200608

 晴れ。0700起床。
 たぶん睡眠時間は4時間ほどか。

 ワークアウトをして、筋繊維が成長しつつある時(したとき/したあとではない)の方が、少ない睡眠時間で目覚める傾向にある。
 だから、部分的に疲れている時などはわざわざ筋トレをすることが、昔からある。
 おそらく血流が多くなるのだろう。

 頭の中もスッキリする。
 もっともこれらすべてが、カフェインのせいかもしれない。

 空腹状態の身体が、脂肪を燃料にしはじめる。
 軽い貧血のような脱力感などが、ときどきふと、現れるのでわかる。
 僕の身体は、それらを普通に過ごせる。

 これを書いている今日などは、最後の食事から24時間以上経過しているし、ワークアウトも調子に乗ってしてしまった。

 夢で見るかなにかして、後付けで捏造した記憶なのかは判然としないが、自分の指を動かすのが楽しくて仕方なかった記憶がある。
 楽しいというより、不思議な感じ、とでもいうのだろうか。
 目の前にあるものを「こうしたい」「こうしてみよう」と、思ったり思わなかったりするとき、目の前にある(おそらくは自分の)手が、指が、動く。
 そういう記憶。
 感情も、言葉もなく、感覚もいい加減な、曖昧な視覚と意識の記憶である。

 あたりまえに身体を動かすことは、僕にとっては20代の半ばになるまでむつかしかった。
 多分そのあたりで成長期がピークを迎えたものと想像する。
 とにかく、思ったときに、思ったように身体を動かすことができて、なおかつ思った出力をすることが、昔から苦手だった。

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「母親らしいことをしなかったから」と、母は長女家族に言ったらしい。だから僕と妹に知らせないようにしてくれと。
(他の姉についても同様だろう)
 具合の悪い時だけ連絡するような人間ではいたくなかったのだろう。
 3月には罹患していた癌を、私も妹も知らなかったのは、そういうことらしい。
 もちろん私と妹が、長女や母と連絡を長らく取り合っていないせいでもある。
 何が正しいとか、そういう話ではない。
 長女は昔から母親と仲が良かったらしく(だから結婚して家族もいるのに、わざわざ一緒に暮らす決断をできたのかもしれない)、妹は誰であろうと死ぬとショックを受けて悲しむので、それぞれ面倒である。

 子を持つ「母たる」「母となった」人たちからは「知りもしないくせに勝手なことを」と怒られるかもしれないが、僕は「母親らしさ」というものについて考える。
「子を産んだ時点で『母親らしいこと』は終わりではないのか」と。
 そりゃもちろん、育児は大変である。
 出産までの過程より大変かもしれない。妊娠したことがないから分からない。

 ただ「母親にしかできないこと」は「妊娠して出産すること」でほとんど終わりである。
 もちろん母上が言いたいことはそういう意味ではないことは分かっている。
 ただ、純然と、僕は母から母親らしいことを十分にしてもらったと認識している。
 母親がいた記憶があるし、散歩に出かけたり、病院に連れて行かれたり、家族で旅行に出かけたり、寝込んでいるときに看病されたり、授乳された記憶もある。
 その授乳でさえ、母乳アレルギィを僕が持っていることが分かってからは「きな粉を湯で溶いたようなもの(粉ミルクもダメだったらしい)」に変わった。
 つまり、母親がしなければならないことではなかった。

 学校行事の「母親参観」の日は、当然に父上が来た。父上は、今思うと、ちょっと見事に学校で僕たちに寂しい思いをさせなかった。
 行事に持参するお弁当は手作りで、クラスでもトップクラスに豪華だった。
 だからといって、父上の方が母上より偉いとか、すごいとは特に思わない。

 もともと女家族に育って自分を女だと思っていたこともあり、母親の方が好きではあった。
 父を憎んだこともある。
 でもまぁ、10代になる頃には、そんなことはどうでも良いことだと思うようになった。

 母親がいないからこそ、僕は僕になったのであって、母上がいたら、僕は間違いなく、今の僕にはなっていない。
 僕は今の僕をけっこう気に入っているから、そこはできれば譲りたくないところだし、今から変更できることでもないので譲れないことでもある。

 僕は父上も、母上も、尊敬してはいないが、かといって憎んでもいない。
 僕がここまでの僕を生きた範囲で言えることは、生きていると色々なことがあるわけで、いろんな選択があるわけで、必ず正しい答えだけ選べる人はまずいなくて、失敗したり、ときどき後悔したりしながらいるわけで、たとえ親だからといって、完全に子供のために生きられるわけでも、生きなくてはいけないわけでもないということ。
(子の場合もしかり)

 不在であることによって生まれる価値があるということ。
 不可能によって可能になることがあり、無駄だからできる必然があり、失われているから埋め合わせる意思を持ちうるということだ。

 友人であろうと、癌なら見舞いにくらいは行くものである。
 もっともこのご時世なので、面会は当面無理らしいが。

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「好きと嫌い」は変えられない。
 と、弟子が言っていた。

 僕が嫌いなものを好きになることについて同意を求めたところ、そのような回答であった。

 僕にとっては、嫌いなものを好きになるのは、死活問題のときもある。
 なぜなら僕は、心のどこかで経済を憎んでいて、人間を憎んでいて、社会を憎んでいて、生けとし生けるものを、憎んでいるといえば憎んでいる。
 正しさだって、性差だって、憎んでいる。
 卑近なところでは、会社に行って仕事をするのが嫌いだったし、毎朝決まった時間に起きるのが憂鬱で仕方なかった。
 経済活動のためだけに、知らない誰かと話をしたり、したくもないことをすることに耐えられなかった。

 ただ、父上が死ぬ頃には一人暮らしをしていたから、働かないわけにもいかない。
 自死選択はフォースと同じくらい、僕の中で眠っているけれど、多少なり、生きることに希望を見出せるうちは、我慢をしてでも生きているほうがいいかもしれない。
 少なくとも、僕の死体を発見したり片付けるのが、僕に親しい人であってほしくなくて、これを実現するのが簡単ではないことに気がついた。

 だから。
 僕は嫌いなものを好きになった。

 月曜の朝が、もっとも好きになって、日曜の夜にはソワソワしてくるくらいになった。
 会社は楽しいし、失敗を糧にする過程を楽しんだ。通勤も、出入り禁止も楽しめるようになった。取引先にカンヅメにされたときも、いい経験をしたと納得した。
 そして経済も、よいものとして呑み込んだ。

 異性にモテることも、お金持ちになることも、経験すれば新しい発見があるだろうと思って、偏見をなくし、実践できるように努めた。
 僕は本来、かなり真面目で正義感が強くて潔癖であったから、不真面目で、白黒がはっきりしないことを良しとして、混濁したありようにも秩序を感じられるようになった。
 人見知りも、引きこもりも、自力で改善した。
 嫌いなものを、次々と好きになった。

 そうしないと、今まで生きられなかった。
 まるでストックホルム症候群のように。
 僕は嫌悪すべき僕にまつわるすべてのありようを解明して、いつか復讐し、根絶することを心の底に誓って、私を棄てた。

 ときどき思うことがある。
 僕は、いつから相貌失認なのだろうかと。

 いくつかの記憶を、明確に覚えているのに、いくつかのことをまったく覚えていないのは、僕が記憶を操作しているからである。
 思い出さない仕組みを作り、必要によっては、捏造して上書きさえする。

 嫌いなものを好きになるように改変するとは、そういうことだ。
 そしてその技術のオマケで、嫌いな食べ物を克服したり、嫌いなイキモノ(クモとか、ゴキブリとか)を好きになったりする。

 その操作した記憶さえ、思い出さないようにしてしまうことができる。
 そうやって僕は僕を作って生きてきたのだけれど。

 最近、その仕組みに綻びが認識できるようになった。
 時限性だったのか、条件性があったのか、単なる脳の老化なのかはわからない。

 ではその「操作の前の僕」が本来であったとして、いきなり「そこ」に僕が戻っても、やはり僕などいないのである。

 ここまできて、それらの改変をすることを決定し、その結果も含めて時間を過ごしてきた僕が、僕なのである。

 たとえば壊死した部位を切断しても。
 あるいは余剰の悪性新生物を除去するにしても。
 生き残ったものが、僕のカタチであって、僕である。
 切断しなければ生きられなかったのだとすれば、全滅か変化かを他の誰かが決める前に、自分で選んだほうがよい。

 僕にとって、僕は、いまだに得体の知れない存在ではある。
 つまりそれは、他のすべても、やはり得体の知れないままの存在だということなのかもしれない。