトリックスター。悪であったのに善を働くロキ。悪のロキと善のロキ 。それがロキとシルヴィである。
↑シーズン1の感想を引用。悪のロキと善のロキ(シルヴィ)と言ったのは、悪だったロキが、善を教えてくれるシルヴィに出会ったから、世界を守ることができたということ。ロキはシルヴィの「願い」を汲んだから善を学んだ。
男であれ女であれ「本当の望み」は元をたどれば人類皆共通。心の中にあるその望みに気付けるかどうか。
●自己犠牲で物語を書き換える
ロキとカーンの違いは、新しい世界を再生するのか・同じ世界で再生するのかというところ。けれど、自ら新しい世界を再生することを解脱と言う。自己犠牲だけが新しい世界を生む。世界の破壊を他者に任せるのか、自分自身で破壊するのか、も重要です。
人は死ななきゃ永遠であることの尊さがわからない。ロキは神聖時間軸で死を体験している。だからこそ物語を書き換える力を持っているのだ。
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ロキの死は未来に起きている。LOKIの世界線は2012年。神聖時間軸で死んだのは2018年。未来の死を知ることの意味。わたしたちも、未来で死んでいるから今現在を生きている。
未来の死を経験することで「生きる」という行為の中に『本当の望み』を見つけことができる。さらには「未来の死」と「現在の生」との繋がりを理解する。危機の中で人は世界と時間の本当の意味を知るだろう。
大切な人の危機は自分の危機。もうすぐそんな瞬間が訪れるかもしれません。オカルト界隈では2024年とか2025年あたりが騒がしいですね。戦争とか気候変動とか未知のパンデミックとか、そういう自分一人でコントロールできないものに注目するより、ごくごく個人的な人類滅亡に目を向けるべきだ。世界は自分の手の届く範囲にある。
あ、もちろんマーベルズもおもしろかったです。
違う冬のぼくら、2つの世界の見方。
どもー。
違う冬のぼくらというゲームがすごかったので紹介です。2人で協力プレイして進めるゲームなのですが、それぞれ見ている世界が違う、というのが面白い。
一人は機械の世界が見えていて
もう一人は動物の世界が見えている
最近「かごめかごめ」の記事を書き終わったのだけれど、簡単に言うと「かごめかごめ」は人間は籠(現実世界)をいつ出るのか?出たらどうなるのか?ということを教えてくれる歌。
籠を出たら、そこは完全なる精神世界。それを体験した後また籠の中(現実世界)に戻ると「世界の見方」は変わってしまう。その「世界の見方」には2通りある、とわたしは結論付けたのだけれど、それがまさに「機械の世界」と「動物の世界」。
わたしが見たプレイ動画はこちら↓で「動物の世界」の視点の方。ここからゲーム内容のネタバレあります。
2人が違う世界を見るきっかけになったのは「鹿の死体」を森で見かけたから。こどもがグロテスクな死を初めて目の前にした衝撃。「死」を強く意識することは、精神世界への入り口なのです。
普段見ている世界がガラリと変わることは『現実世界から精神世界に入ってしまった』ということを意味する。心の中の世界(精神世界)は自分だけの世界なので、他人と世界が違うのは当たり前。けれど「世界の見方」は2つに分けられる、細部の違いはあれど。それもまた「機械の世界」と「動物の世界」になる。
先ほど『現実世界(籠の中)から精神世界(籠の外)へ出てまた現実世界(籠の中)へ戻った後の世界の見方に2つある』と言った。けれど『現実世界(籠の中)から精神世界(籠の外)へ入った時の世界の見方も2つある』ということになる。
ややこしいのでまとめる
その1 現実世界→精神世界→現実世界(2つの見方)
その2 現実世界→精神世界(2つの見方)
その1とその2の違いは現実世界を見ているか、精神世界を見ているかになる。「その1」は現実世界と精神世界の区別ができている人。「その2」は現実世界と精神世界の区別ができていない人。通常私たちは「その2」の世界を生きている。
と、ここまで書いて説明がめんどくさくなってきた。どっちにしろ世界は2つある、ということで。この話はいずれUOZAブログにもまとめたい。とりあえずゲーム見て思ったことを羅列しておく。
犬は自我(AI)だが、3つに分かれてしまうもの。鳥は籠に囚われていて苦しいから世界をかわいく見るしかない。機械の世界が本当で、電波を発するでっかい塔が世界の大元。みんなの心の奥底には化け物みたいな子どもがいると思うよ。あとはゲームをやるか実況を見てくれ。わたしは二週目プレイ見てないけども。
鹿のおじいさんが出てくるけど、諏訪大社の御頭祭(おんとうさい)を思い出しました。シシガミさまとか、日本人にとっての鹿は「生きることを突きつけてくるこわい神様」。鹿のおじいさんは狂っているけれど、その理由を知ったならあなたはどうする?
最後に3本道のパズルがあったらしい!そんなのあったけ?ひとつの道が正解らしい。ルートは本当は3つあるのでね。もうひとつは化け物の子視点ですね。3つめの世界。
四神が守る神楽殿。
どもー。
かごめかごめの続き、ついに書き終わりました。風呂敷を広げてしまいました。
悟りとは何か?解脱とは何か?という話もできたし、心と時間の話もできた。
ぜひ読んでください。
アイキャッチ画像は南アルプス市にある「高尾穂見神社」。細い山道を上り切った限界集落にある立派な神社。夕方に行ったのでちょっと怖かった。
ここの神楽殿の上の方には四神が彫刻されていた。青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)。四方向を守る神々は「かごめかごめ」の籠を守る神である。
時間(東西)と天地(南北)は人間が生きる為にあるもの。方角は人間を守っている。
四神の中心にいるのは黄竜または麒麟である。五行思想において中心は土(黄)の性質を持つ。人間は四神に守られ中心に立たなければいけない。
その為には天に昇るのではなく地(土)に深く潜り、人間の真実を受け止める必要がある。地を深く潜った先には、なぜか天がある。そして、やっと中心であることができる。
鳥居をくぐり神社の拝殿を前にする時、人間は自分の心と向き合っている。また、神楽殿で舞うことは、人間が現実で生き方を表現すること。神社で祈るだけではなく、神楽殿の中心で舞うことで天照大神はやっと岩戸から顔を出すのだ。
ところで今、オープンレックでおえちゃんともこうがやってるゲームを見ながら書いてるのですが、このゲームが「かごめかごめ」すぎる。やばい。次の日記で紹介します。
「かごめかごめ」のひみつ。
どーもー。夏なので怖いはなしをひとつ。
誰もが知っている「かごめかごめ」というわらべ歌。オカルト勢はこの歌について様々な解釈を行っているようです。今回はこの歌の本当の意味を、お教えいたしましょう。
「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似たものとされる。歌詞が表現する一風変わった光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がされている。作詞・作曲者は不詳である。
かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
まずはこの歌の様々な解釈を見てみる。wikipediaに一通りの解釈が載っているが、オカルトっぽいものを取り上げたい。
陰謀説(提唱者不明)
「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。「かごめかごめ」の陰謀論ではこの話が最も有力であると見られている。
『人間の欲の為に子供を殺された女の恨みの歌』であるという説。
囚人説(提唱者不明)
かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。
『牢屋の中にいる囚人が死を迎えるのか、生き残るのか、運命の歌』であるという説。
神示説(提唱者不明)
「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。
『肉体の束縛から逃れ、悟りを得る歌』であるという説。
最後のものは救いを感じさせるような説であるけれど、多くが不気味さを感じさせる解釈である。
他の有名な解釈に『この歌詞自体がヘブライ語である』という説がある。こちらのサイトがとても詳しいので解説を引用させてもらう。
カゴメ印がイスラエルのダビデの星と同じであることから、いつしか「かごめかごめ」の歌詞にある「籠の中の鳥」という表現は、モーセの時代に作られた「契約の箱」、聖櫃を意味しているという説も囁かれるようになりました。旧約聖書には、その箱の中に神の息吹によって刻まれた聖なる十戒の板が保管され、箱の上部にはケルビムと呼ばれる2羽の金の鳥が向かい合って添えられ、聖なる箱を守護する役目を果たしていたことが記載されています。
(中略)
ところが、これだけカゴメ印とダビデの紋との共通点が指摘され、「契約の箱」と「籠の中の鳥」の関連説が囁かれてきたにも関わらず、そのカゴメ印のわらべうたとなる「かごめかごめ」の歌詞がヘブライ語で書かれているということについて、これまで多くは語られてきませんでした。
この説が考えられたのは『ユダヤと日本には繋がりがある』という「日ユ同祖論」が発端であると思われる。「日ユ同祖論」を知らない人はググってください。
個人的に「日ユ同祖論」はワクワクして好き。日本語とヘブライ語の発音が似ているというのは面白い。引用させていただいたサイトの方によると、かごめ歌の単語を似た発音のヘブライ語に変換し、またそれを日本語へと訳してみると、こういった意味になるそうだ。
何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ!燃やし尽くせ!社を根絶せよ!
造られたお守りの岩は功を奏することなく
焼かれた荒れ地は見捨てられた
何かが(誰かが)囲われていて(囚われていて)、封じられたものに火をつけ燃やし尽くす。最後には何故か見捨てられてしまう。やはりこの解釈もちょっと怖い。さらには別の解釈も考えられるという。
何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ、燃やせ、社を根絶せよ!
お守りの岩は水が湧き、荒地が支配され水を引く!
前の解釈では「お守りの岩」というものが役に立たなかったが、こちらの解釈では「お守りの岩」から水が湧き荒地が支配された。
ヘブライ語説を簡単に説明すると『山のような人目につかない場所に囲まれ隠されていた「神宝」を取り出し、新しい地に遷す(うつす)という』ような意味合いではないかという。そして『火をつけ燃やす』というのは「神の裁き」を意味しているのではないかということ。
囲われ隠され安置されている「宝」は燃やされた。その結果、「宝の安置場所」は見捨てられた。もう一つの解釈では「宝の安置場所」には水が湧き支配された。神の裁き(火)の結果が二通りあるということになる。
旧約聖書を教典とするユダヤ教。旧約聖書の中に登場する、神の指示で作られた「契約の箱」というものがある。それは、イスラエルから失われ行方が分からなくなったまま現在に至る。神宝である「契約の箱」は日本にあるのかもしれない…という話に続いているので、詳しくは引用元サイトをぜひお読みください。
日本語→ヘブライ語→日本語という変換が、カバラのゲマトリアを思い出させる。かごめ歌は、変換させることで本当の内容が分かる暗号のようなものかもしれない。
いくつかの説を簡単に紹介してきたが、ここからは全ての解釈をまとめるような「pancyan説」を提唱していきたい。かごめかごめの歌詞を振り返り、その後にわたしの説をどうぞ。
かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?
→四方を囲まれ守られている人間(自分)。人間がその囲いを出る時、人間の正体が明かされる。
それぞれの単語の意味合いは以下のようになる。歌詞の内容も詳細に解説していく。
籠→人間を囲う現実世界、現実世界と精神世界の境界線
鳥→現実世界に居る人間、空想をする生き物
夜明けの晩→現実世界を出る時、境界線上
鶴と亀→人間と神または死と生または永遠
滑った→真実を知ること
「籠の中の鳥」の意味
人間は現実世界を生き、現実世界という籠(囲い)に守られている。この当たり前のことを「籠の中の鳥」と表現している。守られていることを忘れてしまうほど長く籠の中を生きている私たち。けれど、いつしかその現実世界に疑問を感じるようになる。今現在、この世界はおかしい、この現実に違和感を感じる、などと思う人が増えてはいないだろうか?
「いついつ出やる」の意味
「いついつ出やる」という言葉は、守られた現実世界からいつかは出ようとすることを暗示している。予言とも思える言葉である。人間が現実世界を信用しなくなった時、人間はそこから出ようと考えるようになる。
現実世界から逃れようとする人間が目指す場所と言えば、苦しみが無くどこまでも自由な「理想郷」ではないだろうか。けれど現実にそんな「理想郷」など存在しない。私たちは現実から逃れる為に現実には無いものを想像する。無ければ空想の世界で創り出すしかないのだ。
私たちは「理想郷」を「天国」や「常世の国」などと名づけて、物語にすることがある。が、そのような現実世界には無い場所(空想の世界)は「精神世界」と呼ぶ方が適切である。「現実世界」の対になるものとしての「精神世界」である。
私たちは「理想郷」が現実には無いと思っているからこそ、現実世界(籠)の外に「理想郷」があると思っている。つまり、籠(現実世界)の外に出る時、というのは「精神世界」へ足を踏み入れる時を指しているのだ。
「精神世界」に詳しい人がいるとすれば、薬物中毒者や上級瞑想者なのかもしれない。「精神世界」を体験する方法として、幻覚を見せるような物質を利用する、精神を超集中して自力で入り込む、などがある。また夢を見ることや臨死体験も「精神世界」の一種である。
かごめ歌はそんな「精神世界」の真実を教えてくれるもの。籠(現実世界)から一度も出たことがない鳥(人間)が、籠の外(精神世界)に飛び出したらどうなるのか。その先には何があるのか。
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長くなりそうなので、続きはUOZAブログにアップします。
籠に囚われた青い鳥が境界線を越えるのは、未知の領域に足を踏み入れる時。籠の外は真っ黒闇の恐怖!えーっくす!
どうでもいい余談。かごめ歌ヘブライ語説の解説で引用させてもらったサイトって「日ユ同祖論」に興味がある人なら必ず通るサイトだと思う。このサイト作ってる方、サウンドハウスの創業者であることをはじめて知った。瀬戸弘司がよく楽器買ってるとこじゃん!てなった。やはりユダヤの思想を持っている人は商売上手なのでしょーか。
最近の事件と、ナイフと聖杯と家族のはなし。
どーもー。
この記事を書いていた時に、今後ナイフ(刃物)を使った事件が増えるんだろうなぁと感じていたんだけど、そうなっている気がします。
記事の中ではレオナルド・ダ・ヴィンチの「ナイフ」の解釈について考えたんだけれども、ダ・ヴィンチはナイフというモチーフを使う時『強い感情表現』として描いていたらしい。
絶望した男はナイフをふるう。人は「弱い心(聖杯)」が出てきた時「強い心(ナイフ)」を出さなければいけないことを知っている。けれどナイフの使い方を誤ると、人を殺してしまう。
わたしの知っているナイフの正しい使い方。ナイフでは自分の心臓を刺さなければいけない。自分が犠牲を被るべし。ただし、実際に心臓を刺してはいけない。自分が悪いということを認めるという意味です。
どんな理不尽なことがあっても人を殺すな。相手が悪い、自分は悪くない、と思う「弱い心」。その心を隠すために「強い心」は自分以外を否定する。世界で一番悪い人間は自分自身だ。この世界に生まれてしまったのだから。究極の自己責任を負うものだけが、正しい「強い心(ナイフ)」の使い方を知っている。
そして、この記事を書いていた時には、今後家族の問題が浮き彫りになる事件が増えるのだろうなぁと感じていたんだけど、そうなっている気がする。
父と母と子、という家族。心は3つの魂でできている。けれど二つの心が不協和音をおこしたら、心のバランスが崩れてしまう。父と母と子は1と2と3でも表すことができる。
全ての神話は、「悪(1)」と「善(2)」と「自分(3)」という三つ巴で描かれている。「3」の自分というのは、物語の「主人公」のこと。物語の読み手である私たちが、物語の中の「主人公」へと意識が変わったとき、現実世界において物語と同じ体験が起きる。
これ、その記事からの引用ですが「悪(1・父)」と「善(2・母)」は、「善(1・父)」と「悪(2・母)」でも良いということをここでお知らせしておきます。
現実世界は、男(父)と女(母)の喧嘩から始まっている。崇神天皇が天照大神と倭大国魂神(大国主)を分けて祀ったのは、喧嘩に気がついてしまったから。
その喧嘩を解決しなきゃいけないのは子なんです。親の後始末めんどくさ!と思ってしまうが、そこに愛はあるので、がんばろう。物語の主人公は子であり、私たちを主人公にするための喧嘩なのだから。主人公を選ばなかったら、ずっと喧嘩が続いてしまう。
ススキノ首切り事件の部屋は202。202は怖い。1も3も無い0。そして内装はピンク。赤に白を足して中和してしまうメンヘラちゃん。闇に落ちた女性性は猟奇的。ピンクのキノコ雲バーベンハイマーも炎上してしまった。
人が人を刺してしまう(殺してしまう)のは、聖杯(弱い心)の解釈に問題がある。弱い心は大切なもの。恥ずかしがる必要はない。聖杯は元々満たされているはずなのに、聖杯が満たされていることを知らない私たち。だから、ナイフを手にした時、聖杯の中身を誤ってこぼしてしまう。既に満たされているのだから、自分の心臓を刺しても大丈夫、という安心感を持ってナイフを手にしよう。聖杯に満たされた血があなたを復活させるでしょう。
未知の領域X。
どーもー。
ツイッターがXになって話題ですね。わたしはイーロンマスクが好きなので、かなり好意的に見てます。
なぜならイーロンはシミレーション仮説を推しており、その仮説はわたしも推しているというか、UOZAブログで訴えている「この世界の真実」だから。
イーロンのツイート(エックセズ、、、、)を読むと、わたしと思想が同じなんじゃないかと感じてしまう。このツイートとか。
いつまでたっても現れない宇宙人は、はじめからそこにいるのかもしれない https://t.co/Cbq9GQyF7Y
— ぱんちゃん (@hapinemiku) July 23, 2023
私たちが夢想するものは予測であり希望なのだ。宇宙人がわたしたちと姿形がまるっきり違えば受け入れやすいのにね…
シミレーション仮説を追求していくと、この世界は「一者の意識の中」であることに気が付くことになる。エメラルドタブレットの言葉で言えば『万物が一者から一者の瞑想によって生まれるがごとく』。自分自身が世界の中心であり、管理者であることを自覚してゆく。そして、その事実と現実をすり合わせる必要があることを悟る。
イーロンもそこまでの理解に到達しているのではないか。彼はお金も地位も影響力もあるのだから、あとは実行するのみ。『この世界が一者(自分)の意識の中』であることを理解しても、目の前の現実がそのようになるまでもっていくのは実に難しい。
『シミレーション仮説を信じた人が実行すべきこと』とは「強い自我」を表現すること。人間は強い自我を嫌う。他者の自己中心的とも言える行動に嫌悪感を抱く。
「強い自我」を表現すると必然的に「悪」になっていく。ヘイトは増えていくが、仮説を現実にする為には、成すべきことを成さねばならぬ。批判を恐れる平凡な人には出来ないこと。ちょっと頭がおかしいくらいじゃないと「悪」は務まらない。
イーロンはひとつのアプリ(X)の中でいろんなことをやりたいのだけど、仮想現実(インターネット)の中にひとつの世界を作ろうとしているのだろう。この現実世界(仮想世界)を再現しようとしている。マークザッカーバーグも同じことやろうとしていると思うけれど、どちらがうまくやれるのか、それとも別のところがやるのか。アップルも金融を始めたし。
世界の中心であり、その世界の管理者になるのは難しいこと。なにもこの世界の中心である必要はない、と理解して細々と中心をやっている人もいる。小さな世界を作れば、中心の一者でいることは容易。けれど人間は欲深い…小さな世界だけで満足できるかな。
イーロンはスサノオぽくていい。その場を荒らし何かを変革していく。強い自我を表現するスサノオたちが、「支配欲求」が私たちの内にあることを強制的に教えてくれるかもしれない。怒りを引き出し、集めてね。
支配が嫌なら支配から抜け出すしかない。けれどそこもまた支配された場所である。この仮想現実から抜け出すには、この世界の本当の支配者になればいい。地球(宇宙)の中心であれ。平凡な人は仮想現実から抜け出せるとは信じないだろうから、仮想現実の中で支配されることを受け入れるしかない。支配された中で小さな幸せを探し生きる、籠の中の青い鳥のように。
ところで、わたしも『シミレーション仮説を信じた人』なので、やるべきことをやらなきゃいけないが、わたしは平凡なのでまったりやります。
UOZAブログ更新しました。
こんにちは〜。
新しい記事を書いたのでお知らせです。
TENETをもう一度見直したら、書かなきゃ
となったので書きました。
けっこうがんばったので読んで下さい。
人間が2つの時間の流れに挟まれている中間な存在
であることをTENETでいい感じに説明できました!
あとこの記事を書く過程でカバラが理解できました。
オッペンハイマーを意識して書いた考察です。
日本ではいつ公開されるのだろうか。九月かな。
アブラハムと7人の子とイシュマエル 。
どーもー。ここ最近カバラを勉強しようと思っていろいろ調べていたのです。発見もありつつ、なるほどなるほど、と納得していたのですが、それよりも。
昨日ついに長年気になっていた謎がとけた。「アブラハムは7人の子」という曲を知っているかい?わたしは小学生の頃少しだけ通っていた英会話教室でこれを英語で歌っていたのだけれど、大人になっても妙に心に残っていたこの歌。
アブラム、または アブラハム 、アブラハームはヘブライ語で多数の父という意味。ユダヤ教・キリスト教・イスラム教を信仰する「啓典の民」の始祖。ノアの洪水後、神による人類救済の出発点として選ばれ祝福された最初の預言者。「信仰の父」とも呼ばれる。
wikipedia(アブラハム)
アブラハムとはユダヤ教・キリスト教・イスラム教の始祖。アダムとイブの直系子孫になる。アブラハムには多くの子供がいた。それが曲のタイトルにもある「7人の子」。この7人の内訳とは。アブラハム人類救済の出発点からの流れを軽くまとめながら。
アブラムは父テラの死後、神から啓示を受け、それに従って、妻サライ、甥ロト、およびハランで加えた人々とともに約束の地カナン(現在のパレスチナ)へ旅立った。
アブラム一行がカナンの地に入ると、シェケム(エルサレムの北方約50km)で神がアブラムの前に現れ、
あなたの子孫に、わたしはこの地を与える。
— 『創世記』12:7、日本聖書刊行会の新改訳聖書より
アブラハムにはサライという妻がいた。そして神から、子孫が増えるような啓示を受ける。
アブラムとロトとが分かれた後、アブラムに神から以下のような預言が下された。
「さあ、目を上げて、あなたがいる所から北と南、東と西を見渡しなさい。わたしは、あなたが見渡しているこの地全部を、永久にあなたとあなたの子孫とに与えよう。わたしは、あなたの子孫を地のちりのようにならせる。もし人が地のちりを数えることができれば、あなたの子孫をも数えることができよう。立って、その地を縦と横に歩き回りなさい。わたしがあなたに、その地を与えるのだから。
— 『創世記』14:14-17、日本聖書刊行会の新改訳聖書より
さらには、東西南北見渡す限りの地を永久にアブラハムと子孫に与えるとの預言。アブラハムと子たちは地球の支配者になるということを約束してくれた神。それなのに、なかなか子供に恵まれなかったアブラハム。
彼は老齢になっても嫡子に恵まれなかった(ハランを出発したときは75歳)が、神の言葉
「天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい。」「あなたの子孫はこのようになる。」
— 創世記15:5、新共同訳聖書より
と言われ、その後妻のサライの勧めで彼女の奴隷であったハガルを妾にして76歳にしてイシュマエルを授かり、後に99歳で割礼を受け、老妻サラ(サライ)との間に100歳になって嫡子イサク(イツハク)を授かった(創世記 第16‐18・21章)。これ以外にアブラハムの子として記されているものとして、アブラム137歳の時に妻サラは127年の生涯を閉じたが、その後アブラハムはケトラという女性を妻に娶りジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアという子供をもうけ、その後アブラハムはイサク以外の子には生前分与として贈り物を与えて東の地に去らせ、イサクには残りの全財産を継がせたほか自分の故郷から傍系親族のリベカを連れてこさせて彼の妻にさせた。アブラハムは175歳で世を去り、マクペラの洞窟へイシュマエルとイサクによって葬られた。
この箇所に「アブラハムと7人の子」が出てくるので、まとめる。
老齢で子に恵まれなかったので、若いハガルという妾に子を産んでもらった。それが長男になる「イシュマエル」である。その後なんと100歳で正妻サライとの子、後継になる「イサク」を産む。
そして妻サライが亡くなった後にケトラと言う妻を娶り「6人の子」を産む。ということで、アブラハムの子供は「8人の子」になる。歌とは違う。いったい何故。
長男「イシュマエル」は妾の子であり、妊娠中サライと喧嘩みたいになる。女同士のいがみ合いは昔から絶えないのだ。
それで困ったアブラハムは神から『妻サライの言う通りにしても大丈夫だよ』と言われたので、サライの望み通り、イシュマエルとハガルを荒野に追放したのである!かわいそう。
ということで、おそらく「アブラハムと7人の子」は追放された「イシュマエル」が抜かされている。
ユダヤ教は、悔いてはいるが通常イシュマエルのことをよこしまな人物として見ていた。新約聖書では、イシュマエルへの言及をほとんど含んでいない。イシュマエルは、例えば律法としてのユダヤ教の象徴とされてきたが、現在イサクと比肩してみなす伝統は拒絶されているように、キリスト教の新しい伝統の象徴である。
この引用のように「イシュマエル」はユダヤ教とキリスト教では重要視されていない。けれどイスラム教では全てのアラブ人の先祖として「イシュマエル」が重要視されているらしい。
イスラームでは、イシュマエルに対しての非常に肯定的な見方で、神と神の使いの特別な加護のあった母子は神聖視されていて、イシュマエルを聖書内の比較でより大きな役割、預言者や犠牲の子として見る(考えがのちに普及したある初期の神学者によると)。例えば大巡礼(ハッジ)におけるザムザムの泉への往復は荒野に追われたハガル・イシュマエル母子を追体験するものとされている。
この「イシュマエル」の扱いの違いが非常に面白い。アブラハム正式な後継である次男「イサク」を重視するユダヤ教とキリスト教。追放された長男「イシュマエル」を重視するイスラム教。
わたしはこの違いに「現実世界」と「精神世界」を見たのだ。というか、わたしの神話の読み方は、物語の中に「現実世界と精神世界」が混ざり合っていることを認識し、それを区別するのが常。
つまり「イサク=精神世界」「イシュマエル=現実世界」と見た。イサクの物語はあくまでも心の中の物語であり、イシュマエルの物語は現実世界の話。現実を生きているわたしたちは「イシュマエル(肉体)」そのものであり、心の中に「イサク(魂)」が存在していると考えること。
わたしがこのことに気がついたのはユダヤ教で使用される「メノラー」のことを考えていた時。
ユダヤ教の典礼具の一つである多枝燭台。その原型は,神の命令によって幕屋(まくや)の聖所に置かれることになった純金の七枝の燭台である(《出エジプト記》25:31~35)。中央の幹の両側に三つずつ枝が伸びた形で,七つの燭火がともせるようになっていた。この形はエルサレムの〈第二神殿〉の聖所に置かれた燭台にひきつがれ,神との出会いの場所としての神殿の象徴ともなった。
メノラーとは(コトバンク)
ユダヤ教の象徴としても有名な燭台。ひとつの柱の左右からそれぞれ3つの枝が出る形7つのろうそく受けを持つメノラー。真ん中の柱は一番高い。ここで例の歌が思い浮かんだ。
「アブラハムと7人の子」の童謡の中で「1人はノッポで後はチビ」という歌の内容からは、ノッポがイサクでその後生まれた6人がチビというのがわかる。
メノラーはアブラハムの「7人の子」をも象徴しているのだと気がついた。ノッポのイサクは木の幹だろう。メノラーの形はカバラのセフィロトをも表現しているように見えるから「生命の樹」とも言われる。
そして、ハヌキヤという9つのろうそく受けを持つものも存在している。こちらも中心が柱で、左右からそれぞれ4つの枝が出ている形。ハヌキヤはハヌカというユダヤ教の行事で使用されるものである。
ハヌカーとはユダヤ教の年中行事の一つで、マカバイ戦争(紀元前168年 - 紀元前141年)時のエルサレム神殿の奪回を記念する。
7のメノラーと9のハヌキヤの存在。わたしが見出したことはメノラーが「イサクという中心と6人の兄弟」、ハヌキヤが「イシュマエルという中心と7人の兄弟」なのではないかと。
ここからは、メノラーとハヌキヤ、燭台が二種類あることの意味について考えてみる。
メノラーはイサクが中心にある。さらには「創世記」でのイサクの物語は精神世界(心の中)と見る。そう思えるのも、イサクの燔祭(イサクのはんさい)という出来事があったから。
イサクの燔祭(イサクのはんさい)とは、旧約聖書の『創世記』22章1節から19節にかけて記述されているアブラハムの逸話を指す概念であり、彼の前に立ちはだかった試練の物語である。その試練とは、不妊の妻サラとの間に年老いてからもうけた愛すべき一人息子イサクを生贄に捧げるよう、彼が信じる神によって命じられるというものであった。この試練を乗り越えたことにより、アブラハムは模範的な信仰者としてユダヤ教徒、キリスト教徒、並びにイスラム教徒によって讃えられている。
アブラハムに訪れた大きな試練。大切な息子を、生贄として焼き尽くすように神から命令されるのだ。けれど彼には信仰心があったから、神に従った。普通ではありえない行動だが。
神が燔祭を命じた動機については、伝統的に三つの解釈が支持されている。
・アブラハムの信仰心を試すため。またそれは、このような事態に陥っても動じなかった彼の偉大な精神を公にするためでもあった。
・燔祭の場所として指示されたモリヤの山が神聖な地であることを示すため。ユダヤ教の伝承によれば、この出来事は現在、神殿の丘と呼ばれている場所で起きたとされている。
・イスラエル民族から人身御供の習慣を絶つため。この習慣はカナン地方ではモレク崇拝やバアル崇拝などで一般的に行われていたという。
この3つの解釈を読めば、やはりイサクが「精神世界」の象徴であることがわかる。イサクはアブラハムの「心」なのである。それを物語では「実の息子」として描いている。
偉大な精神(つよい心を持つ事)、この試練を乗り越えた場所に神殿の丘ができる(新しい心の構築)、人身御供の習慣を断つ(死を肯定)。これらは「心」における試練を乗り越えた際に起きることの順番でもある。ここでは詳しくは語らないけれど、UOZAブログに度々書いていることなので、気になる方はお読みください。
ハヌキヤはマカバイ戦争の勝利を祝うための行事で使われる燭台である。
マカバイ戦争はユダヤ人弾圧に端を発し、最終的にユダヤ人王国が成立したことからユダヤ人の独立戦争という位置づけが良くなされる。しかし、その発端や経過において、ヘレニズム的なユダヤ人と敬虔派のユダヤ人の対立がしばしば見られるように、一面ではユダヤ人の内乱としての側面も持っており、また証拠が少ないながらヘレニズムの潮流の中で「ポリス的」な変化を遂げるエルサレム社会の中で、市民としての権利を獲得できなかった下層民と、強くヘレニズムの影響を受けた祭司や貴族達との対立という要素があったとも指摘されている。
こうした各種の指摘に見られるように、マカバイ戦争を単純にユダヤ人の独立戦争と見る意見は過去のものとなりつつある。ただし、この戦争の帰結としてハスモン朝が成立したことも事実であり、その意味においてユダヤ人の独立戦争という見解が間違いであるということもできない。史料が限られていることもあり、マカバイ戦争の詳細についてはなお詳細な研究が待たれる分野である。
このように、マカバイ戦争については諸説あるようだけれども、ユダヤ人にとって『ひとつの勝利を勝ち取った』記録である。
ハヌキヤはイシュマエルが中心にある。イシュマエルは追放された妾の子である。彼は『兄弟すべてに敵対して暮らす』と神に預言されている。わたしはこの預言から、イシュマエルの物語を現実世界と見た。
息子はイシュマエル(「主は聞きいれる」の意)と名づけるように指示され(創世記. 16:11)、「彼は野生のろばのような人になる。彼があらゆる人にこぶしを振りかざすので人々は皆、彼にこぶしを振るう。彼は兄弟すべてに敵対して暮らす」との預言を受けていた(創世記. 16:12)。
兄弟すべてに敵対して暮らす、という表現はまさに「現実を生きるわたしたち」のことを表しているように思える。人間とは神から堕落し、神に見捨てられた(と思い込んでいる)存在である。
生きることに苦しみを感じたり、必ず訪れる死を悲しむこと。それを続けた人間はいつか現実を憎むことになる。だからこそ私たちは争い(戦争)を起こしてしまう。それが『すべてに敵対して暮らす』という状態。
物語の中でイシュマエルは「現実的な息子」として描かれている。長男であること・妾の子であること・が、その根拠にもなるのであるけれど、長くなりそうなので割愛する。
イスラム教には「イード・アル=アドハー」という犠牲祭がある。それはアブラハムが神に息子を生贄として捧げた時のことを祝うものである。少し前に説明したイサクの燔祭のこと。
『クルアーン』ではイブラーヒーム(アブラハム)は息子を犠牲に捧げようとしたとされているが、それがイスハーク(イサク)の方か、イスマーイール(イシュマエル)の方かは明確に示されていない。キリスト教やシーア派ではイサクを犠牲にしようとしたとされるが、スンナ派の大多数ではイスマーイールの方を犠牲にしようとしたとされている。
イスラム教では、アブラハムが息子を捧げたというだけで、それがイサクなのかイシュマエルなのかがはっきりしていない。しかも、イスラム教徒の8〜9割を占めるスンニ派は、イシュマエルが犠牲になったと解釈しているようだ。
わたしは、イサクを『心の中の物語』と見て、イシュマエルを『現実の物語』として見ている。イサクとイシュマエルは「人間の二つの側面」を表しているから、犠牲はどちらにも起きるはず。
イサクを犠牲にした時に起きたこと(強い心で、新しい心を構築し、死を肯定すること)をお手本にして、イサクの時と同じ様にイシュマエルを犠牲にする必要がある。私たちも神を信じ、自分自身を犠牲にするべきなのだ。
知恵の実を食べたアダムとイブが楽園から追放され、その子孫が私たちである。同じくイシュマエルも父(神)から追放されている。イシュマエルは神から離れてしまった存在。父がおらず、母だけという状態は太陽が欠けている。
ハヌキヤの中心にある柱は「シャマシュ」と呼ばれており、その言葉は「太陽神」を表すとも考えられていたりする。
ハヌキヤはハヌカーという「8日間の祭り」で使われる。中心の「シャマシュ (イシュマエル )」は種火として使用され、1日目にその種火と一番右(か左?)のろうそくに火を灯す。そして、次の日も同じく種火を使い隣のろうそくをともし、最終的に全てのろうそくが点灯する。
イシュマエルこそが全ての灯りをともす中心。イシュマエルは現実世界を生きるわたしたちそのもの。わたしたち人間こそが全ての灯りをともすべき存在で、そのために自分自身の犠牲が必要になる。
イサクの燔祭の物語は、論理的な解釈を通じてキリスト教の主要なモチーフに影響を与えている。それは、イエスがイサクと同様、神に捧げられる至上の犠牲として描写されているからである。
十字架上の死という受難も、祭壇の上で縛られたイサクのそれと形式上の類似性が認められる。
引用のようにイエス・キリストも、イサクと同じように神に捧げられた存在と言える。わたしはUOZAブログでイエスの死を「心の死」であると紐解いている。アブラハムが息子を犠牲にしたことも「心の死」を表す。つまり肉体の死ではなく「心の犠牲」なのである。
全てのアラブ人の子孫が「イシュマエル」と言われている。イスラム過激派のwikipedを引用したい。
イスラーム過激派では、唯一神(アッラーフ)の性質である「神の単一性」(タウヒード)が、「イスラム信仰者の共同体(ウンマ)の単一性」として解釈されている[8]。前提として、どんな人間でも「神の単一性」の共同体に加わろうとすることは可能だが、こうした考えや信仰からすると、共同体の外側は全て「敵」ということになる。
共同体の外側は全て「敵」。イシュマエルに向けられた『兄弟すべてに敵対して暮らす』という預言が成就しているからこそ、イスラム過激派が存在しているのだろう。イスラム過激派はほぼスンニ派であり、イシュマエルの犠牲を信じているのではないだろうか。
『兄弟すべてに敵対して暮らす』という状態が長く続いたとき、戦争やテロが起きる。その状態を乗り越えるためには「強い心」が必要になる。『あること』を認めると、全ての灯りに光がともる。弱い心では認めることができないこと。
『自分という存在が一番の悪である(心の犠牲)』と認めること。イサクとイシュマエルは魂と肉体という対比でもあり、善と悪という対比でもある。人間は魂(善)と悪(肉体)を両方そなえていて、悪の側面(イシュマエルであること)を認めることで完成が起こる。
最後に、メノラーとハヌキヤの違いについての答えを出しておきたい。
一週間は7日間である。神は世界を7日間で完成させた。つまり完成がメノラー(イサク)である。けれど、ハヌカーで8日間火をともし続けること。8日目は一週間の新たな始まりとも言える。ハヌキヤの種火(悪)は7日間最初の1日目であり、次の7日間の1日目である。
わたしはこの儀式に最初と最後の繋がりを見た。ハヌキヤは新しい完成であり、『繰り返される完成(イシュマエル)』なのである。新しい始まり(神殿)を作るのは、やはりイシュマエルという私たちなのだ。
最近長野で起きた事件について触れておきたい。犯人の彼はおそらく『兄弟すべてに敵対して暮らす』状態だった。わたしには彼の気持ちがわかる。その状態は、とても乗り越えられるとは思えない地獄のような苦しみ。
彼と同じように『強い孤独感』を感じたことがある人はいるのだろうか?『兄弟すべてに敵対して暮らす』状態を経験した人だけが、完成を迎える。けれどそれは心の中だけに留めておくこと。それができないから、自分を守る為に、他人(兄弟)を殺す。『自分は悪くない』という頑固な心が敵対心を作る。
『精神の極限状態』を乗り越える術を知ること。テロリストと呼ばれる人たちの心の中を体験したら、この世界は平和になるのに、まだ誰もそれをしていない。現実で戦争が続くのはその為である。
そろそろ私たちは『自分という存在が悪であること』に気がついた方がいい。外側の悪に意識を向けることをやめて、自分自身が悪であることに意識を向けよう。『兄弟すべてに敵対して暮らす(強い孤独)』状態を経験してほしい。地獄のような苦しみではあるが、神を信じているのならば、必ず完成が起きる。わたしが責任を持って保証する。神を信じてない人はしらん。
うちのリビングにメノラーあります。






