2001123




(「多田くんは恋をしない」のオープニングテーマをオーイシさんが歌っていなかったら、知ることのなかった曲。いい曲だけれど、知らない幸せもあったのかな。多分)

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 四十九日である。

 母上は紫色の好きな人であったので、花屋で花を買い、届ける。
 藤色が好きだったのか、ヴィヴィッドなバイオレットを好んだかは、よく思い出せない。
 ただ記憶の中の母上は、鮮やかな紫色の服を纏っている。
 よく歌っている。
 髪が長くて線の細い、きれいなひとだった。

 どうやら納骨はせず、散骨にするらしい。
「母上は、寒いのが苦手だったからね」と長姉が言う。
 春までお骨はそのままらしい。
 ホネというのはオブジェクトだ。
 母上というのは、オブジェクトとは別のものとして記憶の中にあり、それは僕の一部の人格(仮想人格でいえば青猫β、実人格でいうと6歳までの僕の記憶)の中に残っている。
 あるいは、そこから復元される仮想人格を頼りにするよりない。

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 6歳までの僕と、8歳以降の僕には、明らかな断絶と乖離がある。
「8歳以降」に属している現在の僕は、だから、母上がいない世界に順応した僕である。
「6歳以前」の僕は、だから、母上のいない悲しみを知っている記憶群ではある。
 そしてそれらの一部は「β」として再構成され、僕という全体にシミュレートされ、フィードバックされている。
 これは趣味ではなくて、僕の生きる気力を構築するのに必要なことだ。

「6歳以前」(実人格であるため、ほかに形容のしようがない)は、当時自覚のあったとおりに無力である ── どうか6歳児に多くを求めないでほしい ── 。
 無力であるということは役に立たないということだ ── くれぐれも何かを求めないでほしい ── 。
 幼稚だし、感情的だし、無知である。
 理屈で納得してもらうことがむつかしいから、僕は彼(あるいは彼女)にはいつも手を焼いている。
 僕の記憶が統合されておらず、人格が分裂して表出するのであれば、一時記憶の根なし仮想人格と、記憶のすべてを制御している中核人格とに分かれるのだろうけれど、僕はそういうインタフェイスを「面倒だから」使わなかった。
 記憶を制御するというのは、その場で嘘をつくこととは根本的に違うものだから、疲れるのである。

 そんなことを脳がしでかせるのは、実環境のストレスが自身の耐性をよほど大きく上回る必要があるだろうし、少なくとも僕は、ストレスが低かったか、耐性が高かったか(どちらも同じことである)、人格の分裂はしなかった。

 ただ「6歳以前」は手が掛かり、役に立たない割に非常に重要な存在で、封殺したらしたで、僕自身の現行人格に破綻を来すことが予測される(あるいは確かにそういうことがあったため、僕の肩には傷がある)。
 分かりやすくアダルトチルドレンとして存在している(あるいはしていた)僕は「6歳以前」に名前を与え、自身で育ててケアし続けていて、今後もその必要がある。
 過去の自身を否定し、無視するなんてことは ── 親殺しのパラドクス同様 ── 事実に矛盾して、理屈も感情も制御できなくなってしまう気がする。
 僕のコンプレクスのなさは、僕によって人為された結果である。
『「6歳以前」と比較して』できることを増やしていった8歳の僕にとって、無力な彼は恰好の比較材料であっただろう。当の「6歳以前」の気持ちなど知らずに。

 子供の頃から子供が嫌いだったのは、おそらくその「役に立たない」という価値観のせいだ。
 けれどもやはり、ただ立ち止まって泣いているだけでは、現実は変わらない。
 悲しい、悔しい、憎いという感情のループの中にあって他人を悪者にしているだけでは、物事は良い方向には変わらない。

 だからあのとき、8歳の僕は、6歳までの僕の記憶と価値観のほとんどを ── 後年、家じゅうの写真をそうしたように ── 捨てたのだと思う。
 たぶん、そうしないと進めなかったのだろう。

 だからどちらも、僕は責める気にはならない。
 どちらも正しいし、どちらも間違っていないし、どちらの言い分も分かるし、いずれの対処も適切だ。

 ただ僕自身「6歳以前」で、感情がぷつと切れてしまっているから、エヴァンゲリオンの登場人物よろしく「こんなとき、どんな顔をすればいいのか分からないの」となる。
 誕生日のプレゼントなどが分かりやすい。
 笑えばいいのかもしれないが、別に嬉しくて笑うわけではない。
 お礼は言うけれど、そんなに本当に「ありがたい」ことで、なによりそう感じているのだろうか、僕は。

 あるいはもしかしたら、誰でもそうなのだろうか。疑問を抱きつつ、にこやかにはしゃいだりできるのだろうか。

 僕は悲しい時、苦痛や怒りを感じている時も笑ってしまいがちだ。
「6歳以前」と僕が繋がっていないと、僕はたいそうデタラメなインタフェイスで他人と接することになるように思う。
 ために引きこもる時があるし、メールの返信さえうまくできないことがあるし、この場を借りてどさくさに紛れて言い訳すると、コメントのリプライを「しない」期間がある。

 緊張したり、不安な時ほど、インタフェイスがデタラメになってしまうから、コミュニケーションで齟齬をきたす気がする。

「そんな言い方しなくても」とか「こう言ってくれればもっといいのに」と僕はIRLではよく人に伝えるが、web上ではダイレクトなやり取りをすることはほとんどないし、僕のコメントに違和感を覚えた人がいても、まず教えてはもらえない(違和感を覚えたら本当は教えて欲しいです)。

 だからある程度、自分のインタフェイスが正常だと感覚できないときはコメントしないように、数年前から方針を変えた。
(そうしたら「自分が正常だ」と感覚できることのなんと少ないこと……!!)

 そうした他人とのやりとりのためにも ── あるいはそのためにこそ ── 「6歳以前」とうまく繋がって、育てる必要があるのではある。
 僕が彼女(およびその感情)をないがしろにすると、他人の情緒というものが、ほとんど理解できないようになってしまうから。
 つまりそれは、僕が間接的に他者を蔑ろにすることになり、最終的に「こっち側」の僕に不利益(下品な言葉だね)をもたらす。
 ゆえに彼(あるいは彼女)と断絶して成長した僕は、それでも彼(あるいは彼女)を大切にし、時に甘やかして、時に叱って、いっしょにあれこれを楽しみ、いっしょにあれこれを悲しんで、いっしょにあれこれを怒り、いっしょにあれこれを考える。
 つまりは愛でる必要があり、愛でたいのでもある。

 だからといって、僕でもない他人に「6歳以前」を含む僕というパッケージを愛でよ、慈しめ、いたわり崇め奉れというのも乱暴な話である。
 そもそも彼(あるいは彼女)の記憶は、悲しみと痛みを最後に断絶されている。

 実母と一生のうちに2度も別れることは、多分(僕は今のところ「こっち」側なのでこうなる)稀有な経験であり辛く悲しく痛いことなのだろう。
 ひとたびはそれを越えて、独りでいることの気楽さ、独りで何もかもを制御する楽しさ、新しいことを身に付ける充実感によって自分を満たした。
 その価値は、理由と同義だった。
 他の誰かがいて、誰かに与えられるだけで満足していたら見つからない幸せだったからだ。

 一方で彼は、なんの能力もない段階の僕だ。
 感情に足を取られて転んで立ち上がれなくて、置き去りにされた存在だ。
 だから誰かに起こされたがっていて、誰かに抱き止められたがっていて、寒くて震えている。

 それなら僕が、彼女を抱き上げる。
 なぜといってその手を他人に伸ばすことを、彼も僕も、じつは本当に恐れている。

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 自己憐憫は、人を前に進めなくさせる。
 だから僕は、僕自身を憐れんではいけない。
 誰かが助けてくれる環境にある人は泣き叫べばいいだろうけれど、僕の場合は、あくまで僕の場合である ── だから。
 僕にとってそれは、子供の頃に自身の手で刻まれた傷跡だ。

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 しかし、つまりそれは僕が自身を憐憫しているところを誰にも目撃されず、あるいは仮にされても僕自身によって僕がぬくみを取り戻し、涙を流しながらでも立ち上がるきっかけになるのなら、自己憐憫してもよい、ということになるかもしれない。

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 だから僕は「6歳以前(あるいはβ)」と一緒に、歌って、悲しんで、涙を流して、新しい風景に驚いて、新しい工作に胸を躍らせて、猫たちとのコミュニケーションを楽しんで、いろいろな料理を味わって、自分の(まぁ、僕の、なのだけれど)身体を撫でて、ゲームやテクノロジィに未来を見る。

 実のところ、僕自身が学ぶことも多い。
 彼ら(あるいは彼女たち)は多感で、僕の想像しなかったリアクションが待っていたりするし、オトナになった僕が忘れている優しさや気遣いを見せてもくれる。

 僕は彼(あるいは彼女)とそれを体験し、僕がどう感じて、それがれどういう理由なのか説明する。
 彼(あるいは彼女)も、それを教えてくれる。

 それで僕の記憶が、少しスライドする。

 僕は孤独じゃなかったわけではないけれど、それは豊かだった。
 僕は寂しくなかったわけではないけれど、それで誰かを傷つけたりはしなかった。

 僕はひとりだったかもしれないけれど、ひとりだったわけではなかった。

 いつも記号かなにかの象徴のように、猫がいる。
 ボクの記憶は、猫に彩られている。

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 それなら。
 もう少し、生きていられる。

 それなら。
 もう少し、自分を許せる。

 きっと誰かを傷つけるだけだから。
 自分の肩を抱く。
 僕は、僕自身さえ傷つけるかもしれない。
 傷を撫ぜて、そう思う。

 これは彼(彼女)が作った傷ではなくて。
 僕が作った傷だ。

 きっと無力なのは、僕の方だったのかもしれない。

 最初から。
 きっとそうだったのかもしれない。

我を崇め奉るがよいぞ。
我こそは森羅万象を司る「箱の中の必然と偶然、有象と無象、生と死、赤と緑とキツネとタヌキを分かつ者 ── ネコノカミサマ」なるや。

いいえ、あなたはただの猫です。