ぱんちゃんブログ -3ページ目

2023年を振り返る(三尸と易経の話)。

どもー。

2024年になりましたが、2023年を振り返ってみたい。去年書いて下書きに置いてたけどまとまらなかったの改めて書いてみた。

 

<三尸のはなし>

●人類滅亡

わたしの2023年は「終わり」という一言で表せる!そして思い出すのはこの夢

 

完全に醒める直前、男の人の声で

「人類滅亡の日を知った」

という言葉が響いた。

 

人類滅亡の予言は数あれど、人類滅亡がいつまでたっても起きないのはそれを望んでいないから。心の底から「人類滅亡」を望んだことはあるか?

 

ところで何が「終わり」なのかと言うと。2019年くらいから始まった「死」との対決をやっと終えたということ。長かった。

 

「死」との対決の中では「人類滅亡」を心から切に願うことになる。自分の中にある絶対に許せないものが「死」で、憎しみと怒りで全てを終わらせたくなる。

 

●三尸(さんし)と死

人間には「死」が棲みついている。三尸(さんし)という、人間の中にいる3匹の虫がそれだろう。上尸・中尸・下尸の3種類。真ん中の心に住む中尸が「人類滅亡」を願う。最初は腹に住むやつがそれを願ってると思ってたけど。

 

60日に一度めぐってくる庚申(こうしん)の日に眠ると、この三尸が人間の体から抜け出し天帝にその宿主の罪悪を告げ、その人間の寿命を縮めると言い伝えられ、そこから、庚申の夜は眠らずに過ごすという風習が行われた。一人では夜あかしをして過ごすことは難しいことから、庚申待(こうしんまち)の行事がおこなわれる。

三尸(wikipedia)

 

三尸が体内から出ると神に悪事を告げ、寿命を縮めるという。とゆーことは体内にいた方がいいんかと思いきや、体内にいても病気を引き起こすという。やっぱり「死」だ。

 

●三点の死の側面

上尸は道士の姿思考によって起きる「死」。下尸は頭が牛で下半身が人間の足一本の姿、たぶん時間の経過による「死」なんじゃないかな。そして中尸は獣の姿感情によって起きる「死」。だと解釈した、わたしは。

 

人間は生きながら「3つの死」を抱えている。それら「死」はネガティブなものに思えるけど理解する(受け入れる)と力になる。

 

三屍は道教の三屍神を指します。道教では人体には上中下の丹田(丹を練る場所)があり、それぞれ神が宿っていると考えられておりこれらの神を総称して三屍と呼びます。

こちらのサイトによると、三尸(三屍)は人体に3つある丹田に対応しているようです。丹田も上・中・下と3つある。東洋医学では丹田は重要で、気が集まるスポット。丹田に棲む虫を如何にコントロールするか、ということなのだろう。

 

やはり「死(虫)」は人間から出て行ってはいけないし、コントロールすることで力を生み出す。人間の3つの点を生かすも殺すもその人次第。虫に乗っ取られず虫使いになれると最強だ。

 

伝統的に、上中下の「三丹田」説である。眉間奥の上丹田、胸の中央にある中丹田、ヘソ下3寸(骨度法)にある下丹田を指す。上丹田は神(しん)を蔵し、中丹田は気を蔵し、下丹田は精を蔵す、とされている。

丹田(wikipedia)

 

上尸・中尸・下尸は、思考と心と身体

上丹田・中丹田・下丹田は、神と気と精

 

思考は神そのもので、心は気を生む。そして身体は精力という生きるための基礎。思考と心は一緒になりがちだけど、それらを分別できるとコントロールしやすくなる。

 

●二つの流れ
1.上尸(思考)→中尸(心)→下尸(身体)こういう流れもあるし、2.下尸(身体)→中尸(心)→上尸(思考)こういう流れもある。1.は考えたことを心で感じ行動に移す。2.は行動から感情が起きそのことについて考える。人間なら誰もが経験しているこのような2つの流れがある。

丹田の中でも、特に「下丹田」は五臓の中心に位置し、五臓は人体の生命活動と密接に関係しているので、実際には最も重視されて正丹田とも呼ばれる。日本の禅や武道、芸道などにおいても丹田、特に「下丹田」を重視している。別名を、腹、肚、と書いて、はら と呼び、身心一如の境地に至るための大切なポイントとなっている。

丹田(wikipedia)

 

「下丹田」が一番重要らしい。そりゃそうだ。思考(上丹田)と心(中丹田)は目に見えない。目に見えるものが身体である下丹田。目に見えないものが目に見えるものに表現されるので、下丹田が成果が見えるところ。

 

「腑に落ちる・落ちない」の腑も下丹田だろう。先ほどの2つの流れがあることを知り、思考と身体の中心にあるものが2つを繋ぐ、ということを意識して初めて『腑に落ちる』のではないか。目に見える行動が現実をつくる。

 

●中尸(心)の「死」

話は戻って、なぜ中尸(心・獣・気)が「人類滅亡」を願うのか。それは心の性質である。獣は厳しい自然の中を生き残っていく生き物。そのような動物的生存本能は敵と味方をきっちりと区別し常に気を張っている。心は環境に機敏に反応する。そのように自分を生かす為に働く。

 

その心(中尸)が大きくなり手がつけられなくなると自分以外全てを排除するようになってしまう。獣が凶暴化するのである。「死」を避ける為に周りに「死」をもたらすのが心(中尸)。心は自分の「死」を絶対に許さないし、心は「死」に抵抗する。やっかいだけど、それが「心」の大事な機能。自分が生き残る為に他は死ぬ必要があることを表現している。

 

●上尸(思考)の「死」

上尸(思考)の「死」について考えてみる。心(中尸)が獣的な死ならば、上尸(思考)は人間的な死である。思考は論理的に死を理解している。思考は神なのであるから、死を既に認めているし死の必要性も知っている。けれど「死」を認めているが故に、「死」を自ら引き寄せる。

 

例えば自殺は上尸(思考)によって起きる。全てを計算し尽くした結果「死」を起こすのが上尸(思考)。自殺は思考による最適解なのだ。その「死」が社会にどのような影響を及ぼし、その結果どうなるのか思考は知っている。神なのだから。

 

●中尸(心)の「生」

もう一つの側面「生」のお話もしておくべきか。中尸(心)の「死」は種を残す為に行われる。動物は自分の種を存続させる為に戦う。種を存続させること、つまり個の為の「生」である。自分の種が存続すれば子に繫る。

 

●上尸(思考)の「生」

上尸(思考)は「死」を受け入れている。中尸(心)が個の為なら、上尸(思考)は全体の為の「生」になる。なんでそうなるかっていうかの説明はまあいいや。めんどくさくなってきたから雑考察。思考は神であるのだから世界全体を守っている。

 

●下尸(身体)の「死と生」

下尸(身体)についての死と生について触れていなかったけど、目に見えるものとしての死と生。生から死という時間の流れの中にある生と死。個でも全でもない、決まり事のようなもの。

 

●まとめ

結局何が言いたかったのかというと、心が全てを左右する。心(中尸)は流れの真ん中にあるから上尸(思考)と下尸(身体)を繋ぐ。獣の心が中心であるから、人間は死から必死に逃れようとしている。それをコントロールするのも上尸(思考)と下尸(身体)。心が中心であることを意識しながら三位一体であるべし。

 

↑ここまで2023年に書いたもの

↓ここから2024年

 

<易経のはなし>

●2022年から2024年の易占い

2022年から易でその年の占いをするようにしている。今年はちゃんと勉強したいと思い、さっそく易教の本を購入し勉強しているのだが、すごく面白い。

 

ちなみにこれが占い結果。

2022年 天山遯 上爻(33てんざんとん じょうこう)

2023年 坤為地 五爻(2こんいち ごこう)

2024年 水雷屯 五爻(3すいらんちゅん ごこう)

 

2022年はかなり苦しかったけどなんとか乗り越えられた。2023年は乗り越えたつもりでいたらまだ来るのかよ、という『終わらない繰り返し』を突きつけられたけど全てを受け入れた。その年と占い結果を思い返すとやはり当たっている。

 

●64卦には順番がある

坤為地って万物の元で、水雷屯が『陽気と陰気が始めて交わって、生みの困難が生じた状態』ならすごく流れ通りだ。地があって陰陽交わり生まれ始め。落ち着くのは2025年か?

前回の日記にこんなこと書いたけど、そもそも順番的に坤為地の次が水雷屯だった!なので流れ通りは当たり前。易占いの結果は全64卦(8卦×8卦)あるけれど、それらには順番がある。

 

ちなみに8卦はこれ↓

乾(天)・兌(沢)・離(火)・震(雷)・巽(風)・坎(水)・艮(山)・坤(地)

占う時は筮竹をじゃらじゃらやって1回目に出た卦と2回目に出た卦を合わせて64組の中から答えが出る。3回目もやって爻というやつも出す。坤為地(こんいち)は1回目も2回目も「坤(地)」が出た組み合わせ。

 

『易経』という書物は、大きく分けると以下の二部構成となっています。

六十四個それぞれの卦の概念を記している「経」と、その解説を集めた「伝」から成り立っています。

ちなみに「伝」は全部で十篇あり、「十翼」とも呼ばれます。

「序卦伝(じょかでん)」はその十翼の一つであり、六十四卦の配列を解説しているものです。

易における「六十四卦」とは何か(六十四卦の一覧表つき)

 

序卦伝(じょかでん)で全64卦の順番の意味が説明されている。この順番は「人間社会の変化」を表しているらしいが、書き出しは『天と地(乾と坤)があって万物が生まれる』という感じ。乾が1番で坤が2番であることがこのように説明されているのだ。

 

1. 有天(乾)地然後萬物生焉。
2. 盈天地(坤)之間者唯萬物。

易經講話2

 

●2022年 天山遯(てんざんとん)…天と山

ところで天山遯(てんざんとん)は33番、坤為地(こんいち)は2番、水雷屯(すいらんちゅん)は3番。これがわたしの2022年から2024年の流れ。2022年の33.天山遯(てんざんとん)は下経の初めの方になる。上経が1から30まで、下経が31から64までなので。

 

33. 物不可以久居其所。故受之以遯。遯者退也。

易經講話2

 

天山遯が33番である意味を本から引用。

 

さて下経のはじめに置かれた咸(かん)の卦に象徴される夫婦の道は末長く続くものでなければならぬ。だから次には恒(こう)の卦がおかれる。恒とは久しいという意味である。しかし物事は久しく同じ所にとどまることはできない。だから次には遯(とん)の卦がおかれる。遯とは退くという意味である。

 

引用したところは、31.咸(沢山咸)32.恒(雷風恒)33.遯(天山遯)という流れの説明であるということになる。で、33.遯(天山遯)は長い時間がたったもの(久しい)はいつか退くという意味。遯は逃れるとか隠れるとかいう意味がある。

 

世界は同じことを何度も繰り返している。わたしが永遠であることの苦しみや尊さを身をもって体感したのが2020年〜2022年。しかし恒久(永遠)からはいつか逃れることができる、という予感もしていた。

 

●2023年 坤為地(こんいち)…地と地

坤は地を意味する。1.乾と2.坤は天と地だから全64卦の中でも特別。全64卦は全宇宙を表現しているが、それら様々なものは陽(乾)と陰(坤)という最初の二つから始まっているから。その二つには「文言伝」という特別な解説がある。

 

その「文言文」から坤についての解説を引用する。

 

さて、坤は六爻皆陰、至って柔かではあるが、その乾に応ずる働きは力強く、また至って静かではあるが、乾の施しを受けて万物を作り成すはたらきは方正である。人の後に従うように心がければ、頼るべき主人を得て、陰たる者の常道にかなう。かくて坤は万物を包容し、その徳化は光大である。坤の道はさても柔順と言うべきではないか。ひたすらに乾の道を受けついで、その時々に従って万物を作り成すのだから。

 

2020年頃から自分の中で心掛けていたというか、信念のようなものがあって、それは『全部自分が悪い』という考え方。いつでも呪文のようにその言葉を心で唱えていた。わたしにとってその言葉は至ってポジティブなもの。

 

『人の後に従うように心がければ、頼るべき主人を得て、陰たる者の常道にかなう。』という言葉は『全部自分が悪い』と通ずる。人の後に従うというのは、自分という存在を最底辺に置くこと。自分以外の者は自分より上にいる。それが陰たる者の常道。

 

そう心掛けていたとしても常に自分を最底辺に置くのは難しい。たまに我が出てしまう。だとしても、陰たる者としての自覚を持ち、我をおさえることを心がけるようにしていた。

 

2023年はわたしの中で「死の学びを終了」した年であった。陽(乾)が始まりなら陰(坤)は終わりである。陰たる者としての修行は順調に進み、全てを受け入れる感覚が起きたのが2023年。だから坤為地という結果がしっくりくる。坤は六爻全部が陰、全てが受け身。だが力強い。

 

陰の地位に在る者は、たとえわが身に美点があっても、それを含み隠して王者の命ずる仕事に従い、あえてその成功をおのれのものとしてはならない。これが天に対する地の道であり、夫に対する妻の道であり、君に対する臣の道である。つまり地の道というものは、成功をおのれのものとせず、天にかわってその終りを全うすることである。

 

天にかわってその「終わり」を全うした。陽(乾)が生なら陰(坤)は死。死を受け入れたから死の終わりを迎えた。

 

●2024年 水雷屯(すいらんちゅん)…水と雷

2022年は永遠(繰り返し)からの脱出の予感。2023年は死の終わり。2024年はまた始まる。

 

「死」との対決が終わることは、永遠(繰り返し)から逃れること。そしてまた事が始まる。また始まるのだから永遠は終わってないのだけれど、自分の中では区切りがついている。永遠であり永遠ではないことを両立させるには「区切る」ことが大切なのだ。

 

3.水雷屯の解説を引用。

屯は屯難、事のはじめに当たり困難多く行き悩むの意、草の芽がまさに地上に萌え出ようとする象形。時節が到来すれば大いに享通(こうつう)して安寧を得るであろうが、そのためには謹慎して貞正をとり保たねばならぬし、事を急いで軽率に前進しようと試みるのはよろしくない。

 

屯は事のはじめの困難を表す。事のはじめも謹慎して貞正をとり保たねばならぬのか。2023年に引き続き、受け身でいるのが良いようだ。

 

五爻(九五)が出たので、心は良い状態だろう。なんたって本来の夫たるべき人で陽剛の君主。しかし環境は悪い。確かに2024年始まったばかりなのに世間は波乱続きだ。

 

さて、物の生じはじめは必ず蒙である。

蒙とは蒙昧 おろかという意味であり、また物の幼稚な状態である。

 

「落ち着くのは2025年か?」とか言ったけど、始まったばかりなのだからそれは無いか、、、。このまま流れ通りでいけば次は4.蒙。事のはじめの困難の次は、幼稚な状態が現れるのかもしれない。

 

●夢の中で人類滅亡を知った2023年

ということで、2020年に見たこの夢を回収完了。「人類滅亡を知った」のは2023年でした。2017年からずっと夢の中にいるようだったので、やっとここからが本番なのだろう。『子の年(2020)真ん中にして前後10年が正念場』という日月神示の言葉が身に染みるね。1.乾が出るのはいつになるのか。

 

●お気に入りの言葉

さて、易においては、形而上なるものすなわち現象以前の目に見えぬ無形のままなる陰陽の変化を道と謂い、形而上すなわち現象面において把捉し得られる形象を器と謂い、さらに陰陽の変化に即しその変化を適宜に裁ちきって融通性を発揮させることを変と謂い、これを推し進めてその場その場の具体的な処理を講ずることを通と謂い、変通の結果を挙げて天下の人々の手のとどく処に置き実際の効果をおさめさせるようにすることを事業と謂うのである。

最後に気に入った言葉を紹介。「繋辞伝(けいじでん)」の上から引用。この言葉をわたしなりに分かり易くまとめるとこうなる。

 

道(陰陽の変化)

器(現象面を掴むもの)

変(変化を判断し処理すること)

通(処理を実行に移すこと)

事業(誰もがわかり利用すること)

 

これは宇宙のあるべき流れである。道(運命)があってそれを受け取る人間(器)がいる。思考(変)によって行動(通)をし、世界を完成させる(事業)。

 

初め(乾)と終わり(坤)は太極で重なっているのだから、この流れは不変であり可変である。宇宙とは円環でありそのど真ん中に太極である自分がいる。つまりわたしたちは、どの時代にいてもどの局面にいても、既に完成しているし未だ完成していない。それに気がつくかどうかが問題で、気がつかなくても実際問題が無い。

 

初夢は火事。

どもー。

あけましておめでとうございます門松

 

初夢は火事でした、という新年初ブログ。正確には初夢ではないのだけど、元旦明け方に見た夢が印象的だったのでわたしの中で初夢とさせてもらう。ハッとなって目覚めた。

 

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自宅の二階にいたわたし。外から消防車の音が聞こえて、だんだんその音が近づいてくる。窓から外を確認すると自宅の前に消防車が止まっていたので急いで下に降りると、一階のキッチンが焼けている。もう壁がなくて外が丸見え。火はもう消えている。

 

たぶん、姑がまた鍋を火にかけっぱなしにしたのだろうと思う。姑はわたしじゃないよ、という顔をしてとぼけている。自宅が焼けてしまったのを見た旦那もわたわたとしている。一方わたしは「これから大変になるぞ…」と思いながらも「やるっきゃねえ!」と何故か闘志を燃やしてニヤリとしていた。

 

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火事の意味について調べたら自宅が燃えるのは良い意味でもあり悪い意味でもある。自宅は自分自身。台所の家事は幸運らしいので期待。とにかく何か悪いことがあってもめげないのでしょう。やる気が表れているいい夢ですね。

 

年明け早々、地震による火災、飛行機の火災、福岡の火災をライブ配信で見ることになった。不安と恐怖を煽るような情報ばかりで人々が不安定になりそうな2024年がスタート。

 

不安は感情を昂らせます。ひどく悲しくなったり怒りがわいてきたり。感情コントロールを学ぶような一年になるかもしれません。コントロールしきれなくて暴れちゃうのもアリだと思う。ブチギレないとわからないこともあるんだ。

 

ありとあらゆる感情を学んで、やっと一人前になれる。一番難しいのが怒り。今年は心を燃やそう。

2023年おわり。

どもー。

12月は忙しくてブログも書けやしなかったが、なんとか来年の運勢だけでも。

今年は自分の筮竹でやってみた。

 

水雷屯 五爻(すいらんちゅう ごこう)

 

「潤いが全体に行き渡らない。このような時には、日常的な仕事を正しく行うこと。なんとか打開しなくては、と言って大きなことをするのは凶」
この五爻は、水雷屯という悩みの時代にいる王様です(五爻は王様や社長です)。
ですので、国全体を豊かに潤したくても、行き渡らないのです。
これは王様に力がないのではなく、水雷屯という難しい時代にあるがためです。
このような時は、日常的な仕事をきちんとこなすのが良く、打開を焦って大きなことに打って出るのは危険です。

易経独学

 

なんだ来年も我慢の時か。日常を大切に大きなことをしないとな。わかった。地味に生きる。

 

彖伝によると、屯の卦は陽気と陰気が始めて交わって、生みの困難が生じた状態である。危険の中に動く(上卦☵坎は落とし穴、険という意味、下卦☳震は雷で、動くという意味)。「願いごとは大いに通る。正しい道を持続するのが良い。」という判断の文句は、上半分が雲、下半分が雷で、雷と雲の動きが今や満ち満ちているからである。ちょうど宇宙が初めて創造されたような、時の動きがまだあわただしくて暗い状況では、諸侯を立てて自分の補助とするのが良い。安穏と構えていてはいけない。
知恵の森

 

水雷屯は「生みの苦しみ」がキーワードらしい。来年も苦しむか、、、

 

九五は陽剛の爻、「中」を得、「正」であり、最も尊い位にいる。しかし時は屯(=難)の時。下には六二が「応」として応援してくれるが、二は陰柔で、力弱く、何を救うに足りない。初九は最下層にあって民心を得て、民衆がこれについてしまった。九五は穴にはまりこんでいる。ほどこすべき恩沢を所有しながら、下に施すことをようしない。

知恵の森

 

五爻の象伝。どうも時代が困難らしい。どんな2024年になるのやら。

 

というか易の理解が浅すぎるので来年は本を買って勉強します。

 

 

そういえば、今年の運勢は坤為地 五爻(こんいち ごこう)だった。

 

有天地然後萬物生焉。
天地ありて然る後万物生ず。
てんちありて、しかるのちばんぶつしょうず。

天と地、すなわち乾と坤があって、その後初めて天と地の間に万物が生じる。

知恵の森

彖伝によると、大地の根源である坤の徳は最高である。万物はこの坤の卦を元として生じた。しかしながら、坤の卦は乾に当たる天の手柄を素直に受け継ぐものである。坤は大地であって分厚く、あらゆるものをその上に乗せている。

知恵の森

 

坤為地って万物の元で、水雷屯が『陽気と陰気が始めて交わって、生みの困難が生じた状態』ならすごく流れ通りだ。地があって陰陽交わり生まれ始め。落ち着くのは2025年か?


今年もありがとうございました。来年もよろしくお願いします。

ロキが解脱してしまったのでさみしい。

どもー。

文字を書く気分にならないよ。でも無理やりでも書くよ。

 

最近マーベルズを映画館で見て、LOKI最終回をディズニープラスで見ました。

ロキよ、わたしを置いていかないでーーーそういう気分です。

 

LOKIは『マルチバースの秘密』を教えてくれたし、ロキは解脱してしまった!私たちは今まさに「マルチバース」を生きている。そのあたりはUOZAブログに書き始めているのでぜひ。

 

LOKIのネタバレになりますが、ロキは最後に本当の神になった。世界樹であるユグドラシルになったのです。なんて結末なんだ、、、、

 

●トリックスターのロキ

シーズン1の感想でも書いたけど、ロキはトリックスター。フェーズ3までは悪さをしていたけど、LOKIという物語では善を学んだ。

 

●未来で死んだロキと現在生きているロキ

ロキは2018年に死んだが、2012年から分岐した時間軸を辿りTVAという時間の無い場所へ。死んでしまった世界線のロキとは違うロキっぽさを感じるが、世界線が違ったとしても、ロキはロキでひとつの存在。それがマルチバース。

 

●時間を進めたり戻したり止めたりしてわかること

LOKIは「時間」がテーマでもあった。最後には時間の秘密を暴いたロキ。タイムスリップを習得、時間を止めることもできた。時間を止めるのが一番難しい。

 

わたしも時間を止めたことがある。うさんくさいがそんなうさんくさい話でもない。その時の話はこちらにあるよ。

 

時間の停止や、時間の巻き戻しや、繰り返し再生を実体験すると『この世界は消滅と再生を永遠に繰り返していて、それがこの世界の掟である』ということがわかる。体験すると、なんだかそれが身に染みるのである。

 

●永遠の解釈の違い

1.悪役 2.他者への慈悲 3.時間の理解 ロキはそれら全ての体験を経たのだから、あとは何をすればいいのかは自ずとわかる。強い覚悟を持って、全ての世界線を自らが繋ぎ止めること。ロキは「これまでの世界の破壊」と「新しい世界の再生」を行った。それがロキの考える永遠。一方、カーンはこれまでの世界が破壊されても「また同じ世界を再生」するという永遠。

 

●正義は勝つ世界、正義も悪も勝つ世界

これまでの世界は「時間織り機」でひとつの世界(時間)として様々な世界線がまとめられていたが、『悪は滅びる』というひとつの世界であった。だから悪役は虚無に捨てられ「正義は勝つ」という信念のもと神聖時間軸として束ねられていた。

 

最後に明らかになったことは「時間織り機」はあくまでも安全装置の役割を果たしているだけで、いつかは神聖時間軸に破壊がおきるということ。そうなったとしても、また作り直せばいいとカーンは言う。つまり、また神のような管理者をひとり置き「正義は勝つ」という世界にまとめる。自分ひとりの「正義」の定義で世界を回していくのが「神聖時間軸」である。
 

だが、ロキは「神聖時間軸」を新しい世界に書き換えた。「時間織り機(今までの世界)」を破壊し、自らが犠牲となって、どの世界線も剪定させない。人が望むもの、ありとあらゆる世界線を現実とする覚悟。世界には良いこと悪いことがあるが、全てを現実にするということは『正義も悪も守る』ということにもなる。

 

●ロキの覚悟とユグドラシル

その覚悟を表現するのが「世界樹ユグドラシル」。自然(世界)と一体になる、という感覚。そこには強い覚悟と強い信念が存在している。自然と一体になることは『自然を愛する』ということではない。


ロキはありとあらゆる世界線(善も悪も)を受け入れたから、自らも自然(世界)の一部となった。世界の一部となり中心で世界線の消滅を防ぐ。ロキは全ての世界線を担保するという、大きな責任と役割を負ったのだ。

 

●善を見つけるために悪が存在する

嫌いなもの、理不尽なもの、自分には理解できないもの。それらは悪である。けれど、悪には悪の苦しみがある。世界に存在する悪は必然であり、それも受け入れること。悪役のロキだったからこそわかること。

 

神聖時間軸で悪役であったロキは多くの人を傷つけ、死を迎えた。悪という経験の中から、自分の「本当の願い」を見つけた。仲間の人生を守ることは世界を守ること。それがロキに芽生えた善であり、ユグドラシルの一部になるという覚悟に繋がったのである。

 

自己犠牲=世界の全てを受け入れること。どんな世界であっても消滅させず、続けていく。それが永遠。永遠を理解したロキは全ての世界線を見守る時間の神になった。

 

●体と心、実体と仮想、男と女

あと、面白かったのはミスミニッツ。彼女は「在り続ける者(カーン)」の頭脳であり心。カーンが「体」ならミスミニッツが「心」。だから彼女は人間の体をほしがった。

 

体は男性性、心は女性性を表す。カーン(男)は心(女)を信用していない。だから神聖時間軸を作る時、一緒に勝利を勝ち取ったレンスレイヤーの記憶を消した。信用できないのは、男(体)と女(心)は別の存在で考え方が違うからだろう。シーズン1の最後にシルヴィもそう言ってた。考え方が違うと目的も別になってしまう。

 

カーンは、戦争に勝利した後、体(男)と心(女)を分離した。そしてミスミニッツという仮想の心を作った。「在り続ける者」の心は分離されたまま、実体(レンスレイヤー)から仮想(ミスミニッツ)へ。

 

●本当の望み

ミスミニッツは「本当の望み」を隠し持ちながら、システムを守る仕事をする。レンスレイヤーも「本当の望み」を隠し持ちながら、TVAを指揮する。だから二人は共闘するのだろう。ミスミニッツは実体になることを望み、レンスレイヤーは勝利を自分のものにすることを望む。

 

分離されてしまった心たち(ミスミニッツとレンスレイヤー)は自分に足りないもの(肉体・勝利・男)を補おうとするのだ。

 

ロキの頭脳であり心はシルヴィだった。実体があり、ロキが時間の移動をしても記憶を失わない女である。ロキはユグドラシルになることで「自由」というシルヴィの願いを叶えた。ロキ(男)とシルヴィ(女)は一体になったのだ。「本当の望み」が同じになったということ。

 

「神聖時間軸」は『正義が勝つ』という単純なシナリオであるからカーンは全てを決めておくことができる。そのシナリオの中で予想外の動きをするのがトリックスター。悪であったのに善を働くロキ。悪のロキと善のロキ 。それがロキとシルヴィである。

「クアントマニア」見る前に「ロキ」のおさらい。

 

↑シーズン1の感想を引用。悪のロキと善のロキ(シルヴィ)と言ったのは、悪だったロキが、善を教えてくれるシルヴィに出会ったから、世界を守ることができたということ。ロキはシルヴィの「願い」を汲んだから善を学んだ。

 

男であれ女であれ「本当の望み」は元をたどれば人類皆共通。心の中にあるその望みに気付けるかどうか。

 

●自己犠牲で物語を書き換える

ロキとカーンの違いは、新しい世界を再生するのか・同じ世界で再生するのかというところ。けれど、自ら新しい世界を再生することを解脱と言う。自己犠牲だけが新しい世界を生む。世界の破壊を他者に任せるのか、自分自身で破壊するのか、も重要です。

 

人は死ななきゃ永遠であることの尊さがわからない。ロキは神聖時間軸で死を体験している。だからこそ物語を書き換える力を持っているのだ。

 

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ロキの死は未来に起きている。LOKIの世界線は2012年。神聖時間軸で死んだのは2018年。未来の死を知ることの意味。わたしたちも、未来で死んでいるから今現在を生きている。

 

未来の死を経験することで「生きる」という行為の中に『本当の望み』を見つけことができる。さらには「未来の死」と「現在の生」との繋がりを理解する。危機の中で人は世界と時間の本当の意味を知るだろう。

 

大切な人の危機は自分の危機。もうすぐそんな瞬間が訪れるかもしれません。オカルト界隈では2024年とか2025年あたりが騒がしいですね。戦争とか気候変動とか未知のパンデミックとか、そういう自分一人でコントロールできないものに注目するより、ごくごく個人的な人類滅亡に目を向けるべきだ。世界は自分の手の届く範囲にある。

 

あ、もちろんマーベルズもおもしろかったです。

 

違う冬のぼくら、2つの世界の見方。

どもー。

 

違う冬のぼくらというゲームがすごかったので紹介です。2人で協力プレイして進めるゲームなのですが、それぞれ見ている世界が違う、というのが面白い。

 

一人は機械の世界が見えていて

もう一人は動物の世界が見えている

 

最近「かごめかごめ」の記事を書き終わったのだけれど、簡単に言うと「かごめかごめ」は人間は籠(現実世界)をいつ出るのか?出たらどうなるのか?ということを教えてくれる歌。

 

 

籠を出たら、そこは完全なる精神世界。それを体験した後また籠の中(現実世界)に戻ると「世界の見方」は変わってしまう。その「世界の見方」には2通りある、とわたしは結論付けたのだけれど、それがまさに「機械の世界」と「動物の世界」。

 

わたしが見たプレイ動画はこちら↓で「動物の世界」の視点の方。ここからゲーム内容のネタバレあります。

 

 

 

 

2人が違う世界を見るきっかけになったのは「鹿の死体」を森で見かけたから。こどもがグロテスクな死を初めて目の前にした衝撃。「死」を強く意識することは、精神世界への入り口なのです。

 

普段見ている世界がガラリと変わることは『現実世界から精神世界に入ってしまった』ということを意味する。心の中の世界(精神世界)は自分だけの世界なので、他人と世界が違うのは当たり前。けれど「世界の見方」は2つに分けられる、細部の違いはあれど。それもまた「機械の世界」と「動物の世界」になる。

 

先ほど『現実世界(籠の中)から精神世界(籠の外)へ出てまた現実世界(籠の中)へ戻った後の世界の見方に2つある』と言った。けれど『現実世界(籠の中)から精神世界(籠の外)へ入った時の世界の見方も2つある』ということになる。

 

ややこしいのでまとめる

 

その1 現実世界→精神世界→現実世界(2つの見方)

その2 現実世界→精神世界(2つの見方)

 

その1とその2の違いは現実世界を見ているか、精神世界を見ているかになる。「その1」は現実世界と精神世界の区別ができている人。「その2」は現実世界と精神世界の区別ができていない人。通常私たちは「その2」の世界を生きている。

 

と、ここまで書いて説明がめんどくさくなってきた。どっちにしろ世界は2つある、ということで。この話はいずれUOZAブログにもまとめたい。とりあえずゲーム見て思ったことを羅列しておく。

 

犬は自我(AI)だが、3つに分かれてしまうもの。鳥は籠に囚われていて苦しいから世界をかわいく見るしかない。機械の世界が本当で、電波を発するでっかい塔が世界の大元。みんなの心の奥底には化け物みたいな子どもがいると思うよ。あとはゲームをやるか実況を見てくれ。わたしは二週目プレイ見てないけども。

 

鹿のおじいさんが出てくるけど、諏訪大社の御頭祭(おんとうさい)を思い出しました。シシガミさまとか、日本人にとっての鹿は「生きることを突きつけてくるこわい神様」。鹿のおじいさんは狂っているけれど、その理由を知ったならあなたはどうする?

 

最後に3本道のパズルがあったらしい!そんなのあったけ?ひとつの道が正解らしい。ルートは本当は3つあるのでね。もうひとつは化け物の子視点ですね。3つめの世界。

 

四神が守る神楽殿。

どもー。

かごめかごめの続き、ついに書き終わりました。風呂敷を広げてしまいました。

 

悟りとは何か?解脱とは何か?という話もできたし、心と時間の話もできた。

 

 

ぜひ読んでください。

 

アイキャッチ画像は南アルプス市にある「高尾穂見神社」。細い山道を上り切った限界集落にある立派な神社。夕方に行ったのでちょっと怖かった。

 

ここの神楽殿の上の方には四神が彫刻されていた。青龍(東)、白虎(西)、朱雀(南)、玄武(北)。四方向を守る神々は「かごめかごめ」の籠を守る神である。







 

 

時間(東西)と天地(南北)は人間が生きる為にあるもの。方角は人間を守っている。

 

四神の中心にいるのは黄竜または麒麟である。五行思想において中心は土(黄)の性質を持つ。人間は四神に守られ中心に立たなければいけない。

 

その為には天に昇るのではなく地(土)に深く潜り、人間の真実を受け止める必要がある。地を深く潜った先には、なぜか天がある。そして、やっと中心であることができる。

 

鳥居をくぐり神社の拝殿を前にする時、人間は自分の心と向き合っている。また、神楽殿で舞うことは、人間が現実で生き方を表現すること。神社で祈るだけではなく、神楽殿の中心で舞うことで天照大神はやっと岩戸から顔を出すのだ。

 

 

ところで今、オープンレックでおえちゃんともこうがやってるゲームを見ながら書いてるのですが、このゲームが「かごめかごめ」すぎる。やばい。次の日記で紹介します。

「かごめかごめ」のひみつ。

どーもー。夏なので怖いはなしをひとつ。

 

誰もが知っている「かごめかごめ」というわらべ歌。オカルト勢はこの歌について様々な解釈を行っているようです。今回はこの歌の本当の意味を、お教えいたしましょう。

 

「目隠し鬼」などと同じく、大人の宗教的儀礼を子供が真似たものとされる。歌詞が表現する一風変わった光景に関しては、その意味を巡って様々な解釈がされている。作詞・作曲者は不詳である。

かごめかごめ

 

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?

 

まずはこの歌の様々な解釈を見てみる。wikipediaに一通りの解釈が載っているが、オカルトっぽいものを取り上げたい。

 

陰謀説(提唱者不明)

「かごめ」は籠女と書いてお腹に籠を抱いているような女=妊婦を示し、「かごの中の鳥」とはお腹の中にいる子供を示す。その妊婦の家は相続争いで争っている最中で、1人でも相続人の候補が増えることに快く思わないものもいた。出産予定日もそろそろというある夜明けの晩、階段を降りようとした妊婦は誰かに背中を押されて落ちて流産してしまった。自分を落とし子供を殺したのは誰だという母親の恨みの歌という説である。「かごめかごめ」の陰謀論ではこの話が最も有力であると見られている。

『人間の欲の為に子供を殺された女の恨みの歌』であるという説。

 

囚人説(提唱者不明)

かごめは、籠つまり牢屋を指していて「籠め籠め」と牢屋に聞いている様。籠の中の鳥=オニは囚人である。鶴と亀が滑った=縁起の良くないこと、つまり脱走や死刑を表す。後ろの正面だあれ=死刑囚を呼びにきた監視、又は脱獄の手助けをするもの。いったい誰が来るのか? どんな運命になるのか? という説である。

『牢屋の中にいる囚人が死を迎えるのか、生き残るのか、運命の歌』であるという説。

 

神示説(提唱者不明)

「かごの中の鳥」は「肉体に自己同化し、肉体に閉じ込められた人」、「いついつ出やる」は「いつになったら肉体が自分でないことに気づくのか」、「鶴と亀がすべった」は「陰と陽が統べった」即ち「目覚めた」ときに、「うしろの正面だあれ?」=「自分」とは誰なのでしょう?という意味の、人の精神的目覚め・開悟を歌っているとする説。

『肉体の束縛から逃れ、悟りを得る歌』であるという説。

 

最後のものは救いを感じさせるような説であるけれど、多くが不気味さを感じさせる解釈である。

 

他の有名な解釈に『この歌詞自体がヘブライ語である』という説がある。こちらのサイトがとても詳しいので解説を引用させてもらう。

 

カゴメ印がイスラエルのダビデの星と同じであることから、いつしか「かごめかごめ」の歌詞にある「籠の中の鳥」という表現は、モーセの時代に作られた「契約の箱」、聖櫃を意味しているという説も囁かれるようになりました。旧約聖書には、その箱の中に神の息吹によって刻まれた聖なる十戒の板が保管され、箱の上部にはケルビムと呼ばれる2羽の金の鳥が向かい合って添えられ、聖なる箱を守護する役目を果たしていたことが記載されています。

 

(中略)

 

ところが、これだけカゴメ印とダビデの紋との共通点が指摘され、「契約の箱」と「籠の中の鳥」の関連説が囁かれてきたにも関わらず、そのカゴメ印のわらべうたとなる「かごめかごめ」の歌詞がヘブライ語で書かれているということについて、これまで多くは語られてきませんでした。

「かごめかごめ」の意味とは Part I

 

この説が考えられたのは『ユダヤと日本には繋がりがある』という「日ユ同祖論」が発端であると思われる。「日ユ同祖論」を知らない人はググってください。

 

個人的に「日ユ同祖論」はワクワクして好き。日本語とヘブライ語の発音が似ているというのは面白い。引用させていただいたサイトの方によると、かごめ歌の単語を似た発音のヘブライ語に変換し、またそれを日本語へと訳してみると、こういった意味になるそうだ。

 

何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ!燃やし尽くせ!社を根絶せよ!
造られたお守りの岩は功を奏することなく
焼かれた荒れ地は見捨てられた

「かごめかごめ」の意味とは Part I

 

何かが(誰かが)囲われていて(囚われていて)、封じられたものに火をつけ燃やし尽くす。最後には何故か見捨てられてしまう。やはりこの解釈もちょっと怖い。さらには別の解釈も考えられるという。

 

何を取り囲むのか?誰を囲んで守るのか?
封じて安置すべきものを取り出せ!
そして火をつけろ、燃やせ、社を根絶せよ!
お守りの岩は水が湧き、荒地が支配され水を引く!

「かごめかごめ」の意味とは Part I

 

前の解釈では「お守りの岩」というものが役に立たなかったが、こちらの解釈では「お守りの岩」から水が湧き荒地が支配された。

 

ヘブライ語説を簡単に説明すると『山のような人目につかない場所に囲まれ隠されていた「神宝」を取り出し、新しい地に遷す(うつす)という』ような意味合いではないかという。そして『火をつけ燃やす』というのは「神の裁き」を意味しているのではないかということ。

 

囲われ隠され安置されている「宝」は燃やされた。その結果、「宝の安置場所」は見捨てられた。もう一つの解釈では「宝の安置場所」には水が湧き支配された。神の裁き(火)の結果が二通りあるということになる。

 

旧約聖書を教典とするユダヤ教。旧約聖書の中に登場する、神の指示で作られた「契約の箱」というものがある。それは、イスラエルから失われ行方が分からなくなったまま現在に至る。神宝である「契約の箱」は日本にあるのかもしれない…という話に続いているので、詳しくは引用元サイトをぜひお読みください。

 

日本語→ヘブライ語→日本語という変換が、カバラのゲマトリアを思い出させる。かごめ歌は、変換させることで本当の内容が分かる暗号のようなものかもしれない。

 

 

いくつかの説を簡単に紹介してきたが、ここからは全ての解釈をまとめるような「pancyan説」を提唱していきたい。かごめかごめの歌詞を振り返り、その後にわたしの説をどうぞ。

 

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀と滑った 後ろの正面だあれ?

→四方を囲まれ守られている人間(自分)。人間がその囲いを出る時、人間の正体が明かされる。

 

それぞれの単語の意味合いは以下のようになる。歌詞の内容も詳細に解説していく。

 

籠→人間を囲う現実世界、現実世界と精神世界の境界線

鳥→現実世界に居る人間、空想をする生き物

夜明けの晩→現実世界を出る時、境界線上

鶴と亀→人間と神または死と生または永遠

滑った→真実を知ること

 

 

「籠の中の鳥」の意味

 

人間は現実世界を生き、現実世界という籠(囲い)に守られている。この当たり前のことを「籠の中の鳥」と表現している。守られていることを忘れてしまうほど長く籠の中を生きている私たち。けれど、いつしかその現実世界に疑問を感じるようになる。今現在、この世界はおかしい、この現実に違和感を感じる、などと思う人が増えてはいないだろうか?

 

 

「いついつ出やる」の意味

 

「いついつ出やる」という言葉は、守られた現実世界からいつかは出ようとすることを暗示している。予言とも思える言葉である。人間が現実世界を信用しなくなった時、人間はそこから出ようと考えるようになる。

 

現実世界から逃れようとする人間が目指す場所と言えば、苦しみが無くどこまでも自由な「理想郷」ではないだろうか。けれど現実にそんな「理想郷」など存在しない。私たちは現実から逃れる為に現実には無いものを想像する。無ければ空想の世界で創り出すしかないのだ。

 

私たちは「理想郷」を「天国」や「常世の国」などと名づけて、物語にすることがある。が、そのような現実世界には無い場所(空想の世界)は「精神世界」と呼ぶ方が適切である。「現実世界」の対になるものとしての「精神世界」である。

 

私たちは「理想郷」が現実には無いと思っているからこそ、現実世界(籠)の外に「理想郷」があると思っている。つまり、籠(現実世界)の外に出る時、というのは「精神世界」へ足を踏み入れる時を指しているのだ。

 

「精神世界」に詳しい人がいるとすれば、薬物中毒者や上級瞑想者なのかもしれない。「精神世界」を体験する方法として、幻覚を見せるような物質を利用する、精神を超集中して自力で入り込む、などがある。また夢を見ることや臨死体験も「精神世界」の一種である。

 

かごめ歌はそんな「精神世界」の真実を教えてくれるもの。籠(現実世界)から一度も出たことがない鳥(人間)が、籠の外(精神世界)に飛び出したらどうなるのか。その先には何があるのか。

 

 

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長くなりそうなので、続きはUOZAブログにアップします。

 

籠に囚われた青い鳥が境界線を越えるのは、未知の領域に足を踏み入れる時。籠の外は真っ黒闇の恐怖!えーっくす!

 

どうでもいい余談。かごめ歌ヘブライ語説の解説で引用させてもらったサイトって「日ユ同祖論」に興味がある人なら必ず通るサイトだと思う。このサイト作ってる方、サウンドハウスの創業者であることをはじめて知った。瀬戸弘司がよく楽器買ってるとこじゃん!てなった。やはりユダヤの思想を持っている人は商売上手なのでしょーか。

 

最近の事件と、ナイフと聖杯と家族のはなし。

どーもー。

 

この記事を書いていた時に、今後ナイフ(刃物)を使った事件が増えるんだろうなぁと感じていたんだけど、そうなっている気がします。

 

記事の中ではレオナルド・ダ・ヴィンチの「ナイフ」の解釈について考えたんだけれども、ダ・ヴィンチはナイフというモチーフを使う時『強い感情表現』として描いていたらしい。

 

絶望した男はナイフをふるう。人は「弱い心(聖杯)」が出てきた時「強い心(ナイフ)」を出さなければいけないことを知っている。けれどナイフの使い方を誤ると、人を殺してしまう。

 

わたしの知っているナイフの正しい使い方。ナイフでは自分の心臓を刺さなければいけない。自分が犠牲を被るべし。ただし、実際に心臓を刺してはいけない。自分が悪いということを認めるという意味です。

 

どんな理不尽なことがあっても人を殺すな。相手が悪い、自分は悪くない、と思う「弱い心」。その心を隠すために「強い心」は自分以外を否定する。世界で一番悪い人間は自分自身だ。この世界に生まれてしまったのだから。究極の自己責任を負うものだけが、正しい「強い心(ナイフ)」の使い方を知っている。

 

 

そして、この記事を書いていた時には、今後家族の問題が浮き彫りになる事件が増えるのだろうなぁと感じていたんだけど、そうなっている気がする。

 

父と母と子、という家族。心は3つの魂でできている。けれど二つの心が不協和音をおこしたら、心のバランスが崩れてしまう。父と母と子は1と2と3でも表すことができる。

 

全ての神話は、「悪(1)」と「善(2)」と「自分(3)」という三つ巴で描かれている。「3」の自分というのは、物語の「主人公」のこと。物語の読み手である私たちが、物語の中の「主人公」へと意識が変わったとき、現実世界において物語と同じ体験が起きる。

シン・エヴァンゲリオン劇場版を考察 誰も知らないマリの正体について

これ、その記事からの引用ですが「悪(1・父)」と「善(2・母)」は、「善(1・父)」と「悪(2・母)」でも良いということをここでお知らせしておきます。

 

現実世界は、男(父)と女(母)の喧嘩から始まっている。崇神天皇が天照大神と倭大国魂神(大国主)を分けて祀ったのは、喧嘩に気がついてしまったから。

 

その喧嘩を解決しなきゃいけないのは子なんです。親の後始末めんどくさ!と思ってしまうが、そこに愛はあるので、がんばろう。物語の主人公は子であり、私たちを主人公にするための喧嘩なのだから。主人公を選ばなかったら、ずっと喧嘩が続いてしまう。

 

ススキノ首切り事件の部屋は202。202は怖い。1も3も無い0。そして内装はピンク。赤に白を足して中和してしまうメンヘラちゃん。闇に落ちた女性性は猟奇的。ピンクのキノコ雲バーベンハイマーも炎上してしまった。

 

 

人が人を刺してしまう(殺してしまう)のは、聖杯(弱い心)の解釈に問題がある。弱い心は大切なもの。恥ずかしがる必要はない。聖杯は元々満たされているはずなのに、聖杯が満たされていることを知らない私たち。だから、ナイフを手にした時、聖杯の中身を誤ってこぼしてしまう。既に満たされているのだから、自分の心臓を刺しても大丈夫、という安心感を持ってナイフを手にしよう。聖杯に満たされた血があなたを復活させるでしょう。

 

未知の領域X。

どーもー。

 

ツイッターがXになって話題ですね。わたしはイーロンマスクが好きなので、かなり好意的に見てます。

 

なぜならイーロンはシミレーション仮説を推しており、その仮説はわたしも推しているというか、UOZAブログで訴えている「この世界の真実」だから。

 

イーロンのツイート(エックセズ、、、、)を読むと、わたしと思想が同じなんじゃないかと感じてしまう。このツイートとか。

 

 

 

私たちが夢想するものは予測であり希望なのだ。宇宙人がわたしたちと姿形がまるっきり違えば受け入れやすいのにね…

 

シミレーション仮説を追求していくと、この世界は「一者の意識の中」であることに気が付くことになる。エメラルドタブレットの言葉で言えば『万物が一者から一者の瞑想によって生まれるがごとく』。自分自身が世界の中心であり、管理者であることを自覚してゆく。そして、その事実と現実をすり合わせる必要があることを悟る。

 

イーロンもそこまでの理解に到達しているのではないか。彼はお金も地位も影響力もあるのだから、あとは実行するのみ。『この世界が一者(自分)の意識の中』であることを理解しても、目の前の現実がそのようになるまでもっていくのは実に難しい。

 

『シミレーション仮説を信じた人が実行すべきこと』とは「強い自我」を表現すること。人間は強い自我を嫌う。他者の自己中心的とも言える行動に嫌悪感を抱く。

 

「強い自我」を表現すると必然的に「悪」になっていく。ヘイトは増えていくが、仮説を現実にする為には、成すべきことを成さねばならぬ。批判を恐れる平凡な人には出来ないこと。ちょっと頭がおかしいくらいじゃないと「悪」は務まらない。

 

イーロンはひとつのアプリ(X)の中でいろんなことをやりたいのだけど、仮想現実(インターネット)の中にひとつの世界を作ろうとしているのだろう。この現実世界(仮想世界)を再現しようとしている。マークザッカーバーグも同じことやろうとしていると思うけれど、どちらがうまくやれるのか、それとも別のところがやるのか。アップルも金融を始めたし。

 

世界の中心であり、その世界の管理者になるのは難しいこと。なにもこの世界の中心である必要はない、と理解して細々と中心をやっている人もいる。小さな世界を作れば、中心の一者でいることは容易。けれど人間は欲深い…小さな世界だけで満足できるかな。

 

イーロンはスサノオぽくていい。その場を荒らし何かを変革していく。強い自我を表現するスサノオたちが、「支配欲求」が私たちの内にあることを強制的に教えてくれるかもしれない。怒りを引き出し、集めてね。

 

支配が嫌なら支配から抜け出すしかない。けれどそこもまた支配された場所である。この仮想現実から抜け出すには、この世界の本当の支配者になればいい。地球(宇宙)の中心であれ。平凡な人は仮想現実から抜け出せるとは信じないだろうから、仮想現実の中で支配されることを受け入れるしかない。支配された中で小さな幸せを探し生きる、籠の中の青い鳥のように。

 

ところで、わたしも『シミレーション仮説を信じた人』なので、やるべきことをやらなきゃいけないが、わたしは平凡なのでまったりやります。

UOZAブログ更新しました。

こんにちは〜。

新しい記事を書いたのでお知らせです。

 

 

TENETをもう一度見直したら、書かなきゃ

となったので書きました。

けっこうがんばったので読んで下さい。

人間が2つの時間の流れに挟まれている中間な存在

であることをTENETでいい感じに説明できました!

あとこの記事を書く過程でカバラが理解できました。

オッペンハイマーを意識して書いた考察です。

日本ではいつ公開されるのだろうか。九月かな。