// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:2021-04-25
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
木枝の剪定をしていて考えたこと。
SUBTITLE:

~ Wooden chip, Weaken ship. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]

 6週目。微熱は引かず。
 別の病院での検査は、数日前やんわりと断られた。しばし途方に暮れる。
 もう一度、検査を受けるまで(そして陰性と診断されるまで)は誰にも会わないと心に決めているので、困るのではある。

>>>

 今年に入ってから、木の剪定をずいぶんした。
 長い間、手入れをされていなかった木のほとんどは、虫がついていて、場合によっては枝葉が病害に冒されている。
 ひとまず枝を下ろして経過を観察し、回復しない場合は幹を切り倒そうと考えている。
 また寿命を迎えつつある木もあるようなので、それについても切り倒す決定をした。

>>>

 樹木というのは基本的に、上へ、外へと枝を伸ばす。
 今更当たり前のことをと思うかもしれない。僕もアタマではそう思っていた。
 しかし実際に剪定をしていると、想像と現実はずいぶん異なることに気がつく。

 まず幹がある。
 幹から直接伸びる枝は、幹が中心となるので必ず外向きになる。そしてだいたい上向きである。
 問題は、この枝から分かれる枝である。
 これらが、内側に ── 幹に向かって ── 伸びることが往々にある。枝の下から生えて上に向かうものもある。
 これらはだいたい、枝が混む原因となる。
 なぜといって内側に伸びた枝は、必ず他の枝とぶつかり、日陰の部分で陽の光を求めて迷走する。
 下に向かった枝は、上に向かううちに元の枝や他の枝と密になり、隙間に虫が湧いたりする。
 枝が伸びる上ではランダムに生えて伸びるより他ないのだけれど、間違った方向に伸びる枝は結果的に、木の幹そのものの健康を害し、全体の益を損なうものになる。

 これらは人間の、あるいは組織の性質に似てはいないだろうか。
 そもそも組織というのは外へ、上へ向かうべくして構成されるものだろう。
 ところが内へ向かう者がある。中心に近づこうとするのは決して間違ってはいないだろうけれど、そもそもオマエは幹ではない。
 幹でもなければ、主枝でもない、末端が遮二無二集権された中央を目指すのは、はっきり言って他の迷惑である。
 枝の主な仕事は、外に向かって、葉を開いて陽を受け、花を開いて実を作ることである。内に向かってそれをされても困るのだ。

 下に向かう枝も同様。
 どうして下に生えるかというと、その方が上に行きやすかったり、枝の仕事をするのに都合のよい場所が見つかる場合があるからだ。極めて稀だけれどそういう状況もある。
 だから自然発生的に、枝は幹の方角にも、地面の方角にも、枝を伸ばす。
 つまり下に向かった枝は、上に向かう目的のため下に向かうという手段を与えられている。
 だいたいこいつらがひねくれる。文字通りにひねくれるのだ。
 他の枝に絡みついたり、行く手を阻害したりする。そっと自分の居場所を見つけてささやかに役目を果たそうとはしない。
 ごくごく末端の、ごくごく細い小枝の場合にのみ、下向きであることが全体の益になる。

 たとえば組織でも、それなりに出世してそれなりに能力のある人間が、どういうわけかねじくれた動機で、下に向けることで上に向かうような力の使い方をすると、やはりその組織の関係は歪む。
 そういうやつを見かけたことがない人は幸いである。

 では上向きだったらすべて良いかというと、どうやらそうでもない。
 主枝から直接真上に伸びる枝がある。
 だいたいこれらの枝は、その上に伸びている主枝に当たる。
 幹に近ければ近いほど、内側が混むので致命的であり、上にいる主枝に阻まれてたいした仕事をするわけでもない。ただただ事態を悪化させるだけの存在だ。
 あるいは格別、発達が良くて強く太く育ってしまった場合、上にある他の枝を阻害するようになる。
 外に伸びている枝が阻害されるので、結果的に全体の益にはならない。
 外に向かって伸びている小枝は、確かに上を目指しているかもしれないが、そもそも主枝から真上に伸びるようなショートカットの仕事はしていない。
 主枝から真上に伸びる枝は、上昇志向の意識高い系のフリをして自分の無能をラクに上げ底し、結果的に組織の働きを阻害する猪口才な人間のように観察される。

 基本的に集団というのは、外へ上へと向かうものだろう。
 もちろんこれは概念的な定義であり、実際の集団が外と上を目指していると、ドンキーコングのようなことになってしまう気がする。気のせいだろうけれど。
 個々人はどうだろう。
 やはり同じように、上と外を目指すものではないだろうか。
 もちろん、下と内に指向する要素も必要ではある。しかし、主体は上と外だと思える。
 ── 重ね重ね、概念なので、そこに重力(つまりは上下)や空間(内外)は存在しないのだけれど。

>>>

 僕自身は、かなり下向きで内向きな人間である。
 性格も下向きで内向きの傾向が強いし、そういう人間は ── あるいは僕だけかもしれないが ── 組織でも同様に内向きで下を指向する。
 掘削作業に向くのかもしれないが、あいにく身体が弱いため、そういう仕事を経験する機会には恵まれなかった。
 幸い接客や営業をさせると、能力を発揮した(個人的な意見を述べるなら、コミュニケーション能力を適切に発揮できるなら、誰でもできると思う)。
 僕は、末端にいるときちんと動作できたのである(それでも身体をよく壊すが)。

 事ほど左様、僕は組織の中では、せいぜい小枝タイプなのだろうと想像する。
 大きな組織の、ましてその中心にあって、雑多な枝葉を組成して制御するなんて、考えるだけでぐったりする。
 小さな組織であれば主枝くらいの役目を果たせそうだ(実際、果たしたと思う)が、僕より有能な者はいくらでもいると当時から思っていた。
 あるいは樹木ならば根のような、つまりは目立たない仕事をするのに向いていただろう。
 実際、僕は人目につかず、自分の目論見を完成させるのが得意だった。
 悪事によらず、善事によらず、誰かに見せるために仕事をしなかったので、目的を設定することも手段を選ぶことも自分の能力に合わせて最適化した。
 そもそも仕事を提供するお客様に対して適切(あるいはそれ以上)の満足を誘導(あるいは提供)できれば、それは成功なのだから。

 組織がオープンになろうとして、言葉面ばかりの透明化を図ろうとすればするほど、個人的には仕事がつまらなくなった。
 仕事をするための、あるいは仕事をしていることを確認してもらったり共有したり公表したり「見える化」するための、余計な作業が無意味に思えて大嫌いだからだ。
 そもそも組織というのは、オープンな存在ではない。
 木はオープンか。そんなことはあるまい。風通しがいいことと、開放されていることはイコールではない。
 木は透明か。そんなことはあるまい。不透明で影を落とす存在だからこそ、陽を受け育つのではないのか。
 さらにいえば、見えない根を深く張り、局所的なアンバランスに対応できるだけの芯を維持するのが組織というものだろう。

 オープンになって骨格が脆弱になり、透明になって存在が希薄化し、私利私欲と過剰な自意識を持つ分子が根を張ることを忘れ倒壊させるのだとすれば、魅力的な組織は本当に減ったのかもしれない。
 それでも人は、社会的な指向をもったイキモノで、集団を形成するはずだ。
 その設計を、遺伝子を、いつも最適化できるならば、全体で共有できるなら、それが重要なのではないかと思う。

 切り分けられて接合されて、虫が湧いて病に罹って、枝をほとんど落とされた裏庭の木。

 人の欲にカタチを与えると、だいたい醜くなるのだろうか。

 そんなはずはあるまい。カタチを与えて醜くなるのは、その欲が、そもそも醜かっただけだ。欲の全てが醜いとは限らない。

>>>

 そういえば僕の尊敬する経営者は、どういうわけか植物を育てている人が多かった。
 あるいは彼らも、言葉にするでもなくそんな概念に遊んだのだろうか。

 切り落とした枝を運びながら、そんなことを思う。
 集団という集団から隔絶されたような場所に僕は自分を運んだので、集団の特性を分析することにもはや意味はないのだけれど。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

  :BlueCat:工場長:黒猫:銀猫:

[InterMethod]

  :Algorithm:Diary:Ecology:Form:Kidding:Life:Link:Mechanics:Recollect:

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  :Condencer:Convertor:Reactor:Transistor:

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  :Garden:Human:

// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

:家庭菜園ティストの狂気:夢見の猫の額の奥に:




//EOF

 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2021-04-20>
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
心という装置。
SUBTITLE:

~ Mind device. ~

Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 先日、ふと思いついた。
 心理学などでは一般的な概念なのかもしれないが、僕には学がないので分からない。

 心というのは、ストレスに反射する装置なのではないかと思ったのだ。
  ── ちなみにここでいうストレスとは、主観における外部からの刺激全般を指し、一般に使われる「特に精神において過度の負担となる刺激や状況」を含みはするがそれに限定されない。

 人間がいる。
 通常、それは自我を持ち、必然に自己と他者の境界を認識する。
 たとえば自分がいる。皮膚がある。その先は、自分ではない。
 だから急におなかが痛くなったとか、急におなかが空いたとか、そういった事象を除けば、だいたいの刺激は自分ではない、その外部からやってくる。
 その刺激が、心地よいものであったとしても、緊張や不安に満ちたものであったとしても。
 あるいは往々にして、我々は外部の刺激によってしか、心地よさや安心、緊張や不安を感じないのかもしれない。
 内部からの刺激だけで、そうした感情を持ちうることは(普段から座禅でも組んでいなければ)容易なことではないだろう。

  ── 少々余談になるが、座禅というのは刺激を平準化する行為である。
 人間は刺激に慣れる。嗅覚においてそれが顕著であるが、それ以外についてもそうである。
 すべての感覚の圧に人間は慣れ、より強い刺激でないと認識できないようになる。
 座禅というのはそれをフラットに、リセットする効果を持つ。もちろん、それが主目的ではないだろうけれど。

 動物にとって、安心や緊張は、死活問題である。
 死活問題を的確にかつ素早く認識するシステムが、生物的優位に繋がることは間違いない。
 とくに緊張や不安や恐怖については、より速く、より強く感じられる個体や種族に結果的に高い生存性がもたらされることに不自然さは感じない。
 それが生命に標準的に備わった反射装置であり、その装置が鈍く、弱いものは生存不適応で淘汰されるのは必然だ。
 安心や心地よさなど、たまたま危機の対極に置かれた幻影に過ぎないだろう。

 集団を形成する種族の中で、その機能は高度化され、複雑化する。
 感情をベースにしたコミュニケーションは、それぞれの装置間でやりとりされる信号のようなもの。

 では外部からの刺激が低下するとどうなるか。

>>>

 いい被検体がいる。僕だ。
 一ヶ月寝ていても、誰にも怒られない。
 自分を振り回す他人はほぼ存在せず、危害を加える他者を寄せ付けず、将来の不安もたいしてなく(見つかった場合は早速演算を開始するだろう)、さしあたっての緊張状態は(ささやかな体調不良以外に)存在しない。

 外部からの刺激のなさは、安寧な日常を生み出す。安寧な日常を感じられるのは、その低刺激性がゆえだ。
 何も感じず、何の対処も必要としない。
 長期的なこと、抽象的なこと、役に立たないこと、したいことだけを、気ままに実行する時間は気楽で、ときどき愉悦すら感じる。
 そしてその刺激のなさは、コミュニケーションの不要に起因してもいる。
 言葉にする必要がなく、伝える必要がなく、思ったものはそのまま伝わる(対象は自分自身だが)。
「あれをああしてああしよう」といえば、僕には伝わる。まさに以心伝心。

 今日の晩ごはんに何を食べたいか、悩む必要も尋ねる必要もない。
 作ったものを食べる人(僕である)の口に、果たして合うかどうかを確認する必要も尋ねる理由もない。
 自分の中で、言葉を使う必要もなく、それは伝播する。
 だからまるで楽園のように、静かで穏やかな日々が流れる。
「自分が何を感じて、何を考えているか」なんて、どうでも良いことのように思えてくる。
 僕によってもたらされ、僕にだけ与えられるその楽園は、コミュニケーション不要というコミュニケーションは、しかし危険な兆候でもある。

 すなわちそれは自分が何も感じず何も考えないことを暗に許容し、あまつさえ「何も感じず考えないこと」がストレスのない日々の要件であるかのように刷り込まれる。
 結果的にストレスの存在しない個体は、心という装置を劣化させる。
 齢を重ね、心もアタマも凝り固まった人間は柔軟性を失い、その硬化はいつか致命的な形で組織を破壊する。硬化した血管が、生体を傷つけるように。

>>>

 危険や緊張を感覚しない個体は、つまりストレスとなりうる対象(いわゆるストレッサ)を感覚できなくなった個体は、刺激に対する反射能力の低下した個体は、あるとき適切な環境適応ができず、死ぬ。
 白痴は無能だ。白痴化することは生存不適化することである。
 ストレッサが存在しなくなることは、コミュニケーションの欠如を招き、反応の緊急性も、反応する能力も失われる。
(メールの返信が3週間後になる僕のような個体は、往々にして集団では忌避される運命にある。集団適正として、反応は早いほうが「よいもの」として扱われ、即時性はコミュニケーションを劇的に進化させるという幻想さえ生んだ。まぁ、結果は見ての通りだけれど)

 ストレッサが存在することは、すなわち生存適性を促す。
 緊張によって環境適応能力は維持され、その緊急性はそのままその個体の能力開発を後押しするだろう。
 人間は、高度な環境を構築する能力を持っているが、それは最終的に滅びの道に繋がってもいる。
 特定の集団に都合のいい高度な環境が構築され、それが高度な快適さをその集団に提供すればするほど、集団の中で弱者は搾取され、やがて全体は弱体化し、搾取する対象さえなくなり種は滅びの道を歩む。
 別に政治の話はしていない。メカニズムの話である。

 ストレッサの反射装置として機能する(あるいはその機能に対して名付けられた)「心」は、それを持つ個体にとって都合良く環境が整備されるにつれ、その機能を低下させる。
(重ね重ね、政治や政治家の話はしていない)
 心はやがて、個体にとってその機能を失うだろう。

 他者は都合の良い道具になり、欺瞞というオイルに潤滑され、経済という燃料で駆動する。そこに心は必要ない。
 弱者は都合の良い道具であり、欺瞞というオイルに潤滑され、経済という燃料で駆動する。そこに心は必要ない。
 人間は、そういうシステムを構築しました。

 なればこそ。
 新しいメカニズムは、どうでしょう。
 旧来のシステムをそのままに、硬化するシステムに代替する新しいメカニズムは。

 人間はもう、旧来の人間ではなくなってしまったのだから。
 心に替わる、新しい装置は。
 あるいは現行のシステムに替わる、心の必要な環境は。

 どうでしょう。
 誰がそれを可能にしますか。
 誰がその一歩を踏み出しますか。
 私ですかそうですか。
 あなたですかそうですか。


<わしゃもうダメじゃ>








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

  :BlueCat:工場長:

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[Cat-Ego-Lies]

  :ひとになったゆめをみる:





//EOF

 

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// TimeLine:<2021-04-19>
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
熱が下がらないと気を遣う。そういう社会だ。

Written by BlueCat


// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 5週目。
 微熱は続いて36.8。
 もうこれが平熱ってことでいいんじゃないかな。
 ただ咳がまだ出る。21〜23時がひどいだろうか。
 今週こそは再検査のために病院に行くぞ。行きたい。行ければ。行くかなぁ?

 昨日から急激に食欲が減衰した。
 3、4週目の食欲の増進が圧倒的だったため、急に何も食べたくなくなった感覚である。
 まったく何も食べたくないし、お酒を飲む気もしない。(喉の調子が戻らないので煙草はひと月吸っていない)
 まったく。恋する乙女か。
 しかし、多分これが通常なのだろう。この2週間が特殊だったといっていい。

 とはいえ強い食欲に突き動かされ、きちんとした満腹感によって食事を終え、適切に摂食吸収排泄のサイクルができあがっていた時期は終わりを告げた。
 僕の身体は以前同様、空腹も満腹も、注意深く観察しないとそこに認められない。
 顕微鏡でないと見つからないマイクロレベルの存在だと考えてもいい。いや、もう少し大きいはず。

 とはいえ食欲が減衰して、驚いている。こんなに空腹を感じないものか。
 昨日は昼食を食べて、カフェオレを(お椀サイズの)マグカップで2杯飲んで、少しお酒を飲んで、あとは白湯を飲んでいた。
 白湯の量は4L。なるほど、水なら飲むのか。

 しかし朝、身体が少し痺れていた。栄養失調の前兆。
 まぁ以前のように注意深く観察し、なんとなく食べたい気になりそうなものを適当に作ったり買ったりして食べるよりないだろう。
 栄養失調は後が怖い。未然に防ぐのがベストだ。

>>>

 エディタに困っている。
 ずいぶん長いこと、Evernoteが使い物にならない。アプリケーション版も、Web版もだ。
(ために、内部表現が少し変わっている)
 ではAppleデフォルトのワープロソフトが使いやすいかというとそういうことはない。
 区切り線が引けないし、ページ単位でのビューしかない。エディタ機能が貧弱だ。
 地味に流行りらしいMarkdown方式のエディタも試したが、あんなものはHTMLやらに慣れ親しんだ人間のためのものだろう。
 インラインコマンドで書式設定できるのは便利かもしれないが、改行が不便で、右寄せ左寄せも不便。
 エディタ側はよしとしても、出力側のフォント指定はHTMLで指定する必要がある。
 コマンドの関係で禁則文字が拡張されているから、使えない文字列が存在する。
 マークアップだろうがマークダウンだろうがマークパンサーだろうが、使いにくいものは使いにくい。

 仕方なし、Nebulaという外部アプリを使い続けてはいるが、これがまた、右寄せ左寄せにもフォント指定にも対応していないエディタなのだ。
 肌にも合わず、気分の盛り上がるわけでもない道具は、どうも好きになれない。
 おそらく僕は、道具にうるさい面倒なオトコだから、このあたりは仕方ない。
 空腹をろくに感じないのと同じ、体質のようなものだ。

>>>

 コロナ疲れ、というものがあるらしい。なんだろう。
 寂しさ病、みたいなものだろうか。
 実際に「自分がコロナウイルスに感染しているかもしれない」と疑い始めて2週間ほど経つが、誰かに会うことが2度とできない可能性を考えて少し戸惑う。

 そもそも馴染みの飲食店に行くことはできない。
 妹やその家族と会うことも控えなくてはならない。一緒に食事に出かけるなんて不可能だ。
 今後、人間の恋人が増えるような事態が発生した場合も、ちょっと大変だ。

 たまたま僕は、ほとんど誰にも接点がなく(猫以外に)一緒に暮らす家族もいなければ、毎日足繁く通う職場もない。
 週に何度かぱやぱやしにくる恋人もいないし、月に何度か一緒に出かけたり、共通の趣味をするような友人もいない。
 ひと月ほどを考える。
 ここに来たのは、PCR検査キットを届けに来たTUと、奪うようにして譲り受けた猫を放り出すことにした知り合い、銀行の渉外係が2回で、計4回。

 ただ。
 それでも今後、誰かと一緒に居ることが困難になり、外食もできなくなると考えると、それは少々、悲しいことではある。
 とはいえ僕は寂しいことや悲しいことが嫌いではない。
 では僕以外は?

 寂しいことが苦手な人は多いだろう。悲しいことが嫌いな人も多いだろう。(僕は不安も嫌いではないのだが)
 社会は賑やかで、楽しくて、嬉しい場所を目指して進んでゆくし、そうあるべきだと思わないでもない。
 そう考えればコロナウイルスという目に見えないものに怯え、さまざまな行動を自粛し、また自身の活動を(行動もしかり、経済もしかり)自身の意思に関係なく制限され、それに終わりが見えないともなれば相応に、不安や恐怖や寂しさは底の見えない闇だろう。自身の心に開く穴は、どこまでも自分を飲み込むだろう。

 それらはストレスになり、終わりなく人の心を苛むのか。
 それに疲れて、いったい人は、どこに癒やしを見いだすのだろう。(僕は自分が一番の癒やしだが)(←ぼっちアピールか)
 しかし個人の力で、それは解決しない。

 寂しさというのが病気なら、それを自分だけで治すのは、なかなかどうしてむつかしいだろう。
 病気が起こす社会の寂しさは、ならばどうすれば治せるのか。

 人々は、社会は、寂しさを嫌い、悲しみを嫌う。孤独を嫌う孤独な集団が強要された孤独。
 なるほど疲れる。

 それはたとえば僕のように孤独を好む個体が、かつての「孤独を悪とする」社会で、孤独でないことを強要され続けた疲れに似ているのだろう。

>>>

 嗚呼。ネコノカミサマ。
 僕ひとりならなんとでもなるこの世の中は、誰かの呪いによってかつてのそれから姿を変えたのでしょうか。

 ええ。
 一人だけ知っているんです。こんな世の中を望みそうなイキモノを。
 いやそんなまさか。
 僕も困ってはいるのです。

<悪魔にタマシイを売ったんだろ? 今さら引き返せるか>

>>>

 そういえば。
 暇なのでキャットタワーを納屋で自作しながら過去の記憶を漁っていたのだが。
 僕はかつて、ガールについてロングヘアのほうがいい、断然だ! という価値観の持ち主であった。
(Webにも紙にも記録は残っていないが、一時期の日記にそれが記録された記憶がある。ちなみにペーパメディアの日記は諸般の事情によりすべて捨てたので証拠はない)
 そしてなおかつ14歳のある夜、僕は突如としてショートヘアの方がいい、という価値観へシフトした。たった一晩でだ。
 14年間(知能を持ってからだいたい2年間)あたためてきたロングヘア信奉は一晩で崩壊した。まるで巨大帝国が予期しなかった敵に打ち倒されるように。

 当時(生まれついた環境から女性慣れしていたが)当然、恋人もいなかった僕は、ガールとベッドにインした際のあれやこれやを机上で想定し、ベッドの上で髪の毛を踏む可能性についてを危惧するに至った。
 これはたとえば建築作業現場で、雨天下の足場に鉄板が敷かれているときゴムの長靴の摩擦係数がどのように転倒の危険に影響するかを予測することに等しい。
 たまたまそれが、ベッドの上の想定であり、雨天に関係なく人間の関係であり、災害の規模が「髪を踏まれる」程度のことなだけである。
 しかしながら、ありとあらゆる災害の可能性を網羅し、その危険性を低減させることは、間違った姿勢ではない。
 未経験だからといって嗤えるだろうか。起きてからの対策では手遅れになる災害だってこの宇宙には存在している。
 未然に防ぐためのシミュレートはいつだって必要で、そのためには「おそらくないであろう」危険についても想定を広げてゆくことが、予防のセオリィではないだろうか。

 そして僕は「ロングヘアは腕枕その他諸々に前後する男女の密接な状況下において、髪を踏みつける可能性がショートヘアのそれより高い」という理由により、ロングヘアがショートヘアに劣るという結論を導いた。
 どれほどそれがいわゆるフェミニンで、あるいは魅力的に思えて、もしくは個人的嗜好に合っていても。

 そのようなわけで、僕は初めて恋人ができる数年前に、急遽、ロングヘア信奉からショートヘア信奉に鞍替えした。
 そしてそれは最初の恋人の家が美容室であったため、洗髪の手伝いをして確固たるものになる。
 ロングヘアで得をするのは、それで得をすると勘違いしている人間と、そこに幻想を抱いている人間、そして美容師をはじめとしたヘアケア業界だけである。

 自然災害に遭ったら、とりあえずみんな坊主にしてもいいんじゃないかな。
 僕は時々、すごく斬新に合理を導き出す。


 キャットタワーを作りながらその記憶が突如甦り、僕は思った。

「やっぱ14歳のオレ、天才だわ」


 僕は今、彼の背中を必死に追ってなお、もう追いつけないかもしれないと感じている。









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[NEXUS]

~ Junction Box ~

// —— >>* Tag Division *<< //
[Engineer]

  :BlueCat:

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  :Memory:Poison:Tool:

// —— >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

  :暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:






//EOF

 

210414

 

 春だ。日差しだ。発熱だ。

 

 春が来た。

 僕の大嫌いな、生命の躍動する、春だ。

 
 植物は盛大に花粉をまき散らし、僕の皮膚粘膜を荒らす。
 昆虫は勢い活気づき、ときに家の中を徘徊し、猫に弄ばれる。
 
 静寂の、優しく静かな冬とは、またしばらくお別れだ。
 少し寂しいけれど、彼女は移り気なので仕方ない。
 放っておけば帰ってくるぶん、まぁ、はるかにましというか、素晴らしいことなのだそれは。
 
>>>

 

「けい○ん!」とある「○」に、貴方なら何を当てはめるだろう。

「お」と答えたあなたはアニメ好きだ。しかもちょっと古い(笑)。

「ふ」と答えた貴方は、農業ボーイ/園芸ガールに違いない。

 

「けいふん」すなわち鶏の糞だ。これが安い。

 15kgで120円ほどだ。1kgで8円ほどである。

 100gではなく、1,000gで8円だ。これは安い。

 ただし農業/園芸に興味のない人には、何の役にも立たない。

 

>>>

 

 咳の止まない身体をジャンプスーツに押し込めて、タオルやゴーグルや防塵マスクで頭部を保護し、長靴を履いて出かける先は、玄関から十数歩の納屋である。

「屋外用薪ストーブ」から昨日の灰を掻き出して、新たな薪を組み上げる。

 組み上げる、というのは、ただ放り込んで火を付ければ燃えるものではないからだ。そこにはセオリィがあり、順序があり、摂理がある。

 

 抜いたいわゆる雑草はもちろん、下ろした枝も、幹から切り倒した一部の庭木も放置して乾燥させている。だから燃料は潤沢だ。

 ストーブの炎が安定したら、先ほど集めた灰を庭の穴に埋める。

 そうだ。抽象的、概念的な「裏庭の穴」を僕は持っている。これは固有の能力と呼んでも構わないのだが、こっちはちがう。具象の、現実的な、庭の穴である。

 そこには切り倒された木の切り株があり、その根を掘り起こ(そうとして途中で飽きて放り出)している跡があり、そして畑として利用すべく土を掘り返されているエリアがある。

 すなわちこれ開墾行為。

 

 畑として用意された土壌を、畑として使うことの利便を僕は知らない。

 そこは放置された植樹の残る庭の花壇であり、木の根が巡り、石が放置され、土は硬く、木々の一部は手入れがされなかったため病虫害に冒されている。

 2月の頃に、裏庭のお稲荷様の両脇を固める木の一方を、ほぼ丸裸にした。

 枝が混んで虫が湧き、病に罹っていたためだ。

 

 二股になった ── あるいは人工的にそうさせた ── 幹を、上部で人工的に一本に継いでいるため、その股の部分が影になる。

 ここに虫が付きやすく、継ぎ方が悪かったのか、その後の手入れが悪かったのか、部分的に樹皮が剥げて、むき出しになった幹が部分的に枯死したり、虚ができてそこに虫が住み着いたりしている。

 定期的に枝が下ろされていれば、通気と日差しと鳥によって、虫は減るのだが、長らく放置されていたそれは、もはや祟られた木にさえ見えた。

 

 その大量の枝を下ろしてひと月ほどで、他の木に、その虫たちが寄生しているのを確認し、次々枝を下ろすことになった。

 2年ほど前から気にかけていた椿の木の一本は、病に冒されてるのか寿命なのか、生育が非常に悪いので、根元から切り倒した。

 株が小さかったうちはよいのだろうけれど、もはや庭に育った木の多くはひとつひとつが大きくなり、過密になって手を入れにくい部分もある。

 ために部分的に間引くように手を入れている。

 

>>>

 

 耕運機が欲しいのだ。

 しかしこの数ヶ月、僕は自由になるお金に乏しい。

 昨年に基礎と屋根に補強修繕を入れた代金を、分割で払い続けている。

 毎月およそ300k円。春先は確定申告などもあって、出費が多かった。

 無職であると言っているが、収入ありきで生活しているので、出費が多いと遊ぶお金はなくなる。

 

 ために耕運機は買えず、鍬で耕しているわけである。

 ちなみに耕運機はおよそ80k円前後でエンジン式のものが買える。

 

 最近、TVゲームに面白みを感じなくなったのは、庭での作業の方が、危険も恐怖も大きいからだと気づいた。

 木を切るにも、風向きや刃の入れ方に注意し、幹を倒すときは倒れる方向まで考える必要がある。

 数々の虫たちは、虫嫌いの僕にとって、ほとんどは恐怖の対象だ。

 しかし恐怖を感じるシステムにもいい加減ほころびが生じているらしく、その恐怖ごと、虫を眺めていたりする。

 子供の頃から、恐怖に対して僕は悲鳴を上げたり逃げたりすることがない。

 ただぼうっと、恐怖し続ける。

 

>>>

 

 子供の頃といえば、友達と川に遊びに行ったことがある。

 子供には少々深くて、広い川だった。

 友達の1人が流されてしまったのだけれど、僕は呆然とそれを眺めていたため、あとで別の友達にたしなめられた。

(最終的に、流された友達は、同行していた友達によって助けられた。)

 

 僕は子供の頃から、瞬発力に欠けるようだ。

 頭の回転もそうだし、身体の反応も、感情も、短時間の変化に、素早く対応することができない。

 

 たとえば皮膚を擦り剥く。

 かなり激しい痛みを感じるのだけれど、僕は呆然としてしまう。

 どうすればいいのか、瞬時には分からない。

 だからじいっと、その痛みを痛む。

 あふれる血や、ざらざらと荒れ傷ついた表皮を呆然と眺めて、対処法をぼんやり考える。

 水でよく流してから石けんで綺麗に洗うと、すぐに痛みが引き、治りも早く化膿しないことを、ある時期から僕は覚えた。

 

 だから恐怖も同様、僕はぼうっと恐怖し続ける。

 悲鳴を上げることは少ないし、まして瞬発的に逃げ出したり、立ち向かったりはできない。そんな気力はないし、身体に反応させることもできない。

 それは知らない人からすると、ちょっとした豪気に見えるのかもしれない。

 

 しかし事実は異なる。

 僕は虫ひとつにも、激しく恐怖している。

 そして悲鳴を上げることもできず、ただただ身体を硬直させて、恐怖している。

 

 まるでこの心も身体も、たまたま与えられた使い慣れない道具のように。

 

>>>

 

 庭を開墾していて思うのだ。

 枝を下ろし、幹を切り、根を鍬でたたき切りながら思うのだ。

 いわゆる雑草たちを抜き、その根元で慌てふためく微細な昆虫を眺めて思うのだ。

 人間のエゴは、こうもはた迷惑なものなのかと。

 

 もちろん枝の剪定をすることで、木は枝が過密になることがなくなり、より生育しやすいようになる。

 いわゆる雑草たちを取り除けば、代わりに自生している名前も知らない可憐な花を咲かせる草(まぁ、名前を知らない時点で雑草といえば雑草だ)がそこに居着く。

 木がなくなり、土を耕し、土壌環境を整備すれば、作物も含め、新しい生態系がそこに生まれる。

 

 しかしそれは結局、僕のエゴの発露ではある。

 自分が生きるためという言い訳のもとに、どれくらい育てて、どれくらい殺すのだろうかと、そのひとつひとつ、昔からこの先までを考えると途方に暮れる。

 僕ひとりでそうなのに、この世界にはたくさんの人間がいて、オーバーフロウする。

 もちろん、草木や昆虫にもエゴがある。

 だからそうしたエゴの一つ一つを気に病んだり、その数の多さに圧倒されている場合ではないのだろう。

 自分のエゴを、脇目も振らず発露するのが本来のありようなのだろう。

 エゴとはすなわち、生きる力のことではないか。

 まぁ、それが僕にはかなり乏しいのだろうけれど。

 

 乏しいからこそ、眩しいほど発露されているそれらに、僕は目眩する。

 

 春が来た。

 僕の大嫌いな、生命が躍動する、春だ。

 

 鶏糞やら、卵殻粉末やら、草木の灰やらを、庭の土に混ぜるため、鍬を振るいながら思う。

 危険も恐怖も大きく、カタチとして得られるものは決して多くはない。

(昨年など、ブロッコリィとニンニクは全滅し、ナスはひと株不成りで、トマトの生育は悪く、パプリカは枯れ、オクラも聞いていたほどは成らなかった)

 

 ゲームは勝ちが約束されていて、だから、安心できる箱庭だった。

 ヴァーチャルから少し離れる気になったのは、もう、何もかもがどうでもよくなったからなのかもしれない。

 

3週間目が終わった。

日曜が起算日なので分かりやすい。


1週目は体温が38.5〜39.5。

2週目は37.5〜38.0、突発的に39.0。

3週目になって36.5〜37.0の微熱になった。


僕の身体は38℃くらいから、平衡感覚が狂い、筋肉が力を出しにくくなるため、歩行や運転をするのは危険になる。

通常、消化器系の機能も低下するので、1〜2週は液体食が主流だったが、3週目からやたらと食欲が出てきたので、基礎体力を取り戻すための簡単な運動を屋内でしつつ、玄米と高タンパク食を摂る。

庭仕事も再開した。


県のコロナ相談センターには1週目で電話をしたが、2週目は外出間際に高熱になったりして寝たきりで、結局病院には行けなかった。

3週目の水曜、ようやく医者に掛かる。

PCR検査は、町医者なりに厳重な対応だった。ちなみに検査結果は陰性。

すでに回復期であるからと、けっこう投げやりな対応をされる。


遡って2週目の週末、TUが市販のPCR検査キットを買って持ってきてくれる。

かなり距離を取りながら、逃げるように(半分演技だ)帰っていった。

その結果は3週目の金曜の夜にメールで届いたのだが「リスク高」とある。


1週目はインフルエンザのような腰部の筋肉の痛みや、気管支炎、肺炎のような横隔膜や喉の奥に痛みを感じたが、もともと喉が弱く、簡単な風邪でも喉の奥から絞り出すような重い咳が出るので咳そのものは自覚的所見としてアテにしていない。


消化器系にダメージがなかったのは幸いだが、とても珍しいといえる。

高熱時、消化機能がひどく低下して、嘔吐や下痢になるのがこの身体では通例だ。

今回は3週目から(それまでの消費カロリィを取り戻すように)炭水化物を主食としたかなりの量の食事を要求されている。

(ごはんを炊くのも久しぶりだし、普段、ほとんど食欲を感覚しないので、これにも驚いた)


体温は今朝の段階でも36.8。

もはやこれが平熱ではないのか。

(咳が出るし喉に違和感があるので、たぶん違う)

買い物や見舞いや通院介助を申し出た妹を徹底して拒否し、TUと預けた猫を返しに来た友人にそれぞれ数分、会ったくらいか。

3週目からは買い物にも出かけた。


実は陽性だったとなれば「陽性たちが胸を刺激」することのないように、生活を改めなければならないだろう。

もっとも、自宅にいるのが僕には1番の隔離状態であるが。


4週目、再度別の病院で検査を受ける必要があるだろう。


>>>


2週間寝ていて、気がついたことがある。

他人の具合が悪くても、とりあえず自分の用件ばかり話したり伝えてくる人間がいる。

そう言う人間は、合間で思い出したようにこちらの具合を訊ねてくるが、それは心配としてはかなり下品に感じる。


またTUのように、自分にできることを勝手に考えて、自身でリスクマネジメントして援助してくれる人もいるし、妹のように「頼まれたら何でもする」というスタンスの人もいる。

こうした人たちは、品がどうこうというより、とても心強く、ありがたいものだと感じる。


>>>


僕はブログなどでは饒舌だろう(僕が沈黙していると、そもそも更新されないわけだ)が、実生活ではほとんど何も語らない。

たとえば僕が叔母に何をされたから死後も憎んでいるかなんて話は、ほとんど誰も知らない。

見せていないし、説明する必要も感じない。


誰かにとって(あるいは世間一般にとって)何らかの意味や価値があって、一方、自分にとっての意味や価値が異なることなんていくらでもある。

僕は自分の価値観をとてもひいきにするイキモノである。

だから僕以外の誰でも、同じように自分の価値観を大事にひいきしているし、したいだろうと考える。


するとよほどの意味がない限り、僕に固有の価値観を基準にした反論なんて、効果をなさないと結論できる。

その固有の価値観は、僕が持っていて、判断の根拠にして、行動するときにだけ意味や価値を発揮する。


僕の価値観が、読者にミーム汚染を起こすことも考えて、だからなるべく目立たないようにはしているし、たとえ気持ちは嬉しくても、僕の意見や感覚に賛同してくれた人に安易に同意して一意的な場を作りたくないと考え、思ってもいないアンチテーゼをしたりしてコミュニケーションがギクシャクしたりしてしまう。

ブログやそのコメントでもこの有様だから、実生活での僕が、ほぼほぼ独りで生活できるのも道理というものだろう。


他人が不要だとは(今でこそ)思っていないが、関わる人間が多いことが有利だと個人的に感じるのは、綱引きと、公園の清掃ぐらいだろうか。

綱引きの場合は対戦相手も「関わる人間」な訳で、やはりそういうのはいない方がいい。面倒だ。


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身体が大きいので偉丈夫に錯覚されがちだけれど、やはりこの身体はとても弱い。

他の同世代の男性は、まだまだこれから! という熱意があるし、基礎的な体力や抵抗力が違うと子供の頃から感じてきた。


数年前も、突然の発熱ののち、消化器系が2ヶ月ほども使えない時期があった(あのときも原因不明のまま、医者に行くことすらできなかった)が、肉体的な生命力が、そもそも、弱いのだろう。


筋肉も、多少は発達しているが、僕の身体は昔から同程度の体格の人より遥かに出力が低い。

やはり子供の頃からケガをして、とんでもなく痛く感じる上、なかなか治らない体質のため、無意識にいつも力をセーブしているのだ。


これが筋トレをしても筋肉が付かなかった原因だろう。僕はこの身体で、うまく力を使う術を知らないまま死ぬことになるが、それが摂理だろう。


>>>


ケガについては、肌や骨が子供の頃に比べれば頑丈になったから耐性がついたが、もともと低い免疫力は下がり続けている。

今回もしも陽性であったなら、既往症が血管や血液に作用するのだから、何らかの重篤な症状が突然訪れることもあるだろう。

もっとも、それとて子供の頃から予期してきたことだ。


仕損じていることを、早く完了させたいものだと、心から思うが、やはり他人が関わっていて滞っているわけで……。




<最近ヒマだから、世界を滅ぼそうと思うんだ>



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// TimeLine: <2021-03-21>
// NOTE:

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TITLE:

天才肌の撫で心地。

SUBTITLE:

~ The Lemmings. ~

Written by BlueCat


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::「過去は変えられない」なんて言う奴が君のまわりにもいるだろう。
 しかしそんなことはないはずだ。よく考察してほしい。
 何一つ変えることができないのは、過去ではなく現在だ。僕たちはこの瞬間、何一つ変えることができないまま、今を流されている。
 自分で何かを選択しているだなんて、とんだ思い違いだ。僕らはだいたい惰性で流されている現状に言い訳を繰り返しているだけさ。

 一方で、過去の意味なんてコロコロ変わる。
「昔は良かった」なんて懐古調に語ってる奴なんかはてきめんにどうかしている。控えめに表現してもアタマがオカシイと思うよ。実際にその時代に行って検証してやりたいくらいさ。まず間違いなくそいつらはその頃 ── つまりは昔 ── から自身の置かれた現状に対して文句を並べるくらいしかしていなかったはずだ。「今が一番素晴らしい」なんて思っていようものか。そもそも現状に対する不満を並べる指向性を持っている個体だからこそ過去を振り返って「昔は良かった」なんて絵空事のように美化できるんだ、あるいは「未来は可能性に満ちている」とかね。

 そこに居ない人間が、そこに居ない奴を相手にホラを吹くのは勝手だよ。
 ただ、みんなよく考えるべきだとは思うんだ。
 現在は変えられないし、過去はその意味を変える。
 これは批判ではなくて事実だ。そして非難ではなくて価値の承認だ。
 過去が意味を変えれば、そして現在が不変であればこそ、未来はその位置を変えるんだ。

 

 

 


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//[Body]
 0321。
 バイト先からの帰宅中、体調に変異を感じ帰宅後検温(まともな体温計がないので、24時間営業の薬局まで走る)。
 体温はおよそ38℃。
 子供の頃は、発熱していても肉体機能にほとんど影響しなかったが、30代くらいから運動機能に直接影響を与えるようになった。
 平衡感覚の乱れと、筋肉に力を込めることが困難で、運転や歩行に支障を来す。

 春先は体調を崩す。ために僕は春を警戒し、嫌いさえする。
 連日の花粉により粘膜は荒れ、その上ワークアウトを行ったりして筋肉痛が重なった。
 リンパ節付近の筋肉が筋肉痛を起こしていると(考えてみればあれも炎症なので)免疫系が疲弊するようだ。
 40を過ぎたのに、肌は花粉や汗にも過敏で不調になりやすいし、筋肉痛と花粉症が重なっただけで風邪(だろうと思う)に罹る。
 しかしこの身体しか僕は持っていないので、仕方ない。
 玄米きのこ粥など作って食し眠るが、粘膜の腫れがひどく、朝まで呼吸が困難だった

【隔絶なる孤高】
 天才肌である。
 誰がって。僕が。である。
 いいさ。笑え、笑えよ。

 ネタだと思おうと、冗句だと思おうと構わない。
 しかし最近(正確には昨日の夜のお風呂で)思いついたのだ。
 一定以上の客観性をもって僕という存在を観察した場合、これはなかなかどうして天才のように観察される、つまりは天才肌なのではないのかと。
 もちろん僕は、僕の内容物を知っているし、僕の主観による僕の風合いも心得ている。

 僕は、ときどき少し神経質な、ちょっとした奇人のフリをする凡人である。少なくとも天才ではない。
 コンピュータのごとき記憶力もないし、コンピュータのような計算力もないし、コンピュータのような認識力もないし、コンピュータのような処理力もないし、コンピュータのような信頼性はない。ついでに肉体能力などは子供の頃からひどく劣っている。
 天才に特有の、圧倒的な思考の飛躍力もない。
 アタマの中身において、速くもなければ遠くにも行けず、何を残すわけでもない。
 肉体も同様、速くもなければ遠くにも行けず、何を残す気もない(そもそも死ぬ気満々である)。

 もちろんこれまでの人生(僕の生涯の2/3は終わっている)で「天才」と評される ── 揶揄されていたのではなかったと思いたい ── ことはたびたびあった。
 しかしそれらの評者はいずれも身近な人間だ。
 一部の恋人や友人、知人が勝手に僕を天才だと表しているだけで、はたしてそれが本心である保証はないし、もとより僕の内容物やその収容物、それらの示す性能が、天の与えた優れた能力をして、他を圧倒する結果を現実世界にもたらしたことなど、一度もない。
 多分、ない。
 きっとないんじゃないかな。
 なかったと思うんだけど、そもそも記憶にない。

 結果、僕の主観に残る僕というのは、少々神経質(あるいは過敏症、もしくはナルシスト)で、凡人以下の能力しか持たず ── そもそも僕は、子供の頃から現在に至るまで、誰かと競うことから極力逃げ続けてきたので、なべて等しく多くの人たちの平均的能力を知っているわけではないけれど、周囲をざっと観察した範囲で「負けてるんだろうな」とは思う。自分の誕生日すら忘れるし ── 、格別秀でた才を与えられた覚えもないし、持っている感じもしない。

 目が覚めたら体じゅうから力がみなぎってもはや無敵だ、なんて経験は一度もない。
 軽いつもりで何かをしたら、それがとんでもない作用をもたらしてみんなの役に立ったこともない。
 どちらかといえば子供の頃から非力で、かといって手先は不器用だ。
 力仕事に充てれば達成できずにケガをするし、細かい作業に充てれば雑な結果が待っている。
 肉体的な速度に比例して仕事も速いわけでもない。これはひいき目の表現をしている ── つまりは遅い。

 比較対象の存在するすべての能力、作業において、僕は抜きん出た成績を残さない。残せない。
 それを本能的に察知したのだろうか、僕は子供の頃から競争を嫌った。
 いいやそんな天才的なエピソードなんてあるものか、子供たちの他愛ない遊びにおける競争で、僕は負け続けたのだ。
 走れば一番に遅く、砂山を作らせればもろく、トンネルは繋がらず、塗り絵ははみ出し、積み木は倒れ、工作をすれば指を切り、喧嘩をすれば絶対に負けた。妹にすら勝てたことがなかった。
 しかしどういうわけか、僕の性格そのものは人好きのするものであったらしく、あからさまに邪険にされることはなかった。

 あるいは負け役もときに必要ということだろうか。

 それでも次第に、一緒に遊ぶ、という輪からは外れていった。
 彼ら彼女たちが、なんとなく外していったのかもしれないし、あるいは僕自身が距離を取るようになったのかもしれないし、その両方が作用したのかもしれない。

 とはいえ、どういうわけか僕は自分が面白いと感じることには敏感で、いつも自分だけの遊びを考えていた。
 きっとみんなそうだと思っていた。
 みんな自分が面白いと思うことを探して、その結果が他の人と共通だったり、あるいは他の人がいないとならないもの(競争やチームでプレイするもの)だったりした、その結果としてそうしているのだと。

>>>

 今は思う。
 多くの人は、群れることを標準に生きてきたのだ。そのように育てられたのだ。
「言うことを聞かなければ仲間として相手をしない」と親から、友人から、兄弟姉妹から、コミュニティから脅され、それに怯えて生きてきたのだ。
 群れないことは、すなわち放逐で、すなわち恐怖だったのだろう。

 僕は姉妹や両親や会社の従業員に囲まれながらも、ひとりで遊ぶこと、人間以外と遊ぶことを好んだ。
 本を読んだり、本を積み木のように遊ぶのが大好きだったし、洗剤や薬品を安全な範囲で使ってひとりで遊ぶこともできた。
 身体が弱かったことも、本を読むこととは相互に適合し、危険に対しての距離と僕の孤独を最適化した。
 だから僕は、就学前から(一部の漢字は既に読めたので)現実世界よりも本の中の世界に埋没していた。溺没していたといってもいい。とにかく地表にいなかった。
 現実世界が地表ならそこではない場所、肉眼で把握しやすい実数とは異なる、虚数世界のような場所に僕はいた。

 多くの人は実数世界で背比べをしている。
 誰がすごいとか、自分が集団の中でどのような位置にいるかをいつも気にしている。

 僕は比べる前からそれを知っていた。
 僕以外が常にすごくて、比較するまでもなく僕は集団の中で群を抜いて勝ち得なかった。
 だから競争などする気にもならなかったし、必要も感じなかったし、皆と同じ土俵に立つなんてまっぴらごめんだった。
 父上も母上も僕を競争させなかったし、姉妹たちは僕と競おうとはしなかった。

 結果的に、僕は浮世離れしてしまった。
「孤高」「達観」「独自の世界」「求道者」
 そんなふうに表現された。
 なぜといって僕は誰に迎合するわけでもなく、だからといって牽制したり対抗心をむき出しにもしなかった。

 他人に興味がないわけではなかったが、他人と自分を比較することに意味を見いだせないままだった。
 そしてなにより、いつも何かを探し、追っていた。
 ために学業やスポーツや芸術に邁進していた、のかというと、まったくそうではない。
 その土俵は広く一般的 ── つまり間口は広くありきたり ── で、そしてどうしても競いたがるユニットがあって、それを煽るギャラリィまでがいた。

 その喧噪を、僕は嫌った。

 勝ちの裏で負けが突き落とされ、好評の陰でけなし言葉が牙を剥く。
 その雑多を嫌った。それが衆寡の理なればこそ、僕は隔絶の位置を保った。

 そして花火を分解して火薬を集め、手投げ弾を作ろうとしたり(ささいな事故により目立たぬ程度の火傷をしたうえ畳を焦がし、失敗に終わった)、庭で焚き火をしてその中で粘土を焼いて土器を作ろうとしたり(黒焦げに崩れた土くれが出来上がった)、昆虫類をあまねく殺す薬剤を作ろうとしたり(強アルカリで皮膚を焼いたり)していた。
 何者も真似をしている気配はなかったし、一緒にしようとするものがいなかった(もちろん僕からは誰にも声を掛けなかった)のは、不幸中の幸いだ。

>>>

 就職しても、徒党を組む連中というのは一定以上にいて、自分たちのルールが常識だと疑うこともない。
「新進気鋭」「新しい感覚で」などと口ではいいながら、同じことをして同じ枠にとどまることを望んでいる。

 これには本当に呆れたものだが、どうやら社会を為す潜在的なメカニズムの方向性としては間違っていないようにも思える。
 すなわちその枠組みは集合知そのものであり、それはおよそ絶対的な引力を持って全体をより安全に、より安定した方向へ導いてゆく。

 まったくもって面白みもなければ冒険も挑戦もない「みんなみんな、おんなじおんなじよ〜」文化へと誘う。
 まさしくそれこそは地獄絵巻の入り口。阿鼻叫喚の幕開け。

 現状に閉塞感を覚えながら、どうして同じことを繰り返そうとするのか。
 愚図どもが同じ轍を強要して、それ以上の結果を出すことを押しつけて、できなければ無能と叩く。

 もちろん、もちろん。
 だからといって面と向かって反抗したりはしない。抗議したりもしない。
 人にはそれぞれ得手不得手があり、それぞれのセオリィやメソッドがあり、哲学や目標があるのだろう。

 対立すれば、絶対に負ける。数的に、あるいは力という点で、競争すれば僕は負けるのだ。
 だから僕は他人をあげつらうのではなく、自身の見るべくを見る。

 結果的に僕は、従順なように見えて協調性に欠け、攻撃的ではないけれど人の言うことをあまり聞かず、自分の興味のあることだけをしているように観察されると思う。

 結果、集団から干され、仲間から外され、陰で嗤われ、表立っては冷笑される。

 彼らにとって、それは多分、一番有効な攻撃なのだろう。

 けれども僕には、単に自分の自由を確認する指標でしかない。


【自由なる孤絶】

 一貫して僕は競争を嫌ってきた。
 競争に勝っても負けても面白いとは感じなかったし、何より多くの競争は、始める前に結果が見えていた。
 競争が好きで、競争をすること、あるいはさせることによって己のアイデンティティを支えているような人間にも興味がなかった。
 いつも他人が邪魔だったと言ってもいいだろう。
 他の誰かの作ったルールで競ったところで、僕に勝ち目はやってこない。

 だから誰も巻き込まないような場所で、自分だけの景色を追っていた。
 こちらのルールで他人に競争を持ちかけるのも同様にアンフェアだから、僕はひとりでそれを愉しんだ。
「人間はひとりでは生きていけない」とか「皆で力を合わせて」とか、そういう感覚が分からないわけではない。

 ただ僕の身体の性質上、食事や睡眠さえも誰かと合わせることは互いにストレスを生む。
 生き方そのものが、そんなふうに、寄せ付けないわけではないけれど無理に迎合することのない潜在的な意思を反映してしまったのだろう。

 なるほど僕は孤高であり、達観しており、独自の世界に生きている。
 少なくともそう観察されるのは納得できる。
 誰かと競えばすぐに負けるのだけれど、それでもなお底知れぬ力を隠しているように思われているのだろう。
 もちろん、そんな実力などない。
 そもそも「競争して勝てる能力」を持つものが「のんびりぼんやり」なんてことを掲げて生きるはずもない。

 ただ僕は、競争が好きな連中を近づけない能力は持っているようだ。
 非常に消極的な能力であるが、烏合に巻き込まれないことはとても大事だと思う。
 ひとたび巨大な集団に巻き込まれてしまえば、自分の意思も能力も見誤って、思った場所にたどり着けないどころか、行きたくもない場所に運ばれてしまう可能性だってある。

 SNSが人を自由にしたかと、僕は時々思う。
 もちろん僕は自由だ、だからSNSとの距離も自在にしている。
(職場内LINEでさえ、承認したことはない)

 しかしそれは形なき群れだ。志向のない力だ。

 

 群れは引力だ。それは強い力を持っている。
 数は暴力だ。この脚を掴む数多の手。
 引きずり下ろそうと躍起になる欲が、大地からの糸となって絡み付く。
 そういう機能を持っているのだ、引力は。
 だからこそ、そこから離れる力の自在に僕は憧れる。
 それを振り切る自由を美しいと感じる。
 群れて重くなる様を、弱く醜いと感じる。

 そもそも大地を蹴って、空を舞って、宙の先まで飛び立って、いったいその先に何がある。
 何もないではないか。
 何もないし誰もいない。
 そんな場所へ行く能力が何の役に立つわけもない。
 だからこそ、それが素晴らしいと感じる。
 誰の役にも立たないことは、誰を害することもないからだ。
 誰もいない場所に立つことは、誰を傷つけることもないからだ。

>>>

 誰に言うつもりもないそれらは、僕の中に秘めておけばよいことである。
「競争。うん、いいね。がんばれ」「勝ち? うん。素晴らしい」
 そのような口先ばかりのコミュニケーションによって、環境による抵抗や周囲との摩擦を減らすことも覚えた。

 他人の競争を否定はしないが自身は参加しない結果として僕は、周囲に振り回されない軸を持っているように観察されるのだろう。
 何事にも動じない、他者を歯牙にもかけない力を、内に秘めているように錯覚されるのだろう。
 実のところ、それが僕の怠惰の集積であることは、およそ間違いないのだけれど。

 うわべだけで中身のない天才肌。
 競えば負け、徒党の中で餌にされ、乱気流に弄されれば力を失う脆弱。

 摩擦や抵抗を下げて、極限の軽薄を目指す機能美。

 どこに力があろうものか。どこに強さが潜むものか。

 

 しかし喧噪を嫌い、競争から逃げ続けてきた場所は、とても静かだ。
 僕はその静寂を愛する。

 

 いつまでも逃げ続けてやろう。

 たとえ後ろを追ってくる者がいたとしても。

 

 僕は先頭を譲らない。
 

<そんなことより、あるじ、あそぼうよ!>

>>>

 2日目から腰部に痛み。熱は一切引かず、時折39℃になる。
 おそらくインフルエンザだろう。
 動けるときに猫の世話などして、あとはただただ眠る。
 妹が「何か買い物していこうか?」と心配するが、断る。
 4日目に痛みは和らぐが、熱は依然38℃ほど。
 真っ直ぐ歩けないから買い物にも出られないが、僕は僕の耐久力を知っている。
 突発的に39℃になるが、規則性がつかめない。
 5日目、コロナ相談センタに電話をし、病院を紹介してもらう。
 久しぶりにシャワーを浴び、買い物に出る。身体の痛みがおよそ引く。
 6日目、病院に電話をし、出かけようとする時間に熱が上がる。歩行不能。
 7日目、新品の体温計の故障を疑い始めた頃、37℃の体温を測定する。

 今回は珍しく消化器系の機能不全を起こしていないが、粥を作る気力はないので、液体食に切り替え。
 ほとんど眠り続けているので消費は発熱くらいだし、白湯と少量の栄養で、僕の身体は活動できる。
 臀部に近い腰部の筋肉に鈍い痛みがあるが、熱が収まれば運動機能も回復するだろう。






 


// ----- >>* Escort Division *<< //
::点Oを通過する線分Lがある。
 点Oは動かない。
 ただし、線分Lを構成する始点L1はその位置を任意にすると考えた場合、終点L2は、どの位置に予測されるだろう。
 すなわちL1ーOを結ぶ無限直線上に、L2は限定される。
 L1が任意だからと行って、可能性は無限ではない。極めて限定的になるんだ。

 未来は可能性に満ちてなどいない。
 現在は固定されていて変化しない。
 だから今持つ意味を変えて、未来を捕まえることができるんだ。
 支点と力点、作用点のようにね。
 叶えたい未来のために今頃行動を起こしている人間は、それより以前に行動を始めている人間にはかなわないだろう。
 あるいは過去に縛られて、動けない人間を見たことがない?
 まったく馬鹿馬鹿しいことに、多くの人間は過去や既存の価値観に自らを縛り付けておいて不自由だなんて文句を言う。
 現在が固定で過去が固定なら、未来が変わるはずもない。

 しかしその過去をちょっとスライドさせれば、未来は大きく変わる。
 自分の欲しい未来なんて、案外簡単に誘導できるものさ。
 きっとみんな、たいそう大事な、変えるわけにいかない過去を抱えているんだ。
「あの頃は良かったなぁ」なんてついつい吹聴したくなるような、ご大層な過去をね。

 

 

 


// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「設計室のオリエンテーション」From「いるか色の夜」(by青猫工場)
 によりました。




 


// ----- >>* Junction Division *<< //

[NEXUS]

    ~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]  :青猫α:黒猫:BlueCat:

[InterMethod]

  :Algorithm:Diary:Ecology:Engineering:Form:Interface:Life:Link:Mechanics:

  :Stand_Alone:Style:

[Module]

  :Condencer:Generator:

[Object]

  :Human:

// —— >>* Categorize Division *<< //

[Cat-Ego-Lies]

:暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:夢見の猫の額の奥に:





//EOF

1月はほとんど家の中でぬくぬくして過ごしていた。

寒かったからである。


居室を家で一番狭い(ために暖房効率の高い)北西の(いずれは書斎にする予定の)部屋に移し、寝室も2階からその部屋に移した。

ゆえにその部屋と台所とトイレしかほとんど使わない状況が続いている。

もともと僕は2DKのアパートで暮らしていたので、さほど問題はない。


2月の半ば、急に春の訪れを感じる。

20℃近くまで気温が上がる5日ほど前には、すでに日差しが強くなり、それまでと同じ12℃であっても、はるかに過ごしやすくなっていた。

ために慌てて床の間の壁塗りを終えた。

なぜなら続く工事は、たとえば真冬に寒さで中断したように、花粉の時期や真夏になったら同じように中断しかねないのである。


そして唐突に、畳からフローリングに替える工事が始まった。

<畳を外した床>


根太の上に板が巡っているが、その下は当然軒下である。

ここに直接、畳が乗っているため、この家は過剰に通気性が高く、夏は暑く冬は寒く乾燥し、雨が降ればひどい湿気で、ほぼ外気同様の空気環境になる。


築40年にもなると、根太や梁にも歪みが出ているのだけれど、その精密測定など諦めて強行する。

ちなみに、根太の上の板は外してから工事すべきだったかと今は思う。何故ならすでに板が反っていて、最終的な仕上がり床面を歪めることになったからである。

また、どういうわけか根太が一尺(約303mm)ごとに渡されていない。間隔が広いのである。

そういう仕様で設計されたのか、材料費を抑えるためにそうなったのかは分からない。

見えないところがなかなかひどいデザインで作られている様をこの家で僕は見ている。


<断熱材1層目と2層目>


分からないまま床柱のセンターを基準に1尺で角材を渡す、ために板中心で下骨を渡す。

これで根太と並行な骨が組み上がる。

ただし、下骨は下地板が歪んでいて、尺もバラバラであったため、一層目の断熱材は格子の一枚一枚、各辺を測って切って埋め込むことになった。

寒い上、木骨は硬く、僕の皮膚は柔らかいので苦労した。

2層目の断熱材(写真では一枚だけ横に渡っている)はおよそ設計通りの幅なので、長手に切って嵌めれば問題なかった。


ただし、建築用角材には25mmのものがない(24mmはある)。

それを知らずに僕は2層分の t25スタイロフォームを買ってしまった。

渡っている骨は下骨が20mmで上骨が30mmである。

ために一層目の断熱材は長手で嵌めることができず(面で5mm も潰すのはかなり手間なので)上骨を組んでから、格子で嵌めることになったし、当然、上骨の下は空洞ができてしまう。

2層断熱なので最終的には問題なかったが、角材の基準は知らないと大変だと思った。


<フローリング材の張り始め>

断熱材のおかげで歩きやすくなり、また暖房なしで(あたたかくはなくとも)寒くは感じなくなる。

ここで襖のレールになっている梁との高さが、場所によって合わないことを知る。

使い慣れないノミで骨を削り、合わせられる部分は合わせるが、ところどころ歪になってしまった。

まぁ、寝室にするから構わないが。


<フローリング張り終わり>

最後の一枚を上手く嵌めるのはかなり苦労したが、板張りの工事は完了。

あとは隅や釘穴をシーリングすればなんとかなるだろう。


初日からほぼ毎日作業して、だいたい2週間強掛かった気がする。

初めてだったので慣れない工具もあったし、2000mmの取手付きメタルスケールを買うまでは、スタイロフォームの切り出し線を引くのも一苦労だった(慌てて翌日に買ったものだ)。


照明器具も蛍光灯からレールライトに変えた。


プロに頼めば、もっと早く、もっと綺麗に仕上がるだろうけれど、一部屋あたり30万円から50万円掛かる。

今回はB級品(アウトレット)のフローリング材を使ったので、材料費は10万円にも満たない。

結果、ひと月働くより高い経済効果を僕にもたらしたことになる。

(今から就職して、30万円〜50万円をいきなり稼げるとは思えない)


それから全身筋肉痛になった。


余談だが、フローリングを半分張ったところで知り合いに頼まれて、居酒屋でバイトをすることになった。

通勤に片道90分掛かる。

苦痛である。


打診の段階でゴネたけれど、困っているという知人を無視するのも忍びない。

複雑な心境のまま、面接初日に「働きたくなので早くバイトを見つけて僕を解放してください」とは告げる。


通勤帰宅に3Hは苦痛である。

// —— >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2021-02-13>
// NOTE:Vtuberとかを見ていて思ったことあれこれのまとめとして。

ちなみに僕は、Vtuberというキャラクタやキャラビジネスには、全く興味がない。

おそらくはビジネス上の制約のために、劣化しただけの、ただのヒトに見えるのだ。

// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
さよならリアル、また明日。
SUBTITLE:

~ Bye bye, real. ~
Written by BlueCat

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// ----- >>* Lead Division *<< //
::装うとは、着る人間の個性に合った物であるべきである、という従来の考えに、私は全く賛成しない。装うとは、着る人間がどのような個性を生きたいかで、決まるものだと私は信じている。だからこそ、素晴らしいのだ。





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//[Body]
【不自由と現実】
 自由とはなんだろうか。
 それは人間だけが知る概念ではないだろうか。
 あるいはある程度の知性と社会性を持つ生命体なら持ちうるだろうか。

 自由は対義に不自由がある。
 本来、制約を受けるということは、すなわち集団という利便を享受するための対価だろう。
 あるいは個人的不自由。
 身体(機能/美)的不自由。
 経済的不自由。時間的不自由。etc,etc...
 これらは、個人の資質によって左右される現象だろうけれど、それでも不自由は不自由だ。

 サルは、あるいはイヌ科の動物は、あるいはコロニィを形成する昆虫類は、その集団に暮らす上で ── 本来、利便を共有し合うはずの同胞からの制約により ── ストレスを感じ、それを不自由と感じるのだろうか。
 そして自由について思い巡らせ、その体現について計画を立てたりするのだろうか。

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 動物たちの多くは、ストレスに対してストレートに攻撃/逃避の行動を取る。
 耐え忍ぶケースは極めて希だろう。
 ストレスに対して即座に行動でき、耐える必要のない、あるいは耐えることを知らない場合(これは人間であっても)そこに不快感はあったとしても、不自由はないように思える。
 つまり不自由とは、その不快に ── なすすべもなく、あるいは必要を認めて ── 耐えていることを指すのではないだろうか。

 そう考えると、現象としての自由がまずあり、感覚としての不快があり、時間的蓄積によって不自由が認識され、概念化され、その対極の概念としての自由が発生するように思える。
 だから不自由はたいてい具体的で、自由はだいたい抽象的だ。

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【ヴァーチャルと自由】
 コンピュータテクノロジィの進歩とともに、人間にとってのヴァーチャルはより身近になった。
 もちろんそれ以前から、文字や音楽、フィクションによって人間はヴァーチャルを楽しんできた。
 たとえばタイムマシンは実在しないが、時間の概念を持ち合わせていれば、タイムマシンというヴァーチャルな概念を理解することができる。
 人間の認識する時間は可逆性を持たず、ゆえに不自由だ。

 その不自由に対して、自由とその体現を想像するときに生まれるのが、時間を移動するというヴァーチャル(仮想)だ。

 昨今、ゲーム依存症なる現象が騒がれている。
 ちなみに僕はどちらかというとゲーム依存症体質だと自身を思うのだけれど、最近はゲームに没入すことがむつかしくなってきた。

 ゲーム依存というのは、シンプルにいえばヴァーチャル依存だ。
 個々人の脳内に投影され、認識され、形成されるヴァーチャルな価値に重きを置くあまり、現実世界の価値が軽視され、場合によっては無価値になってしまい、現実世界が個人にとって意味を失ってしまう。
 手軽に少ないリスクで挑戦ができて、十分な快楽や満足が報酬として得られるなら、ヴァーチャルはリアルの価値を超える。
 ゲームとは、その端的なヴァーチャル投影装置だ。
 僕らは手を汚さず、血を流さず、死しても容易に再生し、スリルやワクワクとともに、視覚や聴覚を通してリソースの拡充と消費、自己の拡大を体験する。

 そして、たとえば経済至上主義だって、立派なヴァーチャル依存だ。
 大企業で多額の取引をしていただとか、どんな(金銭的)成績を出したとか、異性にモテるとか、そういう自慢をする人間をこれまでも見てきた(そして僕自身、そういうキャラクタを演じてきた)が、すなわちそれはTVゲームの中で保有しているリソースを自慢することと何の変わりもない。
 たまたまそれが現実という「肉体側」の世界にあるリソースで、他者に対しても明確に確認でき、肉体側の世界に対する影響力があるというだけで、当の本人の脳内で感じている快感は、ヴァーチャル依存の快感と大して変わらないし、他者に影響を与えられる範囲が広い分だけ性質が悪いとも思える(もちろん悪い側面ばかりではないが)。
 そしてその「肉体側」の世界で「自身」が保有しているリソースが「他者に対して明確に確認でき」、「他者に対して影響力を持」ちうる場合、その挑戦と報酬は人間をある種の依存症に向かわせるだろう。

 たとえばこの日本であれば、経済の他、美や健康、不特定多数の人間の人気、場における暗黙の了解 ── コモンセンス ── の誘導や先見も、メディアを通すことで大きな影響力を持つと見なされている。
 これは個々の中に存在している憧れや承認欲求を満たすための挑戦や、その達成による報酬によって、本人の内的世界に快楽や満足をもたらすという点においてなんらの変わりもない。

 グルメブームもファッションブームも、メディアにおけるコンテンツの流行も、SNS流行りも、自警(ナントカ警察)活動ブームも、それらはすべて、Rich&Clean&Famousなる自己を己の中のスクリーンに投影する手段でしかない。

 立ち返って、考えてみるとよく分かる。
 価値なんてものはだいたいヴァーチャルなのだ。
 そして価値なんてものは、他人の認める価値よりも自身の認める価値の方が優先されるべきではないだろか。

 そう考えるとゲーム依存によって仮に栄養失調を起こして死んでしまうことは、その当人にとっては幸せなことではないだろうか。
 仕事が何よりも大事だ(価値がある)という職人気質な人が「仕事中に死ねたら本望だ」と思うのと同じように。
 異性とぱやぱやするのが何より好きだという(ある種の依存症の人が)「腹上死が理想だ」と思うのと同じように。
 
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【ヴァーチャルはオナニーになりがちである】
 会社員をしている頃、ときどき「三度の食事くらいしか楽しいことなんてない」という人がいた。
 僕にとって食事は基本的に一日一度のものだし、同じものを一週間くらい毎日作ったりするので、どうもその感覚が分からなかった。
 しかし自発的に何もすることがないと思うような昨今の中 ── 僕は「今日はこれをしよう」と自分で決めないと、何もすることがないイキモノになってしまったの ── で、ある日「今日は何を食べよう(飲もう)」と思っている自分を発見したことがあり、ひどく驚いたのだ。

 食べることしか楽しみがないなんて、動物と一緒である。少なくとも僕はそう思っている。
 もちろん、動物であること、動物的な欲求や行為を否定する気はない。その楽しみを否定する気もない。
 それらは時に蠱惑的で、心身ともに安心でき、自分がここにいることの幸せを何よりも感じさせてくれるものだ。
 僕は料理も好きだから、自分が食べる量を考えないなら、いくらでも何種類も作っていたい。
 しかし自身のためだけのそれは、ただ空腹を満たすよりは若干文化的(あるいは人間的)ではあっても、格別有意義であったり誰かの役に立つような行為ではないように思える。
 まして僕の場合、思うさま作り続けようものならその大半を廃棄することになるのだ。
 家族や恋人や友人の食事を作るのが楽しい、というのならまだ他者の役にも立っているだろうけれど「食べるのは好き、でも作りたくない」ともなれば、食欲を中心にしたオナニーに等しい。

 いやなに自慰行為が悪いとも思わないが、何か一つの動物的欲求だけが自分を満たすという認識そのものがとても貧しいし(僕はそういうことを言わないキャラかもしれないが)社会的に、より有意義な波及効果があるようにも思えない。
 つまりそれはヴァーチャルの中で自己満足して死ぬのと同じ類いの醜さであり、それを現実世界に投影し続けているという点でさらに醜悪な気がする。

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【ヴァーチャルはニセモノか】
 SNSなどで自撮りのポートレイトなどを加工している人たちもヴァーチャルを現実世界に投影している。
 彼ら彼女たちは「自分の思っている自分」を演じ、また承認してもらうことで欲求を満たしている。
 だから一時、それは「現実世界」寄りの人たちからは敬遠されていたように観察している。
 今だってあるだろう。
 すなわちそれは、美容整形を忌避したり(あるいは賞賛したり)する行為と、根底にあるのは同じことだ。

 本物ではないもの ── それが派生的に想起するニセモノや嘘、虚偽、虚飾といったネガティブなイメージ ── に対する忌避感だ。
 それも分からないではない。
 ヴァーチャルな(あるいは現実を「盛った」)自身に陶酔し、あるいはそれを賞賛する姿は、たとえるならオナニープレイを撮影したアダルトビデオと、それを鑑賞して興奮する人たちのような、倒錯した風景に見えるのかもしれない。

 僕はゲームをするとき、性別を選べる場合は女性キャラを選び、オンラインの場合はプレイヤ自身も女性として演じている。
 べつにオンラインで知り合った男性と親しくなってナニかしよう、という意図があるわけではない。
 その方が僕にとって合理的で、オンラインの場合は場の中での整合性が取りやすいからだ。

 単純に男性キャラより女性キャラを見ている方が楽しいので、キャラクタは女性を選び、ゲームという場において「男性が女性キャラを使って女性を演じている」ことに対する忌避感は理解でき、そしてどうやら僕自身の発言や発想が女性として存在していても違和感がないようなのでそうしているだけである。
 どうせオンラインで知り合って親しくなってナニかしちゃうなら、女性相手の方がいいに決まってはいるが、そもそもゲームはそういう場ではないから毛頭そんなつもりもない。ブログなどのSNSだって同じことだ。

 もちろん多少の演技をすることはあるが、あからさまな女性言葉をあえて使うことはないし、男受けしそうな女性を演じることも、演じている女性というセクシャリティをネタにすることもない。
 それはゲームやWebでもそうだし、現実世界でも同様だ。

 なにより僕はずっと(少なくともブログ上では)猫だと自称している。
 もちろん誰も信じていないかもしれない。(ホントに猫ナンダカンナ、ナメンナヨナ)
 けれども僕の認識世界においては、僕は猫なのだ。
 性的違和を(広く自身の接する環境に)訴える人がいるように ── 僕はそれを少々滑稽だとは思っているが ── 僕は自身の種族的正当性を ── 同じ滑稽さを人々が感じることを織り込み済みで ── 訴えることもある。
 すなわちそれは、どうでもいいことなのだ。

 僕が人間だろうと猫だろうと、AIだろうと天才だろうと愚者だろうと。
 多くの人 ── たとえばあなた ── にとって、インタフェイスに投影された僕が「本来は何」であるかを決めるのは、その人 ── たとえばあなた ── 自身である。
 このブログでは、ひたすらの文字列がならび、ときどき「飼い猫だ」と主張されている猫のポートレイトがあり、「作業着を着た自分だ」と主張されている成人男性とおぼしきヒトのポートレイトが存在している。
 しかしそれらはすべて捏造されたものかもしれないし、そうでないかもしれない。
 いずれだとしても、特に支障はないだろう。

 僕が猫だろうと男だろうと女だろうとAIだろうとショートヘア眼鏡美少女だろうと、僕がそのインタフェイスをして接しているときに始めて、その人がそのインタフェイスを通して僕を勝手に認識すればいい。
 つまりインタフェイスとは、勝手に選んで自身を投影するツールであり、それを観察する方も勝手に認識して解釈するものではないだろうか。

 たまたまそれが、今までは現実世界の、実体を持つそれしかなかった。
 ほんとうは、今までだって世界は豊かにヴァーチャルと共存していたが、個人の中にあり、ために多くの人にとって認識されないそれは黙殺され続けた。
 だからヒトは、現実世界で自身のありようを体現することでしか自身を存在させられなかった。
「僕は猫です」なんて言うヤツは、アタマがオカシイと嗤われていたのだ(もしかしたら今もそうだろうけれど)。

>>>

【浸食するヴァーチャル/欠損したリアル】
 テクノロジィは、個人の中にあるヴァーチャルを、他人のスクリーンに投影することを可能にした。
 現実世界の骨格は修正され、ポートレイトは加工され、動画サイトでは二次元的なキャラクタが立体的に投影され、現実世界のヒトの姿をした誰かがそれを演じる。
 ヒトは己の心に映る己を(たとえそれがエゴに塗られた虚飾のものであったとしても)他人に向けて投射することが可能になった。
 リアルにヒトであろうと、画像限りのヒトであろうと、アニメ化されたキャラであろうと、それは変わらない。
 そこには「ヒト」という概念が演じる、「ヒト」の欲が投影される。

 僕も似たようなことはしている(そもそも僕は、自分のために自分の人格を作っているので、その時点で僕自身がフィクションである)一方、それを薄気味悪いと忌避する感覚も分からないではない。
 ではテクノロジィが発達する以前はどうだったろう。
 結局ヒトは、他者を(あるいは自身を)程度の差こそあれ、誘導するために自身や他人のキャラクタを作ろうとしては来なかっただろうか。
 あるいは社会が個々人に対して形成圧力を掛けることはなかったろうか。
 それは果たしてどのくらい正しくて、あるいはどのくらい間違ったことだろう。
 
 個人が経済のために、あるいは社会的地位のためにそうした詐称をして、それが法に触れれば犯罪にもなった。
 しかし社会は個々人に、より健康で、よりたくましく、あるいは美しく、経済的にも豊かであることを求めた。
 補整下着が精力剤が健康食品が高価で取引され、質のよいブランド物と名ばかりのブランド物とパチモンが肩を並べ、玉石混淆にマーケットに並ぶ。
 社会というものが、ひとりひとりの人間の集積である事実を考えれば、それは個々人が求める欲や望みの投影だ。
 他者にそれを望み、自身にそれを望み、社会がそれをよしとする。

 結局のところ、ヴァーチャルが現実に浸食している現象は、今後も加速するだろう。
 ヒトはより強く、美しくなる「かもしれない」。
 SF世界にあるように、機械と融合した肉体によって、望むカラダを手に入れられる未来もあるかもしれない。

 しかし今より賢く、優しくなれるだろうか。
 
 かつてより容易に自身の望む姿を体現できるとき、その個々人の望むセルフポートレイトは、どのくらい穏やかで、見ず知らずの他人にも微笑みかけるような内的豊かさを持っていられるだろう。

 社会の欲もまた進んでゆく。
 即物的に人間を切り刻むシステムは、いつからか善人の貌をしたケモノのように見えることもある。

 今より社会は賢く、優しくなれるだろうか。

 あるいは人間の欲とヴァーチャルを投影された、人間ではない知性を模倣した機械が、ヒトに賢さと優しさを与えてくれるだろうか。
 そうなるかもしれないと僕は思う。
 あるいは機械的な人間が「人間のような機械」を愛し、機械に「愛されているカタチ」を与えられる社会。
 それはディストピアだろうか。それとも豊かな社会だろうか。

 身体的障害を持つアスリートが身につける義肢のように、それは人間と一体化して、人間をより豊かな存在に変えるのではないだろうか。

 不自由だった現実は、自由で理想的なヴァーチャルをスクリーンにして、自由で豊かな現実を花開かせはしないだろうか。
 自分だけを認めて欲しいという貧しさに満ちた人の心を、仮想の自己実現に満たされたスクリーンによって、他者の多様性を認めることができる複雑で繊細なありように変えはしないだろうか。
 今まで見ていた現実が、単なる制作工程中の、未完成な存在でなかったと、いったい誰にいえるのだろうか。
 
 ヴァーチャルは、今までなかったものではないし、それが現実でなかったわけでもない。
 泥臭い、煩わしい荒れ野の中に、今この瞬間も咲いている、花ではないのだろうか。










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::日本では、勤務時間の終わりと鑑賞時間のはじまりが近寄りすぎていて、家にもどって着替える時間的余裕もないという事情から、暇のある人が観衆の大部分である歌舞伎や帝劇以外は、観賞用の服装は一般的ではなかったようである。それでも、この頃は、装いに身をこらした人を、ずいぶん見かけるようにはなったけれど、それが、高いお金を払って切符を買ったのだから、おしゃれして行きたいという気持ちの結果であってもよい傾向だと私は思う。フラッグやロングドレスで正装している演奏者からすれば、プラテアの前のほうにずらりとジーパン姿が並んでいるのは、あまりに日常の現実と近すぎて、「演ずる」愉しみを十分に発揮する気持ちにもならないではないか。日常とはちがった装いをもって対することは、日常とは違ったものを伝達しようとしているこれら芸術家たちへの礼儀であり、と同時に、受け手である観客自体も、日常の現実からは得られないものを得るには、より妥当な道ではなかろうか。相手に余計な負担を掛けないための心遣いだろうけれど、どうぞ平服で、というやり方に、私は少々飽きがきている。





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// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~


 引用は、
「第8章 装うことの素晴らしさ」From「男たちへ」(文頭部 p.71 / 文末部 p.66)
(著作: 塩野 七生 / 発行:文春文庫)
 によりました。





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// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
    ~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
  [Engineer] :BlueCat:

[InterMethod]  

  :Algorithmn:Link:Mechanics:Technology:

[Module]

  :Condencer:Connector:Reactor:

[Object]

  :Camouflage:Human:

// ----- >>* Categorize Division *<< //

  :夢見の猫の額の奥に:






//EOF

 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2021-01-26>
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
それなら復讐を始めましょう。
SUBTITLE:

~ Die or Lie. ~
Written by BlueCat

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// ----- >>* Lead Division *<< //

 

:: ── お願い、皆殺しにさせて。私なんか、死んでもいいから。死んでいいから。

 



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// — >>* Body Division *<< //
//[Body]

 この数ヶ月、僕は僕が自分を殺そうとしている(あるいはしていた)理由について書こうとしている。
 そしてその記録の試みは、いまのところ毎回失敗している。

 

 ちなみにこの文書は、明らかに僕の自分語りに終始するので、何の面白みもないし、得られる教訓もない。僕以外の誰かにとって、なんらの役に立つものではない。

 ただ僕の希死念慮を解剖してゆくものではある。


 僕 ── 正確には「6歳以前」 ── が僕を殺す理由は簡単だ。
 僕が男性に属しているイキモノだから、ために僕を ── つまりは自身を ── 殺そうとしている。
 性自認的に ── 当時の僕が自身を女性だと思っていたから ── というわけではなく、純粋に男性そのもの、あるいは歪んだ男権主義によってもたらされる暴力や不幸に対する激しい憎しみの直情的かつ潔癖なる完全主義者の発想の帰結として「オトコ、(リアルに、かつ物理で)死すべし」と思っているのである。
 そしてヒヨコの雌雄判定のごとく「アヲネコくんは、こっちのグループだよ」とオスに仕分けられたその日から、当の僕自身さえも「死すべき対象」としてマークされ、リストされ、いつの日か実行力を手に入れたときに粛正されるべき対象として記憶されたのである。

 ために「6歳以前」が僕の中で人格としての熱を持ち、価値観が脈動し、今現在の「オトコとして順応した僕」とリンクしてからずっと発している疑念が「なんでまだ生きているの?」なのである。

>>>

 しかしこんな感情をずっと抱えていると、生存行動そのものに自己矛盾を起こす ── ために睡眠や摂食が安定しなかった ── し、理由のない自己嫌悪(オトコだから、という理由はあるが、その価値観を受容するわけにもいかない)や無力感(僕は、僕を含めて一切の男性に「男性だから」という理由によって危害を加えたり粛正したりしていない)に襲われる。
 たぶん正しいはずなのだ。
 男性だという理由で嫌悪し、憎悪し、あげくにその生命を奪おうなんて考えたりしないことは。
 では(後付けで作られた今の僕ではなく、本来このカラダに存在していた人格である)「6歳以前」の抱えた悲しみは、憎悪は、正義は、間違っていたのだろうか。
 ここでも僕は矛盾を抱えることになる。
 間違っていないと断言して受け入れたい感情と、分からないと判断する理性とで。

>>>

 露悪趣味があるわけでもないし、僕の過去のことをあれこれ書いて自己分析する過程を開示する趣味があるわけでもない。
 まして僕と誰かの関係をあれこれ書いて人に見せたいわけでもない。
 いずれも、むしろ嫌いなことだ ── 文章を書くということが、取りも直さず自身を削って貼り付けることに等しいとしても。
 それに、誰の何の役に立つわけでもない文書を誰もがアクセスできる環境に置くこと自体も僕の中では矛盾した感情を起こす。
 そうした矛盾や絡まった価値観の中で、どうにか文章を書き続けようとしているのだけれど、まともなものにならない。

 現在の僕は、今のところまだ簡単に自死させられる準備が整っていないため、最低でもあと2年、可能なら5年、欲を言えば妹がだいたい死ぬか認知能力を失うくらいまでは生きていた方が良さそうだと判断している。予定としてそれは残り19年である。
 しかしそんなオトナの事情は「6歳以前」の価値観の知るところではない。

 ために「6歳以前」の価値観を再び切り離して眠らせる方法も検討され、(猫会議により)可決された。
 にもかかわらず、一部の仮想人格から「それはしない方がいい」という倫理観の提示があり、結局「6歳以前」と現在の僕の矛盾した価値観は共存を続けている。

 おそらくそんなことはないと思うのだけれど、もし万が一、何の文書も残さず僕が衝動的に自死 ── 僕の中の異なる価値観によって殺されるわけだから正確な意味での自殺になるだろう ── をしてしまった(あるいはそれよりひどいことをするかもしれない)場合、周囲の人はかなり混乱すると思うのである。
 ニュースになったとして、おそらく「孤独に耐えかねて」といった解釈が一般的だろうとは思う。
 実際に僕はかなり孤独寄りの人間であり、接点を持つ人は少ない(努めて少なくしている)のだから。

 ために男性という男性を殺さないために、あるいは男性という男性を殺すために自殺をしたとして、そんな観念は理解されないだろうと思うし、理解されない方がマトモで平和だろうとは思う。


 僕が孤独を好むことは、僕を知る人のほとんども知っていて、そのうえ労働せずして暮らせるようなストレスフリーの生活環境を作った挙げ句に自殺というのも考えにくいと思われてしまうかもしれない。
 ありもしない容疑を掛けられる法定相続人にも申し訳ないし、そんなことで社会のリソースが消費されることは僕の本意ではない。
 なので、起こらないであろう自殺に備えて、僕は僕が自分自身を殺したがっているということを明文化して公開しておく必要があるとは思っている。
 まして自殺した人と関わりのあった人の多くは、自身の言動を振り返って責任を感じ、自分を責めがちだと言われている。
 僕のように無責任に生きている人間が、他人に責任を押しつけるのもまた不本意であるし、僕は他人を責めたいわけでもない。

 あるいは僕に何らかの責任を押しつけた事実をして、本来ならば責任を感じるべき人間は確かにいる。
 ただその多くは既に死んでしまっていて、あるいはわずかに生きている人間でも、責任を押しつけた後は我関せずのふうで生きており、特にこちらとしても関わりたくはない。

 そうした自死の責任の所在と原因を(まずないとは思うが)書いておこうと思ったのである。

 

 僕が遺言公正証書を未だ作っておらず(あるいは作ることができず)、相続人をきちんと用意していない(あるいはできない)ことは、僕自身(あるいは「6歳以前」が僕を殺すこと)への足枷として作用するため、当面は「6歳以前」の衝動を先延ばしにできると考えている。
 当時の彼が知らなかったことは、自身の性別だけではない。
 他者との関わりという領域を考えた場合、自身を生かしておいた方がよい ── 生かしておかざるを得ない ── 状況が存在するということを、未熟であるが故に認識することさえできなかったのだ。

 もちろんそれとて「6歳以前」を責める理由にはならない。
「6歳以前」の怒りや悲しみや苦しみは、当然そう感じて然るべきなのではないかと思う。
 僕は彼に味方する。誰が反対しても、僕は彼に味方する。彼はずっと(僕自身からも切り離されて)孤独に怒り悲しんでいたのだから。
 だからといって「いま死ね」と言われてもまだ困るのだ。まだすぐこのカラダを死なせるわけにはいかないのだ。このワタクシというイキモノ(あるいは価値観)が本来は彼を起源として発生しているとしても。

 アタマオカシイ文脈であることは承知しているが、僕は基本的にマトモなフリが多少は上手いほうのアタマオカシイ感じのイキモノであるからご容赦いただきたい。

>>>

 ちなみに「6歳以前」を眠らせることに反対したのは仮想人格の「α/β」である。

  ── 僕はいくつかの記憶を失った埋め合わせとして、実体験として持っていない(つまりはありもしない)記憶や感情を保管するための価値観群を(実人格の記憶や価値観と直接混同することは社会適合の上で不都合なので)作り、それを実世界と関わり合わせるために仮想人格として機能させる方法を取るようにした。そのうち「17歳以前」と「6歳以前」に近い(穴埋めしている)ものが「α/β」である。

 

 とりあえず「β」がごねて、「α」があっさり結論した。
「現実(とそこに属する肉体)を存続させるために『6歳以前』を『なかったことにする』ことは、潔癖なる理想を実現しつつ被害を最小限にするために『現在』を殺すことと何も変わらない(オマエはバカか)」と。

 マタ殺スノ?
 何度、我々は自身を生かすために自身を殺すのか。
 救いの手なんて差し伸べられることはない。
 救済の日が来ることもない。
 肉を削いでも、血を流しても、骨を折っても、それでも我々は自らを損なうことがない。
 他者を屠り、血肉を糧にしても、我々が満たされる日は来ない。
 繰り返される痛みなら、続く殺しと搾取なら、それを自ら断ち切る手段を、そろそろ我々は作り出してもいいのではないか、と。

 我々の世界を変えることができるのは、我々の行動だけだ。
 現実を変える行動の、そのきっかけは、我々の認識そのものではなかったか、と。

 このカラダが実行力を持つことを待っていたのは「6歳以前」がそうであったように、僕たち自身もそうであったのだ。
 その発想は「放っておけばいずれ朽ちるのだから、それまで放置してしまおう」なんて、ものぐさな考えをしている僕とは対照的で驚いたものである。





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// ----- >>* Escort Division *<< //

 

::いい匂いだ ── 君の魂の匂いだ。俺が信じるべきものはこれだという確信をくれる。俺に君を信じさせてほしい。シェルもボイルドも何も信じられず【鏡の向こう側】にいる。クリーンウィルがいたように。そこでは何の迷いも悩みもないかもしれないが、何の希望もない場所だ。俺はそこには行きたくない。





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// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「第4章 導き 〜 Navigation 〜」

From

「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 3rd Exaust ── 排気」(p.235-236)
(著作:冲方 丁 / 発行:早川書房)
 によりました。

 なお、引用文中の傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。





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// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

    ~ Junction Box ~

[ Cross Link ]
[ Parallel Line ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
  [Engineer]

   :BlueCat:

  [InterMethod]

   :Blood:Chaos:Color:Convergence:Darkness:Derailleur:Interface:Life:Link:

   :Maintenance:Recollect:Stand_Alone:

  [Module]

   :Condencer:Generator:Reactor:Resistor:

  [Object]

   :Memory:Poison:Tool:

 

// ----- >>* Categorize Division *<< //
  [Cat-Ego-Lies]

 :暗闇エトランジェ:






// EOF