// —— >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:<2021-02-13>
// NOTE:Vtuberとかを見ていて思ったことあれこれのまとめとして。
ちなみに僕は、Vtuberというキャラクタやキャラビジネスには、全く興味がない。
おそらくはビジネス上の制約のために、劣化しただけの、ただのヒトに見えるのだ。
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TITLE:
さよならリアル、また明日。
SUBTITLE:
~ Bye bye, real. ~
Written by BlueCat
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::装うとは、着る人間の個性に合った物であるべきである、という従来の考えに、私は全く賛成しない。装うとは、着る人間がどのような個性を生きたいかで、決まるものだと私は信じている。だからこそ、素晴らしいのだ。
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//[Body]
【不自由と現実】
自由とはなんだろうか。
それは人間だけが知る概念ではないだろうか。
あるいはある程度の知性と社会性を持つ生命体なら持ちうるだろうか。
自由は対義に不自由がある。
本来、制約を受けるということは、すなわち集団という利便を享受するための対価だろう。
あるいは個人的不自由。
身体(機能/美)的不自由。
経済的不自由。時間的不自由。etc,etc...
これらは、個人の資質によって左右される現象だろうけれど、それでも不自由は不自由だ。
サルは、あるいはイヌ科の動物は、あるいはコロニィを形成する昆虫類は、その集団に暮らす上で ── 本来、利便を共有し合うはずの同胞からの制約により ── ストレスを感じ、それを不自由と感じるのだろうか。
そして自由について思い巡らせ、その体現について計画を立てたりするのだろうか。
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動物たちの多くは、ストレスに対してストレートに攻撃/逃避の行動を取る。
耐え忍ぶケースは極めて希だろう。
ストレスに対して即座に行動でき、耐える必要のない、あるいは耐えることを知らない場合(これは人間であっても)そこに不快感はあったとしても、不自由はないように思える。
つまり不自由とは、その不快に ── なすすべもなく、あるいは必要を認めて ── 耐えていることを指すのではないだろうか。
そう考えると、現象としての自由がまずあり、感覚としての不快があり、時間的蓄積によって不自由が認識され、概念化され、その対極の概念としての自由が発生するように思える。
だから不自由はたいてい具体的で、自由はだいたい抽象的だ。
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【ヴァーチャルと自由】
コンピュータテクノロジィの進歩とともに、人間にとってのヴァーチャルはより身近になった。
もちろんそれ以前から、文字や音楽、フィクションによって人間はヴァーチャルを楽しんできた。
たとえばタイムマシンは実在しないが、時間の概念を持ち合わせていれば、タイムマシンというヴァーチャルな概念を理解することができる。
人間の認識する時間は可逆性を持たず、ゆえに不自由だ。
その不自由に対して、自由とその体現を想像するときに生まれるのが、時間を移動するというヴァーチャル(仮想)だ。
昨今、ゲーム依存症なる現象が騒がれている。
ちなみに僕はどちらかというとゲーム依存症体質だと自身を思うのだけれど、最近はゲームに没入すことがむつかしくなってきた。
ゲーム依存というのは、シンプルにいえばヴァーチャル依存だ。
個々人の脳内に投影され、認識され、形成されるヴァーチャルな価値に重きを置くあまり、現実世界の価値が軽視され、場合によっては無価値になってしまい、現実世界が個人にとって意味を失ってしまう。
手軽に少ないリスクで挑戦ができて、十分な快楽や満足が報酬として得られるなら、ヴァーチャルはリアルの価値を超える。
ゲームとは、その端的なヴァーチャル投影装置だ。
僕らは手を汚さず、血を流さず、死しても容易に再生し、スリルやワクワクとともに、視覚や聴覚を通してリソースの拡充と消費、自己の拡大を体験する。
そして、たとえば経済至上主義だって、立派なヴァーチャル依存だ。
大企業で多額の取引をしていただとか、どんな(金銭的)成績を出したとか、異性にモテるとか、そういう自慢をする人間をこれまでも見てきた(そして僕自身、そういうキャラクタを演じてきた)が、すなわちそれはTVゲームの中で保有しているリソースを自慢することと何の変わりもない。
たまたまそれが現実という「肉体側」の世界にあるリソースで、他者に対しても明確に確認でき、肉体側の世界に対する影響力があるというだけで、当の本人の脳内で感じている快感は、ヴァーチャル依存の快感と大して変わらないし、他者に影響を与えられる範囲が広い分だけ性質が悪いとも思える(もちろん悪い側面ばかりではないが)。
そしてその「肉体側」の世界で「自身」が保有しているリソースが「他者に対して明確に確認でき」、「他者に対して影響力を持」ちうる場合、その挑戦と報酬は人間をある種の依存症に向かわせるだろう。
たとえばこの日本であれば、経済の他、美や健康、不特定多数の人間の人気、場における暗黙の了解 ── コモンセンス ── の誘導や先見も、メディアを通すことで大きな影響力を持つと見なされている。
これは個々の中に存在している憧れや承認欲求を満たすための挑戦や、その達成による報酬によって、本人の内的世界に快楽や満足をもたらすという点においてなんらの変わりもない。
グルメブームもファッションブームも、メディアにおけるコンテンツの流行も、SNS流行りも、自警(ナントカ警察)活動ブームも、それらはすべて、Rich&Clean&Famousなる自己を己の中のスクリーンに投影する手段でしかない。
立ち返って、考えてみるとよく分かる。
価値なんてものはだいたいヴァーチャルなのだ。
そして価値なんてものは、他人の認める価値よりも自身の認める価値の方が優先されるべきではないだろか。
そう考えるとゲーム依存によって仮に栄養失調を起こして死んでしまうことは、その当人にとっては幸せなことではないだろうか。
仕事が何よりも大事だ(価値がある)という職人気質な人が「仕事中に死ねたら本望だ」と思うのと同じように。
異性とぱやぱやするのが何より好きだという(ある種の依存症の人が)「腹上死が理想だ」と思うのと同じように。
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【ヴァーチャルはオナニーになりがちである】
会社員をしている頃、ときどき「三度の食事くらいしか楽しいことなんてない」という人がいた。
僕にとって食事は基本的に一日一度のものだし、同じものを一週間くらい毎日作ったりするので、どうもその感覚が分からなかった。
しかし自発的に何もすることがないと思うような昨今の中 ── 僕は「今日はこれをしよう」と自分で決めないと、何もすることがないイキモノになってしまったの ── で、ある日「今日は何を食べよう(飲もう)」と思っている自分を発見したことがあり、ひどく驚いたのだ。
食べることしか楽しみがないなんて、動物と一緒である。少なくとも僕はそう思っている。
もちろん、動物であること、動物的な欲求や行為を否定する気はない。その楽しみを否定する気もない。
それらは時に蠱惑的で、心身ともに安心でき、自分がここにいることの幸せを何よりも感じさせてくれるものだ。
僕は料理も好きだから、自分が食べる量を考えないなら、いくらでも何種類も作っていたい。
しかし自身のためだけのそれは、ただ空腹を満たすよりは若干文化的(あるいは人間的)ではあっても、格別有意義であったり誰かの役に立つような行為ではないように思える。
まして僕の場合、思うさま作り続けようものならその大半を廃棄することになるのだ。
家族や恋人や友人の食事を作るのが楽しい、というのならまだ他者の役にも立っているだろうけれど「食べるのは好き、でも作りたくない」ともなれば、食欲を中心にしたオナニーに等しい。
いやなに自慰行為が悪いとも思わないが、何か一つの動物的欲求だけが自分を満たすという認識そのものがとても貧しいし(僕はそういうことを言わないキャラかもしれないが)社会的に、より有意義な波及効果があるようにも思えない。
つまりそれはヴァーチャルの中で自己満足して死ぬのと同じ類いの醜さであり、それを現実世界に投影し続けているという点でさらに醜悪な気がする。
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【ヴァーチャルはニセモノか】
SNSなどで自撮りのポートレイトなどを加工している人たちもヴァーチャルを現実世界に投影している。
彼ら彼女たちは「自分の思っている自分」を演じ、また承認してもらうことで欲求を満たしている。
だから一時、それは「現実世界」寄りの人たちからは敬遠されていたように観察している。
今だってあるだろう。
すなわちそれは、美容整形を忌避したり(あるいは賞賛したり)する行為と、根底にあるのは同じことだ。
本物ではないもの ── それが派生的に想起するニセモノや嘘、虚偽、虚飾といったネガティブなイメージ ── に対する忌避感だ。
それも分からないではない。
ヴァーチャルな(あるいは現実を「盛った」)自身に陶酔し、あるいはそれを賞賛する姿は、たとえるならオナニープレイを撮影したアダルトビデオと、それを鑑賞して興奮する人たちのような、倒錯した風景に見えるのかもしれない。
僕はゲームをするとき、性別を選べる場合は女性キャラを選び、オンラインの場合はプレイヤ自身も女性として演じている。
べつにオンラインで知り合った男性と親しくなってナニかしよう、という意図があるわけではない。
その方が僕にとって合理的で、オンラインの場合は場の中での整合性が取りやすいからだ。
単純に男性キャラより女性キャラを見ている方が楽しいので、キャラクタは女性を選び、ゲームという場において「男性が女性キャラを使って女性を演じている」ことに対する忌避感は理解でき、そしてどうやら僕自身の発言や発想が女性として存在していても違和感がないようなのでそうしているだけである。
どうせオンラインで知り合って親しくなってナニかしちゃうなら、女性相手の方がいいに決まってはいるが、そもそもゲームはそういう場ではないから毛頭そんなつもりもない。ブログなどのSNSだって同じことだ。
もちろん多少の演技をすることはあるが、あからさまな女性言葉をあえて使うことはないし、男受けしそうな女性を演じることも、演じている女性というセクシャリティをネタにすることもない。
それはゲームやWebでもそうだし、現実世界でも同様だ。
なにより僕はずっと(少なくともブログ上では)猫だと自称している。
もちろん誰も信じていないかもしれない。(ホントに猫ナンダカンナ、ナメンナヨナ)
けれども僕の認識世界においては、僕は猫なのだ。
性的違和を(広く自身の接する環境に)訴える人がいるように ── 僕はそれを少々滑稽だとは思っているが ── 僕は自身の種族的正当性を ── 同じ滑稽さを人々が感じることを織り込み済みで ── 訴えることもある。
すなわちそれは、どうでもいいことなのだ。
僕が人間だろうと猫だろうと、AIだろうと天才だろうと愚者だろうと。
多くの人 ── たとえばあなた ── にとって、インタフェイスに投影された僕が「本来は何」であるかを決めるのは、その人 ── たとえばあなた ── 自身である。
このブログでは、ひたすらの文字列がならび、ときどき「飼い猫だ」と主張されている猫のポートレイトがあり、「作業着を着た自分だ」と主張されている成人男性とおぼしきヒトのポートレイトが存在している。
しかしそれらはすべて捏造されたものかもしれないし、そうでないかもしれない。
いずれだとしても、特に支障はないだろう。
僕が猫だろうと男だろうと女だろうとAIだろうとショートヘア眼鏡美少女だろうと、僕がそのインタフェイスをして接しているときに始めて、その人がそのインタフェイスを通して僕を勝手に認識すればいい。
つまりインタフェイスとは、勝手に選んで自身を投影するツールであり、それを観察する方も勝手に認識して解釈するものではないだろうか。
たまたまそれが、今までは現実世界の、実体を持つそれしかなかった。
ほんとうは、今までだって世界は豊かにヴァーチャルと共存していたが、個人の中にあり、ために多くの人にとって認識されないそれは黙殺され続けた。
だからヒトは、現実世界で自身のありようを体現することでしか自身を存在させられなかった。
「僕は猫です」なんて言うヤツは、アタマがオカシイと嗤われていたのだ(もしかしたら今もそうだろうけれど)。
>>>
【浸食するヴァーチャル/欠損したリアル】
テクノロジィは、個人の中にあるヴァーチャルを、他人のスクリーンに投影することを可能にした。
現実世界の骨格は修正され、ポートレイトは加工され、動画サイトでは二次元的なキャラクタが立体的に投影され、現実世界のヒトの姿をした誰かがそれを演じる。
ヒトは己の心に映る己を(たとえそれがエゴに塗られた虚飾のものであったとしても)他人に向けて投射することが可能になった。
リアルにヒトであろうと、画像限りのヒトであろうと、アニメ化されたキャラであろうと、それは変わらない。
そこには「ヒト」という概念が演じる、「ヒト」の欲が投影される。
僕も似たようなことはしている(そもそも僕は、自分のために自分の人格を作っているので、その時点で僕自身がフィクションである)一方、それを薄気味悪いと忌避する感覚も分からないではない。
ではテクノロジィが発達する以前はどうだったろう。
結局ヒトは、他者を(あるいは自身を)程度の差こそあれ、誘導するために自身や他人のキャラクタを作ろうとしては来なかっただろうか。
あるいは社会が個々人に対して形成圧力を掛けることはなかったろうか。
それは果たしてどのくらい正しくて、あるいはどのくらい間違ったことだろう。
個人が経済のために、あるいは社会的地位のためにそうした詐称をして、それが法に触れれば犯罪にもなった。
しかし社会は個々人に、より健康で、よりたくましく、あるいは美しく、経済的にも豊かであることを求めた。
補整下着が精力剤が健康食品が高価で取引され、質のよいブランド物と名ばかりのブランド物とパチモンが肩を並べ、玉石混淆にマーケットに並ぶ。
社会というものが、ひとりひとりの人間の集積である事実を考えれば、それは個々人が求める欲や望みの投影だ。
他者にそれを望み、自身にそれを望み、社会がそれをよしとする。
結局のところ、ヴァーチャルが現実に浸食している現象は、今後も加速するだろう。
ヒトはより強く、美しくなる「かもしれない」。
SF世界にあるように、機械と融合した肉体によって、望むカラダを手に入れられる未来もあるかもしれない。
しかし今より賢く、優しくなれるだろうか。
かつてより容易に自身の望む姿を体現できるとき、その個々人の望むセルフポートレイトは、どのくらい穏やかで、見ず知らずの他人にも微笑みかけるような内的豊かさを持っていられるだろう。
社会の欲もまた進んでゆく。
即物的に人間を切り刻むシステムは、いつからか善人の貌をしたケモノのように見えることもある。
今より社会は賢く、優しくなれるだろうか。
あるいは人間の欲とヴァーチャルを投影された、人間ではない知性を模倣した機械が、ヒトに賢さと優しさを与えてくれるだろうか。
そうなるかもしれないと僕は思う。
あるいは機械的な人間が「人間のような機械」を愛し、機械に「愛されているカタチ」を与えられる社会。
それはディストピアだろうか。それとも豊かな社会だろうか。
身体的障害を持つアスリートが身につける義肢のように、それは人間と一体化して、人間をより豊かな存在に変えるのではないだろうか。
不自由だった現実は、自由で理想的なヴァーチャルをスクリーンにして、自由で豊かな現実を花開かせはしないだろうか。
自分だけを認めて欲しいという貧しさに満ちた人の心を、仮想の自己実現に満たされたスクリーンによって、他者の多様性を認めることができる複雑で繊細なありように変えはしないだろうか。
今まで見ていた現実が、単なる制作工程中の、未完成な存在でなかったと、いったい誰にいえるのだろうか。
ヴァーチャルは、今までなかったものではないし、それが現実でなかったわけでもない。
泥臭い、煩わしい荒れ野の中に、今この瞬間も咲いている、花ではないのだろうか。
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// ----- >>* Escort Division *<< //
::日本では、勤務時間の終わりと鑑賞時間のはじまりが近寄りすぎていて、家にもどって着替える時間的余裕もないという事情から、暇のある人が観衆の大部分である歌舞伎や帝劇以外は、観賞用の服装は一般的ではなかったようである。それでも、この頃は、装いに身をこらした人を、ずいぶん見かけるようにはなったけれど、それが、高いお金を払って切符を買ったのだから、おしゃれして行きたいという気持ちの結果であってもよい傾向だと私は思う。フラッグやロングドレスで正装している演奏者からすれば、プラテアの前のほうにずらりとジーパン姿が並んでいるのは、あまりに日常の現実と近すぎて、「演ずる」愉しみを十分に発揮する気持ちにもならないではないか。日常とはちがった装いをもって対することは、日常とは違ったものを伝達しようとしているこれら芸術家たちへの礼儀であり、と同時に、受け手である観客自体も、日常の現実からは得られないものを得るには、より妥当な道ではなかろうか。相手に余計な負担を掛けないための心遣いだろうけれど、どうぞ平服で、というやり方に、私は少々飽きがきている。
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// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
引用は、
「第8章 装うことの素晴らしさ」From「男たちへ」(文頭部 p.71 / 文末部 p.66)
(著作: 塩野 七生 / 発行:文春文庫)
によりました。
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// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer] :BlueCat:
[InterMethod]
:Algorithmn:Link:Mechanics:Technology:
[Module]
:Condencer:Connector:Reactor:
[Object]
:Camouflage:Human:
// ----- >>* Categorize Division *<< //
:夢見の猫の額の奥に:
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