【全国編 東北⑲】湿地とドボク
1. 津軽半島 十三湖岩木川の河口に位置する十三湖。津軽半島の湖沼群を含む湿地帯は、小学生の頃から地図を見て気になっていたところです。まさか?ここに国を代表する貿易都市があったとは・・・十三湖の名前の由来は、13の集落説・13の川流入説など諸説ありますが、不明となっています。縄文時代は相当大きな湖だったようです。縄文時代から平安時代にかけて河川からの堆積作用によってどんどん湖水面積は減少しつづけたということです。平安時代からは地形を利用した港ができ、鎌倉~室町時代は十三湊(とさみなと)として日本海沿岸の交易港として栄えました。その後、港は衰退し、十三湖も縮小を続け、明治初 期には 4,882ha、大正元年には 2,155ha にまで小さ くなっています。ドローンの写真(砂州の集落)からわかるように、港として栄えた跡がうかがえます。戦後は食糧難に対応するため、数十年にもわたる「国策」十三湖干拓事業が行われることとなりました。この事業は、広大な葦野原を肥沃な穀倉地帯へと変貌させまし たが、同事業の推進により現在の湖水面積は 1,770haと明治初期の1 / 3 近くの面積になってしまいました。現在、上の写真からわかるように十三湖と日本海の間に細長い沼があります。手前にあるのが前潟で、その向こうに後潟・明神沼と塩分濃度が異なる沼が連鎖状に続いているという不思議なところなのです。なぜ、砂州の真ん中に沼(潟)があるのでしょうか?これは日本海の荒波による河口の閉鎖が繰り返されたためかもしれません。実際この地域の災害の特徴として、荒波による河口閉鎖で湛水災害(つまり内水氾濫のようなもと思われます)が多発していたということがわかっています。そのような水害を防止するため、明治15年にオランダ人のムルデンに調査を依頼したものの、本格的な治水事業が始まったのは大正7年だったということです。その後も事業が進み、現在は下の写真のように立派な河口となっています。2. 十三湊の栄枯盛衰鎌倉時代から室町期にかけて港町として栄え、数々の貿易を行っていたと伝えられる幻の中世都市十三湊(とさみなと)。なぜ衰退してしまったのでしょうか?中世に書かれた「廻船式目(かいせんしきもく)」の中では「津軽十三の湊」として、博多や堺と並ぶ全国「三津七湊(さんしんしちそう)」の一つとして数えられ、安東水軍とともにその繁栄ぶりが伝えられています。これまでに確認された中世の都市としては東日本で最大規模とも言われ、西の博多に匹敵する貿易都市だったようです。その後、1340年大津波に襲われ、そして安東水軍が南部氏との抗争に敗れ蝦夷に逃れ、江戸時代初期には鰺ヶ沢に港が整備されるなどして衰退していったということです。なぜ?この最果ての地が繁栄し、そして衰退したのか・・・都市の栄枯盛衰そこには必ず「地形」と「ヒト」が絡んでいます。「地形」に目を付けた「ヒト」が大きな貿易港をつくって繁栄をもたらし、その「地形」が弱点となり、河口閉塞による度重なる水害が発生し、そして大津波に襲われるなど最後は「地形」が原因で衰退したのではないかと推察されます。室町時代に現在のような土木技術があったとすれば、もしかしたら東北最大の港町になっていたかも?(笑)←あくまで個人的感想です。3. 津軽平野の湿地帯十三湖の南から30km続く日本海七里長浜に面した広大なエリアは無数の湖沼群と海岸低層湿原及び中間層湿原が広がる広大な湿地帯となっています。この砂丘一帯は「西風一度起れば風砂塵煙遠く数里に及ぶ」と言われ、茫漠たる不毛の地だったと言われています。この不毛と呼ばれた砂丘地帯にもドボクが入り込んでいます。上の写真は平滝沼です。その南の方に天皇山(標高56.7m)という山があります。壇ノ浦での源平合戦に敗れた安徳天皇が安東水軍に守られてこの地に逃れ、この地にお宮を造ったという伝説が山の由来らしい・・・海岸に沿ってクロマツを主体とした防風林が南北に延びており、その東側には東西に延びる縦走砂丘が何列にも渡って続いています。砂丘の標高は概ね20~30mで、最も高い所で海抜78mとなっています。この縦走砂丘間の低地には、ベンゼ湿原や平滝沼など多くの湿地や自然湖沼群が存在しています。また、農業用ため池や砂採掘跡の人工池なども点在しており、縦走砂丘群の東端部に、集落が南北に連なるように形成されており、その東側に水田・畑作地帯が広がっており、正直どれが自然の沼(潟)か、ため池かがよくわかりません。風力発電の数も半端ないっ!おそらくハート型の平滝沼は自然の沼で、その隣の四角い池はため池なんだろうと想像がつきますが、元々湿地帯なので、低い所を少しだけ堰き止めてため池にしたのだろうと思われます。この湖沼群の中にベンセ湿原という湿原が存在しています。「残した」というより「残った」といった方がいいのかもしれません。ベンセ湿原はこれら湿原のひとつで面積は約23ヘクタールほどで、さまざまな草花が咲き誇り1983年には日本自然百選に指定されています。本州の海岸沿いにこのような湿原が残っていたとは・・・べンセ湿原は苔が幾層も重なってできた海岸低層湿原及び中間層湿原で、面積は約23ヘクタールで、1983年日本自然百選に指定されています。北海道の道東に来ているような錯覚に陥ります。6月中旬頃ニッコウキスゲが湿原一帯を黄色く染め上げ、7月上旬になるとノハナショウブが一帯を紫に染め上げまるということです。私がここを訪れたのは7/19、オニユリが目立ちました。海岸沿いにこのような湿生植物群が存在するのは大変珍しく、北海道の北東部と本州ではこの一帯の湿原に限られていると言うことです。上の写真はギボウシという花のようです。初めて見ました。ナデシコも咲いていました。とにもかくにも、この湿地帯がため池になってなくて良かった!4. 干拓の象徴、八郎潟十三湖は干拓と河口に港をつくったものの、湖はそれなりに残った。津軽半島七里長浜沿いの湿地帯は、ため池等人の手は入ってはいるものの、ベンセ湿原は残った。似たような地形の秋田県八郎潟はどうだ?八郎潟は10度単位の経緯度交会点(北緯40度、東経140度)を中心に、東西12km、南北27km、総面積22,024haの滋賀県琵琶湖に次ぐ日本第2の広さを誇る湖でした。八郎潟の開発計画は江戸時代から幾度も持ち上がりありましたが、実際に干拓計画が進められたのは、戦後の食糧不足を解消するために、国の事業として農地を増やす計画が進められた昭和31年からです。幾多の困難、試行錯誤を重ねながら日本の土木技術とオランダの技術協力を得て八郎潟干拓事業(852億円)が完成したのは昭和52年でした。八郎潟は17,239haの希望の大地へと生まれ変わったと言われています。戦後と令和では時代が違いすぎて、軽々しい発言はできませんが、詳しくは大潟村干拓博物館に行くとよくわかります。干拓とは何だ?干拓の意義は?ということが・・・本来であれば湖のど真ん中で、そこに立つことができない日本で唯一の10度単位の経緯度交会点。日本で2番目に大きい湖を埋め立ててまで農地を確保する必要があったのか?考えさせられるところです。秋田とニューヨークはわかるのですが、南国イメージのナポリやマドリードと同じ緯度というのは不思議ですよね。測量にかかわるドボク屋にとっては「北緯40度、東経140度」地点は何とも感慨深い所ではあります。※この場所は日本測地系による座標で、世界測地系の座標は南東に430mズレています。国土地理院による日本測地系と世界測地系の違いとは?我が国では、改正測量法の施行前は、明治時代に採用したベッセル楕円体を使用していました。明治政府は、近代国家に不可欠な全国の正確な地図である5万分の1地形図を作るために、基準点網を全国に整備しました。この時採用された楕円体が、改正測量法の施行前まで使用されてきたベッセル楕円体です。そして、当時の東京天文台の経度・緯度が、天文観測により決定されました。この位置が現在の日本経緯度原点となっています。この測地基準系を「日本測地系」と呼んでいます。全国に設置された基準点の経度・緯度は、日本経緯度原点を絶対的な位置の基準として求められて行ったのです。しかし、VLBIや人工衛星により地球規模の観測ができるようになった今日では、日本測地系は、残念ながら、地球全体によく適合した測地基準系であるとは言えなくなってしまいました。一方で、地球全体によく適合した測地基準系として、世界測地系が構築されています。 世界測地系とは、VLBIや人工衛星を用いた観測によって明らかとなった地球の正確な形状と大きさに基づき、世界的な整合性を持たせて構築された経度・緯度の測定の基準で、国際的に定められている測地基準系をいいます。