猫のたましい。
うちの猫が死んだ。
糖尿病性ケトアシドーシスと拘束型心筋症で救急病院で治療したが、回復は難しかった。敗血症の疑いもあった。
どちらかというと、猫より犬の方が好きだから犬を可愛がっていた。猫は可愛がろうとしても逃げるので嫌いだった。
けれど猫が苦しんで死んでゆく様を見続けていると沢山の思い出が蘇ってきて、後悔ばかりが心に積み重なった。まだまだ長生きできたかもしれない。ちょっと早すぎた。
冷たくなってたましいが抜けた猫は、まだ生きているようだった。目に見えるものとしての肉体が焼かれ消えてしまうのは、思い出までもが消え去ってしまうようで、すごく嫌だった。けれど骨を受け取ったら少しすっきりした。
骨を受け取るまえ、本を売る為ブックオフに寄った。河合隼雄の本が読みたいと思っていたのだけど「猫だましい」という本を見つけたから買った。これから読む。
猫が死んで理解したことがあった。今、出雲大社の記事と、もう一つの記事を書いているのだけどここ一ヶ月くらいどちらもうまく書き進められない感じがあった。それは「たましい」に関することについての理解に何かが足りない感覚のためであったけど、その答えを猫がくれたのかもしれない。
猫はわたしだった。にゅいにゅいの性格を事細かに思い出すとわたしそのもので、紛れもなくわたしのたましいの一部だった。
『他者は自己投影』という言葉をよく聞くけれど、投影とかいうレベルを超えリアルで実体がある。わたしのたましいの一部が、生きていて動いていて一緒に生活していたのだ。しかもふわふわでかわいい。
猫のたましいは女の部分。犬のたましいは男の部分。わたしには動物だった時代があった。実現できなかったことを人間で完成させる。
全ての存在が実体として有ることの意味が深く深く理解できた。にゅいちゃんの置き土産だった。こんな簡単なことを思い出すために殺してしまってごめん。DNAを採取してもらったから、また絶対に会おう。
にゅいにゅいは沢山兄弟がいたけれど、一匹だけ柄が違った。他はみんな虎柄で、にゅいだけが白とグレー模様だった。他の猫が貰われていったあと最後の二匹のうちの一匹がにゅいだった。他と違うのが気に入ってわたしはにゅいを選んだ。もう一匹の虎柄くんと比べるとかなり臆病な性格だった。
入院の際、判明したのはB型だということ!雑種だと9割がA型らしい。ABはほとんどいない。輸血をお願いした猫ちゃん二匹の血液検査をしたら、一匹が奇跡的にB型だった。最期の2日間おうちで一緒に過ごせたのは、血をいただいたおかげなのだと思う。12年間ありがとう。