こんにちは。
今回は「神との契約に立ち返れ」と題して、申命記にある神とイスラエルの民との契約、律法と終末預言との符合についてお話ししていきます。
<重要事項>
世の動きを見ていると恐ろしいまでの不正がまかり通り、堕落と腐敗を極め、自浄作用がまったく期待出来ないことが分かります。こちら(真の聖書福音と預言「日本人の問題点 五」)の記事にあるように、日本は社会主義国と化しております。政府は法令違反を繰り返し、しかし、ろくに罰せられず、行いも改めず、国民のみを厳しく統制します。司法は腐り、行政に忖度するヒラメばかりです。
個人的な話ですが、政府寄りの考えをしていた人が「今の政府のやっていることは全体主義的、共産主義的で、自分が生きている間にそんな恐ろしい社会になりそうで恐ろしい」と言っているのを聞きました。そのような人でも、いよいよそう感じるようになったのかと思いました。その人は、真の聖書福音と預言「日本乗っ取り計画、日本人抹殺計画」でも紹介されているスイス政府「民間防衛」の書にある「国の乗っ取り」が最終段階まで進んでおり、もう手の施しようがない状態にあると絶望感を露わにしておりました。実際、まともな国会議員など皆無に等しく、国会議員としての良心も無く、憲法前文にある国政の本分も果たさず、まったく期待出来ません。他の中枢機関等も同様に自浄作用はありません。それを止めようにも主権者たる国民の堕落も相まってなかなか歯止めがききません。こうなっては、すべての悪を裁く主イエスの義(裁き)だけが希望です。もちろん社会正義のためにも世の悪や真実を伝え、悪政への抵抗は不可欠です。しかし、聖書預言から、これからも世の悪化は避けられません。預言は必ず成就するからです。それでも、やがてすべての悪は神によって滅ぼされます。正しい者だけがその罰から免れます。ここに真の希望があります。悪がのさばる無秩序など不快、苦痛でしかありません。真っ当な人間ならば、真の秩序や正義を欲するはずです。但し、正しい秩序は世の法秩序にあるのではなく、世を裁く御方の法(神の律法、掟、戒め)にあります。その神の御目に適う必要があり、それが善であり、それ以外は悪(ヨハネの手紙一 三章四節参照)です。これこそが真の倫理、道徳です。これは聖書に明確に書かれていることです。この正しい道を見出だし、最期までまっとう出来る者はごく僅かです(マタイによる福音書七章十四節参照)。故に、世の大多数は滅ぼされます。すべては万物の主権者である神のお選びと御計画によりますが、神の御目に適う少数には復活と永遠の命の希望があります。そして、新しい天と地には、この世のような悪や苦痛は存在せず、まさしく永遠の安息です。
よって、今、為すべきことは何か。それは聖書を複数回通読し、主イエスを救い主と信じられたのならば、これまでの考え方や生き方(生活全般)を改め、神の律法、掟、戒めを守ることです。渋々、嫌々な態度では意味がありません。そもそもそのような心持ちでは長続きせず、むしろ本心ではないこと(偽り)が露わになるだけです。実の所、それは神を愛することで可能となります(ヨハネの手紙一 五章三節参照)。愛するという言い方がぴんと来ないようであれば、すべてに優って神を一番目と出来るかどうか、と言い換えても良いと思います。また、神を一番目とするならば、神の御命令どおりに隣人も愛します。隣人がこれ以上、世の悪に巻き込まれて害を受けないように世の真実を周知したり、必要に応じて助けの手を差し伸べるべきです。極論ですが、一番目のために二番目から以下を捨てられるかどうかです。それが「一番目」であることの所以だと思います。まさに秩序(物事の正しい順序)です。そして、失われた羊に向けて(どこにいるか分からないため全方位に発信する必要がある)福音を宣べ伝えることです。同時に、自身も心から悔い改めて品性、行いごと改善に努め、自身の救いのためにも励むべきです。内面が変われば行動も変わります。行動が変わらないなら内面の改善が不十分だと思うと良いでしょう。正しく生きるためにも、世の悪・世俗とは出来る限り距離を取って生きる必要があります。悪しき影響や巻き込まれを防ぐためです。古の人もこう言っております。
徒然草 第百五十七段
心は必ず、ことに触れて来る
筆を取ると、自然と何か書きたくなる。楽器を取れば音をたてたくなる。盃を取ると酒をのみたくなるし、サイコロを手にしていると博打を打ちたくなる。そんなふうに、心というものは、何か物に触れて動き出すものだ。だからかりそめにも、よからぬ戯れをしてはならないのである。
引用:「すらすら読める徒然草」 著者:中野孝次 発行:講談社
キリスト者の道は多数派ではなく、少数派の道です。滅びに至る道は広く(マタイによる福音書七章十三節参照)、何事も『多数派に属す者は破滅に至る(真の聖書福音と預言)』からです。困難な道だからこそ、同じ志を持った信仰の兄弟と励まし合って生きることが肝心です。
何故、この世はこれほど悪化しているのか。それは、支配層が新世界秩序を構築するべく、世界中で人口削減を進めつつ、超監視管理社会、超共産主義化を進めているからです(参照:真の聖書福音と預言「世の中の真相、新世界秩序(NWO)とこれからの動向」)。日本も例外ではありません。日本は凋落が著しく、少子化が深刻で真の日本人は消滅の危機に瀕しております。そこには日本が真正イスラエルであることを知り、憎んでいる支配層(悪魔崇拝者、キリストの教えに留まらず逆らう反キリスト)が日本を攻撃している故です(参照:真の聖書福音と預言「日本人の消滅危機と生き様について」)。
日本がこれ程悪い状況なんは、日本人は古代イスラエル人の末裔であり、それにも拘らず不信仰者が多く、律法違犯の報い(呪い)、神との契約違反の結果やと言うてるやろ。世間の人々の多くの目が節穴で、真理を理解せず現実逃避し、悔い改めの必要性を感じてへんのやろけど、悔い改めへんのなら地獄行きになると言うたやろ。
神の律法を見れば、神への愛や隣人への愛を説き、厳格で秩序を乱すことがなく、正しいことを言っていると分かるはずです。神と隣人への愛が蔑ろにされれば、世と人の有り様が悪くなるのは当然です。神の律法に対しては様々な誤解もあるようなので、こちら(真の聖書福音と預言「律法の食物規定について」)から、更新された律法と主イエスとの新しい契約について学んでいただければ幸いです。くれぐれも律法廃止論等を教える偽福音に騙されないでください。旧約の終末預言にも、主イエスの御言葉でも、世の終わりを記したヨハネの黙示録にも、律法が廃止されたとか、守らなくて良いとか、そのような事は一切書かれておりません。偽使徒パウロが律法廃止(都合良く擁護したり、貶したりしているため要注意)を言ったとて、なぜ一人の人間の言うことが神の言葉に優り得ましょうか(参照:真の聖書福音と預言 【第六回】パウロは偽使徒)。使徒でもないパウロの書簡による勝手な偽福音は根拠になり得ません。言葉は神です(ヨハネによる福音書一章一節参照)。だから徹底して神の言葉に拠るべきです。神の言葉よりも世の諸教会の偽の教えを信じてはなりません。彼らは偽福音によって、滅びに至らせ、地獄の子を量産する現代のファリサイ派です。自分たちの言い伝えや考えを優先した律法学者やファリサイ派の人々の過ちと同じ道に行ってはなりません。主イエスの言葉は現代の我らにも向けられております。また、神の言葉よりも自分の願望や目先の生活を優先するようでもいけません。そうかと言って、杓子定規でも宜しくありません。ただ神の言葉を読み解き、その意味する事は何かを考え、目の前の現実に当てはめていくまでです。ここに理性が求められ、心と魂だけでなく理性をも尽くす事が必要となります。
<神との契約>
前置きが長くなりましたが、今回は申命記の箇所から、旧約の時代から現代の終末時代にも適用される神の摂理、契約について触れていきます。ここがすべての基本となるため、何度でも確認するべき箇所です。
申命記二十九章十五節から二十八節(参照)
確かにお前たちは、エジプトに住んでいたことや国々の間をどのように越えたかを知っていた。お前たちは、国々の中に木、石、銀、金などの嫌悪、偶像があるのを見て来た。お前たちの間で男、女も、家族も部族も、今日、その心が我らの神である主に対してその心が背き、これらの国々の神々に行って仕えることがないように。お前たちの中に毒を作り出す根や苦よもぎが無いように。これは現実となる。この呪いの言葉を聞いた時、「我が平和で祝福されている」と自分の心の中で言うので、潤った者も渇いた者と一緒に滅びるために我が心の頑なさに従って歩み、主はその者を赦そうとしないだろう。その時、確かに、主の怒りと主の熱情がかの人に対して蒸気を出すだろう。この書に書かれたあらゆる呪いがその者にのし掛かり、主はその名を各天の下から消し去るだろう。主はイスラエルの全部族から悪しき者を分けて、この律法の書に書かれた契約と同じ呪いがすべてのし掛かる。後の世代、お前たちの後から起こるお前たちの子孫、遠い地から来る異邦人は、主が打たれたその地の悪疫とその堕落を見て言うだろう。その地全体は硫黄と塩、炎上、種は蒔かれず、芽は出ず、そこに草一本も生えない。主がその怒りと憤怒によって崩壊させたソドム、ゴモラ、アドマ、ツェボイムの破滅のようである。全国民は言うだろう。「何故、主はこの地にこのようになされたのか。何故、この甚大な怒りを燃やされたのか。」人々は言うだろう。「エジプトの地から彼らを連れ出した時、彼らの先祖の神、主と結ばれた契約を捨てたためである。他の神々に行って、仕え、彼らが知らず、与えもしないそれらの神々を崇拝したためである。主の怒りがこの地に燃え、そこにこの書に書かれたあらゆる呪いが共にもたらされたためである。主は怒りと憤激、甚大な激怒をもって彼らの地から彼らを引き抜いた。彼らを他の地へ投げ捨て、今日のようにされた。」隠れている事は我らが神、主に属する。また、啓示された事は我らと我らの子孫にとこしえまで属し、この律法のすべての言葉を行うためである。
(一)荒れ野と誘惑
申命記二十九章十五節には、古代イスラエルの民が主なる神のお導きの下、古代エジプトを脱出してからの経緯が端的に触れられております。前回記事でも言及しましたが、古代エジプトは異教で太陽崇拝(悪魔崇拝)、且つ、繁栄を誇った国です。そこで暮らせば、奴隷のように働いて肉体は疲弊し、霊的にも堕落はしても飲食物や娯楽の類は尽きなかったと考えられます。まさに現代社会の様相に酷似しております。ここにも『かつてあったことはこれからもあり、かつて起こったことはこれからも起こる。太陽の下、新しいことは何もあらへん。」(コヘレトの言葉一章九節:引用 真の聖書福音と預言「二種類の基礎」)』の言葉のとおりの事が起きております。エジプトを抜けてからは他の国々を通ったり、四十年も荒れ野に滞在しました。流浪の状態は、現代で言えば世俗から距離を取り、世の友とならずに生きることに例えられると思います。まさに使徒ペトロが言われた生きている間の地上での仮住まい(ペトロの手紙一 一章十七節及び二章十一節参照)の状態です。真のキリスト者を目指そうとしている方、歩み始めた方の中で、賑やかだった世俗と距離を取り、荒れ野で生きることに心許なさを覚えるようなことがあれば、我らの先祖も同じように荒れ野を通られたことや主イエスも荒れ野で試みを受けたことを思い出してみてください。主イエスが悪魔からの誘惑を受けた場所である「荒れ野(ἔρημος)」の原語には、「心細い」「寂しい」といった意味があります。この世は悪しき者の支配下にあり、ましてや現代であれば真の聖書福音に則って生きる者は極めて少数です。そのような状態にあって「心細い」「寂しい」と感じても不思議ではないと思います。手前も身に覚えがあります。そんな気持ちに駆られるほど、後ろを振り返りたい衝動も出て来るかもしれません。そんな時ほど主イエスを思い出してください。主イエスは人となった神ではありますが、人と同じように弱さをも持たれておりました(ヘブライ人への手紙五章二節参照)。且つ、四十日の断食によって、飢えて空腹な状態で試みに臨みました。当時の断食は一日だけ続く場合は完全に断ち、数日続く場合は習慣的な食べ物や飲み物を断つようです。それでも相当にきついだろうと想像します。飢え(空腹)は一般的に空腹だけでなく、切望や渇望の例えとしても用いられ、そのように追い込まれた状況においては、人の本性が露わになる時でもあると思います。つまり、世俗的欲求を捨てきれなければ、容易に誘惑に屈してしまう危険があるという事です。主イエスの四十日断食は、出エジプトの荒れ野の四十年と対比していると思われ、両者の対応は実に対照的です。両者は神を疑う誘惑(マタイによる福音書四章三節から四節参照)、神を試みる誘惑(マタイによる福音書四章五節から七節参照)、偶像崇拝の誘惑(マタイによる福音書四章八節から十節参照)を受けました。場面を想像すると、かなり強力な誘惑だと思いました。しかし、主イエスがその三つの誘惑を退けると悪魔は離れ去りました。ここから学べることは、徹頭徹尾、神を一番とし(神を愛し)て、それ以外を拒絶することです。この主イエスの姿勢に我らは倣うべきです。万が一にも、誘惑を受け入れたら、その後に待ち受けるのは罪(違犯)、滅びです(ヘブライ人への手紙三章参照)。
(二)あらゆる偶像と決別せよ
律法によって真の善悪を知れば、この世には数多の偶像が満ちていると認識出来ます。異邦の国(エジプト)で暮らしていた古代イスラエルの民であっても、モーセの律法以前から神の律法は存在して根付いていたので(創世記二十六章五節参照)、この偶像の数々を認識し得ていたと思われます。しかし、現代の真正イスラエルである日本ではその認識すら無くなっております。『日本では古くから、仏教や神道が蔓延しており、仏像、仏画、仏壇、寺、神社、地蔵等こういう無意味な偶像礼拝を継続して創造主たる主なる神に対して罪を重ね(引用:真の聖書福音と預言「マイナンバー制度は国民家畜化計画の始まり、そして今後のこと」)』、それ以外にも物体ではなくても学歴信仰、科学信仰、政府・行政信仰、太陽暦、西洋かぶれ、世間体を守る、拝金主義、地位・名誉志向等など、神(とその知識)よりも優先されている事柄がたくさんあります。むしろ、偶像に満ちているという言い方が正確だと思います。神が明確に偶像を「嫌悪」と言われております。「昔からあるものだから」「日本の文化」「日本の光景の一つ」と思ったとしても弁明にはならず無意味です。神の目には罪であり、偶像崇拝は改めなければ必ずや神によって罰(呪い、裁き)を受けます。ある程度の年齢に達した人であれば、尚更、物体的偶像にしろ、慣習・志向的偶像にしろ、それらに慣れ親しんできたと思われます。古いパン種(間違った考え、悪習慣)は自分の中から取り除かねばなりません(マタイによる福音書十六章十二節等参照)。まさに考え方を一新し、生まれ変わる覚悟が必要です。最初は難しいと思うかもしれませんが、思い切って捨ててみると、決して出来ないことはないと手前は感じます。
申命記二十九章十七節について、民の中に偶像崇拝する者が無いように、と言われております。「朱に交われば赤くなる」という諺があります。人は、居る環境や関わる環境によって良くも悪くもなるという意味ですが、まさしくそのとおりです。あの知恵に満ちたソロモンでさえ晩年は異邦人の妻の影響を受けて偶像崇拝に陥り、古代イスラエル王国の分裂のきっかけを作ってしまいました。終末預言たるヨハネの黙示録においても十八章四節で「女から離れよ」と忌まわしいものから離れるように警告されております。「よからぬ戯れ」はしてはならないのです。マタイによる福音書十一章二十九節で主イエスは、我が軛を負いなさいと言われました。軛は「釣り合い」をも意味し、真のキリスト者ならば「神に属す」に相応しく、神の掟を守るはずです。神の国に入りたいと思うならば、神の国の掟を守るのは当然です。神もそのように命じております。神の掟を守らず、世俗の習慣や自分の都合を優先するならば、世に属しております。行いがすべてを表します。
『お前たちの中に毒を作り出す根や苦よもぎが無いように』の一文も興味深いです。
・「毒(רֹאשׁ)」:害になり、悪影響を与えるもの、激しい憎悪、悪意、恨み
・「根(שֶׁרֶשׁ)」:根源、起源、(考え方の)根本、心の拠り所
・「苦よもぎ(לַעֲנָה)」:毒薬、苦い経験、苦しみ、苦悩
手前は真っ先に『誰でも神の恵みを失うことのないように、また、苦い根が生えて(お前たちを)悩ませ、それによって大勢が汚されることのないように注意深くあれ。(ヘブライ人への手紙十二章十五節参照)』の言葉が思い起こされました。使徒ヨハネが『彼らは我らの中から出て行きましたが、我らの仲間ではありませんでした。もし我らの仲間であったなら、間違いなく我らと一緒にいたでしょう。しかし、彼らが出て行ったのは、彼らが皆、我らの仲間ではないことが明らかになるためでした。(ヨハネの手紙一 二章十九節)』と言われたとおり、敵対者(反キリスト)は道から逸れた者から生じております。こちら(真の聖書福音と預言「パウロを偽使徒と認めない反キリストの有様」)にあるように偽福音を信じるパウロ教信者らが分かり易い例です。彼らは聖書真理をまったく知らない訳ではありませんでした。しかし、神の言葉よりも、世の諸教会の教えを信じました。また、サタンは元は天使で、神についてよく知っていたにも拘らず反逆して堕落しました。悪霊も主イエスが神であると知っておりました(マルコによる福音書一章三十四節)。知りながら堕落した者こそ、神の道を激しく憎悪し、真のキリスト者を苦しめようとします。根が悪いので自らの行いを改める事が出来ません。モーセの律法の時代からこれを予告、警告されていたのだと思いました。ちなみに、ヘブライ人への手紙十二章十五節の「根(ῥίζα)」も申命記二十九章十七節の「根(שֶׁרֶשׁ)」とほぼ同じ意味合いです。そして、「苦い(πικρία)」は「苦々しい」「辛い」「敵意のある」「刺々しさ」の意味があります。また、「毒」の言葉に着目すれば、マタイによる福音書十三章では「毒麦」の例えが登場します。麦に似ているが麦ではなく、最終的により分けられて焼却され、世の終わりもそのようである(マタイによる福音書十三章四十節参照)と書かれております。「毒麦(ζιζάνιον)」は偽穀物、有毒な雑草でもあり、まさしく神の目に適わないにわかキリスト者そのものだと思います(不信仰は「麦」ですらなく論外)。更に、マタイによる福音書三章七節から八節にて、洗礼者ヨハネがファリサイ派の人々に対して「蝮の子」と非難し、悔い改めに相応しい実を結べと説きました。この「蝮(ἔχιδνα)」もまた「毒」のある蛇であり、文脈上、「狡猾で悪意のある邪悪な者たち」に向けられた言葉です。このように律法の言葉は新約の福音書とも繋がり、一致が確認出来ます。他にも、堕落の末路について、アモス書六章十二節等で「毒」や「苦よもぎ」と同様に比喩されており、繰り返し聖書が警告している内容であるのは間違いありません。この繰り返されている意味を重く受け止めるべきです。人が繰り返し同じことを書いたり、言うのは、それが非常に重要だからです。
(三)「頑な」の意味
申命記二十九章十八節について、律法の呪いの言葉を聞いても尚、律法を守らず、「我が平和で祝福されている」と思う者は、現代の「キリスト教(パウロ教)」信者に他なりません(繰り返しますが、不信仰は論外です)。ミカエル氏がパウロは偽使徒で律法は廃止されていないことを聖書を根拠に示しても、カトリックやプロテスタント等の中から、改心の意志を示した者を手前は見たことがありません。彼らが滅ぶことを望みはしませんが、残念ながら自ら滅びの道に向かっております。ミカエル氏のブログ記事でも言われていることですが、世の権威(国際機関、政府等)を盲信する者たちと世の諸教会が教える神学を盲信する者たちは心根が同じです。世の権威、神学が言う内容の矛盾を見ず、指摘しても認めず、ひたすら嘘を信じ続ける様はまさに宗教(有りもしないものを信じ続ける)です。キリスト信仰は、(世の権威等)人間の言い伝えや奇跡やしるしを信じることではありません。ただ聖書にある神の言葉に拠ります。なぜならば、言葉は神(ヨハネによる福音書一章一節参照)だからです。何故聖書の言葉が与えられているかの意味を考えるべきです。もちろん、聖書は決して易しい書物ではありませんから、誰かに教わることも大いにあると思います。しかし、それでも聞いた内容が本当かを神の言葉に照らして確認しなければなりません。そうでなければ容易に騙されるでしょう。『愛する者たちよ。どの霊をも信じないで、神からの霊かどうか識別しなさい。多くの偽預言者が世に出回っているからです。(ヨハネの手紙一 四章一節参照)』と言われているとおりです。ところで、以前、「神の子」を自称する偽預言者が提唱している嘘(「秘密のたからばこ」)に惑わされている方を見かけました。「イエスの息子」を自称する「佐藤和也」という人物が始めたようですが有害無益な本を出版して、その信者がX上でも活動しているようです。彼らの主張を聞くと聖書に反した創作で聞くに耐えない中身ばかりでした。神の言葉をしっかりと内に蓄えて、神の言葉への確信を持っていればこのような出鱈目に騙される人はいないと思います。しかし、まだ信仰を持っていない人や初期の方は騙されないとも限りません。聖書は主イエスについて証しをするもの(ヨハネによる福音書五章三十九節参照)であり、裁きも救いも主イエスに拠ります。「イエスの息子」など入る余地は無く、福音が勝手に更新されることはありません。よって、聖書(パウロ書簡を除く)に反する教え(反キリスト)であり、決して信じてはなりません。
あまりに嘘を堂々と主張するが故に「何となく、言っていることがもっともらしい」と思わせてしまうのが偽預言者の特徴です。しかし、だからこそ感覚的に盲信してはならず、神の言葉によって理性的に判断(見分け)することが大事です。『あんたの全心で、魂を込めて、理性を尽くして、あんたの神である主を愛するようになる。これが最も重要で大切な掟や。(マタイによる福音書二十二章三十七節:引用 真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 七」)』と言われている所以がここにもあります。神の言葉を土台としなければ信仰に確信が加わりません。
長い聖書の文脈を丁寧に追っていけば、同じ言い回しだったり、異なっても同じ内容を言っていると気付くはずです。特に律法は善と悪、義、悔い改め、救い、裁き等の根幹に関わる大事な土台であり、これらが蔑ろにされる理由はまったく見当たりません。各位が聖書を読んでいけば、また、神の律法を実践していけば聖霊が与えられ、この事が悟れると思います。マタイによる福音書九章十三節の『我は、自分が正しいと思ってる人を招くためやのうて、悔い改めに招くために来たからや。(引用:真の聖書福音と預言「偽使徒パウロの反キリスト教義 六」)』の言葉は真実です。関連して申命記三十章六節には『お前の神である主がお前とお前の子孫の心に割礼を施す。お前の全心で、お前の魂すべてで、お前の神である主を愛して、お前の命(を得る)ために。』と書かれております。この中の「割礼(מוּל)」には「欲求を弱める」「(自信を)打ち砕く」の意味があり、心に施される割礼が非常に重要です。
主イエス・キリストに近づけば、自分自身の罪深さや無力さを痛感するはずです。時には絶望に打ちひしがれることもあるでしょう。しかし、そのような「打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません。」(詩編51:19)とあり、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」(詩編51:19)と聖書にあるとおりです。このような姿勢や気持ち、霊的状態、そして愛が真のクリスチャンになるには必要なのです。
上記の言葉のとおりです。そして、主イエスと新しい契約を結べば、ヘブライ人への手紙八章十節、十章十六節にもあるように律法が心に刻まれます。
主イエスは神の律法を破る罪人をそのまま受け入れるんやのうて、信仰に入る前までは神の律法を破ってたが、改心して律法を守るようになるという悔い改めに招き、行いを以って悔い改めが出来た人だけを神の王国に入ることを許可しはるんや。聖書を読んでも、この事実を理解せず、曲解したり、偽使徒パウロによる律法廃止論の偽福音を信じ続ける者が多い。それはそうする者らが悪人やからに他ならへん。根っからの悪人(悪魔の子)故に、改心出来ず、神と神の律法に服従することを拒むのである。黙示録にある主イエスの教えどおり、イエスの信仰を持ち、神の律法、掟、戒めを死ぬまで守り続け、自分の命よりも大事にせねば救いは有り得へん。父なる神や主イエスは、不法(律法違犯)を行う者を嫌いはり、神の王国に入ることを許さへんからや。
律法を守ろうと思うほどに、そう簡単に自分が正しいとは思えなくなります。ただただ必死に悔い改めねばとの思いに駆られます。それは義務感とか束縛されるといった窮屈な感情ではなく、善に対する希求や渇望のような感覚です。そして、完全への道は非常に困難(出来ないという意味ではなく、容易ではないという意味)で、自分が正しいと思う慢心がある内は到達し得ないと手前は思います。ところで、「頑な(שְׁרִירוּת)」は、欽定訳聖書では「imagination」の言葉が使われております。原語にも同じ意味があり、「空想」「想像されたもの」「実在しないもの」の意味です。まさに神の律法を守らずに「平和で祝福されている」と思うのは根拠の無い思い込みでしかありません。神の言葉を自身の言行に当てはめれば、それが善いことか悪いことかは判断出来るはずです。根拠の無い思い込みとは偶像であり、偽福音そのものです。惑わしが多い終末だからこそ気を付けていきたい事柄です。
(四)呪いにまつわる報い
申命記二十九章十九節から二十節について、神の掟を守らない者には呪いが臨み、『その名を各天の下から消し去る』とあります。出エジプト記三十二章三十三節に「我に対して罪を犯した者は、誰でも我が書から消し去ろう。(参照)」とあることから、肉体の命が失われるだけでなく、神の書の一つである命の書(詩編六十九編二十九節、ヨハネの黙示録二十一章二十七節参照)から名が消し去られ、永遠の滅びに至るのだと思われます。神はすべてをご存じで、救われる民をお選びのため、名が消し去られるとは比喩的表現で、実際には最初から命の書に名が書かれないと考えられます。また、『その時、主を畏敬する者たちがそれぞれその兄弟と話し合った。主は耳を傾けて聴かれた。主を畏敬する者たちとその名を信じる者たちのためにその御前で記録の書は記された。(マラキ書三章十六節参照)』と記録の言及があり、それが「悪しき者を分ける」に繋がっているのだと考えます。これらはそれぞれ自分の罪の故に死ぬ(申命記二十四章十六節参照)、麦と毒麦(マタイによる福音書十三章二十四節から三十節)を分ける、羊と山羊を分ける(マタイによる福音書二十五章三十一節から三十二節参照)との言葉とも符合します。故に、悪しきものに触れて、悪影響を受けるべきではありません。そして、申命記の呪いは古代イスラエルの滅亡としても臨みましたがゼファニヤ書三章八節(参照)「全地は我の熱情の火で焼き尽くされるからである」等の旧約の終末預言やヨハネの黙示録にある神の激しい怒りや火で焼かれる罰からも、これから起こる内容をも示唆しております。
(五)悪疫と堕落
申命記二十九章二十一節について、「その地の悪疫とその堕落」と書かれた箇所の意味を紐解くと、現代日本の状況に重なる所が多々あります。原語は異なりますが新約聖書の福音書の主イエスの終末預言でも「悪疫」について言及があります。
悪疫とは、伝染病のことで、水道に毒を含ませたり、不健康な飲食物を流通させたり、重金属を含むケムトレイルを撒いたり、ワクチン接種によって非接種者にも悪影響を与え、体調不良にさせたり、病気にさせたりすることで発生してる。自然に病気が蔓延するんやのうて、人為的に起こされるものや。ワクチンや薬等をアホみたいに盲信してる人間どもが悪疫の原因や。ゴキブリ退治やネズミ退治に、有毒の自己拡散型の偽餌が使われるのと同じ手法(一部がそれを摂取し、摂取してへん他者にも接触によって悪影響を与える原理)や。悪魔崇拝者の支配層どももこの原理を悪用し、庶民の人口削減を狙い、ワクチンや薬等を用いて伝播被害によりワクチン非接種の人間をも減らそうとしてる。
有害な食品添加物や汚染された水、ワクチン等、健康を害する物質を取り込まされることで「悪疫」は既に生じております。また、申命記の当該箇所の「悪疫(מַכָּה)」は「伝染病」に留まりません。「打撃、(肉体的・精神的)傷」「不幸」「(大)虐殺」の意味があります。実際、こちら(読売新聞)によると国内の日本人が過去最大の八十六万人減少と、国の衰退が露わになっております。背景には遅効性の毒であるワクチンによる死亡が大きく影響していると考えられます。しかし、こちら(totalnews)のとおり、武見厚労相は太陽暦六月二十五日の記者会見で日本人の大量死について『高齢者による増加だ』と訳の分からない答弁をする始末です。亡くなったのは高齢者だけでなく若年層でも中年層でも増えており、こんな説明でも誤魔化せると高を括り莫迦にしているとしか思えません。
また、こちら(Yahoo!ニュース)では、いまだに『新型コロナ第11波』と煽る始末で、おそらく秋のレプリコンワクチン接種に向けた布石と思われます。レプリコンワクチンの危険についてはこちら(note)をご参照ください。そして、まったく報道されておりませんがレプリコンワクチンの差止訴訟が行われており(参照:note)、残念ながら東京地裁において却下されたようです。接種が強制でない以上は必ずしも生命や健康が脅かされるものではないとの理由のようです。しかし、死亡率の高さや伝播の被害が懸念されるため、ワクチンが存在するだけで、接種が始まるだけで、生命や健康が脅かされます。現在のワクチン被害を顧みない東京地裁の姿勢には呆れますが是非とも戦い抜いていただきたいと思います。さらに、『レプリコンワクチン製造メーカーの明治製菓、SNSの評判を大変気にしている模様。』との情報があり、レプリコンワクチンの危険についてもっともっと周知されるべきです。
話を戻しますが「堕落(תַּחֲלֻאִים)」について、こちらの主たる意味は「病気」です。しかし、肉体的な病気以上の意味があります。過去記事でも触れましたが「(社会的、精神的)病弊、堕落、退廃」「(社会・組織の)深刻な問題、弊害」の意味があります。これも今の現実を的確に表す言葉だと思います。政府の言う偽感染症騒動(コロナ犯罪)全般に騙され、自滅しているようなものです。
(六)滅んだ都市のように
申命記二十九章二十二節について、「その地全体は硫黄と塩、炎上、種は蒔かれず、芽は出ず、そこに草一本も生えない」という凄惨な状態となるとあります。「硫黄」はソドムとゴモラを滅ぼした場面(創世記十九章二十四節参照)を、「塩」は後ろを振り返って塩の柱となったロトの妻(創世記十九章二十六節参照)が思い起こされます。硫黄はこちら(ウィキペディア)を参照に火山性の鉱物なので、それに焼き尽くされるのは現代においては火山が多い日本では起こりうる災害だと思います。エゼキエル書四十七章十一節、ゼファニヤ書二章九節の「塩」に関する文言から、エゼキエル書三十八章二十二節、ヨハネの黙示録九章十八節の「硫黄」に関する文言から、激しい荒廃の様子が窺えます。「ソドム(סְדֹם)」には「燃える」、「ゴモラ(עֲמֹרָה)」には「水没(現在は死海となっている)」や「不義」の比喩的意味があり、アドマ、ツェボイムもホセア書十一章八節から、すべて滅び(罰)を象徴していると思います。現代の真正イスラエルたる日本でそれが起こるとしたら、筆舌に尽くし難い光景です。
何故、神に寵愛されたはずの古代イスラエル人が破滅を受けたのか。それは神への不従順と背信に他なりません。愛の裏返しでもあります。神が寵愛したのに、神の愛に人間が応えないから神によって厳しく裁かれただけのことです。人間でも、愛している人に裏切られると憎しみに変わり、それは他人以上に強い思いを抱くことでしょう。それと同じ気持ちです。
神の寵愛が深い分、真正イスラエル(日本)に臨む破滅もまた大きい事でしょう。
(七)終末預言との符合
申命記二十九章二十二節から二十八節について、ヨハネの黙示録十八章で書かれている栄華を誇ったバビロンの滅亡を嘆いている場面にも重なります。当該申命記の箇所では全国民が「主との契約を捨てたが故にあらゆる呪いが臨んだ」と口にしております。終末にもこの場面がこのとおりに起こると考えられ、全国民が福音を知らされている状態にあると判断出来ます。
十二、(神の)王国の福音があらゆる民への証しのために、全世界で宣べ伝えられた時、終わりが来る
この主イエスの予告こそが世の諸教会が吹聴する偽使徒パウロ由来の偽福音と偽教義が神の王国の福音ではない、即ち、パウロと世の主流派が信じて吹聴してる偽福音は、主イエスと十二使徒が宣べ伝えた福音ではないという証拠になってる。もし世の諸教会が吹聴するパウロ教の偽福音がそれならば、世の終わりがとうの昔に来てる筈やが、そうではないんやからね。せやから、偽使徒パウロの偽福音は、主イエスが宣べ伝えはった王国の福音やないということの証明や。また、世の終わりの直前に真の福音が全世界に広まると示されてる故、四世紀から二十一世紀の現在まで主流となってる偽使徒パウロの教えとそれを支持する諸教会や諸教派はすべて偽りと分かる。また、全世界の人々が神の王国の福音を信じることを意味せず、単に宣べ伝えられるだけで、宣べ伝えられた人間側の反応は重要ではないし、その後もなおこの世が続くのではなく、すぐ世の終わりになる。
全世界で宣べ伝えられた福音は、当該申命記の箇所から契約、律法を前提にしており、明らかに今、伝えられている偽福音とは異なります。申命記二十九章二十八節にあるように、掲示されたこれらの内容は子孫たる現代の我らに密接なことであり、律法のすべての言葉を行う事が要です。また、全世界で福音が宣べ伝えられた後、すぐ世の終わりとなります。律法の書にある『もしお前たちが各天の果てに追いやられても、お前の神である主はそこからお前を集め、そこからお前を連れて行くだろう。(申命記三十章四節参照)』の言葉は、主イエスの『人の子は、大きならっぱの音と共にその天使たちを遣わし、天使たちは各天の果てから果てまで四つの風から、彼の選ばれた人たちを集めるだろう。(マタイによる福音書 二十四章三十一節 引用:真の聖書福音と預言「聖書の終末預言 二」)』の御言葉とも符合します。携挙は艱難前などではなく、大艱難末期であることは明らかで、その時までに最期まで、どこにいようと神の掟を守り続ける事(契約を守る)がすべてです。
<結び>
聖書を丁寧に読んでいくと、旧約聖書の律法の書と主イエスの御言葉(四福音書、ヨハネの黙示録)は底流でしっかり繋がっていることがよく分かります。説明を受けて頭だけで理解するよりも、自分で調べて、自分で見出だすことで、より確信が得られます。こういった意味からも聖書研究は非常に重要です。ここでも理性を尽くして愛する重要さを感じます。
現在は既に艱難期に突入しており、その中でもかつてない程の困難を極める大艱難期にいつ入ってもおかしくありません。大艱難期は主イエスが罪の赦しをされる恩恵期間が終えており(参照:真の聖書福音と預言「サタンの本質と大艱難前の霊的備え」)、失敗が出来ない状況に突入します。
ヨハネの黙示録 六章十三節(兄弟共同検討訳)
天の星は地上に落ちた。まるで、いちじくの木が、大風に揺さぶられて時機を逸したいちじくの実を振り落とすように。
「いちじく」はエレミヤ書二十四章五節、二十九章十七節から古代ユダヤの民、即ち、現代のキリスト者を表すと考えます。そして、「時機を逸したいちじくの実」は、日本語訳聖書ではどれも「青い実」とされております。しかし、この原語には「未熟」の意味もあり、大風という激しい揺さぶりによって振り落とされることを象徴しているのではないかと考えます。大風はおそらく大艱難期の激しい罪への誘惑(反キリストに屈する)と思われます。
急ごうと思って直ぐに成長を遂げられるなら苦労はありません。しかし、時は少ないと分かっているのなら速やかに行動するべきです。
確固たる神の言葉は既に我らに伝えられております。あとはそれらに我らがどう応えるかです。すべてはここに懸かっております。
最後までご覧いただきまして、ありがとうございました。