覚えてますか? 横浜雙葉 昭和な校舎2 検証 | ektarのピントグラスな日々・デザイン備忘録

覚えてますか? 横浜雙葉 昭和な校舎2 検証

この前、昭和な時代の雙葉の校舎の絵を

眺めていて、

現在のイメージとかなり違っているので、

 

違和感を覚えて、調べてみました。

 

昭和な生意気な男子学生時分に、夏の

宿題でスケッチをした場所が

現在の校舎の位置関係から 分からないのです???!!!!

 

 

そこで、

1960年代の山手の丘の空中写真を探し、探索したところ、

校舎の正面?の形が、以前と、新築後で、かなり変わり、

道路形状も変わってしまっていたのですねーーーー。

僕がスケッチした地点は、赤矢印の始点で、

矢印の先端を目指して描いています。

建物の角が正面っぽい雰囲気・・・

ここが本当の玄関だったのか、僕には知りようもありませんが・・

どうだったのでしょう?

 

僕がイーゼルもどきを立てた地点は、当時は道路の端で、

今は、雙葉の敷地になってしまっていたんですね。

 

当時の正面? に向かって左側に道があり、

学校の敷地に入る感じでしたが、

現在は、左に行く道はなく、

校舎の入り口を通って、左にいく形になってます。

中に入ってみたいけど、いれてもらえそうにはありあません。

学校祭とか、説明会とか、関係者じゃないと入れてくれないですよねー(泣

 

 

 今はこんな感じ

道幅狭まり、いわゆる角の正面が無くなってしまった

 

 

 

さて、左に曲がらず、校舎に沿って進んで、右わきに沿った細い坂道を進むと、

山手公園 山手68番近辺にでます。

日本テニス発祥の地だそうですが、

ここで注目したいのは、かって成美学園(横浜英和)が創立の地=山手48番

から最初に移転した場所が山手68番で(成美学園資料)、公園の近所に同居していたという事?? 一般住居へ移転したらしいのですが・・

現在の山手68番は雙葉と山手公園の間にある聖母愛児園の向かいあたりに

なります。

 

山手の居留地の地番は、ほぼ昔のまま と言われていましたが、

明治時代の居留地地図の番地で調べると、

山手68番は、なんと、山手本通から雙葉へ入る信号の角地あたりで、

現在のお洒落な入り口ゲート(旧山手病院の敷地)の道を挟んだ反対側で、

謎の白い外壁の豪華な建物とフェリスカフェ、フェリス6号館あたりになっています。

つまり、山手本通りのフェリスと、後に開校する雙葉(当時は雙葉に先立ち、サンモールがありました)の間に成美(横浜英和)が存在してたって事になります。

 

成美学園(横浜英和)は歴史・伝統ともに山手ルーツの丘の上系ミッション女子校に位置しますが、引っ越しの多さは断トツのナンバーワンで、蒔田の丘に落ち着くまで、山手界隈で、5か所場所を変えています。 蒔田移転の際は、他の候補地とし三春台が上がっていたと、成美の資料出ていましたけど、

三春台といえば、関東学院・・・。

もしも成美が三春台を選んでいたら、関東学院はどこに行ったのでしょうね??

横浜学校玉突き移転あるあるになりそうです。

 

 

というわけで、はやり山手は女子校の歴史の積み重ねが濃いですねー。

 

 

山手公園から雙葉を望む