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// TimeLine: <2021-03-21>
// NOTE:

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TITLE:

天才肌の撫で心地。

SUBTITLE:

~ The Lemmings. ~

Written by BlueCat


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::「過去は変えられない」なんて言う奴が君のまわりにもいるだろう。
 しかしそんなことはないはずだ。よく考察してほしい。
 何一つ変えることができないのは、過去ではなく現在だ。僕たちはこの瞬間、何一つ変えることができないまま、今を流されている。
 自分で何かを選択しているだなんて、とんだ思い違いだ。僕らはだいたい惰性で流されている現状に言い訳を繰り返しているだけさ。

 一方で、過去の意味なんてコロコロ変わる。
「昔は良かった」なんて懐古調に語ってる奴なんかはてきめんにどうかしている。控えめに表現してもアタマがオカシイと思うよ。実際にその時代に行って検証してやりたいくらいさ。まず間違いなくそいつらはその頃 ── つまりは昔 ── から自身の置かれた現状に対して文句を並べるくらいしかしていなかったはずだ。「今が一番素晴らしい」なんて思っていようものか。そもそも現状に対する不満を並べる指向性を持っている個体だからこそ過去を振り返って「昔は良かった」なんて絵空事のように美化できるんだ、あるいは「未来は可能性に満ちている」とかね。

 そこに居ない人間が、そこに居ない奴を相手にホラを吹くのは勝手だよ。
 ただ、みんなよく考えるべきだとは思うんだ。
 現在は変えられないし、過去はその意味を変える。
 これは批判ではなくて事実だ。そして非難ではなくて価値の承認だ。
 過去が意味を変えれば、そして現在が不変であればこそ、未来はその位置を変えるんだ。

 

 

 


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//[Body]
 0321。
 バイト先からの帰宅中、体調に変異を感じ帰宅後検温(まともな体温計がないので、24時間営業の薬局まで走る)。
 体温はおよそ38℃。
 子供の頃は、発熱していても肉体機能にほとんど影響しなかったが、30代くらいから運動機能に直接影響を与えるようになった。
 平衡感覚の乱れと、筋肉に力を込めることが困難で、運転や歩行に支障を来す。

 春先は体調を崩す。ために僕は春を警戒し、嫌いさえする。
 連日の花粉により粘膜は荒れ、その上ワークアウトを行ったりして筋肉痛が重なった。
 リンパ節付近の筋肉が筋肉痛を起こしていると(考えてみればあれも炎症なので)免疫系が疲弊するようだ。
 40を過ぎたのに、肌は花粉や汗にも過敏で不調になりやすいし、筋肉痛と花粉症が重なっただけで風邪(だろうと思う)に罹る。
 しかしこの身体しか僕は持っていないので、仕方ない。
 玄米きのこ粥など作って食し眠るが、粘膜の腫れがひどく、朝まで呼吸が困難だった

【隔絶なる孤高】
 天才肌である。
 誰がって。僕が。である。
 いいさ。笑え、笑えよ。

 ネタだと思おうと、冗句だと思おうと構わない。
 しかし最近(正確には昨日の夜のお風呂で)思いついたのだ。
 一定以上の客観性をもって僕という存在を観察した場合、これはなかなかどうして天才のように観察される、つまりは天才肌なのではないのかと。
 もちろん僕は、僕の内容物を知っているし、僕の主観による僕の風合いも心得ている。

 僕は、ときどき少し神経質な、ちょっとした奇人のフリをする凡人である。少なくとも天才ではない。
 コンピュータのごとき記憶力もないし、コンピュータのような計算力もないし、コンピュータのような認識力もないし、コンピュータのような処理力もないし、コンピュータのような信頼性はない。ついでに肉体能力などは子供の頃からひどく劣っている。
 天才に特有の、圧倒的な思考の飛躍力もない。
 アタマの中身において、速くもなければ遠くにも行けず、何を残すわけでもない。
 肉体も同様、速くもなければ遠くにも行けず、何を残す気もない(そもそも死ぬ気満々である)。

 もちろんこれまでの人生(僕の生涯の2/3は終わっている)で「天才」と評される ── 揶揄されていたのではなかったと思いたい ── ことはたびたびあった。
 しかしそれらの評者はいずれも身近な人間だ。
 一部の恋人や友人、知人が勝手に僕を天才だと表しているだけで、はたしてそれが本心である保証はないし、もとより僕の内容物やその収容物、それらの示す性能が、天の与えた優れた能力をして、他を圧倒する結果を現実世界にもたらしたことなど、一度もない。
 多分、ない。
 きっとないんじゃないかな。
 なかったと思うんだけど、そもそも記憶にない。

 結果、僕の主観に残る僕というのは、少々神経質(あるいは過敏症、もしくはナルシスト)で、凡人以下の能力しか持たず ── そもそも僕は、子供の頃から現在に至るまで、誰かと競うことから極力逃げ続けてきたので、なべて等しく多くの人たちの平均的能力を知っているわけではないけれど、周囲をざっと観察した範囲で「負けてるんだろうな」とは思う。自分の誕生日すら忘れるし ── 、格別秀でた才を与えられた覚えもないし、持っている感じもしない。

 目が覚めたら体じゅうから力がみなぎってもはや無敵だ、なんて経験は一度もない。
 軽いつもりで何かをしたら、それがとんでもない作用をもたらしてみんなの役に立ったこともない。
 どちらかといえば子供の頃から非力で、かといって手先は不器用だ。
 力仕事に充てれば達成できずにケガをするし、細かい作業に充てれば雑な結果が待っている。
 肉体的な速度に比例して仕事も速いわけでもない。これはひいき目の表現をしている ── つまりは遅い。

 比較対象の存在するすべての能力、作業において、僕は抜きん出た成績を残さない。残せない。
 それを本能的に察知したのだろうか、僕は子供の頃から競争を嫌った。
 いいやそんな天才的なエピソードなんてあるものか、子供たちの他愛ない遊びにおける競争で、僕は負け続けたのだ。
 走れば一番に遅く、砂山を作らせればもろく、トンネルは繋がらず、塗り絵ははみ出し、積み木は倒れ、工作をすれば指を切り、喧嘩をすれば絶対に負けた。妹にすら勝てたことがなかった。
 しかしどういうわけか、僕の性格そのものは人好きのするものであったらしく、あからさまに邪険にされることはなかった。

 あるいは負け役もときに必要ということだろうか。

 それでも次第に、一緒に遊ぶ、という輪からは外れていった。
 彼ら彼女たちが、なんとなく外していったのかもしれないし、あるいは僕自身が距離を取るようになったのかもしれないし、その両方が作用したのかもしれない。

 とはいえ、どういうわけか僕は自分が面白いと感じることには敏感で、いつも自分だけの遊びを考えていた。
 きっとみんなそうだと思っていた。
 みんな自分が面白いと思うことを探して、その結果が他の人と共通だったり、あるいは他の人がいないとならないもの(競争やチームでプレイするもの)だったりした、その結果としてそうしているのだと。

>>>

 今は思う。
 多くの人は、群れることを標準に生きてきたのだ。そのように育てられたのだ。
「言うことを聞かなければ仲間として相手をしない」と親から、友人から、兄弟姉妹から、コミュニティから脅され、それに怯えて生きてきたのだ。
 群れないことは、すなわち放逐で、すなわち恐怖だったのだろう。

 僕は姉妹や両親や会社の従業員に囲まれながらも、ひとりで遊ぶこと、人間以外と遊ぶことを好んだ。
 本を読んだり、本を積み木のように遊ぶのが大好きだったし、洗剤や薬品を安全な範囲で使ってひとりで遊ぶこともできた。
 身体が弱かったことも、本を読むこととは相互に適合し、危険に対しての距離と僕の孤独を最適化した。
 だから僕は、就学前から(一部の漢字は既に読めたので)現実世界よりも本の中の世界に埋没していた。溺没していたといってもいい。とにかく地表にいなかった。
 現実世界が地表ならそこではない場所、肉眼で把握しやすい実数とは異なる、虚数世界のような場所に僕はいた。

 多くの人は実数世界で背比べをしている。
 誰がすごいとか、自分が集団の中でどのような位置にいるかをいつも気にしている。

 僕は比べる前からそれを知っていた。
 僕以外が常にすごくて、比較するまでもなく僕は集団の中で群を抜いて勝ち得なかった。
 だから競争などする気にもならなかったし、必要も感じなかったし、皆と同じ土俵に立つなんてまっぴらごめんだった。
 父上も母上も僕を競争させなかったし、姉妹たちは僕と競おうとはしなかった。

 結果的に、僕は浮世離れしてしまった。
「孤高」「達観」「独自の世界」「求道者」
 そんなふうに表現された。
 なぜといって僕は誰に迎合するわけでもなく、だからといって牽制したり対抗心をむき出しにもしなかった。

 他人に興味がないわけではなかったが、他人と自分を比較することに意味を見いだせないままだった。
 そしてなにより、いつも何かを探し、追っていた。
 ために学業やスポーツや芸術に邁進していた、のかというと、まったくそうではない。
 その土俵は広く一般的 ── つまり間口は広くありきたり ── で、そしてどうしても競いたがるユニットがあって、それを煽るギャラリィまでがいた。

 その喧噪を、僕は嫌った。

 勝ちの裏で負けが突き落とされ、好評の陰でけなし言葉が牙を剥く。
 その雑多を嫌った。それが衆寡の理なればこそ、僕は隔絶の位置を保った。

 そして花火を分解して火薬を集め、手投げ弾を作ろうとしたり(ささいな事故により目立たぬ程度の火傷をしたうえ畳を焦がし、失敗に終わった)、庭で焚き火をしてその中で粘土を焼いて土器を作ろうとしたり(黒焦げに崩れた土くれが出来上がった)、昆虫類をあまねく殺す薬剤を作ろうとしたり(強アルカリで皮膚を焼いたり)していた。
 何者も真似をしている気配はなかったし、一緒にしようとするものがいなかった(もちろん僕からは誰にも声を掛けなかった)のは、不幸中の幸いだ。

>>>

 就職しても、徒党を組む連中というのは一定以上にいて、自分たちのルールが常識だと疑うこともない。
「新進気鋭」「新しい感覚で」などと口ではいいながら、同じことをして同じ枠にとどまることを望んでいる。

 これには本当に呆れたものだが、どうやら社会を為す潜在的なメカニズムの方向性としては間違っていないようにも思える。
 すなわちその枠組みは集合知そのものであり、それはおよそ絶対的な引力を持って全体をより安全に、より安定した方向へ導いてゆく。

 まったくもって面白みもなければ冒険も挑戦もない「みんなみんな、おんなじおんなじよ〜」文化へと誘う。
 まさしくそれこそは地獄絵巻の入り口。阿鼻叫喚の幕開け。

 現状に閉塞感を覚えながら、どうして同じことを繰り返そうとするのか。
 愚図どもが同じ轍を強要して、それ以上の結果を出すことを押しつけて、できなければ無能と叩く。

 もちろん、もちろん。
 だからといって面と向かって反抗したりはしない。抗議したりもしない。
 人にはそれぞれ得手不得手があり、それぞれのセオリィやメソッドがあり、哲学や目標があるのだろう。

 対立すれば、絶対に負ける。数的に、あるいは力という点で、競争すれば僕は負けるのだ。
 だから僕は他人をあげつらうのではなく、自身の見るべくを見る。

 結果的に僕は、従順なように見えて協調性に欠け、攻撃的ではないけれど人の言うことをあまり聞かず、自分の興味のあることだけをしているように観察されると思う。

 結果、集団から干され、仲間から外され、陰で嗤われ、表立っては冷笑される。

 彼らにとって、それは多分、一番有効な攻撃なのだろう。

 けれども僕には、単に自分の自由を確認する指標でしかない。


【自由なる孤絶】

 一貫して僕は競争を嫌ってきた。
 競争に勝っても負けても面白いとは感じなかったし、何より多くの競争は、始める前に結果が見えていた。
 競争が好きで、競争をすること、あるいはさせることによって己のアイデンティティを支えているような人間にも興味がなかった。
 いつも他人が邪魔だったと言ってもいいだろう。
 他の誰かの作ったルールで競ったところで、僕に勝ち目はやってこない。

 だから誰も巻き込まないような場所で、自分だけの景色を追っていた。
 こちらのルールで他人に競争を持ちかけるのも同様にアンフェアだから、僕はひとりでそれを愉しんだ。
「人間はひとりでは生きていけない」とか「皆で力を合わせて」とか、そういう感覚が分からないわけではない。

 ただ僕の身体の性質上、食事や睡眠さえも誰かと合わせることは互いにストレスを生む。
 生き方そのものが、そんなふうに、寄せ付けないわけではないけれど無理に迎合することのない潜在的な意思を反映してしまったのだろう。

 なるほど僕は孤高であり、達観しており、独自の世界に生きている。
 少なくともそう観察されるのは納得できる。
 誰かと競えばすぐに負けるのだけれど、それでもなお底知れぬ力を隠しているように思われているのだろう。
 もちろん、そんな実力などない。
 そもそも「競争して勝てる能力」を持つものが「のんびりぼんやり」なんてことを掲げて生きるはずもない。

 ただ僕は、競争が好きな連中を近づけない能力は持っているようだ。
 非常に消極的な能力であるが、烏合に巻き込まれないことはとても大事だと思う。
 ひとたび巨大な集団に巻き込まれてしまえば、自分の意思も能力も見誤って、思った場所にたどり着けないどころか、行きたくもない場所に運ばれてしまう可能性だってある。

 SNSが人を自由にしたかと、僕は時々思う。
 もちろん僕は自由だ、だからSNSとの距離も自在にしている。
(職場内LINEでさえ、承認したことはない)

 しかしそれは形なき群れだ。志向のない力だ。

 

 群れは引力だ。それは強い力を持っている。
 数は暴力だ。この脚を掴む数多の手。
 引きずり下ろそうと躍起になる欲が、大地からの糸となって絡み付く。
 そういう機能を持っているのだ、引力は。
 だからこそ、そこから離れる力の自在に僕は憧れる。
 それを振り切る自由を美しいと感じる。
 群れて重くなる様を、弱く醜いと感じる。

 そもそも大地を蹴って、空を舞って、宙の先まで飛び立って、いったいその先に何がある。
 何もないではないか。
 何もないし誰もいない。
 そんな場所へ行く能力が何の役に立つわけもない。
 だからこそ、それが素晴らしいと感じる。
 誰の役にも立たないことは、誰を害することもないからだ。
 誰もいない場所に立つことは、誰を傷つけることもないからだ。

>>>

 誰に言うつもりもないそれらは、僕の中に秘めておけばよいことである。
「競争。うん、いいね。がんばれ」「勝ち? うん。素晴らしい」
 そのような口先ばかりのコミュニケーションによって、環境による抵抗や周囲との摩擦を減らすことも覚えた。

 他人の競争を否定はしないが自身は参加しない結果として僕は、周囲に振り回されない軸を持っているように観察されるのだろう。
 何事にも動じない、他者を歯牙にもかけない力を、内に秘めているように錯覚されるのだろう。
 実のところ、それが僕の怠惰の集積であることは、およそ間違いないのだけれど。

 うわべだけで中身のない天才肌。
 競えば負け、徒党の中で餌にされ、乱気流に弄されれば力を失う脆弱。

 摩擦や抵抗を下げて、極限の軽薄を目指す機能美。

 どこに力があろうものか。どこに強さが潜むものか。

 

 しかし喧噪を嫌い、競争から逃げ続けてきた場所は、とても静かだ。
 僕はその静寂を愛する。

 

 いつまでも逃げ続けてやろう。

 たとえ後ろを追ってくる者がいたとしても。

 

 僕は先頭を譲らない。
 

<そんなことより、あるじ、あそぼうよ!>

>>>

 2日目から腰部に痛み。熱は一切引かず、時折39℃になる。
 おそらくインフルエンザだろう。
 動けるときに猫の世話などして、あとはただただ眠る。
 妹が「何か買い物していこうか?」と心配するが、断る。
 4日目に痛みは和らぐが、熱は依然38℃ほど。
 真っ直ぐ歩けないから買い物にも出られないが、僕は僕の耐久力を知っている。
 突発的に39℃になるが、規則性がつかめない。
 5日目、コロナ相談センタに電話をし、病院を紹介してもらう。
 久しぶりにシャワーを浴び、買い物に出る。身体の痛みがおよそ引く。
 6日目、病院に電話をし、出かけようとする時間に熱が上がる。歩行不能。
 7日目、新品の体温計の故障を疑い始めた頃、37℃の体温を測定する。

 今回は珍しく消化器系の機能不全を起こしていないが、粥を作る気力はないので、液体食に切り替え。
 ほとんど眠り続けているので消費は発熱くらいだし、白湯と少量の栄養で、僕の身体は活動できる。
 臀部に近い腰部の筋肉に鈍い痛みがあるが、熱が収まれば運動機能も回復するだろう。






 


// ----- >>* Escort Division *<< //
::点Oを通過する線分Lがある。
 点Oは動かない。
 ただし、線分Lを構成する始点L1はその位置を任意にすると考えた場合、終点L2は、どの位置に予測されるだろう。
 すなわちL1ーOを結ぶ無限直線上に、L2は限定される。
 L1が任意だからと行って、可能性は無限ではない。極めて限定的になるんだ。

 未来は可能性に満ちてなどいない。
 現在は固定されていて変化しない。
 だから今持つ意味を変えて、未来を捕まえることができるんだ。
 支点と力点、作用点のようにね。
 叶えたい未来のために今頃行動を起こしている人間は、それより以前に行動を始めている人間にはかなわないだろう。
 あるいは過去に縛られて、動けない人間を見たことがない?
 まったく馬鹿馬鹿しいことに、多くの人間は過去や既存の価値観に自らを縛り付けておいて不自由だなんて文句を言う。
 現在が固定で過去が固定なら、未来が変わるはずもない。

 しかしその過去をちょっとスライドさせれば、未来は大きく変わる。
 自分の欲しい未来なんて、案外簡単に誘導できるものさ。
 きっとみんな、たいそう大事な、変えるわけにいかない過去を抱えているんだ。
「あの頃は良かったなぁ」なんてついつい吹聴したくなるような、ご大層な過去をね。

 

 

 


// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「設計室のオリエンテーション」From「いるか色の夜」(by青猫工場)
 によりました。




 


// ----- >>* Junction Division *<< //

[NEXUS]

    ~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]  :青猫α:黒猫:BlueCat:

[InterMethod]

  :Algorithm:Diary:Ecology:Engineering:Form:Interface:Life:Link:Mechanics:

  :Stand_Alone:Style:

[Module]

  :Condencer:Generator:

[Object]

  :Human:

// —— >>* Categorize Division *<< //

[Cat-Ego-Lies]

:暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:夢見の猫の額の奥に:





//EOF

1月はほとんど家の中でぬくぬくして過ごしていた。

寒かったからである。


居室を家で一番狭い(ために暖房効率の高い)北西の(いずれは書斎にする予定の)部屋に移し、寝室も2階からその部屋に移した。

ゆえにその部屋と台所とトイレしかほとんど使わない状況が続いている。

もともと僕は2DKのアパートで暮らしていたので、さほど問題はない。


2月の半ば、急に春の訪れを感じる。

20℃近くまで気温が上がる5日ほど前には、すでに日差しが強くなり、それまでと同じ12℃であっても、はるかに過ごしやすくなっていた。

ために慌てて床の間の壁塗りを終えた。

なぜなら続く工事は、たとえば真冬に寒さで中断したように、花粉の時期や真夏になったら同じように中断しかねないのである。


そして唐突に、畳からフローリングに替える工事が始まった。

<畳を外した床>


根太の上に板が巡っているが、その下は当然軒下である。

ここに直接、畳が乗っているため、この家は過剰に通気性が高く、夏は暑く冬は寒く乾燥し、雨が降ればひどい湿気で、ほぼ外気同様の空気環境になる。


築40年にもなると、根太や梁にも歪みが出ているのだけれど、その精密測定など諦めて強行する。

ちなみに、根太の上の板は外してから工事すべきだったかと今は思う。何故ならすでに板が反っていて、最終的な仕上がり床面を歪めることになったからである。

また、どういうわけか根太が一尺(約303mm)ごとに渡されていない。間隔が広いのである。

そういう仕様で設計されたのか、材料費を抑えるためにそうなったのかは分からない。

見えないところがなかなかひどいデザインで作られている様をこの家で僕は見ている。


<断熱材1層目と2層目>


分からないまま床柱のセンターを基準に1尺で角材を渡す、ために板中心で下骨を渡す。

これで根太と並行な骨が組み上がる。

ただし、下骨は下地板が歪んでいて、尺もバラバラであったため、一層目の断熱材は格子の一枚一枚、各辺を測って切って埋め込むことになった。

寒い上、木骨は硬く、僕の皮膚は柔らかいので苦労した。

2層目の断熱材(写真では一枚だけ横に渡っている)はおよそ設計通りの幅なので、長手に切って嵌めれば問題なかった。


ただし、建築用角材には25mmのものがない(24mmはある)。

それを知らずに僕は2層分の t25スタイロフォームを買ってしまった。

渡っている骨は下骨が20mmで上骨が30mmである。

ために一層目の断熱材は長手で嵌めることができず(面で5mm も潰すのはかなり手間なので)上骨を組んでから、格子で嵌めることになったし、当然、上骨の下は空洞ができてしまう。

2層断熱なので最終的には問題なかったが、角材の基準は知らないと大変だと思った。


<フローリング材の張り始め>

断熱材のおかげで歩きやすくなり、また暖房なしで(あたたかくはなくとも)寒くは感じなくなる。

ここで襖のレールになっている梁との高さが、場所によって合わないことを知る。

使い慣れないノミで骨を削り、合わせられる部分は合わせるが、ところどころ歪になってしまった。

まぁ、寝室にするから構わないが。


<フローリング張り終わり>

最後の一枚を上手く嵌めるのはかなり苦労したが、板張りの工事は完了。

あとは隅や釘穴をシーリングすればなんとかなるだろう。


初日からほぼ毎日作業して、だいたい2週間強掛かった気がする。

初めてだったので慣れない工具もあったし、2000mmの取手付きメタルスケールを買うまでは、スタイロフォームの切り出し線を引くのも一苦労だった(慌てて翌日に買ったものだ)。


照明器具も蛍光灯からレールライトに変えた。


プロに頼めば、もっと早く、もっと綺麗に仕上がるだろうけれど、一部屋あたり30万円から50万円掛かる。

今回はB級品(アウトレット)のフローリング材を使ったので、材料費は10万円にも満たない。

結果、ひと月働くより高い経済効果を僕にもたらしたことになる。

(今から就職して、30万円〜50万円をいきなり稼げるとは思えない)


それから全身筋肉痛になった。


余談だが、フローリングを半分張ったところで知り合いに頼まれて、居酒屋でバイトをすることになった。

通勤に片道90分掛かる。

苦痛である。


打診の段階でゴネたけれど、困っているという知人を無視するのも忍びない。

複雑な心境のまま、面接初日に「働きたくなので早くバイトを見つけて僕を解放してください」とは告げる。


通勤帰宅に3Hは苦痛である。

// —— >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2021-02-13>
// NOTE:Vtuberとかを見ていて思ったことあれこれのまとめとして。

ちなみに僕は、Vtuberというキャラクタやキャラビジネスには、全く興味がない。

おそらくはビジネス上の制約のために、劣化しただけの、ただのヒトに見えるのだ。

// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
さよならリアル、また明日。
SUBTITLE:

~ Bye bye, real. ~
Written by BlueCat

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// ----- >>* Lead Division *<< //
::装うとは、着る人間の個性に合った物であるべきである、という従来の考えに、私は全く賛成しない。装うとは、着る人間がどのような個性を生きたいかで、決まるものだと私は信じている。だからこそ、素晴らしいのだ。





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// — >>* Body Division *<< //
//[Body]
【不自由と現実】
 自由とはなんだろうか。
 それは人間だけが知る概念ではないだろうか。
 あるいはある程度の知性と社会性を持つ生命体なら持ちうるだろうか。

 自由は対義に不自由がある。
 本来、制約を受けるということは、すなわち集団という利便を享受するための対価だろう。
 あるいは個人的不自由。
 身体(機能/美)的不自由。
 経済的不自由。時間的不自由。etc,etc...
 これらは、個人の資質によって左右される現象だろうけれど、それでも不自由は不自由だ。

 サルは、あるいはイヌ科の動物は、あるいはコロニィを形成する昆虫類は、その集団に暮らす上で ── 本来、利便を共有し合うはずの同胞からの制約により ── ストレスを感じ、それを不自由と感じるのだろうか。
 そして自由について思い巡らせ、その体現について計画を立てたりするのだろうか。

>>>

 動物たちの多くは、ストレスに対してストレートに攻撃/逃避の行動を取る。
 耐え忍ぶケースは極めて希だろう。
 ストレスに対して即座に行動でき、耐える必要のない、あるいは耐えることを知らない場合(これは人間であっても)そこに不快感はあったとしても、不自由はないように思える。
 つまり不自由とは、その不快に ── なすすべもなく、あるいは必要を認めて ── 耐えていることを指すのではないだろうか。

 そう考えると、現象としての自由がまずあり、感覚としての不快があり、時間的蓄積によって不自由が認識され、概念化され、その対極の概念としての自由が発生するように思える。
 だから不自由はたいてい具体的で、自由はだいたい抽象的だ。

>>>

【ヴァーチャルと自由】
 コンピュータテクノロジィの進歩とともに、人間にとってのヴァーチャルはより身近になった。
 もちろんそれ以前から、文字や音楽、フィクションによって人間はヴァーチャルを楽しんできた。
 たとえばタイムマシンは実在しないが、時間の概念を持ち合わせていれば、タイムマシンというヴァーチャルな概念を理解することができる。
 人間の認識する時間は可逆性を持たず、ゆえに不自由だ。

 その不自由に対して、自由とその体現を想像するときに生まれるのが、時間を移動するというヴァーチャル(仮想)だ。

 昨今、ゲーム依存症なる現象が騒がれている。
 ちなみに僕はどちらかというとゲーム依存症体質だと自身を思うのだけれど、最近はゲームに没入すことがむつかしくなってきた。

 ゲーム依存というのは、シンプルにいえばヴァーチャル依存だ。
 個々人の脳内に投影され、認識され、形成されるヴァーチャルな価値に重きを置くあまり、現実世界の価値が軽視され、場合によっては無価値になってしまい、現実世界が個人にとって意味を失ってしまう。
 手軽に少ないリスクで挑戦ができて、十分な快楽や満足が報酬として得られるなら、ヴァーチャルはリアルの価値を超える。
 ゲームとは、その端的なヴァーチャル投影装置だ。
 僕らは手を汚さず、血を流さず、死しても容易に再生し、スリルやワクワクとともに、視覚や聴覚を通してリソースの拡充と消費、自己の拡大を体験する。

 そして、たとえば経済至上主義だって、立派なヴァーチャル依存だ。
 大企業で多額の取引をしていただとか、どんな(金銭的)成績を出したとか、異性にモテるとか、そういう自慢をする人間をこれまでも見てきた(そして僕自身、そういうキャラクタを演じてきた)が、すなわちそれはTVゲームの中で保有しているリソースを自慢することと何の変わりもない。
 たまたまそれが現実という「肉体側」の世界にあるリソースで、他者に対しても明確に確認でき、肉体側の世界に対する影響力があるというだけで、当の本人の脳内で感じている快感は、ヴァーチャル依存の快感と大して変わらないし、他者に影響を与えられる範囲が広い分だけ性質が悪いとも思える(もちろん悪い側面ばかりではないが)。
 そしてその「肉体側」の世界で「自身」が保有しているリソースが「他者に対して明確に確認でき」、「他者に対して影響力を持」ちうる場合、その挑戦と報酬は人間をある種の依存症に向かわせるだろう。

 たとえばこの日本であれば、経済の他、美や健康、不特定多数の人間の人気、場における暗黙の了解 ── コモンセンス ── の誘導や先見も、メディアを通すことで大きな影響力を持つと見なされている。
 これは個々の中に存在している憧れや承認欲求を満たすための挑戦や、その達成による報酬によって、本人の内的世界に快楽や満足をもたらすという点においてなんらの変わりもない。

 グルメブームもファッションブームも、メディアにおけるコンテンツの流行も、SNS流行りも、自警(ナントカ警察)活動ブームも、それらはすべて、Rich&Clean&Famousなる自己を己の中のスクリーンに投影する手段でしかない。

 立ち返って、考えてみるとよく分かる。
 価値なんてものはだいたいヴァーチャルなのだ。
 そして価値なんてものは、他人の認める価値よりも自身の認める価値の方が優先されるべきではないだろか。

 そう考えるとゲーム依存によって仮に栄養失調を起こして死んでしまうことは、その当人にとっては幸せなことではないだろうか。
 仕事が何よりも大事だ(価値がある)という職人気質な人が「仕事中に死ねたら本望だ」と思うのと同じように。
 異性とぱやぱやするのが何より好きだという(ある種の依存症の人が)「腹上死が理想だ」と思うのと同じように。
 
>>>

【ヴァーチャルはオナニーになりがちである】
 会社員をしている頃、ときどき「三度の食事くらいしか楽しいことなんてない」という人がいた。
 僕にとって食事は基本的に一日一度のものだし、同じものを一週間くらい毎日作ったりするので、どうもその感覚が分からなかった。
 しかし自発的に何もすることがないと思うような昨今の中 ── 僕は「今日はこれをしよう」と自分で決めないと、何もすることがないイキモノになってしまったの ── で、ある日「今日は何を食べよう(飲もう)」と思っている自分を発見したことがあり、ひどく驚いたのだ。

 食べることしか楽しみがないなんて、動物と一緒である。少なくとも僕はそう思っている。
 もちろん、動物であること、動物的な欲求や行為を否定する気はない。その楽しみを否定する気もない。
 それらは時に蠱惑的で、心身ともに安心でき、自分がここにいることの幸せを何よりも感じさせてくれるものだ。
 僕は料理も好きだから、自分が食べる量を考えないなら、いくらでも何種類も作っていたい。
 しかし自身のためだけのそれは、ただ空腹を満たすよりは若干文化的(あるいは人間的)ではあっても、格別有意義であったり誰かの役に立つような行為ではないように思える。
 まして僕の場合、思うさま作り続けようものならその大半を廃棄することになるのだ。
 家族や恋人や友人の食事を作るのが楽しい、というのならまだ他者の役にも立っているだろうけれど「食べるのは好き、でも作りたくない」ともなれば、食欲を中心にしたオナニーに等しい。

 いやなに自慰行為が悪いとも思わないが、何か一つの動物的欲求だけが自分を満たすという認識そのものがとても貧しいし(僕はそういうことを言わないキャラかもしれないが)社会的に、より有意義な波及効果があるようにも思えない。
 つまりそれはヴァーチャルの中で自己満足して死ぬのと同じ類いの醜さであり、それを現実世界に投影し続けているという点でさらに醜悪な気がする。

>>>

【ヴァーチャルはニセモノか】
 SNSなどで自撮りのポートレイトなどを加工している人たちもヴァーチャルを現実世界に投影している。
 彼ら彼女たちは「自分の思っている自分」を演じ、また承認してもらうことで欲求を満たしている。
 だから一時、それは「現実世界」寄りの人たちからは敬遠されていたように観察している。
 今だってあるだろう。
 すなわちそれは、美容整形を忌避したり(あるいは賞賛したり)する行為と、根底にあるのは同じことだ。

 本物ではないもの ── それが派生的に想起するニセモノや嘘、虚偽、虚飾といったネガティブなイメージ ── に対する忌避感だ。
 それも分からないではない。
 ヴァーチャルな(あるいは現実を「盛った」)自身に陶酔し、あるいはそれを賞賛する姿は、たとえるならオナニープレイを撮影したアダルトビデオと、それを鑑賞して興奮する人たちのような、倒錯した風景に見えるのかもしれない。

 僕はゲームをするとき、性別を選べる場合は女性キャラを選び、オンラインの場合はプレイヤ自身も女性として演じている。
 べつにオンラインで知り合った男性と親しくなってナニかしよう、という意図があるわけではない。
 その方が僕にとって合理的で、オンラインの場合は場の中での整合性が取りやすいからだ。

 単純に男性キャラより女性キャラを見ている方が楽しいので、キャラクタは女性を選び、ゲームという場において「男性が女性キャラを使って女性を演じている」ことに対する忌避感は理解でき、そしてどうやら僕自身の発言や発想が女性として存在していても違和感がないようなのでそうしているだけである。
 どうせオンラインで知り合って親しくなってナニかしちゃうなら、女性相手の方がいいに決まってはいるが、そもそもゲームはそういう場ではないから毛頭そんなつもりもない。ブログなどのSNSだって同じことだ。

 もちろん多少の演技をすることはあるが、あからさまな女性言葉をあえて使うことはないし、男受けしそうな女性を演じることも、演じている女性というセクシャリティをネタにすることもない。
 それはゲームやWebでもそうだし、現実世界でも同様だ。

 なにより僕はずっと(少なくともブログ上では)猫だと自称している。
 もちろん誰も信じていないかもしれない。(ホントに猫ナンダカンナ、ナメンナヨナ)
 けれども僕の認識世界においては、僕は猫なのだ。
 性的違和を(広く自身の接する環境に)訴える人がいるように ── 僕はそれを少々滑稽だとは思っているが ── 僕は自身の種族的正当性を ── 同じ滑稽さを人々が感じることを織り込み済みで ── 訴えることもある。
 すなわちそれは、どうでもいいことなのだ。

 僕が人間だろうと猫だろうと、AIだろうと天才だろうと愚者だろうと。
 多くの人 ── たとえばあなた ── にとって、インタフェイスに投影された僕が「本来は何」であるかを決めるのは、その人 ── たとえばあなた ── 自身である。
 このブログでは、ひたすらの文字列がならび、ときどき「飼い猫だ」と主張されている猫のポートレイトがあり、「作業着を着た自分だ」と主張されている成人男性とおぼしきヒトのポートレイトが存在している。
 しかしそれらはすべて捏造されたものかもしれないし、そうでないかもしれない。
 いずれだとしても、特に支障はないだろう。

 僕が猫だろうと男だろうと女だろうとAIだろうとショートヘア眼鏡美少女だろうと、僕がそのインタフェイスをして接しているときに始めて、その人がそのインタフェイスを通して僕を勝手に認識すればいい。
 つまりインタフェイスとは、勝手に選んで自身を投影するツールであり、それを観察する方も勝手に認識して解釈するものではないだろうか。

 たまたまそれが、今までは現実世界の、実体を持つそれしかなかった。
 ほんとうは、今までだって世界は豊かにヴァーチャルと共存していたが、個人の中にあり、ために多くの人にとって認識されないそれは黙殺され続けた。
 だからヒトは、現実世界で自身のありようを体現することでしか自身を存在させられなかった。
「僕は猫です」なんて言うヤツは、アタマがオカシイと嗤われていたのだ(もしかしたら今もそうだろうけれど)。

>>>

【浸食するヴァーチャル/欠損したリアル】
 テクノロジィは、個人の中にあるヴァーチャルを、他人のスクリーンに投影することを可能にした。
 現実世界の骨格は修正され、ポートレイトは加工され、動画サイトでは二次元的なキャラクタが立体的に投影され、現実世界のヒトの姿をした誰かがそれを演じる。
 ヒトは己の心に映る己を(たとえそれがエゴに塗られた虚飾のものであったとしても)他人に向けて投射することが可能になった。
 リアルにヒトであろうと、画像限りのヒトであろうと、アニメ化されたキャラであろうと、それは変わらない。
 そこには「ヒト」という概念が演じる、「ヒト」の欲が投影される。

 僕も似たようなことはしている(そもそも僕は、自分のために自分の人格を作っているので、その時点で僕自身がフィクションである)一方、それを薄気味悪いと忌避する感覚も分からないではない。
 ではテクノロジィが発達する以前はどうだったろう。
 結局ヒトは、他者を(あるいは自身を)程度の差こそあれ、誘導するために自身や他人のキャラクタを作ろうとしては来なかっただろうか。
 あるいは社会が個々人に対して形成圧力を掛けることはなかったろうか。
 それは果たしてどのくらい正しくて、あるいはどのくらい間違ったことだろう。
 
 個人が経済のために、あるいは社会的地位のためにそうした詐称をして、それが法に触れれば犯罪にもなった。
 しかし社会は個々人に、より健康で、よりたくましく、あるいは美しく、経済的にも豊かであることを求めた。
 補整下着が精力剤が健康食品が高価で取引され、質のよいブランド物と名ばかりのブランド物とパチモンが肩を並べ、玉石混淆にマーケットに並ぶ。
 社会というものが、ひとりひとりの人間の集積である事実を考えれば、それは個々人が求める欲や望みの投影だ。
 他者にそれを望み、自身にそれを望み、社会がそれをよしとする。

 結局のところ、ヴァーチャルが現実に浸食している現象は、今後も加速するだろう。
 ヒトはより強く、美しくなる「かもしれない」。
 SF世界にあるように、機械と融合した肉体によって、望むカラダを手に入れられる未来もあるかもしれない。

 しかし今より賢く、優しくなれるだろうか。
 
 かつてより容易に自身の望む姿を体現できるとき、その個々人の望むセルフポートレイトは、どのくらい穏やかで、見ず知らずの他人にも微笑みかけるような内的豊かさを持っていられるだろう。

 社会の欲もまた進んでゆく。
 即物的に人間を切り刻むシステムは、いつからか善人の貌をしたケモノのように見えることもある。

 今より社会は賢く、優しくなれるだろうか。

 あるいは人間の欲とヴァーチャルを投影された、人間ではない知性を模倣した機械が、ヒトに賢さと優しさを与えてくれるだろうか。
 そうなるかもしれないと僕は思う。
 あるいは機械的な人間が「人間のような機械」を愛し、機械に「愛されているカタチ」を与えられる社会。
 それはディストピアだろうか。それとも豊かな社会だろうか。

 身体的障害を持つアスリートが身につける義肢のように、それは人間と一体化して、人間をより豊かな存在に変えるのではないだろうか。

 不自由だった現実は、自由で理想的なヴァーチャルをスクリーンにして、自由で豊かな現実を花開かせはしないだろうか。
 自分だけを認めて欲しいという貧しさに満ちた人の心を、仮想の自己実現に満たされたスクリーンによって、他者の多様性を認めることができる複雑で繊細なありように変えはしないだろうか。
 今まで見ていた現実が、単なる制作工程中の、未完成な存在でなかったと、いったい誰にいえるのだろうか。
 
 ヴァーチャルは、今までなかったものではないし、それが現実でなかったわけでもない。
 泥臭い、煩わしい荒れ野の中に、今この瞬間も咲いている、花ではないのだろうか。










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::日本では、勤務時間の終わりと鑑賞時間のはじまりが近寄りすぎていて、家にもどって着替える時間的余裕もないという事情から、暇のある人が観衆の大部分である歌舞伎や帝劇以外は、観賞用の服装は一般的ではなかったようである。それでも、この頃は、装いに身をこらした人を、ずいぶん見かけるようにはなったけれど、それが、高いお金を払って切符を買ったのだから、おしゃれして行きたいという気持ちの結果であってもよい傾向だと私は思う。フラッグやロングドレスで正装している演奏者からすれば、プラテアの前のほうにずらりとジーパン姿が並んでいるのは、あまりに日常の現実と近すぎて、「演ずる」愉しみを十分に発揮する気持ちにもならないではないか。日常とはちがった装いをもって対することは、日常とは違ったものを伝達しようとしているこれら芸術家たちへの礼儀であり、と同時に、受け手である観客自体も、日常の現実からは得られないものを得るには、より妥当な道ではなかろうか。相手に余計な負担を掛けないための心遣いだろうけれど、どうぞ平服で、というやり方に、私は少々飽きがきている。





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[出典]

~ List of Cite ~


 引用は、
「第8章 装うことの素晴らしさ」From「男たちへ」(文頭部 p.71 / 文末部 p.66)
(著作: 塩野 七生 / 発行:文春文庫)
 によりました。





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// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
    ~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
  [Engineer] :BlueCat:

[InterMethod]  

  :Algorithmn:Link:Mechanics:Technology:

[Module]

  :Condencer:Connector:Reactor:

[Object]

  :Camouflage:Human:

// ----- >>* Categorize Division *<< //

  :夢見の猫の額の奥に:






//EOF

 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2021-01-26>
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
それなら復讐を始めましょう。
SUBTITLE:

~ Die or Lie. ~
Written by BlueCat

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// ----- >>* Lead Division *<< //

 

:: ── お願い、皆殺しにさせて。私なんか、死んでもいいから。死んでいいから。

 



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// — >>* Body Division *<< //
//[Body]

 この数ヶ月、僕は僕が自分を殺そうとしている(あるいはしていた)理由について書こうとしている。
 そしてその記録の試みは、いまのところ毎回失敗している。

 

 ちなみにこの文書は、明らかに僕の自分語りに終始するので、何の面白みもないし、得られる教訓もない。僕以外の誰かにとって、なんらの役に立つものではない。

 ただ僕の希死念慮を解剖してゆくものではある。


 僕 ── 正確には「6歳以前」 ── が僕を殺す理由は簡単だ。
 僕が男性に属しているイキモノだから、ために僕を ── つまりは自身を ── 殺そうとしている。
 性自認的に ── 当時の僕が自身を女性だと思っていたから ── というわけではなく、純粋に男性そのもの、あるいは歪んだ男権主義によってもたらされる暴力や不幸に対する激しい憎しみの直情的かつ潔癖なる完全主義者の発想の帰結として「オトコ、(リアルに、かつ物理で)死すべし」と思っているのである。
 そしてヒヨコの雌雄判定のごとく「アヲネコくんは、こっちのグループだよ」とオスに仕分けられたその日から、当の僕自身さえも「死すべき対象」としてマークされ、リストされ、いつの日か実行力を手に入れたときに粛正されるべき対象として記憶されたのである。

 ために「6歳以前」が僕の中で人格としての熱を持ち、価値観が脈動し、今現在の「オトコとして順応した僕」とリンクしてからずっと発している疑念が「なんでまだ生きているの?」なのである。

>>>

 しかしこんな感情をずっと抱えていると、生存行動そのものに自己矛盾を起こす ── ために睡眠や摂食が安定しなかった ── し、理由のない自己嫌悪(オトコだから、という理由はあるが、その価値観を受容するわけにもいかない)や無力感(僕は、僕を含めて一切の男性に「男性だから」という理由によって危害を加えたり粛正したりしていない)に襲われる。
 たぶん正しいはずなのだ。
 男性だという理由で嫌悪し、憎悪し、あげくにその生命を奪おうなんて考えたりしないことは。
 では(後付けで作られた今の僕ではなく、本来このカラダに存在していた人格である)「6歳以前」の抱えた悲しみは、憎悪は、正義は、間違っていたのだろうか。
 ここでも僕は矛盾を抱えることになる。
 間違っていないと断言して受け入れたい感情と、分からないと判断する理性とで。

>>>

 露悪趣味があるわけでもないし、僕の過去のことをあれこれ書いて自己分析する過程を開示する趣味があるわけでもない。
 まして僕と誰かの関係をあれこれ書いて人に見せたいわけでもない。
 いずれも、むしろ嫌いなことだ ── 文章を書くということが、取りも直さず自身を削って貼り付けることに等しいとしても。
 それに、誰の何の役に立つわけでもない文書を誰もがアクセスできる環境に置くこと自体も僕の中では矛盾した感情を起こす。
 そうした矛盾や絡まった価値観の中で、どうにか文章を書き続けようとしているのだけれど、まともなものにならない。

 現在の僕は、今のところまだ簡単に自死させられる準備が整っていないため、最低でもあと2年、可能なら5年、欲を言えば妹がだいたい死ぬか認知能力を失うくらいまでは生きていた方が良さそうだと判断している。予定としてそれは残り19年である。
 しかしそんなオトナの事情は「6歳以前」の価値観の知るところではない。

 ために「6歳以前」の価値観を再び切り離して眠らせる方法も検討され、(猫会議により)可決された。
 にもかかわらず、一部の仮想人格から「それはしない方がいい」という倫理観の提示があり、結局「6歳以前」と現在の僕の矛盾した価値観は共存を続けている。

 おそらくそんなことはないと思うのだけれど、もし万が一、何の文書も残さず僕が衝動的に自死 ── 僕の中の異なる価値観によって殺されるわけだから正確な意味での自殺になるだろう ── をしてしまった(あるいはそれよりひどいことをするかもしれない)場合、周囲の人はかなり混乱すると思うのである。
 ニュースになったとして、おそらく「孤独に耐えかねて」といった解釈が一般的だろうとは思う。
 実際に僕はかなり孤独寄りの人間であり、接点を持つ人は少ない(努めて少なくしている)のだから。

 ために男性という男性を殺さないために、あるいは男性という男性を殺すために自殺をしたとして、そんな観念は理解されないだろうと思うし、理解されない方がマトモで平和だろうとは思う。


 僕が孤独を好むことは、僕を知る人のほとんども知っていて、そのうえ労働せずして暮らせるようなストレスフリーの生活環境を作った挙げ句に自殺というのも考えにくいと思われてしまうかもしれない。
 ありもしない容疑を掛けられる法定相続人にも申し訳ないし、そんなことで社会のリソースが消費されることは僕の本意ではない。
 なので、起こらないであろう自殺に備えて、僕は僕が自分自身を殺したがっているということを明文化して公開しておく必要があるとは思っている。
 まして自殺した人と関わりのあった人の多くは、自身の言動を振り返って責任を感じ、自分を責めがちだと言われている。
 僕のように無責任に生きている人間が、他人に責任を押しつけるのもまた不本意であるし、僕は他人を責めたいわけでもない。

 あるいは僕に何らかの責任を押しつけた事実をして、本来ならば責任を感じるべき人間は確かにいる。
 ただその多くは既に死んでしまっていて、あるいはわずかに生きている人間でも、責任を押しつけた後は我関せずのふうで生きており、特にこちらとしても関わりたくはない。

 そうした自死の責任の所在と原因を(まずないとは思うが)書いておこうと思ったのである。

 

 僕が遺言公正証書を未だ作っておらず(あるいは作ることができず)、相続人をきちんと用意していない(あるいはできない)ことは、僕自身(あるいは「6歳以前」が僕を殺すこと)への足枷として作用するため、当面は「6歳以前」の衝動を先延ばしにできると考えている。
 当時の彼が知らなかったことは、自身の性別だけではない。
 他者との関わりという領域を考えた場合、自身を生かしておいた方がよい ── 生かしておかざるを得ない ── 状況が存在するということを、未熟であるが故に認識することさえできなかったのだ。

 もちろんそれとて「6歳以前」を責める理由にはならない。
「6歳以前」の怒りや悲しみや苦しみは、当然そう感じて然るべきなのではないかと思う。
 僕は彼に味方する。誰が反対しても、僕は彼に味方する。彼はずっと(僕自身からも切り離されて)孤独に怒り悲しんでいたのだから。
 だからといって「いま死ね」と言われてもまだ困るのだ。まだすぐこのカラダを死なせるわけにはいかないのだ。このワタクシというイキモノ(あるいは価値観)が本来は彼を起源として発生しているとしても。

 アタマオカシイ文脈であることは承知しているが、僕は基本的にマトモなフリが多少は上手いほうのアタマオカシイ感じのイキモノであるからご容赦いただきたい。

>>>

 ちなみに「6歳以前」を眠らせることに反対したのは仮想人格の「α/β」である。

  ── 僕はいくつかの記憶を失った埋め合わせとして、実体験として持っていない(つまりはありもしない)記憶や感情を保管するための価値観群を(実人格の記憶や価値観と直接混同することは社会適合の上で不都合なので)作り、それを実世界と関わり合わせるために仮想人格として機能させる方法を取るようにした。そのうち「17歳以前」と「6歳以前」に近い(穴埋めしている)ものが「α/β」である。

 

 とりあえず「β」がごねて、「α」があっさり結論した。
「現実(とそこに属する肉体)を存続させるために『6歳以前』を『なかったことにする』ことは、潔癖なる理想を実現しつつ被害を最小限にするために『現在』を殺すことと何も変わらない(オマエはバカか)」と。

 マタ殺スノ?
 何度、我々は自身を生かすために自身を殺すのか。
 救いの手なんて差し伸べられることはない。
 救済の日が来ることもない。
 肉を削いでも、血を流しても、骨を折っても、それでも我々は自らを損なうことがない。
 他者を屠り、血肉を糧にしても、我々が満たされる日は来ない。
 繰り返される痛みなら、続く殺しと搾取なら、それを自ら断ち切る手段を、そろそろ我々は作り出してもいいのではないか、と。

 我々の世界を変えることができるのは、我々の行動だけだ。
 現実を変える行動の、そのきっかけは、我々の認識そのものではなかったか、と。

 このカラダが実行力を持つことを待っていたのは「6歳以前」がそうであったように、僕たち自身もそうであったのだ。
 その発想は「放っておけばいずれ朽ちるのだから、それまで放置してしまおう」なんて、ものぐさな考えをしている僕とは対照的で驚いたものである。





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// ----- >>* Escort Division *<< //

 

::いい匂いだ ── 君の魂の匂いだ。俺が信じるべきものはこれだという確信をくれる。俺に君を信じさせてほしい。シェルもボイルドも何も信じられず【鏡の向こう側】にいる。クリーンウィルがいたように。そこでは何の迷いも悩みもないかもしれないが、何の希望もない場所だ。俺はそこには行きたくない。





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// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「第4章 導き 〜 Navigation 〜」

From

「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 3rd Exaust ── 排気」(p.235-236)
(著作:冲方 丁 / 発行:早川書房)
 によりました。

 なお、引用文中の傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。





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// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

    ~ Junction Box ~

[ Cross Link ]
[ Parallel Line ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
  [Engineer]

   :BlueCat:

  [InterMethod]

   :Blood:Chaos:Color:Convergence:Darkness:Derailleur:Interface:Life:Link:

   :Maintenance:Recollect:Stand_Alone:

  [Module]

   :Condencer:Generator:Reactor:Resistor:

  [Object]

   :Memory:Poison:Tool:

 

// ----- >>* Categorize Division *<< //
  [Cat-Ego-Lies]

 :暗闇エトランジェ:






// EOF
 

* // ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2020-12-08>
// NOTE:集団の指向性とそのメカニズム。食洗機が稼働する。あと死について少々。
* // ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
201208 獣を囲んで満足なの?
SUBTITLE:

~ The beast in the cage. ~

Written by BlueCat

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* // ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
* [プロローグ]
 ルータの暫定的な設定が終わり、精も根も尽きた。
 それで2日ほどゲームをして過ごしていた。
 お風呂にも入らなかった。
 目が覚めて、猫たちの世話をして、ゲームをして、昼寝をして、ゲームをして。そんな自堕落な連休。
(連休だけでしょ、と妹たち ── 妹と彼女の娘 ── に笑われるが)

* [自堕落の日の自覚]
 最近、ようやくそういう時間を自覚できるようになった。
 介護が始まる前(かつ恋人と同棲する前)までは、毎週土曜日の午前中に掃除をして、あとは自由時間だったから、最大で36時間、ゲームをし続けることもできた(したことはなかったようにも思うが、ヴァーチャルの世界に暮らしていると、実時間が曖昧になるのでなんともいえない)。
 週1回の掃除は、自分を現実世界に正しくアンカ(anchor)するもので、混乱した精神状態も、乱れた生活リズムも、すさんだ気持ちも、そこで一度リセットすることができた。
 それに恋人がわざわざ僕の家にやってきて、僕のすさんだ気持ちと逆立った背中の毛並みを撫でようにも、部屋が物置みたいになっていてはよろしくないではないか(もちろん、ときどきゴミ箱をひっくり返したような部屋に訪ねてくることもあったが、どうせならもっと荒廃して、廃墟のような状況下で恋人にくっつきたいではないか)。

 介護が始まる前から、僕の生活リズムは狂った。
 会社員ではなくなった時期が最初で、介護が始まってからは会社員であっても休みなどなかった。
 一年ほど前からは自堕落に何もしない一日を過ごしたりもしたけれど、それは始まりも終わりもない、ペースもリズムも失った、無目的な自堕落だった。非生産的と言ってもいい。リセットしようにも、どこからスタートしたのか、プリセットがどこにあるのか、僕は思い出せずにいた。

** [他人との生活は調子が狂う?]
 恋人と同棲したことが一度だけあるが、今思うと、どうも調子が狂う。
(同棲している当時の段階で、そんなことを言ったら大変なことになるし、自覚したらそれはそれでコミュニケーションに反映されてしまうから、僕はその感覚にフタをしていた)

**** [集団とそれを作る意味]
 ウェイタの仕事をしていたときに上司と話していたのだけれど、仕事(バイトに多い)などでも、2人で雑談しているとき、話に夢中になって自堕落になってしまうコンビと、話しながらでもきちんとお互いの背中に目を配れるコンビがいる。
 接客業だからホールで話をしていても ── そしてそれが業務に必要な内容であっても ── お客様の様子を把握し、リクエストに即応するのが最優先である。
 面と向かっていても、まるで背中合わせのように相手の背後をお互いがきちんとカバーしていれば、死角がない。
 何せそこは戦場なのだから。

 人間が集団になる意味というのは、輪の中にいるものを注視して囲い込むためではなく、それぞれの背後の死角を埋めて隙をなくすためにあるのだろう。つまり内向きか外向きか、ということ。

 日本人の国民性なのかは分からないけれど、集団がその「輪の中」に縛られる傾向が強いと僕は感じている。
 輪の中だけ見ていれば、それでなんとかなってしまう。そういう歴史と文化だったのかもしれない。
 もちろん輪の中をまったく見ない(確認しない)わけにはいかないだろう。
 しかしそれは機械設備でいうところの管理、つまりはメインテナンスのことだ。

**** [内向きの指向性をもたらすメカニズム]
 自動車で考えれば、メインテナンスだけしていても、走らなければ(走らせなければ)意味がない。
 といっても、メインテナンスだけしていればそれで満足だという人もいる。
 マニアックだけれど、機械が好きな人の中には「使うこと」よりも「整備していること」のほうが楽しい、という方向性が確かに存在する。
 「メインテナンスフリー、ブラックボックス化くそくらえ(失礼)」というエンジニアならではの探究心が、そのまま「モノを理解する」という行為につながり、理解する対象に必然的に愛情を持ってしまう。

 自作したモノの多くについて、既製品より十全に優れている、ということは少ないだろう。
 それでも愛着が沸くのは、自分がデザイン(設計)して、それをカタチにして ── そこで時に失敗し、挫折し、諦め、それでも思い直して向き合って ── 来たからだろう。すなわちそれは、モノへの愛情であると同時に、自分自身への正しい愛情の発露ではないだろうか。

**** [内向きの指向性がもたらすメカニズム]
 しかし機械がそうであるように、管理/メインテナンスは機能を持つモノにとって必要不可欠であるものの、本来の目的が「メインテナンスすること」であることはまずない。
 つまりメカニズムのあるところ、必ず目指す機能や目的があって、それを遂行するためにメインテナンスが必要になるというのが本来の姿のはずだ。
 内向きの指向性が管理/メインテナンスに向かうのは必然として、それが愛情からスタートするものだと仮定しても、それでもずっとそこをループして外側に向かわなかったら、あるいは愛情が変質し劣化し、自己愛が── 人はときおりなぜか、自己愛を忌避し、他者への愛こそが崇高だと勘違いし、そのために ── 自己愛を隠蔽し、メインテナンスが本来の役割から逸脱したら。
 すると必然に、本来のメインテナンスが果たされず、目的とされるはずの機能も適切には発揮されないことになる。

「組織への愛/忠誠」に見せかけた自己顕示。
「組織の健全性の確保/優先」を笠に着た個人的エゴの発露。

 あーあ。
「組織」「ソシキ」とか言っちゃって「正しさ」「タダシサ」とか言っちゃって。
 そこに実際に発現するのは、そのひと個人の心の貧しさではないのか。
 
**** [外向きの指向へ]
 人見知りで引きこもり ── たびたび言うが、僕は「本当に」社会から隔絶された引きこもりである ── の僕が「外向き指向」を語るなんて、ちゃんちゃら可笑しいことではあるのだけれど、自己愛だって内側にだけ向かっていれば、適切なサイクルや正常な視座を見失って「自分が一番エラいんやんか〜」とか「自分こそが正しいんだカンナ!」となってしまう。

 じゃ、自己愛は外に向かうべきかというと、それはそうでもない。
 自己愛って、対人インタフェイスを考えた場合にはあくまで裏方のモノであって、「自分大好きなんだよ〜、キミも僕の素晴らしさを刮目して開眼して褒めちぎっちゃうがいいYO!」というのがメインコンテンツとしてメッセージになってしまえば、自己愛はなはだしく自己顕示欲が鼻につく。

 自己愛は、自分を支える基礎ではあるかもしれないけれど、だからといって他人に見せびらかすモノではない。
 人間だって、骨がなければくにゃくにゃしてしまうけれど「ほら、僕の大腿骨、立派だろう(ざくッ!!)(ナイフで切り裂く)」とか、しないでしょう?

 いつも書いているけれど、たとえば肌がきれいだとか、プロポーションが美しいとか、筋肉が発達しているとか、アタマがいいとか、それはそれで(綺麗でないことよりも)結構だけれど、わざわざそれを(見せびらかすために)露出するのは(そういう商売をしているのでもないかぎり)恥ずかしいことだと僕は思うのね(口調が変)。
 仮に商売だとしても、そこは綺麗だからこそ隠したほうが絶対に格好いいと思う。
 だって、外からみればわかるでしょう。ダイレクトには見えなくても。
 たとえば筋骨隆々の男性でも、肌を無駄に露出するより、スーツを「ぴっ」と着ている方が(僕の目には)かっこいいのだ。
 しかも「いかにも」な小洒落たメーカのものではなくて、(布地や仕立てはともかく)オーソドックスなデザインで、しかし布地が良質のものであればなおのこと。
 
>>>

 外に向かうとき、どんな機能を果たすのか。
 それはその「モノ」に持たされた定めである。
 だからモノを作ったり、設計するというのは、そのモノの運命を決める作業でもある。
 作ったモノすべてを愛せるかと問われると、少なくとも僕にとってはそうでもない。
 作ったことすら忘れているもののほうが多いかもしれないし、その方がいいとも思う。

 それでも自分の役に立つようにと考え、そうして作ったモノが自分だけでなく他の誰かの役に立つなら素敵だし、やがて誰かの役に立つモノを作ることが純粋に嬉しいと思えるならば ── 次に作るモノもそうであれかしと望めるものならば ── それこそ(モノであれ組織であれ、ありとあらゆる存在が)そこに与えられた意味 ── すなわち機能 ── をモノが体現していることになるだろう。

 作ったモノ、メインテナンスするモノが自分の手を離れ、他人のモノに、あるいは人々の関係の中に生きるモノへと変わってゆける。
 それは少し寂しいことかもしれないけれど、内側だけを向いて、我利我利に痩せ細った凶獣を囲うだけの錆び付くだけの檻であるよりは素敵なことではないだろうか。

** [他人だから調子が狂うのか]

 自堕落な僕が自分なりのペースで外界とのインタフェイスを構築し、そのリズムを整えていた環境において、多分その人とは相性が悪かった。おそらく相手も相当にストレスだったことだろう。
 僕は様々なことを自分でなんとかしてしまえる能力は持っているけれど、基本的に ── 世間的に見ればおそらく ── 幼稚なのである。
 その人はその人で、その人なりに自堕落でそれなりに幼稚だったから、僕たちはおかしなことで衝突することになり、しまいに僕は帰宅拒否症にもなったし、結局その人の価値観や感性パターンはほとんど記憶に残っていない。
 興味深かったはずなのだ。
 それは覚えているのだけれど、なにひとつ残す要素がなかったのだろうから、相手にとっても同様だったろうと推測する。

 彼女との「集団生活」は、結局、外側に向いていなかった。
 内側に向いていて、内側に僕を置きたがった。
 管理やメインテナンスの仕方も、その能力も違っていたから余計かもしれない。
 たとえば ── たびたび書いているが ── 僕はライフラインのインフラが料金未払いで止まったりすることをどうも思わないイキモノだけれど、彼女は ── 不便であるとか以前に、体面上のこととして ── 許せないタイプだったのだろう(一緒にそんな体験はしなかったが)。

 破綻している部分のある人だったけれど、その不整合性が僕に見たこともないギャップを投影していて、だから僕は興味を持ったのだろうとは思う。
 僕はそこからもいくつかのことを学んだ。

 すべての人と一緒にいて調子が狂うかといえば、そんなことはない。
 僕は姉の家に泊まりに行くと ── 姉の家がひどく狭いせいもあり ── ずっとベッドで横になっている。
 姉は食事を作ってくれたりお酒を用意してくれたりして、あとはだいたい僕に何か話している。
(指定難病の他、後天的な身体の障害もあり、双極性障害もあるので、話が熱を持つと止まらなくなるようだ)
 僕は姉という他人の前では、1人でいるのと同じかそれ以上に自堕落でいられる。

 妹が家に来るときは少々、自堕落さをセーブする。
 家が散らかっていたら掃除をするし、パジャマ姿では会わないようにしている ── 僕の精神状態が荒む兆候をそういう部分から見事に察知するから。
 あるいは男性(同性は恋人にしない)と一緒に暮らしていた時期もあるが、なにも問題なかったし、血縁関係にない女性(恋人に多い)が1週間程度滞在していても、お互い苦にならない人は苦にならない。当たり前だけれどそういうものだ。

 ただ2人以上になった集団が内側にしか向いていなくて、それだけならまだしも、内側に向くように向くように強要する仕組みや風潮は、それが会社という営利組織であれ、家族や恋人という関係性にあっても、僕の理には合わない。それだけのことだろう。
 実際に、そういう組織を僕は次々と見限ってきた。
 僕は自分が内向的だからこそ、下手な他人の思い描いている内向のオナニープレイを押しつけられるのはちょっと耐えられない。
 僕だって、相手を自分のオナニーを押しつける道具とは思っていない。そういうのはひとりでするものだろう。

 ビジネスに自慰行為がないとは思えない ── 書類を自分の基準で綺麗に作成して自己満足するようなことは僕もあった ── し、それが悪いとも思わないが、それが自慰であることを見失って他者に強要するのは(仮にまだ名称の与えられていない領域のものであっても)ハラスメント行為である。
 たとえば書類を綺麗に作成し分類することだって、他者への強制の度が過ぎれば迷惑だ。そんなものはビジネスの本質ではない。

* [食洗機が復活する]
 足利で暮らしていた頃、ネットオークションで格安で食洗機を買った。
 僕にとって初めての食洗機であり、比較的少人数向けに設計されたそれは、洗剤ではなく塩を使って ── おそらく塩水を電気分解して生成されるアルカリ性の溶液で ── 洗うこともできる。
 当時のアパートのシンクはさほど広くなかったので、僕はわざわざ食洗機を置くために(複雑怪奇な形状の)棚を作った。

 叔母夫婦が存命のとき(介護が始まったとき)に、この家で暮らした方がよいという(提案を受けた)ことで、一部の家財をこの家に運んだことがある。

 師匠にもらってからずっと、一緒に暮らしていたポインセチアの鉢植え。
 ひとり暮らしを始める前から使っていた、天井まで伸縮する書架。
 そしてこの食洗機。

 叔母の家で暮らして半年ほどもしないうちに(しかし職場を太田市近郊に移したあとで)煙草を吸ったカドによって僕は追い出され、前橋からはるばるこちらの方(正確には太田市を越えたその先の町)に、不慣れな運送業をするため通い、結果、身体を壊して辞職した。

 ポインセチアは水を与えられず枯れ、書架は(使わない部屋の片隅に置いておいたものをわざわざ)家の外に放り出され、いずれも機能を失った。嗚呼。ポインセチアに至ってはイキモノなのに。
 しかし食洗機だけは台所の片隅で埃をかぶって今日まで鎮座していた。

 何を大事に思うかなんて人それぞれだから、僕は僕の大切だと思う気持ちを叔母に強要しなかった。
 あるいは他の誰であれ強要するつもりはない。今でもそうだから、ポインセチアはきっと何度でも枯れてしまうのだろう。
 ただ僕が叔母から不快な ── 不当かどうかは僕には判断できない ── 扱いを受けたことは(もはやどうでもよいと思っているのでそのうち忘れてしまうが、今は)覚えているし、ことさら妹にも迷惑のかかる形で当初の僕との約束を反故にした事実をして、死してなお(死しているからこそ)彼女のことを僕は呪っている。
 死すときにそういう禍根を残すのは、決して褒められるものではない。
(だから少なくとも、叔母と僕は相性が悪かったのだ。じつにかつての同棲相手のように)

 だから僕は、生きることには飽きているのに未だに死ねない。死ぬための準備が整うまで自死はできない。
 そんな準備はどこまでも整わないかもしれない。
 けれどもだからといって何もしないよりは、少しずつ積み重ねてゆくことで実世界の物事も、他者の意識ですらも変わってゆく。

* [エピローグ]

 混合栓に分岐栓をかませて(敷地内の止水弁が長らく見つからなかったことよ)、食洗機をセットする。
 かぶった埃は、叔母だけが悪いのではなく、僕がメインテナンスを怠ったことも示している。

 はっきりとその姿によって。
 だからぴかぴかに磨き上げてコンセントをセットし、ふたたび稼働したとき、涙がにじむほど嬉しくなった。

 6年以上会っていなかった恋人に再会したら、こんな気持ちだろうか。
 新しい食洗機をセットして稼働したとしても、ここまで嬉しい気持ちにはならないだろう。
 それは10年ほども僕と一緒に暮らして、それを使うために僕自身もさまざまに創意工夫を凝らして、食器を手で洗う苦痛の半分以上を解消してくれた、大事な道具だ。

 窓辺にいたポインセチアはもういない。
 書架は錆び付いてもう使えない。
 でも食洗機は、息を吹き返した。まるであの頃のように、僕のために静かに(そうでもないか)仕事をしてくれている。

 愛しい道具たち。

 MacProは、もう、息を引き取ろうとしているけれど。
 家電品であろうと服であろうと、僕は僕の好きなモノに囲まれる幸せを知っている。
 それはたとえば、自分の好きな人に囲まれる幸せと同じかもしれない。

 ただ僕にとって人間というのは基本的に、猫と同じように「僕が何かを提供しなくてはならない」相手である。
 電源やサプライさえあれば文句も言わず疑うことなく働いて、僕に何かを提供してくれる道具を、いったいどうしてないがしろにすることができるだろうか(埃を積もらせて本当にすみません)。

 そのようなわけで、食洗機の駆動音を聴きながら、うっとりとする。
 まるで恋人の鼻歌のように、それを聴いている僕はいつかの、穏やかな風景を思い出す。

 ああ。
 のんびりしていていいんだ。

 もう、のんびりしてもいいんだ。
 だって今日と明日はオフだもの。

 そんな気持ちを思い出す。
 もちろん、今日は2連休明けだから。
 さて、明日は何をしよう。

 モルタル塗りに、実は少々飽きているから、いよいよ床の断熱材と床板を敷設しようか。
 それとも自堕落に、明日も眠って過ごそうか。

 いやまずお風呂に入ろう。
 今日は素敵な日だから。
 きっと明日も素敵な日にできる。

 いつかある素敵な死を迎えるために。
 明日は素敵な生を生きよう。
 雨だろうと、飢えていようと、電気が止まっていようと、花が枯れようと。
 笑い、怒り、憎しみ、そして許そう。そのすべてを楽しもう。痛みも悲しみも。それは生きている証拠だよ。

 だって僕だって、誰かに対して失敗をするし、そしたらいつかは許してほしいから。
 痛みも悲しみも。僕がいなくなった世界でなお、それが誰かの糧になる仕組みがほしいから。
 豊かじゃないことを悪いことだと思うことが、豊かではない気持ち、貧しい気持ちなのだ。


ハミ出とるやーん。

 







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* // ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

* // ----- >>* Tag Division *<< //

[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Interface-Life-Link-Love-Maintenance-Mechanics-Memory-Style-

[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-

[Object]
  -Human-Memory-Tool-

* // ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-夢見の猫の額の奥に-






//EOF
 

* // ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2020-12-06>
// NOTE:ネットワーク設定が終わる。家がとても寒い。
* // ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
201206 ルータが届いて困る。

Written by 工場長

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* // ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
* [家が寒い]
 薄々感づいてはいたが、この家は断熱材が一切設定されていない。
 屋根裏にグラスウールさえ敷いていない様子だから、必然といえば必然である。
 しかもその上(家人か大工の趣味かは知らないが)やたらと窓が多く、そのほとんどが、床から天井まである大きなものである。
 ガラスを割った場合の修繕費を考えると恐ろしい。
 それより何より、シングルガラスのアルミサッシなので断熱性能はほぼ皆無だし、昼は眩しく、夜はセキュリティレベルが低い。

 一面が完全な壁になっている部屋がない。
 誰の趣味かは知らないが、必ず、戸か窓か収納がある。

 縁側にある廊下など始点から終端までサッシである。そこは半分以上、壁にしておけよ。
 おかげさまで、床板は熱と紫外線で表面が朽ち始めている。
 レースのカーテンしか設定していないことなど、僕からすれば狂気を感じさせるが、このあたりの改善は後手に回している。所詮廊下だし。

* [ルータが届く]
 メールチェックしていたらルータが「配達済み」と届いていた。
 慌てて調べると、たしかに納屋の外のテーブルに置き配されていた。
「不在時は倉庫の作業台に置き配可」と住所欄に書いているのは確かだが、呼び鈴を鳴らされた覚えはまったくない。
 以前勤めていた運送会社なら間違いなくクレーム案件であるが、まぁ荷物は届いたしメールでチェックできたので問題ない。
 郵便受けを確認したところ、不在通知も入っていない。配達票からしてもヤマトではなさそうだ。

 ルータの設定にずいぶん苦労した。
 僕は(携帯端末のメールドメインを Vodafone から変えたくないというだけの理由で)Softbank ユーザなのだけれど、純正ルータでないとIPv6 を利用できない。
 そもそも僕は今日までインタネットプロトコルなんてろくに知らなかった人間である。
 そこに加えて Wi-Fi 環境の専門用語まで飛び出す始末。しかもルータに付属しているのはぺらぺらの「続きはWebで」という説明書。
 Webに繋ぎたくてルータを買った人なら、自殺しかねない展開である。

* [どうすればいいのか]
○[光回線ユニット]ー[Softbank光専用ルータ(Wi-Fi 機能停止)]ー[市販ルータ(Wi-Fi 機能あり)]と接続する。
○「SB専用ルータ」側でDMZ転送IPアドレスを設定し、そのアドレスポートを市販ルータ側の(手動)接続IPアドレスに設定、ゲートウェイには「SB専用ルータ」のアドレスを指定する。
○「市販ルータ」側の IPv6 設定は「自動」で「デフォルトゲートウェイに設定」する。
 市販ルータだけで接続すると、プロバイダ(Softbank)と専用ルータに阻まれて、IPv6 接続は実現しない。
( 実測で ── IPv6 に対して IPv4 のみになって ── 回線速度は半分以下になった。

 自分で書いていても、昨日の自分に理解できる気がしない。
「IPv4」は、現在主流の帯域の狭い通路で、「IPv6」は帯域の広い新しい通路だと思えばいいかもしれない。
 ところがプロバイダ側で「専用ルータ(レンタル代は月500円ほど)を使っていないとIPv6 への通路を確立させないよ」となっているため、市販ルータだけではどうやっても IPv6 を通れない、というわけ。
 しかし僕は、市販ルータを介して、Wi-Fi で各デバイスが自由にアクセスできるストレージを使いたいし、Wi-Fi 通信速度が上がるなら、それも実現したい(そのためにルータを買ったのだ)。

 分からないまま、Web上でそんなこんなの情報を集め、分からない用語満載のマニュアルを読みながら(半日以上進捗せず、ふて寝したりしつつ)完了させた。

* [どうなったのか]
 ネット上の接続速度テストは、サイトごとにかなりばらつきがあり、当然ながら測定のタイミングでも計測結果にばらつきがあるため、一概にはいえないが、だいたいこんな結果になった。(いずれも Wi-Fi であり、有線LANは試していない)

○ IPv4 DL:100Mb/s UL:100Mb/s
○ IPv6
 SBルータ DL:250〜400Mb/s UL:200〜250Mb/s
 市販ルータ DL:300〜500Mb/s UL:200〜300Mb/s

 数値が高い方がすごいらしいが、どうすごいのかは分からない。
 500Mb/s という測定値(正確には499)については(1/5くらいの頻度で見たけれど)、たぶん何かの間違いだろう。
 市販ルータをターミナルにして、速度が上がる理由は、なんとなく理解しているけれど、そんな説明は誰も求めていないだろうからしません。

* [このルータの使用感はどうなのか]
 今回購入したのは、Synology社 の「MR2200ac」というモデル。
 僕は以前のプロバイダの時から純正ルータ以外のものを使ったことはないし、ハイエンドな市販品の価格を見て驚いているくらいLAN環境については疎いから、初めて買うにはちょっと冒険だったような気もする。

 有線LANポートはWAN(入力というべき?)用が一つ、LAN用がひとつ。計2つだけ。
 ただし Wi-Fi 機能は強力なようで、5G+5G+2G帯域、3チャンネルあるらしい。目に見えないから分からないけれど。

 ルータの設定(特に今回のようなケース)は、かなり上級者向けのように感じた。
(僕があまりに初心者なので、そう感じるだけかもしれない)
 なにせSB専用ルータは、ケーブルを刺すだけでIDなどの入力すら省略できる。
 にもかかわらず両方のルータを使用しなくてはならず、それぞれのルータで専門用語やその概念系にぶつかる。
 僕のような門外漢にとっては、けっこうハードだった。

 しかし少しでも分かる人、あるいはこれからきちんと身につけたい人には、とてもよいルータだと思う。
 価格は15k円ほどで決して安くはないし、有線LANポート1つというのは少ないと(僕は)思う。
 けれども Wi-Fi が主流になっている現在のコンピュータ環境において(僕のMacBookには有線LANポートがない)トライバンドであることはハード上の大きな魅力であろうし ── 、ソフトバンク専用ルータの末端に接続しても、Wi-Fi の速度が上がる(Wi-Fi の性能が純正ルータは比較すると低いということ)事実を考えると、そうした(ソフトバンク光特有の)制約を受けたネットワーク環境であっても導入する価値があるということだろう。

 さらに設定画面は(当然ブラウザからアクセスするのだが)GUIベースのよくあるOSのようなインタフェイスで、ルータ内部にさまざまなアプリケーションが存在し、メーカが提供しているアプリケーションをダウンロードして機能を追加することも可能である。
 不正なアクセスなどを監視するためのログやブロックリスト機能もあり、内部にヘルプが存在していたり、各種アップデートやリブートスケジュールも任意にできる。
 ペアレンタルコントロール機能もあれば、擬似的NAS機能(USB3.0 なので、LANほど速くはない)もある。
 むしろ「何がないのか」といって、有線LANポートくらいしか僕には思い当たらない。まぁ、何も知らないわけだけれど。

 非常に多機能で、サポートもしっかりしていて(更新は、数ヶ月に一度はあるようで、更新がある場合ルータからメールを自分宛に発信することもできる ── メーカから宣伝じみたメールは望まない限り来ないということ)、セキュリティも含めた管理におけるユーザ体験は非常に透明感があって気持ちがいい。
 Softbank光のように、ブラックボックス化した純正ルータをユーザ体験の前提にするのは、たしかに知識のない人でも簡単に使える点では親切だろうとは思う。優しいとも思う。
 ただし不透明なことによる不快感は ── 僕のような奇人にとっては ── 拭えないものでもある。

 とにかく24時間以上かかってようやく設定が終わった。
(実のところ、最終的にはソフトバンクルータも Wi-Fi を有効にして使っている。)
 あとは、外付けHDDドライブの設定をするだけである。
  ── ただ、少し疲れたのでしばらく休みたいというのが本音でもある。

* [エピローグ]
 夕刻からワークアウト。
 この1週間以上、ずっと鍋をしている。
 湯豆腐のつもりが、徐々に具材が増えてしまい、鍋のようになってしまった。
 僕にとっては「具が増えた湯豆腐」なのであるが、そんなものは邪道でもある。よってこれは「鍋」であると考えることにした。

 冷凍の、いい感じの牡蛎をまとめて買ったので、5個くらいずつ使っている。
 牡蛎が好きなので、最初8個くらい入れたら、鍋の中が濁った上に、途中で食べ飽きてしまった。
 ものごとは少し足りなくて、もうちょっと欲しいくらいでやめるのがいいのである。

 牡蛎に飽きると、手羽元(これはまとめ買いしたものを自分で小分けに冷凍してある)を入れる。
 僕はスーパーで大きなパックに入っている肉を買って、自宅で小分けに冷凍することが多い。
 キノコも安いときにまとめて買って、下処理したものを冷凍保存する。

 豚小間は以前からビニル袋で野菜炒め1回分か、豚汁1回分程度の量で分けていたのだけれど、今回「インスタントうどん1回分」をラップで小分けして冷凍し、保存袋でまとめて保管するということを始めた。
 最近、食肉の量が減っているので、この「かなり小さい分割」は、手間が少々かかるが、とても便利である。

 

 


今日も猫の写真を見たいだけなんだろう?








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* // ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

 

~ Junction Box ~

* // ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-

[InterMethod]
  -Diary-Technology-

[Module]
  -Generator-Resistor-

[Object]
  -Computer-Tool-
* // ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-工場長の設計室-




//EOF

 

* // ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2020-12-03>
// NOTE:新しいMacとそれにまつわる話。新しいテキストエディタについて。
* // ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
201203 新しいMacが届いてから。

Written by 工場長

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* // ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
* [新しいMac]
 およそ一週間前、新しいMacが届いた。
 基本的に、開封したばかりのMacは20代の女の子のような(だいたいの人は「ちがう」というが)めっちゃいい匂いがする。
 この匂いの香水(パーツクリーナでもいいし、マシンオイルでもいい)が欲しいくらいだ。
 ついついくんくんと匂いを嗅いでしまう。

 箱を開けてから「あれオイラ、MacBookAir頼んでないですよ?」と思うが、今のMacBookはこの程度には薄いらしい。
 僕の知っているのは、だいたい2倍は厚みがあった。
 USB-C 端子2つ以外、外部にアクセスするポートが存在しないのはちょっと面白い。

 性能は予想した程度のもの。
 起動に関していえば、MacProの方が早かった(OSの世代が、そもそも違うが)。
 購入したモデルは、M1と呼ばれるチップセットのMacBookPro。最小構成。
 どうやらメモリの換装は、あとからは不可能らしい。ということを後から知る。後の祭りである。

 もっともノートPCに高度なスペックなんて求めていない。
 グラフィックエンコーディング能力がどうだとかより、バッテリィの耐久性の方が大事だ。
 ただ、キーボードを英語(米国)版で注文するつもりが、間違えて英語(英国)で注文してしまった。
 届いてから(なんかちょっとちがーう) と思ったものの、気にせず使っている。
 もともと日本語キーボードが得意ではない。
「〜」がキーボードにないと、少々落ち着かないというのもあるし、「英字」「かな」キーに必要性を感じたことがあまりない。
(Windowsの場合「半角/全角」キーはトグルであるのに対して、Macはバカの子みたいに、単一機能のキーである)
 キー配列もQWERTYを使わないので、正直なところキーボードにプリントされている文字や記号は、キーのアドレスを示しているだけである。たとえば「O」のキーをタイプすると「R」になるし、「D」のキーは「E」が出力される。
 パスワードを盗み見られても、このキーボードから思った入力をするのは大変である。
(まぁ、キーボードを外付けすればいいし、リモートアクセスしてしまえば配列は関係ないけれど)

 画面の大きさより、キーボードのタイピングのしやすさの方が大事だ。

 ハードウェアとしては、単一のIDを共有する Apple 社製デバイスとの連携が優れている。
 どちらかで Wi-fi にアクセスすれば、その情報をほかのデバイスでもすぐに使えるようになる。
 iPhoneにショートメールが届いたとき、MacBookを開いていると、そちらからSMSを返信できる。
(これくらいは、僕の使っていたOSの世代でもできたが、気持ち悪いのであまり使わなかった)

* [有能な辞書機能とバカチンIME]
 Macの辞書機能(ユーザ辞書ではなく、テキストリーディング用辞書機能)は、僕の使っていた頃のOSより格段に向上している。
 入力/閲覧している文章から、シームレスに辞書を開くことができる。
 単語の上にカーソルを運んで、トラックパッドを押し込むとカーソル上の単語が自動で選択され(ここまでは従前のテキストの上でのダブルクリックと同じことであるが)その単語に関する辞書がポップアップする。
 ちなみにトラックパッドはカーソルを運ぶための0圧から、クリック状態になる1圧、ダブルクリック状態になる2圧まで、自然な力加減で操作できる(辞書がポップアップするのはダブルクリックのとき)。トラックパッドの上で二度も三度もタップする必要はないからマウスより快適に感じる。
 辞書アプリは各種辞書から Wikipedia までを単一ウィンドウで開くし、Siri さん(僕は彼女のことをあまり信用していないが)の各種サゼッションも的確だ。
 実は昔、これと同じような動作をするマクロをマウスや補助キーボードに仕込んでいた。
 辞書を開くのではなく、ブラウザで検索させる動作だったが、かなり重宝した。
 なぜといって(当たり前かもしれないが)ブラウザで検索するのは、圧倒的に画像よりもテキストで、未入力の文を検索したいときもあるが、今読んでいる文書の単語を調べたいときもかなりの頻度で存在するからだ。

 ためにテキストを入力するのには ── 無駄に高価な機材であることは確かだが ── すぐれた機械である。

 ただし、MacOS(およびiOS)のIMEが「バカチン」なせいで ── 「Dvorak配列」があって「ローマ字日本語入力」があるのに、ローマ字入力時はDvorak配列ではない。
 こんなことならWindowsを使っている方が全然いいじゃないか。それにこの問題は、ずいぶん前から日本のDvorakユーザに指摘されている。もちろんもちろん、その数は目をかけてやる価値もないほど少数なのだろうけれど。

 仕方がないので、互換しなくなったATOKを新規に契約する。
 個人向けにはサブスクリプション版しかないらしい(地獄に落ちろ)。

 ATOKを使っているとiPhoneで作った辞書は共有できない(iOSのバカチンIME辞書とは同期しない)ので、これは諦めるしかない。
 しかしそもそも純正IMEでDvorak配列のローマ字入力さえできるなら、ATOKは不要だし、iPhone での日本語入力も(ハードウェアキーボードを使うなら)楽だし、何の苦労もないのだ。バカチンめ! バカチンめ!

 とはいえ、安心して日本語入力ができる。

 IME関連の愚痴はこのくらいだろうか。

* [Evernote の代替アプリケーション「x3Note」]
 アプリケーション関連だと、Evernoteが致命的に「やらかしてしまった」らしく、いずれのデバイスでも閲覧さえままならない。
まともに使えるものではなくなってしまった。
 使っている人はもう知っているだろうし、知らない人は知る必要もない。
 ソースをすべて書き直したらしいが、マルチエディタに過剰な機能を次々投入する必要なんてあるだろうか。
 そんなに暇なら社員をリストラすればいいのだ。
 バカチンめ! バカチンめ!

 僕はテキスト入力しかしないのだから、MacOS純正のメモで十分な気がしている。
 過去のデータは残念だけれどそのまま放置だ。
 ひながた ── あろうことか僕の文書には、ひながたフォーマットが(当然だが)存在する ── だけあればいい。
 ただし階層管理機能がないのは困る。
 そのようなわけで、エディタを探していたのだが、なかなかいい感じのものが見つからない。
(「ノート」「ノートパッド」などのキーワードからヒットしたアプリーケーションのうち、めぼしいものを片っ端から試したが、どれも気に入らなかった)

 最終的に「x3Note」というアプリケーションに行き着いた。
「Audio/Video/Location」のクリップを保存する必要がなければ、有料アカウントをとる必要もない。
 最初の段階で、保存先をiCloudかローカルストレージか選べる。
 現行バージョンは日本語対応していないしフォントも選べないが、日本語入力はできるし、試しているうちにだいたいの機能は(英語がろくに理解できない僕でも)分かった。
 文書内に段落マーカを設定できて、一行に折りたたんだり、同一文書内や他文書に移動したりできる。
 タグ機能もあるし、チェックリストや日付を基準にした機能もあるから、リマインダやスケジュール管理もできるだろう。
(手帳機能なら、他を当たった方がもっといいものもありそうだけれど)

 webから各メディアのクリップもできて、これは「Ideas」という編集不可レコードとして保存される。
 十分だ。

* [移行作業に惑う]
 MacProから移行しようと考えていたほとんどのソフトは ── ATOKすら ── 使えなくなっていた。
 Firefoxのプロファイルだけ抜き出して、移行する。

 データ用HDDのうち1TBのものは、900GBほど使ってしまっているので、TimeMachineに使っていたバックアップ用HDD(4TB)に移行しようとして思い出す。
 このHDDは故障して、使えなくなったのだ。
 調べてみたら、クリーニングしても1TBが「使用済み」になっている。
 おそらく中の円盤が死んでしまったのだろう。
 しかしほかにまともなHDDがないので、とりあえず3TBになったHDDに移行しようとするが、予想通りというかなんというか(3TBに損傷はなさそうなのだが)MacPro側では複製操作の途中で止まってしまう。

 しかしほかにHDD外付けドライブなんてないし、データはOS9の頃からのものも大切に残している。
 TimeMachineはとうの昔に使えなくなっているからバックアップもない。
 ── TimeMachineに使っていた、壊れかけのHDDを複製先にしているのは自分でもどうかと思うが、引っ越し荷物の中からHDDを発掘するのも骨が折れる。

 仕方なくNAS用の外付けケースを探すが、なかなか思ったものがない。値段も高い。
 USB端子がルータについていたから、これは外付けドライブを認識するのかと思い、試してみたがどうにもならない。
 調べてみたら(ソフトバンク光の純正ルータには)そんな機能はないらしい。

 LAN経由でNASドライブを構築するか、USB経由させるためにルータも含めて構築するか、しばし悩んだ。
 
 RAID機能付きのケースで4つはHDDを搭載したい。
 NAS対応(LANケーブル接続)モデルはだいたい5万円くらいするが、USBは半分以下、1/3くらいの価格のものもある。
 差額でルータとHDDを新調しても十分だろう(どのみちパーソナルユースだし)。

 総合的には、ルータごと買い換えて問題ないだろうという結論に至って、密林で買う。

 届いたケースにHDDを搭載し、ようやく複製に成功した。
 Cubeから移行の時もそうだったが、新しいマシンは古いシステムをオーバライドできるようだ。

 ただしルータがまだ到着しないので、有線接続するしかない。





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* // ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

* // ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-

[InterMethod]
  -Diary-Technology-

[Module]
  -Generator-Reactor-

[Object]
  -Computer-Tool-
* // ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-工場長の設計室-

 

 


//EOF

 

201128

 久しぶりに1日のんびり過ごす。
 そもそも、この家にいても前橋のアパートにいても、足利の家にひとりでいた頃のような安息を味わったことはない。

 なんとなく、心の底が、いつも落ち着かない。
 そんな日々をだいたい6年くらいは過ごしていたか。

 いつも誰かの体調や死を気にしていたり、慣れない場所でくつろいだ気分になれない日々。
 あちらこちらと移動ばかりして、他人に気を遣って自分の身体を壊して、落ち着かない場所で丸くなって自身の身体を抱える日々。

 6年前などは仕事もなくてお金もなくなってしまったから、食生活も(今よりさらに)荒んでいた。

 少しずつ、自分の使いやすいように改良している、その入り口だから、とうてい落ち着くとは言い難いが、それでも、誰もいない他人の家に息を潜めて暮らすことにも慣れた。
 思っていたほど人も来ないし、思っていたほど誰かに監視されてもいない。
 来た人間の相手を必ずする必要もないし、場合によっては追い返しても大丈夫そうだ。

 食べたい時にだけ、食べたいものを食べたい量食べることができる(毎日2食はやはり負担である)し、眠くなったら眠れる。
 ときどき緊張しているのか、眠れない日も一年のあいだにはあったが、最近は10時間くらい連続で眠れるようになり、そのままごろごろしていても落ち着かない気分になるようなことはなくなった。

 不要なものを次々捨てて、今は段ボールの中にある本に、やがて囲まれるような設備を整えることもできるだろう。

 やはりというべきか、孤独は感じない。
 おそらく猫がいなくても、人の気配のない方が、本来的に僕は落ち着くのだと思う。

 5年棲んでいた前橋のアパートは、今や殺し屋の借り住まいのようにがらんどうで、ベッドのマットレスとテーブル代わりのワイン箱と机、カセットコンロと簡易ガスヒータがあるだけだ。
 結局、家の中を整備する時間がないまま5年が過ぎてしまった。

 正直、後ろを振り返ると生きる気力を失う。
 ただ、今死ぬと残った人が僕と同じ苦労を抱えることになるので、その道筋を整えるまでは死ねない。

 モルタルを塗るより先にすべきことなのかもしれない。それを済ませれば、いつでも先立つ不幸をお許しくださいなんて、許してもらう気もない一方的な宣言をすることも可能だろうから。
 とはいえ他人と関わる必要のある手続きだし、時世もあるからあまり他人と関わり合いたくない。

>>>

 明日、MacBook が届くらしい。
 NASも整備していないし、ルータとモデムはケーブルが足りなくて、中途半端な位置に吊るしてあるのみだ。
 5m以上の純正光ケーブルはなかなか使う機会もないから物がない、と工事の方も言っていた。
 5mでは、回線を繋いだ家の端の部屋からモデムを出すこともできず、ために鴨居の下に逆さに(不恰好に)吊るされているというわけだ。

 MacPro も、一切手を付けていない。そもそも置いて使えるスペースが、どこにもない。
 床を張り替えるまでは大きな家具は置けないし、壁を塗り終えるまでは床を替える気にはならない。
 リフォーム業者に任せるのは高くつく気もするし、なにより自分でしてみる方が面白そうである。

 そんなつもりで始めたのだが、もう寒くなってきて、早起きするのが億劫である。
 暑いときは暑いときで、やはり億劫なのだ。
 そういう怠惰なイキモノであることよ。

>>>

 オクラは乾燥してきて、いい種が採れそうである。

 チェインソウで解体した家具のうち、燃やすと有毒ガスを出しがちなものも区別がつくようになった。
 それらは軽トラを使って清掃センタに持って行こう。
 古い、仕事の知り合いもいることだから。

>>>

 昨日書きかけた日記を書き終えたくらいで、今日は何もしなかった。

 不安も緊張もなく、何もしないでひとつの場所で息をついていられるというのは、本当のところとても素敵なことで、そういう平穏が、少しずつでも戻ってくるなら、そんな日常なら、もう少し、生きていてもいいかもしれない。

 何かを追ったり、何かに追われたり、何かを強要したりされたりするような、そんな気持ちで生きるには、僕は向かないから。









201127

 職業でもボランティアでもない。
 僕の「裏庭の穴」という役目である。

>>>

 僕はたまに愚痴ともいえる内容をブログに書く。
 傑作だったのは10年以上前、会社の飲み会に行って戻った足で書いた「会社の飲み会なんて行きたくない」という内容のシャウトで、完全なる酔っ払いのソウルフルな愚痴である(サイトごと消したので、現在は存在しない)。

 基本的に、僕はお酒が好きである。
 けれども基本的に物理で身体に悪い酒(安物に多い)が嫌いで、飲むのは好きでも飲まされるのは好きではない。
 当時は会社の(あるいは社長の)奢りで、つまりはタダ酒だったのだけれど、他人に奢られる酒は気を遣ってしまって、基本的にお酒の味がぼやけるので好きではない。好きなものもホイホイ頼めない。気を遣う。
 飲み放題なんて論外だ。
 店に対して安い単価という数の暴力を振りかざし、その代償として混ぜものの毒薬みたいな酒を「指定範囲から選んで」飲まされる羽目になる。
 飲みたいお酒は未来永劫飲めない。
 それを幹事や組織に強要される。
 だからお酒が好きなのに会社の飲み会は嫌いなのである。

 この辺りは話し出したらキリがない。
 その上、賛同者の有無を問わず、僕は「厭だといったらイヤなのだ!」という性格なので、いかんともしがたい。
 それが酔った勢いで表出したため、現象として傑作になってしまった。傑作の意味は辞書で調べてほしい。

 さて話を戻す前にひとつだけ。
 この文書は ── 先の喩えを借りるなら「傑作な」 ── 僕の愚痴である。
 愚痴なんて読んでも仕方ないものなので、読まなくていいと思う。
 なんていうと天邪鬼なアンチは揚げ足を引こうと躍起になって読むだろうし、僕本体を愛でる対象にしている人は矢も盾もたまらず最後まで読んでますます僕を愛でたくなってしまう可能性が否定できない。
 もうおまーら勝手にしろ! 今日は機嫌が悪いんだからナ!
 ほんとだぞぅ。ぷんすか!

>>>

 僕という「裏庭の穴」に放り込まれる第三者の愚痴にはいくつかのパターンがある。

 まず、この「愚痴」について考えてみよう。
 辞書 ── 書籍版も電子版も参照できないので、webのものになる ── には、
言ってもしかたのないことを言って嘆くこと。」とある。

 ひとまず一般論を展開しよう。
 皆、何かしら悩んでいる。
 悩みがある。
 僕のようなノーテンキにも、ある。
 悩みについて誰かに愚痴を言う。

 その状況を分解しよう。
「誰か」との間にバイパスされた会話のテーブルに、愚痴は載る。

 ── ここに「自分自身」は含まれない。これは特殊論にあたる。
 自身との会話テーブルに乗せられた悩みは、愚痴にならない可能性があるので後述する ── 。

 会話テーブルをバイパスされた「誰か」は、その問題を解決する能力や権利や立場を有していない。
 話をすることで問題が解決される(あるいはその可能性が高い、もしくは解決に至らなくても改善やその糸口になる)場合、それは愚痴 ── 言っても仕方ないこと ── として成立しなくなる。

 よって愚痴とは、僕が飼い猫に向かって今年の茄子の収穫が少なかったことについて不満を並べることに等しい。
 畑を耕すのは僕であり、猫たちは茄子を育てることも収穫することもなく、茄子の存在というものさえ初耳だろうから、話したことによって来年の収穫が上がる可能性はまずないし、現在から過去に遡って苗木の成長が促進することもありえない。

 つまりその不満は会話テーブルに載るだけで、天気の話題のように、右から左に流れていく。その役目しかない。最低でも、問題を解決する方向に事象が動いてしまう話題ならば、それは愚痴とは言えなくなるだろう。

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 一般論から離れて、少しだけ卑近な例に近づいてみよう。

 実のところ、僕は他人の愚痴を聞くのが嫌いではない。
 これまでの観察の範囲からいっても、1人あたり1日3話題3フレーズまでは楽しんでいられる。
 実時間にして長くても2時間である。
 これは1話題40分から2時間に相当することになるが、ひとつの現象としての不満を、同じ言い回しをなるべく避けて伝える場合、だいたい話題が尽きるはずである。
 2時間も話そうと思えば、ちょっとした講演である。
 議題や状況は整理され、立場とスタンスは抽象し明確化され、各プロセス内での問題点はあらかた分析され、原因は解明され、対策は構築されているものを説明するのに相応しい時間である。
 だからそんなに長くなることはまずない。

 しかし愚痴を言う人たちはときどき馬鹿になっている(馬鹿というのは、存在ではなくて状態である。天才たる僕だって、寝ている間はただの猫だ)。
 まず状況が整理されていないから、議題が定まっていない。議題が定まっていないということは、その会話の目的が不明である。

 もちろんそれだって構わない。
 正直なところ愚痴を言う人もそこに登場する人も、自他の立場を誤解し、スタンスを曖昧なままにし、発言内容が具体的な割に意味が不明瞭なんてことはザラであり、プロセスはそもそも分解されておらず、問題の焦点は定まらず、原因は無視され、対策など考えてもいないことがほとんどだからだ。

 これらは愚痴の特性である。
「言っても仕方ない」というのは会話テーブルに載るだけの調理がされていないということでもある。
 先にあるように情報が整理されて境界が明確化され、方針が定まっていてゴールが視野にあり、戦略も練られているなら、それは愚痴ではなくなってしまう。
 テーブルに着いている私の前には、調理前の(大抵は泥や虫にまみれた)素材たる肉や野菜がただ放り置かれるのだ。

 そして彼ら ── あるいは彼女たち ── は言うのだ。
「これをどう思う?」と。

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 個人的に、正直な感想を先に述べておきたい。
「どうでもええがな」
 それが答えである。

 それはそもそも僕の調理したい対象ではない。
 あるいは中には調理法なんて誰でも知っていそうなものもあるし、場合によっては前人未到の、食材になるのかアヤシイものもある。どうしてそんなところに首を突っ込んで持ってきたのか知らないが、関わりたくないものだってある。
 いずれにしても興味はない。

 ただ僕は、その対象人物や、その人物とのやりとりを楽しむことができる。
 なぜといって、愚痴は誰かの不満を聞く格好の機会であり、不満というのは、その人がどんな欲を抱えがちで、どんな潜在的な人格 ── 価値観セット ── を持っているかをさらけ出すから。

 べつに弱みを握ろうとかそういうことではない。
 単に興味があるだけだ。
 主観の中で感覚される他人の行動から類推される動機や欲や感情というのは、観察された情報ではなく、観察の方法やその情報に対する主観そのもののアプローチを浮き彫りにしてゆく。
 その「人のありよう」から、僕は「なるほどこういう人たちもいるのか」と世を知ることができる。

 新聞やニュースを見ていても、どんなに勉強しても、人間を知ることはできない。
 今いる人間から知るしかない。
 それを知ることは、僕自身を知ることにもなる。
 僕の主観的アプローチを解析しながら、他人を知ろうとしているのだから、これは楽しい。

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 簡単に言うと、愚痴のゴールは2つである。
「あなたは間違っていない」
「相手は間違っている」
 このいずれかのゴールに到達できると、主観は現状を受け入れることができるようになる。
 だから僕はパズルのように、それを解いていく。

 なぜといって、愚痴を言ってすぐ、
「うん、君は間違っていないよ」とか、
「それは相手が悪いよね!」なんて返事が毎回、必ず、開口一番に飛び出してきたらどう思うだろう。

 最初は嬉しいかもしれない。
「猫氏はすぐに分かってくれる」「私と一緒なんだ」「まちがってなかったんだ」と喜ぶかもしれない。

 でも、即答はイカン。
 3回もしないうちに「話、聞いてないよね?」と叱られるだろう(とりあえず愚痴は聞いているのに)。
 人によっては「馬鹿にしてるのか」と怒り出すだろう。じつに楽しそうな場面である。

 よって、いきなりゴールを提示されて、毎回「あなたに聞いてもらってよかった」と言える人は間違いなく阿保である。愚痴を聞く価値もない。
「ちょっと待って、ちゃんと話を聞いて」と言ってもらえるくらいがちょうどいいだろう。
 相手と自分のレベルがだいたい合っていることは大事なことだと思うし、相手がいくら好みだからといって玄関でいきなり押し倒したり、押し倒されるのがウェルカムだったりするのはどうかと思う。
 もうちょっと手順を踏んだり、空気を読んでほしい。
 いろいろ普段書いていることと矛盾しているが面白いからいいや。

 いずれにしても、ある程度は第三者的な立場から整理/分析しながら、相手の感情的ゴールを目指すのが愚痴を聞く基本である。
 具体的な対策や、戦略的ゴール、問題解決を本当に望んでいる人は極めて少ない ── それは本来、相手自身の領分だから、愚痴を聞いてもらう相手とはいえ勝手に決定してほしくないのである ── し、仮にそれも含めて真剣に相談してくる相手なら本当に大切にしたほうがよい相手である。

 ちなみに「第三者的な立場からの整理/分析」について、いちいち真面目にとりあうのが面倒なときは、
「私は当事者じゃないからなんとも言えないけれど」
「あくまで一般論として聞いてほしいんだけれど」
「これは私感なんだけどね」
「昔、同じようなことがあってね、結局、解決しなかったんだけど」
とか何とかテキトーに前置きして、好き勝手に思ったことを言ってしまえばもっともらしく聞こえる。
 それで十二分である。カップヌードル4個分だぞぅ。

 よいだろうか、そのテーブルに載っているのは「愚痴」なのだ。
 真面目に取り合って真剣に取り組んでも、問題の当事者は相手だから、先に述べたとおり意見ならまだしも、目的や方針や戦略を勝手に「これがいいよ」と策定されたくないのである。
 とくにガールの場合は顕著で、昔から男たちは女たちの愚痴によるコミュニケーションにつまづいている。ちなみに男性でも最近は「まとも」になったようで、自分で最後は決めたいようだ。
「こうしたほうがいいよ」と誰かに言われたら「貴方の人生じゃないんだから放っておいてくれ」というのは、とてもまともだと僕は思う。

 だから聞いている僕は、真剣に考えても、真剣に対策はしない。その対策は「当事者が僕だったときは有効」な策でしかない。

 そもそも愚痴を言っている人は、視野が狭くなっている。自分の考え方と他人の考え方を、視線のレイザービームのように収束してぶつけ合っているから、視野が広いわけがないのだ。

 よって先ほど述べたとき、読者 ── キミのことだぞ〜ぅ ── は「デタラメだしヒドイな」と思っただろうけれど、テキトーに、あまり親身にならずに、あることないこと、思っていることも(思った以上にむつかしいが)思ってもいないことも言ってしまえばいいのだ。

 すると視野狭窄していた人は「待てよ、違う見方、考え方もあるのかな」といった感じで、視野を取り戻す。
 そうすれば自身で分析もできるだろうし、問題を解決しようともせず愚痴を言うより、ゴールを設定して、戦略を立てて、何か行動した方がいいことにも(自力で)気がつくだろう。あらかじめ分かっていることが多いが。
(希死念慮があり、自堕落なイキモノがこれを書いています)

 こんなことまで考えて愚痴を聞いているから、僕は愚痴の内容をまったく覚えていられないのである。

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 ただしそうした真摯な姿勢(そう、テキトーであることが真摯なのだ)で臨んでも、うまくいかないときはもちろんある。
 話がループし始めて、何を言っても「瞳のレイザービームが収束しっぱなし」になってしまう人もいて、こういう人は同じ話を2回以上繰り返す。

 シーン(時と場所)は違っても人とセリフが同じであったり、相手が違っても状況が似通っていたりすれば、それは同じことを原因とした愚痴である。
 それを私(愚痴を聞かされる第三者)に繰り返し聞かせて、アドバイスは聞かない、視野を広げようともしない「あなたは間違っていない」といっても信じない、というのはもはや思考が停止しているのである。

 こうなると重症で、話し飽きるまで聞いてあげないと(第三者への)聞く耳さえ持ってくれない。
 人間嫌いの怯えた猫が、それでもエサが欲しくて物陰からこっちを見つめてにぃにぃ言っているようなものである。
 首根っこを捕まえて蹴り飛ばしてやりたいところだが(突然の暴言について、この場を借りてお詫び申し上げます)エサを置いて帰るか、辛抱強く待つしかない。

 先の「同じフレーズは3回まで」はこの状態で、愚痴を言っている相手も、話していてあまり楽しくない状態で、聞いている僕も相当なストレス状態に陥っている。
 だいたいこのあたりで僕の糖分不足も発生する。

 1日1食であるから、18時から24時くらいまでは、食事や入浴に当てているが、このあたりで掛かってきた電話が作業前で、なおかつ多件数で長時間(どういうわけか、愚痴を言いたい人が列を作っていることがある)になると、コンディションが悪くなる。
 アタマが働かなくなって生返事が増え、しまいに眠ってしまう。
 1時間を超え、ループし続ける愚痴は新鮮味もなく、さすがに僕も退屈になる。
 それが3件続けば夕刻は夜に、夜は深夜になる。
 メインテナンスの時間に無補給でそんなことをしていたら、体調が低迷するのは必然である。

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 昔、ガールに怒られている最中に眠ってしまって泣かれたことがあるが、それもこんな低血糖がゆえの作用だったのかもしれない。
 取ってつけたように言い訳をしているわけではありません、ほんとだよっ!

 懸命に、真剣に、真面目に聞こうとすればするほど、僕のノーミソはカロリィを消耗してゆく。
 与えられた燃料は昨晩が最後なので、僕は代謝系を切り替えてアタマへの血流を落として、体表体温を上げ(深層体温を下げ)、グリコーゲンを作ろうとするのではないだろうか。

 結果、僕は馬鹿になり、眠ってしまう。

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 さて、最後に特殊論について。

 愚痴が愚痴にならないケースはいくつかある。
 その最たるものが「当事者に愚痴る」ケースだ。

 何故か、観察される範囲で、愚痴を言う人は影響力を持たない関係者か、第三者に愚痴を言う。ネットニュースのコメントなどがそうだ。なにか後ろ暗いことでもあるのだろうか。それとも思慮が浅いのだろうか。

 序盤で述べたとおり「相手や自分に問題を解決する能力や権利や立場」があれば、愚痴を言っている問題は解決する可能性が高い。
 そのいずれか、もしくはすべてを自分が持っておらず、あるいは仮に持っていても、問題の原因(多くは人間である)がより優位的だから愚痴になるのだろう。

 当事者と直談判すれば、それぞれの思惑は明確になるかもしれない。
 しかし自分が問題の原因に直接対処する能力などを持たず、もしくは原因となる人物が能力や権利や立場そのもので自分より優れていたり、あるいは能力や権利や立場「そのもの」が原因の場合、対処法が見つからないこともある。

 愚痴というのは分解すると、不快を感じたことの不満という感情を消化する作業である。
(だから問題解決は目的ではないし、問題解決法をアドバイスすると怒られることがある)
 共感によって消化できる人もいるし、話すうちに上記が整理できて、視野が広がった結果、消化できる人もいる。
 いずれも悪いことだとは思わない。
 食べた草を消化するのに石や砂を飲むイキモノだっている。何でもかんでも、ナマの未調理食材を自力で消化できる方がおかしいと言ったって、乱暴なことはないだろう。
 僕がたまたまその「石ころ」だったとして、役に立たない石ころよりは、役立つ石ころの方がいい。

 それでも僕は他人に愚痴をほとんど言わない。
 ── ただし冒頭に述べているが、この文書はその「僕にとっての愚痴」である。読むのは勝手だが、同意を求めるつもりも、意見を聞きたいわけでもない。
 僕が愚痴をほとんど言わないのは、そもそも人間を不満や不快の原因とは考えていないからだ。

 そこには3つの力が作用している。
 僕を不快にさせる人がその行動をとる原因。
 僕を不快にさせる人がとる行動という原因。
 僕をして不快に感じさせる僕の原因。

「なぜ自分が不快に感じるのか」ということは、実はとても大切なことで、にもかかわらず多くの人が素通りしてしまうポイントでもある。
 不快に感じるには、原因があって理由がある。
 それが力を発揮して、その力を受け取るから不快に感じる。

 僕を不快にさせる人が取っている行動が「愚痴がループして、長時間にわたっていて、話を終わりにしてくれない」場合を考えよう。

「愚痴がループして」「時間が長引いて」「体調が低迷したのに愚痴を聞くことを強要され続ける」から不快なら、最低でも4つの対処がその場で見つかる。
「ループさせない」「長引かせない」「体調低迷する前に補給する」「そもそも愚痴を聞かない」である。

 相手に何かを求めることは無駄だと思っているが、相手が僕を不快にさせる行動を取る原因は「僕に嫌がらせをしたい」のではなくて「僕に聞いてほしい不快だったことがあった」のである。
 だから「その不快を消化できるように(かつ消化の主体はあくまで相手本人であるように)会話する」のも対処である。最初から話を聞いている僕は、そもそも対処していることになる。

 信頼している相手の場合、これらのメカニズムも含めて僕は説明する。
 相手は相手の主観に基づいて、違う意見を教えてくれることもあるだろう。

「不快」とされる「問題」において、じつは自分は、常に直接の関係者であり、その問題に対処する能力も権利も立場も(厳しくいえば責任も)、すでに持っている、というのが僕の考え方である。
 ネットニュースを賑わせる事件や話題や政治でさえ「自分のもの」にすることは不可能なはずがない。
 その立場を選んで、不満を並べているだけの人というのは、その立場に甘んじて不満を並べたいだけの人ではないかと僕は思ってしまう。

 だから僕は、本来なら愚痴に発展しかねない「不快」とされる「問題」について、他人に話す価値を見出さない。
 自問自答で十分だからだ。
 自分の考え方や対処法を変えればそれで現実が変わっていくからだ。
 政治に不満があるなら、投票に行くなり、被選挙権を行使するなり、署名を集めて国会に送るなり、官僚になるなり、地元の代議士に会うなり、ネットニュースにコメントを書き連ねるなり、方法はある。

 そしてその方法は、僕一人で決められる。

 ひとりごちる「自分」との対話テーブルに載る「悩み(愚痴のタネ)」は、対応によって「考察」「悪口」「対策」のように分類されるだろう。
 このうち「悪口」は愚痴の意味に沿うようには思うが、さほど事態は改善しなさそうである。
「考察」の場合 ── この文書がまさにそれだが ── 視野を広げ、自分でも思っていなかった意思を新たに、あるいはより強固にすることができるだろう。
「対策」は、もはや愚痴ではない。
 壁がダメになっていたらモルタルを塗ればいい。
 初めてだから、お金がないから、時間がないからと言い訳をするのも、できることから始めようと決意するのも、実行するよりは簡単なことである。

 ちなみに『「不快」とされる「問題」』を「不快とされる問題」と表記しないのは、「問題」は事象であることも多いのに対して「不快」はただただ感覚の、すなわち自分が存在することに端を発するものだからである。
 「問題」とされる事象は、確かにあるのかもしれないが、「不快」としているのは、その時、その立場で、その視座を使っている自分だけの感覚かもしれない。

 愚痴を言ったり聞いたりすることに、ここまで熱心に、真剣に悩む人も少ないかもしれない。
「愚痴ばかり言っているヤツがいてさぁ」と【誰かに愚痴ればいい】だけだ。
 あるいはそんな些事にかまける段階など、とうの昔に超越してしまった、人生の達人ばかりなのかもしれない。

 僕にはいずれでもかまわない。

「裏庭の穴」という仕組みが、僕や僕の身近な人に有用であるかぎり。

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 不快というのは、実際、有用なものだ。
 不快だから、人は道具を作り、それを使い、環境を整備する。
 不快を不快でなくするために、数々の発明がされた。
 発明は、簡単に見えるものも多いかもしれないが、不快だという不満を、不満のまま、愚痴って終わりにしていたら、到達できなかったことだろう。
 手動の灯油ポンプだって、手を汚さず、重い物を持ち上げる苦労から、誰か(母親だったか)を解放したいという一途な想いから生まれた製品だ。

 不快に思うこと、不快を共感すること、大いに結構ではないか。
 それを改善するために、僕たちには、ノーミソが備わっているのだ。

 だからがんばれボクは寝るぞ〜。



(うぬは天使か、眠りの使いか)





201125

 数ヶ月前、納屋で左官こてを見つけた。
「これで壁を塗れ」という、ネコノカミサマの啓示だろうか。3つも出てきた。

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 コロナウイルス騒ぎより数年も前から、僕は人混みを避ける傾向にある。
 行列に並ばない、渋滞する道路を使わない、混雑する場所に行かない。
 人混み酔いだけが原因ではない。時間が惜しいからだ。
 だから、人が集まる場所と時間を避けて、たとえば昼の飲食店ならアイドルタイムを狙うし、夜の飲食店ならピークタイム(20時の前後1〜2時間)を避ける。
 開店直後もよい。
 独りなのであるから、多数派のピークオフを狙えばいいだけである。

 自動車で走るのも、深夜や早朝がいい。
 電車も、ラッシュタイムはなるべく避けていた。
 
 同じ時間帯に人間たちは動き出し、同じ場所を目指して集まる。
 朝、昼、夜。だいたいピークのタイムベルトが存在する。
 小学生の頃から、これが嫌で仕方なかった。
 移動することが大嫌いだったのだ。

 だから、フレックスタイム制の会社に勤務していた時は、かなり有意義だったものの、もともとの性格が怠惰なので遅めにやって来て、早く帰ったりしていた。
 まぁ、あまり仕事を与えられない環境だったので、そこにある時間を(やはりというべきか)自由に使ってはいたが。

 給料泥棒といえなくもないことが、何度かあったように思う。
 僕は「8:2の法則」の、2割側をたいてい目指して行動するので、働きアリでいえば「ぜんぜん働かないタイプ」に属してしまう。

 一方で、そもそも給与に準拠して働く気になるタイプではないので、無給でも仕事が面白ければずーっと働いてしまったりする。
 経費請求できない道具を私費で購入したりするなんてこともよくあったし、会社からの電話を24時間365日転送される状況を5年ほどは続けていて「プライベートとオフィシャルの時間に区分がない労働環境」のほうがしっくりくる性質のようだ。

 これで几帳面な性格なら、独立しても間違いないと思うのだが、いかんせん几帳面さというものを理解できない。
 理解できないものは体現できないので、僕は独立して商売を始めると自滅すると自身を見積もっている。

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 ホームセンタに恐る恐る出かける。
 軽トラを買っておいて本当に良かった。じつによいタイミングではないか。

 幸い、思ったほどは人がいなかったので「手でも塗れるお手軽モルタル」的なモノを買う。
 バケツに入って8800円だったか。

 軽い気持ちで作業をした失敗を元に、注意点を。
(こんな注意書きが役に立つのは、僕自身をおいて他にはいないが)

◯ マスキングはきちんと四方にする。
(上部を省略したが、ダメである)
◯ 足元には新聞も使って養生する。
(その気がなくても、飛沫がこぼれた)
◯ 薄く伸ばすために、コテに小さく盛る必要はない。
(大きく取って、小さく塗り伸ばす)
◯ なめらかに均したりするには、壁材がこて面に付着している状態で行う。
(直線部、塗布物のない面、水や薄め剤のついた面は塗布物との摩擦係数の違いで壁材が付着する)
◯ 角の処理は最初にする。
(始末がむつかしいので、精進する)
◯ 水性と書いてあっても換気状態を作る。
(防塵防毒マスクを使う必要があった)
◯ 猫は乾くまでケージに入れておけ。

 土壁の上に塗ったのだが、今日は下地の硬化剤を塗っていない壁に直塗りした。重ね塗りが必要かは、様子を見ながら考えようと思う。
 直塗りが大丈夫なら、床間の壁と押し入れの壁面を改修できる。
 押し入れの作り付けの棚を壊したところ、セメントベースのモルタル壁内部にまで骨が及んでいた。
 骨をベースに棚を作ってから、モルタルで壁を塗り込め、その上から漆喰を塗ったようなのである。

 ために押し入れ内部は、部分的に ── しかしけっこう壊滅的に ── 損壊している。
 お手軽モルタルで塗り込めれば、まぁまぁ見られるようになるだろう、多分、きっと。そう思っておこう。

 一箇所(1900×900 ほどか)を塗ったら(今日もいい仕事をした)ような気持ちになってきたのでおしまいにする。
「何事も最初が肝心」というのは、最初にハイペースで進めればいいということではなくて、最初に全体のペースや空気感を掴むことが大事だという意味だろう。
(「太田市の高田純次を自称したい」と言っている人がこれを書いています)

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 少しだけ、モテの話を。
 モテが自動化するサイクルになり始めた時に危機感を覚えたのは「何でも ── あるいは誰でも ── ウェルカムにしてしまったら収拾がつかなくなるな」ということ。

 なので(まだモテもしないうちに)「美人で、アタマのいいガール限定」とした。
 年齢制限を設けなかったのは「自認できるアタマの良さ」というのはある程度の年齢に集約されると考えたからである。
 実のところ頭の良い人は、ただカタチが綺麗なだけの阿呆(失礼。)よりも、一緒にいるだけで気持ちがいいもので、これは年齢に関係がない。

 しかし「自分はそれなりにアタマがいい」という誤認まではフィルタできなかった。

 もちろん、ただただ多数にモテたいという戦略であれば、それでもよいのだろうし、そもそもそんな条件を設定する必要はない。

 新しい戦略として「特に条件は設定しないが、自身の情報の公開範囲を限定的にし、多数に追いかけられるタイプではないモテ(それ、モテっていうのか?)」というモデルを構想した。
 構想しただけで、体現できるとは思っていない。
 いかんせん、理解が追いつかない。
 理解できないものは、体現できない。

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 モルタルを塗るのに、僕はまだwebの情報を入手していない。
 とりあえず経験してみてから、調べたい。

 コンピュータやwebが好きで、それを好んで使う人にとっては意外なのかもしれないが、僕はコンピュータ(携帯端末含む)やwebを、単なる遊び道具としか見ていない。

 YouTube やweb上の実用系お役立ち情報なんて、半分くらいただの流行りものだと思っているし、あんなものをベースにして人生設計や資産運用やトラブル対処法なんてものを知った気分になっている人間は、有り体に言ってちょっとした白痴じゃないかと思っている。

 TVを見なくなって20年ほど経つし、新聞も同時期から読まなくなった。
 定期刊行物はときどき買うこともあるが、科学か経済系のものでさえ1年ほども読んでいると(結局ビジネスだなぁ)と思って辞めてしまう。

 日本で流行するのは昨今だとたいていがフィクションのストーリィだが、視覚情報のほうが優っているようで、爆発的に売れている小説なんて聞かなくなったし、ノンフィクションでさえ大した影響を世には与えていなさそうだ。
 本屋にいちばん多く並んでいるのは、コミックとライトノベルで、なんというか128番煎じみたいなありがちな設定をたくさんの人がシェアしてパイを分け合っているかのようにも思える。

 まあ確かに、ジャパニーズハーレム設定なんていうのは、リアルよりフィクションかヴァーチャルのほうが苦労がないぶん楽しいものね。

 いずれにしても、やってみてから調べる方が身につくもので、最終的に早いものだと僕は自分の体験上……いや、YouTubeで予習したほうが早かったものもあるなぁ。
(いつにない展開で唐突に終わる)



 考えているフリをしていても、寝てばかりの子は結局バカなのだよ。