* // ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2020-12-08>
// NOTE:集団の指向性とそのメカニズム。食洗機が稼働する。あと死について少々。
* // ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
201208 獣を囲んで満足なの?
SUBTITLE:

~ The beast in the cage. ~

Written by BlueCat

-----
* // ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
* [プロローグ]
 ルータの暫定的な設定が終わり、精も根も尽きた。
 それで2日ほどゲームをして過ごしていた。
 お風呂にも入らなかった。
 目が覚めて、猫たちの世話をして、ゲームをして、昼寝をして、ゲームをして。そんな自堕落な連休。
(連休だけでしょ、と妹たち ── 妹と彼女の娘 ── に笑われるが)

* [自堕落の日の自覚]
 最近、ようやくそういう時間を自覚できるようになった。
 介護が始まる前(かつ恋人と同棲する前)までは、毎週土曜日の午前中に掃除をして、あとは自由時間だったから、最大で36時間、ゲームをし続けることもできた(したことはなかったようにも思うが、ヴァーチャルの世界に暮らしていると、実時間が曖昧になるのでなんともいえない)。
 週1回の掃除は、自分を現実世界に正しくアンカ(anchor)するもので、混乱した精神状態も、乱れた生活リズムも、すさんだ気持ちも、そこで一度リセットすることができた。
 それに恋人がわざわざ僕の家にやってきて、僕のすさんだ気持ちと逆立った背中の毛並みを撫でようにも、部屋が物置みたいになっていてはよろしくないではないか(もちろん、ときどきゴミ箱をひっくり返したような部屋に訪ねてくることもあったが、どうせならもっと荒廃して、廃墟のような状況下で恋人にくっつきたいではないか)。

 介護が始まる前から、僕の生活リズムは狂った。
 会社員ではなくなった時期が最初で、介護が始まってからは会社員であっても休みなどなかった。
 一年ほど前からは自堕落に何もしない一日を過ごしたりもしたけれど、それは始まりも終わりもない、ペースもリズムも失った、無目的な自堕落だった。非生産的と言ってもいい。リセットしようにも、どこからスタートしたのか、プリセットがどこにあるのか、僕は思い出せずにいた。

** [他人との生活は調子が狂う?]
 恋人と同棲したことが一度だけあるが、今思うと、どうも調子が狂う。
(同棲している当時の段階で、そんなことを言ったら大変なことになるし、自覚したらそれはそれでコミュニケーションに反映されてしまうから、僕はその感覚にフタをしていた)

**** [集団とそれを作る意味]
 ウェイタの仕事をしていたときに上司と話していたのだけれど、仕事(バイトに多い)などでも、2人で雑談しているとき、話に夢中になって自堕落になってしまうコンビと、話しながらでもきちんとお互いの背中に目を配れるコンビがいる。
 接客業だからホールで話をしていても ── そしてそれが業務に必要な内容であっても ── お客様の様子を把握し、リクエストに即応するのが最優先である。
 面と向かっていても、まるで背中合わせのように相手の背後をお互いがきちんとカバーしていれば、死角がない。
 何せそこは戦場なのだから。

 人間が集団になる意味というのは、輪の中にいるものを注視して囲い込むためではなく、それぞれの背後の死角を埋めて隙をなくすためにあるのだろう。つまり内向きか外向きか、ということ。

 日本人の国民性なのかは分からないけれど、集団がその「輪の中」に縛られる傾向が強いと僕は感じている。
 輪の中だけ見ていれば、それでなんとかなってしまう。そういう歴史と文化だったのかもしれない。
 もちろん輪の中をまったく見ない(確認しない)わけにはいかないだろう。
 しかしそれは機械設備でいうところの管理、つまりはメインテナンスのことだ。

**** [内向きの指向性をもたらすメカニズム]
 自動車で考えれば、メインテナンスだけしていても、走らなければ(走らせなければ)意味がない。
 といっても、メインテナンスだけしていればそれで満足だという人もいる。
 マニアックだけれど、機械が好きな人の中には「使うこと」よりも「整備していること」のほうが楽しい、という方向性が確かに存在する。
 「メインテナンスフリー、ブラックボックス化くそくらえ(失礼)」というエンジニアならではの探究心が、そのまま「モノを理解する」という行為につながり、理解する対象に必然的に愛情を持ってしまう。

 自作したモノの多くについて、既製品より十全に優れている、ということは少ないだろう。
 それでも愛着が沸くのは、自分がデザイン(設計)して、それをカタチにして ── そこで時に失敗し、挫折し、諦め、それでも思い直して向き合って ── 来たからだろう。すなわちそれは、モノへの愛情であると同時に、自分自身への正しい愛情の発露ではないだろうか。

**** [内向きの指向性がもたらすメカニズム]
 しかし機械がそうであるように、管理/メインテナンスは機能を持つモノにとって必要不可欠であるものの、本来の目的が「メインテナンスすること」であることはまずない。
 つまりメカニズムのあるところ、必ず目指す機能や目的があって、それを遂行するためにメインテナンスが必要になるというのが本来の姿のはずだ。
 内向きの指向性が管理/メインテナンスに向かうのは必然として、それが愛情からスタートするものだと仮定しても、それでもずっとそこをループして外側に向かわなかったら、あるいは愛情が変質し劣化し、自己愛が── 人はときおりなぜか、自己愛を忌避し、他者への愛こそが崇高だと勘違いし、そのために ── 自己愛を隠蔽し、メインテナンスが本来の役割から逸脱したら。
 すると必然に、本来のメインテナンスが果たされず、目的とされるはずの機能も適切には発揮されないことになる。

「組織への愛/忠誠」に見せかけた自己顕示。
「組織の健全性の確保/優先」を笠に着た個人的エゴの発露。

 あーあ。
「組織」「ソシキ」とか言っちゃって「正しさ」「タダシサ」とか言っちゃって。
 そこに実際に発現するのは、そのひと個人の心の貧しさではないのか。
 
**** [外向きの指向へ]
 人見知りで引きこもり ── たびたび言うが、僕は「本当に」社会から隔絶された引きこもりである ── の僕が「外向き指向」を語るなんて、ちゃんちゃら可笑しいことではあるのだけれど、自己愛だって内側にだけ向かっていれば、適切なサイクルや正常な視座を見失って「自分が一番エラいんやんか〜」とか「自分こそが正しいんだカンナ!」となってしまう。

 じゃ、自己愛は外に向かうべきかというと、それはそうでもない。
 自己愛って、対人インタフェイスを考えた場合にはあくまで裏方のモノであって、「自分大好きなんだよ〜、キミも僕の素晴らしさを刮目して開眼して褒めちぎっちゃうがいいYO!」というのがメインコンテンツとしてメッセージになってしまえば、自己愛はなはだしく自己顕示欲が鼻につく。

 自己愛は、自分を支える基礎ではあるかもしれないけれど、だからといって他人に見せびらかすモノではない。
 人間だって、骨がなければくにゃくにゃしてしまうけれど「ほら、僕の大腿骨、立派だろう(ざくッ!!)(ナイフで切り裂く)」とか、しないでしょう?

 いつも書いているけれど、たとえば肌がきれいだとか、プロポーションが美しいとか、筋肉が発達しているとか、アタマがいいとか、それはそれで(綺麗でないことよりも)結構だけれど、わざわざそれを(見せびらかすために)露出するのは(そういう商売をしているのでもないかぎり)恥ずかしいことだと僕は思うのね(口調が変)。
 仮に商売だとしても、そこは綺麗だからこそ隠したほうが絶対に格好いいと思う。
 だって、外からみればわかるでしょう。ダイレクトには見えなくても。
 たとえば筋骨隆々の男性でも、肌を無駄に露出するより、スーツを「ぴっ」と着ている方が(僕の目には)かっこいいのだ。
 しかも「いかにも」な小洒落たメーカのものではなくて、(布地や仕立てはともかく)オーソドックスなデザインで、しかし布地が良質のものであればなおのこと。
 
>>>

 外に向かうとき、どんな機能を果たすのか。
 それはその「モノ」に持たされた定めである。
 だからモノを作ったり、設計するというのは、そのモノの運命を決める作業でもある。
 作ったモノすべてを愛せるかと問われると、少なくとも僕にとってはそうでもない。
 作ったことすら忘れているもののほうが多いかもしれないし、その方がいいとも思う。

 それでも自分の役に立つようにと考え、そうして作ったモノが自分だけでなく他の誰かの役に立つなら素敵だし、やがて誰かの役に立つモノを作ることが純粋に嬉しいと思えるならば ── 次に作るモノもそうであれかしと望めるものならば ── それこそ(モノであれ組織であれ、ありとあらゆる存在が)そこに与えられた意味 ── すなわち機能 ── をモノが体現していることになるだろう。

 作ったモノ、メインテナンスするモノが自分の手を離れ、他人のモノに、あるいは人々の関係の中に生きるモノへと変わってゆける。
 それは少し寂しいことかもしれないけれど、内側だけを向いて、我利我利に痩せ細った凶獣を囲うだけの錆び付くだけの檻であるよりは素敵なことではないだろうか。

** [他人だから調子が狂うのか]

 自堕落な僕が自分なりのペースで外界とのインタフェイスを構築し、そのリズムを整えていた環境において、多分その人とは相性が悪かった。おそらく相手も相当にストレスだったことだろう。
 僕は様々なことを自分でなんとかしてしまえる能力は持っているけれど、基本的に ── 世間的に見ればおそらく ── 幼稚なのである。
 その人はその人で、その人なりに自堕落でそれなりに幼稚だったから、僕たちはおかしなことで衝突することになり、しまいに僕は帰宅拒否症にもなったし、結局その人の価値観や感性パターンはほとんど記憶に残っていない。
 興味深かったはずなのだ。
 それは覚えているのだけれど、なにひとつ残す要素がなかったのだろうから、相手にとっても同様だったろうと推測する。

 彼女との「集団生活」は、結局、外側に向いていなかった。
 内側に向いていて、内側に僕を置きたがった。
 管理やメインテナンスの仕方も、その能力も違っていたから余計かもしれない。
 たとえば ── たびたび書いているが ── 僕はライフラインのインフラが料金未払いで止まったりすることをどうも思わないイキモノだけれど、彼女は ── 不便であるとか以前に、体面上のこととして ── 許せないタイプだったのだろう(一緒にそんな体験はしなかったが)。

 破綻している部分のある人だったけれど、その不整合性が僕に見たこともないギャップを投影していて、だから僕は興味を持ったのだろうとは思う。
 僕はそこからもいくつかのことを学んだ。

 すべての人と一緒にいて調子が狂うかといえば、そんなことはない。
 僕は姉の家に泊まりに行くと ── 姉の家がひどく狭いせいもあり ── ずっとベッドで横になっている。
 姉は食事を作ってくれたりお酒を用意してくれたりして、あとはだいたい僕に何か話している。
(指定難病の他、後天的な身体の障害もあり、双極性障害もあるので、話が熱を持つと止まらなくなるようだ)
 僕は姉という他人の前では、1人でいるのと同じかそれ以上に自堕落でいられる。

 妹が家に来るときは少々、自堕落さをセーブする。
 家が散らかっていたら掃除をするし、パジャマ姿では会わないようにしている ── 僕の精神状態が荒む兆候をそういう部分から見事に察知するから。
 あるいは男性(同性は恋人にしない)と一緒に暮らしていた時期もあるが、なにも問題なかったし、血縁関係にない女性(恋人に多い)が1週間程度滞在していても、お互い苦にならない人は苦にならない。当たり前だけれどそういうものだ。

 ただ2人以上になった集団が内側にしか向いていなくて、それだけならまだしも、内側に向くように向くように強要する仕組みや風潮は、それが会社という営利組織であれ、家族や恋人という関係性にあっても、僕の理には合わない。それだけのことだろう。
 実際に、そういう組織を僕は次々と見限ってきた。
 僕は自分が内向的だからこそ、下手な他人の思い描いている内向のオナニープレイを押しつけられるのはちょっと耐えられない。
 僕だって、相手を自分のオナニーを押しつける道具とは思っていない。そういうのはひとりでするものだろう。

 ビジネスに自慰行為がないとは思えない ── 書類を自分の基準で綺麗に作成して自己満足するようなことは僕もあった ── し、それが悪いとも思わないが、それが自慰であることを見失って他者に強要するのは(仮にまだ名称の与えられていない領域のものであっても)ハラスメント行為である。
 たとえば書類を綺麗に作成し分類することだって、他者への強制の度が過ぎれば迷惑だ。そんなものはビジネスの本質ではない。

* [食洗機が復活する]
 足利で暮らしていた頃、ネットオークションで格安で食洗機を買った。
 僕にとって初めての食洗機であり、比較的少人数向けに設計されたそれは、洗剤ではなく塩を使って ── おそらく塩水を電気分解して生成されるアルカリ性の溶液で ── 洗うこともできる。
 当時のアパートのシンクはさほど広くなかったので、僕はわざわざ食洗機を置くために(複雑怪奇な形状の)棚を作った。

 叔母夫婦が存命のとき(介護が始まったとき)に、この家で暮らした方がよいという(提案を受けた)ことで、一部の家財をこの家に運んだことがある。

 師匠にもらってからずっと、一緒に暮らしていたポインセチアの鉢植え。
 ひとり暮らしを始める前から使っていた、天井まで伸縮する書架。
 そしてこの食洗機。

 叔母の家で暮らして半年ほどもしないうちに(しかし職場を太田市近郊に移したあとで)煙草を吸ったカドによって僕は追い出され、前橋からはるばるこちらの方(正確には太田市を越えたその先の町)に、不慣れな運送業をするため通い、結果、身体を壊して辞職した。

 ポインセチアは水を与えられず枯れ、書架は(使わない部屋の片隅に置いておいたものをわざわざ)家の外に放り出され、いずれも機能を失った。嗚呼。ポインセチアに至ってはイキモノなのに。
 しかし食洗機だけは台所の片隅で埃をかぶって今日まで鎮座していた。

 何を大事に思うかなんて人それぞれだから、僕は僕の大切だと思う気持ちを叔母に強要しなかった。
 あるいは他の誰であれ強要するつもりはない。今でもそうだから、ポインセチアはきっと何度でも枯れてしまうのだろう。
 ただ僕が叔母から不快な ── 不当かどうかは僕には判断できない ── 扱いを受けたことは(もはやどうでもよいと思っているのでそのうち忘れてしまうが、今は)覚えているし、ことさら妹にも迷惑のかかる形で当初の僕との約束を反故にした事実をして、死してなお(死しているからこそ)彼女のことを僕は呪っている。
 死すときにそういう禍根を残すのは、決して褒められるものではない。
(だから少なくとも、叔母と僕は相性が悪かったのだ。じつにかつての同棲相手のように)

 だから僕は、生きることには飽きているのに未だに死ねない。死ぬための準備が整うまで自死はできない。
 そんな準備はどこまでも整わないかもしれない。
 けれどもだからといって何もしないよりは、少しずつ積み重ねてゆくことで実世界の物事も、他者の意識ですらも変わってゆく。

* [エピローグ]

 混合栓に分岐栓をかませて(敷地内の止水弁が長らく見つからなかったことよ)、食洗機をセットする。
 かぶった埃は、叔母だけが悪いのではなく、僕がメインテナンスを怠ったことも示している。

 はっきりとその姿によって。
 だからぴかぴかに磨き上げてコンセントをセットし、ふたたび稼働したとき、涙がにじむほど嬉しくなった。

 6年以上会っていなかった恋人に再会したら、こんな気持ちだろうか。
 新しい食洗機をセットして稼働したとしても、ここまで嬉しい気持ちにはならないだろう。
 それは10年ほども僕と一緒に暮らして、それを使うために僕自身もさまざまに創意工夫を凝らして、食器を手で洗う苦痛の半分以上を解消してくれた、大事な道具だ。

 窓辺にいたポインセチアはもういない。
 書架は錆び付いてもう使えない。
 でも食洗機は、息を吹き返した。まるであの頃のように、僕のために静かに(そうでもないか)仕事をしてくれている。

 愛しい道具たち。

 MacProは、もう、息を引き取ろうとしているけれど。
 家電品であろうと服であろうと、僕は僕の好きなモノに囲まれる幸せを知っている。
 それはたとえば、自分の好きな人に囲まれる幸せと同じかもしれない。

 ただ僕にとって人間というのは基本的に、猫と同じように「僕が何かを提供しなくてはならない」相手である。
 電源やサプライさえあれば文句も言わず疑うことなく働いて、僕に何かを提供してくれる道具を、いったいどうしてないがしろにすることができるだろうか(埃を積もらせて本当にすみません)。

 そのようなわけで、食洗機の駆動音を聴きながら、うっとりとする。
 まるで恋人の鼻歌のように、それを聴いている僕はいつかの、穏やかな風景を思い出す。

 ああ。
 のんびりしていていいんだ。

 もう、のんびりしてもいいんだ。
 だって今日と明日はオフだもの。

 そんな気持ちを思い出す。
 もちろん、今日は2連休明けだから。
 さて、明日は何をしよう。

 モルタル塗りに、実は少々飽きているから、いよいよ床の断熱材と床板を敷設しようか。
 それとも自堕落に、明日も眠って過ごそうか。

 いやまずお風呂に入ろう。
 今日は素敵な日だから。
 きっと明日も素敵な日にできる。

 いつかある素敵な死を迎えるために。
 明日は素敵な生を生きよう。
 雨だろうと、飢えていようと、電気が止まっていようと、花が枯れようと。
 笑い、怒り、憎しみ、そして許そう。そのすべてを楽しもう。痛みも悲しみも。それは生きている証拠だよ。

 だって僕だって、誰かに対して失敗をするし、そしたらいつかは許してほしいから。
 痛みも悲しみも。僕がいなくなった世界でなお、それが誰かの糧になる仕組みがほしいから。
 豊かじゃないことを悪いことだと思うことが、豊かではない気持ち、貧しい気持ちなのだ。


ハミ出とるやーん。

 







-----
* // ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

* // ----- >>* Tag Division *<< //

[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Interface-Life-Link-Love-Maintenance-Mechanics-Memory-Style-

[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-

[Object]
  -Human-Memory-Tool-

* // ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-夢見の猫の額の奥に-






//EOF
 

* // ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2020-12-06>
// NOTE:ネットワーク設定が終わる。家がとても寒い。
* // ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
201206 ルータが届いて困る。

Written by 工場長

-----

* // ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
* [家が寒い]
 薄々感づいてはいたが、この家は断熱材が一切設定されていない。
 屋根裏にグラスウールさえ敷いていない様子だから、必然といえば必然である。
 しかもその上(家人か大工の趣味かは知らないが)やたらと窓が多く、そのほとんどが、床から天井まである大きなものである。
 ガラスを割った場合の修繕費を考えると恐ろしい。
 それより何より、シングルガラスのアルミサッシなので断熱性能はほぼ皆無だし、昼は眩しく、夜はセキュリティレベルが低い。

 一面が完全な壁になっている部屋がない。
 誰の趣味かは知らないが、必ず、戸か窓か収納がある。

 縁側にある廊下など始点から終端までサッシである。そこは半分以上、壁にしておけよ。
 おかげさまで、床板は熱と紫外線で表面が朽ち始めている。
 レースのカーテンしか設定していないことなど、僕からすれば狂気を感じさせるが、このあたりの改善は後手に回している。所詮廊下だし。

* [ルータが届く]
 メールチェックしていたらルータが「配達済み」と届いていた。
 慌てて調べると、たしかに納屋の外のテーブルに置き配されていた。
「不在時は倉庫の作業台に置き配可」と住所欄に書いているのは確かだが、呼び鈴を鳴らされた覚えはまったくない。
 以前勤めていた運送会社なら間違いなくクレーム案件であるが、まぁ荷物は届いたしメールでチェックできたので問題ない。
 郵便受けを確認したところ、不在通知も入っていない。配達票からしてもヤマトではなさそうだ。

 ルータの設定にずいぶん苦労した。
 僕は(携帯端末のメールドメインを Vodafone から変えたくないというだけの理由で)Softbank ユーザなのだけれど、純正ルータでないとIPv6 を利用できない。
 そもそも僕は今日までインタネットプロトコルなんてろくに知らなかった人間である。
 そこに加えて Wi-Fi 環境の専門用語まで飛び出す始末。しかもルータに付属しているのはぺらぺらの「続きはWebで」という説明書。
 Webに繋ぎたくてルータを買った人なら、自殺しかねない展開である。

* [どうすればいいのか]
○[光回線ユニット]ー[Softbank光専用ルータ(Wi-Fi 機能停止)]ー[市販ルータ(Wi-Fi 機能あり)]と接続する。
○「SB専用ルータ」側でDMZ転送IPアドレスを設定し、そのアドレスポートを市販ルータ側の(手動)接続IPアドレスに設定、ゲートウェイには「SB専用ルータ」のアドレスを指定する。
○「市販ルータ」側の IPv6 設定は「自動」で「デフォルトゲートウェイに設定」する。
 市販ルータだけで接続すると、プロバイダ(Softbank)と専用ルータに阻まれて、IPv6 接続は実現しない。
( 実測で ── IPv6 に対して IPv4 のみになって ── 回線速度は半分以下になった。

 自分で書いていても、昨日の自分に理解できる気がしない。
「IPv4」は、現在主流の帯域の狭い通路で、「IPv6」は帯域の広い新しい通路だと思えばいいかもしれない。
 ところがプロバイダ側で「専用ルータ(レンタル代は月500円ほど)を使っていないとIPv6 への通路を確立させないよ」となっているため、市販ルータだけではどうやっても IPv6 を通れない、というわけ。
 しかし僕は、市販ルータを介して、Wi-Fi で各デバイスが自由にアクセスできるストレージを使いたいし、Wi-Fi 通信速度が上がるなら、それも実現したい(そのためにルータを買ったのだ)。

 分からないまま、Web上でそんなこんなの情報を集め、分からない用語満載のマニュアルを読みながら(半日以上進捗せず、ふて寝したりしつつ)完了させた。

* [どうなったのか]
 ネット上の接続速度テストは、サイトごとにかなりばらつきがあり、当然ながら測定のタイミングでも計測結果にばらつきがあるため、一概にはいえないが、だいたいこんな結果になった。(いずれも Wi-Fi であり、有線LANは試していない)

○ IPv4 DL:100Mb/s UL:100Mb/s
○ IPv6
 SBルータ DL:250〜400Mb/s UL:200〜250Mb/s
 市販ルータ DL:300〜500Mb/s UL:200〜300Mb/s

 数値が高い方がすごいらしいが、どうすごいのかは分からない。
 500Mb/s という測定値(正確には499)については(1/5くらいの頻度で見たけれど)、たぶん何かの間違いだろう。
 市販ルータをターミナルにして、速度が上がる理由は、なんとなく理解しているけれど、そんな説明は誰も求めていないだろうからしません。

* [このルータの使用感はどうなのか]
 今回購入したのは、Synology社 の「MR2200ac」というモデル。
 僕は以前のプロバイダの時から純正ルータ以外のものを使ったことはないし、ハイエンドな市販品の価格を見て驚いているくらいLAN環境については疎いから、初めて買うにはちょっと冒険だったような気もする。

 有線LANポートはWAN(入力というべき?)用が一つ、LAN用がひとつ。計2つだけ。
 ただし Wi-Fi 機能は強力なようで、5G+5G+2G帯域、3チャンネルあるらしい。目に見えないから分からないけれど。

 ルータの設定(特に今回のようなケース)は、かなり上級者向けのように感じた。
(僕があまりに初心者なので、そう感じるだけかもしれない)
 なにせSB専用ルータは、ケーブルを刺すだけでIDなどの入力すら省略できる。
 にもかかわらず両方のルータを使用しなくてはならず、それぞれのルータで専門用語やその概念系にぶつかる。
 僕のような門外漢にとっては、けっこうハードだった。

 しかし少しでも分かる人、あるいはこれからきちんと身につけたい人には、とてもよいルータだと思う。
 価格は15k円ほどで決して安くはないし、有線LANポート1つというのは少ないと(僕は)思う。
 けれども Wi-Fi が主流になっている現在のコンピュータ環境において(僕のMacBookには有線LANポートがない)トライバンドであることはハード上の大きな魅力であろうし ── 、ソフトバンク専用ルータの末端に接続しても、Wi-Fi の速度が上がる(Wi-Fi の性能が純正ルータは比較すると低いということ)事実を考えると、そうした(ソフトバンク光特有の)制約を受けたネットワーク環境であっても導入する価値があるということだろう。

 さらに設定画面は(当然ブラウザからアクセスするのだが)GUIベースのよくあるOSのようなインタフェイスで、ルータ内部にさまざまなアプリケーションが存在し、メーカが提供しているアプリケーションをダウンロードして機能を追加することも可能である。
 不正なアクセスなどを監視するためのログやブロックリスト機能もあり、内部にヘルプが存在していたり、各種アップデートやリブートスケジュールも任意にできる。
 ペアレンタルコントロール機能もあれば、擬似的NAS機能(USB3.0 なので、LANほど速くはない)もある。
 むしろ「何がないのか」といって、有線LANポートくらいしか僕には思い当たらない。まぁ、何も知らないわけだけれど。

 非常に多機能で、サポートもしっかりしていて(更新は、数ヶ月に一度はあるようで、更新がある場合ルータからメールを自分宛に発信することもできる ── メーカから宣伝じみたメールは望まない限り来ないということ)、セキュリティも含めた管理におけるユーザ体験は非常に透明感があって気持ちがいい。
 Softbank光のように、ブラックボックス化した純正ルータをユーザ体験の前提にするのは、たしかに知識のない人でも簡単に使える点では親切だろうとは思う。優しいとも思う。
 ただし不透明なことによる不快感は ── 僕のような奇人にとっては ── 拭えないものでもある。

 とにかく24時間以上かかってようやく設定が終わった。
(実のところ、最終的にはソフトバンクルータも Wi-Fi を有効にして使っている。)
 あとは、外付けHDDドライブの設定をするだけである。
  ── ただ、少し疲れたのでしばらく休みたいというのが本音でもある。

* [エピローグ]
 夕刻からワークアウト。
 この1週間以上、ずっと鍋をしている。
 湯豆腐のつもりが、徐々に具材が増えてしまい、鍋のようになってしまった。
 僕にとっては「具が増えた湯豆腐」なのであるが、そんなものは邪道でもある。よってこれは「鍋」であると考えることにした。

 冷凍の、いい感じの牡蛎をまとめて買ったので、5個くらいずつ使っている。
 牡蛎が好きなので、最初8個くらい入れたら、鍋の中が濁った上に、途中で食べ飽きてしまった。
 ものごとは少し足りなくて、もうちょっと欲しいくらいでやめるのがいいのである。

 牡蛎に飽きると、手羽元(これはまとめ買いしたものを自分で小分けに冷凍してある)を入れる。
 僕はスーパーで大きなパックに入っている肉を買って、自宅で小分けに冷凍することが多い。
 キノコも安いときにまとめて買って、下処理したものを冷凍保存する。

 豚小間は以前からビニル袋で野菜炒め1回分か、豚汁1回分程度の量で分けていたのだけれど、今回「インスタントうどん1回分」をラップで小分けして冷凍し、保存袋でまとめて保管するということを始めた。
 最近、食肉の量が減っているので、この「かなり小さい分割」は、手間が少々かかるが、とても便利である。

 

 


今日も猫の写真を見たいだけなんだろう?








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* // ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

 

~ Junction Box ~

* // ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-

[InterMethod]
  -Diary-Technology-

[Module]
  -Generator-Resistor-

[Object]
  -Computer-Tool-
* // ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-工場長の設計室-




//EOF

 

* // ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2020-12-03>
// NOTE:新しいMacとそれにまつわる話。新しいテキストエディタについて。
* // ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
201203 新しいMacが届いてから。

Written by 工場長

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* // ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
* [新しいMac]
 およそ一週間前、新しいMacが届いた。
 基本的に、開封したばかりのMacは20代の女の子のような(だいたいの人は「ちがう」というが)めっちゃいい匂いがする。
 この匂いの香水(パーツクリーナでもいいし、マシンオイルでもいい)が欲しいくらいだ。
 ついついくんくんと匂いを嗅いでしまう。

 箱を開けてから「あれオイラ、MacBookAir頼んでないですよ?」と思うが、今のMacBookはこの程度には薄いらしい。
 僕の知っているのは、だいたい2倍は厚みがあった。
 USB-C 端子2つ以外、外部にアクセスするポートが存在しないのはちょっと面白い。

 性能は予想した程度のもの。
 起動に関していえば、MacProの方が早かった(OSの世代が、そもそも違うが)。
 購入したモデルは、M1と呼ばれるチップセットのMacBookPro。最小構成。
 どうやらメモリの換装は、あとからは不可能らしい。ということを後から知る。後の祭りである。

 もっともノートPCに高度なスペックなんて求めていない。
 グラフィックエンコーディング能力がどうだとかより、バッテリィの耐久性の方が大事だ。
 ただ、キーボードを英語(米国)版で注文するつもりが、間違えて英語(英国)で注文してしまった。
 届いてから(なんかちょっとちがーう) と思ったものの、気にせず使っている。
 もともと日本語キーボードが得意ではない。
「〜」がキーボードにないと、少々落ち着かないというのもあるし、「英字」「かな」キーに必要性を感じたことがあまりない。
(Windowsの場合「半角/全角」キーはトグルであるのに対して、Macはバカの子みたいに、単一機能のキーである)
 キー配列もQWERTYを使わないので、正直なところキーボードにプリントされている文字や記号は、キーのアドレスを示しているだけである。たとえば「O」のキーをタイプすると「R」になるし、「D」のキーは「E」が出力される。
 パスワードを盗み見られても、このキーボードから思った入力をするのは大変である。
(まぁ、キーボードを外付けすればいいし、リモートアクセスしてしまえば配列は関係ないけれど)

 画面の大きさより、キーボードのタイピングのしやすさの方が大事だ。

 ハードウェアとしては、単一のIDを共有する Apple 社製デバイスとの連携が優れている。
 どちらかで Wi-fi にアクセスすれば、その情報をほかのデバイスでもすぐに使えるようになる。
 iPhoneにショートメールが届いたとき、MacBookを開いていると、そちらからSMSを返信できる。
(これくらいは、僕の使っていたOSの世代でもできたが、気持ち悪いのであまり使わなかった)

* [有能な辞書機能とバカチンIME]
 Macの辞書機能(ユーザ辞書ではなく、テキストリーディング用辞書機能)は、僕の使っていた頃のOSより格段に向上している。
 入力/閲覧している文章から、シームレスに辞書を開くことができる。
 単語の上にカーソルを運んで、トラックパッドを押し込むとカーソル上の単語が自動で選択され(ここまでは従前のテキストの上でのダブルクリックと同じことであるが)その単語に関する辞書がポップアップする。
 ちなみにトラックパッドはカーソルを運ぶための0圧から、クリック状態になる1圧、ダブルクリック状態になる2圧まで、自然な力加減で操作できる(辞書がポップアップするのはダブルクリックのとき)。トラックパッドの上で二度も三度もタップする必要はないからマウスより快適に感じる。
 辞書アプリは各種辞書から Wikipedia までを単一ウィンドウで開くし、Siri さん(僕は彼女のことをあまり信用していないが)の各種サゼッションも的確だ。
 実は昔、これと同じような動作をするマクロをマウスや補助キーボードに仕込んでいた。
 辞書を開くのではなく、ブラウザで検索させる動作だったが、かなり重宝した。
 なぜといって(当たり前かもしれないが)ブラウザで検索するのは、圧倒的に画像よりもテキストで、未入力の文を検索したいときもあるが、今読んでいる文書の単語を調べたいときもかなりの頻度で存在するからだ。

 ためにテキストを入力するのには ── 無駄に高価な機材であることは確かだが ── すぐれた機械である。

 ただし、MacOS(およびiOS)のIMEが「バカチン」なせいで ── 「Dvorak配列」があって「ローマ字日本語入力」があるのに、ローマ字入力時はDvorak配列ではない。
 こんなことならWindowsを使っている方が全然いいじゃないか。それにこの問題は、ずいぶん前から日本のDvorakユーザに指摘されている。もちろんもちろん、その数は目をかけてやる価値もないほど少数なのだろうけれど。

 仕方がないので、互換しなくなったATOKを新規に契約する。
 個人向けにはサブスクリプション版しかないらしい(地獄に落ちろ)。

 ATOKを使っているとiPhoneで作った辞書は共有できない(iOSのバカチンIME辞書とは同期しない)ので、これは諦めるしかない。
 しかしそもそも純正IMEでDvorak配列のローマ字入力さえできるなら、ATOKは不要だし、iPhone での日本語入力も(ハードウェアキーボードを使うなら)楽だし、何の苦労もないのだ。バカチンめ! バカチンめ!

 とはいえ、安心して日本語入力ができる。

 IME関連の愚痴はこのくらいだろうか。

* [Evernote の代替アプリケーション「x3Note」]
 アプリケーション関連だと、Evernoteが致命的に「やらかしてしまった」らしく、いずれのデバイスでも閲覧さえままならない。
まともに使えるものではなくなってしまった。
 使っている人はもう知っているだろうし、知らない人は知る必要もない。
 ソースをすべて書き直したらしいが、マルチエディタに過剰な機能を次々投入する必要なんてあるだろうか。
 そんなに暇なら社員をリストラすればいいのだ。
 バカチンめ! バカチンめ!

 僕はテキスト入力しかしないのだから、MacOS純正のメモで十分な気がしている。
 過去のデータは残念だけれどそのまま放置だ。
 ひながた ── あろうことか僕の文書には、ひながたフォーマットが(当然だが)存在する ── だけあればいい。
 ただし階層管理機能がないのは困る。
 そのようなわけで、エディタを探していたのだが、なかなかいい感じのものが見つからない。
(「ノート」「ノートパッド」などのキーワードからヒットしたアプリーケーションのうち、めぼしいものを片っ端から試したが、どれも気に入らなかった)

 最終的に「x3Note」というアプリケーションに行き着いた。
「Audio/Video/Location」のクリップを保存する必要がなければ、有料アカウントをとる必要もない。
 最初の段階で、保存先をiCloudかローカルストレージか選べる。
 現行バージョンは日本語対応していないしフォントも選べないが、日本語入力はできるし、試しているうちにだいたいの機能は(英語がろくに理解できない僕でも)分かった。
 文書内に段落マーカを設定できて、一行に折りたたんだり、同一文書内や他文書に移動したりできる。
 タグ機能もあるし、チェックリストや日付を基準にした機能もあるから、リマインダやスケジュール管理もできるだろう。
(手帳機能なら、他を当たった方がもっといいものもありそうだけれど)

 webから各メディアのクリップもできて、これは「Ideas」という編集不可レコードとして保存される。
 十分だ。

* [移行作業に惑う]
 MacProから移行しようと考えていたほとんどのソフトは ── ATOKすら ── 使えなくなっていた。
 Firefoxのプロファイルだけ抜き出して、移行する。

 データ用HDDのうち1TBのものは、900GBほど使ってしまっているので、TimeMachineに使っていたバックアップ用HDD(4TB)に移行しようとして思い出す。
 このHDDは故障して、使えなくなったのだ。
 調べてみたら、クリーニングしても1TBが「使用済み」になっている。
 おそらく中の円盤が死んでしまったのだろう。
 しかしほかにまともなHDDがないので、とりあえず3TBになったHDDに移行しようとするが、予想通りというかなんというか(3TBに損傷はなさそうなのだが)MacPro側では複製操作の途中で止まってしまう。

 しかしほかにHDD外付けドライブなんてないし、データはOS9の頃からのものも大切に残している。
 TimeMachineはとうの昔に使えなくなっているからバックアップもない。
 ── TimeMachineに使っていた、壊れかけのHDDを複製先にしているのは自分でもどうかと思うが、引っ越し荷物の中からHDDを発掘するのも骨が折れる。

 仕方なくNAS用の外付けケースを探すが、なかなか思ったものがない。値段も高い。
 USB端子がルータについていたから、これは外付けドライブを認識するのかと思い、試してみたがどうにもならない。
 調べてみたら(ソフトバンク光の純正ルータには)そんな機能はないらしい。

 LAN経由でNASドライブを構築するか、USB経由させるためにルータも含めて構築するか、しばし悩んだ。
 
 RAID機能付きのケースで4つはHDDを搭載したい。
 NAS対応(LANケーブル接続)モデルはだいたい5万円くらいするが、USBは半分以下、1/3くらいの価格のものもある。
 差額でルータとHDDを新調しても十分だろう(どのみちパーソナルユースだし)。

 総合的には、ルータごと買い換えて問題ないだろうという結論に至って、密林で買う。

 届いたケースにHDDを搭載し、ようやく複製に成功した。
 Cubeから移行の時もそうだったが、新しいマシンは古いシステムをオーバライドできるようだ。

 ただしルータがまだ到着しないので、有線接続するしかない。





-----
* // ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

* // ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-

[InterMethod]
  -Diary-Technology-

[Module]
  -Generator-Reactor-

[Object]
  -Computer-Tool-
* // ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-工場長の設計室-

 

 


//EOF

 

201128

 久しぶりに1日のんびり過ごす。
 そもそも、この家にいても前橋のアパートにいても、足利の家にひとりでいた頃のような安息を味わったことはない。

 なんとなく、心の底が、いつも落ち着かない。
 そんな日々をだいたい6年くらいは過ごしていたか。

 いつも誰かの体調や死を気にしていたり、慣れない場所でくつろいだ気分になれない日々。
 あちらこちらと移動ばかりして、他人に気を遣って自分の身体を壊して、落ち着かない場所で丸くなって自身の身体を抱える日々。

 6年前などは仕事もなくてお金もなくなってしまったから、食生活も(今よりさらに)荒んでいた。

 少しずつ、自分の使いやすいように改良している、その入り口だから、とうてい落ち着くとは言い難いが、それでも、誰もいない他人の家に息を潜めて暮らすことにも慣れた。
 思っていたほど人も来ないし、思っていたほど誰かに監視されてもいない。
 来た人間の相手を必ずする必要もないし、場合によっては追い返しても大丈夫そうだ。

 食べたい時にだけ、食べたいものを食べたい量食べることができる(毎日2食はやはり負担である)し、眠くなったら眠れる。
 ときどき緊張しているのか、眠れない日も一年のあいだにはあったが、最近は10時間くらい連続で眠れるようになり、そのままごろごろしていても落ち着かない気分になるようなことはなくなった。

 不要なものを次々捨てて、今は段ボールの中にある本に、やがて囲まれるような設備を整えることもできるだろう。

 やはりというべきか、孤独は感じない。
 おそらく猫がいなくても、人の気配のない方が、本来的に僕は落ち着くのだと思う。

 5年棲んでいた前橋のアパートは、今や殺し屋の借り住まいのようにがらんどうで、ベッドのマットレスとテーブル代わりのワイン箱と机、カセットコンロと簡易ガスヒータがあるだけだ。
 結局、家の中を整備する時間がないまま5年が過ぎてしまった。

 正直、後ろを振り返ると生きる気力を失う。
 ただ、今死ぬと残った人が僕と同じ苦労を抱えることになるので、その道筋を整えるまでは死ねない。

 モルタルを塗るより先にすべきことなのかもしれない。それを済ませれば、いつでも先立つ不幸をお許しくださいなんて、許してもらう気もない一方的な宣言をすることも可能だろうから。
 とはいえ他人と関わる必要のある手続きだし、時世もあるからあまり他人と関わり合いたくない。

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 明日、MacBook が届くらしい。
 NASも整備していないし、ルータとモデムはケーブルが足りなくて、中途半端な位置に吊るしてあるのみだ。
 5m以上の純正光ケーブルはなかなか使う機会もないから物がない、と工事の方も言っていた。
 5mでは、回線を繋いだ家の端の部屋からモデムを出すこともできず、ために鴨居の下に逆さに(不恰好に)吊るされているというわけだ。

 MacPro も、一切手を付けていない。そもそも置いて使えるスペースが、どこにもない。
 床を張り替えるまでは大きな家具は置けないし、壁を塗り終えるまでは床を替える気にはならない。
 リフォーム業者に任せるのは高くつく気もするし、なにより自分でしてみる方が面白そうである。

 そんなつもりで始めたのだが、もう寒くなってきて、早起きするのが億劫である。
 暑いときは暑いときで、やはり億劫なのだ。
 そういう怠惰なイキモノであることよ。

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 オクラは乾燥してきて、いい種が採れそうである。

 チェインソウで解体した家具のうち、燃やすと有毒ガスを出しがちなものも区別がつくようになった。
 それらは軽トラを使って清掃センタに持って行こう。
 古い、仕事の知り合いもいることだから。

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 昨日書きかけた日記を書き終えたくらいで、今日は何もしなかった。

 不安も緊張もなく、何もしないでひとつの場所で息をついていられるというのは、本当のところとても素敵なことで、そういう平穏が、少しずつでも戻ってくるなら、そんな日常なら、もう少し、生きていてもいいかもしれない。

 何かを追ったり、何かに追われたり、何かを強要したりされたりするような、そんな気持ちで生きるには、僕は向かないから。









201127

 職業でもボランティアでもない。
 僕の「裏庭の穴」という役目である。

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 僕はたまに愚痴ともいえる内容をブログに書く。
 傑作だったのは10年以上前、会社の飲み会に行って戻った足で書いた「会社の飲み会なんて行きたくない」という内容のシャウトで、完全なる酔っ払いのソウルフルな愚痴である(サイトごと消したので、現在は存在しない)。

 基本的に、僕はお酒が好きである。
 けれども基本的に物理で身体に悪い酒(安物に多い)が嫌いで、飲むのは好きでも飲まされるのは好きではない。
 当時は会社の(あるいは社長の)奢りで、つまりはタダ酒だったのだけれど、他人に奢られる酒は気を遣ってしまって、基本的にお酒の味がぼやけるので好きではない。好きなものもホイホイ頼めない。気を遣う。
 飲み放題なんて論外だ。
 店に対して安い単価という数の暴力を振りかざし、その代償として混ぜものの毒薬みたいな酒を「指定範囲から選んで」飲まされる羽目になる。
 飲みたいお酒は未来永劫飲めない。
 それを幹事や組織に強要される。
 だからお酒が好きなのに会社の飲み会は嫌いなのである。

 この辺りは話し出したらキリがない。
 その上、賛同者の有無を問わず、僕は「厭だといったらイヤなのだ!」という性格なので、いかんともしがたい。
 それが酔った勢いで表出したため、現象として傑作になってしまった。傑作の意味は辞書で調べてほしい。

 さて話を戻す前にひとつだけ。
 この文書は ── 先の喩えを借りるなら「傑作な」 ── 僕の愚痴である。
 愚痴なんて読んでも仕方ないものなので、読まなくていいと思う。
 なんていうと天邪鬼なアンチは揚げ足を引こうと躍起になって読むだろうし、僕本体を愛でる対象にしている人は矢も盾もたまらず最後まで読んでますます僕を愛でたくなってしまう可能性が否定できない。
 もうおまーら勝手にしろ! 今日は機嫌が悪いんだからナ!
 ほんとだぞぅ。ぷんすか!

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 僕という「裏庭の穴」に放り込まれる第三者の愚痴にはいくつかのパターンがある。

 まず、この「愚痴」について考えてみよう。
 辞書 ── 書籍版も電子版も参照できないので、webのものになる ── には、
言ってもしかたのないことを言って嘆くこと。」とある。

 ひとまず一般論を展開しよう。
 皆、何かしら悩んでいる。
 悩みがある。
 僕のようなノーテンキにも、ある。
 悩みについて誰かに愚痴を言う。

 その状況を分解しよう。
「誰か」との間にバイパスされた会話のテーブルに、愚痴は載る。

 ── ここに「自分自身」は含まれない。これは特殊論にあたる。
 自身との会話テーブルに乗せられた悩みは、愚痴にならない可能性があるので後述する ── 。

 会話テーブルをバイパスされた「誰か」は、その問題を解決する能力や権利や立場を有していない。
 話をすることで問題が解決される(あるいはその可能性が高い、もしくは解決に至らなくても改善やその糸口になる)場合、それは愚痴 ── 言っても仕方ないこと ── として成立しなくなる。

 よって愚痴とは、僕が飼い猫に向かって今年の茄子の収穫が少なかったことについて不満を並べることに等しい。
 畑を耕すのは僕であり、猫たちは茄子を育てることも収穫することもなく、茄子の存在というものさえ初耳だろうから、話したことによって来年の収穫が上がる可能性はまずないし、現在から過去に遡って苗木の成長が促進することもありえない。

 つまりその不満は会話テーブルに載るだけで、天気の話題のように、右から左に流れていく。その役目しかない。最低でも、問題を解決する方向に事象が動いてしまう話題ならば、それは愚痴とは言えなくなるだろう。

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 一般論から離れて、少しだけ卑近な例に近づいてみよう。

 実のところ、僕は他人の愚痴を聞くのが嫌いではない。
 これまでの観察の範囲からいっても、1人あたり1日3話題3フレーズまでは楽しんでいられる。
 実時間にして長くても2時間である。
 これは1話題40分から2時間に相当することになるが、ひとつの現象としての不満を、同じ言い回しをなるべく避けて伝える場合、だいたい話題が尽きるはずである。
 2時間も話そうと思えば、ちょっとした講演である。
 議題や状況は整理され、立場とスタンスは抽象し明確化され、各プロセス内での問題点はあらかた分析され、原因は解明され、対策は構築されているものを説明するのに相応しい時間である。
 だからそんなに長くなることはまずない。

 しかし愚痴を言う人たちはときどき馬鹿になっている(馬鹿というのは、存在ではなくて状態である。天才たる僕だって、寝ている間はただの猫だ)。
 まず状況が整理されていないから、議題が定まっていない。議題が定まっていないということは、その会話の目的が不明である。

 もちろんそれだって構わない。
 正直なところ愚痴を言う人もそこに登場する人も、自他の立場を誤解し、スタンスを曖昧なままにし、発言内容が具体的な割に意味が不明瞭なんてことはザラであり、プロセスはそもそも分解されておらず、問題の焦点は定まらず、原因は無視され、対策など考えてもいないことがほとんどだからだ。

 これらは愚痴の特性である。
「言っても仕方ない」というのは会話テーブルに載るだけの調理がされていないということでもある。
 先にあるように情報が整理されて境界が明確化され、方針が定まっていてゴールが視野にあり、戦略も練られているなら、それは愚痴ではなくなってしまう。
 テーブルに着いている私の前には、調理前の(大抵は泥や虫にまみれた)素材たる肉や野菜がただ放り置かれるのだ。

 そして彼ら ── あるいは彼女たち ── は言うのだ。
「これをどう思う?」と。

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 個人的に、正直な感想を先に述べておきたい。
「どうでもええがな」
 それが答えである。

 それはそもそも僕の調理したい対象ではない。
 あるいは中には調理法なんて誰でも知っていそうなものもあるし、場合によっては前人未到の、食材になるのかアヤシイものもある。どうしてそんなところに首を突っ込んで持ってきたのか知らないが、関わりたくないものだってある。
 いずれにしても興味はない。

 ただ僕は、その対象人物や、その人物とのやりとりを楽しむことができる。
 なぜといって、愚痴は誰かの不満を聞く格好の機会であり、不満というのは、その人がどんな欲を抱えがちで、どんな潜在的な人格 ── 価値観セット ── を持っているかをさらけ出すから。

 べつに弱みを握ろうとかそういうことではない。
 単に興味があるだけだ。
 主観の中で感覚される他人の行動から類推される動機や欲や感情というのは、観察された情報ではなく、観察の方法やその情報に対する主観そのもののアプローチを浮き彫りにしてゆく。
 その「人のありよう」から、僕は「なるほどこういう人たちもいるのか」と世を知ることができる。

 新聞やニュースを見ていても、どんなに勉強しても、人間を知ることはできない。
 今いる人間から知るしかない。
 それを知ることは、僕自身を知ることにもなる。
 僕の主観的アプローチを解析しながら、他人を知ろうとしているのだから、これは楽しい。

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 簡単に言うと、愚痴のゴールは2つである。
「あなたは間違っていない」
「相手は間違っている」
 このいずれかのゴールに到達できると、主観は現状を受け入れることができるようになる。
 だから僕はパズルのように、それを解いていく。

 なぜといって、愚痴を言ってすぐ、
「うん、君は間違っていないよ」とか、
「それは相手が悪いよね!」なんて返事が毎回、必ず、開口一番に飛び出してきたらどう思うだろう。

 最初は嬉しいかもしれない。
「猫氏はすぐに分かってくれる」「私と一緒なんだ」「まちがってなかったんだ」と喜ぶかもしれない。

 でも、即答はイカン。
 3回もしないうちに「話、聞いてないよね?」と叱られるだろう(とりあえず愚痴は聞いているのに)。
 人によっては「馬鹿にしてるのか」と怒り出すだろう。じつに楽しそうな場面である。

 よって、いきなりゴールを提示されて、毎回「あなたに聞いてもらってよかった」と言える人は間違いなく阿保である。愚痴を聞く価値もない。
「ちょっと待って、ちゃんと話を聞いて」と言ってもらえるくらいがちょうどいいだろう。
 相手と自分のレベルがだいたい合っていることは大事なことだと思うし、相手がいくら好みだからといって玄関でいきなり押し倒したり、押し倒されるのがウェルカムだったりするのはどうかと思う。
 もうちょっと手順を踏んだり、空気を読んでほしい。
 いろいろ普段書いていることと矛盾しているが面白いからいいや。

 いずれにしても、ある程度は第三者的な立場から整理/分析しながら、相手の感情的ゴールを目指すのが愚痴を聞く基本である。
 具体的な対策や、戦略的ゴール、問題解決を本当に望んでいる人は極めて少ない ── それは本来、相手自身の領分だから、愚痴を聞いてもらう相手とはいえ勝手に決定してほしくないのである ── し、仮にそれも含めて真剣に相談してくる相手なら本当に大切にしたほうがよい相手である。

 ちなみに「第三者的な立場からの整理/分析」について、いちいち真面目にとりあうのが面倒なときは、
「私は当事者じゃないからなんとも言えないけれど」
「あくまで一般論として聞いてほしいんだけれど」
「これは私感なんだけどね」
「昔、同じようなことがあってね、結局、解決しなかったんだけど」
とか何とかテキトーに前置きして、好き勝手に思ったことを言ってしまえばもっともらしく聞こえる。
 それで十二分である。カップヌードル4個分だぞぅ。

 よいだろうか、そのテーブルに載っているのは「愚痴」なのだ。
 真面目に取り合って真剣に取り組んでも、問題の当事者は相手だから、先に述べたとおり意見ならまだしも、目的や方針や戦略を勝手に「これがいいよ」と策定されたくないのである。
 とくにガールの場合は顕著で、昔から男たちは女たちの愚痴によるコミュニケーションにつまづいている。ちなみに男性でも最近は「まとも」になったようで、自分で最後は決めたいようだ。
「こうしたほうがいいよ」と誰かに言われたら「貴方の人生じゃないんだから放っておいてくれ」というのは、とてもまともだと僕は思う。

 だから聞いている僕は、真剣に考えても、真剣に対策はしない。その対策は「当事者が僕だったときは有効」な策でしかない。

 そもそも愚痴を言っている人は、視野が狭くなっている。自分の考え方と他人の考え方を、視線のレイザービームのように収束してぶつけ合っているから、視野が広いわけがないのだ。

 よって先ほど述べたとき、読者 ── キミのことだぞ〜ぅ ── は「デタラメだしヒドイな」と思っただろうけれど、テキトーに、あまり親身にならずに、あることないこと、思っていることも(思った以上にむつかしいが)思ってもいないことも言ってしまえばいいのだ。

 すると視野狭窄していた人は「待てよ、違う見方、考え方もあるのかな」といった感じで、視野を取り戻す。
 そうすれば自身で分析もできるだろうし、問題を解決しようともせず愚痴を言うより、ゴールを設定して、戦略を立てて、何か行動した方がいいことにも(自力で)気がつくだろう。あらかじめ分かっていることが多いが。
(希死念慮があり、自堕落なイキモノがこれを書いています)

 こんなことまで考えて愚痴を聞いているから、僕は愚痴の内容をまったく覚えていられないのである。

>>>

 ただしそうした真摯な姿勢(そう、テキトーであることが真摯なのだ)で臨んでも、うまくいかないときはもちろんある。
 話がループし始めて、何を言っても「瞳のレイザービームが収束しっぱなし」になってしまう人もいて、こういう人は同じ話を2回以上繰り返す。

 シーン(時と場所)は違っても人とセリフが同じであったり、相手が違っても状況が似通っていたりすれば、それは同じことを原因とした愚痴である。
 それを私(愚痴を聞かされる第三者)に繰り返し聞かせて、アドバイスは聞かない、視野を広げようともしない「あなたは間違っていない」といっても信じない、というのはもはや思考が停止しているのである。

 こうなると重症で、話し飽きるまで聞いてあげないと(第三者への)聞く耳さえ持ってくれない。
 人間嫌いの怯えた猫が、それでもエサが欲しくて物陰からこっちを見つめてにぃにぃ言っているようなものである。
 首根っこを捕まえて蹴り飛ばしてやりたいところだが(突然の暴言について、この場を借りてお詫び申し上げます)エサを置いて帰るか、辛抱強く待つしかない。

 先の「同じフレーズは3回まで」はこの状態で、愚痴を言っている相手も、話していてあまり楽しくない状態で、聞いている僕も相当なストレス状態に陥っている。
 だいたいこのあたりで僕の糖分不足も発生する。

 1日1食であるから、18時から24時くらいまでは、食事や入浴に当てているが、このあたりで掛かってきた電話が作業前で、なおかつ多件数で長時間(どういうわけか、愚痴を言いたい人が列を作っていることがある)になると、コンディションが悪くなる。
 アタマが働かなくなって生返事が増え、しまいに眠ってしまう。
 1時間を超え、ループし続ける愚痴は新鮮味もなく、さすがに僕も退屈になる。
 それが3件続けば夕刻は夜に、夜は深夜になる。
 メインテナンスの時間に無補給でそんなことをしていたら、体調が低迷するのは必然である。

>>>

 昔、ガールに怒られている最中に眠ってしまって泣かれたことがあるが、それもこんな低血糖がゆえの作用だったのかもしれない。
 取ってつけたように言い訳をしているわけではありません、ほんとだよっ!

 懸命に、真剣に、真面目に聞こうとすればするほど、僕のノーミソはカロリィを消耗してゆく。
 与えられた燃料は昨晩が最後なので、僕は代謝系を切り替えてアタマへの血流を落として、体表体温を上げ(深層体温を下げ)、グリコーゲンを作ろうとするのではないだろうか。

 結果、僕は馬鹿になり、眠ってしまう。

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 さて、最後に特殊論について。

 愚痴が愚痴にならないケースはいくつかある。
 その最たるものが「当事者に愚痴る」ケースだ。

 何故か、観察される範囲で、愚痴を言う人は影響力を持たない関係者か、第三者に愚痴を言う。ネットニュースのコメントなどがそうだ。なにか後ろ暗いことでもあるのだろうか。それとも思慮が浅いのだろうか。

 序盤で述べたとおり「相手や自分に問題を解決する能力や権利や立場」があれば、愚痴を言っている問題は解決する可能性が高い。
 そのいずれか、もしくはすべてを自分が持っておらず、あるいは仮に持っていても、問題の原因(多くは人間である)がより優位的だから愚痴になるのだろう。

 当事者と直談判すれば、それぞれの思惑は明確になるかもしれない。
 しかし自分が問題の原因に直接対処する能力などを持たず、もしくは原因となる人物が能力や権利や立場そのもので自分より優れていたり、あるいは能力や権利や立場「そのもの」が原因の場合、対処法が見つからないこともある。

 愚痴というのは分解すると、不快を感じたことの不満という感情を消化する作業である。
(だから問題解決は目的ではないし、問題解決法をアドバイスすると怒られることがある)
 共感によって消化できる人もいるし、話すうちに上記が整理できて、視野が広がった結果、消化できる人もいる。
 いずれも悪いことだとは思わない。
 食べた草を消化するのに石や砂を飲むイキモノだっている。何でもかんでも、ナマの未調理食材を自力で消化できる方がおかしいと言ったって、乱暴なことはないだろう。
 僕がたまたまその「石ころ」だったとして、役に立たない石ころよりは、役立つ石ころの方がいい。

 それでも僕は他人に愚痴をほとんど言わない。
 ── ただし冒頭に述べているが、この文書はその「僕にとっての愚痴」である。読むのは勝手だが、同意を求めるつもりも、意見を聞きたいわけでもない。
 僕が愚痴をほとんど言わないのは、そもそも人間を不満や不快の原因とは考えていないからだ。

 そこには3つの力が作用している。
 僕を不快にさせる人がその行動をとる原因。
 僕を不快にさせる人がとる行動という原因。
 僕をして不快に感じさせる僕の原因。

「なぜ自分が不快に感じるのか」ということは、実はとても大切なことで、にもかかわらず多くの人が素通りしてしまうポイントでもある。
 不快に感じるには、原因があって理由がある。
 それが力を発揮して、その力を受け取るから不快に感じる。

 僕を不快にさせる人が取っている行動が「愚痴がループして、長時間にわたっていて、話を終わりにしてくれない」場合を考えよう。

「愚痴がループして」「時間が長引いて」「体調が低迷したのに愚痴を聞くことを強要され続ける」から不快なら、最低でも4つの対処がその場で見つかる。
「ループさせない」「長引かせない」「体調低迷する前に補給する」「そもそも愚痴を聞かない」である。

 相手に何かを求めることは無駄だと思っているが、相手が僕を不快にさせる行動を取る原因は「僕に嫌がらせをしたい」のではなくて「僕に聞いてほしい不快だったことがあった」のである。
 だから「その不快を消化できるように(かつ消化の主体はあくまで相手本人であるように)会話する」のも対処である。最初から話を聞いている僕は、そもそも対処していることになる。

 信頼している相手の場合、これらのメカニズムも含めて僕は説明する。
 相手は相手の主観に基づいて、違う意見を教えてくれることもあるだろう。

「不快」とされる「問題」において、じつは自分は、常に直接の関係者であり、その問題に対処する能力も権利も立場も(厳しくいえば責任も)、すでに持っている、というのが僕の考え方である。
 ネットニュースを賑わせる事件や話題や政治でさえ「自分のもの」にすることは不可能なはずがない。
 その立場を選んで、不満を並べているだけの人というのは、その立場に甘んじて不満を並べたいだけの人ではないかと僕は思ってしまう。

 だから僕は、本来なら愚痴に発展しかねない「不快」とされる「問題」について、他人に話す価値を見出さない。
 自問自答で十分だからだ。
 自分の考え方や対処法を変えればそれで現実が変わっていくからだ。
 政治に不満があるなら、投票に行くなり、被選挙権を行使するなり、署名を集めて国会に送るなり、官僚になるなり、地元の代議士に会うなり、ネットニュースにコメントを書き連ねるなり、方法はある。

 そしてその方法は、僕一人で決められる。

 ひとりごちる「自分」との対話テーブルに載る「悩み(愚痴のタネ)」は、対応によって「考察」「悪口」「対策」のように分類されるだろう。
 このうち「悪口」は愚痴の意味に沿うようには思うが、さほど事態は改善しなさそうである。
「考察」の場合 ── この文書がまさにそれだが ── 視野を広げ、自分でも思っていなかった意思を新たに、あるいはより強固にすることができるだろう。
「対策」は、もはや愚痴ではない。
 壁がダメになっていたらモルタルを塗ればいい。
 初めてだから、お金がないから、時間がないからと言い訳をするのも、できることから始めようと決意するのも、実行するよりは簡単なことである。

 ちなみに『「不快」とされる「問題」』を「不快とされる問題」と表記しないのは、「問題」は事象であることも多いのに対して「不快」はただただ感覚の、すなわち自分が存在することに端を発するものだからである。
 「問題」とされる事象は、確かにあるのかもしれないが、「不快」としているのは、その時、その立場で、その視座を使っている自分だけの感覚かもしれない。

 愚痴を言ったり聞いたりすることに、ここまで熱心に、真剣に悩む人も少ないかもしれない。
「愚痴ばかり言っているヤツがいてさぁ」と【誰かに愚痴ればいい】だけだ。
 あるいはそんな些事にかまける段階など、とうの昔に超越してしまった、人生の達人ばかりなのかもしれない。

 僕にはいずれでもかまわない。

「裏庭の穴」という仕組みが、僕や僕の身近な人に有用であるかぎり。

>>>

 不快というのは、実際、有用なものだ。
 不快だから、人は道具を作り、それを使い、環境を整備する。
 不快を不快でなくするために、数々の発明がされた。
 発明は、簡単に見えるものも多いかもしれないが、不快だという不満を、不満のまま、愚痴って終わりにしていたら、到達できなかったことだろう。
 手動の灯油ポンプだって、手を汚さず、重い物を持ち上げる苦労から、誰か(母親だったか)を解放したいという一途な想いから生まれた製品だ。

 不快に思うこと、不快を共感すること、大いに結構ではないか。
 それを改善するために、僕たちには、ノーミソが備わっているのだ。

 だからがんばれボクは寝るぞ〜。



(うぬは天使か、眠りの使いか)





201125

 数ヶ月前、納屋で左官こてを見つけた。
「これで壁を塗れ」という、ネコノカミサマの啓示だろうか。3つも出てきた。

>>>

 コロナウイルス騒ぎより数年も前から、僕は人混みを避ける傾向にある。
 行列に並ばない、渋滞する道路を使わない、混雑する場所に行かない。
 人混み酔いだけが原因ではない。時間が惜しいからだ。
 だから、人が集まる場所と時間を避けて、たとえば昼の飲食店ならアイドルタイムを狙うし、夜の飲食店ならピークタイム(20時の前後1〜2時間)を避ける。
 開店直後もよい。
 独りなのであるから、多数派のピークオフを狙えばいいだけである。

 自動車で走るのも、深夜や早朝がいい。
 電車も、ラッシュタイムはなるべく避けていた。
 
 同じ時間帯に人間たちは動き出し、同じ場所を目指して集まる。
 朝、昼、夜。だいたいピークのタイムベルトが存在する。
 小学生の頃から、これが嫌で仕方なかった。
 移動することが大嫌いだったのだ。

 だから、フレックスタイム制の会社に勤務していた時は、かなり有意義だったものの、もともとの性格が怠惰なので遅めにやって来て、早く帰ったりしていた。
 まぁ、あまり仕事を与えられない環境だったので、そこにある時間を(やはりというべきか)自由に使ってはいたが。

 給料泥棒といえなくもないことが、何度かあったように思う。
 僕は「8:2の法則」の、2割側をたいてい目指して行動するので、働きアリでいえば「ぜんぜん働かないタイプ」に属してしまう。

 一方で、そもそも給与に準拠して働く気になるタイプではないので、無給でも仕事が面白ければずーっと働いてしまったりする。
 経費請求できない道具を私費で購入したりするなんてこともよくあったし、会社からの電話を24時間365日転送される状況を5年ほどは続けていて「プライベートとオフィシャルの時間に区分がない労働環境」のほうがしっくりくる性質のようだ。

 これで几帳面な性格なら、独立しても間違いないと思うのだが、いかんせん几帳面さというものを理解できない。
 理解できないものは体現できないので、僕は独立して商売を始めると自滅すると自身を見積もっている。

>>>

 ホームセンタに恐る恐る出かける。
 軽トラを買っておいて本当に良かった。じつによいタイミングではないか。

 幸い、思ったほどは人がいなかったので「手でも塗れるお手軽モルタル」的なモノを買う。
 バケツに入って8800円だったか。

 軽い気持ちで作業をした失敗を元に、注意点を。
(こんな注意書きが役に立つのは、僕自身をおいて他にはいないが)

◯ マスキングはきちんと四方にする。
(上部を省略したが、ダメである)
◯ 足元には新聞も使って養生する。
(その気がなくても、飛沫がこぼれた)
◯ 薄く伸ばすために、コテに小さく盛る必要はない。
(大きく取って、小さく塗り伸ばす)
◯ なめらかに均したりするには、壁材がこて面に付着している状態で行う。
(直線部、塗布物のない面、水や薄め剤のついた面は塗布物との摩擦係数の違いで壁材が付着する)
◯ 角の処理は最初にする。
(始末がむつかしいので、精進する)
◯ 水性と書いてあっても換気状態を作る。
(防塵防毒マスクを使う必要があった)
◯ 猫は乾くまでケージに入れておけ。

 土壁の上に塗ったのだが、今日は下地の硬化剤を塗っていない壁に直塗りした。重ね塗りが必要かは、様子を見ながら考えようと思う。
 直塗りが大丈夫なら、床間の壁と押し入れの壁面を改修できる。
 押し入れの作り付けの棚を壊したところ、セメントベースのモルタル壁内部にまで骨が及んでいた。
 骨をベースに棚を作ってから、モルタルで壁を塗り込め、その上から漆喰を塗ったようなのである。

 ために押し入れ内部は、部分的に ── しかしけっこう壊滅的に ── 損壊している。
 お手軽モルタルで塗り込めれば、まぁまぁ見られるようになるだろう、多分、きっと。そう思っておこう。

 一箇所(1900×900 ほどか)を塗ったら(今日もいい仕事をした)ような気持ちになってきたのでおしまいにする。
「何事も最初が肝心」というのは、最初にハイペースで進めればいいということではなくて、最初に全体のペースや空気感を掴むことが大事だという意味だろう。
(「太田市の高田純次を自称したい」と言っている人がこれを書いています)

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 少しだけ、モテの話を。
 モテが自動化するサイクルになり始めた時に危機感を覚えたのは「何でも ── あるいは誰でも ── ウェルカムにしてしまったら収拾がつかなくなるな」ということ。

 なので(まだモテもしないうちに)「美人で、アタマのいいガール限定」とした。
 年齢制限を設けなかったのは「自認できるアタマの良さ」というのはある程度の年齢に集約されると考えたからである。
 実のところ頭の良い人は、ただカタチが綺麗なだけの阿呆(失礼。)よりも、一緒にいるだけで気持ちがいいもので、これは年齢に関係がない。

 しかし「自分はそれなりにアタマがいい」という誤認まではフィルタできなかった。

 もちろん、ただただ多数にモテたいという戦略であれば、それでもよいのだろうし、そもそもそんな条件を設定する必要はない。

 新しい戦略として「特に条件は設定しないが、自身の情報の公開範囲を限定的にし、多数に追いかけられるタイプではないモテ(それ、モテっていうのか?)」というモデルを構想した。
 構想しただけで、体現できるとは思っていない。
 いかんせん、理解が追いつかない。
 理解できないものは、体現できない。

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 モルタルを塗るのに、僕はまだwebの情報を入手していない。
 とりあえず経験してみてから、調べたい。

 コンピュータやwebが好きで、それを好んで使う人にとっては意外なのかもしれないが、僕はコンピュータ(携帯端末含む)やwebを、単なる遊び道具としか見ていない。

 YouTube やweb上の実用系お役立ち情報なんて、半分くらいただの流行りものだと思っているし、あんなものをベースにして人生設計や資産運用やトラブル対処法なんてものを知った気分になっている人間は、有り体に言ってちょっとした白痴じゃないかと思っている。

 TVを見なくなって20年ほど経つし、新聞も同時期から読まなくなった。
 定期刊行物はときどき買うこともあるが、科学か経済系のものでさえ1年ほども読んでいると(結局ビジネスだなぁ)と思って辞めてしまう。

 日本で流行するのは昨今だとたいていがフィクションのストーリィだが、視覚情報のほうが優っているようで、爆発的に売れている小説なんて聞かなくなったし、ノンフィクションでさえ大した影響を世には与えていなさそうだ。
 本屋にいちばん多く並んでいるのは、コミックとライトノベルで、なんというか128番煎じみたいなありがちな設定をたくさんの人がシェアしてパイを分け合っているかのようにも思える。

 まあ確かに、ジャパニーズハーレム設定なんていうのは、リアルよりフィクションかヴァーチャルのほうが苦労がないぶん楽しいものね。

 いずれにしても、やってみてから調べる方が身につくもので、最終的に早いものだと僕は自分の体験上……いや、YouTubeで予習したほうが早かったものもあるなぁ。
(いつにない展開で唐突に終わる)



 考えているフリをしていても、寝てばかりの子は結局バカなのだよ。

2001123




(「多田くんは恋をしない」のオープニングテーマをオーイシさんが歌っていなかったら、知ることのなかった曲。いい曲だけれど、知らない幸せもあったのかな。多分)

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 四十九日である。

 母上は紫色の好きな人であったので、花屋で花を買い、届ける。
 藤色が好きだったのか、ヴィヴィッドなバイオレットを好んだかは、よく思い出せない。
 ただ記憶の中の母上は、鮮やかな紫色の服を纏っている。
 よく歌っている。
 髪が長くて線の細い、きれいなひとだった。

 どうやら納骨はせず、散骨にするらしい。
「母上は、寒いのが苦手だったからね」と長姉が言う。
 春までお骨はそのままらしい。
 ホネというのはオブジェクトだ。
 母上というのは、オブジェクトとは別のものとして記憶の中にあり、それは僕の一部の人格(仮想人格でいえば青猫β、実人格でいうと6歳までの僕の記憶)の中に残っている。
 あるいは、そこから復元される仮想人格を頼りにするよりない。

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 6歳までの僕と、8歳以降の僕には、明らかな断絶と乖離がある。
「8歳以降」に属している現在の僕は、だから、母上がいない世界に順応した僕である。
「6歳以前」の僕は、だから、母上のいない悲しみを知っている記憶群ではある。
 そしてそれらの一部は「β」として再構成され、僕という全体にシミュレートされ、フィードバックされている。
 これは趣味ではなくて、僕の生きる気力を構築するのに必要なことだ。

「6歳以前」(実人格であるため、ほかに形容のしようがない)は、当時自覚のあったとおりに無力である ── どうか6歳児に多くを求めないでほしい ── 。
 無力であるということは役に立たないということだ ── くれぐれも何かを求めないでほしい ── 。
 幼稚だし、感情的だし、無知である。
 理屈で納得してもらうことがむつかしいから、僕は彼(あるいは彼女)にはいつも手を焼いている。
 僕の記憶が統合されておらず、人格が分裂して表出するのであれば、一時記憶の根なし仮想人格と、記憶のすべてを制御している中核人格とに分かれるのだろうけれど、僕はそういうインタフェイスを「面倒だから」使わなかった。
 記憶を制御するというのは、その場で嘘をつくこととは根本的に違うものだから、疲れるのである。

 そんなことを脳がしでかせるのは、実環境のストレスが自身の耐性をよほど大きく上回る必要があるだろうし、少なくとも僕は、ストレスが低かったか、耐性が高かったか(どちらも同じことである)、人格の分裂はしなかった。

 ただ「6歳以前」は手が掛かり、役に立たない割に非常に重要な存在で、封殺したらしたで、僕自身の現行人格に破綻を来すことが予測される(あるいは確かにそういうことがあったため、僕の肩には傷がある)。
 分かりやすくアダルトチルドレンとして存在している(あるいはしていた)僕は「6歳以前」に名前を与え、自身で育ててケアし続けていて、今後もその必要がある。
 過去の自身を否定し、無視するなんてことは ── 親殺しのパラドクス同様 ── 事実に矛盾して、理屈も感情も制御できなくなってしまう気がする。
 僕のコンプレクスのなさは、僕によって人為された結果である。
『「6歳以前」と比較して』できることを増やしていった8歳の僕にとって、無力な彼は恰好の比較材料であっただろう。当の「6歳以前」の気持ちなど知らずに。

 子供の頃から子供が嫌いだったのは、おそらくその「役に立たない」という価値観のせいだ。
 けれどもやはり、ただ立ち止まって泣いているだけでは、現実は変わらない。
 悲しい、悔しい、憎いという感情のループの中にあって他人を悪者にしているだけでは、物事は良い方向には変わらない。

 だからあのとき、8歳の僕は、6歳までの僕の記憶と価値観のほとんどを ── 後年、家じゅうの写真をそうしたように ── 捨てたのだと思う。
 たぶん、そうしないと進めなかったのだろう。

 だからどちらも、僕は責める気にはならない。
 どちらも正しいし、どちらも間違っていないし、どちらの言い分も分かるし、いずれの対処も適切だ。

 ただ僕自身「6歳以前」で、感情がぷつと切れてしまっているから、エヴァンゲリオンの登場人物よろしく「こんなとき、どんな顔をすればいいのか分からないの」となる。
 誕生日のプレゼントなどが分かりやすい。
 笑えばいいのかもしれないが、別に嬉しくて笑うわけではない。
 お礼は言うけれど、そんなに本当に「ありがたい」ことで、なによりそう感じているのだろうか、僕は。

 あるいはもしかしたら、誰でもそうなのだろうか。疑問を抱きつつ、にこやかにはしゃいだりできるのだろうか。

 僕は悲しい時、苦痛や怒りを感じている時も笑ってしまいがちだ。
「6歳以前」と僕が繋がっていないと、僕はたいそうデタラメなインタフェイスで他人と接することになるように思う。
 ために引きこもる時があるし、メールの返信さえうまくできないことがあるし、この場を借りてどさくさに紛れて言い訳すると、コメントのリプライを「しない」期間がある。

 緊張したり、不安な時ほど、インタフェイスがデタラメになってしまうから、コミュニケーションで齟齬をきたす気がする。

「そんな言い方しなくても」とか「こう言ってくれればもっといいのに」と僕はIRLではよく人に伝えるが、web上ではダイレクトなやり取りをすることはほとんどないし、僕のコメントに違和感を覚えた人がいても、まず教えてはもらえない(違和感を覚えたら本当は教えて欲しいです)。

 だからある程度、自分のインタフェイスが正常だと感覚できないときはコメントしないように、数年前から方針を変えた。
(そうしたら「自分が正常だ」と感覚できることのなんと少ないこと……!!)

 そうした他人とのやりとりのためにも ── あるいはそのためにこそ ── 「6歳以前」とうまく繋がって、育てる必要があるのではある。
 僕が彼女(およびその感情)をないがしろにすると、他人の情緒というものが、ほとんど理解できないようになってしまうから。
 つまりそれは、僕が間接的に他者を蔑ろにすることになり、最終的に「こっち側」の僕に不利益(下品な言葉だね)をもたらす。
 ゆえに彼(あるいは彼女)と断絶して成長した僕は、それでも彼(あるいは彼女)を大切にし、時に甘やかして、時に叱って、いっしょにあれこれを楽しみ、いっしょにあれこれを悲しんで、いっしょにあれこれを怒り、いっしょにあれこれを考える。
 つまりは愛でる必要があり、愛でたいのでもある。

 だからといって、僕でもない他人に「6歳以前」を含む僕というパッケージを愛でよ、慈しめ、いたわり崇め奉れというのも乱暴な話である。
 そもそも彼(あるいは彼女)の記憶は、悲しみと痛みを最後に断絶されている。

 実母と一生のうちに2度も別れることは、多分(僕は今のところ「こっち」側なのでこうなる)稀有な経験であり辛く悲しく痛いことなのだろう。
 ひとたびはそれを越えて、独りでいることの気楽さ、独りで何もかもを制御する楽しさ、新しいことを身に付ける充実感によって自分を満たした。
 その価値は、理由と同義だった。
 他の誰かがいて、誰かに与えられるだけで満足していたら見つからない幸せだったからだ。

 一方で彼は、なんの能力もない段階の僕だ。
 感情に足を取られて転んで立ち上がれなくて、置き去りにされた存在だ。
 だから誰かに起こされたがっていて、誰かに抱き止められたがっていて、寒くて震えている。

 それなら僕が、彼女を抱き上げる。
 なぜといってその手を他人に伸ばすことを、彼も僕も、じつは本当に恐れている。

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 自己憐憫は、人を前に進めなくさせる。
 だから僕は、僕自身を憐れんではいけない。
 誰かが助けてくれる環境にある人は泣き叫べばいいだろうけれど、僕の場合は、あくまで僕の場合である ── だから。
 僕にとってそれは、子供の頃に自身の手で刻まれた傷跡だ。

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 しかし、つまりそれは僕が自身を憐憫しているところを誰にも目撃されず、あるいは仮にされても僕自身によって僕がぬくみを取り戻し、涙を流しながらでも立ち上がるきっかけになるのなら、自己憐憫してもよい、ということになるかもしれない。

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 だから僕は「6歳以前(あるいはβ)」と一緒に、歌って、悲しんで、涙を流して、新しい風景に驚いて、新しい工作に胸を躍らせて、猫たちとのコミュニケーションを楽しんで、いろいろな料理を味わって、自分の(まぁ、僕の、なのだけれど)身体を撫でて、ゲームやテクノロジィに未来を見る。

 実のところ、僕自身が学ぶことも多い。
 彼ら(あるいは彼女たち)は多感で、僕の想像しなかったリアクションが待っていたりするし、オトナになった僕が忘れている優しさや気遣いを見せてもくれる。

 僕は彼(あるいは彼女)とそれを体験し、僕がどう感じて、それがれどういう理由なのか説明する。
 彼(あるいは彼女)も、それを教えてくれる。

 それで僕の記憶が、少しスライドする。

 僕は孤独じゃなかったわけではないけれど、それは豊かだった。
 僕は寂しくなかったわけではないけれど、それで誰かを傷つけたりはしなかった。

 僕はひとりだったかもしれないけれど、ひとりだったわけではなかった。

 いつも記号かなにかの象徴のように、猫がいる。
 ボクの記憶は、猫に彩られている。

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 それなら。
 もう少し、生きていられる。

 それなら。
 もう少し、自分を許せる。

 きっと誰かを傷つけるだけだから。
 自分の肩を抱く。
 僕は、僕自身さえ傷つけるかもしれない。
 傷を撫ぜて、そう思う。

 これは彼(彼女)が作った傷ではなくて。
 僕が作った傷だ。

 きっと無力なのは、僕の方だったのかもしれない。

 最初から。
 きっとそうだったのかもしれない。

我を崇め奉るがよいぞ。
我こそは森羅万象を司る「箱の中の必然と偶然、有象と無象、生と死、赤と緑とキツネとタヌキを分かつ者 ── ネコノカミサマ」なるや。

いいえ、あなたはただの猫です。


201121

 最近あまり、ゲームをしている時間がない。
 いや、時間ならある。
 たぶん自由な時間の潤沢さにかけて、僕は平均的な人よりも格別に裕福である。

 しかし目覚めて部屋のリフォーム作業をして、解体したり掃除をしたり、廃材を焼却炉で燃やしていると、あっという間に半日が過ぎる。
 汚れてしまったらシャワーを浴びる。
 ときどき事務処理がある。
 疲れると昼寝をする。
 体力と気力があればワークアウトをする。
 晩ごはんを作るときは週の半分くらいである。
 いずれにしても貴重な一食だ。味わって食べる。
 眠くなって寝てしまう。

 これである。
 結果として、ゲームが進まない。
 もっともシーケンシャルにストーリィが進捗するようなゲームを好まないので、進まないというよりは、ゲームの世界に遊んでいないのである。

>>>

 今日は個人的な音楽の話。

 大石昌良さんのことを知ったのは「けものフレンズ(第一期)」がきっかけだったが「けものフレンズ」を見たのもかなり一般から遅れて、全話放送が終了する頃だった。
(いかんせんTVに繋ぐアンテナケーブルを持っていないので、TVを見る機会が5年ほど、ほぼなかったため、ネットで見る必要があった)

 第一話のCGのひどさには苦笑したが、次第に好きになった。
 何の気無しに聴いていたオープニング曲が、じわじわとボディブロウのように世界を表現してゆく。
 気がつけば歌えるようになっていて(なんだかいい歌詞だなぁ)とさえ思うようになっていた。
 最終話のオープニングの挿入の仕方など、第一話と同じスタッフが手掛けたとは思えないほどだ。

 ギターで弾けたら楽しいだろうなぁ、と大石さんが弾き語る動画を見て(こらアカン)と諦めた。
 何事も諦めが肝心だ。

 そのあとは、あまり気にしていなかったのだけれど、ふとしたきっかけで「トライアングル」を聴いてびっくりした。
 ギターでこんな演奏ができるのか! これができたら楽しいだろうなぁ、と思いつつ(さすがにこらアカン)と諦めた。諦めは肝心だ。

(間奏を見て言葉を失った)


 スレスレでも弾けそうなのはないかなぁ、と思って見つけたのが、演奏解説動画の見つかった「君じゃなきゃダメみたい」である。未だに間奏まで辿り着かないままおわってしまう。1番歌えればいいじゃない? 的な。
 少し弾けるようになってから、アニメも見た。
 めっちゃ面白かった。
(感想文が小学生)


(イントロが満足に弾けるまで、半年かかった)



 それで、大石昌良さんのことをどう思っていたかと言うと、この時点でなお、どうも思っていなかった。
 アーティスト。音楽クリエイタ。ギタリスト。
 才能と運に恵まれ、高い表現力で現実世界にモノを生み出す努力を惜しまず、多くのファンに認められて、作った作品で経済的自立をしている人。

 それだけだ。
 楽曲は好きだとしても、技術に憧れたとしても、僕にとってはどうでもいい、ただのアーティストでしかなかった。

 しかし、ずっと(退屈そう)という理由で敬遠していた「ピエロ」という曲を聴いて、涙が溢れるくらい驚いた。
 こんなに楽しそうに歌う人は、歌が大好きな人なのだ、と思って嬉しくなった。

(どこがアドリブか分からない)


(おなじみのメンバー紹介が楽しい)

 以来、大石昌良さんの曲は、カバーも含めて聴いてしまう。いい声だ。
 僕自身のギターの技術なんてどうだっていい。
 楽しく弾けて歌えればそれでいいんだ、と思った。
(どうせ誰にも見せないし、聴かせないのだから)

 昨今、結婚したと聞いたとき、古い友人の結婚の話を聞いた時より嬉しく思った。
 僕は立派なファンである。

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 さりとて、ギターの練習もしばらくしていない。
 3日していないと1ヶ月前のレベルに戻ってしまう。
 1ヶ月弾かなければ1年前だ。

 リフォームは楽しいが、たまにはギターも弾こう。
 阿呆みたいに難しいけれど、だから余計に弾くことも歌うことも楽しい曲が、たくさんあるのだから。



(アヲはときどき、運転中の私と一緒に歌ってくれる)

201120

 姉に誘われたので、猫を連れて家に泊まりにゆく。
 その帰りの今日、エンジン不調で車が止まった。
 道半ば、13kmほどを残しての国道上である。
 ボンネットの隙間から煙が上がり始めたので歩道をまたいで駐車できる場所に停止したところ、エンジンルームから破裂音(バッテリィかな?)もしたので、猫を連れて外に逃げ、保険会社のレッカーサービスを手配する。

 しばらくして、煙が収まったので荷物を外に出し、弟子に電話したものの、出ない(レッカーは、人は運べないので別途手配を要する)。
 BP(古い友人である)は運送業なので、声をかけずにおく。
 TU(古い友人である)が犬の散歩をしていたので、迎えを頼む。

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 困った時に他人を頼ったことがほとんどない。
 子供の頃からそうだ。
 親は仕事に忙しく、ときに障害があり、入院していることも多く、ある時期からうちは貧しかったからお金のことも自力でなんとかする習慣がついた。
 姉たちは家を出て、それぞれに暮らしていたから、頼る対象ではなかったし、恋人が何かのあてになった試しはないし、妹などは論外である。
 というのが僕のこれまでの人生である。

 僕は家事を覚え、仕事を覚え、経済的自立の手段を身に付け、自律した生活拠点を構築する術を学んだ。
 高校へは奨学金を使って入学したし、実家を出るときは金銭面も自分だけで手配した。(当時の恋人にお金をもらった事実はあるが)

 骨折して半年ほど休職して、生活が立ち行かない寸前の経験もしたが、死ぬことはなかったし、そのときも親を頼ることはなかった(実のところ、父親にお金を貸していたので、とくに金銭面ではアテにしてはいけないと思っていた)。

 これはなにも、僕がそれだけ苦労したということをアピールしたいわけではない(だから恋人にお金を貰った事実も書いている)し、僕以外の恵まれている(?)人のことをとやかく言いたいわけでもない。
 他人は他人、自分は自分である。
 ただたまたま、僕はそうやって他人を頼らない選択をしてきたし、逆に言えば、他人を頼るのがとても下手である。

 たまたま保険の仕事をしていたので、自動車事故にも慣れているし、いつ壊れてもおかしくない車に好んで乗っているので、この程度の機械的トラブルも慣れている。
 メカニクスやエレクトロニクス、ソフトウェアにいたるまで、テクノロジィへのアレルギィもないので、この程度のことで驚く必要も感じない。
 電気やガスや水道が止まっても、なんとも思わないのは、誰も頼らず生活していた日々に身についた図太さだが、こういうのは身に付かない方が上品でいられるとも思う反面、同時に、そうしたライフラインの停止によって鬱になって死んでしまう人がいるとして、その気持ちもよく分かるから、よかったようにも思う。

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 トラブルと名のつくものの大半は、客観的にはさほどでもない、というのが経験上の見立てだ。
 トラブルというのは、それが起こるもっと前に兆候があり、その時点で対処していれば未然に防げることが多い。
 今回も例に漏れず、しばらく前にエンジン警告灯が点灯したことがあったのだが、しばらくしたら消えてしまい、それ以外に不調もなかった ── 何よりそんなことはそれこそ頻繁にあることな ── ので乗り続けていたのだ。

 エンジンの異音が聞こえてきた時も(まだダマしならが乗れるかな?)と考えていたくらいである。
 結果、煙が出てきたわけだけれど。

 初めてで、対処や連絡先も分からないと困る人も多いだろう。
 保険会社の緊急時の連絡先を、WEBサイトなどで確認することさえ思いつかない人もいるし、加入している保険会社すら思い出せない(あるいは全く知らない)人もいるはずだ。

 レッカーを待ちながら、ケージの中で不安そうにする猫たちと話しながら、煙草を吸って時間を潰す。
 TUも捕まらなかったら妹に連絡して、それもダメならタクシーを拾おうと考えていた。
 タクシーを最後の選択肢にしたのは、単純に、猫と同行する交渉を想像して嫌になったためである。
 友人も、頼れる姉妹も少ない上、頼りになる恋人は見たことがないし、親もいない。

 ただし仕事もなければ、家族もいないので、重たい猫どもを持って(アヲは肩に乗るので多少はラクだが)歩いて帰っても問題はない。
 翌日、いつもより激しく疲れているだけだろう。

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 僕が苦手とするトラブルというのは、やはり対人関係である。
 他人の常識というのは、慣習も含めて理解できることが多い。
 しかしときどき、どうにも分からない人がいる。
 特に「昨日言っていたことと、今日していることの関連性が不明」というタイプに多い。
 僕自身、額面上、そのように公言している。
「昨日と今日とで、言っていることが一貫している方がおかしい」とまで言うこともある。

 しかし他人に対しては、なるべく、インタフェイスを一貫させておいた方がコミュニケーションには便利で、有利に働く。
 だから最初から「ワタクシはネコですしヘンナイキモノですし、ガールと見れば押し倒しますし、昨日と今日で言っていることが違うタイプです」と宣言する。
 あとの評価なんて、勝手にさせておけば良いのだ。

 しかし他人の多くは「自分は一貫している」ということを正義だとするあまり、矛盾し始めて、怒り出す ── いわゆる逆ギレというものをする ── 人がいる。
 自分が正しいとされる場所にいないと気が済まない上、事態が自分の思うようでないと気が済まない。
 こういうタイプは挙げ句の果て、他人まで巻き込んでジャッジをさせるのだが、お金で雇える弁護士だって財布を持っている人の味方をするものであるから、推して知るべしである。

 僕は自分が正しくない場所にいることについては特に抵抗がない。
 自分が一貫しないことについては最初から宣言してある(そんなことは、流動的な環境を生きる上で当たり前のことではないか)。
 自分の欲(あるいは理想だとか目標だとか)を満たす上で、他人からどう評価されるかは、最初は気にしない。

 結果として、衝突する他者は「私が正しいから従え」となり、僕は「理にかなわないから従えない」となる。
 相手の欲はたいていその時点でスライドしていて、当初掲げていた問題の解決ではなく、立場の違いからくる「正しさ争い」を軸にしてしまう。
 もちろん、表向きだけでも従っておけば問題のないことの方が多いのだけれど、ときどき、そこで譲ると相手も自分も自滅する選択を相手が突きつけてくることもある。

 抽象的でわかりにくいというなら、少々生臭い話になるが、パワハラやセクハラと呼ばれる現象がそうだろう。
 最初からそうだったのかは分からないが、欲求の軸がズレて、それを無理やりねじ伏せるだけの欲の強さを持つ方が、一方的にねじ伏せにかかってくる。
 大人数でやれば、リンチや輪姦である。

 相手も含めてお互いに、本当にそんなことを望んでいるの? と、問いただしたいものだが、限られた空間や人間関係の枠の中で、強い人間は自分の欲に正しさの皮を被せて、聖人ヅラして他人を喰いものにするのだ。嗚呼オソロシイ。

 僕は自身をケダモノだと思っているからこそ、正しい側に自分を無理やり置きたくないし、他者と衝突しそうな時はなるべく譲ってしまいたい。
 ただセクハラやパワハラを受けそうになったとき、自分や相手を守る最適な方法は「受けて黙っていること」ではなくて「抵抗してでも受けないようにすること」だろうし、そのためにこそ力は使われるべきだろうとは思う。

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 幸い、僕はたいていの場所で、たいていの場合において、トラブルに巻き込まれない。
 カツアゲにも遭わないし、オヤジ狩りに遭う前にそんな文化は廃れたし、金銭的トラブルについても対処する術を身につけたし、パワハラやセクハラもたいていは何とも思わないし、思った頃には対処できるようになった。
 ガールについても「狂人」タイプは見分けがつくようになったと思う。

 それでも、一貫しない相手の欲のメカニズムを解析するのは(スクランブルされた情報のように)簡単ではなくて、手間の割に得るものは「今までと変わりがない日常」でしかない。
 もちろん、それが脅かされるならあらゆる手を打つ必要もあるとはいえるが、負けたところで尻尾の1本を引きちぎられるくらいだとしたら考えてしまう。

  さて、この尻尾1本のある日常と、ない日常、尻尾1本を賭して守るべきなのか、それとも大人しく譲って仕舞ったほうがよいのか ── と。

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 機械が壊れて煙を出している。
 眠る場所に戻れないかもしれない。
 今日は猫と凍えながら、歩き詰めるかもしれない。
 それがどんな苦労で、トラブルで、パニックすべきほどのものなのか、僕には見当もつかない。

 なんでもないことではないか。
 自分の尻尾1本守るだけのために、単身、他人の尻尾をむしり取ることを思えば。
 まして自分の尻尾はまだ6本も残っているというのに、相手のそれは1本しかないともなれば。

 あるいは私も最後の1本になれば、躍起になるのか。
 あるいは彼らも最初は、9本の美しい尻尾をたくわえていたのか。

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 十数年ぶりに、TUと数時間話す。
 だいたい僕は裏庭の穴のような存在なので、彼の愚痴を聞く。
 心のシャウト、ソウルの叫び、すなわちそれは、公言できない秘密や行き場のない悩みだ。
 僕はそれを、いつものとおり穴に放り込んで、それをダレカが咀嚼してしまうから、僕には何も残らない。

 そしてみな、オトナになってゆくのだ。

 僕だけずっと、コドモみたいだ。

 あんなに僕は ── いや今だって僕は ── オトナになりたかったのに。

ひなたのふたり。







追伸。

 ネコノカミサマ ── 。
 ボクの尻尾は、少しは本数が回復したのでしょうか。
 それともこれを失えば、ボクはオトナになれるのでしょうか。

201115

 春頃から、NaClO(次亜塩素酸ナトリウム)水溶液 500ppm と 1000ppm をスプレーボトルに入れて使用している。
 NaClOは、いわゆる「塩素系漂白剤」の主成分である。
 500ppm は布類を浸漬し漂白/殺菌したり、お風呂を出てから床面やパッキンに使っている。
 当然ながら相応の毒性があるので、500ppm といえども雑に扱うととんでもない事故を起こす。

 1000ppm はトイレ掃除用である。

 500ppm 水溶液に強アルカリ洗剤(マジックリン)的なものを5%ほど混合した界面活性強化版も作ったが、樹脂パーツ(たとえば外したエアコンフィルタ)に噴霧し洗浄殺菌したりはするが、毒性も高いので相応に(ゴーグルやマスクやビニル手袋などで)防護し、風呂場で換気しながらでないと使えない。

 薄い溶液なので匂いもわずかであり、アルカリによる皮膚の溶解も起こったように感じないのだが、表皮の常在菌を殺菌し、皮脂が分解され、数分で表皮はバサバサのボロボロになる。
 これが粘膜に付着すれば、ただではすまないことは想像に難くないはずなので、試す人は良く勉強してからにしてほしい。

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 実のところ、不織布マスクの洗浄には、界面活性強化版を利用していた。
 マスクはもはや品薄では無くなったが、洗って使うのは斬新で、かつ便利だった。
 どのみち僕は買い物に出かけたときの数十分くらいしかマスクをしないから、その都度捨ててしまうのはいささか勿体ない気がしてしまう。
 しかしマスクを「明日も使おう」と置いていても、捨ててしまったり、取り置いたことを忘れてしまう。
 だから、マスク専用洗濯かごを用意し、1週間分くらい溜まったらまとめて洗っていた。
 なに浸漬させてしばらく置いて、数回、よくすすぐだけである。ただし万全の防御体制で。

 新しい不織布マスクを買ったものの、どうも使い捨てる気にならなくなってしまった。
 たいした額ではないことも分かる。
 しかし洗えばいいし、微々たる金額だがランニングコストは安くなる(ゴム手袋が使い捨てでないなら)。

 それに不織布の材料は樹脂のものも多いような気がする。
 買い物袋に神経質になったはずの社会が、樹脂製マスクを使い捨てるのは、少々滑稽だ。
 個人的には、イルカが死のうがウミガメが死のうが知ったことではない。
 長期的に考えればすべてのイルカとウミガメは死に、滅亡する。
 長期的に考えて僕が死に、人類が滅亡するのと同じであり、それがかなり先になるか、それよりやや手前になるか程度の差でしかないだろう。
 
 しかし長期的に環境を維持する目的で僕らがマイバッグなるものを持ち歩いて(あるいは僕のように樹脂製の買い物カゴをいくつか重ねて自動車内に常備して)いるのだから、他人はともあれ、僕は今後も洗って使えばいいや、という結論に到達した。

 もちろん他人に勧める気はない。
 次亜塩素酸ナトリウム水溶液を正しく扱える知識や経験が必要だし、1日に何時間もマスクを着用している人は少なからずいるだろう。
 自分がどうするかは自分で決めればいいし、他人がどうするかは他人が決める。当たり前のことだ。

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 ひと月ほどの引越し生活は、目覚めると天井が入れ替わり、その日の夜には別の部屋で寝ていたので、存外消耗した。
 アヲ以外の猫たちは太田の家に置いたままにしていた(だから毎日、行き来が必要だった)ので、ずいぶん疎遠になってしまった。
 太田に戻っても、僕は家の中の片付けや、納屋での作業に明け暮れていたからだ。

 しつけというのは、ふだんから一緒にいる相手からでなければ意味を成さない。
 前橋に行くときも3匹を連れて(とんでもなく重いガールたちである)行って、なるべく一緒に過ごしているうち、誰が主人か思い出したようだ。



 畳の上に粗相をしたため一緒に入浴中のゴマ。私の長風呂に付き合って、60分は湯に浸かっていた。
 ちなみに、アヲは風呂嫌いに育った。

>>>

 今、私は湯船の中にいる。
 風呂から出たら、今日も湯豆腐を食べる。