201127
職業でもボランティアでもない。
僕の「裏庭の穴」という役目である。
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僕はたまに愚痴ともいえる内容をブログに書く。
傑作だったのは10年以上前、会社の飲み会に行って戻った足で書いた「会社の飲み会なんて行きたくない」という内容のシャウトで、完全なる酔っ払いのソウルフルな愚痴である(サイトごと消したので、現在は存在しない)。
基本的に、僕はお酒が好きである。
けれども基本的に物理で身体に悪い酒(安物に多い)が嫌いで、飲むのは好きでも飲まされるのは好きではない。
当時は会社の(あるいは社長の)奢りで、つまりはタダ酒だったのだけれど、他人に奢られる酒は気を遣ってしまって、基本的にお酒の味がぼやけるので好きではない。好きなものもホイホイ頼めない。気を遣う。
飲み放題なんて論外だ。
店に対して安い単価という数の暴力を振りかざし、その代償として混ぜものの毒薬みたいな酒を「指定範囲から選んで」飲まされる羽目になる。
飲みたいお酒は未来永劫飲めない。
それを幹事や組織に強要される。
だからお酒が好きなのに会社の飲み会は嫌いなのである。
この辺りは話し出したらキリがない。
その上、賛同者の有無を問わず、僕は「厭だといったらイヤなのだ!」という性格なので、いかんともしがたい。
それが酔った勢いで表出したため、現象として傑作になってしまった。傑作の意味は辞書で調べてほしい。
さて話を戻す前にひとつだけ。
この文書は ── 先の喩えを借りるなら「傑作な」 ── 僕の愚痴である。
愚痴なんて読んでも仕方ないものなので、読まなくていいと思う。
なんていうと天邪鬼なアンチは揚げ足を引こうと躍起になって読むだろうし、僕本体を愛でる対象にしている人は矢も盾もたまらず最後まで読んでますます僕を愛でたくなってしまう可能性が否定できない。
もうおまーら勝手にしろ! 今日は機嫌が悪いんだからナ!
ほんとだぞぅ。ぷんすか!
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僕という「裏庭の穴」に放り込まれる第三者の愚痴にはいくつかのパターンがある。
まず、この「愚痴」について考えてみよう。
辞書 ── 書籍版も電子版も参照できないので、webのものになる ── には、
「言ってもしかたのないことを言って嘆くこと。」とある。
ひとまず一般論を展開しよう。
皆、何かしら悩んでいる。
悩みがある。
僕のようなノーテンキにも、ある。
悩みについて誰かに愚痴を言う。
その状況を分解しよう。
「誰か」との間にバイパスされた会話のテーブルに、愚痴は載る。
── ここに「自分自身」は含まれない。これは特殊論にあたる。
自身との会話テーブルに乗せられた悩みは、愚痴にならない可能性があるので後述する ── 。
会話テーブルをバイパスされた「誰か」は、その問題を解決する能力や権利や立場を有していない。
話をすることで問題が解決される(あるいはその可能性が高い、もしくは解決に至らなくても改善やその糸口になる)場合、それは愚痴 ── 言っても仕方ないこと ── として成立しなくなる。
よって愚痴とは、僕が飼い猫に向かって今年の茄子の収穫が少なかったことについて不満を並べることに等しい。
畑を耕すのは僕であり、猫たちは茄子を育てることも収穫することもなく、茄子の存在というものさえ初耳だろうから、話したことによって来年の収穫が上がる可能性はまずないし、現在から過去に遡って苗木の成長が促進することもありえない。
つまりその不満は会話テーブルに載るだけで、天気の話題のように、右から左に流れていく。その役目しかない。最低でも、問題を解決する方向に事象が動いてしまう話題ならば、それは愚痴とは言えなくなるだろう。
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一般論から離れて、少しだけ卑近な例に近づいてみよう。
実のところ、僕は他人の愚痴を聞くのが嫌いではない。
これまでの観察の範囲からいっても、1人あたり1日3話題3フレーズまでは楽しんでいられる。
実時間にして長くても2時間である。
これは1話題40分から2時間に相当することになるが、ひとつの現象としての不満を、同じ言い回しをなるべく避けて伝える場合、だいたい話題が尽きるはずである。
2時間も話そうと思えば、ちょっとした講演である。
議題や状況は整理され、立場とスタンスは抽象し明確化され、各プロセス内での問題点はあらかた分析され、原因は解明され、対策は構築されているものを説明するのに相応しい時間である。
だからそんなに長くなることはまずない。
しかし愚痴を言う人たちはときどき馬鹿になっている(馬鹿というのは、存在ではなくて状態である。天才たる僕だって、寝ている間はただの猫だ)。
まず状況が整理されていないから、議題が定まっていない。議題が定まっていないということは、その会話の目的が不明である。
もちろんそれだって構わない。
正直なところ愚痴を言う人もそこに登場する人も、自他の立場を誤解し、スタンスを曖昧なままにし、発言内容が具体的な割に意味が不明瞭なんてことはザラであり、プロセスはそもそも分解されておらず、問題の焦点は定まらず、原因は無視され、対策など考えてもいないことがほとんどだからだ。
これらは愚痴の特性である。
「言っても仕方ない」というのは会話テーブルに載るだけの調理がされていないということでもある。
先にあるように情報が整理されて境界が明確化され、方針が定まっていてゴールが視野にあり、戦略も練られているなら、それは愚痴ではなくなってしまう。
テーブルに着いている私の前には、調理前の(大抵は泥や虫にまみれた)素材たる肉や野菜がただ放り置かれるのだ。
そして彼ら ── あるいは彼女たち ── は言うのだ。
「これをどう思う?」と。
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個人的に、正直な感想を先に述べておきたい。
「どうでもええがな」
それが答えである。
それはそもそも僕の調理したい対象ではない。
あるいは中には調理法なんて誰でも知っていそうなものもあるし、場合によっては前人未到の、食材になるのかアヤシイものもある。どうしてそんなところに首を突っ込んで持ってきたのか知らないが、関わりたくないものだってある。
いずれにしても興味はない。
ただ僕は、その対象人物や、その人物とのやりとりを楽しむことができる。
なぜといって、愚痴は誰かの不満を聞く格好の機会であり、不満というのは、その人がどんな欲を抱えがちで、どんな潜在的な人格 ── 価値観セット ── を持っているかをさらけ出すから。
べつに弱みを握ろうとかそういうことではない。
単に興味があるだけだ。
主観の中で感覚される他人の行動から類推される動機や欲や感情というのは、観察された情報ではなく、観察の方法やその情報に対する主観そのもののアプローチを浮き彫りにしてゆく。
その「人のありよう」から、僕は「なるほどこういう人たちもいるのか」と世を知ることができる。
新聞やニュースを見ていても、どんなに勉強しても、人間を知ることはできない。
今いる人間から知るしかない。
それを知ることは、僕自身を知ることにもなる。
僕の主観的アプローチを解析しながら、他人を知ろうとしているのだから、これは楽しい。
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簡単に言うと、愚痴のゴールは2つである。
「あなたは間違っていない」
「相手は間違っている」
このいずれかのゴールに到達できると、主観は現状を受け入れることができるようになる。
だから僕はパズルのように、それを解いていく。
なぜといって、愚痴を言ってすぐ、
「うん、君は間違っていないよ」とか、
「それは相手が悪いよね!」なんて返事が毎回、必ず、開口一番に飛び出してきたらどう思うだろう。
最初は嬉しいかもしれない。
「猫氏はすぐに分かってくれる」「私と一緒なんだ」「まちがってなかったんだ」と喜ぶかもしれない。
でも、即答はイカン。
3回もしないうちに「話、聞いてないよね?」と叱られるだろう(とりあえず愚痴は聞いているのに)。
人によっては「馬鹿にしてるのか」と怒り出すだろう。じつに楽しそうな場面である。
よって、いきなりゴールを提示されて、毎回「あなたに聞いてもらってよかった」と言える人は間違いなく阿保である。愚痴を聞く価値もない。
「ちょっと待って、ちゃんと話を聞いて」と言ってもらえるくらいがちょうどいいだろう。
相手と自分のレベルがだいたい合っていることは大事なことだと思うし、相手がいくら好みだからといって玄関でいきなり押し倒したり、押し倒されるのがウェルカムだったりするのはどうかと思う。
もうちょっと手順を踏んだり、空気を読んでほしい。
いろいろ普段書いていることと矛盾しているが面白いからいいや。
いずれにしても、ある程度は第三者的な立場から整理/分析しながら、相手の感情的ゴールを目指すのが愚痴を聞く基本である。
具体的な対策や、戦略的ゴール、問題解決を本当に望んでいる人は極めて少ない ── それは本来、相手自身の領分だから、愚痴を聞いてもらう相手とはいえ勝手に決定してほしくないのである ── し、仮にそれも含めて真剣に相談してくる相手なら本当に大切にしたほうがよい相手である。
ちなみに「第三者的な立場からの整理/分析」について、いちいち真面目にとりあうのが面倒なときは、
「私は当事者じゃないからなんとも言えないけれど」
「あくまで一般論として聞いてほしいんだけれど」
「これは私感なんだけどね」
「昔、同じようなことがあってね、結局、解決しなかったんだけど」
とか何とかテキトーに前置きして、好き勝手に思ったことを言ってしまえばもっともらしく聞こえる。
それで十二分である。カップヌードル4個分だぞぅ。
よいだろうか、そのテーブルに載っているのは「愚痴」なのだ。
真面目に取り合って真剣に取り組んでも、問題の当事者は相手だから、先に述べたとおり意見ならまだしも、目的や方針や戦略を勝手に「これがいいよ」と策定されたくないのである。
とくにガールの場合は顕著で、昔から男たちは女たちの愚痴によるコミュニケーションにつまづいている。ちなみに男性でも最近は「まとも」になったようで、自分で最後は決めたいようだ。
「こうしたほうがいいよ」と誰かに言われたら「貴方の人生じゃないんだから放っておいてくれ」というのは、とてもまともだと僕は思う。
だから聞いている僕は、真剣に考えても、真剣に対策はしない。その対策は「当事者が僕だったときは有効」な策でしかない。
そもそも愚痴を言っている人は、視野が狭くなっている。自分の考え方と他人の考え方を、視線のレイザービームのように収束してぶつけ合っているから、視野が広いわけがないのだ。
よって先ほど述べたとき、読者 ── キミのことだぞ〜ぅ ── は「デタラメだしヒドイな」と思っただろうけれど、テキトーに、あまり親身にならずに、あることないこと、思っていることも(思った以上にむつかしいが)思ってもいないことも言ってしまえばいいのだ。
すると視野狭窄していた人は「待てよ、違う見方、考え方もあるのかな」といった感じで、視野を取り戻す。
そうすれば自身で分析もできるだろうし、問題を解決しようともせず愚痴を言うより、ゴールを設定して、戦略を立てて、何か行動した方がいいことにも(自力で)気がつくだろう。あらかじめ分かっていることが多いが。
(希死念慮があり、自堕落なイキモノがこれを書いています)
こんなことまで考えて愚痴を聞いているから、僕は愚痴の内容をまったく覚えていられないのである。
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ただしそうした真摯な姿勢(そう、テキトーであることが真摯なのだ)で臨んでも、うまくいかないときはもちろんある。
話がループし始めて、何を言っても「瞳のレイザービームが収束しっぱなし」になってしまう人もいて、こういう人は同じ話を2回以上繰り返す。
シーン(時と場所)は違っても人とセリフが同じであったり、相手が違っても状況が似通っていたりすれば、それは同じことを原因とした愚痴である。
それを私(愚痴を聞かされる第三者)に繰り返し聞かせて、アドバイスは聞かない、視野を広げようともしない「あなたは間違っていない」といっても信じない、というのはもはや思考が停止しているのである。
こうなると重症で、話し飽きるまで聞いてあげないと(第三者への)聞く耳さえ持ってくれない。
人間嫌いの怯えた猫が、それでもエサが欲しくて物陰からこっちを見つめてにぃにぃ言っているようなものである。
首根っこを捕まえて蹴り飛ばしてやりたいところだが(突然の暴言について、この場を借りてお詫び申し上げます)エサを置いて帰るか、辛抱強く待つしかない。
先の「同じフレーズは3回まで」はこの状態で、愚痴を言っている相手も、話していてあまり楽しくない状態で、聞いている僕も相当なストレス状態に陥っている。
だいたいこのあたりで僕の糖分不足も発生する。
1日1食であるから、18時から24時くらいまでは、食事や入浴に当てているが、このあたりで掛かってきた電話が作業前で、なおかつ多件数で長時間(どういうわけか、愚痴を言いたい人が列を作っていることがある)になると、コンディションが悪くなる。
アタマが働かなくなって生返事が増え、しまいに眠ってしまう。
1時間を超え、ループし続ける愚痴は新鮮味もなく、さすがに僕も退屈になる。
それが3件続けば夕刻は夜に、夜は深夜になる。
メインテナンスの時間に無補給でそんなことをしていたら、体調が低迷するのは必然である。
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昔、ガールに怒られている最中に眠ってしまって泣かれたことがあるが、それもこんな低血糖がゆえの作用だったのかもしれない。
取ってつけたように言い訳をしているわけではありません、ほんとだよっ!
懸命に、真剣に、真面目に聞こうとすればするほど、僕のノーミソはカロリィを消耗してゆく。
与えられた燃料は昨晩が最後なので、僕は代謝系を切り替えてアタマへの血流を落として、体表体温を上げ(深層体温を下げ)、グリコーゲンを作ろうとするのではないだろうか。
結果、僕は馬鹿になり、眠ってしまう。
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さて、最後に特殊論について。
愚痴が愚痴にならないケースはいくつかある。
その最たるものが「当事者に愚痴る」ケースだ。
何故か、観察される範囲で、愚痴を言う人は影響力を持たない関係者か、第三者に愚痴を言う。ネットニュースのコメントなどがそうだ。なにか後ろ暗いことでもあるのだろうか。それとも思慮が浅いのだろうか。
序盤で述べたとおり「相手や自分に問題を解決する能力や権利や立場」があれば、愚痴を言っている問題は解決する可能性が高い。
そのいずれか、もしくはすべてを自分が持っておらず、あるいは仮に持っていても、問題の原因(多くは人間である)がより優位的だから愚痴になるのだろう。
当事者と直談判すれば、それぞれの思惑は明確になるかもしれない。
しかし自分が問題の原因に直接対処する能力などを持たず、もしくは原因となる人物が能力や権利や立場そのもので自分より優れていたり、あるいは能力や権利や立場「そのもの」が原因の場合、対処法が見つからないこともある。
愚痴というのは分解すると、不快を感じたことの不満という感情を消化する作業である。
(だから問題解決は目的ではないし、問題解決法をアドバイスすると怒られることがある)
共感によって消化できる人もいるし、話すうちに上記が整理できて、視野が広がった結果、消化できる人もいる。
いずれも悪いことだとは思わない。
食べた草を消化するのに石や砂を飲むイキモノだっている。何でもかんでも、ナマの未調理食材を自力で消化できる方がおかしいと言ったって、乱暴なことはないだろう。
僕がたまたまその「石ころ」だったとして、役に立たない石ころよりは、役立つ石ころの方がいい。
それでも僕は他人に愚痴をほとんど言わない。
── ただし冒頭に述べているが、この文書はその「僕にとっての愚痴」である。読むのは勝手だが、同意を求めるつもりも、意見を聞きたいわけでもない。
僕が愚痴をほとんど言わないのは、そもそも人間を不満や不快の原因とは考えていないからだ。
そこには3つの力が作用している。
僕を不快にさせる人がその行動をとる原因。
僕を不快にさせる人がとる行動という原因。
僕をして不快に感じさせる僕の原因。
「なぜ自分が不快に感じるのか」ということは、実はとても大切なことで、にもかかわらず多くの人が素通りしてしまうポイントでもある。
不快に感じるには、原因があって理由がある。
それが力を発揮して、その力を受け取るから不快に感じる。
僕を不快にさせる人が取っている行動が「愚痴がループして、長時間にわたっていて、話を終わりにしてくれない」場合を考えよう。
「愚痴がループして」「時間が長引いて」「体調が低迷したのに愚痴を聞くことを強要され続ける」から不快なら、最低でも4つの対処がその場で見つかる。
「ループさせない」「長引かせない」「体調低迷する前に補給する」「そもそも愚痴を聞かない」である。
相手に何かを求めることは無駄だと思っているが、相手が僕を不快にさせる行動を取る原因は「僕に嫌がらせをしたい」のではなくて「僕に聞いてほしい不快だったことがあった」のである。
だから「その不快を消化できるように(かつ消化の主体はあくまで相手本人であるように)会話する」のも対処である。最初から話を聞いている僕は、そもそも対処していることになる。
信頼している相手の場合、これらのメカニズムも含めて僕は説明する。
相手は相手の主観に基づいて、違う意見を教えてくれることもあるだろう。
「不快」とされる「問題」において、じつは自分は、常に直接の関係者であり、その問題に対処する能力も権利も立場も(厳しくいえば責任も)、すでに持っている、というのが僕の考え方である。
ネットニュースを賑わせる事件や話題や政治でさえ「自分のもの」にすることは不可能なはずがない。
その立場を選んで、不満を並べているだけの人というのは、その立場に甘んじて不満を並べたいだけの人ではないかと僕は思ってしまう。
だから僕は、本来なら愚痴に発展しかねない「不快」とされる「問題」について、他人に話す価値を見出さない。
自問自答で十分だからだ。
自分の考え方や対処法を変えればそれで現実が変わっていくからだ。
政治に不満があるなら、投票に行くなり、被選挙権を行使するなり、署名を集めて国会に送るなり、官僚になるなり、地元の代議士に会うなり、ネットニュースにコメントを書き連ねるなり、方法はある。
そしてその方法は、僕一人で決められる。
ひとりごちる「自分」との対話テーブルに載る「悩み(愚痴のタネ)」は、対応によって「考察」「悪口」「対策」のように分類されるだろう。
このうち「悪口」は愚痴の意味に沿うようには思うが、さほど事態は改善しなさそうである。
「考察」の場合 ── この文書がまさにそれだが ── 視野を広げ、自分でも思っていなかった意思を新たに、あるいはより強固にすることができるだろう。
「対策」は、もはや愚痴ではない。
壁がダメになっていたらモルタルを塗ればいい。
初めてだから、お金がないから、時間がないからと言い訳をするのも、できることから始めようと決意するのも、実行するよりは簡単なことである。
ちなみに『「不快」とされる「問題」』を「不快とされる問題」と表記しないのは、「問題」は事象であることも多いのに対して「不快」はただただ感覚の、すなわち自分が存在することに端を発するものだからである。
「問題」とされる事象は、確かにあるのかもしれないが、「不快」としているのは、その時、その立場で、その視座を使っている自分だけの感覚かもしれない。
愚痴を言ったり聞いたりすることに、ここまで熱心に、真剣に悩む人も少ないかもしれない。
「愚痴ばかり言っているヤツがいてさぁ」と【誰かに愚痴ればいい】だけだ。
あるいはそんな些事にかまける段階など、とうの昔に超越してしまった、人生の達人ばかりなのかもしれない。
僕にはいずれでもかまわない。
「裏庭の穴」という仕組みが、僕や僕の身近な人に有用であるかぎり。
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不快というのは、実際、有用なものだ。
不快だから、人は道具を作り、それを使い、環境を整備する。
不快を不快でなくするために、数々の発明がされた。
発明は、簡単に見えるものも多いかもしれないが、不快だという不満を、不満のまま、愚痴って終わりにしていたら、到達できなかったことだろう。
手動の灯油ポンプだって、手を汚さず、重い物を持ち上げる苦労から、誰か(母親だったか)を解放したいという一途な想いから生まれた製品だ。
不快に思うこと、不快を共感すること、大いに結構ではないか。
それを改善するために、僕たちには、ノーミソが備わっているのだ。
だからがんばれボクは寝るぞ〜。

