山手の丘の女子校 5シスターズ 安住の地 大作戦 | ektarのピントグラスな日々・デザイン備忘録

山手の丘の女子校 5シスターズ 安住の地 大作戦

 

山手の女子校ネタが続いていますが、

毎夕、自転車で散歩しているコース上

にお嬢様方の学校があったりするので、

あれこれ、調べているうちに

かなりディープになってまいりました。

 

 

先日、成美学園(横浜英和)が引っ越しクイーンとか

書き残しましたが、それぞれの学校が近接遭遇していたりとか、

興味が尽きなかったりいたします。

 

歴史的には、どうも、山手のミッション系女子校は、現在の御三家といわれている

横浜雙葉  共立  フェリス に加えて + 成美(横浜英和) +捜真(英和女学校)の計5校 とするのが正解なような気がします。

 

その他にミッション枠ではないけれど、、横浜女学院(現役)  横浜女子商業  横浜高等女学校の3校があることも加えておきましょう。

苦難の歴史を乗り越えた横浜女学院については、また別にご紹介・・

 

 

さて、ミッション系女学校の創立については、

創設期からスマートに安住の地へ  という組と、

創設期から あちこち転々とする組 があるようで、

成美学園(横浜英和)は転々組の代表となります。

 

まあ、企業の海外進出・地方進出でもそうですが、

まず現地に準備事務所を作って、

そこを足掛かりに本拠地を作る というのが定石なわけで、

各校、そのパターンで創立されていきます。

 

例外的なのは横浜雙葉学園で、いきなり現在の場所で創立

されましたが、

まあ、この女子校の場合、先に隣地にサン・モールが設立され、

そこが足掛かりとなりましたので、そういう意味では

例外というわけでもありませんね。

ちなみに、サンモールはカソリック系の宣教団体により設立されて、

その創立は山手58番です。(代官坂を登った角で、

現在、末日聖徒イエス・キリスト教会がある場所付近です)

横浜雙葉は、隣地(山手病院跡地など)を併合しながら現在に至ります。

かって、横浜雙葉は創立の地の山手58番を苦労して入手したようですが。

 

 

さて、成美学園(横浜英和)に話を戻しますと、

 

成美学園と共立学園のスタートは、山手48番で、ご一緒友達なわけでした。

 

先発の共立は

山手48番館に間借りをして 

米国婦人一致外国伝道協会より派遣された

女性宣教師M.P.ブライン J.N. クロスビー及びL.H.ピアソンが

1871年にAmerican Mission Home を設立したのが始まりとされています。

 

山手48番館はジェームス・ハミルトン・バラの所有で、バラの要請にAmerican Mission Homeを創設したしたとの事です。

(J.H.バラ アメリカ・オランダ改革派教会派遣のアメリカ人宣教師。日本で最初にできたプロテスタント教会の牧師様)

 

American Mission Home運営には、

後のブリテン・スクール設立の基礎を作ったとされる

エリザベス・M・ガスリーもお手伝いをしていて、

宣教師組織を超えた協力関係があり、山手女子校グループは

根っ子が一緒感がかなり漂います。

 

後に、雙葉創設の際には、共立出身の英語できる女史が

活躍していたりとか、まあ、狭いエリアだったんですね。

 

さて、共立は、翌年には山手212番へ移転し、

以後、隣地を取得しながら領地拡大し、現在に至る!

 

一方、成美(横浜英和)は、共立が山手48番を去って9年後、

1889年に山手48番にブリテン・スクール創設!

ちなみに、この48番はといえば、現在のフェリスの事務棟付近です。

 

成美(横浜英和)は翌1881年に早くも、山手68番に移転!

お隣の山手67番には聖書印刷工場があり、7年後に

捜真女学校(英和女学校)の創立の地となります。

また山手67,68番は 雙葉創立の地 山手58番のご近所ですよ。

 

成美は同年、山手120番の一角に移転(イギリス公使館施設)

有島武夫が通っていたのがこの場所となります。

一房の葡萄は小学生時代のブリテンスクールの

思い出を元に執筆されました。

ここでブリテンスクールの女性徒に悲劇が!

1886年 男子部新設によって、女子部のみ

山下町居留地84番に分離移転!

 

居留地84番は、じめじめしていて、以後心地悪く、

女生徒たちは悲嘆に暮れたそうです。

そりゃー 山手の丘の方が断然イイですよねー。

居留地84番は、元町・中華街駅の中華街側出入り口近くで、

エスカル横浜の裏あたりと思われます。

地味な場所。

 

ご近所に、居留地39番 フェリスの創設地(ヘボン療養所跡)

があったりします。 フェリスは山手178番へ新校舎作って移転!

その後、周囲を取得しながら領地拡大して現在に至る!

 

 一方 成美は

1889年、山下町で3年過ごした後、男子部消滅?のため、

女子部は山手の丘 120番に一時復帰!(244番完成まち)

女学生 狂喜乱舞。

1890年244番に新校舎と寄宿舎が完成したので、早速移転。

新築244番校舎でルンルン🎵

1908年 マスカリン礼拝堂完成 なかなか可愛い礼拝堂。

成美学園 山手の丘での幸福な時代。

 

      礼拝堂は先年、蒔田に再建。

      是非見学したいものです。

 

マスカリン礼拝堂の写真は残っているのですが

成美の場合 山手68番時代の写真が見つからない

のが残念です。

 

1916年 蒔田へ民族大移動。  

 

とまあ、かなりあちこちを彷徨った経緯が以上の通りです。

山手の丘は、ミッション系女子校の他、各種の神学校も

密集していて、広い学校用地を確保するのが難しかった

という点が大きかったのかと思われます。

 また、寄宿舎も一緒に確保しなければいけないので、

余計に土地確保の問題が・・・

 

その他、ミッション系学校が密集しているので、

それを避けて、静かな場所に行きたいというのも

あったように思われます。

 

山手の丘には、女子校5シスターズの他に、

 サン・モール(1872年)、

 セント・ジョセフ(1901年)

横浜高等女学校(1906元町小跡に移転)

横浜女子商業(1908)

 

とかもあったので、高密度です!

 

新天地を求めて移転組は 捜真も同様で、

1886年、創立 山手67番から

1892年 広い場所を求めて山手34番に移転!

現在の山手本通り沿いの山手トンネルの上あたり。

フェリスと共立の間あたり。

決して広いエリアではないのですが

1910年 トンネル工事のため、神奈川区中丸の丘上に移転。

広さばっちりです。

 

というわけで、 こうしてみると、

山手の丘5シスターズのうち、

現地事務所から本拠地を確定後、移動しないで領地拡大した3校が

現在の山手御三家  横浜雙葉・フェリス・共立3校で、

新天地へ移転組が、成美(横浜英和)と捜真女学校という事になります。

なかでも成美の校舎流浪の旅は特筆もので、いろいろ大変だったんだろうなー

とか思われますねー。

 

ここまでくると、横浜女学院が無いじゃないか?

なのですが、これは また結構長い大変な歴史があったりしそうなので

続くです。

 

ブログにあるまじき長文で恐れいります。

 

移転経緯と場所参考地図は下記を参照