2001123




(「多田くんは恋をしない」のオープニングテーマをオーイシさんが歌っていなかったら、知ることのなかった曲。いい曲だけれど、知らない幸せもあったのかな。多分)

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 四十九日である。

 母上は紫色の好きな人であったので、花屋で花を買い、届ける。
 藤色が好きだったのか、ヴィヴィッドなバイオレットを好んだかは、よく思い出せない。
 ただ記憶の中の母上は、鮮やかな紫色の服を纏っている。
 よく歌っている。
 髪が長くて線の細い、きれいなひとだった。

 どうやら納骨はせず、散骨にするらしい。
「母上は、寒いのが苦手だったからね」と長姉が言う。
 春までお骨はそのままらしい。
 ホネというのはオブジェクトだ。
 母上というのは、オブジェクトとは別のものとして記憶の中にあり、それは僕の一部の人格(仮想人格でいえば青猫β、実人格でいうと6歳までの僕の記憶)の中に残っている。
 あるいは、そこから復元される仮想人格を頼りにするよりない。

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 6歳までの僕と、8歳以降の僕には、明らかな断絶と乖離がある。
「8歳以降」に属している現在の僕は、だから、母上がいない世界に順応した僕である。
「6歳以前」の僕は、だから、母上のいない悲しみを知っている記憶群ではある。
 そしてそれらの一部は「β」として再構成され、僕という全体にシミュレートされ、フィードバックされている。
 これは趣味ではなくて、僕の生きる気力を構築するのに必要なことだ。

「6歳以前」(実人格であるため、ほかに形容のしようがない)は、当時自覚のあったとおりに無力である ── どうか6歳児に多くを求めないでほしい ── 。
 無力であるということは役に立たないということだ ── くれぐれも何かを求めないでほしい ── 。
 幼稚だし、感情的だし、無知である。
 理屈で納得してもらうことがむつかしいから、僕は彼(あるいは彼女)にはいつも手を焼いている。
 僕の記憶が統合されておらず、人格が分裂して表出するのであれば、一時記憶の根なし仮想人格と、記憶のすべてを制御している中核人格とに分かれるのだろうけれど、僕はそういうインタフェイスを「面倒だから」使わなかった。
 記憶を制御するというのは、その場で嘘をつくこととは根本的に違うものだから、疲れるのである。

 そんなことを脳がしでかせるのは、実環境のストレスが自身の耐性をよほど大きく上回る必要があるだろうし、少なくとも僕は、ストレスが低かったか、耐性が高かったか(どちらも同じことである)、人格の分裂はしなかった。

 ただ「6歳以前」は手が掛かり、役に立たない割に非常に重要な存在で、封殺したらしたで、僕自身の現行人格に破綻を来すことが予測される(あるいは確かにそういうことがあったため、僕の肩には傷がある)。
 分かりやすくアダルトチルドレンとして存在している(あるいはしていた)僕は「6歳以前」に名前を与え、自身で育ててケアし続けていて、今後もその必要がある。
 過去の自身を否定し、無視するなんてことは ── 親殺しのパラドクス同様 ── 事実に矛盾して、理屈も感情も制御できなくなってしまう気がする。
 僕のコンプレクスのなさは、僕によって人為された結果である。
『「6歳以前」と比較して』できることを増やしていった8歳の僕にとって、無力な彼は恰好の比較材料であっただろう。当の「6歳以前」の気持ちなど知らずに。

 子供の頃から子供が嫌いだったのは、おそらくその「役に立たない」という価値観のせいだ。
 けれどもやはり、ただ立ち止まって泣いているだけでは、現実は変わらない。
 悲しい、悔しい、憎いという感情のループの中にあって他人を悪者にしているだけでは、物事は良い方向には変わらない。

 だからあのとき、8歳の僕は、6歳までの僕の記憶と価値観のほとんどを ── 後年、家じゅうの写真をそうしたように ── 捨てたのだと思う。
 たぶん、そうしないと進めなかったのだろう。

 だからどちらも、僕は責める気にはならない。
 どちらも正しいし、どちらも間違っていないし、どちらの言い分も分かるし、いずれの対処も適切だ。

 ただ僕自身「6歳以前」で、感情がぷつと切れてしまっているから、エヴァンゲリオンの登場人物よろしく「こんなとき、どんな顔をすればいいのか分からないの」となる。
 誕生日のプレゼントなどが分かりやすい。
 笑えばいいのかもしれないが、別に嬉しくて笑うわけではない。
 お礼は言うけれど、そんなに本当に「ありがたい」ことで、なによりそう感じているのだろうか、僕は。

 あるいはもしかしたら、誰でもそうなのだろうか。疑問を抱きつつ、にこやかにはしゃいだりできるのだろうか。

 僕は悲しい時、苦痛や怒りを感じている時も笑ってしまいがちだ。
「6歳以前」と僕が繋がっていないと、僕はたいそうデタラメなインタフェイスで他人と接することになるように思う。
 ために引きこもる時があるし、メールの返信さえうまくできないことがあるし、この場を借りてどさくさに紛れて言い訳すると、コメントのリプライを「しない」期間がある。

 緊張したり、不安な時ほど、インタフェイスがデタラメになってしまうから、コミュニケーションで齟齬をきたす気がする。

「そんな言い方しなくても」とか「こう言ってくれればもっといいのに」と僕はIRLではよく人に伝えるが、web上ではダイレクトなやり取りをすることはほとんどないし、僕のコメントに違和感を覚えた人がいても、まず教えてはもらえない(違和感を覚えたら本当は教えて欲しいです)。

 だからある程度、自分のインタフェイスが正常だと感覚できないときはコメントしないように、数年前から方針を変えた。
(そうしたら「自分が正常だ」と感覚できることのなんと少ないこと……!!)

 そうした他人とのやりとりのためにも ── あるいはそのためにこそ ── 「6歳以前」とうまく繋がって、育てる必要があるのではある。
 僕が彼女(およびその感情)をないがしろにすると、他人の情緒というものが、ほとんど理解できないようになってしまうから。
 つまりそれは、僕が間接的に他者を蔑ろにすることになり、最終的に「こっち側」の僕に不利益(下品な言葉だね)をもたらす。
 ゆえに彼(あるいは彼女)と断絶して成長した僕は、それでも彼(あるいは彼女)を大切にし、時に甘やかして、時に叱って、いっしょにあれこれを楽しみ、いっしょにあれこれを悲しんで、いっしょにあれこれを怒り、いっしょにあれこれを考える。
 つまりは愛でる必要があり、愛でたいのでもある。

 だからといって、僕でもない他人に「6歳以前」を含む僕というパッケージを愛でよ、慈しめ、いたわり崇め奉れというのも乱暴な話である。
 そもそも彼(あるいは彼女)の記憶は、悲しみと痛みを最後に断絶されている。

 実母と一生のうちに2度も別れることは、多分(僕は今のところ「こっち」側なのでこうなる)稀有な経験であり辛く悲しく痛いことなのだろう。
 ひとたびはそれを越えて、独りでいることの気楽さ、独りで何もかもを制御する楽しさ、新しいことを身に付ける充実感によって自分を満たした。
 その価値は、理由と同義だった。
 他の誰かがいて、誰かに与えられるだけで満足していたら見つからない幸せだったからだ。

 一方で彼は、なんの能力もない段階の僕だ。
 感情に足を取られて転んで立ち上がれなくて、置き去りにされた存在だ。
 だから誰かに起こされたがっていて、誰かに抱き止められたがっていて、寒くて震えている。

 それなら僕が、彼女を抱き上げる。
 なぜといってその手を他人に伸ばすことを、彼も僕も、じつは本当に恐れている。

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 自己憐憫は、人を前に進めなくさせる。
 だから僕は、僕自身を憐れんではいけない。
 誰かが助けてくれる環境にある人は泣き叫べばいいだろうけれど、僕の場合は、あくまで僕の場合である ── だから。
 僕にとってそれは、子供の頃に自身の手で刻まれた傷跡だ。

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 しかし、つまりそれは僕が自身を憐憫しているところを誰にも目撃されず、あるいは仮にされても僕自身によって僕がぬくみを取り戻し、涙を流しながらでも立ち上がるきっかけになるのなら、自己憐憫してもよい、ということになるかもしれない。

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 だから僕は「6歳以前(あるいはβ)」と一緒に、歌って、悲しんで、涙を流して、新しい風景に驚いて、新しい工作に胸を躍らせて、猫たちとのコミュニケーションを楽しんで、いろいろな料理を味わって、自分の(まぁ、僕の、なのだけれど)身体を撫でて、ゲームやテクノロジィに未来を見る。

 実のところ、僕自身が学ぶことも多い。
 彼ら(あるいは彼女たち)は多感で、僕の想像しなかったリアクションが待っていたりするし、オトナになった僕が忘れている優しさや気遣いを見せてもくれる。

 僕は彼(あるいは彼女)とそれを体験し、僕がどう感じて、それがれどういう理由なのか説明する。
 彼(あるいは彼女)も、それを教えてくれる。

 それで僕の記憶が、少しスライドする。

 僕は孤独じゃなかったわけではないけれど、それは豊かだった。
 僕は寂しくなかったわけではないけれど、それで誰かを傷つけたりはしなかった。

 僕はひとりだったかもしれないけれど、ひとりだったわけではなかった。

 いつも記号かなにかの象徴のように、猫がいる。
 ボクの記憶は、猫に彩られている。

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 それなら。
 もう少し、生きていられる。

 それなら。
 もう少し、自分を許せる。

 きっと誰かを傷つけるだけだから。
 自分の肩を抱く。
 僕は、僕自身さえ傷つけるかもしれない。
 傷を撫ぜて、そう思う。

 これは彼(彼女)が作った傷ではなくて。
 僕が作った傷だ。

 きっと無力なのは、僕の方だったのかもしれない。

 最初から。
 きっとそうだったのかもしれない。

我を崇め奉るがよいぞ。
我こそは森羅万象を司る「箱の中の必然と偶然、有象と無象、生と死、赤と緑とキツネとタヌキを分かつ者 ── ネコノカミサマ」なるや。

いいえ、あなたはただの猫です。


201121

 最近あまり、ゲームをしている時間がない。
 いや、時間ならある。
 たぶん自由な時間の潤沢さにかけて、僕は平均的な人よりも格別に裕福である。

 しかし目覚めて部屋のリフォーム作業をして、解体したり掃除をしたり、廃材を焼却炉で燃やしていると、あっという間に半日が過ぎる。
 汚れてしまったらシャワーを浴びる。
 ときどき事務処理がある。
 疲れると昼寝をする。
 体力と気力があればワークアウトをする。
 晩ごはんを作るときは週の半分くらいである。
 いずれにしても貴重な一食だ。味わって食べる。
 眠くなって寝てしまう。

 これである。
 結果として、ゲームが進まない。
 もっともシーケンシャルにストーリィが進捗するようなゲームを好まないので、進まないというよりは、ゲームの世界に遊んでいないのである。

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 今日は個人的な音楽の話。

 大石昌良さんのことを知ったのは「けものフレンズ(第一期)」がきっかけだったが「けものフレンズ」を見たのもかなり一般から遅れて、全話放送が終了する頃だった。
(いかんせんTVに繋ぐアンテナケーブルを持っていないので、TVを見る機会が5年ほど、ほぼなかったため、ネットで見る必要があった)

 第一話のCGのひどさには苦笑したが、次第に好きになった。
 何の気無しに聴いていたオープニング曲が、じわじわとボディブロウのように世界を表現してゆく。
 気がつけば歌えるようになっていて(なんだかいい歌詞だなぁ)とさえ思うようになっていた。
 最終話のオープニングの挿入の仕方など、第一話と同じスタッフが手掛けたとは思えないほどだ。

 ギターで弾けたら楽しいだろうなぁ、と大石さんが弾き語る動画を見て(こらアカン)と諦めた。
 何事も諦めが肝心だ。

 そのあとは、あまり気にしていなかったのだけれど、ふとしたきっかけで「トライアングル」を聴いてびっくりした。
 ギターでこんな演奏ができるのか! これができたら楽しいだろうなぁ、と思いつつ(さすがにこらアカン)と諦めた。諦めは肝心だ。

(間奏を見て言葉を失った)


 スレスレでも弾けそうなのはないかなぁ、と思って見つけたのが、演奏解説動画の見つかった「君じゃなきゃダメみたい」である。未だに間奏まで辿り着かないままおわってしまう。1番歌えればいいじゃない? 的な。
 少し弾けるようになってから、アニメも見た。
 めっちゃ面白かった。
(感想文が小学生)


(イントロが満足に弾けるまで、半年かかった)



 それで、大石昌良さんのことをどう思っていたかと言うと、この時点でなお、どうも思っていなかった。
 アーティスト。音楽クリエイタ。ギタリスト。
 才能と運に恵まれ、高い表現力で現実世界にモノを生み出す努力を惜しまず、多くのファンに認められて、作った作品で経済的自立をしている人。

 それだけだ。
 楽曲は好きだとしても、技術に憧れたとしても、僕にとってはどうでもいい、ただのアーティストでしかなかった。

 しかし、ずっと(退屈そう)という理由で敬遠していた「ピエロ」という曲を聴いて、涙が溢れるくらい驚いた。
 こんなに楽しそうに歌う人は、歌が大好きな人なのだ、と思って嬉しくなった。

(どこがアドリブか分からない)


(おなじみのメンバー紹介が楽しい)

 以来、大石昌良さんの曲は、カバーも含めて聴いてしまう。いい声だ。
 僕自身のギターの技術なんてどうだっていい。
 楽しく弾けて歌えればそれでいいんだ、と思った。
(どうせ誰にも見せないし、聴かせないのだから)

 昨今、結婚したと聞いたとき、古い友人の結婚の話を聞いた時より嬉しく思った。
 僕は立派なファンである。

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 さりとて、ギターの練習もしばらくしていない。
 3日していないと1ヶ月前のレベルに戻ってしまう。
 1ヶ月弾かなければ1年前だ。

 リフォームは楽しいが、たまにはギターも弾こう。
 阿呆みたいに難しいけれど、だから余計に弾くことも歌うことも楽しい曲が、たくさんあるのだから。



(アヲはときどき、運転中の私と一緒に歌ってくれる)

201120

 姉に誘われたので、猫を連れて家に泊まりにゆく。
 その帰りの今日、エンジン不調で車が止まった。
 道半ば、13kmほどを残しての国道上である。
 ボンネットの隙間から煙が上がり始めたので歩道をまたいで駐車できる場所に停止したところ、エンジンルームから破裂音(バッテリィかな?)もしたので、猫を連れて外に逃げ、保険会社のレッカーサービスを手配する。

 しばらくして、煙が収まったので荷物を外に出し、弟子に電話したものの、出ない(レッカーは、人は運べないので別途手配を要する)。
 BP(古い友人である)は運送業なので、声をかけずにおく。
 TU(古い友人である)が犬の散歩をしていたので、迎えを頼む。

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 困った時に他人を頼ったことがほとんどない。
 子供の頃からそうだ。
 親は仕事に忙しく、ときに障害があり、入院していることも多く、ある時期からうちは貧しかったからお金のことも自力でなんとかする習慣がついた。
 姉たちは家を出て、それぞれに暮らしていたから、頼る対象ではなかったし、恋人が何かのあてになった試しはないし、妹などは論外である。
 というのが僕のこれまでの人生である。

 僕は家事を覚え、仕事を覚え、経済的自立の手段を身に付け、自律した生活拠点を構築する術を学んだ。
 高校へは奨学金を使って入学したし、実家を出るときは金銭面も自分だけで手配した。(当時の恋人にお金をもらった事実はあるが)

 骨折して半年ほど休職して、生活が立ち行かない寸前の経験もしたが、死ぬことはなかったし、そのときも親を頼ることはなかった(実のところ、父親にお金を貸していたので、とくに金銭面ではアテにしてはいけないと思っていた)。

 これはなにも、僕がそれだけ苦労したということをアピールしたいわけではない(だから恋人にお金を貰った事実も書いている)し、僕以外の恵まれている(?)人のことをとやかく言いたいわけでもない。
 他人は他人、自分は自分である。
 ただたまたま、僕はそうやって他人を頼らない選択をしてきたし、逆に言えば、他人を頼るのがとても下手である。

 たまたま保険の仕事をしていたので、自動車事故にも慣れているし、いつ壊れてもおかしくない車に好んで乗っているので、この程度の機械的トラブルも慣れている。
 メカニクスやエレクトロニクス、ソフトウェアにいたるまで、テクノロジィへのアレルギィもないので、この程度のことで驚く必要も感じない。
 電気やガスや水道が止まっても、なんとも思わないのは、誰も頼らず生活していた日々に身についた図太さだが、こういうのは身に付かない方が上品でいられるとも思う反面、同時に、そうしたライフラインの停止によって鬱になって死んでしまう人がいるとして、その気持ちもよく分かるから、よかったようにも思う。

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 トラブルと名のつくものの大半は、客観的にはさほどでもない、というのが経験上の見立てだ。
 トラブルというのは、それが起こるもっと前に兆候があり、その時点で対処していれば未然に防げることが多い。
 今回も例に漏れず、しばらく前にエンジン警告灯が点灯したことがあったのだが、しばらくしたら消えてしまい、それ以外に不調もなかった ── 何よりそんなことはそれこそ頻繁にあることな ── ので乗り続けていたのだ。

 エンジンの異音が聞こえてきた時も(まだダマしならが乗れるかな?)と考えていたくらいである。
 結果、煙が出てきたわけだけれど。

 初めてで、対処や連絡先も分からないと困る人も多いだろう。
 保険会社の緊急時の連絡先を、WEBサイトなどで確認することさえ思いつかない人もいるし、加入している保険会社すら思い出せない(あるいは全く知らない)人もいるはずだ。

 レッカーを待ちながら、ケージの中で不安そうにする猫たちと話しながら、煙草を吸って時間を潰す。
 TUも捕まらなかったら妹に連絡して、それもダメならタクシーを拾おうと考えていた。
 タクシーを最後の選択肢にしたのは、単純に、猫と同行する交渉を想像して嫌になったためである。
 友人も、頼れる姉妹も少ない上、頼りになる恋人は見たことがないし、親もいない。

 ただし仕事もなければ、家族もいないので、重たい猫どもを持って(アヲは肩に乗るので多少はラクだが)歩いて帰っても問題はない。
 翌日、いつもより激しく疲れているだけだろう。

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 僕が苦手とするトラブルというのは、やはり対人関係である。
 他人の常識というのは、慣習も含めて理解できることが多い。
 しかしときどき、どうにも分からない人がいる。
 特に「昨日言っていたことと、今日していることの関連性が不明」というタイプに多い。
 僕自身、額面上、そのように公言している。
「昨日と今日とで、言っていることが一貫している方がおかしい」とまで言うこともある。

 しかし他人に対しては、なるべく、インタフェイスを一貫させておいた方がコミュニケーションには便利で、有利に働く。
 だから最初から「ワタクシはネコですしヘンナイキモノですし、ガールと見れば押し倒しますし、昨日と今日で言っていることが違うタイプです」と宣言する。
 あとの評価なんて、勝手にさせておけば良いのだ。

 しかし他人の多くは「自分は一貫している」ということを正義だとするあまり、矛盾し始めて、怒り出す ── いわゆる逆ギレというものをする ── 人がいる。
 自分が正しいとされる場所にいないと気が済まない上、事態が自分の思うようでないと気が済まない。
 こういうタイプは挙げ句の果て、他人まで巻き込んでジャッジをさせるのだが、お金で雇える弁護士だって財布を持っている人の味方をするものであるから、推して知るべしである。

 僕は自分が正しくない場所にいることについては特に抵抗がない。
 自分が一貫しないことについては最初から宣言してある(そんなことは、流動的な環境を生きる上で当たり前のことではないか)。
 自分の欲(あるいは理想だとか目標だとか)を満たす上で、他人からどう評価されるかは、最初は気にしない。

 結果として、衝突する他者は「私が正しいから従え」となり、僕は「理にかなわないから従えない」となる。
 相手の欲はたいていその時点でスライドしていて、当初掲げていた問題の解決ではなく、立場の違いからくる「正しさ争い」を軸にしてしまう。
 もちろん、表向きだけでも従っておけば問題のないことの方が多いのだけれど、ときどき、そこで譲ると相手も自分も自滅する選択を相手が突きつけてくることもある。

 抽象的でわかりにくいというなら、少々生臭い話になるが、パワハラやセクハラと呼ばれる現象がそうだろう。
 最初からそうだったのかは分からないが、欲求の軸がズレて、それを無理やりねじ伏せるだけの欲の強さを持つ方が、一方的にねじ伏せにかかってくる。
 大人数でやれば、リンチや輪姦である。

 相手も含めてお互いに、本当にそんなことを望んでいるの? と、問いただしたいものだが、限られた空間や人間関係の枠の中で、強い人間は自分の欲に正しさの皮を被せて、聖人ヅラして他人を喰いものにするのだ。嗚呼オソロシイ。

 僕は自身をケダモノだと思っているからこそ、正しい側に自分を無理やり置きたくないし、他者と衝突しそうな時はなるべく譲ってしまいたい。
 ただセクハラやパワハラを受けそうになったとき、自分や相手を守る最適な方法は「受けて黙っていること」ではなくて「抵抗してでも受けないようにすること」だろうし、そのためにこそ力は使われるべきだろうとは思う。

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 幸い、僕はたいていの場所で、たいていの場合において、トラブルに巻き込まれない。
 カツアゲにも遭わないし、オヤジ狩りに遭う前にそんな文化は廃れたし、金銭的トラブルについても対処する術を身につけたし、パワハラやセクハラもたいていは何とも思わないし、思った頃には対処できるようになった。
 ガールについても「狂人」タイプは見分けがつくようになったと思う。

 それでも、一貫しない相手の欲のメカニズムを解析するのは(スクランブルされた情報のように)簡単ではなくて、手間の割に得るものは「今までと変わりがない日常」でしかない。
 もちろん、それが脅かされるならあらゆる手を打つ必要もあるとはいえるが、負けたところで尻尾の1本を引きちぎられるくらいだとしたら考えてしまう。

  さて、この尻尾1本のある日常と、ない日常、尻尾1本を賭して守るべきなのか、それとも大人しく譲って仕舞ったほうがよいのか ── と。

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 機械が壊れて煙を出している。
 眠る場所に戻れないかもしれない。
 今日は猫と凍えながら、歩き詰めるかもしれない。
 それがどんな苦労で、トラブルで、パニックすべきほどのものなのか、僕には見当もつかない。

 なんでもないことではないか。
 自分の尻尾1本守るだけのために、単身、他人の尻尾をむしり取ることを思えば。
 まして自分の尻尾はまだ6本も残っているというのに、相手のそれは1本しかないともなれば。

 あるいは私も最後の1本になれば、躍起になるのか。
 あるいは彼らも最初は、9本の美しい尻尾をたくわえていたのか。

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 十数年ぶりに、TUと数時間話す。
 だいたい僕は裏庭の穴のような存在なので、彼の愚痴を聞く。
 心のシャウト、ソウルの叫び、すなわちそれは、公言できない秘密や行き場のない悩みだ。
 僕はそれを、いつものとおり穴に放り込んで、それをダレカが咀嚼してしまうから、僕には何も残らない。

 そしてみな、オトナになってゆくのだ。

 僕だけずっと、コドモみたいだ。

 あんなに僕は ── いや今だって僕は ── オトナになりたかったのに。

ひなたのふたり。







追伸。

 ネコノカミサマ ── 。
 ボクの尻尾は、少しは本数が回復したのでしょうか。
 それともこれを失えば、ボクはオトナになれるのでしょうか。

201115

 春頃から、NaClO(次亜塩素酸ナトリウム)水溶液 500ppm と 1000ppm をスプレーボトルに入れて使用している。
 NaClOは、いわゆる「塩素系漂白剤」の主成分である。
 500ppm は布類を浸漬し漂白/殺菌したり、お風呂を出てから床面やパッキンに使っている。
 当然ながら相応の毒性があるので、500ppm といえども雑に扱うととんでもない事故を起こす。

 1000ppm はトイレ掃除用である。

 500ppm 水溶液に強アルカリ洗剤(マジックリン)的なものを5%ほど混合した界面活性強化版も作ったが、樹脂パーツ(たとえば外したエアコンフィルタ)に噴霧し洗浄殺菌したりはするが、毒性も高いので相応に(ゴーグルやマスクやビニル手袋などで)防護し、風呂場で換気しながらでないと使えない。

 薄い溶液なので匂いもわずかであり、アルカリによる皮膚の溶解も起こったように感じないのだが、表皮の常在菌を殺菌し、皮脂が分解され、数分で表皮はバサバサのボロボロになる。
 これが粘膜に付着すれば、ただではすまないことは想像に難くないはずなので、試す人は良く勉強してからにしてほしい。

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 実のところ、不織布マスクの洗浄には、界面活性強化版を利用していた。
 マスクはもはや品薄では無くなったが、洗って使うのは斬新で、かつ便利だった。
 どのみち僕は買い物に出かけたときの数十分くらいしかマスクをしないから、その都度捨ててしまうのはいささか勿体ない気がしてしまう。
 しかしマスクを「明日も使おう」と置いていても、捨ててしまったり、取り置いたことを忘れてしまう。
 だから、マスク専用洗濯かごを用意し、1週間分くらい溜まったらまとめて洗っていた。
 なに浸漬させてしばらく置いて、数回、よくすすぐだけである。ただし万全の防御体制で。

 新しい不織布マスクを買ったものの、どうも使い捨てる気にならなくなってしまった。
 たいした額ではないことも分かる。
 しかし洗えばいいし、微々たる金額だがランニングコストは安くなる(ゴム手袋が使い捨てでないなら)。

 それに不織布の材料は樹脂のものも多いような気がする。
 買い物袋に神経質になったはずの社会が、樹脂製マスクを使い捨てるのは、少々滑稽だ。
 個人的には、イルカが死のうがウミガメが死のうが知ったことではない。
 長期的に考えればすべてのイルカとウミガメは死に、滅亡する。
 長期的に考えて僕が死に、人類が滅亡するのと同じであり、それがかなり先になるか、それよりやや手前になるか程度の差でしかないだろう。
 
 しかし長期的に環境を維持する目的で僕らがマイバッグなるものを持ち歩いて(あるいは僕のように樹脂製の買い物カゴをいくつか重ねて自動車内に常備して)いるのだから、他人はともあれ、僕は今後も洗って使えばいいや、という結論に到達した。

 もちろん他人に勧める気はない。
 次亜塩素酸ナトリウム水溶液を正しく扱える知識や経験が必要だし、1日に何時間もマスクを着用している人は少なからずいるだろう。
 自分がどうするかは自分で決めればいいし、他人がどうするかは他人が決める。当たり前のことだ。

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 ひと月ほどの引越し生活は、目覚めると天井が入れ替わり、その日の夜には別の部屋で寝ていたので、存外消耗した。
 アヲ以外の猫たちは太田の家に置いたままにしていた(だから毎日、行き来が必要だった)ので、ずいぶん疎遠になってしまった。
 太田に戻っても、僕は家の中の片付けや、納屋での作業に明け暮れていたからだ。

 しつけというのは、ふだんから一緒にいる相手からでなければ意味を成さない。
 前橋に行くときも3匹を連れて(とんでもなく重いガールたちである)行って、なるべく一緒に過ごしているうち、誰が主人か思い出したようだ。



 畳の上に粗相をしたため一緒に入浴中のゴマ。私の長風呂に付き合って、60分は湯に浸かっていた。
 ちなみに、アヲは風呂嫌いに育った。

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 今、私は湯船の中にいる。
 風呂から出たら、今日も湯豆腐を食べる。






201111

 寒い。
 晩秋なのであろうけれど、もう冬を迎えたような気持ちになっていて、湯豆腐を毎晩のように食べている。

 大豆製品はだいたい好きだけれど、特に豆腐は好きである。子供の頃から好きだったし、大人になった今でも、数日豆腐を食べないと、飢えてしまう。

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 昨日軽トラに乗って、アパートまで行き、今日帰ってきた。
 猫と乗るにも狭いコックピットであるが、車を含めた操縦席は狭い方が好きである。
 広々、のびのび、なんていうものは客室スペースにこそ必要ではあるだろうけれど、操縦者というのはそもそも搭乗客ではない。
 そのあたりを混同したような自動車が当たり前に普及したのが総中流階級社会だったのだろう。
 しかしお客様気分で操縦されてしまっては、本当は困る。
 わがままなど許されず、細心の注意を払い、規則やルールを守って、他の人を気遣い、目的地まで移動(移送)するのが、運転士の責務である。
 お客様気分で我が物顔にしたい人は、運転手を雇うか、せめてタクシーに乗るのが良いだろう。

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 床の間の改修作業を最初にすることにした。
 そもそも床の間に客を招く設えとはいえない気がするし、床の間に招く客もおらず、床の間のしゃちほこばった作法なんて、誰も知らないように思うのだ。
 だから仮眠室兼クローゼットとして使うことにした。
 その北は収納の多い部屋で、叔母が寝室にしていたのだが、書斎的なものにしてしまおうと思う。
 室内のタンスやクローゼットを解体したので、土壁に凝固剤を塗って、塗装可能な硬度を持たせた。
 事務用の書類キャビネットを置こうと思っていたのだが、クローゼットスペースの上にある戸袋が邪魔をして、壁面に付けられない。
 仕方ないので、テレビと冷蔵庫を置いて、ベッドとファンヒータを配置した。
 ベッドは叔母の使っていたシングルサイズなのだが、天蓋付ベッドを自作する予定なので、それまではテキトーな半キャンプ生活(なにせ外気と屋内温度の差が少ないのである)を続けるつもりだ。

 床の間は土壁を硬化させ、畳を剥がして断熱材を挟み、板張りにする予定。
 最近の賃貸住宅によく見る、クッション材とコンプレックスになっているフローリング材が欲しいが、ホームセンタに売っているだろうか。

 壁面はモルタルが割れていたり、材木が汚れていたりする部分もあるので、適宜、シールしておこうと思う。また楽器を鳴らすのに気を遣わず済むよう、防音材を使って壁面を加工するつもりである。

 押し入れの中には作り付けの棚が(安い木材や合板を、よりにもよって無垢のまま釘付けにして)あるので、これらの棚板も原則として解体する予定。
 棚の下部には同様に、無垢材のタンス様の引き出しがあるのだが、奥とサイドにデッドスペースがあり、掃除もできない。床や壁材が痛んで虫でも繁殖していたら(してしまったら、ではなく、現在進行形である。過去形になっている可能性さえある)困るので、これも解体予定。

 掛け軸の前に壺やら人形やらがごろごろと置かれていて、目障りなので処分した。
 壺や人形や掛け軸が悪いというわけではない。
 あまり興味のない分野だが、和の設えに、重複する装飾品があるのはどうも落ち着かない。
 たとえば掛け軸の脇に壺があるのはいい。
 最悪、床間の隅に控えめな「こけし」くらいはあっても許せなくはない。
 ── 茶道の文化では確か、人と顔を合わせる場所に、顔を持つもの(絵画でも彫刻でも)を置くことは、やはり重複による不気味さを生むので、よくないこととされている気がする。

 とにかく考えなしに作られ、使われた建物と装飾品は、ひどく僕を落ち着かない気持ちにさせる。

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 設計(英訳ではデザイン)という行為は、ゴールから現在点までを繋ぐものである。
 だから設計図とは、どのような材質の、どの様な寸法のものを、どのように配置/接続するかを無から完成に向けて示す図面であり、主として、他者との情報共有のために引かれる。
 複数の人間が関わる大きな構造物などには欠かせないものだろうし、個人工作でも、あらかじめ設計検討しておけば、オブジェクト同士の干渉や可動部に掛かる力などを想定することができるから、特に可動型のモノを作る際には必須であるといっていいだろう。

 作る人間からすると、それでも図面というのは ── 文字の書き方まで厳密に決まっているのに ── 往々にして不親切である。
 それはそのまま、人間どうしのコミュニケーションにも当てはまるだろう。
 自分のアタマの中の理想なんて、カタチを持つモノであってさえバカには伝わらない。

 バカに合わせて、図面(あるいはコミュニケーション)の質を落としてもいいだろうけれど、当初作りたかったモノはできないし、伝えたいことも伝わらない。
 別に僕が孤独なのは天才であるせいだ、とは思わない。
 孤独がイヤなら馬鹿のフリをすれば友達はいくらでもできるし、天才ならば馬鹿のフリくらい苦もなくするものだと思うからである。

 僕がいいたいのは、図面を読む人たちは、図面が描く完成形をイメージできない人も多いということである。
 図面の通りにゼロから作れば、モノは完成するかもしれない(そう簡単なものではないが)。

 しかし設計者はアプローチが違う。
 完成形をイメージして ── 本来抽象的なはずの機能を満たす「カタチ」を嫌になってなお詳細に、具体的にイメージして ── それを現実世界の実存に置き換える道を敷くのだ。
 だから設計者にとっていちばん大事なのは、抽象的なイメージをより具体的にカタチにする能力だろう。
 一方で発明家というのは、抽象的なイメージをどこまでも膨らませる能力が重要だと思う。

 これらに明確な境界はない。
 職業設計士でも、ただのパタンナの人もいればデザイナの人もいるだろう。
 むしろ職業にしていると余計に、抽象的なイメージを膨らませることがむつかしくなる。
 コストや人間関係が、営利組織にはあるからだ。
 この場合、お客様のクレームというのがもっとも優れた「抽象的なイメージ」となる。
 理想とするものが掴みやすいだろう。

 個人の場合は、利益も人間関係もさほど影響を与えない。
 だから僕のように、わがままな理想を大事に育てることもできる。

「これは不便だ」という不満を大事に抱えて「こうなら便利なのに」という理想をイメージする。
 設計の最たる仕事はこの、本来のゴールであるはずの「理想をイメージすること」だと思うし、すなわちそれは設計というよりは発明に寄ったもののようにも思える。

 僕がモテようとしてしていたことは、つまりそういうことなのである。
 ゴールのイメージがあって、それに合わせてデザインをして、若干の試行錯誤をしつつ、現実を具体的に操作/調節する。
 その中には僕自身の思考や習慣も含まれるから、必然に、僕はモテという理想をカタチにすることになる。

 オカネモチーも同様で、小賢しい財テク(この言葉の昭和感よ)的な情報を勉強するなんてことはしないで、ざっくり漠然としたイメージであった「自分のなりたいオカネモチー」のイメージを膨らませて、考えと行動を変えた。
 言葉遣いを変え、姿勢や表情を変え、オカネモチーの思考を想像し、その習慣に思いを巡らせた。
 オカネモチーになった僕は、どう考えて、どう行動するかと考えて、そのように変容した。

 そんなことで理想が現実になるとは僕もあまり信じていない。
 しかしなぜ僕がモテたり、オカネモチーになったのかを考えると、やはりその「ゴールとしての理想から現実に落とし込んでゆく設計プロセス」そのものにあるような気がするのである。
 
 もちろんがむしゃらに働いて賃金を貯めてもいいとは思う。
 しかしオカネモチーになることを(しかも、なんとなく思いつきで)決めた当時の僕は、ほぼ40代だったし、10年以上勤めた会社を辞めた直後だったから、そこから労働者として大成するのは、やはり現実的とはいえないだろう。

 これはたとえば、平面の迷路のようなものだ。

 スタートからゴールに向かうと迷いやすいが、ゴールからスタートを目指したら、簡単にクリアできた経験はないだろうか。
 スタートから「ゴールを目指そう」とすればするほど、迷路を作る人が仕掛けた危うげな罠に掛かってしまう。
 ゴールからスタートまでの筋道を知ってしまえば、おぼつかないながらもより早くスタートからたどり着けるようになるし、なにより、ゴールからスタートに目指すための罠は、驚くほど少ない。

 設計図なしで現物合わせの工作だって楽しいが、設計図を引く楽しさもあるということだ。
(ときどき設計図を描いたことで満足してしまうことがあるが)

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 誰か(たとえばネコノカミサマ)に何か願った覚えはないが、Apple 社が、新しいPCを発表した。
 いずれマルチプロセッサの Mac Pro を発表するのかもしれないが、もう僕の Mac Pro は息も絶え絶えで、それでも尽くしてくれようと頑張っている姿を見ていると忍びなくて、とりあえず MacBook Pro を注文した。
 冗談ではなく本気で、僕は僕のために尽くす道具については絶対的な信頼と愛情を寄せる。
 だから同じ型の Mac Pro(当時はそれなりに高かったものだ)が2台に増えている。
 人間を、いいように道具使いして用が済むと捨てる人間もいる。僕が誰かをとやかく言う資格はないのかもしれないが、そういうことは、やはり、しないほうがいい。

 何がといって、捨ててしまうのは良くない。
 道具然とした人間がたくさんいても、それが当人の誇りであることだってある。
 誰かのために能力を発揮できることのヨロコビを、有能な人間なら無能な者に数倍して体感しているものではないだろうか。

 いえ、べつに、その、恋人をまた27人くらい(あるいは256人くらいまで)増やそうとか、そういう話のイメージをして言い訳をしているわけではないのですよ、本当に、本当ですってば!

 嘘じゃないモン。

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 ノートPCは好きではない。

 しかし仮眠室のあとは、書斎の改修作業があるのだ。
 それまでこの家には机もない(床より先に机を作るわけにもいかない)から、デスクトップPCを使える環境が整うのはまだ先になりそうなのだ。

 しかし納屋には作業台と道具用テーブルができたので、作業環境はますます良くなっている。
 断熱材や内壁を設えれば、中で暮らすことだってできるだろう。

 まぁ、僕が死ぬまでに完成するといいなぁ。

201110

 引越しである。
 L字のベランダから赤城山がよく見える。
 昼な夕なにベランダでシガーや酒を喫んだものだ。

 とにかくベランダに惹かれて入居を決めたから思い入れは格別で、ベランダに関しては間違いなく太田の家より前橋のマンションに軍配が上がる。


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 僕は無宗教、あるいは多宗教もしくは独自宗教の持ち主で、僕のいくつかの価値観セット(仮想人格)に応じて信奉しているものは異なる。
「ネコノカミサマ」なるものが宇宙の箱の中に(多分)いるという「ネコノカミサマ教」への信仰がいずれの人格でも厚い。

 とくに「銀猫」と名付けられた仮想人格はその宗教のシャーマンじみたことをすることがあり、満月の深夜に月光浴をしながらトーフを捧げたりすることで有名だ(※初出の情報であり、真偽は分かりません)。
「ネコノカミサマ」のいる宇宙の箱の中ではありとあらゆる可能性が重なった状態で存在していて「ネコノカミサマ」は、気まぐれにその中でナニカをして、我々の現実世界にイタズラを起こす。
 結果として僕はヒトの人形を被せられ、時にモテになり、時に有能な会社員になり、時に無職の不労所得者になるが、実は世界の全てはネコである。

 そう。これを読んでいる君も。

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 真面目な話 ── いやなに、ここまでだってずいぶん真面目な話なのだけれど ── 人間には宗教が必要だと僕は思っている。
 ときどきそのことを話すと疑問が返ってくる。
「なぜ人間に宗教(あるいは信仰)が必要なのでしょう」と。
 そのたびに僕は僕の中にある、曖昧で抽象的な「必要性」を話してきたが、今回はそれを明文化しようと思ったわけであり、完全に他者へのサービスである。

 ところで高度な思考というものは、記憶と思考がセットになって物事の判断/処理をするシステムであり、思考というものは取りも直さず「何かを信じること」によって構成され「今後信じる何か」を構成し続ける。
 ために人は齢を重ねるごと、経験による価値観の固着をより強固なものにしてゆく。
 個人的な経験則から単純に結果を観察して ── 場合によって認識を歪めてでも ── 「自分の考えたことはやはり正しかった」という結論を導く。

 たとえば記憶というのは実体を持たない単なる情報である。
 もちろん目の前でガラスのコップを落として割れば、ガラスの破片が残る。
 しかしそれらを片付けてゴミの日に出してしまったら、もうその破片はない。
 だから「そこに破片があったこと」も「ガラスのコップがあったこと」も、記憶の中にしかなくなってしまう。そしてそれは実態がないのにもかかわらず「実在した」と思考によって認識される。
 果たしてガラスのコップは【最初からあった】のだろうか。そして本当に、割れて破片ができて、片付けてしまったのだろうか。
 観察者が自分しかいないとき、果たして実存は、いつから実存していて、いつから単なる記憶の中の情報になったのだろう。
 今これを読んでいる感覚が、夢の中ではないと、いったい誰に言えるのだろう。

 他に観察者がいれば、相互の記憶を参照しながら事実確認もできるが、僕のように生まれてこのかた3/4くらいの時間をひとりで過ごし、そのうちの1/2くらいは眠っているイキモノにとって、どれだけ思考の中で検証しようとも、そこにあった事実や実態の信憑性は(僕自身にとってすら)さほど高いとはいえない。

 しかしその、夢か現か定かではないところの記憶によってしか、思考は価値判断の基準を作ることができない。
 僕のように「都合よく物事を忘れ」「都合よく記憶を捏造し」「都合よく記憶の解釈をねじ曲げる」イキモノにとってすら ── あるいはそういうイキモノだからこそ ── 他者も確認している事実や真実を捻じ曲げたり、自身の持つ価値判断の基準を歪めることはできない。
 たまに価値判断の基準そのものが定まらず、きわめて短い時間や環境や他者の変化に影響を受ける人もいるが、基準の構造がそれだけ弱いか、本人の立場が弱いか、記憶の構造が弱い(いわゆる本格的な多重人格)かであろう。
 強い基準は結局のところ、それを作る記憶に拠らず、他の強い基準に歪められることなく結合できるだけの力を持つからだ。
 そこに至って記憶は、およそその役割を果たす。

 本人にとってはデタラメなことを言って、デタラメなことをして、デタラメに記憶していても、出てくる言葉や行動が自分や他人や状況に最適であれば、観察される事実としては「まともな人」になる。
 僕はたいていの場合、他の多くの人より「まともな人」として観察されるようだが、青猫工場ではこのとおり、僕のアタマの中のデタラメさを垂れ流しているから汚染に気をつけよう。
 賠償責任は負いませんよ?

>>>

 記憶が価値観になり、価値観が基準を形づくり、基準によって思考が処理し、その結果が記憶にフィードバックするのは今までも何度となく説明したとおり。
 だいたいの人はこのプロセスで人格ベースの情報処理をしていると思う(違う人がいる場合は、恥ずかしがらずに教えてほしい。これはあくまで僕自身をモデルにした解析結果であって、なべて等しくすべての人がこんなプロセスを経ている事実も、確証も、ないのであるから)。

 思考は、そのとき参照する基準がなぜ適切で、その判断の結果が最適であると思うのだろう。
 つまり価値判断の基準の認証を、思考の最中に人はしているのか、ということだ。

 結論からいえば、そんな面倒なことはしない。
 判断基準を認証するとはすなわち記憶の中の事実(因果関係から抽出された抽象)を再確認することであって「基準を認証→認証適否のための基準を参照→基準を認証→」と、ループしてしまう。

 このループを止めるアンカ(留め金)の役目を果たすのが「信じる」という感覚ではないだろうか。
 信じているから「適切である」という前提を与えて、認証を省略する。
 だからたいていの人は、自身の判断基準を利用するのに検証や想定外の可能性について考える手順を省略する/できる/してしまう。
(じつのところ10代の頃の僕はこれができなくて、感情の認識や表現にすら、かなりの時間を要した)

>>>

 科学(およそ完全に再現可能な因果関係の法則)や経済(およそ完全に現実世界での互換性を持つツール)を信仰する人は多い。
 ボクはたびたびそれを揶揄する。
 科学とはそれを観察している者自身も含まれる事象の総体から成り立っている。
 経済とはそれ自体、人間が作り、現在も改変と操作を続けている道具である。

 いずれも人間の認識が介在しがちであり、経済にいたっては単なる道具であるから、そもそも信仰するに値しないのである。

 しかしそれでも、現実世界の中で人は思考し、判断する必要がある。
 判断にあたっては基準が必要である。
 基準には価値が必要で、価値には記憶が介在し、自分だけではない人間の承認、せめて容認を必要とするのである。あるいは共感といってもいい。

 だから歴史の中で、人間は知識を承継し、文化は社会で成長した。
 今やいかなる理由でも(経済のためであれ、戦争のためであれ、あるいは法を犯した者への処罰であれ)人を殺すことは許されないことではないかとされ、最低でも議論の対象になる。実態はともあれ、倫理という「人間の良心の基準」の上で、それは避けられないことである。

 しかし、それまでの経験にない、あるいはその応用でも適用できそうにない新しい状況に直面する時、人はどのように判断するだろう。
 ── 可能なら思い出して欲しいのだけれど ── 子供の頃はことさらそういう場面が多かったはずで、親切丁寧なオトナたちがあれこれ指図してくれない環境であれば必然に、都度都度、立ち止まって観察から始める必要があったはずだ。

>>>

 大人になると「これまでの経験(蓄積された記憶)を応用して【なんとかなった】」記憶が蓄積されているため、どうしても力押しで進めてしまう。
「これでいいのだ」とごり押ししてしまうようにさえなる。

 本当に、誰にとっても最適で最善な答えなんて、もしかしたら存在しないのかもしれない。
 それでも与えられた条件で、最適な答えを目指すのが思考の役割ではないだろうか。
 単一個体にとってすら、他者の益は、社会の中で己の益となって反映される。
 現在の、コロナウイルスに右往左往する社会を見ればいい。
 自分のことだけ考えて、他者を悪し様に言うだけなら誰にでもできるし、そしてそういう個体が存続できない社会になりつつある。
 経済を信奉する者たちの多くももはや迷い顔で、経済という力を使って自分とその両手の届く範囲だけ守っていても、自滅の道しかないことにようやく気がつき始めたかのようだ。

 未知の状況にあって、それでも思考にとって適切に「信じる」というフレームを与えられるのは、だから信仰心であるとか、宗教なのではないかと僕は思っている。

 宗教は ── たとえそれが「ネコノカミサマ教」なんていう、眉唾ものの信仰であれ ── 科学も経済も、自身の経験にも頼れない状況下にあってなお、向かうべき指針を与えてくれる。
 己のあるべき姿を明確に示してくれる。

 ために私の言っている信仰とは「妖怪を絵に描いてご利益を願おう」とか、そういうことではない。
 混迷の中にあって、自身の思考に基準を与え、思考によって行動を最適化する、その指針になるといっているのである。

 この国では宗教を毛嫌いする風潮は未だに強い。
 それは戦犯国がゆえの民族的背徳感からなのか、妄執がテロまで起こした嫌悪感からなのかは分からない。
(他国は盛りのついたオスよろしく、宗教も盛んなら、戦争も盛んである)

 しかし科学や、まして経済を盲信して人間を安い道具に仕立てた挙句、皆が右往左往しているのである。

 こういうとき、自身の中に信仰のある人たち ── 少なくとも経済や科学や政治以外に信仰のある人たちは、かつてと同じように落ち着いて日常を送っている。

 そしてそれは、僕が見積もっていたよりはるかに多くて、だから僕は安心する。
 この国は、まだ狂っていないのだ。

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 前橋市からの家財の95%を移送し終える。
 明日は軽トラックが納車される。
 明後日からはホームセンタで建築資材を大量購入して、リフォームができる。

 本当に素晴らしい。
 経済が、ではない。
 ネコノカミサマと、その箱が、である。

(眠そうなアヲ。口許にゴミが付いている)

201105

 母上の月命日ではあるのどけれど、特に何をするでもなく、朝方まで東京に遊ぶ。

>>>

 先週、立て続けに身の回りの愛用品が壊れた。
 まずダンヒルのガスライター(オークションで安く手に入れたものだけれど、使っているうちに気に入って現在に至る)。
 ついで革のトランクケース(小さいものだが20年近く使っている)。
 最後に iPhone。

 一週間、携帯端末がなくて、たいそう清々した気分だった。
 僕はこの一週間、食事に出たり買い物をしたりiPhone の修理に出たりする以外で他人に用がなかった。
 ではひと月ならどうだろう。
 一年なら?

 正直なところ、電話やメールでやりとりをする相手に ── およそ僕からは ── ほとんど何の用もないのである。
 もちろん端末でやりとりをする相手には、姉や妹、弟子、古い付き合いの友人、最近知り合った人もいる。
 しかしいずれも、僕からは特に用がない。

 これまでの観察の範囲では、彼ら/彼女たちは、暇つぶし、あるいは愚痴を聞いてほしくて、あるいは単に僕と接触(しかも端末で事足りる範囲の「接触」)のために僕にアクセスする。
 一番多いのは、愚痴である。
 心配や悩み相談も愚痴と同じように対応する僕にとって、相手のトーキングオナニーに付き合わさせる事象はだいたい愚痴である。

 もちろん妹は日常の笑い話を必ず聞かせてくれるし、弟子はアドリブで探り合う音楽セッションのような緊張感のある会話に付き合わせてくれる。
 いずれも実益はないし、もっと面白いことならたくさんあるから、裏庭に穴でも掘って叫んでいればいいのに、と思うこともある。
 ちょうど僕が、自分の愚痴を独りで処理するように。

 もっとも僕が昼寝に忙しい場合などは電話に出ないことも皆知っているし、それが許されるキャラであり立ち位置をずっと保っている。

 無職の僕にあれこれ指図するのは、いまや役所と銀行くらいであるが、それも来年には解決するだろう。
 ようやく憧れだった「用もない(あるいはお金のためだけの煩わしい)人間とのやりとり」をやめられるようになったのだ。
 しかもその「やりとり」は、どういうわけか「後輩らしさ」や「男らしさ」「大人としての良識」「社会人としての当たり前」などという、定義不可能な物差しで一方的に評価される。

 ご本人様が得意満面に「すごいでしょ!」と言ってくれば、僕は褒める。「すごいね」くらいは言うだろう。
 ところが「こんなじゃまだまだです」と言っている相手に「まぁ、確かに改善の余地はあるのでしょう」というと、怒られるのである。僕にはこれが理解できない。(いやできるけれどね)

>>>

 いずれにしても1週間、のんびりと引越しの準備をしたり遊んだりして新しい端末を待ったが、予想どおり、妹に電話を掛けたら泣くほど心配していた。

 姉や弟子は、僕が自殺する前に独りになる環境を是が非にでも構築しようとすることを知っているので(実際に見ているわけだし)、気にしていなかった。

 僕がたまたまこうしてのんびりぼんやり過ごしていることは、確かにいくつかの偶然があったのだけれど、偶然だけではもちろんないことに最近気がついた。
(弟子などからは度々、僕の超自然さえ感じさせられる天才性について指摘を受けるし、以前付き合っていた恋人にも、僕を「天才」と褒めそやしてくれる人がいたが、身近でしかも損得関係のある人間の発言なんて5年前から過去に遡ってアテにしないことにしているので、てっきり僕はただのボンクラだと思っているのだ、僕を。しかしどうだろう)

 僕の周囲の人たちがたらい回しのように逃げ回ったその挙句、独りひっそり暮らす僕にバトンが回ってきて、僕は「これはちょうどいいからそのリレー、乗った」としたわけである。
 僕のところにそのバトンが来たのは、最後の最後であるが、オカネモチー自動化プログラム構築プロジェクトを牽引してきた(そして力なく腰砕けになって途方に暮れる気力もなかった)僕にとっては、ちょうど役に立てそうだった。

 だから皆が敬遠したり、あるいは疑心に駆られて不安になっている中で僕だけは、こともなく、決定ができた。

 もちろん僕はいくつかの社会的/心理的力学に基づいた直感で物事を判断するので、ときどき致命的なミスを冒すこともある。

 それでも僕は勘で判断する。
 データより勘が正しいといつも思っている。
 まして他人が持ってきた「見せたいモノを投影しただけの」データなんて、見る価値もない。
 もちろん「見たいモノ」を私自身に投影してくる迷惑千万なイキモノも中にはいるわけで、今の僕は手負いのケモノのようにそれを警戒している。

 今日、叔父の本棚に転がっていた自己啓発的なことを書いてある本に「目指すところに到達するためには、考え方と習慣を変えればいい」と書いてあった。
 僕がずっとしていることはこうして、本にも書いてあるのだ。
 僕だってその法則をもしかしたら本から学んだのかもしれない。そのくらい僕にとっては「当たりまえのこと」なのだ。
 でも多くの人は、自分の考えを変えられない。
 習慣だって変えられない。
 価値観が変わらない。
 記憶も変えられない。

 そう思い込んで、いらない記憶に足を引っ張られているのではないだろうか。

 だから「近づくヤツらは敵と思え」という、過剰反応を抑えられないのではないか。
 そう思って少しずつ、僕は、新しい友達を作ることにした。
 なあに恋人にならなければ怖いことは何も起こらないのだ。

 いや、恋人になって僕に酷い思いをさせた人間が(覚えている範囲で)どれだけいたか。

 そう。
 いないのである。

>>>

 ライターとトランクは修理することにした。
 端末は(あろうことかPCより先に)新調したわけだけれど、これが僕の持っているMacと同期できなくなっていた。
 6sのときはOSのバージョンこそ古くても、認識して、データのやり取りができたのに、もはや音楽データを移動することもできない。

 だから新しいMacを買う必要度が、さらに上がってしまった。
 問題は、必要な性能を備えた適度な価格のMacがないことだ。

 複数台の Mac mini で妥協するのか。
 もう時代遅れになりつつある Mac Pro を自動車みたいな価格で買うのか。

 こればかりはさすがに決断できない。




// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200806
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
奴隷商と自動化。
SUBTITLE:
~ Slave trader. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
201016
 
 ようやく引越しの手続きをする。
 足利市から前橋市に引越すときは、友人のBPの手を借りたが、しばらく前に、不倫に忙しいようなことを彼が言っていたので諦めて、引越し業者の手を借りることにした。
 彼が不倫をしているから手を借りないのではない。彼が忙しいと言っているから手を借りないだけである。
 
 僕も、ゲームや昼寝、料理や焚き火やお風呂で忙しいときがある。
 もちろんガールとぱやぱやするなんていえば半日は潰れてしまう。
 ぱやぱやするときに他の予定を同時に実行するなんてことは考えたこともない。忙しいからである。
 忙しいのだから、他の予定の入る隙間はない。
 友達なのだから、相手の予定や優先度を優先するのは当然だと僕は思う。
 ために不倫で忙しいBPの時間を奪うようなことはしない。
 
 僕には忙しさを他人に説明するとき、理由に序列がない。
 昼寝だって、どうしても必要な昼寝があるし、同様に、してもしなくてもよい仕事や経済活動だってあるだろう。
 食事や家事、勉強や人間関係の付き合いごとなども同様だ。
 これは夢の話にも似ている。
 
 たとえば僕はインテリアとして女性下着を飾るのが好きなのだけれど「綺麗な女性下着があと5着くらい欲しい」という欲求と「自転車で日本一周したい」という欲求を同列に扱う。
 だから恋人や友人に「綺麗な女性下着があと5着欲しい」と言うことができる。
 もちろん、たいていはそんな発言をする必要などないのだけれど、たとえば恋人が「身に付けるよりも飾った方がいい下着」を着けていた場合、「その下着を飾りたいので置いて帰って、私に頂戴」くらいのことは言う。
 
 今の夢は何ですか? と尋ねられたら「裏庭の木の剪定」と答える。それは日本一周よりも切実で喫緊で重要だ。
 でも人によっては、自分の欲求の強さに関係なく「語ってカッコいい欲求」を夢として語るだろう。
 もちろん、いいカッコをすることが悪いとは思わない。
 ただ、そういう夢は叶わない。
 
 自分をカッコよく見せるために、他人に語るべく用意された夢は、他人に語るという目的しか持っていないからだ。
 他人に語ることで満たされる欲と夢は、そこで煙のように熱を失うから、カタチを持つことはない。
 単純なメカニズムである。
 
 僕にとっては、夢と欲求はだいたいセットになっていて、そもそも必要もないのに夢を語らない。
「将来の夢は」と尋ねられても、いい加減なことしか言わないだろう。
 夢を語って熱量を下げるなんて自殺行為をしたくない。
 だから、本当に欲しいものや本当にしたいことを、僕は他人には滅多なことでは言わないのだ。
 それを手に入れて、実現して初めて「これがしたかった」と言う。
 悩みを誰かに相談しないのも、同じメカニズムである。愚痴もほとんど言わない。
 
 忙しさも同様で、他人に語る忙しさはだいたい時間の無駄である。
 他人に語ることができる忙しさ、他人に語るための忙しさ、いったいどうして忙しいのだろう。
 それは無能だからだ。
 
 僕の手帳はだいたい空白だらけなのだけれど、他人に忙しさを説明しても伝わらないのだ。
 僕には通販サイトで女性下着を見たり、屋内用暖炉をホームセンタで見繕ったり、昼寝をしたり、ゲームをしたり、焚き火をしたり、猫と遊ぶのに忙しい。
 にもかかわらずわ多くの人は、それを忙しいとは言わないらしい。
 他人向けに語る用の、もっともらしい言い訳がないと、友達の誘いも断れない人が多いのは、そういう理由だろう。
 それでもそれを友人関係と呼べるのは、弱さなのか強さなのか。過敏なのか鈍感なのか。
 
 いずれにしてもそのようにして、多くの人は、世間体とまでいかないくらいの、こじんまりとした他人の倫理に左右されて生きているようだ。
 それはそれで本人の望む幸せのカタチだろう。
 もっともらしい言い訳をしなくてはならないくらいたくさんのお誘いがあって、もっともらしい自分を演じることで繋がっているたくさんの友人に囲まれ、きっと寂しくないのだろう。
 退屈もしないし、時間の無駄も感じないのだろう。
 
 僕は、そういうのがとてもチープで寂しくて無駄で退屈だと感じるので「昼寝に忙しい」と言えば笑ってくれる友人や「じゃ、添い寝に行く!」と宣言する恋人しかいない。
 
 どちらもハッピーだと思う。
 僕は親しい友人にまでもっともらしい嘘をつきたくないから、そういう人間関係を構築しているというだけである。
 
>>>
 
 無職になって、だいたい18ヶ月が過ぎた。
 もうこれが僕には普通のことになってきている。
 だいたい5〜6年前に、ブログでふと「モテは飽きたから次はオカネモチーになろう」と言っていたのだけれど、こんなカタチで自分を買い戻せるとは思っていなかった。
 もちろんその時からかなり真剣に「オカネモチーになる手段の自動化の策定」を始めたわけだけれど、僕は元々オカネモチーではないし、会社を立ち上げたり、過重な労働をして賃金を貯めたりする気はなかった(それはコガネであって多分、普通に消費してしまう)し、ギャンブルも宝くじを買うこともしないので、どうしてオカネモチーになる道が出来上がったのか、未だによく分からない。多分、運が良かったのだろう。
 
 いずれにしても、奇跡的に僕は経済そのものから僕自身を買い戻すことができた。
 経済というのは奴隷商みたいなものだから、経済が人間を支配している社会(資本主義って、そういうことである)において、僕らは基本的に経済の奴隷である。
 
 僕という無職者をひっそり養うだけの経済力があればそれでいい。
 僕は財界で有名になったり、市場を通して世界をコントロールしたりしたいとは思わない。
 
 街の飲み屋でチヤホヤされることに興味がない(できればどこでも、隅にいる一見さんでいたい)し、友人や知人や恋人は少ない方がいい(一人でいいとは言っていない)。
 
 無名のまま、もっと接する人を少なくして、誰知らず死を迎えたい。
 できれば自動化された葬儀には、誰も出席しないくらいが丁度いい。
 
 オカネモチーの思考回路を具現するのにあたって、僕はそういったデザインをした。
 デザインしたとおりの思考を手に入れて、デザインした程度に近いオカネモチーを実現した。
 オカネモチーというのは基本的に、現実世界の根が深いようだ。
 現実世界に強く深く関わらないと、そういうふうにはいられないのかもしれなくて、それが少し煩わしい。
 現実世界と僕との接点を、少しずつ引き剥がすのが今後の目標である。
 
>>>
 
 この(あまりにも人と接することの少ない)状態から再びモテに転身したら面白いとは思う。
 どんな自動化がそれを実現するのだろう。
 
 ときどき考えるのだけれど、引越しの荷物の仕分けの方が、今の僕には大事で忙しい。
 梱包も開梱もお任せするシステムはあるらしいのだけれど、僕は自分の持ち物を誰かに見られることを極端に恐れているようなので、恥ずかしくて恐くて、自分でするプランにした。
 
 対面に座して話を聞いていたら驚かれた。
 何でも最近は、相見積りのため複数の業者を呼びつける人が多いらしい。
 キッチンで料理をしながら、片手間に説明を聞く人もいるそうだ。
 みな忙しくて、人を人とも思わない社会に加担していることさえ自覚がないのだろう。
 
 ひとことで言えば情けないことである。
 
>>>
 
 運送業者である以上、下げられるのは人件費である。
 それを値切って得をした気持ちになるのだろう。
 それはそれて一つの道である。
 人を値切って買えば、自分が値切られる契約書にサインをしているのと同義である。
 僕らはなべて等しく経済の奴隷なのだから。
 
 そんな世界など滅びてしまえと、僕はボクの中の悪魔に囁く。
 ときどき世界を変容させてしまう僕の自動化プログラムは、悪魔がペダルを漕いで動作しているにちがいない。
 それなら経済も悪魔も、ひとしくペダルを漕げばいい。
 ガールとのぱやぱやに忙しい僕のために、ペダルを漕いで世界を前進させればいい。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Link-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Design-Friend-Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20201015
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自己愛とストーカーと既読スルーとお歳暮
SUBTITLE:
~ Defect tumbler. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 10日前、母上は死んだ。
 母上についてはすでに書いたし、母上についての悲しみを僕は悲しみ終えたので特に書くことがない。
 強いていえば「生きているのに生きていない、死んでいるのに死んでいない」そういう空白地帯が生命にはあって、それを感覚するのが悲しいのではある。
 
 なのできちんと死んでいる状態に至った今、僕は安堵する。
 僕は母上を嫌いなわけでも憎んでいたわけでもないのだけれど、生きているよりも死んでいる方が適切だと僕が判断する状況に対して、生きていることを認識するのはストレスを感じるのだろう。
 そのストレスが悲しみという感情として発露するのである。
 あるいは人によってそれは怒りになり、あるいは消沈になり、一般的な状態の僕ならば(ストレスに対する表現手段の手持ちが少ないため)笑うだろう。
 
 母上は死に、一度死した人間はもう死なない。
 死んでしまうかもしれないし、快復するかもしれない(あるいは現状だけでも維持できるかもしれない)というグレイゾーンの状態はかなりのストレスである。
 
 僕以外の多くの人間がどうなのかは分からないが、僕にとっては、失われたものよりも、失われる「かもしれないもの」のほうがストレスになるのだ。
 観察した範囲でも、幼いときほど「失われたもの」に対するストレスが高く、「失われるかもしれないもの」に対するストレスは少ないようだ。
 これは予測能力(経験)の欠如が原因だろう。
 経験を重ねることでストレスに対して対策を取れるようになるが、同時に「失われたもの」に対するストレスに怯えて回避するような思考回路が構築されるのだろう。
 結果として、大人になり経験を積んでいる人の方が「失われたもの」についてのストレス耐性は強くなり、「失われそうなもの」について過剰に反応するようになる。
 その反応の過剰さが、すなわちストレスの高さだ。
 
 僕の場合もこのモデルに合致して「失われるもの」が現実として失われる頃には、すでに慣れて諦めている。
 ただ僕は「失われるかもしれないもの」に対する過剰反応が少ないように思える。
 これは「失ったもの」についての記憶(の一部、あるいは全部)をつぎつぎ忘れてしまうからだろう。
 
 人間は、自身が大きな価値や財産を(潜在的にであれ)持っていると思いこんでいる。
 もちろんその意識があればこそ、認識の中心たる自身を重要視し、さまざまな欲を満たすことで社会の発展に寄与したりもできるわけである。
(僕にはその意識が希薄なので、社会の発展には寄与できそうにない)
 しかし、個体の価値などたいしたものではないのだ。
 100年と経たないうちに名前すら消え、数十年と経たないうちに自身の中での記憶さえ曖昧になり、頻繁にやりとりがなければ数年のうちに他者の記憶から消えるちっぽけなものが、「自分」なのではないだろうか。
 
 必死に努力して誰かに自分を売り込み、記憶してもらうことよりも、誰にも記憶されない方が適切で、そのために努力しようと僕が判断する理由の、それはひとつである。
 
>>>
 
「新盆に贈った花について、お礼の電話がない」という内容の電話が、存命中のある伯母(といっても僕にとっては一族最後の伯母である)から妹宛にあったそうだ。
 そういえばその伯母の娘(僕にとっての従姉妹)からの「一周忌はされますか?」というメールを僕は無視してしまっている。
 その従姉妹を嫌っていてメールを無視したのではない。
「察してくれ」と思っている部分もある。
「法要等についてはこちらからご案内します」と最初に言ったものでもある。
 相続手続きが終わったらそのまま埋葬せずに寺院に永代供養として納める予定であることも説明してある。
(そして伯母が亡くなってからまもなく1年が過ぎるのに相続手続きが終わらないので、納骨処理ができないのでもある)
 言い訳ならいくらでもできるが、それが言い訳であろうとなかろうと説明することそのものに僕は疲れてしまったから、放置した。
 そもそも法要というのは、する側が案内すればいいのだと思うし、僕は死んだ人間よりも生きている人間を重視したいし、縁遠い血縁者より縁近い他人の方を重視する。
 
 その結果、僕に何かあったのではないかという探りを含めて妹に電話が掛かってきたというわけである。
 僕は時節の贈答品をやりとりしないし、誕生日にプレゼントを贈る文化に接していたのは3歳くらいが最後である。
 だから結婚式の引き出物や、葬儀の香典返しさえ、迷惑に感じるタイプの人間である。
 端的にいえば、お返しなんて欲しくない。
 どうしても贈りたいものがこちらにある場合、たしかに勝手に買って勝手に贈るけれど、その事実を、自身のエゴを、たいそう恥ずかしく思うのでもある。
 
「贈りたい」というのは贈る側のエゴである。
 受け取る側は、欲しくないものを受け取るのかもしれない。場合によって、それは単なるゴミにしかならない。
 ゴミを受け取った相手に喜んでいるフリをさせて、感謝の言葉という嘘を吐かせるのは、けっこう重い罪ではないだろうか。
 恥ずかしげもなく、自分のエゴを押しつけておきながら自分が「与える側」であることを誇示するのは、ずいぶん下品な行いのように思えるのだ。
 
>>>
 
 もちろん、もちろん。
 贈る「モノ」ではなく「贈りたいという気持ち」が大事だ、という向きもあろう。
 それなら電話やハガキでいいではないか。
「元気にしてる? 最近どう? あっそー、じゃあねー」でいいではないか。
 あるいは「もらえるモノならなんでも喜んでもらうし、嬉しい」という貧しい発想の人間もいる。
 
 自分が「本当に欲しい」「本当に必要」と思っていないモノが身近にあることを不快とも思わない、その鈍感さには感心するが、そういう人同士でやりとりしていればいいことだから巻き込まないで欲しい、とも思う。
 年賀状程度でもやりとりしないと消えてしまうと気にする人もいるが、そんな希薄な関係なら、消えた方が自然なのだ。
 その自然に逆らう気持ちは、不自然で人工的で、無理矢理のメカニズムは脆弱ですらある。
 今の時代、人間にとって過剰なのは他人の存在だ。
 だからそんなものは削ってしまえばいいのだ。なくしてしまえばいいのだ。
 
 僕は、自分が「欲しい」あるいはせめて「あっても文句はないかな?」と思えないレベルのモノであれば、新品だろうと誰から贈られたものであろうと、すぐに捨ててしまう。
 役に立つかどうかなんてことは関係がない。
 他人から押しつけられた(自分にとって価値のない)ゴミなんて、売りに行く手間を掛けることさえもったいない。
 つまるところ、誰かに勝手に贈り物をするというのは(それがたとえ商品券のような汎用性を持っているのだとしても)ちょっとしたエゴの押しつけだと思うのである。
(一番便利なのは現金なのだけれど、これをこともなく授受する関係を作るのは、じつはとてもむつかしい。なぜなのだろう。プレゼントの多くだって、経済で交換しているのは明白だというのに)
 
 だから僕は、贈り物を贈りたいと思った相手には、受け取ってもらえたらそれだけでたいそう感謝する人間である。なぜといって、自分の醜いエゴを快く受け容れてくれたからだ。
 なんという寛容。
 なんという愛情。
 それが僕に対してだけの受容であったとするならば、僕が完全なる愛されキャラの証ではないか。
 そんな誤解を自ら招かないためにも、できるだけ贈り物なんてしたくないのである。
 
 ところが自分のエゴでモノを贈っておいて、「受け取らない」だの「お礼を言わない」だのと文句を言うような無神経で恥知らずな人間は地獄に堕ちろ、と思うのである。
 お前のエゴで私を強姦するな、と思うのである。
 
 これがタイトルにあるとおり、時節の贈り物と既読スルーと呼ばれる行為に通じる現象である。
(ちなみに僕はLINEなるアプリケーションをインストールすることさえ嫌っているから、あまり意味を理解していないかもしれない)
 たとえば相手をねぎらったり、おもんぱかる内容のメッセージであっても、それを送るのは自分のエゴである。
 自分の中で発生した欲や決定した意思である。相手に責のないことである。
 心配していようと、思いやっていようと、自分のためのメッセージである。
 だから仮に、返信(感謝の言葉や、現状の報告)が欲しいと思っていたら、それは自分のための欲である。
 とくにねぎらいの言葉や睦言程度のものであるならば、受け取ってもらった、読んでもらっただけで目的は果たされ、僥倖のはずである。
 しかしそこで返信がない(さらにいえば「自分の思ったとおりの理想的な返信」がない)と憤ることは、自分の欲に任せて強姦しておきながら「どうしてこんなに僕が君を愛しているのに、君は僕をなぜ愛さないの? それどころかなぜ泣いて拒絶するの?」と言うことと一緒である。完全に狂っているのだ。
 
 ストーカーが意中の相手にプレゼントを贈る。
 贈ったら、相手がそれを受け取ってくれた。
 自分の醜いエゴを相手が快く受け容れてくれた。
 なんという寛容。
 なんという愛情。
 それが僕に対してだけの受容であったとするならば、僕が完全なる愛されキャラの証ではないか。
 つまり僕は愛されているのだから、ナニをしたって許されるに違いないだってプレゼントを受け取ってもらえたのだから僕は愛されているのだから僕の愛に応えてくれないはずがないそれどころか僕の愛をもっと求めているに違いないそれならば僕は僕は僕は僕はもっとこの愛を伝えた方がよいに決まっていてそうしたら相手は必ずその愛に応えてくれるに違いなくてああなんていう幸せなのだろう僕は僕は僕は僕は。
 
 ── ざっとこんな感じ。
 プレゼントを贈って受け取ってもらうことを履き違えるって、とんでもなく恐ろしい。
 つまりプレゼントを贈ることって、その時点で相当に恐ろしい。
 
 それらのプレゼントは自分が相手に与える愛情のように見せかけた、愛情を求める餓鬼の精神の具現である。
 自分の手だけで埋まらない自己愛の穴を、誰かに満たして欲しいというエゴである。
 そしてその無自覚な自己愛を自分の求める相手が埋めるのは当然であり、埋めない相手は非常識で排斥すべき敵であると見なす幼稚で愚劣で独善的な醜い欲である。
 
 だから。
 相手がプレゼントを受け取らなければ人は傷つき。
 相手がお礼を言わなければ人は憤り。
 相手がプレゼントを捨ててしまうと人はショックを受ける。
 
 なぜなら。
 自身の愛するいちばん大切な自分が拒絶され、
 自身の愛するいちばん大切な自分の好意をないがしろにされ、
 自身の愛するいちばん大切な自分の痕跡を消されるから。
 
 恥を知れよこの醜いエゴイストども。
 悔い改めよこの愚鈍な強姦魔ども。
 
 己の自己愛を満たすために「優しくて思いやりがあって愛情に満ちたワタシ」という強者を演じて「施しを受けてワタシに跪くべき弱くて醜いアナタ」という劇場を作るな。
 哀れな自己愛の飢えを満たすために他人を道具にするな。他人を喰いものにするな。
 
>>>
 
 念のために補足しておくと、僕は親しい人(だいたい友人くらいの親しさ)からもらったプレゼントは大切にしている。
 そもそも知り合う段階で、僕には「プレゼントしづらい」「めんどくさいヤツ」オーラが漂っているはずだから、もともとプレゼントを受け取る機会がほとんどない。
 にもかかわらず、そのハードルを乗り越えて贈られる品々とそこに込められた情念は、食べ物のような消費物であったとしても、ただただ飾るためのオブジェクトだとしても、私にフィットする。しないはずがないのだ。
 
>>>
 
 自分の身の回りのモノを買うときだって、自分に対して贈り物をするのと同じだと考えれば少しは変わるのではないだろうか。
 
 気に入ってもらえれば嬉しいし、それを大切にしてもらえたらもっと嬉しい。
 だから自分で「本当に気に入って」「本当に大切にできるモノ」を自分に贈るのである。
 すると贈った自分も、贈られた自分も、満たされる。
 
 自己愛というのは、些細な自身に対する思いやりの集積である。
 それは尊大に他人に対してつまびらかに誇示する類のものではないし、そもそも自身の価値とは他者に認めてもらわないと完結しない類のものではない。
 
 だから自己愛が満たされれば、それが溢れて他人の器に流すこともできるようになる。
 たったそれだけのことなのだ。
 
 ために自分を卑下する必要もないし、虚飾する必要もない。
 自分のことについて嘘を吐く必要はないし、他人に嘘を吐かせないようにすることもできるようになる。
 
>>>
 
 この「他人に嘘を吐かせる」ことについて多くの人は鈍感だ。
 
「嘘そのもの」に敏感になるあまり、「嘘を吐かせた原因」については思考が至らないのだろう。
「嘘を吐かれること」がストレスなために、その原因を見落としているように思える。
 結果的に、嘘を吐く人間が悪くて、嘘を吐く原因は野放しになるから、この社会から嘘がなくなることがない。
「人をして嘘を吐かせた原因」が、嘘を責め立てる自分自身のエゴだとしたらなお、嘘を吐かれた上で自身の抱えたその罪を認められる人がどれほどいるのだろうか。見たことがない。
 
 だいたいの正論好きな善人どもは嘘を吐いた人を断罪して終わりだ。
 真実を隠しているのはどちらなのかと可笑しくなってくる。
 
 優しくて、心のこもっていない嘘は、単なる欺瞞である。
 欺瞞が世界を覆って、経済を回しているのではないかと、ときどき思うことすらある。
 
 自己愛で満たされていれば、他人に嘘を吐く必要は感じなくなるし、他人に嘘を吐かせることを申し訳なくも思う。
 
 プレゼントを相手のために贈る? それは嘘でしょう。
 自分のためでしょう。
 
 それなのに、どうして相手に感謝を強要するのでしょう。
 そんなにあなたは、穴だらけだった?
 
 注いでも注いでも、漏れ出てしまうから足りないくらい。
 そんな不完全な器だった?
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
 
 
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20201002
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
母上のこと。
SUBTITLE:
Liebesfreud. ~
Written by Bluecat
 

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::忘れちゃえばいいんだよ、リセットボタン押すみたいにポチっと。
 ポチポチっと。
 そしたら心が軽くなる ── 。
 覚えてたって意味ないもん。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 オクラの実をひとつ、格別大きいものを幹に残して育てている。
 たぶん枯れれば種子が採れるだろう。
 そんな理由で、キュウリも1本、とんでもなく肥大した実をそのまま残している。
 
 季節は秋。
 これから死が蔓延り、いとおしい、静寂の冬が訪れる。
 
>>>
 
 以前書いたことがあるが、母上とは、僕が生まれてから5〜6年ほど一緒に暮らしただけである。
 ふたたび行き来をするようになったのはそれから5年ほども経った頃だろうか。
 あの頃は1日が苦痛で、1年が長かった。
 なので記憶がほとんど残っていない。
 
 人の死についてあまり感情の動かない僕は、母上が癌に罹患しても、放射線治療の結果、下半身不随になっても「あれ。ステージ4ってこんなに元気なのか」と、むしろ驚いていたものである。
「来週とかに死んでしまうのとちゃうのん?」と思っていたから、元気な様子で電話が来るたび、困惑してさえいたものだ。
 
 僕と妹が知らされてから、およそ4ヶ月が経ったろうか。
 もうじき、母は死ぬ。
 混濁した意識なのだろう、目は虚ろに天井までのどこかをたどり、眠っているのか起きているのかも分からず、うわごとのような会話をしている。
 
 訳あってひと月ほど、顔を合わせなかったうちに、すっかり変わってしまった。
 母は、もうじき死ぬ。
 
>>>
 
 僕はもっと、自分がドライだと思っていた。
 人の死について、あまり感情が動かないと思っていた。
 親との位置関係に対して、もっと醒めた理論構築をしていると思っていた。
 だって僕は。
 機械に繋がれたまま1ヶ月も眠る父上を看ていて動じなかったし、予想どおりに死を迎えても、それを必然として容易に受け容れたからだ。
 
 まして数年しか一緒に暮らさなかった、生活に馴染みのない人なのだ、母は。
 
 なのにたとえようもなく悲しくて、僕はときどき、涙を流す。
 自宅療養をしている姉の家に見舞っている間は、大丈夫なのだ。
(それでも最初はショックで、次の見舞いに行けるまで3日ほど必要だった)
 むしろ笑って「はいはい。ほたる水(どうやらそういうものがあるらしい)だね、持ってくるよ」とか「あら。菜箸が必要だとは思わなかった。持ってくるからね。あ、もう要らないの? じゃ片付けてくるね」とか、ベッドのわき、母の夢幻の世界に腰掛けて、話し相手をしている。
 
 それでもときおり苦しそうな表情で「背中が痛い」と訴える。
 気休めにしかならないのだろうけれど再び別の夢が彼女を支配するまで、その骨張った、固く冷たく痩せた身体を、抱くようにして撫ぜる。
 やがて彼女は次の夢にたどり着く。
「そんな角に置いたら危ないよ!」
「あはは、はい、ごめんなさい。動かしましたよ。これでどう?」
「そっちじゃないよぅ!」
 そんな調子である。
 
>>>
 
 感情は、いつも理由があって、その因果関係を集めた理屈を構築できて。
 理屈にもとづいた反応が感情であるならば、理屈を理解すれば感情をバイパスすることも、キャンセルすることもできる。
 そう思っていた。
 
 でもときどき、どうしようもない感情があって。
 理屈のない感情の数々を、僕はあまたのフィクションによって知っていたのではある。
 フィクションのストーリィを追っているときのように、だから僕は、純粋な感情のままに自身をまかせることもできるようになった。
 だから僕は、母上の前で、静かに泣いた。
 
 考えてみれば、慕わしさしかない関係だったのだ。
 親子喧嘩をするような年齢も、互いの人間性に厭気が差すような年数も、僕たちは共有していなかった。
 ただ僕にとっては母親で、彼女にとっては息子だったのだ。
 それだけのまま、離れて暮らして。
 それだけのまま、再開したのだ。
 そしてその間にたまたま、ボクは母親のいない僕を演じることに順応した。
 
 煩わしさがほとんどなかったから、だから僕はイヤな記憶のないままに悲しいのかもしれない。よく分からない。
 ただ慕わしさだけの記憶しか持たない僕が確かにそこにいて、そのころの僕の記憶を操作する必要なんて、今までなかったのだ。
 だからただただ子供が甘えるように、慕わしさに無邪気に身を寄せるように、僕はひとりのとき、ひっそりと涙を流すことにした。
 
 ちょうどよく僕は、僕自身にとってすら、何者でもないから、なにかを取り繕う必要もない。
 もともと僕の両親は一度として「男なんだから、泣くものではありません」なんて言うことはなかった(多分、仕事が忙しかったのだろうけれど)。
 
 僕に「泣いてはいけません」なんていうのは、だいたい、外の世界のイキモノたちだった。
 僕にオトコやオトナやコドモやコウハイやシャカイジンや、そういった雑多な役割を他人に押しつけるイキモノたち。
 ボクのことなどナニもシらないニンギョウたち。
 
>>>
 
 じつのところ悔しくもないし悲しくもないのだ。
 いや悲しいのだけれど、それは深く激しい悲しみではなくて、慕わしさがあらためて失われることに対する記憶の残滓なのかもしれないけれど、そういう理屈が僕の中でこね回されるたび(いやちょっと違う気がするんだけど)と、ボク自身にダメ出しされるのではある。
 
 理屈もなくて、整理もつかない悲しみが、ときどきやってくる。
 なるほど、目覚めたら母のいなかったあの日、僕はこんなに悲しかったのかと、思い出す。
 だれも満足な説明をしてくれなくて、だれもぼくの訴えを拾いあげてくれなかった。
 
 なにもわからなかった。
 なにもかなわなかった。
 なにもかわらなかった。
 ぼくのねがいはいつも、ことばにするたびに、するするとゆびのあいだからこぼれおちてゆく。
 
 送りたかったハガキは郵便局員の手にたまたま取り上げられて突き返され、けっきょく届かない。
「ぼくは元気です」たったそれだけの届けたかった言葉さえ伝わらない。伝えることができない。
 ぼくは誰にも「その人はぼくの母で、どこに住んでいるか分からないけれど、どうしてもそれを送りたい」とはいえない。
 教師にも、社会科見学先の郵便局員にも、クラスメイトにも、母と同じく所在の知れない姉にも、もちろん父上にも。
(だからといって、そのハガキが届けられなかったことを郵便局のせいにしているのは、そのほうが茶目っ気があるからというだけなのだけれど)
 
 そして8歳の秋、僕は忘れることにしたのだ。
 その記憶やら感情やらが日常の足枷にしかならないなら、目立たないところに仕舞い込んでおこうと思った。
 そしてそれらすべてを忘れようとしたことすらも計画通りに忘れたのだ。
 
 だからぼくは、なにもいわない。
 だから僕は、何も願わない。
 願いを言葉にしないし、決してそれを誰かに聞かせたり、まして訴えたりなどしない。
 この世界には、神も悪魔も親もおらず、僕の記憶は穴だらけなのだから。
 
>>>
 
 秋はきっと、すぐに終わる。
 オクラとキュウリは、やがて枯れる。
 種は採れるだろうか。
 来年、蒔いたら芽が出るのだろうか。
 
 今年の夏、僕が育てた野菜を母は「美味しかったよ」と言っていた。
 弾むように、笑っていた。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::ねーねー、お母さん。
::ん? なあに?
::「愛の喜び」と「愛の悲しみ」があるのに、どうしていつも「愛の悲しみ」を弾くの?
::それはね、公生 ── 悲しみに慣れておくためよ。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 引用は、
 文頭部「第33話 トワイライト」From「四月は君の嘘 第9巻」(p.43)
 文末部「第25話 つながる」From「四月は君の嘘 第7巻」(p.38)
(著作:新川 直司 / 発行:講談社)
 によりました。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Color-Convergence-Darkness-Diary-Interface-Life-Link-Love-Memory-Recollect-Season-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Garden-Human-Memory-Night-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-:-いのちあるものたち-
 
 
 
//EOF