ektarのピントグラスな日々・デザイン備忘録 -2ページ目

山手の丘の女子校 5シスターズ 安住の地 大作戦

 

山手の女子校ネタが続いていますが、

毎夕、自転車で散歩しているコース上

にお嬢様方の学校があったりするので、

あれこれ、調べているうちに

かなりディープになってまいりました。

 

 

先日、成美学園(横浜英和)が引っ越しクイーンとか

書き残しましたが、それぞれの学校が近接遭遇していたりとか、

興味が尽きなかったりいたします。

 

歴史的には、どうも、山手のミッション系女子校は、現在の御三家といわれている

横浜雙葉  共立  フェリス に加えて + 成美(横浜英和) +捜真(英和女学校)の計5校 とするのが正解なような気がします。

 

その他にミッション枠ではないけれど、、横浜女学院(現役)  横浜女子商業  横浜高等女学校の3校があることも加えておきましょう。

苦難の歴史を乗り越えた横浜女学院については、また別にご紹介・・

 

 

さて、ミッション系女学校の創立については、

創設期からスマートに安住の地へ  という組と、

創設期から あちこち転々とする組 があるようで、

成美学園(横浜英和)は転々組の代表となります。

 

まあ、企業の海外進出・地方進出でもそうですが、

まず現地に準備事務所を作って、

そこを足掛かりに本拠地を作る というのが定石なわけで、

各校、そのパターンで創立されていきます。

 

例外的なのは横浜雙葉学園で、いきなり現在の場所で創立

されましたが、

まあ、この女子校の場合、先に隣地にサン・モールが設立され、

そこが足掛かりとなりましたので、そういう意味では

例外というわけでもありませんね。

ちなみに、サンモールはカソリック系の宣教団体により設立されて、

その創立は山手58番です。(代官坂を登った角で、

現在、末日聖徒イエス・キリスト教会がある場所付近です)

横浜雙葉は、隣地(山手病院跡地など)を併合しながら現在に至ります。

かって、横浜雙葉は創立の地の山手58番を苦労して入手したようですが。

 

 

さて、成美学園(横浜英和)に話を戻しますと、

 

成美学園と共立学園のスタートは、山手48番で、ご一緒友達なわけでした。

 

先発の共立は

山手48番館に間借りをして 

米国婦人一致外国伝道協会より派遣された

女性宣教師M.P.ブライン J.N. クロスビー及びL.H.ピアソンが

1871年にAmerican Mission Home を設立したのが始まりとされています。

 

山手48番館はジェームス・ハミルトン・バラの所有で、バラの要請にAmerican Mission Homeを創設したしたとの事です。

(J.H.バラ アメリカ・オランダ改革派教会派遣のアメリカ人宣教師。日本で最初にできたプロテスタント教会の牧師様)

 

American Mission Home運営には、

後のブリテン・スクール設立の基礎を作ったとされる

エリザベス・M・ガスリーもお手伝いをしていて、

宣教師組織を超えた協力関係があり、山手女子校グループは

根っ子が一緒感がかなり漂います。

 

後に、雙葉創設の際には、共立出身の英語できる女史が

活躍していたりとか、まあ、狭いエリアだったんですね。

 

さて、共立は、翌年には山手212番へ移転し、

以後、隣地を取得しながら領地拡大し、現在に至る!

 

一方、成美(横浜英和)は、共立が山手48番を去って9年後、

1889年に山手48番にブリテン・スクール創設!

ちなみに、この48番はといえば、現在のフェリスの事務棟付近です。

 

成美(横浜英和)は翌1881年に早くも、山手68番に移転!

お隣の山手67番には聖書印刷工場があり、7年後に

捜真女学校(英和女学校)の創立の地となります。

また山手67,68番は 雙葉創立の地 山手58番のご近所ですよ。

 

成美は同年、山手120番の一角に移転(イギリス公使館施設)

有島武夫が通っていたのがこの場所となります。

一房の葡萄は小学生時代のブリテンスクールの

思い出を元に執筆されました。

ここでブリテンスクールの女性徒に悲劇が!

1886年 男子部新設によって、女子部のみ

山下町居留地84番に分離移転!

 

居留地84番は、じめじめしていて、以後心地悪く、

女生徒たちは悲嘆に暮れたそうです。

そりゃー 山手の丘の方が断然イイですよねー。

居留地84番は、元町・中華街駅の中華街側出入り口近くで、

エスカル横浜の裏あたりと思われます。

地味な場所。

 

ご近所に、居留地39番 フェリスの創設地(ヘボン療養所跡)

があったりします。 フェリスは山手178番へ新校舎作って移転!

その後、周囲を取得しながら領地拡大して現在に至る!

 

 一方 成美は

1889年、山下町で3年過ごした後、男子部消滅?のため、

女子部は山手の丘 120番に一時復帰!(244番完成まち)

女学生 狂喜乱舞。

1890年244番に新校舎と寄宿舎が完成したので、早速移転。

新築244番校舎でルンルン🎵

1908年 マスカリン礼拝堂完成 なかなか可愛い礼拝堂。

成美学園 山手の丘での幸福な時代。

 

      礼拝堂は先年、蒔田に再建。

      是非見学したいものです。

 

マスカリン礼拝堂の写真は残っているのですが

成美の場合 山手68番時代の写真が見つからない

のが残念です。

 

1916年 蒔田へ民族大移動。  

 

とまあ、かなりあちこちを彷徨った経緯が以上の通りです。

山手の丘は、ミッション系女子校の他、各種の神学校も

密集していて、広い学校用地を確保するのが難しかった

という点が大きかったのかと思われます。

 また、寄宿舎も一緒に確保しなければいけないので、

余計に土地確保の問題が・・・

 

その他、ミッション系学校が密集しているので、

それを避けて、静かな場所に行きたいというのも

あったように思われます。

 

山手の丘には、女子校5シスターズの他に、

 サン・モール(1872年)、

 セント・ジョセフ(1901年)

横浜高等女学校(1906元町小跡に移転)

横浜女子商業(1908)

 

とかもあったので、高密度です!

 

新天地を求めて移転組は 捜真も同様で、

1886年、創立 山手67番から

1892年 広い場所を求めて山手34番に移転!

現在の山手本通り沿いの山手トンネルの上あたり。

フェリスと共立の間あたり。

決して広いエリアではないのですが

1910年 トンネル工事のため、神奈川区中丸の丘上に移転。

広さばっちりです。

 

というわけで、 こうしてみると、

山手の丘5シスターズのうち、

現地事務所から本拠地を確定後、移動しないで領地拡大した3校が

現在の山手御三家  横浜雙葉・フェリス・共立3校で、

新天地へ移転組が、成美(横浜英和)と捜真女学校という事になります。

なかでも成美の校舎流浪の旅は特筆もので、いろいろ大変だったんだろうなー

とか思われますねー。

 

ここまでくると、横浜女学院が無いじゃないか?

なのですが、これは また結構長い大変な歴史があったりしそうなので

続くです。

 

ブログにあるまじき長文で恐れいります。

 

移転経緯と場所参考地図は下記を参照

 

 

 

 

 

 

 

元町のベスト・チーズケイクス 実は、こっちのお店の方が好きだったんだけど

元町の表通りが かっての元町の雰囲気が薄くなってきた感があって、自転車の散歩では、いつも元町の裏通り (元町仲通り)を通っています。

 

てょっと残念なのは、かなり以前の話しなのですが、

裏通りにあったザ・ベスト・チーケイクスのお店が

表通りの2Fテナント内の売店? に移転して

寄り道休憩ポイントが無くなってしまった事で、l

 

個人的にはかなりのダメージ・・・

裏通りの隠れ家的な雰囲気がだいすきだったんですが・・

それでは、地元民しか来ないので・・・

 

まあ、営業的には表通りなんでしょうねーー。

 

チーズケーキの箱買いしていたので・・残念!

 

写真は、かっての裏通り店 15年前くらい。

 

 

 

 

 

こちらが現在  なんだか、ドーナッツチェーン店みたいで、

自転車をお店前に止めて、中でまったりは無理っぽいなあ・・

 

 

 

 

 

いわゆる 量産型女子について

先日、昭和な中学校時代の同窓会がありまして、

 

あまり参加する気はなかったものの、

 

当時の僕のお姫様から あなたが行かないなら、私も行かないから との

とのお言葉を頂いて、

あっさりと参加させられる羽目になってしまった・・。

お姫様からは、当時、少女漫画週刊誌をいつも読ませて

頂いたりたとか、

内緒でたくさん遊んで貰っていたとか、

クラス仲間には知られたくない弱みがアレコレあり(まだ誰にも知られていない)、

数十年たっても主従関係が変わらないとは・・・・とほほです。

 

今にして思えば、スポーツ万能な男の子の価値が大変高かった中、

僕だけは、音楽・美術・読書に秀でたレアなアート系男子だったので、

まあ、そういう意味で、スポーツ系より精神年齢が高そうな僕は遊び相手としては

合格だったのかもね。

 

まあ、そういうわけで、同窓会の後、 居酒屋カラオ二次会まっぴらごめん!

という僕は、お姫様と仲良しお嬢様とご一緒に、まあ、カフェに一緒に連れて

行ってもらった訳です。(人畜無害そうなアート系男子の特権ですw)

 

その中で、

 「最近の若い女の子」の顔がみん同じ見えるんだけど、

皆様どうですか?」

「自分がいい年のおっちゃんになったらからそう見えるんだ とも言われた

けど」

と話しをしたら、 

 

かってのお嬢様方も

「実は ワタシも、みな同じに見える」 との事で、

いわゆる量産型女子ってやつですよね。

 

 

 

 

で、かってのお嬢様方いわく、

「実は若い男の子も、みな同じにみえるんだ」

色白でヘアスタイルが同じでファッションも一緒で・

との事で、まあ、そういう時代なんでしょうね。

 

 

 

高校生までは、素で綺麗な肌なのだから、

メイクしすぎない方がいいのでは???

やはりSNSでの情報共有・拡散速度が加速

してる時代だから、そうなるんだろうねー とか

とか・・・

今の若い子は大変だね・・・・とか

昭和にはやったVANを中心としたアイビーブームだって

アイビー量産型だったけど、まあ、全員アイビーでも

なかったし、情報源は雑誌しかなかったし・・

とかとか

 

 

 

 

 

と、意見の一致をみたのだけど、

 

かってのお嬢様の一人が、

 

「そーいえば、若いころは、

オジサンの顔が皆同じに見えた」

 

 との決定的一言があり、

 

 

僕たちも、量産型・おじさん おばさん に見えるんだろうね・・・

 

という しょうもない結論に達したのでありましした。

 

いやはや・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

覚えてますか? 横浜雙葉 ついに見つけた 昭和な校舎3

あれから、昭和な校舎の実際の姿が残ってないか、

横浜市の中央図書館に、なにか学園史みたいな

資料があるのではないかと気になっていて、

 

例によって、夕方の散歩ついでに、自転車漕いで

行って図書館で探索していましたら、

ついに、小さな写真ですが、発見!!

 

ちなみに、山手系ミッションスクールでは、

成美学園(横浜英和)の歴史的資料図書

が群を抜いて充実している事も発見・・

それで、成美学園(横浜英和)の山手48番でのスタートを

振り出しに、今の蒔田の丘に安住の地を見い出すまでの、

流浪の歴史もわかってきましたので、

それはまた別のお話しにて・・・

 

さて、小さな資料写真の結果、僕のスケッチも、

かなり当時の姿を描いていた事がわかり、

安心というか、マジにあの場所で描いていた

夏休みの日は幻想ではなく、リアルだった事が実感できて、

夏なのに、帽子もかぶらず、日よけもなしに、

長い時間あそこににいたはずですが、

暑かった記憶がないのは、やはり当時の夏は涼しかった??

ちなみに、あの場所に行く途中で、元町のポンパードールで

フランスパンのサンドイッチを買って、

飲み物は、自販機なんか無いので、  水筒!!

に氷と紅茶を詰めて、

中古N360にイーゼルと水張りしたB2サイズのパネルを積んで、

B2サイズで5-6枚描くのが宿題のノルマで、過酷・・・

雙葉の入り口への道の脇に駐車して

がんばっていたわけです。

そのわりには、我ながら、密度の低い絵だと思いますね。

今でしたら、チャっとスマホで撮っておいて、

クーラーの効いた部屋でNetflixでも見ながら

のんびり描くとかできるし、

行かずにストリートビユーで画面キャプチャーして

描くとか、いくらでも方法があるんですけどねー。

でも、B2サイズに画用紙を水張りしたパネル提出だと、

生成AIで楽することはできないので、

課題の提出は、画像ではなくて、

画用紙水張りにすべきだと思います。

まあ、せいぜい、スマホ写真をプロジェクターで画用紙パネルに

投影して、下書き作るくらいが関の山・・・

鉛筆でB2埋めるのは、それなりに 手間がかかりますw

 

 

密度の低い理由は・・・

後で元町プールに寄って行こうかとか、

気をちらしながらボケーっとしながら描いていた気が・・

 

 

夏休みなので、通学のお嬢様方がほとんどいないので、

人通りもなく、シーンとした静かな空間でした。

まあ、あの玄関を抜けた中はいったい全体、

どーなってるんだ??? とかとか 思い出してきました。

今でも気になっているんですがw

 

 

竣工写真?と思われ

 

正面玄関入り口の上の明り取りの格子が

スケッチと違って細かいのですが、

あとから、改装したと思われます。

こんなに細かい格子だったら、

描くのが面倒くさいので、

別の建物描いていたに違いないので・・w

 

 

 

 

遠景写真

撮影カメラの位置は、道路からではなく、

向かいの敷地内からと思われ 思えば不思議な写真

 

山手の「喫茶エレーナ」 半世紀たって健在! 横浜昭和ピープルの聖地かも 

山手本通のフェリスと地蔵坂の間に、喫茶エレーナという白い外壁の小さなお店があって、 この前を通りかかる度に、あ、まだあるな! と安心しています。

 

 

 

 

ちなみに、平日の夕方、山手本通りを気分転換に通るというのは、

僕が小生意気な学生だった昭和な時代からのルーティンになっていて、

山手の丘の通りは、民家はかなり近代化されていますが、

主要アイテムは、まあ、昭和とそうかわらないので、

安心して散歩できます。

 

この道は、平日の夕方は ガラガラであります。

 

今は電動自転車漕いでいますが、

生意気盛りの事は、タダで譲ってもらった、

[極度なポンコツ]の

 

おフランス製、スポーツカー風おされ車、

(ピエトロ・フルアデザインとも、ギアのデザインとも言われています)

ルノー フロリド(もちろんオープン)。

 

このオサレ車を

共立→喫茶エレーナー横浜女子商業→フェリス→雙葉 の前を

当時のJKの脇をゆっくりと転がしていたものでありました。

(もちろん 当然の事ながら躾けの行き届いているお嬢様方は

誰も振り向いてくれませんでしたけどね)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、話が横にそれておりますが、

 

その喫茶エレーナ、

1975年にオープンしたお店で、以来、当時のガールフレンド(現奥様)と

時々、我が家の買い物車 中古N360(走行27000km15万円)で

お茶しに行っておりました。

丘の上に位置して眺めがよいのと、

(当時は市内に高いビル・マンションが無かったので、

抜群の眺望)

観光の方が比較的少ないこともあり、

地元に愛されるカフェの典型ではないでしょうか?

 

もしも ですが、荒井由実様が、ここに通われていて、

歌の一曲でも作られていたら、

ドルフィンと並ぶ聖地になったに違いありません・・

そうなると、 今頃は、昭和な面影が無くなって

別資本の別のお店になっていたような気も・・・・

 

というわけで、店主の服部さんはいつまでも健康で

がんばってくれると嬉しいなあー とか思っております。

 

 

 

 

下で詳しく紹介

 

サムネの写真は、山手のエリスマン邸です。

 

 

アメリカの法廷画 BBCがトランプ裁判の画家比較記事w

アメリカ大統領候補になってしまうかもしれない トランプ氏の

不倫慰謝料もみけし裁判で、有罪判決が下されて、

TV、ネットで一斉にニュースが流れています。

 

また、例によって朝のニュースで知ったのですが、

ネットで法廷画付きのニュースを探していたら、

 

なんと、BBCニュースが、 トランプをめぐる3人の法廷画家の作品

という、かなり面白い記事を出していました。

サム・カブラル著BBCニュース、ワシントン発

 

 

早い話が、3人の法廷画家が素早く描いた絵を並べて紹介という記事で、

いずれも、今年4月のマイアミでの予審光景らしいです。

 

勘所は、 どうも、 カメラの代わりに法廷の真実を伝える という

 

建前 になっているけど、

 

実際、画家の主観とか、それぞれの感じ方が 入ってくるのでは?

 

と言いたいみたいで、

 

まあ、当然そうだよね とか思うのですが。

 

いずれの画家も、真実を伝える・・ という考え方を主張されています。

 

 

トップバッターはウィリアム・J・ヘネシー・ジュニア氏

キャリア50年

 

今回の絵は、 77歳のトランプ氏を実際よりもはるかに若くスリムに見せている

 と批評家たちから批判を浴びてるそうです。

 

「画家は自分のみたものをそのまま描きます

絵の支持をする人も多いですよ」と 主張

 

 

 

2番目

ジェーン・ローゼンバクー氏(Ms)

4月にローゼンバーグが描いたトランプのスケッチはニューヨーカー誌で使用。

冗談交じりに「彼を今の姿ほどハンサムにできなかったのは私の責任です」と語った。

彼女は今週BBCのインタビューで、批評家たちはこの仕事が大変だということを認識すべきだと語った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

3番目

エリザベス・ウイリアムズ氏(Ms)

 

「マンハッタンでの最初の審問で、彼はいら立ち、苛立ち、裁判の過程を軽蔑するような態度で座っていました」。

彼女の作品には、沸き立つような軽蔑が表れていた。とBBCは解説

「本物であることが極めて重要です」とウィリアムズさんは言う。「私はカメラの代わりのようなもので、写真家が撮影するものを描いています。作り話は一切ありません。」

 

 

 

いづれの画家さんも、短い時間その場の正確な雰囲気を描かなくてはいけないので、

本当に大変なんだよ と言っておられますが、 まあ、本当に大変なお仕事だと思いますよね。

 

BBCのサイトは下記です。

 

 

 

 

横浜 山手の女子校 お嬢様の坂道は結構きつい!3 お嬢様からフェリスに通用門があるとの指摘で・・

またもや、坂道きつさ情報追加です。

 

実は、雙葉学園関係者の方から、

 

「フェリス坂を雙葉の石川町からの通学ルートとしたのは

評価できるけど、

 

フェリスは、坂の途中の通用門から入れるので、

フェリス坂を頂上まで登り切る必要がないから

 

ズ ・ ル ・ イ   ? という  ご指摘を受けました・・・!!

 

 

まあ、階段途中の通用門は気にはなってましたけど。

やはり正門ルートが正式なのでは?

と思いながら、

 

改めて 通用門ルートで断面を調べると、

まあ、確かに、 多少楽になってますよね。

でも、通用門から入っても、傾斜はあるし、校舎には階段上らないと

いけないのでは とは思いながらも、

僕のフェリス見学体験は、昭和の時代の美大受験塾友彼女

が学園祭の時に入れてくれただけなので、

最近の構内の様子は全然しらないのです・・

 

 

まあ、そんな事、ぼやきながら、公平を期すため、通用門ルートを作成してみたら・・

 

実際のところ、通用門から入っても、中にも傾斜があるので、根本的には大差が

ないうように思われるのですが・・・距離は短くなるので、 

 

やはり雙葉のお嬢様が、 山手の健脚プリンセスの座は確定みたいで、

がんばれ 雙葉のお嬢様!

 

冷静に比較してみると、 絶対的に標高が高く高低差が大きく平坦路が少ない 共立学園 も、

雙葉に次いで大変なように見えます。 

 

一機に駆け上る傾斜は、成美学園(横浜英和)もあなどれません。

あれって、距離が短いから一機に上がれるのでしょうねー。

 

さて、もうルート変更はない?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

石川町駅を乙女駅って呼んでいるなんて、聞いたことが無いけれど

石川町の商店街のホームページというものがあって、

その中で、地域おこしに協力している学生さんたちが作った

ミニコミ誌風の中に、

 

石川町は乙女駅 と呼ばれてる との記述を見つけました。

 

え??

 

僕は、石川町のトンネルを抜けた先の山手駅から

都内の学校に通っていたのだけれど、

 

毎朝の、石川町駅のホームに溢れるセーラー服のお嬢様軍団を

眺めながら通学している僕は、

地味な都内の共学校の悪友たちから

羨望を浴びたものです。

でも、 かなり地元住民の僕は、 乙女駅 って名前は一度も

聴いたことが無くて、あれれれれ です???

 

また、当時、自宅の庭で自作ヨット作りに精を出していた僕は、

週末は、かならず、石川町の中村船具、ローマステーションあたりに

出没していたので、けっこう石川町度は高かったのですけどね・・。

 

本当にそうなんだろうか?? と思って調べてみると、

アメブロの過去記事で同じ疑問を持たれた方がおられて

 

”乙女駅”などど、誰が呼ぶのか?・・・JR石川町駅

 という記事です。

 

 

ぐぐると、テレ東のアド街ック天国 2010年7月10日放送 横浜石川町

という 番組中、

30位 乙女駅

JR石川町駅の別名

駅周辺には5つの女子校がある為、2300人あまりの女子高校生が日々利用、

その数は日本一と言われています・・・云々 と紹介されています。

 

2010年より前は、石川町駅=乙女駅 という記述は、ググっても出てこないので、

ネットでは、これが初出???

 

 

さて、ここで思い出したのが、

岩館真理子先生の名作コミック  「乙女坂戦争」です。

 

週刊マーガレット連載 1982年 (昭和57年)

 

 

このコミック、設定としては明らかに横浜の山手の女子校で、

乙女坂そのものが物語っていますが、

 

駅の名前が 乙女町駅 なんですよねーー。

 

 

 

 

なので、僕の推定としては、

石川町駅ー乙女駅 のルーツは、

 

案外、乙女坂戦争のコミック なのではないかと思ったりしてるのですが、

 

どうでしょうか???

 

 

 

 

 

 

 

 

覚えてますか? 横浜雙葉 昭和な校舎2 検証

この前、昭和な時代の雙葉の校舎の絵を

眺めていて、

現在のイメージとかなり違っているので、

 

違和感を覚えて、調べてみました。

 

昭和な生意気な男子学生時分に、夏の

宿題でスケッチをした場所が

現在の校舎の位置関係から 分からないのです???!!!!

 

 

そこで、

1960年代の山手の丘の空中写真を探し、探索したところ、

校舎の正面?の形が、以前と、新築後で、かなり変わり、

道路形状も変わってしまっていたのですねーーーー。

僕がスケッチした地点は、赤矢印の始点で、

矢印の先端を目指して描いています。

建物の角が正面っぽい雰囲気・・・

ここが本当の玄関だったのか、僕には知りようもありませんが・・

どうだったのでしょう?

 

僕がイーゼルもどきを立てた地点は、当時は道路の端で、

今は、雙葉の敷地になってしまっていたんですね。

 

当時の正面? に向かって左側に道があり、

学校の敷地に入る感じでしたが、

現在は、左に行く道はなく、

校舎の入り口を通って、左にいく形になってます。

中に入ってみたいけど、いれてもらえそうにはありあません。

学校祭とか、説明会とか、関係者じゃないと入れてくれないですよねー(泣

 

 

 今はこんな感じ

道幅狭まり、いわゆる角の正面が無くなってしまった

 

 

 

さて、左に曲がらず、校舎に沿って進んで、右わきに沿った細い坂道を進むと、

山手公園 山手68番近辺にでます。

日本テニス発祥の地だそうですが、

ここで注目したいのは、かって成美学園(横浜英和)が創立の地=山手48番

から最初に移転した場所が山手68番で(成美学園資料)、公園の近所に同居していたという事?? 一般住居へ移転したらしいのですが・・

現在の山手68番は雙葉と山手公園の間にある聖母愛児園の向かいあたりに

なります。

 

山手の居留地の地番は、ほぼ昔のまま と言われていましたが、

明治時代の居留地地図の番地で調べると、

山手68番は、なんと、山手本通から雙葉へ入る信号の角地あたりで、

現在のお洒落な入り口ゲート(旧山手病院の敷地)の道を挟んだ反対側で、

謎の白い外壁の豪華な建物とフェリスカフェ、フェリス6号館あたりになっています。

つまり、山手本通りのフェリスと、後に開校する雙葉(当時は雙葉に先立ち、サンモールがありました)の間に成美(横浜英和)が存在してたって事になります。

 

成美学園(横浜英和)は歴史・伝統ともに山手ルーツの丘の上系ミッション女子校に位置しますが、引っ越しの多さは断トツのナンバーワンで、蒔田の丘に落ち着くまで、山手界隈で、5か所場所を変えています。 蒔田移転の際は、他の候補地とし三春台が上がっていたと、成美の資料出ていましたけど、

三春台といえば、関東学院・・・。

もしも成美が三春台を選んでいたら、関東学院はどこに行ったのでしょうね??

横浜学校玉突き移転あるあるになりそうです。

 

 

というわけで、はやり山手は女子校の歴史の積み重ねが濃いですねー。

 

 

山手公園から雙葉を望む

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

横浜 山手の女子校 お嬢様の坂道は結構きつい!情報追加!

いつもの通り、気分転換と運動を兼ねて、

山手の丘の道を自転車を漕いでいたら、

ちょうど、雙葉の下校時間だったようで、

フェリスの前の歩道を大勢歩いてこられた。

 

汐汲坂を下るかと思いきや、

お嬢様達は軽い足取りで、

フェリスの前を通過し、

脇のフェリス坂への小道へ消えて行きました。

 

実際は、雙葉のお嬢様の皆様は、帰り道は

フェリス坂なんですねーー。

汐汲坂だと思っていたのに・・(学校の行き方案内図通りの場合は)

 

そこで、改めて通学路断面を調べてみると、

フェリス坂経路の方が、汐汲坂よりかなり距離が短いんですね!

これは意外!

 

帰り道は、絶対に、フェリス坂の方が石川町に早く着けます。

 

こうなると、行きのルートもフェリス坂?

うーん、朝に調べに行くのには、自転車漕ぎのルーティン時間を変えないと・・

 

学校を訪問する保護者の方は、勾配が急でない汐汲坂の方が良いと思われますね。

大人は足腰に来ます!

 

結果、フェリス坂経由雙葉のお嬢様が一番の強者ですね。

フェリス坂の走破の上、距離がフェリスの2倍・・

 

というわけで、追加情報版を掲載します。