ライプツィヒのファーストフード
あまりの心身の疲れで、目覚めたのは眠りについてから12時間後でした。不眠症の私が一回も目覚めずに12時間も眠り続けるとは、我ながらよほど疲れていたらしいです。当地の大学の副学長との面談が夕方5時からだったのは幸いです。のろのろと準備をして、朝食を食べたらまた眠くなってしまい、しばらく横になってからようやく置きだして出かける準備です。運動もしていないのであまり食欲もわかず、ライプツィヒの小さな町の中をぶらぶらしてサラダだけ食べられるファーストフードのお店を探しました。ありました、ありました。アメリカ風のブリトーのお店が。中央駅からニコライ教会へ至る「ニコライ通り」に「Britto Company」を見つけました。店員さんは英語も話せます。「カリフォルニアサラダ」という6.9ユーロのサラダの「全部乗せ」にすると、レタスやらトマトやらコーンやらチーズやら、とにかくいろんなものが少しずつ乗った理想的なサラダが出てきました。しかし、円安のためにこんな程度のサラダでも1,000円以上します。学生さんには大変です。しかし、私が初めての一人旅バックパッカーをした当時、1米ドルは約160円でした。それでも、その前年、1985年9月の「プラザ合意」前は、1米ドルは約240円だったと思います。1986年の1月頃、3月に短大の卒業を控えていた私は、友人たちと授業後におしゃべりをしていた時、一人が言った「今、海外旅行のチャンスなんだってね」という一言に耳がぴんと立ちました。海外旅行?私も行きたい!でも、夢じゃないの?すると、他の数名も「私も卒業旅行はロンドン、パリ、ローマの団体旅行にする」「私はニューヨーク」と口々に言うではありませんか。それじゃあ、私も行くしかない!私は、お年玉などをためていたお金を父に預けていたので、父に電話してその貯金を解約して送ってほしい、と伝えました。父の激怒したことと言ったら!押し問答の末、「お前とはもう縁を切る!」とまで言われました。それでもあきらめず、2月のドイツの寒さも知らず、精一杯の準備をして2週間のバックパック旅行をしたのです。最初から最後まで節約ばかりの旅行でしたが、その経験から、「もっと世界を知りたい!」と強烈に思い、その後就職、貯金、そして25歳の時にカナダへ留学したのでした。あの時、父の激怒に負けていたら今の自分は無かった、と思うと同時に、「あの時素直に父の言うことを聞いておけば、今みたいにならなかったのか」と思ったりもします。人生は何が良かったのか、死ぬ時になってみないとわかりません。あの時の決断が正しかった、と思いたいウサギ