201110

 引越しである。
 L字のベランダから赤城山がよく見える。
 昼な夕なにベランダでシガーや酒を喫んだものだ。

 とにかくベランダに惹かれて入居を決めたから思い入れは格別で、ベランダに関しては間違いなく太田の家より前橋のマンションに軍配が上がる。


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 僕は無宗教、あるいは多宗教もしくは独自宗教の持ち主で、僕のいくつかの価値観セット(仮想人格)に応じて信奉しているものは異なる。
「ネコノカミサマ」なるものが宇宙の箱の中に(多分)いるという「ネコノカミサマ教」への信仰がいずれの人格でも厚い。

 とくに「銀猫」と名付けられた仮想人格はその宗教のシャーマンじみたことをすることがあり、満月の深夜に月光浴をしながらトーフを捧げたりすることで有名だ(※初出の情報であり、真偽は分かりません)。
「ネコノカミサマ」のいる宇宙の箱の中ではありとあらゆる可能性が重なった状態で存在していて「ネコノカミサマ」は、気まぐれにその中でナニカをして、我々の現実世界にイタズラを起こす。
 結果として僕はヒトの人形を被せられ、時にモテになり、時に有能な会社員になり、時に無職の不労所得者になるが、実は世界の全てはネコである。

 そう。これを読んでいる君も。

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 真面目な話 ── いやなに、ここまでだってずいぶん真面目な話なのだけれど ── 人間には宗教が必要だと僕は思っている。
 ときどきそのことを話すと疑問が返ってくる。
「なぜ人間に宗教(あるいは信仰)が必要なのでしょう」と。
 そのたびに僕は僕の中にある、曖昧で抽象的な「必要性」を話してきたが、今回はそれを明文化しようと思ったわけであり、完全に他者へのサービスである。

 ところで高度な思考というものは、記憶と思考がセットになって物事の判断/処理をするシステムであり、思考というものは取りも直さず「何かを信じること」によって構成され「今後信じる何か」を構成し続ける。
 ために人は齢を重ねるごと、経験による価値観の固着をより強固なものにしてゆく。
 個人的な経験則から単純に結果を観察して ── 場合によって認識を歪めてでも ── 「自分の考えたことはやはり正しかった」という結論を導く。

 たとえば記憶というのは実体を持たない単なる情報である。
 もちろん目の前でガラスのコップを落として割れば、ガラスの破片が残る。
 しかしそれらを片付けてゴミの日に出してしまったら、もうその破片はない。
 だから「そこに破片があったこと」も「ガラスのコップがあったこと」も、記憶の中にしかなくなってしまう。そしてそれは実態がないのにもかかわらず「実在した」と思考によって認識される。
 果たしてガラスのコップは【最初からあった】のだろうか。そして本当に、割れて破片ができて、片付けてしまったのだろうか。
 観察者が自分しかいないとき、果たして実存は、いつから実存していて、いつから単なる記憶の中の情報になったのだろう。
 今これを読んでいる感覚が、夢の中ではないと、いったい誰に言えるのだろう。

 他に観察者がいれば、相互の記憶を参照しながら事実確認もできるが、僕のように生まれてこのかた3/4くらいの時間をひとりで過ごし、そのうちの1/2くらいは眠っているイキモノにとって、どれだけ思考の中で検証しようとも、そこにあった事実や実態の信憑性は(僕自身にとってすら)さほど高いとはいえない。

 しかしその、夢か現か定かではないところの記憶によってしか、思考は価値判断の基準を作ることができない。
 僕のように「都合よく物事を忘れ」「都合よく記憶を捏造し」「都合よく記憶の解釈をねじ曲げる」イキモノにとってすら ── あるいはそういうイキモノだからこそ ── 他者も確認している事実や真実を捻じ曲げたり、自身の持つ価値判断の基準を歪めることはできない。
 たまに価値判断の基準そのものが定まらず、きわめて短い時間や環境や他者の変化に影響を受ける人もいるが、基準の構造がそれだけ弱いか、本人の立場が弱いか、記憶の構造が弱い(いわゆる本格的な多重人格)かであろう。
 強い基準は結局のところ、それを作る記憶に拠らず、他の強い基準に歪められることなく結合できるだけの力を持つからだ。
 そこに至って記憶は、およそその役割を果たす。

 本人にとってはデタラメなことを言って、デタラメなことをして、デタラメに記憶していても、出てくる言葉や行動が自分や他人や状況に最適であれば、観察される事実としては「まともな人」になる。
 僕はたいていの場合、他の多くの人より「まともな人」として観察されるようだが、青猫工場ではこのとおり、僕のアタマの中のデタラメさを垂れ流しているから汚染に気をつけよう。
 賠償責任は負いませんよ?

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 記憶が価値観になり、価値観が基準を形づくり、基準によって思考が処理し、その結果が記憶にフィードバックするのは今までも何度となく説明したとおり。
 だいたいの人はこのプロセスで人格ベースの情報処理をしていると思う(違う人がいる場合は、恥ずかしがらずに教えてほしい。これはあくまで僕自身をモデルにした解析結果であって、なべて等しくすべての人がこんなプロセスを経ている事実も、確証も、ないのであるから)。

 思考は、そのとき参照する基準がなぜ適切で、その判断の結果が最適であると思うのだろう。
 つまり価値判断の基準の認証を、思考の最中に人はしているのか、ということだ。

 結論からいえば、そんな面倒なことはしない。
 判断基準を認証するとはすなわち記憶の中の事実(因果関係から抽出された抽象)を再確認することであって「基準を認証→認証適否のための基準を参照→基準を認証→」と、ループしてしまう。

 このループを止めるアンカ(留め金)の役目を果たすのが「信じる」という感覚ではないだろうか。
 信じているから「適切である」という前提を与えて、認証を省略する。
 だからたいていの人は、自身の判断基準を利用するのに検証や想定外の可能性について考える手順を省略する/できる/してしまう。
(じつのところ10代の頃の僕はこれができなくて、感情の認識や表現にすら、かなりの時間を要した)

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 科学(およそ完全に再現可能な因果関係の法則)や経済(およそ完全に現実世界での互換性を持つツール)を信仰する人は多い。
 ボクはたびたびそれを揶揄する。
 科学とはそれを観察している者自身も含まれる事象の総体から成り立っている。
 経済とはそれ自体、人間が作り、現在も改変と操作を続けている道具である。

 いずれも人間の認識が介在しがちであり、経済にいたっては単なる道具であるから、そもそも信仰するに値しないのである。

 しかしそれでも、現実世界の中で人は思考し、判断する必要がある。
 判断にあたっては基準が必要である。
 基準には価値が必要で、価値には記憶が介在し、自分だけではない人間の承認、せめて容認を必要とするのである。あるいは共感といってもいい。

 だから歴史の中で、人間は知識を承継し、文化は社会で成長した。
 今やいかなる理由でも(経済のためであれ、戦争のためであれ、あるいは法を犯した者への処罰であれ)人を殺すことは許されないことではないかとされ、最低でも議論の対象になる。実態はともあれ、倫理という「人間の良心の基準」の上で、それは避けられないことである。

 しかし、それまでの経験にない、あるいはその応用でも適用できそうにない新しい状況に直面する時、人はどのように判断するだろう。
 ── 可能なら思い出して欲しいのだけれど ── 子供の頃はことさらそういう場面が多かったはずで、親切丁寧なオトナたちがあれこれ指図してくれない環境であれば必然に、都度都度、立ち止まって観察から始める必要があったはずだ。

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 大人になると「これまでの経験(蓄積された記憶)を応用して【なんとかなった】」記憶が蓄積されているため、どうしても力押しで進めてしまう。
「これでいいのだ」とごり押ししてしまうようにさえなる。

 本当に、誰にとっても最適で最善な答えなんて、もしかしたら存在しないのかもしれない。
 それでも与えられた条件で、最適な答えを目指すのが思考の役割ではないだろうか。
 単一個体にとってすら、他者の益は、社会の中で己の益となって反映される。
 現在の、コロナウイルスに右往左往する社会を見ればいい。
 自分のことだけ考えて、他者を悪し様に言うだけなら誰にでもできるし、そしてそういう個体が存続できない社会になりつつある。
 経済を信奉する者たちの多くももはや迷い顔で、経済という力を使って自分とその両手の届く範囲だけ守っていても、自滅の道しかないことにようやく気がつき始めたかのようだ。

 未知の状況にあって、それでも思考にとって適切に「信じる」というフレームを与えられるのは、だから信仰心であるとか、宗教なのではないかと僕は思っている。

 宗教は ── たとえそれが「ネコノカミサマ教」なんていう、眉唾ものの信仰であれ ── 科学も経済も、自身の経験にも頼れない状況下にあってなお、向かうべき指針を与えてくれる。
 己のあるべき姿を明確に示してくれる。

 ために私の言っている信仰とは「妖怪を絵に描いてご利益を願おう」とか、そういうことではない。
 混迷の中にあって、自身の思考に基準を与え、思考によって行動を最適化する、その指針になるといっているのである。

 この国では宗教を毛嫌いする風潮は未だに強い。
 それは戦犯国がゆえの民族的背徳感からなのか、妄執がテロまで起こした嫌悪感からなのかは分からない。
(他国は盛りのついたオスよろしく、宗教も盛んなら、戦争も盛んである)

 しかし科学や、まして経済を盲信して人間を安い道具に仕立てた挙句、皆が右往左往しているのである。

 こういうとき、自身の中に信仰のある人たち ── 少なくとも経済や科学や政治以外に信仰のある人たちは、かつてと同じように落ち着いて日常を送っている。

 そしてそれは、僕が見積もっていたよりはるかに多くて、だから僕は安心する。
 この国は、まだ狂っていないのだ。

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 前橋市からの家財の95%を移送し終える。
 明日は軽トラックが納車される。
 明後日からはホームセンタで建築資材を大量購入して、リフォームができる。

 本当に素晴らしい。
 経済が、ではない。
 ネコノカミサマと、その箱が、である。

(眠そうなアヲ。口許にゴミが付いている)