201128

 久しぶりに1日のんびり過ごす。
 そもそも、この家にいても前橋のアパートにいても、足利の家にひとりでいた頃のような安息を味わったことはない。

 なんとなく、心の底が、いつも落ち着かない。
 そんな日々をだいたい6年くらいは過ごしていたか。

 いつも誰かの体調や死を気にしていたり、慣れない場所でくつろいだ気分になれない日々。
 あちらこちらと移動ばかりして、他人に気を遣って自分の身体を壊して、落ち着かない場所で丸くなって自身の身体を抱える日々。

 6年前などは仕事もなくてお金もなくなってしまったから、食生活も(今よりさらに)荒んでいた。

 少しずつ、自分の使いやすいように改良している、その入り口だから、とうてい落ち着くとは言い難いが、それでも、誰もいない他人の家に息を潜めて暮らすことにも慣れた。
 思っていたほど人も来ないし、思っていたほど誰かに監視されてもいない。
 来た人間の相手を必ずする必要もないし、場合によっては追い返しても大丈夫そうだ。

 食べたい時にだけ、食べたいものを食べたい量食べることができる(毎日2食はやはり負担である)し、眠くなったら眠れる。
 ときどき緊張しているのか、眠れない日も一年のあいだにはあったが、最近は10時間くらい連続で眠れるようになり、そのままごろごろしていても落ち着かない気分になるようなことはなくなった。

 不要なものを次々捨てて、今は段ボールの中にある本に、やがて囲まれるような設備を整えることもできるだろう。

 やはりというべきか、孤独は感じない。
 おそらく猫がいなくても、人の気配のない方が、本来的に僕は落ち着くのだと思う。

 5年棲んでいた前橋のアパートは、今や殺し屋の借り住まいのようにがらんどうで、ベッドのマットレスとテーブル代わりのワイン箱と机、カセットコンロと簡易ガスヒータがあるだけだ。
 結局、家の中を整備する時間がないまま5年が過ぎてしまった。

 正直、後ろを振り返ると生きる気力を失う。
 ただ、今死ぬと残った人が僕と同じ苦労を抱えることになるので、その道筋を整えるまでは死ねない。

 モルタルを塗るより先にすべきことなのかもしれない。それを済ませれば、いつでも先立つ不幸をお許しくださいなんて、許してもらう気もない一方的な宣言をすることも可能だろうから。
 とはいえ他人と関わる必要のある手続きだし、時世もあるからあまり他人と関わり合いたくない。

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 明日、MacBook が届くらしい。
 NASも整備していないし、ルータとモデムはケーブルが足りなくて、中途半端な位置に吊るしてあるのみだ。
 5m以上の純正光ケーブルはなかなか使う機会もないから物がない、と工事の方も言っていた。
 5mでは、回線を繋いだ家の端の部屋からモデムを出すこともできず、ために鴨居の下に逆さに(不恰好に)吊るされているというわけだ。

 MacPro も、一切手を付けていない。そもそも置いて使えるスペースが、どこにもない。
 床を張り替えるまでは大きな家具は置けないし、壁を塗り終えるまでは床を替える気にはならない。
 リフォーム業者に任せるのは高くつく気もするし、なにより自分でしてみる方が面白そうである。

 そんなつもりで始めたのだが、もう寒くなってきて、早起きするのが億劫である。
 暑いときは暑いときで、やはり億劫なのだ。
 そういう怠惰なイキモノであることよ。

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 オクラは乾燥してきて、いい種が採れそうである。

 チェインソウで解体した家具のうち、燃やすと有毒ガスを出しがちなものも区別がつくようになった。
 それらは軽トラを使って清掃センタに持って行こう。
 古い、仕事の知り合いもいることだから。

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 昨日書きかけた日記を書き終えたくらいで、今日は何もしなかった。

 不安も緊張もなく、何もしないでひとつの場所で息をついていられるというのは、本当のところとても素敵なことで、そういう平穏が、少しずつでも戻ってくるなら、そんな日常なら、もう少し、生きていてもいいかもしれない。

 何かを追ったり、何かに追われたり、何かを強要したりされたりするような、そんな気持ちで生きるには、僕は向かないから。









201127

 職業でもボランティアでもない。
 僕の「裏庭の穴」という役目である。

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 僕はたまに愚痴ともいえる内容をブログに書く。
 傑作だったのは10年以上前、会社の飲み会に行って戻った足で書いた「会社の飲み会なんて行きたくない」という内容のシャウトで、完全なる酔っ払いのソウルフルな愚痴である(サイトごと消したので、現在は存在しない)。

 基本的に、僕はお酒が好きである。
 けれども基本的に物理で身体に悪い酒(安物に多い)が嫌いで、飲むのは好きでも飲まされるのは好きではない。
 当時は会社の(あるいは社長の)奢りで、つまりはタダ酒だったのだけれど、他人に奢られる酒は気を遣ってしまって、基本的にお酒の味がぼやけるので好きではない。好きなものもホイホイ頼めない。気を遣う。
 飲み放題なんて論外だ。
 店に対して安い単価という数の暴力を振りかざし、その代償として混ぜものの毒薬みたいな酒を「指定範囲から選んで」飲まされる羽目になる。
 飲みたいお酒は未来永劫飲めない。
 それを幹事や組織に強要される。
 だからお酒が好きなのに会社の飲み会は嫌いなのである。

 この辺りは話し出したらキリがない。
 その上、賛同者の有無を問わず、僕は「厭だといったらイヤなのだ!」という性格なので、いかんともしがたい。
 それが酔った勢いで表出したため、現象として傑作になってしまった。傑作の意味は辞書で調べてほしい。

 さて話を戻す前にひとつだけ。
 この文書は ── 先の喩えを借りるなら「傑作な」 ── 僕の愚痴である。
 愚痴なんて読んでも仕方ないものなので、読まなくていいと思う。
 なんていうと天邪鬼なアンチは揚げ足を引こうと躍起になって読むだろうし、僕本体を愛でる対象にしている人は矢も盾もたまらず最後まで読んでますます僕を愛でたくなってしまう可能性が否定できない。
 もうおまーら勝手にしろ! 今日は機嫌が悪いんだからナ!
 ほんとだぞぅ。ぷんすか!

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 僕という「裏庭の穴」に放り込まれる第三者の愚痴にはいくつかのパターンがある。

 まず、この「愚痴」について考えてみよう。
 辞書 ── 書籍版も電子版も参照できないので、webのものになる ── には、
言ってもしかたのないことを言って嘆くこと。」とある。

 ひとまず一般論を展開しよう。
 皆、何かしら悩んでいる。
 悩みがある。
 僕のようなノーテンキにも、ある。
 悩みについて誰かに愚痴を言う。

 その状況を分解しよう。
「誰か」との間にバイパスされた会話のテーブルに、愚痴は載る。

 ── ここに「自分自身」は含まれない。これは特殊論にあたる。
 自身との会話テーブルに乗せられた悩みは、愚痴にならない可能性があるので後述する ── 。

 会話テーブルをバイパスされた「誰か」は、その問題を解決する能力や権利や立場を有していない。
 話をすることで問題が解決される(あるいはその可能性が高い、もしくは解決に至らなくても改善やその糸口になる)場合、それは愚痴 ── 言っても仕方ないこと ── として成立しなくなる。

 よって愚痴とは、僕が飼い猫に向かって今年の茄子の収穫が少なかったことについて不満を並べることに等しい。
 畑を耕すのは僕であり、猫たちは茄子を育てることも収穫することもなく、茄子の存在というものさえ初耳だろうから、話したことによって来年の収穫が上がる可能性はまずないし、現在から過去に遡って苗木の成長が促進することもありえない。

 つまりその不満は会話テーブルに載るだけで、天気の話題のように、右から左に流れていく。その役目しかない。最低でも、問題を解決する方向に事象が動いてしまう話題ならば、それは愚痴とは言えなくなるだろう。

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 一般論から離れて、少しだけ卑近な例に近づいてみよう。

 実のところ、僕は他人の愚痴を聞くのが嫌いではない。
 これまでの観察の範囲からいっても、1人あたり1日3話題3フレーズまでは楽しんでいられる。
 実時間にして長くても2時間である。
 これは1話題40分から2時間に相当することになるが、ひとつの現象としての不満を、同じ言い回しをなるべく避けて伝える場合、だいたい話題が尽きるはずである。
 2時間も話そうと思えば、ちょっとした講演である。
 議題や状況は整理され、立場とスタンスは抽象し明確化され、各プロセス内での問題点はあらかた分析され、原因は解明され、対策は構築されているものを説明するのに相応しい時間である。
 だからそんなに長くなることはまずない。

 しかし愚痴を言う人たちはときどき馬鹿になっている(馬鹿というのは、存在ではなくて状態である。天才たる僕だって、寝ている間はただの猫だ)。
 まず状況が整理されていないから、議題が定まっていない。議題が定まっていないということは、その会話の目的が不明である。

 もちろんそれだって構わない。
 正直なところ愚痴を言う人もそこに登場する人も、自他の立場を誤解し、スタンスを曖昧なままにし、発言内容が具体的な割に意味が不明瞭なんてことはザラであり、プロセスはそもそも分解されておらず、問題の焦点は定まらず、原因は無視され、対策など考えてもいないことがほとんどだからだ。

 これらは愚痴の特性である。
「言っても仕方ない」というのは会話テーブルに載るだけの調理がされていないということでもある。
 先にあるように情報が整理されて境界が明確化され、方針が定まっていてゴールが視野にあり、戦略も練られているなら、それは愚痴ではなくなってしまう。
 テーブルに着いている私の前には、調理前の(大抵は泥や虫にまみれた)素材たる肉や野菜がただ放り置かれるのだ。

 そして彼ら ── あるいは彼女たち ── は言うのだ。
「これをどう思う?」と。

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 個人的に、正直な感想を先に述べておきたい。
「どうでもええがな」
 それが答えである。

 それはそもそも僕の調理したい対象ではない。
 あるいは中には調理法なんて誰でも知っていそうなものもあるし、場合によっては前人未到の、食材になるのかアヤシイものもある。どうしてそんなところに首を突っ込んで持ってきたのか知らないが、関わりたくないものだってある。
 いずれにしても興味はない。

 ただ僕は、その対象人物や、その人物とのやりとりを楽しむことができる。
 なぜといって、愚痴は誰かの不満を聞く格好の機会であり、不満というのは、その人がどんな欲を抱えがちで、どんな潜在的な人格 ── 価値観セット ── を持っているかをさらけ出すから。

 べつに弱みを握ろうとかそういうことではない。
 単に興味があるだけだ。
 主観の中で感覚される他人の行動から類推される動機や欲や感情というのは、観察された情報ではなく、観察の方法やその情報に対する主観そのもののアプローチを浮き彫りにしてゆく。
 その「人のありよう」から、僕は「なるほどこういう人たちもいるのか」と世を知ることができる。

 新聞やニュースを見ていても、どんなに勉強しても、人間を知ることはできない。
 今いる人間から知るしかない。
 それを知ることは、僕自身を知ることにもなる。
 僕の主観的アプローチを解析しながら、他人を知ろうとしているのだから、これは楽しい。

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 簡単に言うと、愚痴のゴールは2つである。
「あなたは間違っていない」
「相手は間違っている」
 このいずれかのゴールに到達できると、主観は現状を受け入れることができるようになる。
 だから僕はパズルのように、それを解いていく。

 なぜといって、愚痴を言ってすぐ、
「うん、君は間違っていないよ」とか、
「それは相手が悪いよね!」なんて返事が毎回、必ず、開口一番に飛び出してきたらどう思うだろう。

 最初は嬉しいかもしれない。
「猫氏はすぐに分かってくれる」「私と一緒なんだ」「まちがってなかったんだ」と喜ぶかもしれない。

 でも、即答はイカン。
 3回もしないうちに「話、聞いてないよね?」と叱られるだろう(とりあえず愚痴は聞いているのに)。
 人によっては「馬鹿にしてるのか」と怒り出すだろう。じつに楽しそうな場面である。

 よって、いきなりゴールを提示されて、毎回「あなたに聞いてもらってよかった」と言える人は間違いなく阿保である。愚痴を聞く価値もない。
「ちょっと待って、ちゃんと話を聞いて」と言ってもらえるくらいがちょうどいいだろう。
 相手と自分のレベルがだいたい合っていることは大事なことだと思うし、相手がいくら好みだからといって玄関でいきなり押し倒したり、押し倒されるのがウェルカムだったりするのはどうかと思う。
 もうちょっと手順を踏んだり、空気を読んでほしい。
 いろいろ普段書いていることと矛盾しているが面白いからいいや。

 いずれにしても、ある程度は第三者的な立場から整理/分析しながら、相手の感情的ゴールを目指すのが愚痴を聞く基本である。
 具体的な対策や、戦略的ゴール、問題解決を本当に望んでいる人は極めて少ない ── それは本来、相手自身の領分だから、愚痴を聞いてもらう相手とはいえ勝手に決定してほしくないのである ── し、仮にそれも含めて真剣に相談してくる相手なら本当に大切にしたほうがよい相手である。

 ちなみに「第三者的な立場からの整理/分析」について、いちいち真面目にとりあうのが面倒なときは、
「私は当事者じゃないからなんとも言えないけれど」
「あくまで一般論として聞いてほしいんだけれど」
「これは私感なんだけどね」
「昔、同じようなことがあってね、結局、解決しなかったんだけど」
とか何とかテキトーに前置きして、好き勝手に思ったことを言ってしまえばもっともらしく聞こえる。
 それで十二分である。カップヌードル4個分だぞぅ。

 よいだろうか、そのテーブルに載っているのは「愚痴」なのだ。
 真面目に取り合って真剣に取り組んでも、問題の当事者は相手だから、先に述べたとおり意見ならまだしも、目的や方針や戦略を勝手に「これがいいよ」と策定されたくないのである。
 とくにガールの場合は顕著で、昔から男たちは女たちの愚痴によるコミュニケーションにつまづいている。ちなみに男性でも最近は「まとも」になったようで、自分で最後は決めたいようだ。
「こうしたほうがいいよ」と誰かに言われたら「貴方の人生じゃないんだから放っておいてくれ」というのは、とてもまともだと僕は思う。

 だから聞いている僕は、真剣に考えても、真剣に対策はしない。その対策は「当事者が僕だったときは有効」な策でしかない。

 そもそも愚痴を言っている人は、視野が狭くなっている。自分の考え方と他人の考え方を、視線のレイザービームのように収束してぶつけ合っているから、視野が広いわけがないのだ。

 よって先ほど述べたとき、読者 ── キミのことだぞ〜ぅ ── は「デタラメだしヒドイな」と思っただろうけれど、テキトーに、あまり親身にならずに、あることないこと、思っていることも(思った以上にむつかしいが)思ってもいないことも言ってしまえばいいのだ。

 すると視野狭窄していた人は「待てよ、違う見方、考え方もあるのかな」といった感じで、視野を取り戻す。
 そうすれば自身で分析もできるだろうし、問題を解決しようともせず愚痴を言うより、ゴールを設定して、戦略を立てて、何か行動した方がいいことにも(自力で)気がつくだろう。あらかじめ分かっていることが多いが。
(希死念慮があり、自堕落なイキモノがこれを書いています)

 こんなことまで考えて愚痴を聞いているから、僕は愚痴の内容をまったく覚えていられないのである。

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 ただしそうした真摯な姿勢(そう、テキトーであることが真摯なのだ)で臨んでも、うまくいかないときはもちろんある。
 話がループし始めて、何を言っても「瞳のレイザービームが収束しっぱなし」になってしまう人もいて、こういう人は同じ話を2回以上繰り返す。

 シーン(時と場所)は違っても人とセリフが同じであったり、相手が違っても状況が似通っていたりすれば、それは同じことを原因とした愚痴である。
 それを私(愚痴を聞かされる第三者)に繰り返し聞かせて、アドバイスは聞かない、視野を広げようともしない「あなたは間違っていない」といっても信じない、というのはもはや思考が停止しているのである。

 こうなると重症で、話し飽きるまで聞いてあげないと(第三者への)聞く耳さえ持ってくれない。
 人間嫌いの怯えた猫が、それでもエサが欲しくて物陰からこっちを見つめてにぃにぃ言っているようなものである。
 首根っこを捕まえて蹴り飛ばしてやりたいところだが(突然の暴言について、この場を借りてお詫び申し上げます)エサを置いて帰るか、辛抱強く待つしかない。

 先の「同じフレーズは3回まで」はこの状態で、愚痴を言っている相手も、話していてあまり楽しくない状態で、聞いている僕も相当なストレス状態に陥っている。
 だいたいこのあたりで僕の糖分不足も発生する。

 1日1食であるから、18時から24時くらいまでは、食事や入浴に当てているが、このあたりで掛かってきた電話が作業前で、なおかつ多件数で長時間(どういうわけか、愚痴を言いたい人が列を作っていることがある)になると、コンディションが悪くなる。
 アタマが働かなくなって生返事が増え、しまいに眠ってしまう。
 1時間を超え、ループし続ける愚痴は新鮮味もなく、さすがに僕も退屈になる。
 それが3件続けば夕刻は夜に、夜は深夜になる。
 メインテナンスの時間に無補給でそんなことをしていたら、体調が低迷するのは必然である。

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 昔、ガールに怒られている最中に眠ってしまって泣かれたことがあるが、それもこんな低血糖がゆえの作用だったのかもしれない。
 取ってつけたように言い訳をしているわけではありません、ほんとだよっ!

 懸命に、真剣に、真面目に聞こうとすればするほど、僕のノーミソはカロリィを消耗してゆく。
 与えられた燃料は昨晩が最後なので、僕は代謝系を切り替えてアタマへの血流を落として、体表体温を上げ(深層体温を下げ)、グリコーゲンを作ろうとするのではないだろうか。

 結果、僕は馬鹿になり、眠ってしまう。

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 さて、最後に特殊論について。

 愚痴が愚痴にならないケースはいくつかある。
 その最たるものが「当事者に愚痴る」ケースだ。

 何故か、観察される範囲で、愚痴を言う人は影響力を持たない関係者か、第三者に愚痴を言う。ネットニュースのコメントなどがそうだ。なにか後ろ暗いことでもあるのだろうか。それとも思慮が浅いのだろうか。

 序盤で述べたとおり「相手や自分に問題を解決する能力や権利や立場」があれば、愚痴を言っている問題は解決する可能性が高い。
 そのいずれか、もしくはすべてを自分が持っておらず、あるいは仮に持っていても、問題の原因(多くは人間である)がより優位的だから愚痴になるのだろう。

 当事者と直談判すれば、それぞれの思惑は明確になるかもしれない。
 しかし自分が問題の原因に直接対処する能力などを持たず、もしくは原因となる人物が能力や権利や立場そのもので自分より優れていたり、あるいは能力や権利や立場「そのもの」が原因の場合、対処法が見つからないこともある。

 愚痴というのは分解すると、不快を感じたことの不満という感情を消化する作業である。
(だから問題解決は目的ではないし、問題解決法をアドバイスすると怒られることがある)
 共感によって消化できる人もいるし、話すうちに上記が整理できて、視野が広がった結果、消化できる人もいる。
 いずれも悪いことだとは思わない。
 食べた草を消化するのに石や砂を飲むイキモノだっている。何でもかんでも、ナマの未調理食材を自力で消化できる方がおかしいと言ったって、乱暴なことはないだろう。
 僕がたまたまその「石ころ」だったとして、役に立たない石ころよりは、役立つ石ころの方がいい。

 それでも僕は他人に愚痴をほとんど言わない。
 ── ただし冒頭に述べているが、この文書はその「僕にとっての愚痴」である。読むのは勝手だが、同意を求めるつもりも、意見を聞きたいわけでもない。
 僕が愚痴をほとんど言わないのは、そもそも人間を不満や不快の原因とは考えていないからだ。

 そこには3つの力が作用している。
 僕を不快にさせる人がその行動をとる原因。
 僕を不快にさせる人がとる行動という原因。
 僕をして不快に感じさせる僕の原因。

「なぜ自分が不快に感じるのか」ということは、実はとても大切なことで、にもかかわらず多くの人が素通りしてしまうポイントでもある。
 不快に感じるには、原因があって理由がある。
 それが力を発揮して、その力を受け取るから不快に感じる。

 僕を不快にさせる人が取っている行動が「愚痴がループして、長時間にわたっていて、話を終わりにしてくれない」場合を考えよう。

「愚痴がループして」「時間が長引いて」「体調が低迷したのに愚痴を聞くことを強要され続ける」から不快なら、最低でも4つの対処がその場で見つかる。
「ループさせない」「長引かせない」「体調低迷する前に補給する」「そもそも愚痴を聞かない」である。

 相手に何かを求めることは無駄だと思っているが、相手が僕を不快にさせる行動を取る原因は「僕に嫌がらせをしたい」のではなくて「僕に聞いてほしい不快だったことがあった」のである。
 だから「その不快を消化できるように(かつ消化の主体はあくまで相手本人であるように)会話する」のも対処である。最初から話を聞いている僕は、そもそも対処していることになる。

 信頼している相手の場合、これらのメカニズムも含めて僕は説明する。
 相手は相手の主観に基づいて、違う意見を教えてくれることもあるだろう。

「不快」とされる「問題」において、じつは自分は、常に直接の関係者であり、その問題に対処する能力も権利も立場も(厳しくいえば責任も)、すでに持っている、というのが僕の考え方である。
 ネットニュースを賑わせる事件や話題や政治でさえ「自分のもの」にすることは不可能なはずがない。
 その立場を選んで、不満を並べているだけの人というのは、その立場に甘んじて不満を並べたいだけの人ではないかと僕は思ってしまう。

 だから僕は、本来なら愚痴に発展しかねない「不快」とされる「問題」について、他人に話す価値を見出さない。
 自問自答で十分だからだ。
 自分の考え方や対処法を変えればそれで現実が変わっていくからだ。
 政治に不満があるなら、投票に行くなり、被選挙権を行使するなり、署名を集めて国会に送るなり、官僚になるなり、地元の代議士に会うなり、ネットニュースにコメントを書き連ねるなり、方法はある。

 そしてその方法は、僕一人で決められる。

 ひとりごちる「自分」との対話テーブルに載る「悩み(愚痴のタネ)」は、対応によって「考察」「悪口」「対策」のように分類されるだろう。
 このうち「悪口」は愚痴の意味に沿うようには思うが、さほど事態は改善しなさそうである。
「考察」の場合 ── この文書がまさにそれだが ── 視野を広げ、自分でも思っていなかった意思を新たに、あるいはより強固にすることができるだろう。
「対策」は、もはや愚痴ではない。
 壁がダメになっていたらモルタルを塗ればいい。
 初めてだから、お金がないから、時間がないからと言い訳をするのも、できることから始めようと決意するのも、実行するよりは簡単なことである。

 ちなみに『「不快」とされる「問題」』を「不快とされる問題」と表記しないのは、「問題」は事象であることも多いのに対して「不快」はただただ感覚の、すなわち自分が存在することに端を発するものだからである。
 「問題」とされる事象は、確かにあるのかもしれないが、「不快」としているのは、その時、その立場で、その視座を使っている自分だけの感覚かもしれない。

 愚痴を言ったり聞いたりすることに、ここまで熱心に、真剣に悩む人も少ないかもしれない。
「愚痴ばかり言っているヤツがいてさぁ」と【誰かに愚痴ればいい】だけだ。
 あるいはそんな些事にかまける段階など、とうの昔に超越してしまった、人生の達人ばかりなのかもしれない。

 僕にはいずれでもかまわない。

「裏庭の穴」という仕組みが、僕や僕の身近な人に有用であるかぎり。

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 不快というのは、実際、有用なものだ。
 不快だから、人は道具を作り、それを使い、環境を整備する。
 不快を不快でなくするために、数々の発明がされた。
 発明は、簡単に見えるものも多いかもしれないが、不快だという不満を、不満のまま、愚痴って終わりにしていたら、到達できなかったことだろう。
 手動の灯油ポンプだって、手を汚さず、重い物を持ち上げる苦労から、誰か(母親だったか)を解放したいという一途な想いから生まれた製品だ。

 不快に思うこと、不快を共感すること、大いに結構ではないか。
 それを改善するために、僕たちには、ノーミソが備わっているのだ。

 だからがんばれボクは寝るぞ〜。



(うぬは天使か、眠りの使いか)





201125

 数ヶ月前、納屋で左官こてを見つけた。
「これで壁を塗れ」という、ネコノカミサマの啓示だろうか。3つも出てきた。

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 コロナウイルス騒ぎより数年も前から、僕は人混みを避ける傾向にある。
 行列に並ばない、渋滞する道路を使わない、混雑する場所に行かない。
 人混み酔いだけが原因ではない。時間が惜しいからだ。
 だから、人が集まる場所と時間を避けて、たとえば昼の飲食店ならアイドルタイムを狙うし、夜の飲食店ならピークタイム(20時の前後1〜2時間)を避ける。
 開店直後もよい。
 独りなのであるから、多数派のピークオフを狙えばいいだけである。

 自動車で走るのも、深夜や早朝がいい。
 電車も、ラッシュタイムはなるべく避けていた。
 
 同じ時間帯に人間たちは動き出し、同じ場所を目指して集まる。
 朝、昼、夜。だいたいピークのタイムベルトが存在する。
 小学生の頃から、これが嫌で仕方なかった。
 移動することが大嫌いだったのだ。

 だから、フレックスタイム制の会社に勤務していた時は、かなり有意義だったものの、もともとの性格が怠惰なので遅めにやって来て、早く帰ったりしていた。
 まぁ、あまり仕事を与えられない環境だったので、そこにある時間を(やはりというべきか)自由に使ってはいたが。

 給料泥棒といえなくもないことが、何度かあったように思う。
 僕は「8:2の法則」の、2割側をたいてい目指して行動するので、働きアリでいえば「ぜんぜん働かないタイプ」に属してしまう。

 一方で、そもそも給与に準拠して働く気になるタイプではないので、無給でも仕事が面白ければずーっと働いてしまったりする。
 経費請求できない道具を私費で購入したりするなんてこともよくあったし、会社からの電話を24時間365日転送される状況を5年ほどは続けていて「プライベートとオフィシャルの時間に区分がない労働環境」のほうがしっくりくる性質のようだ。

 これで几帳面な性格なら、独立しても間違いないと思うのだが、いかんせん几帳面さというものを理解できない。
 理解できないものは体現できないので、僕は独立して商売を始めると自滅すると自身を見積もっている。

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 ホームセンタに恐る恐る出かける。
 軽トラを買っておいて本当に良かった。じつによいタイミングではないか。

 幸い、思ったほどは人がいなかったので「手でも塗れるお手軽モルタル」的なモノを買う。
 バケツに入って8800円だったか。

 軽い気持ちで作業をした失敗を元に、注意点を。
(こんな注意書きが役に立つのは、僕自身をおいて他にはいないが)

◯ マスキングはきちんと四方にする。
(上部を省略したが、ダメである)
◯ 足元には新聞も使って養生する。
(その気がなくても、飛沫がこぼれた)
◯ 薄く伸ばすために、コテに小さく盛る必要はない。
(大きく取って、小さく塗り伸ばす)
◯ なめらかに均したりするには、壁材がこて面に付着している状態で行う。
(直線部、塗布物のない面、水や薄め剤のついた面は塗布物との摩擦係数の違いで壁材が付着する)
◯ 角の処理は最初にする。
(始末がむつかしいので、精進する)
◯ 水性と書いてあっても換気状態を作る。
(防塵防毒マスクを使う必要があった)
◯ 猫は乾くまでケージに入れておけ。

 土壁の上に塗ったのだが、今日は下地の硬化剤を塗っていない壁に直塗りした。重ね塗りが必要かは、様子を見ながら考えようと思う。
 直塗りが大丈夫なら、床間の壁と押し入れの壁面を改修できる。
 押し入れの作り付けの棚を壊したところ、セメントベースのモルタル壁内部にまで骨が及んでいた。
 骨をベースに棚を作ってから、モルタルで壁を塗り込め、その上から漆喰を塗ったようなのである。

 ために押し入れ内部は、部分的に ── しかしけっこう壊滅的に ── 損壊している。
 お手軽モルタルで塗り込めれば、まぁまぁ見られるようになるだろう、多分、きっと。そう思っておこう。

 一箇所(1900×900 ほどか)を塗ったら(今日もいい仕事をした)ような気持ちになってきたのでおしまいにする。
「何事も最初が肝心」というのは、最初にハイペースで進めればいいということではなくて、最初に全体のペースや空気感を掴むことが大事だという意味だろう。
(「太田市の高田純次を自称したい」と言っている人がこれを書いています)

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 少しだけ、モテの話を。
 モテが自動化するサイクルになり始めた時に危機感を覚えたのは「何でも ── あるいは誰でも ── ウェルカムにしてしまったら収拾がつかなくなるな」ということ。

 なので(まだモテもしないうちに)「美人で、アタマのいいガール限定」とした。
 年齢制限を設けなかったのは「自認できるアタマの良さ」というのはある程度の年齢に集約されると考えたからである。
 実のところ頭の良い人は、ただカタチが綺麗なだけの阿呆(失礼。)よりも、一緒にいるだけで気持ちがいいもので、これは年齢に関係がない。

 しかし「自分はそれなりにアタマがいい」という誤認まではフィルタできなかった。

 もちろん、ただただ多数にモテたいという戦略であれば、それでもよいのだろうし、そもそもそんな条件を設定する必要はない。

 新しい戦略として「特に条件は設定しないが、自身の情報の公開範囲を限定的にし、多数に追いかけられるタイプではないモテ(それ、モテっていうのか?)」というモデルを構想した。
 構想しただけで、体現できるとは思っていない。
 いかんせん、理解が追いつかない。
 理解できないものは、体現できない。

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 モルタルを塗るのに、僕はまだwebの情報を入手していない。
 とりあえず経験してみてから、調べたい。

 コンピュータやwebが好きで、それを好んで使う人にとっては意外なのかもしれないが、僕はコンピュータ(携帯端末含む)やwebを、単なる遊び道具としか見ていない。

 YouTube やweb上の実用系お役立ち情報なんて、半分くらいただの流行りものだと思っているし、あんなものをベースにして人生設計や資産運用やトラブル対処法なんてものを知った気分になっている人間は、有り体に言ってちょっとした白痴じゃないかと思っている。

 TVを見なくなって20年ほど経つし、新聞も同時期から読まなくなった。
 定期刊行物はときどき買うこともあるが、科学か経済系のものでさえ1年ほども読んでいると(結局ビジネスだなぁ)と思って辞めてしまう。

 日本で流行するのは昨今だとたいていがフィクションのストーリィだが、視覚情報のほうが優っているようで、爆発的に売れている小説なんて聞かなくなったし、ノンフィクションでさえ大した影響を世には与えていなさそうだ。
 本屋にいちばん多く並んでいるのは、コミックとライトノベルで、なんというか128番煎じみたいなありがちな設定をたくさんの人がシェアしてパイを分け合っているかのようにも思える。

 まあ確かに、ジャパニーズハーレム設定なんていうのは、リアルよりフィクションかヴァーチャルのほうが苦労がないぶん楽しいものね。

 いずれにしても、やってみてから調べる方が身につくもので、最終的に早いものだと僕は自分の体験上……いや、YouTubeで予習したほうが早かったものもあるなぁ。
(いつにない展開で唐突に終わる)



 考えているフリをしていても、寝てばかりの子は結局バカなのだよ。

2001123




(「多田くんは恋をしない」のオープニングテーマをオーイシさんが歌っていなかったら、知ることのなかった曲。いい曲だけれど、知らない幸せもあったのかな。多分)

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 四十九日である。

 母上は紫色の好きな人であったので、花屋で花を買い、届ける。
 藤色が好きだったのか、ヴィヴィッドなバイオレットを好んだかは、よく思い出せない。
 ただ記憶の中の母上は、鮮やかな紫色の服を纏っている。
 よく歌っている。
 髪が長くて線の細い、きれいなひとだった。

 どうやら納骨はせず、散骨にするらしい。
「母上は、寒いのが苦手だったからね」と長姉が言う。
 春までお骨はそのままらしい。
 ホネというのはオブジェクトだ。
 母上というのは、オブジェクトとは別のものとして記憶の中にあり、それは僕の一部の人格(仮想人格でいえば青猫β、実人格でいうと6歳までの僕の記憶)の中に残っている。
 あるいは、そこから復元される仮想人格を頼りにするよりない。

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 6歳までの僕と、8歳以降の僕には、明らかな断絶と乖離がある。
「8歳以降」に属している現在の僕は、だから、母上がいない世界に順応した僕である。
「6歳以前」の僕は、だから、母上のいない悲しみを知っている記憶群ではある。
 そしてそれらの一部は「β」として再構成され、僕という全体にシミュレートされ、フィードバックされている。
 これは趣味ではなくて、僕の生きる気力を構築するのに必要なことだ。

「6歳以前」(実人格であるため、ほかに形容のしようがない)は、当時自覚のあったとおりに無力である ── どうか6歳児に多くを求めないでほしい ── 。
 無力であるということは役に立たないということだ ── くれぐれも何かを求めないでほしい ── 。
 幼稚だし、感情的だし、無知である。
 理屈で納得してもらうことがむつかしいから、僕は彼(あるいは彼女)にはいつも手を焼いている。
 僕の記憶が統合されておらず、人格が分裂して表出するのであれば、一時記憶の根なし仮想人格と、記憶のすべてを制御している中核人格とに分かれるのだろうけれど、僕はそういうインタフェイスを「面倒だから」使わなかった。
 記憶を制御するというのは、その場で嘘をつくこととは根本的に違うものだから、疲れるのである。

 そんなことを脳がしでかせるのは、実環境のストレスが自身の耐性をよほど大きく上回る必要があるだろうし、少なくとも僕は、ストレスが低かったか、耐性が高かったか(どちらも同じことである)、人格の分裂はしなかった。

 ただ「6歳以前」は手が掛かり、役に立たない割に非常に重要な存在で、封殺したらしたで、僕自身の現行人格に破綻を来すことが予測される(あるいは確かにそういうことがあったため、僕の肩には傷がある)。
 分かりやすくアダルトチルドレンとして存在している(あるいはしていた)僕は「6歳以前」に名前を与え、自身で育ててケアし続けていて、今後もその必要がある。
 過去の自身を否定し、無視するなんてことは ── 親殺しのパラドクス同様 ── 事実に矛盾して、理屈も感情も制御できなくなってしまう気がする。
 僕のコンプレクスのなさは、僕によって人為された結果である。
『「6歳以前」と比較して』できることを増やしていった8歳の僕にとって、無力な彼は恰好の比較材料であっただろう。当の「6歳以前」の気持ちなど知らずに。

 子供の頃から子供が嫌いだったのは、おそらくその「役に立たない」という価値観のせいだ。
 けれどもやはり、ただ立ち止まって泣いているだけでは、現実は変わらない。
 悲しい、悔しい、憎いという感情のループの中にあって他人を悪者にしているだけでは、物事は良い方向には変わらない。

 だからあのとき、8歳の僕は、6歳までの僕の記憶と価値観のほとんどを ── 後年、家じゅうの写真をそうしたように ── 捨てたのだと思う。
 たぶん、そうしないと進めなかったのだろう。

 だからどちらも、僕は責める気にはならない。
 どちらも正しいし、どちらも間違っていないし、どちらの言い分も分かるし、いずれの対処も適切だ。

 ただ僕自身「6歳以前」で、感情がぷつと切れてしまっているから、エヴァンゲリオンの登場人物よろしく「こんなとき、どんな顔をすればいいのか分からないの」となる。
 誕生日のプレゼントなどが分かりやすい。
 笑えばいいのかもしれないが、別に嬉しくて笑うわけではない。
 お礼は言うけれど、そんなに本当に「ありがたい」ことで、なによりそう感じているのだろうか、僕は。

 あるいはもしかしたら、誰でもそうなのだろうか。疑問を抱きつつ、にこやかにはしゃいだりできるのだろうか。

 僕は悲しい時、苦痛や怒りを感じている時も笑ってしまいがちだ。
「6歳以前」と僕が繋がっていないと、僕はたいそうデタラメなインタフェイスで他人と接することになるように思う。
 ために引きこもる時があるし、メールの返信さえうまくできないことがあるし、この場を借りてどさくさに紛れて言い訳すると、コメントのリプライを「しない」期間がある。

 緊張したり、不安な時ほど、インタフェイスがデタラメになってしまうから、コミュニケーションで齟齬をきたす気がする。

「そんな言い方しなくても」とか「こう言ってくれればもっといいのに」と僕はIRLではよく人に伝えるが、web上ではダイレクトなやり取りをすることはほとんどないし、僕のコメントに違和感を覚えた人がいても、まず教えてはもらえない(違和感を覚えたら本当は教えて欲しいです)。

 だからある程度、自分のインタフェイスが正常だと感覚できないときはコメントしないように、数年前から方針を変えた。
(そうしたら「自分が正常だ」と感覚できることのなんと少ないこと……!!)

 そうした他人とのやりとりのためにも ── あるいはそのためにこそ ── 「6歳以前」とうまく繋がって、育てる必要があるのではある。
 僕が彼女(およびその感情)をないがしろにすると、他人の情緒というものが、ほとんど理解できないようになってしまうから。
 つまりそれは、僕が間接的に他者を蔑ろにすることになり、最終的に「こっち側」の僕に不利益(下品な言葉だね)をもたらす。
 ゆえに彼(あるいは彼女)と断絶して成長した僕は、それでも彼(あるいは彼女)を大切にし、時に甘やかして、時に叱って、いっしょにあれこれを楽しみ、いっしょにあれこれを悲しんで、いっしょにあれこれを怒り、いっしょにあれこれを考える。
 つまりは愛でる必要があり、愛でたいのでもある。

 だからといって、僕でもない他人に「6歳以前」を含む僕というパッケージを愛でよ、慈しめ、いたわり崇め奉れというのも乱暴な話である。
 そもそも彼(あるいは彼女)の記憶は、悲しみと痛みを最後に断絶されている。

 実母と一生のうちに2度も別れることは、多分(僕は今のところ「こっち」側なのでこうなる)稀有な経験であり辛く悲しく痛いことなのだろう。
 ひとたびはそれを越えて、独りでいることの気楽さ、独りで何もかもを制御する楽しさ、新しいことを身に付ける充実感によって自分を満たした。
 その価値は、理由と同義だった。
 他の誰かがいて、誰かに与えられるだけで満足していたら見つからない幸せだったからだ。

 一方で彼は、なんの能力もない段階の僕だ。
 感情に足を取られて転んで立ち上がれなくて、置き去りにされた存在だ。
 だから誰かに起こされたがっていて、誰かに抱き止められたがっていて、寒くて震えている。

 それなら僕が、彼女を抱き上げる。
 なぜといってその手を他人に伸ばすことを、彼も僕も、じつは本当に恐れている。

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 自己憐憫は、人を前に進めなくさせる。
 だから僕は、僕自身を憐れんではいけない。
 誰かが助けてくれる環境にある人は泣き叫べばいいだろうけれど、僕の場合は、あくまで僕の場合である ── だから。
 僕にとってそれは、子供の頃に自身の手で刻まれた傷跡だ。

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 しかし、つまりそれは僕が自身を憐憫しているところを誰にも目撃されず、あるいは仮にされても僕自身によって僕がぬくみを取り戻し、涙を流しながらでも立ち上がるきっかけになるのなら、自己憐憫してもよい、ということになるかもしれない。

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 だから僕は「6歳以前(あるいはβ)」と一緒に、歌って、悲しんで、涙を流して、新しい風景に驚いて、新しい工作に胸を躍らせて、猫たちとのコミュニケーションを楽しんで、いろいろな料理を味わって、自分の(まぁ、僕の、なのだけれど)身体を撫でて、ゲームやテクノロジィに未来を見る。

 実のところ、僕自身が学ぶことも多い。
 彼ら(あるいは彼女たち)は多感で、僕の想像しなかったリアクションが待っていたりするし、オトナになった僕が忘れている優しさや気遣いを見せてもくれる。

 僕は彼(あるいは彼女)とそれを体験し、僕がどう感じて、それがれどういう理由なのか説明する。
 彼(あるいは彼女)も、それを教えてくれる。

 それで僕の記憶が、少しスライドする。

 僕は孤独じゃなかったわけではないけれど、それは豊かだった。
 僕は寂しくなかったわけではないけれど、それで誰かを傷つけたりはしなかった。

 僕はひとりだったかもしれないけれど、ひとりだったわけではなかった。

 いつも記号かなにかの象徴のように、猫がいる。
 ボクの記憶は、猫に彩られている。

>>>

 それなら。
 もう少し、生きていられる。

 それなら。
 もう少し、自分を許せる。

 きっと誰かを傷つけるだけだから。
 自分の肩を抱く。
 僕は、僕自身さえ傷つけるかもしれない。
 傷を撫ぜて、そう思う。

 これは彼(彼女)が作った傷ではなくて。
 僕が作った傷だ。

 きっと無力なのは、僕の方だったのかもしれない。

 最初から。
 きっとそうだったのかもしれない。

我を崇め奉るがよいぞ。
我こそは森羅万象を司る「箱の中の必然と偶然、有象と無象、生と死、赤と緑とキツネとタヌキを分かつ者 ── ネコノカミサマ」なるや。

いいえ、あなたはただの猫です。


201121

 最近あまり、ゲームをしている時間がない。
 いや、時間ならある。
 たぶん自由な時間の潤沢さにかけて、僕は平均的な人よりも格別に裕福である。

 しかし目覚めて部屋のリフォーム作業をして、解体したり掃除をしたり、廃材を焼却炉で燃やしていると、あっという間に半日が過ぎる。
 汚れてしまったらシャワーを浴びる。
 ときどき事務処理がある。
 疲れると昼寝をする。
 体力と気力があればワークアウトをする。
 晩ごはんを作るときは週の半分くらいである。
 いずれにしても貴重な一食だ。味わって食べる。
 眠くなって寝てしまう。

 これである。
 結果として、ゲームが進まない。
 もっともシーケンシャルにストーリィが進捗するようなゲームを好まないので、進まないというよりは、ゲームの世界に遊んでいないのである。

>>>

 今日は個人的な音楽の話。

 大石昌良さんのことを知ったのは「けものフレンズ(第一期)」がきっかけだったが「けものフレンズ」を見たのもかなり一般から遅れて、全話放送が終了する頃だった。
(いかんせんTVに繋ぐアンテナケーブルを持っていないので、TVを見る機会が5年ほど、ほぼなかったため、ネットで見る必要があった)

 第一話のCGのひどさには苦笑したが、次第に好きになった。
 何の気無しに聴いていたオープニング曲が、じわじわとボディブロウのように世界を表現してゆく。
 気がつけば歌えるようになっていて(なんだかいい歌詞だなぁ)とさえ思うようになっていた。
 最終話のオープニングの挿入の仕方など、第一話と同じスタッフが手掛けたとは思えないほどだ。

 ギターで弾けたら楽しいだろうなぁ、と大石さんが弾き語る動画を見て(こらアカン)と諦めた。
 何事も諦めが肝心だ。

 そのあとは、あまり気にしていなかったのだけれど、ふとしたきっかけで「トライアングル」を聴いてびっくりした。
 ギターでこんな演奏ができるのか! これができたら楽しいだろうなぁ、と思いつつ(さすがにこらアカン)と諦めた。諦めは肝心だ。

(間奏を見て言葉を失った)


 スレスレでも弾けそうなのはないかなぁ、と思って見つけたのが、演奏解説動画の見つかった「君じゃなきゃダメみたい」である。未だに間奏まで辿り着かないままおわってしまう。1番歌えればいいじゃない? 的な。
 少し弾けるようになってから、アニメも見た。
 めっちゃ面白かった。
(感想文が小学生)


(イントロが満足に弾けるまで、半年かかった)



 それで、大石昌良さんのことをどう思っていたかと言うと、この時点でなお、どうも思っていなかった。
 アーティスト。音楽クリエイタ。ギタリスト。
 才能と運に恵まれ、高い表現力で現実世界にモノを生み出す努力を惜しまず、多くのファンに認められて、作った作品で経済的自立をしている人。

 それだけだ。
 楽曲は好きだとしても、技術に憧れたとしても、僕にとってはどうでもいい、ただのアーティストでしかなかった。

 しかし、ずっと(退屈そう)という理由で敬遠していた「ピエロ」という曲を聴いて、涙が溢れるくらい驚いた。
 こんなに楽しそうに歌う人は、歌が大好きな人なのだ、と思って嬉しくなった。

(どこがアドリブか分からない)


(おなじみのメンバー紹介が楽しい)

 以来、大石昌良さんの曲は、カバーも含めて聴いてしまう。いい声だ。
 僕自身のギターの技術なんてどうだっていい。
 楽しく弾けて歌えればそれでいいんだ、と思った。
(どうせ誰にも見せないし、聴かせないのだから)

 昨今、結婚したと聞いたとき、古い友人の結婚の話を聞いた時より嬉しく思った。
 僕は立派なファンである。

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 さりとて、ギターの練習もしばらくしていない。
 3日していないと1ヶ月前のレベルに戻ってしまう。
 1ヶ月弾かなければ1年前だ。

 リフォームは楽しいが、たまにはギターも弾こう。
 阿呆みたいに難しいけれど、だから余計に弾くことも歌うことも楽しい曲が、たくさんあるのだから。



(アヲはときどき、運転中の私と一緒に歌ってくれる)

201120

 姉に誘われたので、猫を連れて家に泊まりにゆく。
 その帰りの今日、エンジン不調で車が止まった。
 道半ば、13kmほどを残しての国道上である。
 ボンネットの隙間から煙が上がり始めたので歩道をまたいで駐車できる場所に停止したところ、エンジンルームから破裂音(バッテリィかな?)もしたので、猫を連れて外に逃げ、保険会社のレッカーサービスを手配する。

 しばらくして、煙が収まったので荷物を外に出し、弟子に電話したものの、出ない(レッカーは、人は運べないので別途手配を要する)。
 BP(古い友人である)は運送業なので、声をかけずにおく。
 TU(古い友人である)が犬の散歩をしていたので、迎えを頼む。

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 困った時に他人を頼ったことがほとんどない。
 子供の頃からそうだ。
 親は仕事に忙しく、ときに障害があり、入院していることも多く、ある時期からうちは貧しかったからお金のことも自力でなんとかする習慣がついた。
 姉たちは家を出て、それぞれに暮らしていたから、頼る対象ではなかったし、恋人が何かのあてになった試しはないし、妹などは論外である。
 というのが僕のこれまでの人生である。

 僕は家事を覚え、仕事を覚え、経済的自立の手段を身に付け、自律した生活拠点を構築する術を学んだ。
 高校へは奨学金を使って入学したし、実家を出るときは金銭面も自分だけで手配した。(当時の恋人にお金をもらった事実はあるが)

 骨折して半年ほど休職して、生活が立ち行かない寸前の経験もしたが、死ぬことはなかったし、そのときも親を頼ることはなかった(実のところ、父親にお金を貸していたので、とくに金銭面ではアテにしてはいけないと思っていた)。

 これはなにも、僕がそれだけ苦労したということをアピールしたいわけではない(だから恋人にお金を貰った事実も書いている)し、僕以外の恵まれている(?)人のことをとやかく言いたいわけでもない。
 他人は他人、自分は自分である。
 ただたまたま、僕はそうやって他人を頼らない選択をしてきたし、逆に言えば、他人を頼るのがとても下手である。

 たまたま保険の仕事をしていたので、自動車事故にも慣れているし、いつ壊れてもおかしくない車に好んで乗っているので、この程度の機械的トラブルも慣れている。
 メカニクスやエレクトロニクス、ソフトウェアにいたるまで、テクノロジィへのアレルギィもないので、この程度のことで驚く必要も感じない。
 電気やガスや水道が止まっても、なんとも思わないのは、誰も頼らず生活していた日々に身についた図太さだが、こういうのは身に付かない方が上品でいられるとも思う反面、同時に、そうしたライフラインの停止によって鬱になって死んでしまう人がいるとして、その気持ちもよく分かるから、よかったようにも思う。

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 トラブルと名のつくものの大半は、客観的にはさほどでもない、というのが経験上の見立てだ。
 トラブルというのは、それが起こるもっと前に兆候があり、その時点で対処していれば未然に防げることが多い。
 今回も例に漏れず、しばらく前にエンジン警告灯が点灯したことがあったのだが、しばらくしたら消えてしまい、それ以外に不調もなかった ── 何よりそんなことはそれこそ頻繁にあることな ── ので乗り続けていたのだ。

 エンジンの異音が聞こえてきた時も(まだダマしならが乗れるかな?)と考えていたくらいである。
 結果、煙が出てきたわけだけれど。

 初めてで、対処や連絡先も分からないと困る人も多いだろう。
 保険会社の緊急時の連絡先を、WEBサイトなどで確認することさえ思いつかない人もいるし、加入している保険会社すら思い出せない(あるいは全く知らない)人もいるはずだ。

 レッカーを待ちながら、ケージの中で不安そうにする猫たちと話しながら、煙草を吸って時間を潰す。
 TUも捕まらなかったら妹に連絡して、それもダメならタクシーを拾おうと考えていた。
 タクシーを最後の選択肢にしたのは、単純に、猫と同行する交渉を想像して嫌になったためである。
 友人も、頼れる姉妹も少ない上、頼りになる恋人は見たことがないし、親もいない。

 ただし仕事もなければ、家族もいないので、重たい猫どもを持って(アヲは肩に乗るので多少はラクだが)歩いて帰っても問題はない。
 翌日、いつもより激しく疲れているだけだろう。

>>>

 僕が苦手とするトラブルというのは、やはり対人関係である。
 他人の常識というのは、慣習も含めて理解できることが多い。
 しかしときどき、どうにも分からない人がいる。
 特に「昨日言っていたことと、今日していることの関連性が不明」というタイプに多い。
 僕自身、額面上、そのように公言している。
「昨日と今日とで、言っていることが一貫している方がおかしい」とまで言うこともある。

 しかし他人に対しては、なるべく、インタフェイスを一貫させておいた方がコミュニケーションには便利で、有利に働く。
 だから最初から「ワタクシはネコですしヘンナイキモノですし、ガールと見れば押し倒しますし、昨日と今日で言っていることが違うタイプです」と宣言する。
 あとの評価なんて、勝手にさせておけば良いのだ。

 しかし他人の多くは「自分は一貫している」ということを正義だとするあまり、矛盾し始めて、怒り出す ── いわゆる逆ギレというものをする ── 人がいる。
 自分が正しいとされる場所にいないと気が済まない上、事態が自分の思うようでないと気が済まない。
 こういうタイプは挙げ句の果て、他人まで巻き込んでジャッジをさせるのだが、お金で雇える弁護士だって財布を持っている人の味方をするものであるから、推して知るべしである。

 僕は自分が正しくない場所にいることについては特に抵抗がない。
 自分が一貫しないことについては最初から宣言してある(そんなことは、流動的な環境を生きる上で当たり前のことではないか)。
 自分の欲(あるいは理想だとか目標だとか)を満たす上で、他人からどう評価されるかは、最初は気にしない。

 結果として、衝突する他者は「私が正しいから従え」となり、僕は「理にかなわないから従えない」となる。
 相手の欲はたいていその時点でスライドしていて、当初掲げていた問題の解決ではなく、立場の違いからくる「正しさ争い」を軸にしてしまう。
 もちろん、表向きだけでも従っておけば問題のないことの方が多いのだけれど、ときどき、そこで譲ると相手も自分も自滅する選択を相手が突きつけてくることもある。

 抽象的でわかりにくいというなら、少々生臭い話になるが、パワハラやセクハラと呼ばれる現象がそうだろう。
 最初からそうだったのかは分からないが、欲求の軸がズレて、それを無理やりねじ伏せるだけの欲の強さを持つ方が、一方的にねじ伏せにかかってくる。
 大人数でやれば、リンチや輪姦である。

 相手も含めてお互いに、本当にそんなことを望んでいるの? と、問いただしたいものだが、限られた空間や人間関係の枠の中で、強い人間は自分の欲に正しさの皮を被せて、聖人ヅラして他人を喰いものにするのだ。嗚呼オソロシイ。

 僕は自身をケダモノだと思っているからこそ、正しい側に自分を無理やり置きたくないし、他者と衝突しそうな時はなるべく譲ってしまいたい。
 ただセクハラやパワハラを受けそうになったとき、自分や相手を守る最適な方法は「受けて黙っていること」ではなくて「抵抗してでも受けないようにすること」だろうし、そのためにこそ力は使われるべきだろうとは思う。

>>>

 幸い、僕はたいていの場所で、たいていの場合において、トラブルに巻き込まれない。
 カツアゲにも遭わないし、オヤジ狩りに遭う前にそんな文化は廃れたし、金銭的トラブルについても対処する術を身につけたし、パワハラやセクハラもたいていは何とも思わないし、思った頃には対処できるようになった。
 ガールについても「狂人」タイプは見分けがつくようになったと思う。

 それでも、一貫しない相手の欲のメカニズムを解析するのは(スクランブルされた情報のように)簡単ではなくて、手間の割に得るものは「今までと変わりがない日常」でしかない。
 もちろん、それが脅かされるならあらゆる手を打つ必要もあるとはいえるが、負けたところで尻尾の1本を引きちぎられるくらいだとしたら考えてしまう。

  さて、この尻尾1本のある日常と、ない日常、尻尾1本を賭して守るべきなのか、それとも大人しく譲って仕舞ったほうがよいのか ── と。

>>>

 機械が壊れて煙を出している。
 眠る場所に戻れないかもしれない。
 今日は猫と凍えながら、歩き詰めるかもしれない。
 それがどんな苦労で、トラブルで、パニックすべきほどのものなのか、僕には見当もつかない。

 なんでもないことではないか。
 自分の尻尾1本守るだけのために、単身、他人の尻尾をむしり取ることを思えば。
 まして自分の尻尾はまだ6本も残っているというのに、相手のそれは1本しかないともなれば。

 あるいは私も最後の1本になれば、躍起になるのか。
 あるいは彼らも最初は、9本の美しい尻尾をたくわえていたのか。

>>>

 十数年ぶりに、TUと数時間話す。
 だいたい僕は裏庭の穴のような存在なので、彼の愚痴を聞く。
 心のシャウト、ソウルの叫び、すなわちそれは、公言できない秘密や行き場のない悩みだ。
 僕はそれを、いつものとおり穴に放り込んで、それをダレカが咀嚼してしまうから、僕には何も残らない。

 そしてみな、オトナになってゆくのだ。

 僕だけずっと、コドモみたいだ。

 あんなに僕は ── いや今だって僕は ── オトナになりたかったのに。

ひなたのふたり。







追伸。

 ネコノカミサマ ── 。
 ボクの尻尾は、少しは本数が回復したのでしょうか。
 それともこれを失えば、ボクはオトナになれるのでしょうか。

201115

 春頃から、NaClO(次亜塩素酸ナトリウム)水溶液 500ppm と 1000ppm をスプレーボトルに入れて使用している。
 NaClOは、いわゆる「塩素系漂白剤」の主成分である。
 500ppm は布類を浸漬し漂白/殺菌したり、お風呂を出てから床面やパッキンに使っている。
 当然ながら相応の毒性があるので、500ppm といえども雑に扱うととんでもない事故を起こす。

 1000ppm はトイレ掃除用である。

 500ppm 水溶液に強アルカリ洗剤(マジックリン)的なものを5%ほど混合した界面活性強化版も作ったが、樹脂パーツ(たとえば外したエアコンフィルタ)に噴霧し洗浄殺菌したりはするが、毒性も高いので相応に(ゴーグルやマスクやビニル手袋などで)防護し、風呂場で換気しながらでないと使えない。

 薄い溶液なので匂いもわずかであり、アルカリによる皮膚の溶解も起こったように感じないのだが、表皮の常在菌を殺菌し、皮脂が分解され、数分で表皮はバサバサのボロボロになる。
 これが粘膜に付着すれば、ただではすまないことは想像に難くないはずなので、試す人は良く勉強してからにしてほしい。

>>>

 実のところ、不織布マスクの洗浄には、界面活性強化版を利用していた。
 マスクはもはや品薄では無くなったが、洗って使うのは斬新で、かつ便利だった。
 どのみち僕は買い物に出かけたときの数十分くらいしかマスクをしないから、その都度捨ててしまうのはいささか勿体ない気がしてしまう。
 しかしマスクを「明日も使おう」と置いていても、捨ててしまったり、取り置いたことを忘れてしまう。
 だから、マスク専用洗濯かごを用意し、1週間分くらい溜まったらまとめて洗っていた。
 なに浸漬させてしばらく置いて、数回、よくすすぐだけである。ただし万全の防御体制で。

 新しい不織布マスクを買ったものの、どうも使い捨てる気にならなくなってしまった。
 たいした額ではないことも分かる。
 しかし洗えばいいし、微々たる金額だがランニングコストは安くなる(ゴム手袋が使い捨てでないなら)。

 それに不織布の材料は樹脂のものも多いような気がする。
 買い物袋に神経質になったはずの社会が、樹脂製マスクを使い捨てるのは、少々滑稽だ。
 個人的には、イルカが死のうがウミガメが死のうが知ったことではない。
 長期的に考えればすべてのイルカとウミガメは死に、滅亡する。
 長期的に考えて僕が死に、人類が滅亡するのと同じであり、それがかなり先になるか、それよりやや手前になるか程度の差でしかないだろう。
 
 しかし長期的に環境を維持する目的で僕らがマイバッグなるものを持ち歩いて(あるいは僕のように樹脂製の買い物カゴをいくつか重ねて自動車内に常備して)いるのだから、他人はともあれ、僕は今後も洗って使えばいいや、という結論に到達した。

 もちろん他人に勧める気はない。
 次亜塩素酸ナトリウム水溶液を正しく扱える知識や経験が必要だし、1日に何時間もマスクを着用している人は少なからずいるだろう。
 自分がどうするかは自分で決めればいいし、他人がどうするかは他人が決める。当たり前のことだ。

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 ひと月ほどの引越し生活は、目覚めると天井が入れ替わり、その日の夜には別の部屋で寝ていたので、存外消耗した。
 アヲ以外の猫たちは太田の家に置いたままにしていた(だから毎日、行き来が必要だった)ので、ずいぶん疎遠になってしまった。
 太田に戻っても、僕は家の中の片付けや、納屋での作業に明け暮れていたからだ。

 しつけというのは、ふだんから一緒にいる相手からでなければ意味を成さない。
 前橋に行くときも3匹を連れて(とんでもなく重いガールたちである)行って、なるべく一緒に過ごしているうち、誰が主人か思い出したようだ。



 畳の上に粗相をしたため一緒に入浴中のゴマ。私の長風呂に付き合って、60分は湯に浸かっていた。
 ちなみに、アヲは風呂嫌いに育った。

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 今、私は湯船の中にいる。
 風呂から出たら、今日も湯豆腐を食べる。






201111

 寒い。
 晩秋なのであろうけれど、もう冬を迎えたような気持ちになっていて、湯豆腐を毎晩のように食べている。

 大豆製品はだいたい好きだけれど、特に豆腐は好きである。子供の頃から好きだったし、大人になった今でも、数日豆腐を食べないと、飢えてしまう。

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 昨日軽トラに乗って、アパートまで行き、今日帰ってきた。
 猫と乗るにも狭いコックピットであるが、車を含めた操縦席は狭い方が好きである。
 広々、のびのび、なんていうものは客室スペースにこそ必要ではあるだろうけれど、操縦者というのはそもそも搭乗客ではない。
 そのあたりを混同したような自動車が当たり前に普及したのが総中流階級社会だったのだろう。
 しかしお客様気分で操縦されてしまっては、本当は困る。
 わがままなど許されず、細心の注意を払い、規則やルールを守って、他の人を気遣い、目的地まで移動(移送)するのが、運転士の責務である。
 お客様気分で我が物顔にしたい人は、運転手を雇うか、せめてタクシーに乗るのが良いだろう。

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 床の間の改修作業を最初にすることにした。
 そもそも床の間に客を招く設えとはいえない気がするし、床の間に招く客もおらず、床の間のしゃちほこばった作法なんて、誰も知らないように思うのだ。
 だから仮眠室兼クローゼットとして使うことにした。
 その北は収納の多い部屋で、叔母が寝室にしていたのだが、書斎的なものにしてしまおうと思う。
 室内のタンスやクローゼットを解体したので、土壁に凝固剤を塗って、塗装可能な硬度を持たせた。
 事務用の書類キャビネットを置こうと思っていたのだが、クローゼットスペースの上にある戸袋が邪魔をして、壁面に付けられない。
 仕方ないので、テレビと冷蔵庫を置いて、ベッドとファンヒータを配置した。
 ベッドは叔母の使っていたシングルサイズなのだが、天蓋付ベッドを自作する予定なので、それまではテキトーな半キャンプ生活(なにせ外気と屋内温度の差が少ないのである)を続けるつもりだ。

 床の間は土壁を硬化させ、畳を剥がして断熱材を挟み、板張りにする予定。
 最近の賃貸住宅によく見る、クッション材とコンプレックスになっているフローリング材が欲しいが、ホームセンタに売っているだろうか。

 壁面はモルタルが割れていたり、材木が汚れていたりする部分もあるので、適宜、シールしておこうと思う。また楽器を鳴らすのに気を遣わず済むよう、防音材を使って壁面を加工するつもりである。

 押し入れの中には作り付けの棚が(安い木材や合板を、よりにもよって無垢のまま釘付けにして)あるので、これらの棚板も原則として解体する予定。
 棚の下部には同様に、無垢材のタンス様の引き出しがあるのだが、奥とサイドにデッドスペースがあり、掃除もできない。床や壁材が痛んで虫でも繁殖していたら(してしまったら、ではなく、現在進行形である。過去形になっている可能性さえある)困るので、これも解体予定。

 掛け軸の前に壺やら人形やらがごろごろと置かれていて、目障りなので処分した。
 壺や人形や掛け軸が悪いというわけではない。
 あまり興味のない分野だが、和の設えに、重複する装飾品があるのはどうも落ち着かない。
 たとえば掛け軸の脇に壺があるのはいい。
 最悪、床間の隅に控えめな「こけし」くらいはあっても許せなくはない。
 ── 茶道の文化では確か、人と顔を合わせる場所に、顔を持つもの(絵画でも彫刻でも)を置くことは、やはり重複による不気味さを生むので、よくないこととされている気がする。

 とにかく考えなしに作られ、使われた建物と装飾品は、ひどく僕を落ち着かない気持ちにさせる。

>>>

 設計(英訳ではデザイン)という行為は、ゴールから現在点までを繋ぐものである。
 だから設計図とは、どのような材質の、どの様な寸法のものを、どのように配置/接続するかを無から完成に向けて示す図面であり、主として、他者との情報共有のために引かれる。
 複数の人間が関わる大きな構造物などには欠かせないものだろうし、個人工作でも、あらかじめ設計検討しておけば、オブジェクト同士の干渉や可動部に掛かる力などを想定することができるから、特に可動型のモノを作る際には必須であるといっていいだろう。

 作る人間からすると、それでも図面というのは ── 文字の書き方まで厳密に決まっているのに ── 往々にして不親切である。
 それはそのまま、人間どうしのコミュニケーションにも当てはまるだろう。
 自分のアタマの中の理想なんて、カタチを持つモノであってさえバカには伝わらない。

 バカに合わせて、図面(あるいはコミュニケーション)の質を落としてもいいだろうけれど、当初作りたかったモノはできないし、伝えたいことも伝わらない。
 別に僕が孤独なのは天才であるせいだ、とは思わない。
 孤独がイヤなら馬鹿のフリをすれば友達はいくらでもできるし、天才ならば馬鹿のフリくらい苦もなくするものだと思うからである。

 僕がいいたいのは、図面を読む人たちは、図面が描く完成形をイメージできない人も多いということである。
 図面の通りにゼロから作れば、モノは完成するかもしれない(そう簡単なものではないが)。

 しかし設計者はアプローチが違う。
 完成形をイメージして ── 本来抽象的なはずの機能を満たす「カタチ」を嫌になってなお詳細に、具体的にイメージして ── それを現実世界の実存に置き換える道を敷くのだ。
 だから設計者にとっていちばん大事なのは、抽象的なイメージをより具体的にカタチにする能力だろう。
 一方で発明家というのは、抽象的なイメージをどこまでも膨らませる能力が重要だと思う。

 これらに明確な境界はない。
 職業設計士でも、ただのパタンナの人もいればデザイナの人もいるだろう。
 むしろ職業にしていると余計に、抽象的なイメージを膨らませることがむつかしくなる。
 コストや人間関係が、営利組織にはあるからだ。
 この場合、お客様のクレームというのがもっとも優れた「抽象的なイメージ」となる。
 理想とするものが掴みやすいだろう。

 個人の場合は、利益も人間関係もさほど影響を与えない。
 だから僕のように、わがままな理想を大事に育てることもできる。

「これは不便だ」という不満を大事に抱えて「こうなら便利なのに」という理想をイメージする。
 設計の最たる仕事はこの、本来のゴールであるはずの「理想をイメージすること」だと思うし、すなわちそれは設計というよりは発明に寄ったもののようにも思える。

 僕がモテようとしてしていたことは、つまりそういうことなのである。
 ゴールのイメージがあって、それに合わせてデザインをして、若干の試行錯誤をしつつ、現実を具体的に操作/調節する。
 その中には僕自身の思考や習慣も含まれるから、必然に、僕はモテという理想をカタチにすることになる。

 オカネモチーも同様で、小賢しい財テク(この言葉の昭和感よ)的な情報を勉強するなんてことはしないで、ざっくり漠然としたイメージであった「自分のなりたいオカネモチー」のイメージを膨らませて、考えと行動を変えた。
 言葉遣いを変え、姿勢や表情を変え、オカネモチーの思考を想像し、その習慣に思いを巡らせた。
 オカネモチーになった僕は、どう考えて、どう行動するかと考えて、そのように変容した。

 そんなことで理想が現実になるとは僕もあまり信じていない。
 しかしなぜ僕がモテたり、オカネモチーになったのかを考えると、やはりその「ゴールとしての理想から現実に落とし込んでゆく設計プロセス」そのものにあるような気がするのである。
 
 もちろんがむしゃらに働いて賃金を貯めてもいいとは思う。
 しかしオカネモチーになることを(しかも、なんとなく思いつきで)決めた当時の僕は、ほぼ40代だったし、10年以上勤めた会社を辞めた直後だったから、そこから労働者として大成するのは、やはり現実的とはいえないだろう。

 これはたとえば、平面の迷路のようなものだ。

 スタートからゴールに向かうと迷いやすいが、ゴールからスタートを目指したら、簡単にクリアできた経験はないだろうか。
 スタートから「ゴールを目指そう」とすればするほど、迷路を作る人が仕掛けた危うげな罠に掛かってしまう。
 ゴールからスタートまでの筋道を知ってしまえば、おぼつかないながらもより早くスタートからたどり着けるようになるし、なにより、ゴールからスタートに目指すための罠は、驚くほど少ない。

 設計図なしで現物合わせの工作だって楽しいが、設計図を引く楽しさもあるということだ。
(ときどき設計図を描いたことで満足してしまうことがあるが)

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 誰か(たとえばネコノカミサマ)に何か願った覚えはないが、Apple 社が、新しいPCを発表した。
 いずれマルチプロセッサの Mac Pro を発表するのかもしれないが、もう僕の Mac Pro は息も絶え絶えで、それでも尽くしてくれようと頑張っている姿を見ていると忍びなくて、とりあえず MacBook Pro を注文した。
 冗談ではなく本気で、僕は僕のために尽くす道具については絶対的な信頼と愛情を寄せる。
 だから同じ型の Mac Pro(当時はそれなりに高かったものだ)が2台に増えている。
 人間を、いいように道具使いして用が済むと捨てる人間もいる。僕が誰かをとやかく言う資格はないのかもしれないが、そういうことは、やはり、しないほうがいい。

 何がといって、捨ててしまうのは良くない。
 道具然とした人間がたくさんいても、それが当人の誇りであることだってある。
 誰かのために能力を発揮できることのヨロコビを、有能な人間なら無能な者に数倍して体感しているものではないだろうか。

 いえ、べつに、その、恋人をまた27人くらい(あるいは256人くらいまで)増やそうとか、そういう話のイメージをして言い訳をしているわけではないのですよ、本当に、本当ですってば!

 嘘じゃないモン。

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 ノートPCは好きではない。

 しかし仮眠室のあとは、書斎の改修作業があるのだ。
 それまでこの家には机もない(床より先に机を作るわけにもいかない)から、デスクトップPCを使える環境が整うのはまだ先になりそうなのだ。

 しかし納屋には作業台と道具用テーブルができたので、作業環境はますます良くなっている。
 断熱材や内壁を設えれば、中で暮らすことだってできるだろう。

 まぁ、僕が死ぬまでに完成するといいなぁ。

201110

 引越しである。
 L字のベランダから赤城山がよく見える。
 昼な夕なにベランダでシガーや酒を喫んだものだ。

 とにかくベランダに惹かれて入居を決めたから思い入れは格別で、ベランダに関しては間違いなく太田の家より前橋のマンションに軍配が上がる。


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 僕は無宗教、あるいは多宗教もしくは独自宗教の持ち主で、僕のいくつかの価値観セット(仮想人格)に応じて信奉しているものは異なる。
「ネコノカミサマ」なるものが宇宙の箱の中に(多分)いるという「ネコノカミサマ教」への信仰がいずれの人格でも厚い。

 とくに「銀猫」と名付けられた仮想人格はその宗教のシャーマンじみたことをすることがあり、満月の深夜に月光浴をしながらトーフを捧げたりすることで有名だ(※初出の情報であり、真偽は分かりません)。
「ネコノカミサマ」のいる宇宙の箱の中ではありとあらゆる可能性が重なった状態で存在していて「ネコノカミサマ」は、気まぐれにその中でナニカをして、我々の現実世界にイタズラを起こす。
 結果として僕はヒトの人形を被せられ、時にモテになり、時に有能な会社員になり、時に無職の不労所得者になるが、実は世界の全てはネコである。

 そう。これを読んでいる君も。

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 真面目な話 ── いやなに、ここまでだってずいぶん真面目な話なのだけれど ── 人間には宗教が必要だと僕は思っている。
 ときどきそのことを話すと疑問が返ってくる。
「なぜ人間に宗教(あるいは信仰)が必要なのでしょう」と。
 そのたびに僕は僕の中にある、曖昧で抽象的な「必要性」を話してきたが、今回はそれを明文化しようと思ったわけであり、完全に他者へのサービスである。

 ところで高度な思考というものは、記憶と思考がセットになって物事の判断/処理をするシステムであり、思考というものは取りも直さず「何かを信じること」によって構成され「今後信じる何か」を構成し続ける。
 ために人は齢を重ねるごと、経験による価値観の固着をより強固なものにしてゆく。
 個人的な経験則から単純に結果を観察して ── 場合によって認識を歪めてでも ── 「自分の考えたことはやはり正しかった」という結論を導く。

 たとえば記憶というのは実体を持たない単なる情報である。
 もちろん目の前でガラスのコップを落として割れば、ガラスの破片が残る。
 しかしそれらを片付けてゴミの日に出してしまったら、もうその破片はない。
 だから「そこに破片があったこと」も「ガラスのコップがあったこと」も、記憶の中にしかなくなってしまう。そしてそれは実態がないのにもかかわらず「実在した」と思考によって認識される。
 果たしてガラスのコップは【最初からあった】のだろうか。そして本当に、割れて破片ができて、片付けてしまったのだろうか。
 観察者が自分しかいないとき、果たして実存は、いつから実存していて、いつから単なる記憶の中の情報になったのだろう。
 今これを読んでいる感覚が、夢の中ではないと、いったい誰に言えるのだろう。

 他に観察者がいれば、相互の記憶を参照しながら事実確認もできるが、僕のように生まれてこのかた3/4くらいの時間をひとりで過ごし、そのうちの1/2くらいは眠っているイキモノにとって、どれだけ思考の中で検証しようとも、そこにあった事実や実態の信憑性は(僕自身にとってすら)さほど高いとはいえない。

 しかしその、夢か現か定かではないところの記憶によってしか、思考は価値判断の基準を作ることができない。
 僕のように「都合よく物事を忘れ」「都合よく記憶を捏造し」「都合よく記憶の解釈をねじ曲げる」イキモノにとってすら ── あるいはそういうイキモノだからこそ ── 他者も確認している事実や真実を捻じ曲げたり、自身の持つ価値判断の基準を歪めることはできない。
 たまに価値判断の基準そのものが定まらず、きわめて短い時間や環境や他者の変化に影響を受ける人もいるが、基準の構造がそれだけ弱いか、本人の立場が弱いか、記憶の構造が弱い(いわゆる本格的な多重人格)かであろう。
 強い基準は結局のところ、それを作る記憶に拠らず、他の強い基準に歪められることなく結合できるだけの力を持つからだ。
 そこに至って記憶は、およそその役割を果たす。

 本人にとってはデタラメなことを言って、デタラメなことをして、デタラメに記憶していても、出てくる言葉や行動が自分や他人や状況に最適であれば、観察される事実としては「まともな人」になる。
 僕はたいていの場合、他の多くの人より「まともな人」として観察されるようだが、青猫工場ではこのとおり、僕のアタマの中のデタラメさを垂れ流しているから汚染に気をつけよう。
 賠償責任は負いませんよ?

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 記憶が価値観になり、価値観が基準を形づくり、基準によって思考が処理し、その結果が記憶にフィードバックするのは今までも何度となく説明したとおり。
 だいたいの人はこのプロセスで人格ベースの情報処理をしていると思う(違う人がいる場合は、恥ずかしがらずに教えてほしい。これはあくまで僕自身をモデルにした解析結果であって、なべて等しくすべての人がこんなプロセスを経ている事実も、確証も、ないのであるから)。

 思考は、そのとき参照する基準がなぜ適切で、その判断の結果が最適であると思うのだろう。
 つまり価値判断の基準の認証を、思考の最中に人はしているのか、ということだ。

 結論からいえば、そんな面倒なことはしない。
 判断基準を認証するとはすなわち記憶の中の事実(因果関係から抽出された抽象)を再確認することであって「基準を認証→認証適否のための基準を参照→基準を認証→」と、ループしてしまう。

 このループを止めるアンカ(留め金)の役目を果たすのが「信じる」という感覚ではないだろうか。
 信じているから「適切である」という前提を与えて、認証を省略する。
 だからたいていの人は、自身の判断基準を利用するのに検証や想定外の可能性について考える手順を省略する/できる/してしまう。
(じつのところ10代の頃の僕はこれができなくて、感情の認識や表現にすら、かなりの時間を要した)

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 科学(およそ完全に再現可能な因果関係の法則)や経済(およそ完全に現実世界での互換性を持つツール)を信仰する人は多い。
 ボクはたびたびそれを揶揄する。
 科学とはそれを観察している者自身も含まれる事象の総体から成り立っている。
 経済とはそれ自体、人間が作り、現在も改変と操作を続けている道具である。

 いずれも人間の認識が介在しがちであり、経済にいたっては単なる道具であるから、そもそも信仰するに値しないのである。

 しかしそれでも、現実世界の中で人は思考し、判断する必要がある。
 判断にあたっては基準が必要である。
 基準には価値が必要で、価値には記憶が介在し、自分だけではない人間の承認、せめて容認を必要とするのである。あるいは共感といってもいい。

 だから歴史の中で、人間は知識を承継し、文化は社会で成長した。
 今やいかなる理由でも(経済のためであれ、戦争のためであれ、あるいは法を犯した者への処罰であれ)人を殺すことは許されないことではないかとされ、最低でも議論の対象になる。実態はともあれ、倫理という「人間の良心の基準」の上で、それは避けられないことである。

 しかし、それまでの経験にない、あるいはその応用でも適用できそうにない新しい状況に直面する時、人はどのように判断するだろう。
 ── 可能なら思い出して欲しいのだけれど ── 子供の頃はことさらそういう場面が多かったはずで、親切丁寧なオトナたちがあれこれ指図してくれない環境であれば必然に、都度都度、立ち止まって観察から始める必要があったはずだ。

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 大人になると「これまでの経験(蓄積された記憶)を応用して【なんとかなった】」記憶が蓄積されているため、どうしても力押しで進めてしまう。
「これでいいのだ」とごり押ししてしまうようにさえなる。

 本当に、誰にとっても最適で最善な答えなんて、もしかしたら存在しないのかもしれない。
 それでも与えられた条件で、最適な答えを目指すのが思考の役割ではないだろうか。
 単一個体にとってすら、他者の益は、社会の中で己の益となって反映される。
 現在の、コロナウイルスに右往左往する社会を見ればいい。
 自分のことだけ考えて、他者を悪し様に言うだけなら誰にでもできるし、そしてそういう個体が存続できない社会になりつつある。
 経済を信奉する者たちの多くももはや迷い顔で、経済という力を使って自分とその両手の届く範囲だけ守っていても、自滅の道しかないことにようやく気がつき始めたかのようだ。

 未知の状況にあって、それでも思考にとって適切に「信じる」というフレームを与えられるのは、だから信仰心であるとか、宗教なのではないかと僕は思っている。

 宗教は ── たとえそれが「ネコノカミサマ教」なんていう、眉唾ものの信仰であれ ── 科学も経済も、自身の経験にも頼れない状況下にあってなお、向かうべき指針を与えてくれる。
 己のあるべき姿を明確に示してくれる。

 ために私の言っている信仰とは「妖怪を絵に描いてご利益を願おう」とか、そういうことではない。
 混迷の中にあって、自身の思考に基準を与え、思考によって行動を最適化する、その指針になるといっているのである。

 この国では宗教を毛嫌いする風潮は未だに強い。
 それは戦犯国がゆえの民族的背徳感からなのか、妄執がテロまで起こした嫌悪感からなのかは分からない。
(他国は盛りのついたオスよろしく、宗教も盛んなら、戦争も盛んである)

 しかし科学や、まして経済を盲信して人間を安い道具に仕立てた挙句、皆が右往左往しているのである。

 こういうとき、自身の中に信仰のある人たち ── 少なくとも経済や科学や政治以外に信仰のある人たちは、かつてと同じように落ち着いて日常を送っている。

 そしてそれは、僕が見積もっていたよりはるかに多くて、だから僕は安心する。
 この国は、まだ狂っていないのだ。

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 前橋市からの家財の95%を移送し終える。
 明日は軽トラックが納車される。
 明後日からはホームセンタで建築資材を大量購入して、リフォームができる。

 本当に素晴らしい。
 経済が、ではない。
 ネコノカミサマと、その箱が、である。

(眠そうなアヲ。口許にゴミが付いている)

201105

 母上の月命日ではあるのどけれど、特に何をするでもなく、朝方まで東京に遊ぶ。

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 先週、立て続けに身の回りの愛用品が壊れた。
 まずダンヒルのガスライター(オークションで安く手に入れたものだけれど、使っているうちに気に入って現在に至る)。
 ついで革のトランクケース(小さいものだが20年近く使っている)。
 最後に iPhone。

 一週間、携帯端末がなくて、たいそう清々した気分だった。
 僕はこの一週間、食事に出たり買い物をしたりiPhone の修理に出たりする以外で他人に用がなかった。
 ではひと月ならどうだろう。
 一年なら?

 正直なところ、電話やメールでやりとりをする相手に ── およそ僕からは ── ほとんど何の用もないのである。
 もちろん端末でやりとりをする相手には、姉や妹、弟子、古い付き合いの友人、最近知り合った人もいる。
 しかしいずれも、僕からは特に用がない。

 これまでの観察の範囲では、彼ら/彼女たちは、暇つぶし、あるいは愚痴を聞いてほしくて、あるいは単に僕と接触(しかも端末で事足りる範囲の「接触」)のために僕にアクセスする。
 一番多いのは、愚痴である。
 心配や悩み相談も愚痴と同じように対応する僕にとって、相手のトーキングオナニーに付き合わさせる事象はだいたい愚痴である。

 もちろん妹は日常の笑い話を必ず聞かせてくれるし、弟子はアドリブで探り合う音楽セッションのような緊張感のある会話に付き合わせてくれる。
 いずれも実益はないし、もっと面白いことならたくさんあるから、裏庭に穴でも掘って叫んでいればいいのに、と思うこともある。
 ちょうど僕が、自分の愚痴を独りで処理するように。

 もっとも僕が昼寝に忙しい場合などは電話に出ないことも皆知っているし、それが許されるキャラであり立ち位置をずっと保っている。

 無職の僕にあれこれ指図するのは、いまや役所と銀行くらいであるが、それも来年には解決するだろう。
 ようやく憧れだった「用もない(あるいはお金のためだけの煩わしい)人間とのやりとり」をやめられるようになったのだ。
 しかもその「やりとり」は、どういうわけか「後輩らしさ」や「男らしさ」「大人としての良識」「社会人としての当たり前」などという、定義不可能な物差しで一方的に評価される。

 ご本人様が得意満面に「すごいでしょ!」と言ってくれば、僕は褒める。「すごいね」くらいは言うだろう。
 ところが「こんなじゃまだまだです」と言っている相手に「まぁ、確かに改善の余地はあるのでしょう」というと、怒られるのである。僕にはこれが理解できない。(いやできるけれどね)

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 いずれにしても1週間、のんびりと引越しの準備をしたり遊んだりして新しい端末を待ったが、予想どおり、妹に電話を掛けたら泣くほど心配していた。

 姉や弟子は、僕が自殺する前に独りになる環境を是が非にでも構築しようとすることを知っているので(実際に見ているわけだし)、気にしていなかった。

 僕がたまたまこうしてのんびりぼんやり過ごしていることは、確かにいくつかの偶然があったのだけれど、偶然だけではもちろんないことに最近気がついた。
(弟子などからは度々、僕の超自然さえ感じさせられる天才性について指摘を受けるし、以前付き合っていた恋人にも、僕を「天才」と褒めそやしてくれる人がいたが、身近でしかも損得関係のある人間の発言なんて5年前から過去に遡ってアテにしないことにしているので、てっきり僕はただのボンクラだと思っているのだ、僕を。しかしどうだろう)

 僕の周囲の人たちがたらい回しのように逃げ回ったその挙句、独りひっそり暮らす僕にバトンが回ってきて、僕は「これはちょうどいいからそのリレー、乗った」としたわけである。
 僕のところにそのバトンが来たのは、最後の最後であるが、オカネモチー自動化プログラム構築プロジェクトを牽引してきた(そして力なく腰砕けになって途方に暮れる気力もなかった)僕にとっては、ちょうど役に立てそうだった。

 だから皆が敬遠したり、あるいは疑心に駆られて不安になっている中で僕だけは、こともなく、決定ができた。

 もちろん僕はいくつかの社会的/心理的力学に基づいた直感で物事を判断するので、ときどき致命的なミスを冒すこともある。

 それでも僕は勘で判断する。
 データより勘が正しいといつも思っている。
 まして他人が持ってきた「見せたいモノを投影しただけの」データなんて、見る価値もない。
 もちろん「見たいモノ」を私自身に投影してくる迷惑千万なイキモノも中にはいるわけで、今の僕は手負いのケモノのようにそれを警戒している。

 今日、叔父の本棚に転がっていた自己啓発的なことを書いてある本に「目指すところに到達するためには、考え方と習慣を変えればいい」と書いてあった。
 僕がずっとしていることはこうして、本にも書いてあるのだ。
 僕だってその法則をもしかしたら本から学んだのかもしれない。そのくらい僕にとっては「当たりまえのこと」なのだ。
 でも多くの人は、自分の考えを変えられない。
 習慣だって変えられない。
 価値観が変わらない。
 記憶も変えられない。

 そう思い込んで、いらない記憶に足を引っ張られているのではないだろうか。

 だから「近づくヤツらは敵と思え」という、過剰反応を抑えられないのではないか。
 そう思って少しずつ、僕は、新しい友達を作ることにした。
 なあに恋人にならなければ怖いことは何も起こらないのだ。

 いや、恋人になって僕に酷い思いをさせた人間が(覚えている範囲で)どれだけいたか。

 そう。
 いないのである。

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 ライターとトランクは修理することにした。
 端末は(あろうことかPCより先に)新調したわけだけれど、これが僕の持っているMacと同期できなくなっていた。
 6sのときはOSのバージョンこそ古くても、認識して、データのやり取りができたのに、もはや音楽データを移動することもできない。

 だから新しいMacを買う必要度が、さらに上がってしまった。
 問題は、必要な性能を備えた適度な価格のMacがないことだ。

 複数台の Mac mini で妥協するのか。
 もう時代遅れになりつつある Mac Pro を自動車みたいな価格で買うのか。

 こればかりはさすがに決断できない。