ektarのピントグラスな日々・デザイン備忘録
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昭和な横浜の白いルノー・カラベル 

昭和な時代、現在の根岸森林公園の前のバス通り沿い

の近辺には、ドルフィン の他にも 数軒のレストランがあって、ヴィラ・ベルデ とかもそうなんだけれど、例によってお店のファサード写真が見つからなかったりたりします。

 

ちなみみに、ヴィラ・ベルデのあった場所は、現在はマンションになっています。

家に近かったので良く行きましたが、週末の夜はかなり混んでいた印象が。

お店の人は若造の僕にも大変に親切でした。

後から知ったのですが、芸能人もかなり訪れていたらしい・・・

 

そんなわけで、山手本通りから山元町を通って

根岸の旧競馬場跡(現在の森林公園)

まで行く道の写真、映像がないかと探していたら、

 

1966年(昭和41年)制作の 「ひき逃げ」成瀬巳喜男監督 という映画の撮影舞台が

横浜だという事を見つけて、

早速、DVDをAmaaonに注文して 鑑賞大会 となりました。

 

出演: 高峰秀子、司葉子、小沢栄太郎、黒沢年男、加東大介、浦辺粂子

 

高峰秀子と司葉子 が主演という点もポイント!

 

当時は、交通戦争まっただなかで、 

高峰秀子演じる母の 子供が、

司葉子演じる オートバイ大メーカー(どうみてもYAMAHA)

の社長夫人が不倫デート帰りに運転するスポーツカーにひかれて死亡してしまう。

その後の復讐心理劇というアラスジ。

えーーと思ったのは、子供の死亡交通事故で5歳以下の場合は慰謝料数万円

!!!!??? という展開で、昭和41年って、そんなもんだったのでしょうか?

 

女優 高峰秀子様は、 僕の年齢からすると、僕の高校生時代には過去の女優さん

というイメージでおりましたが、改めて真面目に見てみると

、おフランスのカトリーヌ・フロに似た印象のある

素敵なおばさん という印象で、演技力のある、

しうっかりとした方で、

高峰秀子様の主演映画をもっと見ようと決心した次第です。

残念な事に、アマプラ、ネトフリには主演作の多くは上がっておらず、

あきらめて、DVDを買うほかしかありません・・

 

 

で、

この映画、

残念ながら、山元町の商t店街は何回もでてきますが、

山元町の先は無い・・・・・

 

山元町商店街アーケード

 

 

 

その代わり、 個人的にびっくりした映像が出てきて、

司葉子様演じる社長夫人が運転している車が、

以前、このブログに何回も登場した、ルノー・フロリドのパワーアップ

版、 ルノー・フロリド(カラベル)だったのです。これは見逃せないですねー!

この年代のルノー・フロリドは 

1108cc(ルノーR8のエンジン)。

僕のフロリドは初代なので、

845cc (ルノー・ドーフィンのエンジン)

で、ゴルディーニチューンのエンジンでした。

ルノー・フロリドの名称については、

英語圏にはカラベル、

その他の地域は

フロリド(おフランスも含める)でしたが、

2代目が出るころにはすべて カラベルの名称に統一されたようです。

 

初代と1108エンジン搭載の2二代目の外観は、ほとんど同じなんですが、

唯一違っているところが、リア・フェンダーの凹み部分に空気を取り入れる

開口部があるのが初代、無いのが2代目です。

これは、初代はラジエターの位置が後部座席の後ろにあったのですが、

2代目は、車両の一番後ろに移されたためだと思います。

 

この開口スリット、雨水が入って、もともと弱いボディーが腐る元凶でしたが、

塞がれてよかった!

 

なんと、この映画を見ていたら、司洋子社長夫人が運転する白いルノー・カラベルは、

僕が毎日の夕方ドライブで通っていた山手の丘沿いの道を走ってるんですいねー!

これには大感激。

涙が出ちゃうような、僕のナマイキ盛りの若造時代を思い出させるカットです。

まあ、僕のフロリドは、タダで貰ったひどいポンコツカーだったのは別として。

 

社長夫人不倫デートカーは

白いルノーフロリド(カラベル)コンバーチブル。

ここは、埋め立て前の本牧岬下

道路は未舗装。 コンビナートもありません!

現在の本牧市民公園があるあたり

この年代であれば、ホンダS600  日産フェアレディー1500 も発売されていますが、

社長夫人不倫デート車であれば、オサレなおフランス製のほうがベター。

 

 

この車、おフランスではブリジット・バルドー様 が宣伝を務めておりましたです。

 

ついでにですが、先日、TVで吉永小百合様のの若い時代の映像特集を見ていたら

なーんと、吉永小百合様 ルノーフロリドから降りて出てくる 場面を目撃!

やはり、ルノー・フロリドは、美人女優様の乗る運命のくるまなのでしょうか??????

 

 

 

 

 

話は、元に戻って

この先が間門  埋め立て前の海が見えてます。

 

 

山手の丘の崖沿いの道で、 ここを僕も毎夕走ってました。

この先には韓国公使館があります。

右には当時の貯木場などが見えるエリア

交通事故はここらあたりで起こる。

 

山手にある社長邸宅ガレージ

 

 

 

 

1966年 谷戸坂  マリンタワーが見える

 

 

おまけ

オープニングは東横線 桜木町ー高島町 間の高架。

1966年には横浜市電も健在! この6年後の1972年に市電廃止。

 

 

 

1966年の加賀町警察署

 

この映画に出てくる横浜の感想なんですが、

1966年の横浜って もっと都会のイメージがあるんですけど、

映画でみると、終戦からそう何年も経ってないんじゃないの?

という雰囲気があって、びっくり仰天!

 

この掘割川沿いのカットみると、

掘割川が埋め立てられる前(今は大通り公園に)

って、 昭和20年代かと思われますが、

昭和41年なんですよねー。

いろいろな意味でショックな映画でありましたw

 

このカットの場所ですが、遠景に丘が見えて、

左の端は丘が切れてそうなので、

元町の対岸から山手の丘を望んでいるようにも思えます。

根岸線 桜木町ー磯子間 開通が1964年なので

映画撮影時に開通しているはずで、高架線が映っていなのは、石川町より海より?

 

 

youtube にこの映画のロケ地映像が載っていますのでご紹介

 

DVDはこちら

 

手前が司葉子 奥が高峰秀子

 

 

 

 

 

 

 

あ宝か? 珍品か? スターウオーズのフィルムを発掘! ただし8mm

週明け、本当は作品のフレーム塗装をする予定だったのですが、

 

あまりの暑さにめげて、冷房を入れた室内で、

いつの間にか行方不明となっている(10年間使って無かった!)

マンフロットの超小型特殊三脚を

ノンビリと探索することにしました。

7月末に使うお仕事ができてしまったんですよねー、泣

 

 

道具は、使おうと思うと、見つからないことが多々あり、

整理が下手な自分を反省はしてるのですが、

小学生の頃から、治っていないんですよねー。

 

で、ひょっとしたららここらあたりにと思いつき、

開かずの収納を無理して開けてみると、

三脚は発見できず、

 

な な なんと、これまた消息不明となっていた、

スターウオーズEP4 つまり、一番最初に公開された アレ

ですね のフィルムが出てきてしまったのです。

 

これが、劇場用のフィルムだったら、大変な事で、

流出してしまったEP4のフィルムが、駒単位で切り売り

されていて、一枚7500円!

 

残念な事に、僕が発掘したフィルムは、

8mmフィルムの長尺もので、

FUJIのシングル8用とあるので、

シングル8映写機を持ってないと見れないんです。

当然、持ってません。

 

アンバランスな事に、実は16mmフィルムの映写機と、

映写機扱い資格は持ってるんですが。

 

見るには、ヤフオクで映写機を入手しないといけません。

一応、光学録音音声もついてるので、

当時のビデオよりはマシな画質かも・・

 

さて、友達集めて、大映写大会を週末の夜にでも

やりたいんだけど、映写機どーしよー と悩んでおります。

 

 

 

 

 

 

 

利用者登録はがき(応募すると素敵なプレゼントが抽選でもらえる)

英語シナリオ

東映の8mm名が劇場のごあんない

3点セット完備!

 

フィルムの長さ116mm

フィルムプリント USA

壮絶な宇宙大戦争SF映画とあります。

 

 

 

どーしたもんだろー これ・・・・

ヤフオクで8㎜映画フィルム見てみたら、かなり安いんですよねー?

つまりコレクターがいなんですよねー?

格安でコレクションするなら、今のうちですよ皆さん!

 

画質から見ると そりゃー スターウオーズEP4だって、

 ブルーレイ デジタルリマスター版のほうが、

大画面で画質も格段にいいんですよねー?

サラウンドも楽しめるし。

 

でも、何故か、16mmの映画のフィルムは良いお値段がついてるんですよーねー?

今時、16mm映写機の方が入手困難だと思うんですけどねー?

 

 

で、結局、デザインスタジオのインテリアの飾りに落ち着く?

 

シングル8の映写機・・欲しいなーーー

スタジオの白バックをスクリーンにして、カタカタ音を立てる

映写機動かして、夜更けの映画大会とか、楽しそうじゃないですか?

 

価格が安いうちに8mm映画のコレクションしてしまおうかとか

映写機買おうかとか

煩悩にさいなまれるワタクシであります。

 

 

 

横浜 山手の女子校 横浜女学院 ルーツは古い

山手の丘の下、石川町、打越などから見上げると、

丘に見えるのは、横浜女学院の堂々たる

校舎です。

 

マジ、共立学園は陰で隠れて見えず、

共立ファンはさぞかし、残念?

 

横浜 山手の女子校 5シスターズ枠では登場しなかった

のですが、横浜女学院は、校舎の存在感の大きさでは

5シスターズに決して負けてはいない模様。

 

この女子校は、あちらこちらの解説を総合すると、

終戦後に横浜千歳女子商業学校と、臣道女学院の二つが合併して

設立されたようです。

 

横浜千歳女子商業学校の前身の歴史はかなり長く、

あれこれ調べてみると、 明治19年(1866)に山内茂三郎によって設立された

山内小学校までさかのぼるようです。

横浜雙葉学園前身の横浜紅蘭女学校よりも数年古いんですよね。

 

文豪、吉川英治氏は山内小学校に通った時期があり、

氏の生い立ちからの思い出をつづった 「忘れ残りの記」

によれば正式名称は、横浜市私立山内尋常小学校とあって、

横浜市の千歳町にあったそうです。

 

 

それとは別に、横浜市立山内尋常小学校(都筑郡山内村)があって、

どうも、間違われる事もあるようですね。

 

山内尋常小学校は、現在は青葉区の横浜市立山内小学校として存続

しています。

 

山内尋常小学校の経緯もシンプルではなく、

 1873創立という歴史の古い小学校(荏田村の観福寺の寺子屋をベースにした荏田学舎)があって、1937年に荏田学舎と同時期に満願寺に開校した「小学石川学校」と合併して山内尋常高等小学校の名称になったようで。

 

で、結論から言いますと、山内茂三郎氏が創立した

山内小学校の名称のほうが、年代的にもオリジナルだと言えますね。

吉川英治氏によれば、山内氏と奥様が先生を務めた

小さな小学校だったそうです。

 

その後、

 

 

1921年 - 横浜千歳裁縫女学校 設立

中区千歳町1-1

設立者 山内茂三郎氏 校長 山内錦子氏

 

設立翌年、女学生たちに悲劇が襲う!!

1922年 関東大震災で校舎全焼

 

1933年 横浜千歳女学校に改称

1936年 千歳高等家政女学校に改称

 

1932年の地図には、千歳町時代の学校が載っています。

今の長者町丁目のかごに近い地点で、

ガソリンスタンドの裏あたりでしょうか?

 

 

 

 

ここで、いよいよ歴史的引っ越し!

1937年 山手203番に校舎新築移転 !!!!

山手203番は、共立学園の道を挟んだ

お隣です。

 

1936の地図  見事移転完了 共立のお隣になりました。

 

 

 

 

というわけで、共立のお嬢様と横浜女学院のお嬢様は、

同じ乙女坂を登る87年前からの古いご近所友達という事ですね。

 

 

古い地図で調べてみると、1932年(昭和7年)頃は

山手203番には越前屋の寄宿舎があったようです。

 

越前屋は、かっては横浜では大手の呉服から始まった

百貨店で、伊勢佐木町に8階建ての新店舗を建築したものの、

1932年に負債を抱えて早くも閉店。

その後、松屋が店舗を購入し1934年6月に鶴屋として開店

という残念な百貨店です。

旧来の呉服屋的な個別対面販売スタイルにこだわり、

時代の波に遅れたためとか・・・

つまり、廃業した越前屋さんの寄宿舎跡地に移転したってことですね。

 

1944年 横浜千歳女子商業学校 へ改称

 

ここで、また悲劇が女生徒を襲います。

せっかくの203番の校舎全部を海軍省に接収される!

仕方ないので、山手のお隣組 横浜女子商業学校の

校舎を一部借りる。

幸いにして?203番校舎は戦火により全壊だけは免れた模様です。

 

 

で、終戦を迎え、その後、神奈川女子商業学校との合併との道を

たどります。

 

一方、神奈川女子商業学校の前身は、

1940年 横浜市小港3-177 小原弁造宅で

夜間塾を開始から始まるようです。

 

1941年、学校としての体裁を整え、小原弁造校長となる。

1942年 山下町95番地 インド人商会のビルを借用移転

資料によれば、

以前の警友病院(中華街の向い)の裏にあったビルで、

現在の加賀町警察署近く

コンクリートの細長い校舎。倉庫を改造した講堂は、

屋根もまわりもトタン張りで、床は畳敷き だったそうです。

 

1943年 臣道女学院 各種学校として認可(仮校舎640坪)

1944年 神奈川女子商業学校認可

1945年 空襲により校舎全焼 横浜千歳女子商業学校の校舎を借用。

 

以上2つの女子校は、戦時中に千歳が校舎を失った臣道に校舎一部を貸したり

した関係だったのですが、終戦時には、両校ともに 校舎はボロボロ・全壊、

残ったのは生徒と先生のみ など、運営的、経済的にも大変な状

一時は校舎の貸借等を巡って、かなり険悪な関係だったようで、

臣道側は理事長一族と校長の対立とかの問題もあり、

なかなか両校とも再建の目途がたたず、

占領軍からは、もう両方とも廃校にしたら とのお達しあり、

あわや というところで、 

あまり関係の無かったこの2校を合併して存続させるという、

大変な仕事をされたのが、金子正先生で、現理事長、校長でも

あります。

当時病床にあった神奈川女子商業学校(臣道女学院)創立者 小原弁造氏

に跡を託され、

もう一方の横浜千歳女子商業学校の創立者 山内茂三郎氏からも万事を一任
との言を得て、この難事に向かわれたそうです。

 

 

1947年(昭和22年)

両校合併 横浜学院女子商業学校・横浜女子中学校 と改称

 

1948年 横浜女子高等学校    認可

1952年 キリスト教教育開始

1983年 横浜学院女子高等学校 改称

1999年 横浜女学院行為等学校 改称

 

金子正先生の当時の回顧録を読むと、まあ大変な事をされていて、

よく、まあ、合併に漕ぎついて、合併再建というよりは、

新しい学校を作るといった方が適切な難事業ですね。

 

金子正先生は、熱心なクリスチャンでもあったため、

苦難の中にあった2つの学校を、キリスト教に基づいた

日本人による日本人の為のキリスト教育という建学・教育方針で

一つの学校として再建というよりは、新生させたわけですね。

 

所で、最初に戻って、山内小学校-横浜千歳女子商業学校 の

創立者、山内茂三郎氏は、晩年、横浜女学院の一室に住まわれて、

そこに、吉川英治氏が訪問したというくだりが、「忘れ残りの記」に

描かれておりました。 

横浜女学院の一室に住まわれてたってことは、

山内先生の信頼も厚かったんでしょうねー。

 

まあ、横浜山手の女子校には、それぞれ、長いストーリーがあるんですね!

 

横浜 隠れ家度Aクラスのカフェ「シカト」

今日の午後、山手の裏のデザインスタジオに、

 

古いYAMAHAの木管楽器ウインドシミュレータMIDI音源を

 

エレピに繋いで音を出してみようと企んで、

 

MIDIケーブルを自転車で取にいった帰り道、

 

天気も良い午後だったので、

 

時折 立ち寄る、 謎な場所に存在するカフェが

 

健在かどうか?

 

確かめがてら、冷たいコーヒーを頂きに寄ってみることにしました。

(僕は、レイコーとは、絶対呼ばないのですw)

 

シカト という実に大変な名前のカフェで、

 

以前、グーグルアースで 実に辺鄙な所にあるのを発見し、

 

やはり、この季節のスタジオ帰りの午後に、

 

山手本通りのかなり稲荷坂に近い丘の上から所から、

 

横浜浜橋めがけて、一気に自転車で駆け降りる途中の

 

家と家の間の隙間を迷いながら、路地横にある、

 

終戦直後に建てられ様なのトタン壁の木造家屋の

 

DIYっぽい改造による、

 

たそがれた建物のカフェなのです。

 

決して、オサレで無理したカフェではないのですよ。

 

 

 

 

 

もよりの駅からかかなり遠い!  

だらだら坂をがんばって登る必要がある!

道に面していないので、大変にわかりにくい!

周囲にオサレなお店とか皆無!

平日は営業しない日も多い!

車では行かないようが良い!

と6拍子揃った難易度が三ツ星のカフェです。

 

そのかわり、

意識高い系ピーポーはあまり見受けられず、

高校生のお子ちゃまもみられず、

そんな意味で 隠れ家度は三ツ星と思います。

まあ、土日は行った事ないので、混んでるかもしれませんが。

 

写真撮るの忘れて 全部飲んでしまった

 

 

 

 

トイレ入り口が面白い事に

元バスルーム?

 

 

 

 

 

ついでに、隣に大谷石外壁の蔵があって、

その中もカフェ別室になっているので、

密閉空間を楽しみたい場合は、そちらにも居られる

という特典もあります。

蔵の中、スマホは使えないかも・・w

 

ここを通り抜けていきます。

 

蔵の中

 

 

探検したい方は、ググって 是非に見つけてください。

ヒントは、お米屋さんの横の脇道 ですよ。

 

 

コーヒーですか?  お嬢さまが丁寧に入れてくださいました。

ちなみに、googleの口コミ、4.6 ですよ。

 

 

 

 

 

 

元町のイタリアンレストラン MIKI の写真を古本で見つけた

好きだったお店が無くなると寂しいものだけど、

 

どんなお店だったか? 具体的なイメージが

 

思い出せなくなるのは

 

もっと寂しかったりしますけど、

 

これは、大昔のガールフレンド もしくは、ボーイフレンドの名前は覚えてるけど、

 

姿がもう思い出せなくて 寂しい・・

 

のと似てる?

 

 

さて、 先日

 

横浜は伊勢佐木町はずれの古書店前の格安本箱を

 

先日、散歩ついでに ふらふら 覗いていたら

 

昭和51年初版発行の、保育社 カラーブックス 「横浜の味」

(文庫本サイズで、カラー印刷のページが3割程度ある)

 

というのを見つけて、自販機のコーヒーより安いので、

 

早速、買って中を見たところ、

 

元町の ミキ が載っているではありませんか!

 

外観はなく、店内のテーブルだけなのですが、

 

無いよりはマシというもので、

 

なんとなく、店内の雰囲気を思だしてきました。

 

そう広いお店ではないけれど、女性の店主様が

 

生意気盛り男子の僕にも、親切で、

 

女の子連れのときには、本当に親切で、

 

緊張バリバリの僕がドジしないように

 

気配りしていただいて、

 

今でも感謝しております。

 

さて、さて、 本の中でのお店の紹介文が、

 

何とはなしに、昭和な夕刊紙の飲み屋紹介というか、そんなノリで

 

なにやら、昭和のタバコ臭いオヤジっぽい文章で、

 

紹介文の最後に

「魚料理、肉料理、ご飯ものに、タリテアル、マカロニ、

スパゲッティにワインが欲しいところ。」

とありました。

 

ワインが欲しい所マル で終わるところが昭和の味出してますねー。

 

今風のオサレさは見事に皆無だねっ! 

 

とか思ったら、

 

執筆者は当時の神奈川新聞の社会部の記者の方でした。

いかにもです。

 

 

テーブルクロスはは当時のイタリアン定番の赤白チェック、

キャンティーワインが置いてあるのが昭和のイタリア感!

紙ナプキンが三角に折っておいてあるとか・・

見どころです!

 

イタリアのにぎりめし は、 ライスコロッケ

 

 

 

 

カラーブックス

保育社の経営悪化により1999年に刊行が休止

2007年(平成19年)5月よりメディカ出版の出資を受け再スタートした[7]。2010年(平成22年)にはかつて30万部以上のヒットとなった河合豊彰の『おりがみ』(1970年刊)と『おりがみ入門』(1975年刊)を合わせたカラーブックス『復刻版 おりがみ』が刊行

 

がんばれ カラーブックス

 

 

 

山手の丘の女子校 5シスターズ 安住の地 大作戦

 

山手の女子校ネタが続いていますが、

毎夕、自転車で散歩しているコース上

にお嬢様方の学校があったりするので、

あれこれ、調べているうちに

かなりディープになってまいりました。

 

 

先日、成美学園(横浜英和)が引っ越しクイーンとか

書き残しましたが、それぞれの学校が近接遭遇していたりとか、

興味が尽きなかったりいたします。

 

歴史的には、どうも、山手のミッション系女子校は、現在の御三家といわれている

横浜雙葉  共立  フェリス に加えて + 成美(横浜英和) +捜真(英和女学校)の計5校 とするのが正解なような気がします。

 

その他にミッション枠ではないけれど、、横浜女学院(現役)  横浜女子商業  横浜高等女学校の3校があることも加えておきましょう。

苦難の歴史を乗り越えた横浜女学院については、また別にご紹介・・

 

 

さて、ミッション系女学校の創立については、

創設期からスマートに安住の地へ  という組と、

創設期から あちこち転々とする組 があるようで、

成美学園(横浜英和)は転々組の代表となります。

 

まあ、企業の海外進出・地方進出でもそうですが、

まず現地に準備事務所を作って、

そこを足掛かりに本拠地を作る というのが定石なわけで、

各校、そのパターンで創立されていきます。

 

例外的なのは横浜雙葉学園で、いきなり現在の場所で創立

されましたが、

まあ、この女子校の場合、先に隣地にサン・モールが設立され、

そこが足掛かりとなりましたので、そういう意味では

例外というわけでもありませんね。

ちなみに、サンモールはカソリック系の宣教団体により設立されて、

その創立は山手58番です。(代官坂を登った角で、

現在、末日聖徒イエス・キリスト教会がある場所付近です)

横浜雙葉は、隣地(山手病院跡地など)を併合しながら現在に至ります。

かって、横浜雙葉は創立の地の山手58番を苦労して入手したようですが。

 

 

さて、成美学園(横浜英和)に話を戻しますと、

 

成美学園と共立学園のスタートは、山手48番で、ご一緒友達なわけでした。

 

先発の共立は

山手48番館に間借りをして 

米国婦人一致外国伝道協会より派遣された

女性宣教師M.P.ブライン J.N. クロスビー及びL.H.ピアソンが

1871年にAmerican Mission Home を設立したのが始まりとされています。

 

山手48番館はジェームス・ハミルトン・バラの所有で、バラの要請にAmerican Mission Homeを創設したしたとの事です。

(J.H.バラ アメリカ・オランダ改革派教会派遣のアメリカ人宣教師。日本で最初にできたプロテスタント教会の牧師様)

 

American Mission Home運営には、

後のブリテン・スクール設立の基礎を作ったとされる

エリザベス・M・ガスリーもお手伝いをしていて、

宣教師組織を超えた協力関係があり、山手女子校グループは

根っ子が一緒感がかなり漂います。

 

後に、雙葉創設の際には、共立出身の英語できる女史が

活躍していたりとか、まあ、狭いエリアだったんですね。

 

さて、共立は、翌年には山手212番へ移転し、

以後、隣地を取得しながら領地拡大し、現在に至る!

 

一方、成美(横浜英和)は、共立が山手48番を去って9年後、

1889年に山手48番にブリテン・スクール創設!

ちなみに、この48番はといえば、現在のフェリスの事務棟付近です。

 

成美(横浜英和)は翌1881年に早くも、山手68番に移転!

お隣の山手67番には聖書印刷工場があり、7年後に

捜真女学校(英和女学校)の創立の地となります。

また山手67,68番は 雙葉創立の地 山手58番のご近所ですよ。

 

成美は同年、山手120番の一角に移転(イギリス公使館施設)

有島武夫が通っていたのがこの場所となります。

一房の葡萄は小学生時代のブリテンスクールの

思い出を元に執筆されました。

ここでブリテンスクールの女性徒に悲劇が!

1886年 男子部新設によって、女子部のみ

山下町居留地84番に分離移転!

 

居留地84番は、じめじめしていて、以後心地悪く、

女生徒たちは悲嘆に暮れたそうです。

そりゃー 山手の丘の方が断然イイですよねー。

居留地84番は、元町・中華街駅の中華街側出入り口近くで、

エスカル横浜の裏あたりと思われます。

地味な場所。

 

ご近所に、居留地39番 フェリスの創設地(ヘボン療養所跡)

があったりします。 フェリスは山手178番へ新校舎作って移転!

その後、周囲を取得しながら領地拡大して現在に至る!

 

 一方 成美は

1889年、山下町で3年過ごした後、男子部消滅?のため、

女子部は山手の丘 120番に一時復帰!(244番完成まち)

女学生 狂喜乱舞。

1890年244番に新校舎と寄宿舎が完成したので、早速移転。

新築244番校舎でルンルン🎵

1908年 マスカリン礼拝堂完成 なかなか可愛い礼拝堂。

成美学園 山手の丘での幸福な時代。

 

      礼拝堂は先年、蒔田に再建。

      是非見学したいものです。

 

マスカリン礼拝堂の写真は残っているのですが

成美の場合 山手68番時代の写真が見つからない

のが残念です。

 

1916年 蒔田へ民族大移動。  

 

とまあ、かなりあちこちを彷徨った経緯が以上の通りです。

山手の丘は、ミッション系女子校の他、各種の神学校も

密集していて、広い学校用地を確保するのが難しかった

という点が大きかったのかと思われます。

 また、寄宿舎も一緒に確保しなければいけないので、

余計に土地確保の問題が・・・

 

その他、ミッション系学校が密集しているので、

それを避けて、静かな場所に行きたいというのも

あったように思われます。

 

山手の丘には、女子校5シスターズの他に、

 サン・モール(1872年)、

 セント・ジョセフ(1901年)

横浜高等女学校(1906元町小跡に移転)

横浜女子商業(1908)

 

とかもあったので、高密度です!

 

新天地を求めて移転組は 捜真も同様で、

1886年、創立 山手67番から

1892年 広い場所を求めて山手34番に移転!

現在の山手本通り沿いの山手トンネルの上あたり。

フェリスと共立の間あたり。

決して広いエリアではないのですが

1910年 トンネル工事のため、神奈川区中丸の丘上に移転。

広さばっちりです。

 

というわけで、 こうしてみると、

山手の丘5シスターズのうち、

現地事務所から本拠地を確定後、移動しないで領地拡大した3校が

現在の山手御三家  横浜雙葉・フェリス・共立3校で、

新天地へ移転組が、成美(横浜英和)と捜真女学校という事になります。

なかでも成美の校舎流浪の旅は特筆もので、いろいろ大変だったんだろうなー

とか思われますねー。

 

ここまでくると、横浜女学院が無いじゃないか?

なのですが、これは また結構長い大変な歴史があったりしそうなので

続くです。

 

ブログにあるまじき長文で恐れいります。

 

移転経緯と場所参考地図は下記を参照

 

 

 

 

 

 

 

元町のベスト・チーズケイクス 実は、こっちのお店の方が好きだったんだけど

元町の表通りが かっての元町の雰囲気が薄くなってきた感があって、自転車の散歩では、いつも元町の裏通り (元町仲通り)を通っています。

 

てょっと残念なのは、かなり以前の話しなのですが、

裏通りにあったザ・ベスト・チーケイクスのお店が

表通りの2Fテナント内の売店? に移転して

寄り道休憩ポイントが無くなってしまった事で、l

 

個人的にはかなりのダメージ・・・

裏通りの隠れ家的な雰囲気がだいすきだったんですが・・

それでは、地元民しか来ないので・・・

 

まあ、営業的には表通りなんでしょうねーー。

 

チーズケーキの箱買いしていたので・・残念!

 

写真は、かっての裏通り店 15年前くらい。

 

 

 

 

 

こちらが現在  なんだか、ドーナッツチェーン店みたいで、

自転車をお店前に止めて、中でまったりは無理っぽいなあ・・

 

 

 

 

 

いわゆる 量産型女子について

先日、昭和な中学校時代の同窓会がありまして、

 

あまり参加する気はなかったものの、

 

当時の僕のお姫様から あなたが行かないなら、私も行かないから との

とのお言葉を頂いて、

あっさりと参加させられる羽目になってしまった・・。

お姫様からは、当時、少女漫画週刊誌をいつも読ませて

頂いたりたとか、

内緒でたくさん遊んで貰っていたとか、

クラス仲間には知られたくない弱みがアレコレあり(まだ誰にも知られていない)、

数十年たっても主従関係が変わらないとは・・・・とほほです。

 

今にして思えば、スポーツ万能な男の子の価値が大変高かった中、

僕だけは、音楽・美術・読書に秀でたレアなアート系男子だったので、

まあ、そういう意味で、スポーツ系より精神年齢が高そうな僕は遊び相手としては

合格だったのかもね。

 

まあ、そういうわけで、同窓会の後、 居酒屋カラオ二次会まっぴらごめん!

という僕は、お姫様と仲良しお嬢様とご一緒に、まあ、カフェに一緒に連れて

行ってもらった訳です。(人畜無害そうなアート系男子の特権ですw)

 

その中で、

 「最近の若い女の子」の顔がみん同じ見えるんだけど、

皆様どうですか?」

「自分がいい年のおっちゃんになったらからそう見えるんだ とも言われた

けど」

と話しをしたら、 

 

かってのお嬢様方も

「実は ワタシも、みな同じに見える」 との事で、

いわゆる量産型女子ってやつですよね。

 

 

 

 

で、かってのお嬢様方いわく、

「実は若い男の子も、みな同じにみえるんだ」

色白でヘアスタイルが同じでファッションも一緒で・

との事で、まあ、そういう時代なんでしょうね。

 

 

 

高校生までは、素で綺麗な肌なのだから、

メイクしすぎない方がいいのでは???

やはりSNSでの情報共有・拡散速度が加速

してる時代だから、そうなるんだろうねー とか

とか・・・

今の若い子は大変だね・・・・とか

昭和にはやったVANを中心としたアイビーブームだって

アイビー量産型だったけど、まあ、全員アイビーでも

なかったし、情報源は雑誌しかなかったし・・

とかとか

 

 

 

 

 

と、意見の一致をみたのだけど、

 

かってのお嬢様の一人が、

 

「そーいえば、若いころは、

オジサンの顔が皆同じに見えた」

 

 との決定的一言があり、

 

 

僕たちも、量産型・おじさん おばさん に見えるんだろうね・・・

 

という しょうもない結論に達したのでありましした。

 

いやはや・・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

覚えてますか? 横浜雙葉 ついに見つけた 昭和な校舎3

あれから、昭和な校舎の実際の姿が残ってないか、

横浜市の中央図書館に、なにか学園史みたいな

資料があるのではないかと気になっていて、

 

例によって、夕方の散歩ついでに、自転車漕いで

行って図書館で探索していましたら、

ついに、小さな写真ですが、発見!!

 

ちなみに、山手系ミッションスクールでは、

成美学園(横浜英和)の歴史的資料図書

が群を抜いて充実している事も発見・・

それで、成美学園(横浜英和)の山手48番でのスタートを

振り出しに、今の蒔田の丘に安住の地を見い出すまでの、

流浪の歴史もわかってきましたので、

それはまた別のお話しにて・・・

 

さて、小さな資料写真の結果、僕のスケッチも、

かなり当時の姿を描いていた事がわかり、

安心というか、マジにあの場所で描いていた

夏休みの日は幻想ではなく、リアルだった事が実感できて、

夏なのに、帽子もかぶらず、日よけもなしに、

長い時間あそこににいたはずですが、

暑かった記憶がないのは、やはり当時の夏は涼しかった??

ちなみに、あの場所に行く途中で、元町のポンパードールで

フランスパンのサンドイッチを買って、

飲み物は、自販機なんか無いので、  水筒!!

に氷と紅茶を詰めて、

中古N360にイーゼルと水張りしたB2サイズのパネルを積んで、

B2サイズで5-6枚描くのが宿題のノルマで、過酷・・・

雙葉の入り口への道の脇に駐車して

がんばっていたわけです。

そのわりには、我ながら、密度の低い絵だと思いますね。

今でしたら、チャっとスマホで撮っておいて、

クーラーの効いた部屋でNetflixでも見ながら

のんびり描くとかできるし、

行かずにストリートビユーで画面キャプチャーして

描くとか、いくらでも方法があるんですけどねー。

でも、B2サイズに画用紙を水張りしたパネル提出だと、

生成AIで楽することはできないので、

課題の提出は、画像ではなくて、

画用紙水張りにすべきだと思います。

まあ、せいぜい、スマホ写真をプロジェクターで画用紙パネルに

投影して、下書き作るくらいが関の山・・・

鉛筆でB2埋めるのは、それなりに 手間がかかりますw

 

 

密度の低い理由は・・・

後で元町プールに寄って行こうかとか、

気をちらしながらボケーっとしながら描いていた気が・・

 

 

夏休みなので、通学のお嬢様方がほとんどいないので、

人通りもなく、シーンとした静かな空間でした。

まあ、あの玄関を抜けた中はいったい全体、

どーなってるんだ??? とかとか 思い出してきました。

今でも気になっているんですがw

 

 

竣工写真?と思われ

 

正面玄関入り口の上の明り取りの格子が

スケッチと違って細かいのですが、

あとから、改装したと思われます。

こんなに細かい格子だったら、

描くのが面倒くさいので、

別の建物描いていたに違いないので・・w

 

 

 

 

遠景写真

撮影カメラの位置は、道路からではなく、

向かいの敷地内からと思われ 思えば不思議な写真

 

山手の「喫茶エレーナ」 半世紀たって健在! 横浜昭和ピープルの聖地かも 

山手本通のフェリスと地蔵坂の間に、喫茶エレーナという白い外壁の小さなお店があって、 この前を通りかかる度に、あ、まだあるな! と安心しています。

 

 

 

 

ちなみに、平日の夕方、山手本通りを気分転換に通るというのは、

僕が小生意気な学生だった昭和な時代からのルーティンになっていて、

山手の丘の通りは、民家はかなり近代化されていますが、

主要アイテムは、まあ、昭和とそうかわらないので、

安心して散歩できます。

 

この道は、平日の夕方は ガラガラであります。

 

今は電動自転車漕いでいますが、

生意気盛りの事は、タダで譲ってもらった、

[極度なポンコツ]の

 

おフランス製、スポーツカー風おされ車、

(ピエトロ・フルアデザインとも、ギアのデザインとも言われています)

ルノー フロリド(もちろんオープン)。

 

このオサレ車を

共立→喫茶エレーナー横浜女子商業→フェリス→雙葉 の前を

当時のJKの脇をゆっくりと転がしていたものでありました。

(もちろん 当然の事ながら躾けの行き届いているお嬢様方は

誰も振り向いてくれませんでしたけどね)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あ、話が横にそれておりますが、

 

その喫茶エレーナ、

1975年にオープンしたお店で、以来、当時のガールフレンド(現奥様)と

時々、我が家の買い物車 中古N360(走行27000km15万円)で

お茶しに行っておりました。

丘の上に位置して眺めがよいのと、

(当時は市内に高いビル・マンションが無かったので、

抜群の眺望)

観光の方が比較的少ないこともあり、

地元に愛されるカフェの典型ではないでしょうか?

 

もしも ですが、荒井由実様が、ここに通われていて、

歌の一曲でも作られていたら、

ドルフィンと並ぶ聖地になったに違いありません・・

そうなると、 今頃は、昭和な面影が無くなって

別資本の別のお店になっていたような気も・・・・

 

というわけで、店主の服部さんはいつまでも健康で

がんばってくれると嬉しいなあー とか思っております。

 

 

 

 

下で詳しく紹介

 

サムネの写真は、山手のエリスマン邸です。

 

 

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