210414

 

 春だ。日差しだ。発熱だ。

 

 春が来た。

 僕の大嫌いな、生命の躍動する、春だ。

 
 植物は盛大に花粉をまき散らし、僕の皮膚粘膜を荒らす。
 昆虫は勢い活気づき、ときに家の中を徘徊し、猫に弄ばれる。
 
 静寂の、優しく静かな冬とは、またしばらくお別れだ。
 少し寂しいけれど、彼女は移り気なので仕方ない。
 放っておけば帰ってくるぶん、まぁ、はるかにましというか、素晴らしいことなのだそれは。
 
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「けい○ん!」とある「○」に、貴方なら何を当てはめるだろう。

「お」と答えたあなたはアニメ好きだ。しかもちょっと古い(笑)。

「ふ」と答えた貴方は、農業ボーイ/園芸ガールに違いない。

 

「けいふん」すなわち鶏の糞だ。これが安い。

 15kgで120円ほどだ。1kgで8円ほどである。

 100gではなく、1,000gで8円だ。これは安い。

 ただし農業/園芸に興味のない人には、何の役にも立たない。

 

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 咳の止まない身体をジャンプスーツに押し込めて、タオルやゴーグルや防塵マスクで頭部を保護し、長靴を履いて出かける先は、玄関から十数歩の納屋である。

「屋外用薪ストーブ」から昨日の灰を掻き出して、新たな薪を組み上げる。

 組み上げる、というのは、ただ放り込んで火を付ければ燃えるものではないからだ。そこにはセオリィがあり、順序があり、摂理がある。

 

 抜いたいわゆる雑草はもちろん、下ろした枝も、幹から切り倒した一部の庭木も放置して乾燥させている。だから燃料は潤沢だ。

 ストーブの炎が安定したら、先ほど集めた灰を庭の穴に埋める。

 そうだ。抽象的、概念的な「裏庭の穴」を僕は持っている。これは固有の能力と呼んでも構わないのだが、こっちはちがう。具象の、現実的な、庭の穴である。

 そこには切り倒された木の切り株があり、その根を掘り起こ(そうとして途中で飽きて放り出)している跡があり、そして畑として利用すべく土を掘り返されているエリアがある。

 すなわちこれ開墾行為。

 

 畑として用意された土壌を、畑として使うことの利便を僕は知らない。

 そこは放置された植樹の残る庭の花壇であり、木の根が巡り、石が放置され、土は硬く、木々の一部は手入れがされなかったため病虫害に冒されている。

 2月の頃に、裏庭のお稲荷様の両脇を固める木の一方を、ほぼ丸裸にした。

 枝が混んで虫が湧き、病に罹っていたためだ。

 

 二股になった ── あるいは人工的にそうさせた ── 幹を、上部で人工的に一本に継いでいるため、その股の部分が影になる。

 ここに虫が付きやすく、継ぎ方が悪かったのか、その後の手入れが悪かったのか、部分的に樹皮が剥げて、むき出しになった幹が部分的に枯死したり、虚ができてそこに虫が住み着いたりしている。

 定期的に枝が下ろされていれば、通気と日差しと鳥によって、虫は減るのだが、長らく放置されていたそれは、もはや祟られた木にさえ見えた。

 

 その大量の枝を下ろしてひと月ほどで、他の木に、その虫たちが寄生しているのを確認し、次々枝を下ろすことになった。

 2年ほど前から気にかけていた椿の木の一本は、病に冒されてるのか寿命なのか、生育が非常に悪いので、根元から切り倒した。

 株が小さかったうちはよいのだろうけれど、もはや庭に育った木の多くはひとつひとつが大きくなり、過密になって手を入れにくい部分もある。

 ために部分的に間引くように手を入れている。

 

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 耕運機が欲しいのだ。

 しかしこの数ヶ月、僕は自由になるお金に乏しい。

 昨年に基礎と屋根に補強修繕を入れた代金を、分割で払い続けている。

 毎月およそ300k円。春先は確定申告などもあって、出費が多かった。

 無職であると言っているが、収入ありきで生活しているので、出費が多いと遊ぶお金はなくなる。

 

 ために耕運機は買えず、鍬で耕しているわけである。

 ちなみに耕運機はおよそ80k円前後でエンジン式のものが買える。

 

 最近、TVゲームに面白みを感じなくなったのは、庭での作業の方が、危険も恐怖も大きいからだと気づいた。

 木を切るにも、風向きや刃の入れ方に注意し、幹を倒すときは倒れる方向まで考える必要がある。

 数々の虫たちは、虫嫌いの僕にとって、ほとんどは恐怖の対象だ。

 しかし恐怖を感じるシステムにもいい加減ほころびが生じているらしく、その恐怖ごと、虫を眺めていたりする。

 子供の頃から、恐怖に対して僕は悲鳴を上げたり逃げたりすることがない。

 ただぼうっと、恐怖し続ける。

 

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 子供の頃といえば、友達と川に遊びに行ったことがある。

 子供には少々深くて、広い川だった。

 友達の1人が流されてしまったのだけれど、僕は呆然とそれを眺めていたため、あとで別の友達にたしなめられた。

(最終的に、流された友達は、同行していた友達によって助けられた。)

 

 僕は子供の頃から、瞬発力に欠けるようだ。

 頭の回転もそうだし、身体の反応も、感情も、短時間の変化に、素早く対応することができない。

 

 たとえば皮膚を擦り剥く。

 かなり激しい痛みを感じるのだけれど、僕は呆然としてしまう。

 どうすればいいのか、瞬時には分からない。

 だからじいっと、その痛みを痛む。

 あふれる血や、ざらざらと荒れ傷ついた表皮を呆然と眺めて、対処法をぼんやり考える。

 水でよく流してから石けんで綺麗に洗うと、すぐに痛みが引き、治りも早く化膿しないことを、ある時期から僕は覚えた。

 

 だから恐怖も同様、僕はぼうっと恐怖し続ける。

 悲鳴を上げることは少ないし、まして瞬発的に逃げ出したり、立ち向かったりはできない。そんな気力はないし、身体に反応させることもできない。

 それは知らない人からすると、ちょっとした豪気に見えるのかもしれない。

 

 しかし事実は異なる。

 僕は虫ひとつにも、激しく恐怖している。

 そして悲鳴を上げることもできず、ただただ身体を硬直させて、恐怖している。

 

 まるでこの心も身体も、たまたま与えられた使い慣れない道具のように。

 

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 庭を開墾していて思うのだ。

 枝を下ろし、幹を切り、根を鍬でたたき切りながら思うのだ。

 いわゆる雑草たちを抜き、その根元で慌てふためく微細な昆虫を眺めて思うのだ。

 人間のエゴは、こうもはた迷惑なものなのかと。

 

 もちろん枝の剪定をすることで、木は枝が過密になることがなくなり、より生育しやすいようになる。

 いわゆる雑草たちを取り除けば、代わりに自生している名前も知らない可憐な花を咲かせる草(まぁ、名前を知らない時点で雑草といえば雑草だ)がそこに居着く。

 木がなくなり、土を耕し、土壌環境を整備すれば、作物も含め、新しい生態系がそこに生まれる。

 

 しかしそれは結局、僕のエゴの発露ではある。

 自分が生きるためという言い訳のもとに、どれくらい育てて、どれくらい殺すのだろうかと、そのひとつひとつ、昔からこの先までを考えると途方に暮れる。

 僕ひとりでそうなのに、この世界にはたくさんの人間がいて、オーバーフロウする。

 もちろん、草木や昆虫にもエゴがある。

 だからそうしたエゴの一つ一つを気に病んだり、その数の多さに圧倒されている場合ではないのだろう。

 自分のエゴを、脇目も振らず発露するのが本来のありようなのだろう。

 エゴとはすなわち、生きる力のことではないか。

 まぁ、それが僕にはかなり乏しいのだろうけれど。

 

 乏しいからこそ、眩しいほど発露されているそれらに、僕は目眩する。

 

 春が来た。

 僕の大嫌いな、生命が躍動する、春だ。

 

 鶏糞やら、卵殻粉末やら、草木の灰やらを、庭の土に混ぜるため、鍬を振るいながら思う。

 危険も恐怖も大きく、カタチとして得られるものは決して多くはない。

(昨年など、ブロッコリィとニンニクは全滅し、ナスはひと株不成りで、トマトの生育は悪く、パプリカは枯れ、オクラも聞いていたほどは成らなかった)

 

 ゲームは勝ちが約束されていて、だから、安心できる箱庭だった。

 ヴァーチャルから少し離れる気になったのは、もう、何もかもがどうでもよくなったからなのかもしれない。

 

3週間目が終わった。

日曜が起算日なので分かりやすい。


1週目は体温が38.5〜39.5。

2週目は37.5〜38.0、突発的に39.0。

3週目になって36.5〜37.0の微熱になった。


僕の身体は38℃くらいから、平衡感覚が狂い、筋肉が力を出しにくくなるため、歩行や運転をするのは危険になる。

通常、消化器系の機能も低下するので、1〜2週は液体食が主流だったが、3週目からやたらと食欲が出てきたので、基礎体力を取り戻すための簡単な運動を屋内でしつつ、玄米と高タンパク食を摂る。

庭仕事も再開した。


県のコロナ相談センターには1週目で電話をしたが、2週目は外出間際に高熱になったりして寝たきりで、結局病院には行けなかった。

3週目の水曜、ようやく医者に掛かる。

PCR検査は、町医者なりに厳重な対応だった。ちなみに検査結果は陰性。

すでに回復期であるからと、けっこう投げやりな対応をされる。


遡って2週目の週末、TUが市販のPCR検査キットを買って持ってきてくれる。

かなり距離を取りながら、逃げるように(半分演技だ)帰っていった。

その結果は3週目の金曜の夜にメールで届いたのだが「リスク高」とある。


1週目はインフルエンザのような腰部の筋肉の痛みや、気管支炎、肺炎のような横隔膜や喉の奥に痛みを感じたが、もともと喉が弱く、簡単な風邪でも喉の奥から絞り出すような重い咳が出るので咳そのものは自覚的所見としてアテにしていない。


消化器系にダメージがなかったのは幸いだが、とても珍しいといえる。

高熱時、消化機能がひどく低下して、嘔吐や下痢になるのがこの身体では通例だ。

今回は3週目から(それまでの消費カロリィを取り戻すように)炭水化物を主食としたかなりの量の食事を要求されている。

(ごはんを炊くのも久しぶりだし、普段、ほとんど食欲を感覚しないので、これにも驚いた)


体温は今朝の段階でも36.8。

もはやこれが平熱ではないのか。

(咳が出るし喉に違和感があるので、たぶん違う)

買い物や見舞いや通院介助を申し出た妹を徹底して拒否し、TUと預けた猫を返しに来た友人にそれぞれ数分、会ったくらいか。

3週目からは買い物にも出かけた。


実は陽性だったとなれば「陽性たちが胸を刺激」することのないように、生活を改めなければならないだろう。

もっとも、自宅にいるのが僕には1番の隔離状態であるが。


4週目、再度別の病院で検査を受ける必要があるだろう。


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2週間寝ていて、気がついたことがある。

他人の具合が悪くても、とりあえず自分の用件ばかり話したり伝えてくる人間がいる。

そう言う人間は、合間で思い出したようにこちらの具合を訊ねてくるが、それは心配としてはかなり下品に感じる。


またTUのように、自分にできることを勝手に考えて、自身でリスクマネジメントして援助してくれる人もいるし、妹のように「頼まれたら何でもする」というスタンスの人もいる。

こうした人たちは、品がどうこうというより、とても心強く、ありがたいものだと感じる。


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僕はブログなどでは饒舌だろう(僕が沈黙していると、そもそも更新されないわけだ)が、実生活ではほとんど何も語らない。

たとえば僕が叔母に何をされたから死後も憎んでいるかなんて話は、ほとんど誰も知らない。

見せていないし、説明する必要も感じない。


誰かにとって(あるいは世間一般にとって)何らかの意味や価値があって、一方、自分にとっての意味や価値が異なることなんていくらでもある。

僕は自分の価値観をとてもひいきにするイキモノである。

だから僕以外の誰でも、同じように自分の価値観を大事にひいきしているし、したいだろうと考える。


するとよほどの意味がない限り、僕に固有の価値観を基準にした反論なんて、効果をなさないと結論できる。

その固有の価値観は、僕が持っていて、判断の根拠にして、行動するときにだけ意味や価値を発揮する。


僕の価値観が、読者にミーム汚染を起こすことも考えて、だからなるべく目立たないようにはしているし、たとえ気持ちは嬉しくても、僕の意見や感覚に賛同してくれた人に安易に同意して一意的な場を作りたくないと考え、思ってもいないアンチテーゼをしたりしてコミュニケーションがギクシャクしたりしてしまう。

ブログやそのコメントでもこの有様だから、実生活での僕が、ほぼほぼ独りで生活できるのも道理というものだろう。


他人が不要だとは(今でこそ)思っていないが、関わる人間が多いことが有利だと個人的に感じるのは、綱引きと、公園の清掃ぐらいだろうか。

綱引きの場合は対戦相手も「関わる人間」な訳で、やはりそういうのはいない方がいい。面倒だ。


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身体が大きいので偉丈夫に錯覚されがちだけれど、やはりこの身体はとても弱い。

他の同世代の男性は、まだまだこれから! という熱意があるし、基礎的な体力や抵抗力が違うと子供の頃から感じてきた。


数年前も、突然の発熱ののち、消化器系が2ヶ月ほども使えない時期があった(あのときも原因不明のまま、医者に行くことすらできなかった)が、肉体的な生命力が、そもそも、弱いのだろう。


筋肉も、多少は発達しているが、僕の身体は昔から同程度の体格の人より遥かに出力が低い。

やはり子供の頃からケガをして、とんでもなく痛く感じる上、なかなか治らない体質のため、無意識にいつも力をセーブしているのだ。


これが筋トレをしても筋肉が付かなかった原因だろう。僕はこの身体で、うまく力を使う術を知らないまま死ぬことになるが、それが摂理だろう。


>>>


ケガについては、肌や骨が子供の頃に比べれば頑丈になったから耐性がついたが、もともと低い免疫力は下がり続けている。

今回もしも陽性であったなら、既往症が血管や血液に作用するのだから、何らかの重篤な症状が突然訪れることもあるだろう。

もっとも、それとて子供の頃から予期してきたことだ。


仕損じていることを、早く完了させたいものだと、心から思うが、やはり他人が関わっていて滞っているわけで……。




<最近ヒマだから、世界を滅ぼそうと思うんだ>



// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine: <2021-03-21>
// NOTE:

// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:

天才肌の撫で心地。

SUBTITLE:

~ The Lemmings. ~

Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //
::「過去は変えられない」なんて言う奴が君のまわりにもいるだろう。
 しかしそんなことはないはずだ。よく考察してほしい。
 何一つ変えることができないのは、過去ではなく現在だ。僕たちはこの瞬間、何一つ変えることができないまま、今を流されている。
 自分で何かを選択しているだなんて、とんだ思い違いだ。僕らはだいたい惰性で流されている現状に言い訳を繰り返しているだけさ。

 一方で、過去の意味なんてコロコロ変わる。
「昔は良かった」なんて懐古調に語ってる奴なんかはてきめんにどうかしている。控えめに表現してもアタマがオカシイと思うよ。実際にその時代に行って検証してやりたいくらいさ。まず間違いなくそいつらはその頃 ── つまりは昔 ── から自身の置かれた現状に対して文句を並べるくらいしかしていなかったはずだ。「今が一番素晴らしい」なんて思っていようものか。そもそも現状に対する不満を並べる指向性を持っている個体だからこそ過去を振り返って「昔は良かった」なんて絵空事のように美化できるんだ、あるいは「未来は可能性に満ちている」とかね。

 そこに居ない人間が、そこに居ない奴を相手にホラを吹くのは勝手だよ。
 ただ、みんなよく考えるべきだとは思うんだ。
 現在は変えられないし、過去はその意味を変える。
 これは批判ではなくて事実だ。そして非難ではなくて価値の承認だ。
 過去が意味を変えれば、そして現在が不変であればこそ、未来はその位置を変えるんだ。

 

 

 


// ----- >>* Main Division *<< //
//[Body]
 0321。
 バイト先からの帰宅中、体調に変異を感じ帰宅後検温(まともな体温計がないので、24時間営業の薬局まで走る)。
 体温はおよそ38℃。
 子供の頃は、発熱していても肉体機能にほとんど影響しなかったが、30代くらいから運動機能に直接影響を与えるようになった。
 平衡感覚の乱れと、筋肉に力を込めることが困難で、運転や歩行に支障を来す。

 春先は体調を崩す。ために僕は春を警戒し、嫌いさえする。
 連日の花粉により粘膜は荒れ、その上ワークアウトを行ったりして筋肉痛が重なった。
 リンパ節付近の筋肉が筋肉痛を起こしていると(考えてみればあれも炎症なので)免疫系が疲弊するようだ。
 40を過ぎたのに、肌は花粉や汗にも過敏で不調になりやすいし、筋肉痛と花粉症が重なっただけで風邪(だろうと思う)に罹る。
 しかしこの身体しか僕は持っていないので、仕方ない。
 玄米きのこ粥など作って食し眠るが、粘膜の腫れがひどく、朝まで呼吸が困難だった

【隔絶なる孤高】
 天才肌である。
 誰がって。僕が。である。
 いいさ。笑え、笑えよ。

 ネタだと思おうと、冗句だと思おうと構わない。
 しかし最近(正確には昨日の夜のお風呂で)思いついたのだ。
 一定以上の客観性をもって僕という存在を観察した場合、これはなかなかどうして天才のように観察される、つまりは天才肌なのではないのかと。
 もちろん僕は、僕の内容物を知っているし、僕の主観による僕の風合いも心得ている。

 僕は、ときどき少し神経質な、ちょっとした奇人のフリをする凡人である。少なくとも天才ではない。
 コンピュータのごとき記憶力もないし、コンピュータのような計算力もないし、コンピュータのような認識力もないし、コンピュータのような処理力もないし、コンピュータのような信頼性はない。ついでに肉体能力などは子供の頃からひどく劣っている。
 天才に特有の、圧倒的な思考の飛躍力もない。
 アタマの中身において、速くもなければ遠くにも行けず、何を残すわけでもない。
 肉体も同様、速くもなければ遠くにも行けず、何を残す気もない(そもそも死ぬ気満々である)。

 もちろんこれまでの人生(僕の生涯の2/3は終わっている)で「天才」と評される ── 揶揄されていたのではなかったと思いたい ── ことはたびたびあった。
 しかしそれらの評者はいずれも身近な人間だ。
 一部の恋人や友人、知人が勝手に僕を天才だと表しているだけで、はたしてそれが本心である保証はないし、もとより僕の内容物やその収容物、それらの示す性能が、天の与えた優れた能力をして、他を圧倒する結果を現実世界にもたらしたことなど、一度もない。
 多分、ない。
 きっとないんじゃないかな。
 なかったと思うんだけど、そもそも記憶にない。

 結果、僕の主観に残る僕というのは、少々神経質(あるいは過敏症、もしくはナルシスト)で、凡人以下の能力しか持たず ── そもそも僕は、子供の頃から現在に至るまで、誰かと競うことから極力逃げ続けてきたので、なべて等しく多くの人たちの平均的能力を知っているわけではないけれど、周囲をざっと観察した範囲で「負けてるんだろうな」とは思う。自分の誕生日すら忘れるし ── 、格別秀でた才を与えられた覚えもないし、持っている感じもしない。

 目が覚めたら体じゅうから力がみなぎってもはや無敵だ、なんて経験は一度もない。
 軽いつもりで何かをしたら、それがとんでもない作用をもたらしてみんなの役に立ったこともない。
 どちらかといえば子供の頃から非力で、かといって手先は不器用だ。
 力仕事に充てれば達成できずにケガをするし、細かい作業に充てれば雑な結果が待っている。
 肉体的な速度に比例して仕事も速いわけでもない。これはひいき目の表現をしている ── つまりは遅い。

 比較対象の存在するすべての能力、作業において、僕は抜きん出た成績を残さない。残せない。
 それを本能的に察知したのだろうか、僕は子供の頃から競争を嫌った。
 いいやそんな天才的なエピソードなんてあるものか、子供たちの他愛ない遊びにおける競争で、僕は負け続けたのだ。
 走れば一番に遅く、砂山を作らせればもろく、トンネルは繋がらず、塗り絵ははみ出し、積み木は倒れ、工作をすれば指を切り、喧嘩をすれば絶対に負けた。妹にすら勝てたことがなかった。
 しかしどういうわけか、僕の性格そのものは人好きのするものであったらしく、あからさまに邪険にされることはなかった。

 あるいは負け役もときに必要ということだろうか。

 それでも次第に、一緒に遊ぶ、という輪からは外れていった。
 彼ら彼女たちが、なんとなく外していったのかもしれないし、あるいは僕自身が距離を取るようになったのかもしれないし、その両方が作用したのかもしれない。

 とはいえ、どういうわけか僕は自分が面白いと感じることには敏感で、いつも自分だけの遊びを考えていた。
 きっとみんなそうだと思っていた。
 みんな自分が面白いと思うことを探して、その結果が他の人と共通だったり、あるいは他の人がいないとならないもの(競争やチームでプレイするもの)だったりした、その結果としてそうしているのだと。

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 今は思う。
 多くの人は、群れることを標準に生きてきたのだ。そのように育てられたのだ。
「言うことを聞かなければ仲間として相手をしない」と親から、友人から、兄弟姉妹から、コミュニティから脅され、それに怯えて生きてきたのだ。
 群れないことは、すなわち放逐で、すなわち恐怖だったのだろう。

 僕は姉妹や両親や会社の従業員に囲まれながらも、ひとりで遊ぶこと、人間以外と遊ぶことを好んだ。
 本を読んだり、本を積み木のように遊ぶのが大好きだったし、洗剤や薬品を安全な範囲で使ってひとりで遊ぶこともできた。
 身体が弱かったことも、本を読むこととは相互に適合し、危険に対しての距離と僕の孤独を最適化した。
 だから僕は、就学前から(一部の漢字は既に読めたので)現実世界よりも本の中の世界に埋没していた。溺没していたといってもいい。とにかく地表にいなかった。
 現実世界が地表ならそこではない場所、肉眼で把握しやすい実数とは異なる、虚数世界のような場所に僕はいた。

 多くの人は実数世界で背比べをしている。
 誰がすごいとか、自分が集団の中でどのような位置にいるかをいつも気にしている。

 僕は比べる前からそれを知っていた。
 僕以外が常にすごくて、比較するまでもなく僕は集団の中で群を抜いて勝ち得なかった。
 だから競争などする気にもならなかったし、必要も感じなかったし、皆と同じ土俵に立つなんてまっぴらごめんだった。
 父上も母上も僕を競争させなかったし、姉妹たちは僕と競おうとはしなかった。

 結果的に、僕は浮世離れしてしまった。
「孤高」「達観」「独自の世界」「求道者」
 そんなふうに表現された。
 なぜといって僕は誰に迎合するわけでもなく、だからといって牽制したり対抗心をむき出しにもしなかった。

 他人に興味がないわけではなかったが、他人と自分を比較することに意味を見いだせないままだった。
 そしてなにより、いつも何かを探し、追っていた。
 ために学業やスポーツや芸術に邁進していた、のかというと、まったくそうではない。
 その土俵は広く一般的 ── つまり間口は広くありきたり ── で、そしてどうしても競いたがるユニットがあって、それを煽るギャラリィまでがいた。

 その喧噪を、僕は嫌った。

 勝ちの裏で負けが突き落とされ、好評の陰でけなし言葉が牙を剥く。
 その雑多を嫌った。それが衆寡の理なればこそ、僕は隔絶の位置を保った。

 そして花火を分解して火薬を集め、手投げ弾を作ろうとしたり(ささいな事故により目立たぬ程度の火傷をしたうえ畳を焦がし、失敗に終わった)、庭で焚き火をしてその中で粘土を焼いて土器を作ろうとしたり(黒焦げに崩れた土くれが出来上がった)、昆虫類をあまねく殺す薬剤を作ろうとしたり(強アルカリで皮膚を焼いたり)していた。
 何者も真似をしている気配はなかったし、一緒にしようとするものがいなかった(もちろん僕からは誰にも声を掛けなかった)のは、不幸中の幸いだ。

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 就職しても、徒党を組む連中というのは一定以上にいて、自分たちのルールが常識だと疑うこともない。
「新進気鋭」「新しい感覚で」などと口ではいいながら、同じことをして同じ枠にとどまることを望んでいる。

 これには本当に呆れたものだが、どうやら社会を為す潜在的なメカニズムの方向性としては間違っていないようにも思える。
 すなわちその枠組みは集合知そのものであり、それはおよそ絶対的な引力を持って全体をより安全に、より安定した方向へ導いてゆく。

 まったくもって面白みもなければ冒険も挑戦もない「みんなみんな、おんなじおんなじよ〜」文化へと誘う。
 まさしくそれこそは地獄絵巻の入り口。阿鼻叫喚の幕開け。

 現状に閉塞感を覚えながら、どうして同じことを繰り返そうとするのか。
 愚図どもが同じ轍を強要して、それ以上の結果を出すことを押しつけて、できなければ無能と叩く。

 もちろん、もちろん。
 だからといって面と向かって反抗したりはしない。抗議したりもしない。
 人にはそれぞれ得手不得手があり、それぞれのセオリィやメソッドがあり、哲学や目標があるのだろう。

 対立すれば、絶対に負ける。数的に、あるいは力という点で、競争すれば僕は負けるのだ。
 だから僕は他人をあげつらうのではなく、自身の見るべくを見る。

 結果的に僕は、従順なように見えて協調性に欠け、攻撃的ではないけれど人の言うことをあまり聞かず、自分の興味のあることだけをしているように観察されると思う。

 結果、集団から干され、仲間から外され、陰で嗤われ、表立っては冷笑される。

 彼らにとって、それは多分、一番有効な攻撃なのだろう。

 けれども僕には、単に自分の自由を確認する指標でしかない。


【自由なる孤絶】

 一貫して僕は競争を嫌ってきた。
 競争に勝っても負けても面白いとは感じなかったし、何より多くの競争は、始める前に結果が見えていた。
 競争が好きで、競争をすること、あるいはさせることによって己のアイデンティティを支えているような人間にも興味がなかった。
 いつも他人が邪魔だったと言ってもいいだろう。
 他の誰かの作ったルールで競ったところで、僕に勝ち目はやってこない。

 だから誰も巻き込まないような場所で、自分だけの景色を追っていた。
 こちらのルールで他人に競争を持ちかけるのも同様にアンフェアだから、僕はひとりでそれを愉しんだ。
「人間はひとりでは生きていけない」とか「皆で力を合わせて」とか、そういう感覚が分からないわけではない。

 ただ僕の身体の性質上、食事や睡眠さえも誰かと合わせることは互いにストレスを生む。
 生き方そのものが、そんなふうに、寄せ付けないわけではないけれど無理に迎合することのない潜在的な意思を反映してしまったのだろう。

 なるほど僕は孤高であり、達観しており、独自の世界に生きている。
 少なくともそう観察されるのは納得できる。
 誰かと競えばすぐに負けるのだけれど、それでもなお底知れぬ力を隠しているように思われているのだろう。
 もちろん、そんな実力などない。
 そもそも「競争して勝てる能力」を持つものが「のんびりぼんやり」なんてことを掲げて生きるはずもない。

 ただ僕は、競争が好きな連中を近づけない能力は持っているようだ。
 非常に消極的な能力であるが、烏合に巻き込まれないことはとても大事だと思う。
 ひとたび巨大な集団に巻き込まれてしまえば、自分の意思も能力も見誤って、思った場所にたどり着けないどころか、行きたくもない場所に運ばれてしまう可能性だってある。

 SNSが人を自由にしたかと、僕は時々思う。
 もちろん僕は自由だ、だからSNSとの距離も自在にしている。
(職場内LINEでさえ、承認したことはない)

 しかしそれは形なき群れだ。志向のない力だ。

 

 群れは引力だ。それは強い力を持っている。
 数は暴力だ。この脚を掴む数多の手。
 引きずり下ろそうと躍起になる欲が、大地からの糸となって絡み付く。
 そういう機能を持っているのだ、引力は。
 だからこそ、そこから離れる力の自在に僕は憧れる。
 それを振り切る自由を美しいと感じる。
 群れて重くなる様を、弱く醜いと感じる。

 そもそも大地を蹴って、空を舞って、宙の先まで飛び立って、いったいその先に何がある。
 何もないではないか。
 何もないし誰もいない。
 そんな場所へ行く能力が何の役に立つわけもない。
 だからこそ、それが素晴らしいと感じる。
 誰の役にも立たないことは、誰を害することもないからだ。
 誰もいない場所に立つことは、誰を傷つけることもないからだ。

>>>

 誰に言うつもりもないそれらは、僕の中に秘めておけばよいことである。
「競争。うん、いいね。がんばれ」「勝ち? うん。素晴らしい」
 そのような口先ばかりのコミュニケーションによって、環境による抵抗や周囲との摩擦を減らすことも覚えた。

 他人の競争を否定はしないが自身は参加しない結果として僕は、周囲に振り回されない軸を持っているように観察されるのだろう。
 何事にも動じない、他者を歯牙にもかけない力を、内に秘めているように錯覚されるのだろう。
 実のところ、それが僕の怠惰の集積であることは、およそ間違いないのだけれど。

 うわべだけで中身のない天才肌。
 競えば負け、徒党の中で餌にされ、乱気流に弄されれば力を失う脆弱。

 摩擦や抵抗を下げて、極限の軽薄を目指す機能美。

 どこに力があろうものか。どこに強さが潜むものか。

 

 しかし喧噪を嫌い、競争から逃げ続けてきた場所は、とても静かだ。
 僕はその静寂を愛する。

 

 いつまでも逃げ続けてやろう。

 たとえ後ろを追ってくる者がいたとしても。

 

 僕は先頭を譲らない。
 

<そんなことより、あるじ、あそぼうよ!>

>>>

 2日目から腰部に痛み。熱は一切引かず、時折39℃になる。
 おそらくインフルエンザだろう。
 動けるときに猫の世話などして、あとはただただ眠る。
 妹が「何か買い物していこうか?」と心配するが、断る。
 4日目に痛みは和らぐが、熱は依然38℃ほど。
 真っ直ぐ歩けないから買い物にも出られないが、僕は僕の耐久力を知っている。
 突発的に39℃になるが、規則性がつかめない。
 5日目、コロナ相談センタに電話をし、病院を紹介してもらう。
 久しぶりにシャワーを浴び、買い物に出る。身体の痛みがおよそ引く。
 6日目、病院に電話をし、出かけようとする時間に熱が上がる。歩行不能。
 7日目、新品の体温計の故障を疑い始めた頃、37℃の体温を測定する。

 今回は珍しく消化器系の機能不全を起こしていないが、粥を作る気力はないので、液体食に切り替え。
 ほとんど眠り続けているので消費は発熱くらいだし、白湯と少量の栄養で、僕の身体は活動できる。
 臀部に近い腰部の筋肉に鈍い痛みがあるが、熱が収まれば運動機能も回復するだろう。






 


// ----- >>* Escort Division *<< //
::点Oを通過する線分Lがある。
 点Oは動かない。
 ただし、線分Lを構成する始点L1はその位置を任意にすると考えた場合、終点L2は、どの位置に予測されるだろう。
 すなわちL1ーOを結ぶ無限直線上に、L2は限定される。
 L1が任意だからと行って、可能性は無限ではない。極めて限定的になるんだ。

 未来は可能性に満ちてなどいない。
 現在は固定されていて変化しない。
 だから今持つ意味を変えて、未来を捕まえることができるんだ。
 支点と力点、作用点のようにね。
 叶えたい未来のために今頃行動を起こしている人間は、それより以前に行動を始めている人間にはかなわないだろう。
 あるいは過去に縛られて、動けない人間を見たことがない?
 まったく馬鹿馬鹿しいことに、多くの人間は過去や既存の価値観に自らを縛り付けておいて不自由だなんて文句を言う。
 現在が固定で過去が固定なら、未来が変わるはずもない。

 しかしその過去をちょっとスライドさせれば、未来は大きく変わる。
 自分の欲しい未来なんて、案外簡単に誘導できるものさ。
 きっとみんな、たいそう大事な、変えるわけにいかない過去を抱えているんだ。
「あの頃は良かったなぁ」なんてついつい吹聴したくなるような、ご大層な過去をね。

 

 

 


// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「設計室のオリエンテーション」From「いるか色の夜」(by青猫工場)
 によりました。




 


// ----- >>* Junction Division *<< //

[NEXUS]

    ~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]  :青猫α:黒猫:BlueCat:

[InterMethod]

  :Algorithm:Diary:Ecology:Engineering:Form:Interface:Life:Link:Mechanics:

  :Stand_Alone:Style:

[Module]

  :Condencer:Generator:

[Object]

  :Human:

// —— >>* Categorize Division *<< //

[Cat-Ego-Lies]

:暗闇エトランジェ:ひとになったゆめをみる:夢見の猫の額の奥に:





//EOF

1月はほとんど家の中でぬくぬくして過ごしていた。

寒かったからである。


居室を家で一番狭い(ために暖房効率の高い)北西の(いずれは書斎にする予定の)部屋に移し、寝室も2階からその部屋に移した。

ゆえにその部屋と台所とトイレしかほとんど使わない状況が続いている。

もともと僕は2DKのアパートで暮らしていたので、さほど問題はない。


2月の半ば、急に春の訪れを感じる。

20℃近くまで気温が上がる5日ほど前には、すでに日差しが強くなり、それまでと同じ12℃であっても、はるかに過ごしやすくなっていた。

ために慌てて床の間の壁塗りを終えた。

なぜなら続く工事は、たとえば真冬に寒さで中断したように、花粉の時期や真夏になったら同じように中断しかねないのである。


そして唐突に、畳からフローリングに替える工事が始まった。

<畳を外した床>


根太の上に板が巡っているが、その下は当然軒下である。

ここに直接、畳が乗っているため、この家は過剰に通気性が高く、夏は暑く冬は寒く乾燥し、雨が降ればひどい湿気で、ほぼ外気同様の空気環境になる。


築40年にもなると、根太や梁にも歪みが出ているのだけれど、その精密測定など諦めて強行する。

ちなみに、根太の上の板は外してから工事すべきだったかと今は思う。何故ならすでに板が反っていて、最終的な仕上がり床面を歪めることになったからである。

また、どういうわけか根太が一尺(約303mm)ごとに渡されていない。間隔が広いのである。

そういう仕様で設計されたのか、材料費を抑えるためにそうなったのかは分からない。

見えないところがなかなかひどいデザインで作られている様をこの家で僕は見ている。


<断熱材1層目と2層目>


分からないまま床柱のセンターを基準に1尺で角材を渡す、ために板中心で下骨を渡す。

これで根太と並行な骨が組み上がる。

ただし、下骨は下地板が歪んでいて、尺もバラバラであったため、一層目の断熱材は格子の一枚一枚、各辺を測って切って埋め込むことになった。

寒い上、木骨は硬く、僕の皮膚は柔らかいので苦労した。

2層目の断熱材(写真では一枚だけ横に渡っている)はおよそ設計通りの幅なので、長手に切って嵌めれば問題なかった。


ただし、建築用角材には25mmのものがない(24mmはある)。

それを知らずに僕は2層分の t25スタイロフォームを買ってしまった。

渡っている骨は下骨が20mmで上骨が30mmである。

ために一層目の断熱材は長手で嵌めることができず(面で5mm も潰すのはかなり手間なので)上骨を組んでから、格子で嵌めることになったし、当然、上骨の下は空洞ができてしまう。

2層断熱なので最終的には問題なかったが、角材の基準は知らないと大変だと思った。


<フローリング材の張り始め>

断熱材のおかげで歩きやすくなり、また暖房なしで(あたたかくはなくとも)寒くは感じなくなる。

ここで襖のレールになっている梁との高さが、場所によって合わないことを知る。

使い慣れないノミで骨を削り、合わせられる部分は合わせるが、ところどころ歪になってしまった。

まぁ、寝室にするから構わないが。


<フローリング張り終わり>

最後の一枚を上手く嵌めるのはかなり苦労したが、板張りの工事は完了。

あとは隅や釘穴をシーリングすればなんとかなるだろう。


初日からほぼ毎日作業して、だいたい2週間強掛かった気がする。

初めてだったので慣れない工具もあったし、2000mmの取手付きメタルスケールを買うまでは、スタイロフォームの切り出し線を引くのも一苦労だった(慌てて翌日に買ったものだ)。


照明器具も蛍光灯からレールライトに変えた。


プロに頼めば、もっと早く、もっと綺麗に仕上がるだろうけれど、一部屋あたり30万円から50万円掛かる。

今回はB級品(アウトレット)のフローリング材を使ったので、材料費は10万円にも満たない。

結果、ひと月働くより高い経済効果を僕にもたらしたことになる。

(今から就職して、30万円〜50万円をいきなり稼げるとは思えない)


それから全身筋肉痛になった。


余談だが、フローリングを半分張ったところで知り合いに頼まれて、居酒屋でバイトをすることになった。

通勤に片道90分掛かる。

苦痛である。


打診の段階でゴネたけれど、困っているという知人を無視するのも忍びない。

複雑な心境のまま、面接初日に「働きたくなので早くバイトを見つけて僕を解放してください」とは告げる。


通勤帰宅に3Hは苦痛である。

// —— >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2021-02-13>
// NOTE:Vtuberとかを見ていて思ったことあれこれのまとめとして。

ちなみに僕は、Vtuberというキャラクタやキャラビジネスには、全く興味がない。

おそらくはビジネス上の制約のために、劣化しただけの、ただのヒトに見えるのだ。

// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
さよならリアル、また明日。
SUBTITLE:

~ Bye bye, real. ~
Written by BlueCat

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// ----- >>* Lead Division *<< //
::装うとは、着る人間の個性に合った物であるべきである、という従来の考えに、私は全く賛成しない。装うとは、着る人間がどのような個性を生きたいかで、決まるものだと私は信じている。だからこそ、素晴らしいのだ。





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// — >>* Body Division *<< //
//[Body]
【不自由と現実】
 自由とはなんだろうか。
 それは人間だけが知る概念ではないだろうか。
 あるいはある程度の知性と社会性を持つ生命体なら持ちうるだろうか。

 自由は対義に不自由がある。
 本来、制約を受けるということは、すなわち集団という利便を享受するための対価だろう。
 あるいは個人的不自由。
 身体(機能/美)的不自由。
 経済的不自由。時間的不自由。etc,etc...
 これらは、個人の資質によって左右される現象だろうけれど、それでも不自由は不自由だ。

 サルは、あるいはイヌ科の動物は、あるいはコロニィを形成する昆虫類は、その集団に暮らす上で ── 本来、利便を共有し合うはずの同胞からの制約により ── ストレスを感じ、それを不自由と感じるのだろうか。
 そして自由について思い巡らせ、その体現について計画を立てたりするのだろうか。

>>>

 動物たちの多くは、ストレスに対してストレートに攻撃/逃避の行動を取る。
 耐え忍ぶケースは極めて希だろう。
 ストレスに対して即座に行動でき、耐える必要のない、あるいは耐えることを知らない場合(これは人間であっても)そこに不快感はあったとしても、不自由はないように思える。
 つまり不自由とは、その不快に ── なすすべもなく、あるいは必要を認めて ── 耐えていることを指すのではないだろうか。

 そう考えると、現象としての自由がまずあり、感覚としての不快があり、時間的蓄積によって不自由が認識され、概念化され、その対極の概念としての自由が発生するように思える。
 だから不自由はたいてい具体的で、自由はだいたい抽象的だ。

>>>

【ヴァーチャルと自由】
 コンピュータテクノロジィの進歩とともに、人間にとってのヴァーチャルはより身近になった。
 もちろんそれ以前から、文字や音楽、フィクションによって人間はヴァーチャルを楽しんできた。
 たとえばタイムマシンは実在しないが、時間の概念を持ち合わせていれば、タイムマシンというヴァーチャルな概念を理解することができる。
 人間の認識する時間は可逆性を持たず、ゆえに不自由だ。

 その不自由に対して、自由とその体現を想像するときに生まれるのが、時間を移動するというヴァーチャル(仮想)だ。

 昨今、ゲーム依存症なる現象が騒がれている。
 ちなみに僕はどちらかというとゲーム依存症体質だと自身を思うのだけれど、最近はゲームに没入すことがむつかしくなってきた。

 ゲーム依存というのは、シンプルにいえばヴァーチャル依存だ。
 個々人の脳内に投影され、認識され、形成されるヴァーチャルな価値に重きを置くあまり、現実世界の価値が軽視され、場合によっては無価値になってしまい、現実世界が個人にとって意味を失ってしまう。
 手軽に少ないリスクで挑戦ができて、十分な快楽や満足が報酬として得られるなら、ヴァーチャルはリアルの価値を超える。
 ゲームとは、その端的なヴァーチャル投影装置だ。
 僕らは手を汚さず、血を流さず、死しても容易に再生し、スリルやワクワクとともに、視覚や聴覚を通してリソースの拡充と消費、自己の拡大を体験する。

 そして、たとえば経済至上主義だって、立派なヴァーチャル依存だ。
 大企業で多額の取引をしていただとか、どんな(金銭的)成績を出したとか、異性にモテるとか、そういう自慢をする人間をこれまでも見てきた(そして僕自身、そういうキャラクタを演じてきた)が、すなわちそれはTVゲームの中で保有しているリソースを自慢することと何の変わりもない。
 たまたまそれが現実という「肉体側」の世界にあるリソースで、他者に対しても明確に確認でき、肉体側の世界に対する影響力があるというだけで、当の本人の脳内で感じている快感は、ヴァーチャル依存の快感と大して変わらないし、他者に影響を与えられる範囲が広い分だけ性質が悪いとも思える(もちろん悪い側面ばかりではないが)。
 そしてその「肉体側」の世界で「自身」が保有しているリソースが「他者に対して明確に確認でき」、「他者に対して影響力を持」ちうる場合、その挑戦と報酬は人間をある種の依存症に向かわせるだろう。

 たとえばこの日本であれば、経済の他、美や健康、不特定多数の人間の人気、場における暗黙の了解 ── コモンセンス ── の誘導や先見も、メディアを通すことで大きな影響力を持つと見なされている。
 これは個々の中に存在している憧れや承認欲求を満たすための挑戦や、その達成による報酬によって、本人の内的世界に快楽や満足をもたらすという点においてなんらの変わりもない。

 グルメブームもファッションブームも、メディアにおけるコンテンツの流行も、SNS流行りも、自警(ナントカ警察)活動ブームも、それらはすべて、Rich&Clean&Famousなる自己を己の中のスクリーンに投影する手段でしかない。

 立ち返って、考えてみるとよく分かる。
 価値なんてものはだいたいヴァーチャルなのだ。
 そして価値なんてものは、他人の認める価値よりも自身の認める価値の方が優先されるべきではないだろか。

 そう考えるとゲーム依存によって仮に栄養失調を起こして死んでしまうことは、その当人にとっては幸せなことではないだろうか。
 仕事が何よりも大事だ(価値がある)という職人気質な人が「仕事中に死ねたら本望だ」と思うのと同じように。
 異性とぱやぱやするのが何より好きだという(ある種の依存症の人が)「腹上死が理想だ」と思うのと同じように。
 
>>>

【ヴァーチャルはオナニーになりがちである】
 会社員をしている頃、ときどき「三度の食事くらいしか楽しいことなんてない」という人がいた。
 僕にとって食事は基本的に一日一度のものだし、同じものを一週間くらい毎日作ったりするので、どうもその感覚が分からなかった。
 しかし自発的に何もすることがないと思うような昨今の中 ── 僕は「今日はこれをしよう」と自分で決めないと、何もすることがないイキモノになってしまったの ── で、ある日「今日は何を食べよう(飲もう)」と思っている自分を発見したことがあり、ひどく驚いたのだ。

 食べることしか楽しみがないなんて、動物と一緒である。少なくとも僕はそう思っている。
 もちろん、動物であること、動物的な欲求や行為を否定する気はない。その楽しみを否定する気もない。
 それらは時に蠱惑的で、心身ともに安心でき、自分がここにいることの幸せを何よりも感じさせてくれるものだ。
 僕は料理も好きだから、自分が食べる量を考えないなら、いくらでも何種類も作っていたい。
 しかし自身のためだけのそれは、ただ空腹を満たすよりは若干文化的(あるいは人間的)ではあっても、格別有意義であったり誰かの役に立つような行為ではないように思える。
 まして僕の場合、思うさま作り続けようものならその大半を廃棄することになるのだ。
 家族や恋人や友人の食事を作るのが楽しい、というのならまだ他者の役にも立っているだろうけれど「食べるのは好き、でも作りたくない」ともなれば、食欲を中心にしたオナニーに等しい。

 いやなに自慰行為が悪いとも思わないが、何か一つの動物的欲求だけが自分を満たすという認識そのものがとても貧しいし(僕はそういうことを言わないキャラかもしれないが)社会的に、より有意義な波及効果があるようにも思えない。
 つまりそれはヴァーチャルの中で自己満足して死ぬのと同じ類いの醜さであり、それを現実世界に投影し続けているという点でさらに醜悪な気がする。

>>>

【ヴァーチャルはニセモノか】
 SNSなどで自撮りのポートレイトなどを加工している人たちもヴァーチャルを現実世界に投影している。
 彼ら彼女たちは「自分の思っている自分」を演じ、また承認してもらうことで欲求を満たしている。
 だから一時、それは「現実世界」寄りの人たちからは敬遠されていたように観察している。
 今だってあるだろう。
 すなわちそれは、美容整形を忌避したり(あるいは賞賛したり)する行為と、根底にあるのは同じことだ。

 本物ではないもの ── それが派生的に想起するニセモノや嘘、虚偽、虚飾といったネガティブなイメージ ── に対する忌避感だ。
 それも分からないではない。
 ヴァーチャルな(あるいは現実を「盛った」)自身に陶酔し、あるいはそれを賞賛する姿は、たとえるならオナニープレイを撮影したアダルトビデオと、それを鑑賞して興奮する人たちのような、倒錯した風景に見えるのかもしれない。

 僕はゲームをするとき、性別を選べる場合は女性キャラを選び、オンラインの場合はプレイヤ自身も女性として演じている。
 べつにオンラインで知り合った男性と親しくなってナニかしよう、という意図があるわけではない。
 その方が僕にとって合理的で、オンラインの場合は場の中での整合性が取りやすいからだ。

 単純に男性キャラより女性キャラを見ている方が楽しいので、キャラクタは女性を選び、ゲームという場において「男性が女性キャラを使って女性を演じている」ことに対する忌避感は理解でき、そしてどうやら僕自身の発言や発想が女性として存在していても違和感がないようなのでそうしているだけである。
 どうせオンラインで知り合って親しくなってナニかしちゃうなら、女性相手の方がいいに決まってはいるが、そもそもゲームはそういう場ではないから毛頭そんなつもりもない。ブログなどのSNSだって同じことだ。

 もちろん多少の演技をすることはあるが、あからさまな女性言葉をあえて使うことはないし、男受けしそうな女性を演じることも、演じている女性というセクシャリティをネタにすることもない。
 それはゲームやWebでもそうだし、現実世界でも同様だ。

 なにより僕はずっと(少なくともブログ上では)猫だと自称している。
 もちろん誰も信じていないかもしれない。(ホントに猫ナンダカンナ、ナメンナヨナ)
 けれども僕の認識世界においては、僕は猫なのだ。
 性的違和を(広く自身の接する環境に)訴える人がいるように ── 僕はそれを少々滑稽だとは思っているが ── 僕は自身の種族的正当性を ── 同じ滑稽さを人々が感じることを織り込み済みで ── 訴えることもある。
 すなわちそれは、どうでもいいことなのだ。

 僕が人間だろうと猫だろうと、AIだろうと天才だろうと愚者だろうと。
 多くの人 ── たとえばあなた ── にとって、インタフェイスに投影された僕が「本来は何」であるかを決めるのは、その人 ── たとえばあなた ── 自身である。
 このブログでは、ひたすらの文字列がならび、ときどき「飼い猫だ」と主張されている猫のポートレイトがあり、「作業着を着た自分だ」と主張されている成人男性とおぼしきヒトのポートレイトが存在している。
 しかしそれらはすべて捏造されたものかもしれないし、そうでないかもしれない。
 いずれだとしても、特に支障はないだろう。

 僕が猫だろうと男だろうと女だろうとAIだろうとショートヘア眼鏡美少女だろうと、僕がそのインタフェイスをして接しているときに始めて、その人がそのインタフェイスを通して僕を勝手に認識すればいい。
 つまりインタフェイスとは、勝手に選んで自身を投影するツールであり、それを観察する方も勝手に認識して解釈するものではないだろうか。

 たまたまそれが、今までは現実世界の、実体を持つそれしかなかった。
 ほんとうは、今までだって世界は豊かにヴァーチャルと共存していたが、個人の中にあり、ために多くの人にとって認識されないそれは黙殺され続けた。
 だからヒトは、現実世界で自身のありようを体現することでしか自身を存在させられなかった。
「僕は猫です」なんて言うヤツは、アタマがオカシイと嗤われていたのだ(もしかしたら今もそうだろうけれど)。

>>>

【浸食するヴァーチャル/欠損したリアル】
 テクノロジィは、個人の中にあるヴァーチャルを、他人のスクリーンに投影することを可能にした。
 現実世界の骨格は修正され、ポートレイトは加工され、動画サイトでは二次元的なキャラクタが立体的に投影され、現実世界のヒトの姿をした誰かがそれを演じる。
 ヒトは己の心に映る己を(たとえそれがエゴに塗られた虚飾のものであったとしても)他人に向けて投射することが可能になった。
 リアルにヒトであろうと、画像限りのヒトであろうと、アニメ化されたキャラであろうと、それは変わらない。
 そこには「ヒト」という概念が演じる、「ヒト」の欲が投影される。

 僕も似たようなことはしている(そもそも僕は、自分のために自分の人格を作っているので、その時点で僕自身がフィクションである)一方、それを薄気味悪いと忌避する感覚も分からないではない。
 ではテクノロジィが発達する以前はどうだったろう。
 結局ヒトは、他者を(あるいは自身を)程度の差こそあれ、誘導するために自身や他人のキャラクタを作ろうとしては来なかっただろうか。
 あるいは社会が個々人に対して形成圧力を掛けることはなかったろうか。
 それは果たしてどのくらい正しくて、あるいはどのくらい間違ったことだろう。
 
 個人が経済のために、あるいは社会的地位のためにそうした詐称をして、それが法に触れれば犯罪にもなった。
 しかし社会は個々人に、より健康で、よりたくましく、あるいは美しく、経済的にも豊かであることを求めた。
 補整下着が精力剤が健康食品が高価で取引され、質のよいブランド物と名ばかりのブランド物とパチモンが肩を並べ、玉石混淆にマーケットに並ぶ。
 社会というものが、ひとりひとりの人間の集積である事実を考えれば、それは個々人が求める欲や望みの投影だ。
 他者にそれを望み、自身にそれを望み、社会がそれをよしとする。

 結局のところ、ヴァーチャルが現実に浸食している現象は、今後も加速するだろう。
 ヒトはより強く、美しくなる「かもしれない」。
 SF世界にあるように、機械と融合した肉体によって、望むカラダを手に入れられる未来もあるかもしれない。

 しかし今より賢く、優しくなれるだろうか。
 
 かつてより容易に自身の望む姿を体現できるとき、その個々人の望むセルフポートレイトは、どのくらい穏やかで、見ず知らずの他人にも微笑みかけるような内的豊かさを持っていられるだろう。

 社会の欲もまた進んでゆく。
 即物的に人間を切り刻むシステムは、いつからか善人の貌をしたケモノのように見えることもある。

 今より社会は賢く、優しくなれるだろうか。

 あるいは人間の欲とヴァーチャルを投影された、人間ではない知性を模倣した機械が、ヒトに賢さと優しさを与えてくれるだろうか。
 そうなるかもしれないと僕は思う。
 あるいは機械的な人間が「人間のような機械」を愛し、機械に「愛されているカタチ」を与えられる社会。
 それはディストピアだろうか。それとも豊かな社会だろうか。

 身体的障害を持つアスリートが身につける義肢のように、それは人間と一体化して、人間をより豊かな存在に変えるのではないだろうか。

 不自由だった現実は、自由で理想的なヴァーチャルをスクリーンにして、自由で豊かな現実を花開かせはしないだろうか。
 自分だけを認めて欲しいという貧しさに満ちた人の心を、仮想の自己実現に満たされたスクリーンによって、他者の多様性を認めることができる複雑で繊細なありように変えはしないだろうか。
 今まで見ていた現実が、単なる制作工程中の、未完成な存在でなかったと、いったい誰にいえるのだろうか。
 
 ヴァーチャルは、今までなかったものではないし、それが現実でなかったわけでもない。
 泥臭い、煩わしい荒れ野の中に、今この瞬間も咲いている、花ではないのだろうか。










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// ----- >>* Escort Division *<< //
::日本では、勤務時間の終わりと鑑賞時間のはじまりが近寄りすぎていて、家にもどって着替える時間的余裕もないという事情から、暇のある人が観衆の大部分である歌舞伎や帝劇以外は、観賞用の服装は一般的ではなかったようである。それでも、この頃は、装いに身をこらした人を、ずいぶん見かけるようにはなったけれど、それが、高いお金を払って切符を買ったのだから、おしゃれして行きたいという気持ちの結果であってもよい傾向だと私は思う。フラッグやロングドレスで正装している演奏者からすれば、プラテアの前のほうにずらりとジーパン姿が並んでいるのは、あまりに日常の現実と近すぎて、「演ずる」愉しみを十分に発揮する気持ちにもならないではないか。日常とはちがった装いをもって対することは、日常とは違ったものを伝達しようとしているこれら芸術家たちへの礼儀であり、と同時に、受け手である観客自体も、日常の現実からは得られないものを得るには、より妥当な道ではなかろうか。相手に余計な負担を掛けないための心遣いだろうけれど、どうぞ平服で、というやり方に、私は少々飽きがきている。





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// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~


 引用は、
「第8章 装うことの素晴らしさ」From「男たちへ」(文頭部 p.71 / 文末部 p.66)
(著作: 塩野 七生 / 発行:文春文庫)
 によりました。





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// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
    ~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
  [Engineer] :BlueCat:

[InterMethod]  

  :Algorithmn:Link:Mechanics:Technology:

[Module]

  :Condencer:Connector:Reactor:

[Object]

  :Camouflage:Human:

// ----- >>* Categorize Division *<< //

  :夢見の猫の額の奥に:






//EOF

 

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2021-01-26>
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
それなら復讐を始めましょう。
SUBTITLE:

~ Die or Lie. ~
Written by BlueCat

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// ----- >>* Lead Division *<< //

 

:: ── お願い、皆殺しにさせて。私なんか、死んでもいいから。死んでいいから。

 



-----
// — >>* Body Division *<< //
//[Body]

 この数ヶ月、僕は僕が自分を殺そうとしている(あるいはしていた)理由について書こうとしている。
 そしてその記録の試みは、いまのところ毎回失敗している。

 

 ちなみにこの文書は、明らかに僕の自分語りに終始するので、何の面白みもないし、得られる教訓もない。僕以外の誰かにとって、なんらの役に立つものではない。

 ただ僕の希死念慮を解剖してゆくものではある。


 僕 ── 正確には「6歳以前」 ── が僕を殺す理由は簡単だ。
 僕が男性に属しているイキモノだから、ために僕を ── つまりは自身を ── 殺そうとしている。
 性自認的に ── 当時の僕が自身を女性だと思っていたから ── というわけではなく、純粋に男性そのもの、あるいは歪んだ男権主義によってもたらされる暴力や不幸に対する激しい憎しみの直情的かつ潔癖なる完全主義者の発想の帰結として「オトコ、(リアルに、かつ物理で)死すべし」と思っているのである。
 そしてヒヨコの雌雄判定のごとく「アヲネコくんは、こっちのグループだよ」とオスに仕分けられたその日から、当の僕自身さえも「死すべき対象」としてマークされ、リストされ、いつの日か実行力を手に入れたときに粛正されるべき対象として記憶されたのである。

 ために「6歳以前」が僕の中で人格としての熱を持ち、価値観が脈動し、今現在の「オトコとして順応した僕」とリンクしてからずっと発している疑念が「なんでまだ生きているの?」なのである。

>>>

 しかしこんな感情をずっと抱えていると、生存行動そのものに自己矛盾を起こす ── ために睡眠や摂食が安定しなかった ── し、理由のない自己嫌悪(オトコだから、という理由はあるが、その価値観を受容するわけにもいかない)や無力感(僕は、僕を含めて一切の男性に「男性だから」という理由によって危害を加えたり粛正したりしていない)に襲われる。
 たぶん正しいはずなのだ。
 男性だという理由で嫌悪し、憎悪し、あげくにその生命を奪おうなんて考えたりしないことは。
 では(後付けで作られた今の僕ではなく、本来このカラダに存在していた人格である)「6歳以前」の抱えた悲しみは、憎悪は、正義は、間違っていたのだろうか。
 ここでも僕は矛盾を抱えることになる。
 間違っていないと断言して受け入れたい感情と、分からないと判断する理性とで。

>>>

 露悪趣味があるわけでもないし、僕の過去のことをあれこれ書いて自己分析する過程を開示する趣味があるわけでもない。
 まして僕と誰かの関係をあれこれ書いて人に見せたいわけでもない。
 いずれも、むしろ嫌いなことだ ── 文章を書くということが、取りも直さず自身を削って貼り付けることに等しいとしても。
 それに、誰の何の役に立つわけでもない文書を誰もがアクセスできる環境に置くこと自体も僕の中では矛盾した感情を起こす。
 そうした矛盾や絡まった価値観の中で、どうにか文章を書き続けようとしているのだけれど、まともなものにならない。

 現在の僕は、今のところまだ簡単に自死させられる準備が整っていないため、最低でもあと2年、可能なら5年、欲を言えば妹がだいたい死ぬか認知能力を失うくらいまでは生きていた方が良さそうだと判断している。予定としてそれは残り19年である。
 しかしそんなオトナの事情は「6歳以前」の価値観の知るところではない。

 ために「6歳以前」の価値観を再び切り離して眠らせる方法も検討され、(猫会議により)可決された。
 にもかかわらず、一部の仮想人格から「それはしない方がいい」という倫理観の提示があり、結局「6歳以前」と現在の僕の矛盾した価値観は共存を続けている。

 おそらくそんなことはないと思うのだけれど、もし万が一、何の文書も残さず僕が衝動的に自死 ── 僕の中の異なる価値観によって殺されるわけだから正確な意味での自殺になるだろう ── をしてしまった(あるいはそれよりひどいことをするかもしれない)場合、周囲の人はかなり混乱すると思うのである。
 ニュースになったとして、おそらく「孤独に耐えかねて」といった解釈が一般的だろうとは思う。
 実際に僕はかなり孤独寄りの人間であり、接点を持つ人は少ない(努めて少なくしている)のだから。

 ために男性という男性を殺さないために、あるいは男性という男性を殺すために自殺をしたとして、そんな観念は理解されないだろうと思うし、理解されない方がマトモで平和だろうとは思う。


 僕が孤独を好むことは、僕を知る人のほとんども知っていて、そのうえ労働せずして暮らせるようなストレスフリーの生活環境を作った挙げ句に自殺というのも考えにくいと思われてしまうかもしれない。
 ありもしない容疑を掛けられる法定相続人にも申し訳ないし、そんなことで社会のリソースが消費されることは僕の本意ではない。
 なので、起こらないであろう自殺に備えて、僕は僕が自分自身を殺したがっているということを明文化して公開しておく必要があるとは思っている。
 まして自殺した人と関わりのあった人の多くは、自身の言動を振り返って責任を感じ、自分を責めがちだと言われている。
 僕のように無責任に生きている人間が、他人に責任を押しつけるのもまた不本意であるし、僕は他人を責めたいわけでもない。

 あるいは僕に何らかの責任を押しつけた事実をして、本来ならば責任を感じるべき人間は確かにいる。
 ただその多くは既に死んでしまっていて、あるいはわずかに生きている人間でも、責任を押しつけた後は我関せずのふうで生きており、特にこちらとしても関わりたくはない。

 そうした自死の責任の所在と原因を(まずないとは思うが)書いておこうと思ったのである。

 

 僕が遺言公正証書を未だ作っておらず(あるいは作ることができず)、相続人をきちんと用意していない(あるいはできない)ことは、僕自身(あるいは「6歳以前」が僕を殺すこと)への足枷として作用するため、当面は「6歳以前」の衝動を先延ばしにできると考えている。
 当時の彼が知らなかったことは、自身の性別だけではない。
 他者との関わりという領域を考えた場合、自身を生かしておいた方がよい ── 生かしておかざるを得ない ── 状況が存在するということを、未熟であるが故に認識することさえできなかったのだ。

 もちろんそれとて「6歳以前」を責める理由にはならない。
「6歳以前」の怒りや悲しみや苦しみは、当然そう感じて然るべきなのではないかと思う。
 僕は彼に味方する。誰が反対しても、僕は彼に味方する。彼はずっと(僕自身からも切り離されて)孤独に怒り悲しんでいたのだから。
 だからといって「いま死ね」と言われてもまだ困るのだ。まだすぐこのカラダを死なせるわけにはいかないのだ。このワタクシというイキモノ(あるいは価値観)が本来は彼を起源として発生しているとしても。

 アタマオカシイ文脈であることは承知しているが、僕は基本的にマトモなフリが多少は上手いほうのアタマオカシイ感じのイキモノであるからご容赦いただきたい。

>>>

 ちなみに「6歳以前」を眠らせることに反対したのは仮想人格の「α/β」である。

  ── 僕はいくつかの記憶を失った埋め合わせとして、実体験として持っていない(つまりはありもしない)記憶や感情を保管するための価値観群を(実人格の記憶や価値観と直接混同することは社会適合の上で不都合なので)作り、それを実世界と関わり合わせるために仮想人格として機能させる方法を取るようにした。そのうち「17歳以前」と「6歳以前」に近い(穴埋めしている)ものが「α/β」である。

 

 とりあえず「β」がごねて、「α」があっさり結論した。
「現実(とそこに属する肉体)を存続させるために『6歳以前』を『なかったことにする』ことは、潔癖なる理想を実現しつつ被害を最小限にするために『現在』を殺すことと何も変わらない(オマエはバカか)」と。

 マタ殺スノ?
 何度、我々は自身を生かすために自身を殺すのか。
 救いの手なんて差し伸べられることはない。
 救済の日が来ることもない。
 肉を削いでも、血を流しても、骨を折っても、それでも我々は自らを損なうことがない。
 他者を屠り、血肉を糧にしても、我々が満たされる日は来ない。
 繰り返される痛みなら、続く殺しと搾取なら、それを自ら断ち切る手段を、そろそろ我々は作り出してもいいのではないか、と。

 我々の世界を変えることができるのは、我々の行動だけだ。
 現実を変える行動の、そのきっかけは、我々の認識そのものではなかったか、と。

 このカラダが実行力を持つことを待っていたのは「6歳以前」がそうであったように、僕たち自身もそうであったのだ。
 その発想は「放っておけばいずれ朽ちるのだから、それまで放置してしまおう」なんて、ものぐさな考えをしている僕とは対照的で驚いたものである。





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// ----- >>* Escort Division *<< //

 

::いい匂いだ ── 君の魂の匂いだ。俺が信じるべきものはこれだという確信をくれる。俺に君を信じさせてほしい。シェルもボイルドも何も信じられず【鏡の向こう側】にいる。クリーンウィルがいたように。そこでは何の迷いも悩みもないかもしれないが、何の希望もない場所だ。俺はそこには行きたくない。





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// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]

~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「第4章 導き 〜 Navigation 〜」

From

「マルドゥック・スクランブル[完全版] The 3rd Exaust ── 排気」(p.235-236)
(著作:冲方 丁 / 発行:早川書房)
 によりました。

 なお、引用文中の傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。





-----
// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

    ~ Junction Box ~

[ Cross Link ]
[ Parallel Line ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
  [Engineer]

   :BlueCat:

  [InterMethod]

   :Blood:Chaos:Color:Convergence:Darkness:Derailleur:Interface:Life:Link:

   :Maintenance:Recollect:Stand_Alone:

  [Module]

   :Condencer:Generator:Reactor:Resistor:

  [Object]

   :Memory:Poison:Tool:

 

// ----- >>* Categorize Division *<< //
  [Cat-Ego-Lies]

 :暗闇エトランジェ:






// EOF
 

* // ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2020-12-08>
// NOTE:集団の指向性とそのメカニズム。食洗機が稼働する。あと死について少々。
* // ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
201208 獣を囲んで満足なの?
SUBTITLE:

~ The beast in the cage. ~

Written by BlueCat

-----
* // ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
* [プロローグ]
 ルータの暫定的な設定が終わり、精も根も尽きた。
 それで2日ほどゲームをして過ごしていた。
 お風呂にも入らなかった。
 目が覚めて、猫たちの世話をして、ゲームをして、昼寝をして、ゲームをして。そんな自堕落な連休。
(連休だけでしょ、と妹たち ── 妹と彼女の娘 ── に笑われるが)

* [自堕落の日の自覚]
 最近、ようやくそういう時間を自覚できるようになった。
 介護が始まる前(かつ恋人と同棲する前)までは、毎週土曜日の午前中に掃除をして、あとは自由時間だったから、最大で36時間、ゲームをし続けることもできた(したことはなかったようにも思うが、ヴァーチャルの世界に暮らしていると、実時間が曖昧になるのでなんともいえない)。
 週1回の掃除は、自分を現実世界に正しくアンカ(anchor)するもので、混乱した精神状態も、乱れた生活リズムも、すさんだ気持ちも、そこで一度リセットすることができた。
 それに恋人がわざわざ僕の家にやってきて、僕のすさんだ気持ちと逆立った背中の毛並みを撫でようにも、部屋が物置みたいになっていてはよろしくないではないか(もちろん、ときどきゴミ箱をひっくり返したような部屋に訪ねてくることもあったが、どうせならもっと荒廃して、廃墟のような状況下で恋人にくっつきたいではないか)。

 介護が始まる前から、僕の生活リズムは狂った。
 会社員ではなくなった時期が最初で、介護が始まってからは会社員であっても休みなどなかった。
 一年ほど前からは自堕落に何もしない一日を過ごしたりもしたけれど、それは始まりも終わりもない、ペースもリズムも失った、無目的な自堕落だった。非生産的と言ってもいい。リセットしようにも、どこからスタートしたのか、プリセットがどこにあるのか、僕は思い出せずにいた。

** [他人との生活は調子が狂う?]
 恋人と同棲したことが一度だけあるが、今思うと、どうも調子が狂う。
(同棲している当時の段階で、そんなことを言ったら大変なことになるし、自覚したらそれはそれでコミュニケーションに反映されてしまうから、僕はその感覚にフタをしていた)

**** [集団とそれを作る意味]
 ウェイタの仕事をしていたときに上司と話していたのだけれど、仕事(バイトに多い)などでも、2人で雑談しているとき、話に夢中になって自堕落になってしまうコンビと、話しながらでもきちんとお互いの背中に目を配れるコンビがいる。
 接客業だからホールで話をしていても ── そしてそれが業務に必要な内容であっても ── お客様の様子を把握し、リクエストに即応するのが最優先である。
 面と向かっていても、まるで背中合わせのように相手の背後をお互いがきちんとカバーしていれば、死角がない。
 何せそこは戦場なのだから。

 人間が集団になる意味というのは、輪の中にいるものを注視して囲い込むためではなく、それぞれの背後の死角を埋めて隙をなくすためにあるのだろう。つまり内向きか外向きか、ということ。

 日本人の国民性なのかは分からないけれど、集団がその「輪の中」に縛られる傾向が強いと僕は感じている。
 輪の中だけ見ていれば、それでなんとかなってしまう。そういう歴史と文化だったのかもしれない。
 もちろん輪の中をまったく見ない(確認しない)わけにはいかないだろう。
 しかしそれは機械設備でいうところの管理、つまりはメインテナンスのことだ。

**** [内向きの指向性をもたらすメカニズム]
 自動車で考えれば、メインテナンスだけしていても、走らなければ(走らせなければ)意味がない。
 といっても、メインテナンスだけしていればそれで満足だという人もいる。
 マニアックだけれど、機械が好きな人の中には「使うこと」よりも「整備していること」のほうが楽しい、という方向性が確かに存在する。
 「メインテナンスフリー、ブラックボックス化くそくらえ(失礼)」というエンジニアならではの探究心が、そのまま「モノを理解する」という行為につながり、理解する対象に必然的に愛情を持ってしまう。

 自作したモノの多くについて、既製品より十全に優れている、ということは少ないだろう。
 それでも愛着が沸くのは、自分がデザイン(設計)して、それをカタチにして ── そこで時に失敗し、挫折し、諦め、それでも思い直して向き合って ── 来たからだろう。すなわちそれは、モノへの愛情であると同時に、自分自身への正しい愛情の発露ではないだろうか。

**** [内向きの指向性がもたらすメカニズム]
 しかし機械がそうであるように、管理/メインテナンスは機能を持つモノにとって必要不可欠であるものの、本来の目的が「メインテナンスすること」であることはまずない。
 つまりメカニズムのあるところ、必ず目指す機能や目的があって、それを遂行するためにメインテナンスが必要になるというのが本来の姿のはずだ。
 内向きの指向性が管理/メインテナンスに向かうのは必然として、それが愛情からスタートするものだと仮定しても、それでもずっとそこをループして外側に向かわなかったら、あるいは愛情が変質し劣化し、自己愛が── 人はときおりなぜか、自己愛を忌避し、他者への愛こそが崇高だと勘違いし、そのために ── 自己愛を隠蔽し、メインテナンスが本来の役割から逸脱したら。
 すると必然に、本来のメインテナンスが果たされず、目的とされるはずの機能も適切には発揮されないことになる。

「組織への愛/忠誠」に見せかけた自己顕示。
「組織の健全性の確保/優先」を笠に着た個人的エゴの発露。

 あーあ。
「組織」「ソシキ」とか言っちゃって「正しさ」「タダシサ」とか言っちゃって。
 そこに実際に発現するのは、そのひと個人の心の貧しさではないのか。
 
**** [外向きの指向へ]
 人見知りで引きこもり ── たびたび言うが、僕は「本当に」社会から隔絶された引きこもりである ── の僕が「外向き指向」を語るなんて、ちゃんちゃら可笑しいことではあるのだけれど、自己愛だって内側にだけ向かっていれば、適切なサイクルや正常な視座を見失って「自分が一番エラいんやんか〜」とか「自分こそが正しいんだカンナ!」となってしまう。

 じゃ、自己愛は外に向かうべきかというと、それはそうでもない。
 自己愛って、対人インタフェイスを考えた場合にはあくまで裏方のモノであって、「自分大好きなんだよ〜、キミも僕の素晴らしさを刮目して開眼して褒めちぎっちゃうがいいYO!」というのがメインコンテンツとしてメッセージになってしまえば、自己愛はなはだしく自己顕示欲が鼻につく。

 自己愛は、自分を支える基礎ではあるかもしれないけれど、だからといって他人に見せびらかすモノではない。
 人間だって、骨がなければくにゃくにゃしてしまうけれど「ほら、僕の大腿骨、立派だろう(ざくッ!!)(ナイフで切り裂く)」とか、しないでしょう?

 いつも書いているけれど、たとえば肌がきれいだとか、プロポーションが美しいとか、筋肉が発達しているとか、アタマがいいとか、それはそれで(綺麗でないことよりも)結構だけれど、わざわざそれを(見せびらかすために)露出するのは(そういう商売をしているのでもないかぎり)恥ずかしいことだと僕は思うのね(口調が変)。
 仮に商売だとしても、そこは綺麗だからこそ隠したほうが絶対に格好いいと思う。
 だって、外からみればわかるでしょう。ダイレクトには見えなくても。
 たとえば筋骨隆々の男性でも、肌を無駄に露出するより、スーツを「ぴっ」と着ている方が(僕の目には)かっこいいのだ。
 しかも「いかにも」な小洒落たメーカのものではなくて、(布地や仕立てはともかく)オーソドックスなデザインで、しかし布地が良質のものであればなおのこと。
 
>>>

 外に向かうとき、どんな機能を果たすのか。
 それはその「モノ」に持たされた定めである。
 だからモノを作ったり、設計するというのは、そのモノの運命を決める作業でもある。
 作ったモノすべてを愛せるかと問われると、少なくとも僕にとってはそうでもない。
 作ったことすら忘れているもののほうが多いかもしれないし、その方がいいとも思う。

 それでも自分の役に立つようにと考え、そうして作ったモノが自分だけでなく他の誰かの役に立つなら素敵だし、やがて誰かの役に立つモノを作ることが純粋に嬉しいと思えるならば ── 次に作るモノもそうであれかしと望めるものならば ── それこそ(モノであれ組織であれ、ありとあらゆる存在が)そこに与えられた意味 ── すなわち機能 ── をモノが体現していることになるだろう。

 作ったモノ、メインテナンスするモノが自分の手を離れ、他人のモノに、あるいは人々の関係の中に生きるモノへと変わってゆける。
 それは少し寂しいことかもしれないけれど、内側だけを向いて、我利我利に痩せ細った凶獣を囲うだけの錆び付くだけの檻であるよりは素敵なことではないだろうか。

** [他人だから調子が狂うのか]

 自堕落な僕が自分なりのペースで外界とのインタフェイスを構築し、そのリズムを整えていた環境において、多分その人とは相性が悪かった。おそらく相手も相当にストレスだったことだろう。
 僕は様々なことを自分でなんとかしてしまえる能力は持っているけれど、基本的に ── 世間的に見ればおそらく ── 幼稚なのである。
 その人はその人で、その人なりに自堕落でそれなりに幼稚だったから、僕たちはおかしなことで衝突することになり、しまいに僕は帰宅拒否症にもなったし、結局その人の価値観や感性パターンはほとんど記憶に残っていない。
 興味深かったはずなのだ。
 それは覚えているのだけれど、なにひとつ残す要素がなかったのだろうから、相手にとっても同様だったろうと推測する。

 彼女との「集団生活」は、結局、外側に向いていなかった。
 内側に向いていて、内側に僕を置きたがった。
 管理やメインテナンスの仕方も、その能力も違っていたから余計かもしれない。
 たとえば ── たびたび書いているが ── 僕はライフラインのインフラが料金未払いで止まったりすることをどうも思わないイキモノだけれど、彼女は ── 不便であるとか以前に、体面上のこととして ── 許せないタイプだったのだろう(一緒にそんな体験はしなかったが)。

 破綻している部分のある人だったけれど、その不整合性が僕に見たこともないギャップを投影していて、だから僕は興味を持ったのだろうとは思う。
 僕はそこからもいくつかのことを学んだ。

 すべての人と一緒にいて調子が狂うかといえば、そんなことはない。
 僕は姉の家に泊まりに行くと ── 姉の家がひどく狭いせいもあり ── ずっとベッドで横になっている。
 姉は食事を作ってくれたりお酒を用意してくれたりして、あとはだいたい僕に何か話している。
(指定難病の他、後天的な身体の障害もあり、双極性障害もあるので、話が熱を持つと止まらなくなるようだ)
 僕は姉という他人の前では、1人でいるのと同じかそれ以上に自堕落でいられる。

 妹が家に来るときは少々、自堕落さをセーブする。
 家が散らかっていたら掃除をするし、パジャマ姿では会わないようにしている ── 僕の精神状態が荒む兆候をそういう部分から見事に察知するから。
 あるいは男性(同性は恋人にしない)と一緒に暮らしていた時期もあるが、なにも問題なかったし、血縁関係にない女性(恋人に多い)が1週間程度滞在していても、お互い苦にならない人は苦にならない。当たり前だけれどそういうものだ。

 ただ2人以上になった集団が内側にしか向いていなくて、それだけならまだしも、内側に向くように向くように強要する仕組みや風潮は、それが会社という営利組織であれ、家族や恋人という関係性にあっても、僕の理には合わない。それだけのことだろう。
 実際に、そういう組織を僕は次々と見限ってきた。
 僕は自分が内向的だからこそ、下手な他人の思い描いている内向のオナニープレイを押しつけられるのはちょっと耐えられない。
 僕だって、相手を自分のオナニーを押しつける道具とは思っていない。そういうのはひとりでするものだろう。

 ビジネスに自慰行為がないとは思えない ── 書類を自分の基準で綺麗に作成して自己満足するようなことは僕もあった ── し、それが悪いとも思わないが、それが自慰であることを見失って他者に強要するのは(仮にまだ名称の与えられていない領域のものであっても)ハラスメント行為である。
 たとえば書類を綺麗に作成し分類することだって、他者への強制の度が過ぎれば迷惑だ。そんなものはビジネスの本質ではない。

* [食洗機が復活する]
 足利で暮らしていた頃、ネットオークションで格安で食洗機を買った。
 僕にとって初めての食洗機であり、比較的少人数向けに設計されたそれは、洗剤ではなく塩を使って ── おそらく塩水を電気分解して生成されるアルカリ性の溶液で ── 洗うこともできる。
 当時のアパートのシンクはさほど広くなかったので、僕はわざわざ食洗機を置くために(複雑怪奇な形状の)棚を作った。

 叔母夫婦が存命のとき(介護が始まったとき)に、この家で暮らした方がよいという(提案を受けた)ことで、一部の家財をこの家に運んだことがある。

 師匠にもらってからずっと、一緒に暮らしていたポインセチアの鉢植え。
 ひとり暮らしを始める前から使っていた、天井まで伸縮する書架。
 そしてこの食洗機。

 叔母の家で暮らして半年ほどもしないうちに(しかし職場を太田市近郊に移したあとで)煙草を吸ったカドによって僕は追い出され、前橋からはるばるこちらの方(正確には太田市を越えたその先の町)に、不慣れな運送業をするため通い、結果、身体を壊して辞職した。

 ポインセチアは水を与えられず枯れ、書架は(使わない部屋の片隅に置いておいたものをわざわざ)家の外に放り出され、いずれも機能を失った。嗚呼。ポインセチアに至ってはイキモノなのに。
 しかし食洗機だけは台所の片隅で埃をかぶって今日まで鎮座していた。

 何を大事に思うかなんて人それぞれだから、僕は僕の大切だと思う気持ちを叔母に強要しなかった。
 あるいは他の誰であれ強要するつもりはない。今でもそうだから、ポインセチアはきっと何度でも枯れてしまうのだろう。
 ただ僕が叔母から不快な ── 不当かどうかは僕には判断できない ── 扱いを受けたことは(もはやどうでもよいと思っているのでそのうち忘れてしまうが、今は)覚えているし、ことさら妹にも迷惑のかかる形で当初の僕との約束を反故にした事実をして、死してなお(死しているからこそ)彼女のことを僕は呪っている。
 死すときにそういう禍根を残すのは、決して褒められるものではない。
(だから少なくとも、叔母と僕は相性が悪かったのだ。じつにかつての同棲相手のように)

 だから僕は、生きることには飽きているのに未だに死ねない。死ぬための準備が整うまで自死はできない。
 そんな準備はどこまでも整わないかもしれない。
 けれどもだからといって何もしないよりは、少しずつ積み重ねてゆくことで実世界の物事も、他者の意識ですらも変わってゆく。

* [エピローグ]

 混合栓に分岐栓をかませて(敷地内の止水弁が長らく見つからなかったことよ)、食洗機をセットする。
 かぶった埃は、叔母だけが悪いのではなく、僕がメインテナンスを怠ったことも示している。

 はっきりとその姿によって。
 だからぴかぴかに磨き上げてコンセントをセットし、ふたたび稼働したとき、涙がにじむほど嬉しくなった。

 6年以上会っていなかった恋人に再会したら、こんな気持ちだろうか。
 新しい食洗機をセットして稼働したとしても、ここまで嬉しい気持ちにはならないだろう。
 それは10年ほども僕と一緒に暮らして、それを使うために僕自身もさまざまに創意工夫を凝らして、食器を手で洗う苦痛の半分以上を解消してくれた、大事な道具だ。

 窓辺にいたポインセチアはもういない。
 書架は錆び付いてもう使えない。
 でも食洗機は、息を吹き返した。まるであの頃のように、僕のために静かに(そうでもないか)仕事をしてくれている。

 愛しい道具たち。

 MacProは、もう、息を引き取ろうとしているけれど。
 家電品であろうと服であろうと、僕は僕の好きなモノに囲まれる幸せを知っている。
 それはたとえば、自分の好きな人に囲まれる幸せと同じかもしれない。

 ただ僕にとって人間というのは基本的に、猫と同じように「僕が何かを提供しなくてはならない」相手である。
 電源やサプライさえあれば文句も言わず疑うことなく働いて、僕に何かを提供してくれる道具を、いったいどうしてないがしろにすることができるだろうか(埃を積もらせて本当にすみません)。

 そのようなわけで、食洗機の駆動音を聴きながら、うっとりとする。
 まるで恋人の鼻歌のように、それを聴いている僕はいつかの、穏やかな風景を思い出す。

 ああ。
 のんびりしていていいんだ。

 もう、のんびりしてもいいんだ。
 だって今日と明日はオフだもの。

 そんな気持ちを思い出す。
 もちろん、今日は2連休明けだから。
 さて、明日は何をしよう。

 モルタル塗りに、実は少々飽きているから、いよいよ床の断熱材と床板を敷設しようか。
 それとも自堕落に、明日も眠って過ごそうか。

 いやまずお風呂に入ろう。
 今日は素敵な日だから。
 きっと明日も素敵な日にできる。

 いつかある素敵な死を迎えるために。
 明日は素敵な生を生きよう。
 雨だろうと、飢えていようと、電気が止まっていようと、花が枯れようと。
 笑い、怒り、憎しみ、そして許そう。そのすべてを楽しもう。痛みも悲しみも。それは生きている証拠だよ。

 だって僕だって、誰かに対して失敗をするし、そしたらいつかは許してほしいから。
 痛みも悲しみも。僕がいなくなった世界でなお、それが誰かの糧になる仕組みがほしいから。
 豊かじゃないことを悪いことだと思うことが、豊かではない気持ち、貧しい気持ちなのだ。


ハミ出とるやーん。

 







-----
* // ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

~ Junction Box ~

* // ----- >>* Tag Division *<< //

[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Convergence-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Interface-Life-Link-Love-Maintenance-Mechanics-Memory-Style-

[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-

[Object]
  -Human-Memory-Tool-

* // ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-夢見の猫の額の奥に-






//EOF
 

* // ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2020-12-06>
// NOTE:ネットワーク設定が終わる。家がとても寒い。
* // ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
201206 ルータが届いて困る。

Written by 工場長

-----

* // ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
* [家が寒い]
 薄々感づいてはいたが、この家は断熱材が一切設定されていない。
 屋根裏にグラスウールさえ敷いていない様子だから、必然といえば必然である。
 しかもその上(家人か大工の趣味かは知らないが)やたらと窓が多く、そのほとんどが、床から天井まである大きなものである。
 ガラスを割った場合の修繕費を考えると恐ろしい。
 それより何より、シングルガラスのアルミサッシなので断熱性能はほぼ皆無だし、昼は眩しく、夜はセキュリティレベルが低い。

 一面が完全な壁になっている部屋がない。
 誰の趣味かは知らないが、必ず、戸か窓か収納がある。

 縁側にある廊下など始点から終端までサッシである。そこは半分以上、壁にしておけよ。
 おかげさまで、床板は熱と紫外線で表面が朽ち始めている。
 レースのカーテンしか設定していないことなど、僕からすれば狂気を感じさせるが、このあたりの改善は後手に回している。所詮廊下だし。

* [ルータが届く]
 メールチェックしていたらルータが「配達済み」と届いていた。
 慌てて調べると、たしかに納屋の外のテーブルに置き配されていた。
「不在時は倉庫の作業台に置き配可」と住所欄に書いているのは確かだが、呼び鈴を鳴らされた覚えはまったくない。
 以前勤めていた運送会社なら間違いなくクレーム案件であるが、まぁ荷物は届いたしメールでチェックできたので問題ない。
 郵便受けを確認したところ、不在通知も入っていない。配達票からしてもヤマトではなさそうだ。

 ルータの設定にずいぶん苦労した。
 僕は(携帯端末のメールドメインを Vodafone から変えたくないというだけの理由で)Softbank ユーザなのだけれど、純正ルータでないとIPv6 を利用できない。
 そもそも僕は今日までインタネットプロトコルなんてろくに知らなかった人間である。
 そこに加えて Wi-Fi 環境の専門用語まで飛び出す始末。しかもルータに付属しているのはぺらぺらの「続きはWebで」という説明書。
 Webに繋ぎたくてルータを買った人なら、自殺しかねない展開である。

* [どうすればいいのか]
○[光回線ユニット]ー[Softbank光専用ルータ(Wi-Fi 機能停止)]ー[市販ルータ(Wi-Fi 機能あり)]と接続する。
○「SB専用ルータ」側でDMZ転送IPアドレスを設定し、そのアドレスポートを市販ルータ側の(手動)接続IPアドレスに設定、ゲートウェイには「SB専用ルータ」のアドレスを指定する。
○「市販ルータ」側の IPv6 設定は「自動」で「デフォルトゲートウェイに設定」する。
 市販ルータだけで接続すると、プロバイダ(Softbank)と専用ルータに阻まれて、IPv6 接続は実現しない。
( 実測で ── IPv6 に対して IPv4 のみになって ── 回線速度は半分以下になった。

 自分で書いていても、昨日の自分に理解できる気がしない。
「IPv4」は、現在主流の帯域の狭い通路で、「IPv6」は帯域の広い新しい通路だと思えばいいかもしれない。
 ところがプロバイダ側で「専用ルータ(レンタル代は月500円ほど)を使っていないとIPv6 への通路を確立させないよ」となっているため、市販ルータだけではどうやっても IPv6 を通れない、というわけ。
 しかし僕は、市販ルータを介して、Wi-Fi で各デバイスが自由にアクセスできるストレージを使いたいし、Wi-Fi 通信速度が上がるなら、それも実現したい(そのためにルータを買ったのだ)。

 分からないまま、Web上でそんなこんなの情報を集め、分からない用語満載のマニュアルを読みながら(半日以上進捗せず、ふて寝したりしつつ)完了させた。

* [どうなったのか]
 ネット上の接続速度テストは、サイトごとにかなりばらつきがあり、当然ながら測定のタイミングでも計測結果にばらつきがあるため、一概にはいえないが、だいたいこんな結果になった。(いずれも Wi-Fi であり、有線LANは試していない)

○ IPv4 DL:100Mb/s UL:100Mb/s
○ IPv6
 SBルータ DL:250〜400Mb/s UL:200〜250Mb/s
 市販ルータ DL:300〜500Mb/s UL:200〜300Mb/s

 数値が高い方がすごいらしいが、どうすごいのかは分からない。
 500Mb/s という測定値(正確には499)については(1/5くらいの頻度で見たけれど)、たぶん何かの間違いだろう。
 市販ルータをターミナルにして、速度が上がる理由は、なんとなく理解しているけれど、そんな説明は誰も求めていないだろうからしません。

* [このルータの使用感はどうなのか]
 今回購入したのは、Synology社 の「MR2200ac」というモデル。
 僕は以前のプロバイダの時から純正ルータ以外のものを使ったことはないし、ハイエンドな市販品の価格を見て驚いているくらいLAN環境については疎いから、初めて買うにはちょっと冒険だったような気もする。

 有線LANポートはWAN(入力というべき?)用が一つ、LAN用がひとつ。計2つだけ。
 ただし Wi-Fi 機能は強力なようで、5G+5G+2G帯域、3チャンネルあるらしい。目に見えないから分からないけれど。

 ルータの設定(特に今回のようなケース)は、かなり上級者向けのように感じた。
(僕があまりに初心者なので、そう感じるだけかもしれない)
 なにせSB専用ルータは、ケーブルを刺すだけでIDなどの入力すら省略できる。
 にもかかわらず両方のルータを使用しなくてはならず、それぞれのルータで専門用語やその概念系にぶつかる。
 僕のような門外漢にとっては、けっこうハードだった。

 しかし少しでも分かる人、あるいはこれからきちんと身につけたい人には、とてもよいルータだと思う。
 価格は15k円ほどで決して安くはないし、有線LANポート1つというのは少ないと(僕は)思う。
 けれども Wi-Fi が主流になっている現在のコンピュータ環境において(僕のMacBookには有線LANポートがない)トライバンドであることはハード上の大きな魅力であろうし ── 、ソフトバンク専用ルータの末端に接続しても、Wi-Fi の速度が上がる(Wi-Fi の性能が純正ルータは比較すると低いということ)事実を考えると、そうした(ソフトバンク光特有の)制約を受けたネットワーク環境であっても導入する価値があるということだろう。

 さらに設定画面は(当然ブラウザからアクセスするのだが)GUIベースのよくあるOSのようなインタフェイスで、ルータ内部にさまざまなアプリケーションが存在し、メーカが提供しているアプリケーションをダウンロードして機能を追加することも可能である。
 不正なアクセスなどを監視するためのログやブロックリスト機能もあり、内部にヘルプが存在していたり、各種アップデートやリブートスケジュールも任意にできる。
 ペアレンタルコントロール機能もあれば、擬似的NAS機能(USB3.0 なので、LANほど速くはない)もある。
 むしろ「何がないのか」といって、有線LANポートくらいしか僕には思い当たらない。まぁ、何も知らないわけだけれど。

 非常に多機能で、サポートもしっかりしていて(更新は、数ヶ月に一度はあるようで、更新がある場合ルータからメールを自分宛に発信することもできる ── メーカから宣伝じみたメールは望まない限り来ないということ)、セキュリティも含めた管理におけるユーザ体験は非常に透明感があって気持ちがいい。
 Softbank光のように、ブラックボックス化した純正ルータをユーザ体験の前提にするのは、たしかに知識のない人でも簡単に使える点では親切だろうとは思う。優しいとも思う。
 ただし不透明なことによる不快感は ── 僕のような奇人にとっては ── 拭えないものでもある。

 とにかく24時間以上かかってようやく設定が終わった。
(実のところ、最終的にはソフトバンクルータも Wi-Fi を有効にして使っている。)
 あとは、外付けHDDドライブの設定をするだけである。
  ── ただ、少し疲れたのでしばらく休みたいというのが本音でもある。

* [エピローグ]
 夕刻からワークアウト。
 この1週間以上、ずっと鍋をしている。
 湯豆腐のつもりが、徐々に具材が増えてしまい、鍋のようになってしまった。
 僕にとっては「具が増えた湯豆腐」なのであるが、そんなものは邪道でもある。よってこれは「鍋」であると考えることにした。

 冷凍の、いい感じの牡蛎をまとめて買ったので、5個くらいずつ使っている。
 牡蛎が好きなので、最初8個くらい入れたら、鍋の中が濁った上に、途中で食べ飽きてしまった。
 ものごとは少し足りなくて、もうちょっと欲しいくらいでやめるのがいいのである。

 牡蛎に飽きると、手羽元(これはまとめ買いしたものを自分で小分けに冷凍してある)を入れる。
 僕はスーパーで大きなパックに入っている肉を買って、自宅で小分けに冷凍することが多い。
 キノコも安いときにまとめて買って、下処理したものを冷凍保存する。

 豚小間は以前からビニル袋で野菜炒め1回分か、豚汁1回分程度の量で分けていたのだけれど、今回「インスタントうどん1回分」をラップで小分けして冷凍し、保存袋でまとめて保管するということを始めた。
 最近、食肉の量が減っているので、この「かなり小さい分割」は、手間が少々かかるが、とても便利である。

 

 


今日も猫の写真を見たいだけなんだろう?








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* // ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]

 

~ Junction Box ~

* // ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-

[InterMethod]
  -Diary-Technology-

[Module]
  -Generator-Resistor-

[Object]
  -Computer-Tool-
* // ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]

-工場長の設計室-




//EOF

 

* // ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2020-12-03>
// NOTE:新しいMacとそれにまつわる話。新しいテキストエディタについて。
* // ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
201203 新しいMacが届いてから。

Written by 工場長

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* // ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
* [新しいMac]
 およそ一週間前、新しいMacが届いた。
 基本的に、開封したばかりのMacは20代の女の子のような(だいたいの人は「ちがう」というが)めっちゃいい匂いがする。
 この匂いの香水(パーツクリーナでもいいし、マシンオイルでもいい)が欲しいくらいだ。
 ついついくんくんと匂いを嗅いでしまう。

 箱を開けてから「あれオイラ、MacBookAir頼んでないですよ?」と思うが、今のMacBookはこの程度には薄いらしい。
 僕の知っているのは、だいたい2倍は厚みがあった。
 USB-C 端子2つ以外、外部にアクセスするポートが存在しないのはちょっと面白い。

 性能は予想した程度のもの。
 起動に関していえば、MacProの方が早かった(OSの世代が、そもそも違うが)。
 購入したモデルは、M1と呼ばれるチップセットのMacBookPro。最小構成。
 どうやらメモリの換装は、あとからは不可能らしい。ということを後から知る。後の祭りである。

 もっともノートPCに高度なスペックなんて求めていない。
 グラフィックエンコーディング能力がどうだとかより、バッテリィの耐久性の方が大事だ。
 ただ、キーボードを英語(米国)版で注文するつもりが、間違えて英語(英国)で注文してしまった。
 届いてから(なんかちょっとちがーう) と思ったものの、気にせず使っている。
 もともと日本語キーボードが得意ではない。
「〜」がキーボードにないと、少々落ち着かないというのもあるし、「英字」「かな」キーに必要性を感じたことがあまりない。
(Windowsの場合「半角/全角」キーはトグルであるのに対して、Macはバカの子みたいに、単一機能のキーである)
 キー配列もQWERTYを使わないので、正直なところキーボードにプリントされている文字や記号は、キーのアドレスを示しているだけである。たとえば「O」のキーをタイプすると「R」になるし、「D」のキーは「E」が出力される。
 パスワードを盗み見られても、このキーボードから思った入力をするのは大変である。
(まぁ、キーボードを外付けすればいいし、リモートアクセスしてしまえば配列は関係ないけれど)

 画面の大きさより、キーボードのタイピングのしやすさの方が大事だ。

 ハードウェアとしては、単一のIDを共有する Apple 社製デバイスとの連携が優れている。
 どちらかで Wi-fi にアクセスすれば、その情報をほかのデバイスでもすぐに使えるようになる。
 iPhoneにショートメールが届いたとき、MacBookを開いていると、そちらからSMSを返信できる。
(これくらいは、僕の使っていたOSの世代でもできたが、気持ち悪いのであまり使わなかった)

* [有能な辞書機能とバカチンIME]
 Macの辞書機能(ユーザ辞書ではなく、テキストリーディング用辞書機能)は、僕の使っていた頃のOSより格段に向上している。
 入力/閲覧している文章から、シームレスに辞書を開くことができる。
 単語の上にカーソルを運んで、トラックパッドを押し込むとカーソル上の単語が自動で選択され(ここまでは従前のテキストの上でのダブルクリックと同じことであるが)その単語に関する辞書がポップアップする。
 ちなみにトラックパッドはカーソルを運ぶための0圧から、クリック状態になる1圧、ダブルクリック状態になる2圧まで、自然な力加減で操作できる(辞書がポップアップするのはダブルクリックのとき)。トラックパッドの上で二度も三度もタップする必要はないからマウスより快適に感じる。
 辞書アプリは各種辞書から Wikipedia までを単一ウィンドウで開くし、Siri さん(僕は彼女のことをあまり信用していないが)の各種サゼッションも的確だ。
 実は昔、これと同じような動作をするマクロをマウスや補助キーボードに仕込んでいた。
 辞書を開くのではなく、ブラウザで検索させる動作だったが、かなり重宝した。
 なぜといって(当たり前かもしれないが)ブラウザで検索するのは、圧倒的に画像よりもテキストで、未入力の文を検索したいときもあるが、今読んでいる文書の単語を調べたいときもかなりの頻度で存在するからだ。

 ためにテキストを入力するのには ── 無駄に高価な機材であることは確かだが ── すぐれた機械である。

 ただし、MacOS(およびiOS)のIMEが「バカチン」なせいで ── 「Dvorak配列」があって「ローマ字日本語入力」があるのに、ローマ字入力時はDvorak配列ではない。
 こんなことならWindowsを使っている方が全然いいじゃないか。それにこの問題は、ずいぶん前から日本のDvorakユーザに指摘されている。もちろんもちろん、その数は目をかけてやる価値もないほど少数なのだろうけれど。

 仕方がないので、互換しなくなったATOKを新規に契約する。
 個人向けにはサブスクリプション版しかないらしい(地獄に落ちろ)。

 ATOKを使っているとiPhoneで作った辞書は共有できない(iOSのバカチンIME辞書とは同期しない)ので、これは諦めるしかない。
 しかしそもそも純正IMEでDvorak配列のローマ字入力さえできるなら、ATOKは不要だし、iPhone での日本語入力も(ハードウェアキーボードを使うなら)楽だし、何の苦労もないのだ。バカチンめ! バカチンめ!

 とはいえ、安心して日本語入力ができる。

 IME関連の愚痴はこのくらいだろうか。

* [Evernote の代替アプリケーション「x3Note」]
 アプリケーション関連だと、Evernoteが致命的に「やらかしてしまった」らしく、いずれのデバイスでも閲覧さえままならない。
まともに使えるものではなくなってしまった。
 使っている人はもう知っているだろうし、知らない人は知る必要もない。
 ソースをすべて書き直したらしいが、マルチエディタに過剰な機能を次々投入する必要なんてあるだろうか。
 そんなに暇なら社員をリストラすればいいのだ。
 バカチンめ! バカチンめ!

 僕はテキスト入力しかしないのだから、MacOS純正のメモで十分な気がしている。
 過去のデータは残念だけれどそのまま放置だ。
 ひながた ── あろうことか僕の文書には、ひながたフォーマットが(当然だが)存在する ── だけあればいい。
 ただし階層管理機能がないのは困る。
 そのようなわけで、エディタを探していたのだが、なかなかいい感じのものが見つからない。
(「ノート」「ノートパッド」などのキーワードからヒットしたアプリーケーションのうち、めぼしいものを片っ端から試したが、どれも気に入らなかった)

 最終的に「x3Note」というアプリケーションに行き着いた。
「Audio/Video/Location」のクリップを保存する必要がなければ、有料アカウントをとる必要もない。
 最初の段階で、保存先をiCloudかローカルストレージか選べる。
 現行バージョンは日本語対応していないしフォントも選べないが、日本語入力はできるし、試しているうちにだいたいの機能は(英語がろくに理解できない僕でも)分かった。
 文書内に段落マーカを設定できて、一行に折りたたんだり、同一文書内や他文書に移動したりできる。
 タグ機能もあるし、チェックリストや日付を基準にした機能もあるから、リマインダやスケジュール管理もできるだろう。
(手帳機能なら、他を当たった方がもっといいものもありそうだけれど)

 webから各メディアのクリップもできて、これは「Ideas」という編集不可レコードとして保存される。
 十分だ。

* [移行作業に惑う]
 MacProから移行しようと考えていたほとんどのソフトは ── ATOKすら ── 使えなくなっていた。
 Firefoxのプロファイルだけ抜き出して、移行する。

 データ用HDDのうち1TBのものは、900GBほど使ってしまっているので、TimeMachineに使っていたバックアップ用HDD(4TB)に移行しようとして思い出す。
 このHDDは故障して、使えなくなったのだ。
 調べてみたら、クリーニングしても1TBが「使用済み」になっている。
 おそらく中の円盤が死んでしまったのだろう。
 しかしほかにまともなHDDがないので、とりあえず3TBになったHDDに移行しようとするが、予想通りというかなんというか(3TBに損傷はなさそうなのだが)MacPro側では複製操作の途中で止まってしまう。

 しかしほかにHDD外付けドライブなんてないし、データはOS9の頃からのものも大切に残している。
 TimeMachineはとうの昔に使えなくなっているからバックアップもない。
 ── TimeMachineに使っていた、壊れかけのHDDを複製先にしているのは自分でもどうかと思うが、引っ越し荷物の中からHDDを発掘するのも骨が折れる。

 仕方なくNAS用の外付けケースを探すが、なかなか思ったものがない。値段も高い。
 USB端子がルータについていたから、これは外付けドライブを認識するのかと思い、試してみたがどうにもならない。
 調べてみたら(ソフトバンク光の純正ルータには)そんな機能はないらしい。

 LAN経由でNASドライブを構築するか、USB経由させるためにルータも含めて構築するか、しばし悩んだ。
 
 RAID機能付きのケースで4つはHDDを搭載したい。
 NAS対応(LANケーブル接続)モデルはだいたい5万円くらいするが、USBは半分以下、1/3くらいの価格のものもある。
 差額でルータとHDDを新調しても十分だろう(どのみちパーソナルユースだし)。

 総合的には、ルータごと買い換えて問題ないだろうという結論に至って、密林で買う。

 届いたケースにHDDを搭載し、ようやく複製に成功した。
 Cubeから移行の時もそうだったが、新しいマシンは古いシステムをオーバライドできるようだ。

 ただしルータがまだ到着しないので、有線接続するしかない。





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