人間は、道具を使うゆえに、我を見失うことがある。
 人間は、環境の改変を望むゆえに、己を見失うことがある。

 人間にとって、道具は外部である。
 だから道具を使う自分は、己の本体であり中心であると思い込んでいる。
 己の中心がどこにあるのかを知る者は驚くほど少ない。
 己の中心について無自覚であるがために己自身を知らず、己を知らぬ者は自身が己のための最初の道具であることを知らない。

 人間にとって、人は環境でもある。
 だから改変を望む自分は他者にとっての環境であり、改変を望むことそのものが、己にとっての環境である。
 克己とは、己が自身に見せる環境と、己という道具と、己の正体を知ることでもあるのだろう。

 己というものは、そのように分離している。
 己を切り離すことは、容易ではないかもしれない。
 しかし瞳を保護する濁った膜のように、眼前の障害のように、切り離さなければ見えないものがある。
 飛行機やロケットがそうするように、切り離して身軽にならなければ、到達できない場所がある。

 今日のむつかしい話はここまで。

>>>

 目覚めると6時半。
 おかしい。

 僕が消灯したのは3時頃のはずだ。
 けれども再び眠ることができなかったので、1時間ほどゴロゴロしてから起き出した。

 最近、布団やベッドのマットレスを2つ並べることで、擬似的ダブルマットレス状態を作っている。
 20代の頃からダブルのマットレスで寝ているので、シングルサイズは窮屈なのである。

 シーツはどうやらシングルサイズが2枚しかないことが判明した。
 2枚を使うと予備がない。
 客用布団が、部屋でトランポリンをしても良さそうなほどあるので、遠慮なく使うことにする。

 これから先、大人数が集まることは社会的にも少なくなるだろうから。
 もとより僕は、これまでもほとんど一人で寝起きしているのだから。

 それにしても朝の時点で分かる。
 今日は昨日より暑く、そして日中はそれなりの高温になるだろう。

 しかし37℃の気温でも動作はできるので、ジャンプスーツを着て、片付けをする。

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 朝から草取り。
 振動式草取り機も併用する。

 僕を穏やかで理知的だと思っている人たちはそれなりにいる。
 学校の先生みたいだとか、葬儀屋のように礼儀正しいと言われることもある。

 実のところ僕は、自身をかなり激しい感情の持ち主で、しかもかなり攻撃的な部類と見なしている。
 道具は多く持っているが、執着というほどのものはわずかにしかない。
 大事なものの大半は、アタマの中に入っているからだ。
 だから破滅的な思考や行動もしかねない。

 それでも身体が弱く、周囲とのバランスを計る環境が最初にあったので、僕は暴力的な育ち方や、腕力を使った人間関係の構築の仕方をしなかった。
 文明が発達しているほど、弱者である方が有利である。今の社会も、まだ弱者を守ることを大切にしている。
 反抗期が来る前に、僕はその事実に気づいたので、誰かと衝突するようなエネルギィの使い方を無駄だと考えるようになった。

 ただ時々、交渉らしい交渉の通用しない人間もいる。
 正義というのは基本的に幼稚なものだ。
 0か1かの二元論的な(あるいは勧善懲悪な)価値観の中で、中間を許さないというのは。
 あるいは単純に論理と威圧を履き違えている人間もいる。
 なるほど物理的/心理的な力は、有無や大小で単純に計測が可能なのだろう。
 多角的なレンジを必要とする複雑な社会に僕たちは生きているようだ。

 芸能人や政治家が不倫をすると騒がれるのは、そのシンプルな正義の共有によるものだろう。
 当事者たちがよしとしているならば、それぞれに器が深い(器が深い?)というような発想はない様子で興味深い。
 ゲーム理論というのが一時流行ったが、いずれもシンプルだ。
 それが多数決的に社会を構成する。
 小さなビット素子の0と1によって、しかし俯瞰的に描かれるのはグレーの絵だ。

 多数決は、それを白か黒かで塗りつぶす。
 良いとか悪いとかいうことではなく、そういうシステムだということ。
 ために人間は社会を構成する上で、幼稚さを超えて成熟し、二元論を超えたグレースケールで水墨画のように未来を描ける人間を育てる必要がある。
 なぜなら、少数派とは弱者のことだからだ。

 弱者だけを優先すれば多数決のシステムが逆転しているだけで何も変わっていないし、多数決だけで押し通すのは幼稚さや単純さを増長するかもしれない。

 芸術や文化というのは、モノクロームの記号にグラデーションを与え、1ビットの情報に速度を加えることでカラーを再現する技術のことだろう。
 単一に秀でたスペシャリストが、多角に才を発揮するジェネラリストに及ばないこともあるのはそのためだ。
 単一の能力で彼我を圧倒できるとしても、黒だけでは水墨画も描けない。

 作業中、脈拍が上がり体温も上昇する。
 火を使うから尚更で、水分は摂っていたが熱中症を起こしかける。
 この身体は低血糖や血管ストレスの耐性が高いようで、ゆらゆらしながら家に入って水分を補充、シャワーも使って冷却したら正しく疲労感が出てきた。

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 実のところ、叔母の形見分けをしていない。
 叔母が亡くなった当初は、形見分けをする予定を立てるつもりだったが、こちらから従姉妹たちにアクセスする必要がないような気もしてきた。

 従姉妹たちに罪はない。
 あるとすれば、ぎくしゃくするような禍根を振り撒くことを選んだ叔母にあるだろう。

 僕にとってはどちらでもいい。
 亡くなった人は意思を持っていない。
 罪を問う実体もない。
 約束があれば従うのだが、反故にされた約束を前に、僕は処理しあぐねいている。
 なので、次々と処分している。

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 夕刻、ゲーム(Ghost of Tsusima)をプレイしたくて買い物に出るが、本体がどこにも売っていない。仕方なくソフトだけ買って戻る途中、BP(高校時代からの友人)の家の前に彼がいるので暗くなるまで立ち話。
 叔母夫婦の家から徒歩数分の場所なのだが、なかなか会う機会がないので放っておいた。

 僕はひとりのことが多いが、友人や恋人は大切にする方だろうと自分のことを評価している。

 それにしても、外堀から埋める巡り合わせが僕の日常なのだろうか。
 説明書の入っていないパッケージを眺めてぼんやりする。
 人間は、自身に合わせて環境を構築するが、その能力を飛躍的に向上させたのが道具の存在である。
 外敵を排除し、雨や風、暑さや寒さを和らげ、食品加工のバリエーションを豊かにし、加熱処理によって毒性を減じた。
 人間は、貧弱な肉体のまま環境に適応してゆき、その力をより大きく、精度も高めた。

 それでもなお、人間にとってもっとも有用な道具は人間だった。

 群れを作り、社会を構成する動物は他にもあるが、人間の持った道具という概念は、同胞を道具にする思考を生み出した。
 動物や昆虫のような本能ではなく、しきたりや契約、当事者同士の力関係によって、支配者層と奴隷層が生まれ、人間は人間を道具とし、人間の道具となった。

 それは社会を社会たらしめ、発展させる基盤となった。

 今日の役に立ちそうな話はここまで。
 さぁ、よい子は家に帰って眠る時間ですよ。

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 目覚めたら、さほど暑くなかった。
 気温が体温より低くなったのである。

 ゆえ、チェーンソウをとうとう稼働することにした。
 納屋の前には切り落とした枝がいつくか散らかりっぱなしである。

 オイルを注いで稼働させてみる。
 思ったより回転は遅く、切れ味も格別良いわけではない(そもそもいつ替えた刃なのか不明である)が、安定してラクに木を切ることができる。
 少なくとも、手動のレシプロソウ(普通のノコギリ)よりはラクである。

 ついでに薪ストーブ(という名の焼却炉)もフル稼働である。
 まずは前回の灰を掻き出して。

 木製の使わない家具や段ボール(最近の古紙回収車はこれを拒否する)を分解して焼却できる。
 もちろん納屋の前に積まれた枯れ草も燃やす。

 燃やしながら、大きく育ったキュウリ1本とオクラ2本を収穫し、表庭に育ちつつあるいわゆる雑草と、横庭に繁々している猫じゃらしどもを抜いてゆく。
 水分を補充しつつ、一輪車2台分まで。

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 草の根を分ける、というと、
 地道な聞き込み調査。
 首を傾げる商店街の八百屋の主人。
 夜の街を走る新人刑事。
 殺人現場。ヒツジのような鑑識の群れを手刀で切り開いて奥に進む神妙な顔つきのベテラン刑事。
 ビル群に沈みつつある夕日を、ブラインドに指を挟み広げて顔をしかめる刑事課長。
 夜の街を走るパトカー。

 そんな風景が浮かぶかもしれない。
 そんな風景が浮かぶのは、間違いなく昭和生まれか、西部警察の再放送を見たことのある人間だけだろう。浮かばない人の方が多いことを理解した方がいい。

 庭のいわゆる雑草を抜くとき、自生している可憐な花をつける草についてはなるべくそのままにしているのだが、どうしても誤って抜いてしまうことがある。
 そのときに草の根を分けて「こっちは抜いていい猫じゃらし。こっちは抜いていけない可愛い子」としてしまうと、実に草取りが楽になることが分かった。

 つまるところ草の根を分けるというのは、辞書にあるように「あらゆる手を尽くして、隅々まで捜す」というのではなく「最初からそうしておけば労少なくしてこうかはばつぐんだ!」ということのようである。
 
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 家庭菜園ティスト1年生の僕からすると、専業農家というのはもはや雲の上の存在(物理で?)である。
 よく、農家の人は土地に縛られるという。
 悪くいえば執着している人もいるだろう。
 年齢を重ねて、誰も耕すことさえなくなったその土地を手放さないのは、ときに愚かにさえ感じられると僕などは思っていたものだ。

 しかし土を作り、生態系をコントロールしてゆくこと(その結果として、作物が手に入るの)が農業だとするならば、たしかに自分の先祖が大事に育てて、自身も大切に使ってきたそれを手放したくなくなるのは必然なのだろうと、合点がいった。

 その場合、土地というのは不動産ですらなくて、土であり、菌類や昆虫、雨や風や気温、水質、動植物の棲息圏をまるっと含んだ大きな装置であり、簡単に替えがきくものではないのだと納得できるのだ。

 もっともここまで天候が変化し、外来種の生き物に脅かされたりもするようになると、それまでは最適だった道具が、何の役にも立たなくなってしまうこともあるだろう。
 何より、荒れ放題にして使わない道具なら、捨てるなり譲るなりした方が良いこともあるようには思うが。
 人間の執着というのは、基本的に、どうしようもないものだ。
 益体のない、といってもいいかもしれない。

 しかしそれこそがときに、その人の自我の輪郭を形成するわけで、まぁでも、ボクはそういうの、要らないかなぁ、とか思いつつ。

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 休憩時間に畳を一枚、持ち上げてみる。

 とても重いが、無理な仕事ではない。
(これでも某有名運送事業者で1年くらいは働いたのだ。身体を壊したが)

 畳の下は、安い板張りで、まぁなんというか、そっと畳を置いた。

 板張りにするには大量の板を輸送する必要がある。
 するとそのためには軽トラの入手を急がなくてはならない。
 軽トラを買いに行くのが、なんとなく面倒である。
 いつか行けばいいんじゃないだろうか。

 ユルユルな現場監督を叱咤する人がどこにもいないことについて、しばし空を仰ぐ。
 もちろん、空は何も答えてくれない。


面倒にゃ!

 人間は、環境を変える力を身につけて、進化することを回避している。

 今日の日記で役に立つ記述はここまでなので、ページを閉じるがよいぞ。

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 そんな僕の環境改善タスクリストは、およそ10ほどの項目を抱えつつ、イマイチ進行しない。
 多分、監督者がユルユルだからだろう。僕には容易に想像がつく。

◯ 6部屋ある畳張りのうち3部屋を、板張りもしくは混合式に変える。
(一部屋は畳/板/石の混合を考えている。薪ストーブを屋内に設置したら面白そうだから、という狂気じみた思いつきのせいだ)

◯ 引き上げた畳のうち、程度の良いものを、朽ちかけのものと交換する。

◯ 朽ちた畳を分解し、燃やすか、そのまま畑の土に組み込む。

◯ 回転式本棚とプルダウン型本棚を設計する。

◯ 軽トラを買う。

◯ 作業台を設計し、設置する。

◯ 本棚を設置する。

◯ PCを買う。
(現在は自作 hackintosh 構築まで考えている。既存の製品に欲しいものがないから仕方ない。PCを自作したことがないのが悩ましい。僕の無知な分野はマザーボード、電源、冷却システム、BIOSで、CPUやメモリ、ストレージ、グラフィックボードは多少心得があるのでなんとかなるだろう)

◯ 薪ストーブを設置する。

◯ 土壁の凝固剤を塗る。

◯ 分水栓に分岐栓を付けて食洗機を使える状態にする。

◯ 雨水の貯水タンクを設置する。

◯ 日焼けで朽ちかけた床板をオイルキュアする。

◯ シーツを買い足す。
(やはりない)

◯ カーテンを買い足す。
(ない)

 といったところだろうか。



 10代の頃にお小遣いを貯めて買い(20代になって拡張パーツを買って増設した)重宝していた本棚を叔母に捨てられてしまったため、今の僕は書架を持たない。
 ありとあらゆる場所に本を散らかしてゆく僕にとって、書架は必要不可欠であり、とても重要な家具である。
 同等の製品を探したが、どこにもない。

 天井に突っ張る高さ可変型のものだったのだが、この家専用に設えるならワンオフで作ってしまおうと思った次第。

 ちょうど四方に出入り口のある納戸様の部屋がある。
 その中央にハンコ屋のハンコ棚のような回転型を設えればよいではないかと思っている。
 200mm程度のベアリング回転板も見繕ってはある。
 中央は鉄パイプなどを軸にして剛性を持たせればいいだろう。
 4つの棚を、上から見たとき風車のような配置にして、棚の回転端部設置面にキャスタでも付けておけばよいだろう。
 あとは材質と設計なのではある。

 ただ、僕はモノを作るのが遅い。
 飽きっぽいから余計で、致命的に遅くて、しまいに放り出したりする。
 今までそれが明るみに出ていないのは、計画を放棄したことによって被害を受けるのが僕しかいないからだ。

 我ながら、その点だけは計画的だと思う。

 連日あづい。

 僕は長風呂のせいかかなり汗が出やすい。
 運動中などは「筋肉は塩分と糖分と水分でうごいているんだな」とはっきり自覚できるほど、水分が排出される。

 肌の過敏さが相まって、自分の皮脂や塩分で炎症を起こすこともある。
 ためにこの数日、できる限り部屋から出ない。

 それでも暑い。
 エアコンを使っていても暑いから、室外機に水を掛けたりして遊ぶ。
 穴が開いている箇所は少ないが、障子を張り替えれば多少は日を防げるし、網戸を張り替えれば、夜に外気を取り込んで排熱することもできるだろう。
 しかしあまりに暑くて、作業する気にならない。
 足りない材料があったら、エアコンの効かない車に乗って出かける必要がある。
 それも考えたくない。
 なので気温が40℃近くなった日から、家から可能な限り出ないでゴロゴロしていた。

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 雨が降らないからなのか、きゅうりの出来が急に悪くなった。念のため断っておくが駄洒落ではない。
 オクラ、ナスもしかり。
 こやつらは水を与えてやるべきなのかもしれないと思い、一度与える。すると翌日はよい実がひとつ獲れた。
 トマトは水を与えないと聞くのでそのままにしている。

 それぞれの根の周辺に、草を焼いた灰を撒く。
 土づくり用の穴にも撒く。
 本来ならここで土を返してやるのだろうが、暑いからしない。
 僕はやはりぐうたらなので、農家には向かないだろう。

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 女やもめに花が咲き、男やもめに蛆が湧くとは言われるものの、僕はどちらでもないので庭の草花を取ってコップに活ける。


 どの草花も名を知らない。
 多分、覚えないのだろう。

 赤い猫じゃらしは、土に鉄分が含まれていたのだろうか。
 それとも誰かの血を吸ったのだろうか。

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 自分で初めて育てたきゅうりを収穫したとき、とてもドキドキした。
 蔓は臍の緒のようで、それをハサミで切るのに、どこを切ろうか躊躇した。
 刺々して、産毛がキラキラしていて、まるで子猫のようだ。

 捨て猫を拾うように、そっと3本、抱いて持ち帰り、水で洗って、ヘタを切り落として、おそるおそる、口に含んだ。
 よく知っている、キュウリの味と香りと舌触りである。
 僕の育てた、子猫のような、キュウリである。

 毎回、味わうつもりでもなく、しかし慎重に、緊張しながら、味わって食べる。

 茗荷が獲れたときも同様、ドキドキした。
 Webで調べたら、ときどき寄生虫がいるらしく、ますますドキドキした。

 庭で獲ったものを食べるのは、いつも緊張する。
 注意深く食べるからなのか、すぐに満腹を感じる。

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 最近は、夕方までには食事をするようになった。
 明るいうちからお酒を飲んでしまうこともあるが、すぐに満足してしまって、あとは水を飲んで、夜中に眠る。

 朝に空腹を感じることがあるが、耐え難いことはまずないので、そのまま過ごしている。

 ナスが獲れるとそれも浅漬けにするのだが、変色を防ぐためにアスコルビン酸(いわゆるビタミンC)を買った。
 純粋なアスコルビン酸(カリウムだったか)の粉末である。Amazonだと安いのだが、携帯電話で買い物をしたくないので、薬局で買った。
 次亜塩酸ナトリウム(水道等に含まれる、いわゆる塩素)を分解する効果もあるので、最近は風呂に500mgほど入れる。
(入浴後、塩素を入れるので多すぎると中和してしまう)

 アスコルビン酸を水に溶いて飲むと美味しいこともわかったし、ナスの変色を防ぐのに、ミョウバンがなくても問題ないことが証明される。

>>>

 周囲をざっと観察して気付く。
 弟子の言っていたように、僕と同程度の年齢で、無職の人はほとんどいないように観察される。

 しかし僕はほとんど家に引きこもっているわけであり、だから僕ではない無職の同世代の誰かもまた、家に引きこもっているのではないだろうか。
 だからお互い、その存在を確認できずにいるのだ。

 それはなんというか、微笑ましい世界だと感じて、猫を撫ぜて昼寝をした。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200818
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
Epic Games と Apple とのあれこれについての雑感。
Written by Bluecat
 

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::「相手と理解し合えたら戦いにならないなんて、まだ勘違いしてるわけでもないよな」
「理解したって、衝突するのがはっきりするだけってこともあるだろ。でもさ、そこまで分かって【まだ手を伸ばす】ことには“意味”があるんじゃないか」
「お前は、自分が思ってるよりずっと、政治家向きだよ。おかしな話だな。お前がこんな大きな障害になるなんてな」
 緊張の限界に達した空気が、強い酸のように肌を刺激する。気がつくと、アラトにとってリョウの才覚がまばゆいように、リョウの視線も揺れていた。
「敵みたいに言うなよ」
 いつだって、アラトは手を伸ばす。そうやって、ずっと生きてきた。
 ゆるやかにリョウが繋いだ集団が、誰もアラトの顔を見なかった。この建物を出たら、背中から撃たれるのだと、理解した。
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 本文に登場するいくつかの単語、及び、背景にある出来事について、興味のある方は勝手に調べてもらいたい。
 とくに時系列的な部分や背景、Web上のコメント、技術的なことや固有名詞、関連して思いついたことなどは、あくまで現時点における僕の曖昧な記憶に基づいていたり、個人的な感想であるに過ぎない。
 またゲームに興味のない人は、今回はブラウザバックした方がいいかもしれない。
 
 ただ、もし、少し興味が湧いたなら。
 ちょっと調べてみてほしい。
 あえて今回のニュースや関連動画のリンクを貼らないので。
 
 久しぶりに僕は胸がワクワクしていて、今後の動向に注目している。
 なぜって、そこにあるのは復讐劇だからだ。
 
>>>
 
 僕はゲーマーである。
 基本的に、ゲームが好きである。
 ただ、ネット対戦型ゲームは精神的ストレスが高いことが多いので(結果的に、それは人々を熱狂させるのではあるが)僕はプレイしない。
 
 今回取り上げるのは「Fortnite」というタイトルのバトルロワイヤル形式のゲームの開発元「Epic Games」についてである。
 よって僕はそのゲームをプレイしていないし今後もしないが、大事なのはそのゲームそのものについてではなく、開発元がどのようなことをどのような環境で行ったか、そしてその背景にはどのような意図があるように思えるか、である。
 
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 Youtube のスーパーチャット(略称:スパチャ)しかり、ユーザがコンテンツに課金する際、オンラインプラットフォーマ(Youtube なら運営会社である Google)へ支払われるロイヤリティ(バックマージン)は30%というのが現在の主流のようだ。
(Steam などについては知らない)
 
 Apple ストアも同様で、つまりゲームを買ったり、ゲーム内コンテンツを追加購入する際、30%はプラットフォーマである Appleに支払われる仕組みになっているようだ。
 僕たちゲーマをはじめ、コンテンツ消費者が(本だろうが動画だろうかTVだろうが)、そのコンテンツにお金を払うとき、そのロイヤリティ比率は果たして適正なのだろうか。
 提議されている表向きの問題はそのように観察される。
 
 その独占的状態に反旗を翻すかのごとく、プラットフォームを介さない課金システムを導入し、Apple ストアから Fortnite が規約違反アプリとして削除されたのが今回の出来事の発端だ。
 
 Epic Games は、かつての Apple のCMをパロディにした動画(じつによくできている)まで、訴訟とほぼ同時に展開。
 リーガルカウンタも織り込んで準備していたことは明らかだ。
 
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 国内におけるネットの反応で僕にとって面白かったのが
「契約は契約なのだから、アプリ排除は当たり前」
「Fortnite に夢中になっていて子供たちが家族とコミュニケーションしない、勉強しない。あんなソフトは無くなってしまえ」
 というもの。
 しかもこれがそれなりに多かった。
 
 すごく凡人的、あるいは斬新なほど的外れな気がして、とても愉快である。
 
 比較的理解しやすかったのは、
「プラットフォーマはその品質維持にそれなり以上の費用が掛かる。その土台を利用して成長/発展しておきながら、掌を返すなんてただの独善的な暴走であり反逆だ」
 というもの。
 
 いずれも端的に「愚図だな」とは感じたが、他者の評価なんてそんなものだ。
 
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 僕の意見としては、いいぞやっちまえ、である。
 ざっと観察しても、Epic Games は、Apple と敵対するために今回の騒動を起こしているのではない。
 肥大化して小回りが効かなくなり、既存のモノしか作れなくなったクリエイタ集団としての Apple に対する激励に僕には見えるのだ。
 
 たとえばパロディにするなら、スターウォーズを起用してもよかった筈だ。
 暗黒面に堕ちるのが特定の個人になるのか、リンゴマークの人形なのかは分からないけれど、メッセージとして分かりやすい。
(もちろん、純粋なスターウォーズファンからバッシングされそうだけれど)
 それをしないのはあのCM(及び、小説「1984年」)のテーマが「悪は滅びろ」というメッセージではないからだ。
 
 支配体制は続かないこと、それは何らかの崩壊をもたらすこと、クリエイティビティとは真逆の方向性をもつものであること、それを訴えているのだ。
 
 まして子供からも、たかだかチャットごときの機能からでさえ、経済を1/3近く巻き上げるシステムを、いつまで当たり前のことにし続けるつもりですか? という問いかけでもある。
 
 Epic Games は今や多くのゲーム開発に利用されている開発環境「unreal engine」を、確か基本無料で提供している。(うろ覚え)
 
 それはASCⅡキャラクタベースのRPG「Rogue」がそうであったように、ゲームは、皆に開かれて楽しまれるべき(フリーであるべき)という思想を体現しているようにも思える。
 
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 この事象を通して感じることは人それぞれだろう。
 興味のない人には、何の意味もないものに見えるだろうし、経済大好きっ子たちは今からチャートボードに張り付いたり、巨頭同士のマネーゲームに興味なし、なんてうそぶいていることだろう。
 
 阿呆なガキどもはプレイできない不安に怯え、その阿呆を育てた阿呆な親どもは、自分の無能さをさておいて胸を撫で下ろしているかもしれない。
 
 僕は、どのようなロードマップの上でストーリィが展開され、どんな結末を迎えるのか、楽しみで仕方ない。
 
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 ここから諸君の大好きな経済の話を。
 ただし青猫工場流なので、儲け話には繋がらない。
 
 僕たちは、誰に、どのくらいの割合で、気持ちを渡したいのだろうか。
 
 ストーリィにおける感動を。
 演出における情動を。
 表現による感覚を。
 体験による興奮を。
 
 そのコンテンツを作った作者と、そのプラットフォーマに、どのような割合でいくら支払いをしたいだろう。
 
 小説で。マンガで。映画で。陶芸で。音楽で。ゲームで。ニュースで。料理で。
 ありとあらゆるもの(きっと性体験すらそういうものである)が、人に感覚させることを価値にしている。
 
 その価値を、感動を、評価を、どのように数値化し、どのように支払って、それは誰に、どのくらいの割合とするのが適切だと思うだろう。
 
 ロイヤリティ30%問題とは、つまりプラットフォーマに対する反抗であると同時に、ユーザに対する意識の問いかけでもある。
 
 あなたは、その体験について、誰にいくら払いたいのか考えたことがありますか? と。
 
 シェアウェアなどが全盛であった頃などは「優れたものには相応の対価を」という文化が根底にあった。
 コンピュータ、ひいてはWebが、情報や技術を基本的に無料とし、それに対する対価はユーザが決める文化だった。
 クリエイタを支えると同時に、みんなでアプリケーションを育てる文化だった。
(もっとも日本人は、著作権や著作/開発物に対する意識が低く、プロテクトブレイカをはじめとする違法コピーが蔓延してもいたが)
 
 共有という機能がもたらす経済的な帰結は、多くの場合、価格の低廉化を招く、それと同じである。
 情報文化は、経済に逆行する仕組みなのだ。あるいは経済の行動が情報の本質に逆行すると言ってもいい。
 
>>>
 
 僕は「商業的に失敗した」といわれる Apple G4 cube という機体を愛用していた(今も大事に保管して、また使う機会を窺っている)。
 同時発表されたモニタ(僕のお気に入りは液晶ではなくCRTのほうである)も含め、その美しさはコンピュータにあるまじき静謐とした凛々しさと可憐さと艶かしさを持ち合わせていた。
(製品的な弱点や、機能や拡張性に比して高額だったのは確かだが、体験を含めれば相応だった)
 商業的に失敗したとしても、そんなことは僕の体験には関係ない。僕はあの製品も、それにまつわる体験も、支払った対価も、十分に価値があると思っている。
 
 現在の Apple 社の製品はどうだろう。
 一時期の日本車のように、見た目がたいして変わっていないのにフルモデルチェンジとか言って自慰行為に耽る中学生がごとく勝手に盛り上がっているように観察される。
 
 いくつかの技術革新はあるのだろう、しかしそれが僕の日常にどれだけドキドキをもたらしてくれるか想像がつかない。今までとの違いがまったく見えてこないのだ。
 
 だからコンピュータを買い換えたいのに、いざ何を買うかとなると、まったく欲しいものがない。
 仕方ないから無職なのにお金を貯めて Mac Pro でも買うか、となってしまう。
 そんな理由で選ばれるようなレベルに、コンピュータと周辺機器業界はふたたび落ちぶれている。
 惚れない相手に愛情なんて湧かない。
 愛情の湧かない相手にお金を払って抱くほど、僕は鈍感なイキモノではない。
 
 UNIXユーザから「Mac ユーザはガジェットと浪費が好きなガキばかり」と揶揄されても「外見の美しさに見惚れて、内面のキュートさに惹かれて、いったい何が悪いのか」と、今の僕には言い返せない。
 Apple の製品は、いや Apple に限らずほとんどのコンピュータも、テクノロジィも、僕をドキドキさせなくなってしまった。
 
 最近の若い子は、つまらないガールばかりになったな、といった感じだろうか。
 僕の身体が昔より、大人になったからなのか。
 
>>>
 
 話が逸脱した(ことをわざわざ指摘するのは珍しいことである)が、そのようなわけで、 Epic Games は Apple に対し、表面に見られる以上のものを訴えているように思える。
 
 それは周到にして胸熱なレジスタンスの物語であり、本来、志を同じくする同志に対する訴えであり、寝ぼけたユーザに対する叱責のように僕には見える。
 
 結末までが楽しみだ。
 本当に、ほんとうに。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::「あのな、ユカ。あのとき本当はお兄ちゃん、レイシアが美人だったから拾ったんだ」
 本当は、レイシアがhIEだと聞いたとき、うれしかったのだ。彼女を「欲しい」と思った。そうでなければ契約も、家族がいる家に連れて帰ることもなかった。
「最低だ!」
「今はそれだけじゃないけど、あのときはそうだったって話だよ!」
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 
 
 引用は、
『Phase 11「protocol love」』
(文頭部:p.469 / 文末部:p.434)
From
「BEATLESS」
(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
 によりました。
 
なお、引用原文中の傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]  

  史上、最も無駄に美しかった Apple 専用モニタ。

 

  あとは自分で探せ。
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Derailleur-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Interface-Link--Love-Memory-Recollect-Rhythm-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Computer-Game-Human-Koban-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-コントローラと五里霧中-
 
 
 
 
//EOF
 ときどき書いているが、僕はあまり劣等感というものがない。
 強いていえば、生きている時点、男である時点、ヒトの皮をかぶっている時点、実は猫である時点で、劣っているといえば劣っていて、だから劣等コンプレクスを感じてもいい。

 しかし死んでいることは、女であることは、事実の人であることは、猫でないことは、果たしてそうでない事に比して優れているのか。
 右より左か。下より上か。マイナスよりプラスか。オスよりメスか。モノより思い出か。キャッシュレスより現金か。カネか。やっぱりカネが好きか。俺よりカネの方が好きなんだな!
(あ。ここ笑うところです)

 比較できない対称性を持つものを比較して、あっちの芝が青い〜! て言うなら向こうと同じ芝を育てろよ。

>>>

 あるいは僕は仕事がない。
 結婚して家庭を持っていない。
 隠し子がいるらしい。
 恋人がいっぱいいると言いつつ、1人もいない可能性がある。
 ときどき2つの家のどちらかで、ガスや電気が止まることがある。
 親戚づきあいを人並みにすることができない。
 友達も少ない。
 郵便物がきちんと目的地に到着することが未だに信じられない。
 経済という概念の使われ方の一部を憎んでいる。
 死んだ人間を憎んでいる。
 ゆえに心が広い方ではない。
 憎しみは個人的には生きるエナジィだと思っているから、もしかしたら精神的にとても歪んでいる可能性を否定できない。
 狂人かもしれない。否定できない。
 無職でも暮らしていける程度の経済力しかないので、所有している自動車は自転車よりはるかに古くて安く、エアコンは壊れて直す気にならない(まともに直すと購入金額の倍以上掛かる)。

 いろいろな意味で、他人にありのままを話すと「ダメ人間」の烙印を押されそうである。
(押させるもんか!)

 僕は相対的に、ある一定の基準のもと、他者と比較した場合、多くの人より劣っているのだろう。
 でもそれをなんとも思わない。

 競争して勝つことに意味を見出さない。
 世界で一番猫っぽい! とかいうレベルになれるなら競争する価値はある。
 でもレースには会場があって審判がいて、出場選手はごく僅かだ。
 仮にその出場者の中で一番になったとして、出場していない誰か(あるいは本物の猫)に負けている可能性だってある。
 年々、僕の中の猫らしさが衰えるとしたらどうだろう。レースは明日にでも開催したい。
 むしろ今しよう、すぐしよう。

 しかしそんなレースは無意味だ。
 100匹の猫には100匹の猫らしさがある。

 だから不便を感じない限り、電気が止まっていようが、郵便受けがいっぱいになっていようが、車がボロでクーラが使えなかろうが、気にしない。
 そういうのを恥ずかしい、という人の気持ちや価値観は分かる。
 でもその価値観を僕まで持つ必要を感じない。
 その価値観に魅力を感じないのだ。

 もちろん公共料金などは気がつけばなるべく払う(だからときどき忘れる)し、郵便受けはときどき大事な通知やマスク(奥さん。冗句ですよ、冗句)が入っているのでできるだけ毎日覗くし、車は道交法に触れたり、生命に危険を及ぼさないレベルに整備する。
 春ごろエンジンから煙が出たことがあって驚いたが、僕はそういうボロい車を可愛いと感じるのだ。いきなり電源が切れる12年前のPCを愛用しているのと同じように。

 だから多くの人の、劣等感がよく分からない。

 劣等感を埋めるために誰かを腐して、その同意を求められたりすると疲れてしまう。
(あの人のああいうやり方は違うと思わない?)
(いいえ、私は何とも思いません)
 自身を蔑んで無意識のフォローを求められるとぐったりする。
(私ってブスだし)
(勝手に決めつけないで欲しいし君の外見に興味ありません)

 優越感を過剰に演出するための自慢やそれに類する見せつけ行為も下品で好きではない。
 そんなにまでして、それほどにまで自分のことが好きなんだから、ちゃんと言ってやれよ! 告白しろよ! 告っちゃえ!

「第一印象から決めてました! 大好きです。愛してます。一生大切にするのでボクと付き合ってください!(この言い回しが面白いと感じるのは昭和生まれの証です。平成生まれは何のことか理解が及びません)」て言え、言ってしまえ。他ならぬ自分自身に言え。他人に言われるのを待つな、自分で自分に言ってやれ。ほれ好きなんだろ?

 ぼかぁそのくらいの段階はとうの昔に終えているので、自分と相思相愛なのである。
 だから自分の凄さや魅力を、いちいち他人に伝えたりする必要は感じない。自己愛が過剰になって自分ノロケを始めるなんて狂気の沙汰だ。
 自分のダメな部分も然り。
 いちいちあげつらうくらいなら別れちまえそんな奴。他の相手を探せ。

 ダメなところも可愛いし、凄いところは尊敬する。
 それが普通なのではないかと、自己愛過剰なワタクシは思ってしまうものですから、自己愛を他人の力で満たそうとする人を見ていると怖気が走るのである。

 だって本人は他人を喰いものにしてる意識がないんだもん。
 被害者ヅラして同調圧力を掛けるなんてそれこそ狂気ですよ狂気。

 ということを書いて「ああ、やっぱりそういう愚劣なヒトたちに比べて青猫様はやはり素敵で賢くて素晴らしく思慮深い方なのですわ!」という周囲の反応を誘導してボクの劣等コンプレクスを満たすのであります。

 ……けっ!
 いいんだよ。
「電気代くらいちゃんと払え」とか
「隠し子がいるなんて信じられないのび太さんのエッチ!」とか
「新しい車くらい買え、貧乏人め」と諸君はボクを罵れば。

 僕がいっぱい褒めそやかして育ててしまったのだから。この僕を。
 諸君からのヤサシサなんて信じないんだからなぁ、信じないぞぉ〜。ほんとだぞぉ〜。


 にゃ!

 久しぶりに、睡眠期に突入したようだ。
 いや、いつもこのくらい眠いのだろうか。

 やたらと暑い気候のせいもあるのかもしれない。
 世には新型コロナとかいう流行り病が浸透しつつあるらしい。
 それもこれも、すべて夢なのかもしれない。

 眠い。

>>>

 妹と、となりのトトロをTVで見る。
 妹と見る、といっても、自宅でTVを見ながら「オジャマタクシ!」とか「あなたトトロっていうのね!」とか「ちょっと飛ぶから、俺の胸につかまりな」「ぴと」とか「夢だけど〜」「ユメジャナカター」「なんで外国人化?」といったやりとりをメールしあうだけである。
(僕はLINEをインストールさえしていない)

 数年に一度くらい、同じTVプログラムを見て、メールしあうことがある。
(あまり頻繁だと、それはそれで関係性がキモチワルイように思う)
 妹から「今日、◯時からTV見ようよ!」と誘われるときはこの形式である。
 僕が一人暮らしを始めてからだから、かれこれ20年ほどか。
 流行りのリモートとかは関係ない。

>>>

 やはり眠い。
 惰眠を貪ることにする。


 僕に寝る場所をください。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200806
// NOTE:
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TITLE:
なぜ本を読むのか。
SUBTITLE:
~ Flight. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::私を見て ── 。
 顔を上げて私を見て。下ばかり向いてるから五線譜の檻に閉じ込められちゃうんだ。
 大丈夫。君ならできるよ。
 ずっと昼休み聴いてたでしょ。譜面はいつも目に入る所にあったでしょ。
 私達ならできる。

 モーツァルトが空から言ってるよ「旅に出ろ」って。
 旅の恥はかきすて。おもいっきり恥をかこうよ、2人で。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 僕は数学嫌いだった。
 なのに30代半ばにしてある日突然、三角関数を理解し(急に座標系がアタマの中に降りてきたのだ)、微分積分を学び(とても情緒的な関数だと今の僕は思う)、今は経営と経済の本を読んでいる(無職のくせに)。

 弟子は言う。何故ですか、と。
 何故、嫌いなものを ── ときに嫌悪し、憎悪さえして、復讐を企てていることもあるというその対象を ── 学び、理解しようとするのですか、と。
 それは「何故、学生の時は真面目に勉強せず、今頃(仕事もしなくなって)」という意味もあるのだろう。

 それは小学2年の時に、僕が算数に感じたことと同じ疑問だ。
 四則演算までならともかく、分数以降の算数や、合同、相似、比例、角度の法則といった幾何や証明を解く能力が、いったい実社会で何の役に立つのだろうかと。
(僕は幾何や証明が好きだったが)
 マーケットに出かけて、1本66円のキュウリを3本買うのと、3本セット200円のキュウリを買うのとどちらが得で、500円を出した時のお釣りがいくらになるか分かればいいのではないかと。
 僕はそう思っていて、だから。普段の宿題なんてものはまったくしなかった。
 それでも授業をおおむね理解できて、成績も上位のことが多かった僕は、ちょっとした神童だったのだろう。

 現に、四則演算より以上の概念を学ぶ必要や価値を、明確に示してくれた教師はいなかった。
 僕は自分の心のままに、すべての価値を決めることができた。

>>>

 人は(あるいは僕のような猫が)なぜ本を読むのか。
 それは、本を読むことで少しずつ、自由になることができるからだ。
 知識を増やし、経験則を集積し、普遍の法則を知り、ありきたりな人間の機微を知る。
 そしてヒトは、己以外を知る。すなわちそれは他者との境界を知り、己を知ることでもある。

 自由とはなんだろう。
 それは己を知り、己の居る位置を知り、己以外を知り、それらの運動を見切ることだ。
 それを完全に理解できれば、自身の次の一手が見えるだろう。
 未来予知のように、物事の今のありようと、将来の姿が見えるだろう。
 何をすべきで、何をしてはいけなくて、何ができるか、その幅も見えるだろう。

 己の意志を知り、それを体現するための立ち居振る舞いを、思い描く通り完璧にできるならば、それが舞であろうと、斬撃であろうと、なすがままにあることができるだろう。

 人目を集める時には完全に収束し、人目を忍ぶときには気配さえ感じさせないことができるだろう。

 あるがままにあり、思うままに無いことができる。
 それが自由だ。
 つまり強くあり、美しくあること。
 そして弱くあり、醜くあること。
 それが自在であること。

 葉が枯れ落ちる道理を知らぬものには、その葉を捉えることができない。
 だから不自由の道理を知り、不自由に染まらない必要がある。
 自由の道を知り、自由に溺れない技術が要る。

>>>

「自己啓発本叩き」があって久しい。
 なんでも「そういうもの」を読む人は、読んだ直後は自分がちょっと凄くなったような気分になれて、にもかかわらず大抵は即実行するような気概がないから、結局日常が変わらず、自己啓発本ループによって、宗教的な、あるいは薬物中毒的な多幸感に浸っているだけの、作家と出版社のエサでしかないと腐す運動である。

 たしかにそれはそうである。
 アタマで理解できても、それを「自分の日常に行動として組み込む」というのは、簡単ではない。

 僕自身、今でこそ普通に、飲食店やコンビニのトイレ掃除を当たり前にするし、レジでのコミュニケート(こんにちは、お願いします/◯円でお願いします/恐れ入ります/ありがとうございます)や、飲食店の注文時のコミュニケートを当たり前にしているが、最初は恥ずかしかったし、挨拶することさえろくにできなかった。
 5回に1回くらい挨拶できるようになって、少しずつその回数を増やして。
 今ではマイバッグを出して「こちらにお願いします」と声をかけ、お財布を出しながら「えーとそしたら……」なんて前振りまでしている。

 僕はそれを本から学び、そして自由になった。
 たとえば汚れたトイレを目にして用を足す不快感から自由になった。綺麗なトイレで心地よく用を足せる。

 機械のように他人を使役するとき、人はただの機械になる。
 だって、自販機を前に挨拶や世間話なんて、みんなしないでしょう?(僕はするけれど
 黙々とお金を入れて、黙々と目的のものを手に入れる。
 自販機を前にして、人は「ただ買う機械」になる。
 それはそれで問題ないけれど、相手が人間だったら、本来は違うはず。

 僕はそこにいる人を、単なる道具や機械ではなく人間として扱う。
 人間ということは、親がいて、友達がいて、今の体調や気分の良し悪しがあって、悩みや夢や理想があって、想いや願いや希望があって、絶望や悲しみや閉塞感があって、笑う時があれば涙を流すことがあって、褒められれば嬉しくて、けなされれば悔しくて、大切な人や憧れる人がいて、苦しい記憶や楽しい思い出があって、好きな人がいて、そういう人とずっと一緒にいたいと思っている人なんだろうな、って思う。

 そんな人を相手に、タッチパネルから料理を注文して届いた料理をただ黙って受け取るとか、買い物カゴをどんっ!て渡して黙ってお金を払っていそいそと立ち去るとか、そういうことを僕はしたくなかった。
 そんなことが当たり前だった日常は、だから、僕自身をひどく不自由にした。

 僕は機械ではいられなかった(猫だ)から、僕以外の人間が、人間に見えてしまった。
 時世があって、だからレジでのやりとりは最小限にはなったけれども、それでも僕は挨拶をし続ける。
 相手が僕を単なる「財布と商品を持ったユニット」と思っていようとそれは構わない。

 コンビニなどでドアを開けて通路を譲るとき、相手が会釈もせずに通り過ぎることを、僕は快く思う。
 譲りたくて譲っている僕の誘導に従ってもらえて、僕は嬉しいからだ。
 お礼をしたり会釈をされても、それはそれで快くいられる。
 誘導に従ってもらえる時点で僕は満足なので、ついお礼を返しそうになったりしてしまうが。

 何かを譲ったり、贈った時にお礼や挨拶がないと怒る人がいる。礼儀を知らないという、それはそれでもっともな理由でもある。
 けれども、誰かに何かを与え、受け取ってもらうのは、その時点ですでに満足のゆく結果ではないのだろうか。

 僕は子供の頃から年賀状の返事も出さず、プレゼントを交換したこともない。
 贈られたときは貰いっぱなし。
 贈るときは贈りっぱなしである。
 お歳暮やお中元のように、世俗が集中しているときだからこそ手に入るものもあるが、僕は基本的に天邪鬼なので、そういうものは無視し続けている。
 そうこうするうちに世俗でも一般化されたようだ。

 プレゼントも、思いついて手に入ったら贈ってしまう。それでいいと思う。
 何より、物を贈るより、何かを一緒に体験することで楽しんでもらうのが好きである。

 たとえばベーコンの肉をベランダに干してある風景は、普通はなかなか見られない。
 燻煙が目や鼻に滲みること、作りたての燻製は、実はさほど美味しくないこと。
 揚げたての厚揚げが、とんでもなく美味しいこと。
 それを作るのは結構、大変であること。

 僕自身、物をそれなりに持っているけれど、結局、その物で何を体験できるか、どんな時間を過ごせるかが大事なのだ。
 焼却炉を買ったら、草や土を燃やして、灰を畑に還して、どんな変化が生まれるか、この手で作って体験したい。

 道具は、その道を切り開くモノでしかないのだ。

 だからモノありき、礼儀ありきになってしまえば、人の心は居場所を失うことがある。
 何より何かを人に譲ったり贈ったりすることは、ある種の強制をしているのだから。
 そういう謙虚さのない人間ほど、贈った自分が偉いと勘違いして他者を責める。まったく恥知らずなことである。

>>>

 僕は自分が自由であり、機械ではないことを確認するために、人を人として、僕よりもよほど人間らしい存在(事実そうなのだが)として、対応する。

 僕はそれをひとつひとつ、本で学んだ。

 たとえば自己啓発の本で学んだことを、すぐに実行できない人も多くいるだろう。
 それでも、読まないよりは読んだ方が、何かを知る機会は増えるし、考える機会も増えるだろう。すなわちその葛藤は、自分のありようを変える種だ。
 もともとできる人が、できない人を揶揄するぶんには仕方ないかもしれない。
(あいつ、読む本だけは立派なのに、やっていることはいつまでも変わらないな)とかいったふうに。

 しかし完全に完璧にできる人が、果たして「道の途上にある人」をそのように揶揄するのだろうか、と僕は考えてしまう。

>>>

 親や学校が教えるべきだとする風潮も、僕はちょっと疑問に思う。
 親というのは、その大半が、やはり「道の途上にある人」だ。
 それに対して、子供は親を絶対的なものとして感覚せざるを得ないように思う。
 もちろん「親といっても、私はそれほど優秀じゃないからねぇ」なんて言っていると大人を舐めて掛かるような阿呆になることもあるわけで、その辺りの匙加減は実に絶妙だ。

 たしかなことは、親は(物理/遺伝/経済的に)絶対かもしれないが、親の教えは絶対ではないということだ。
 とくに義務教育以降は、完全に他人だろう。

 学校に至っては、単なる教育機関であり、それこそ自販機なのだ。
 機械の中に自分の子供を押し込めて、これは人間なんですと言い張る自身の機械化した思考を知れと僕は思う。

 いずれにしても人間は、最初は不自由であるべきだろうとは思う。
 そして実際に、物理的な部分や経済的な部分で、子供は不自由だ。
 大人がいなければ、大人が危険な範囲を囲って守らなければ、迷ってどこかに落ちてしまうこともある。
 だから、大人は子供を不自由にしなくてはならない。それこそは義務だろう。

 その押しつけられた不自由を、切り開いて、探究して、新しいものを作ったり、考えたこともなかった気持ちを知ることが、自由なのだと思う。

 たとえば山奥の、満点の星空を見て「じんましんみたいで気持ちわる〜い!」と嫌悪する自由。
 オナラの匂いを嗅いで「やだうんちくさ〜い!」と言って笑いはしゃぐ自由。
 キャンプ場で作った料理をして「不潔で食べたくない」と泣いて拒否する自由。
 綺麗なものを見て「綺麗だ」としか言えない、言わせない、思えない、思わせない不自由から、飛び出したっていいのだ。
 人が嫌悪するものを見て、心惹かれて、それを愛でて集めてもいいのだ。

>>>

 僕はたまたま親が自営業で、離婚したあとは尚更のこと、躾らしい躾をほとんどされなかった。
 正座と、箸使いくらいだろうか。

 周囲との文化の違いに悩まされたこともあったけれど、思い込みに操作されている人や子供の姿を見ながら、僕は僕のありようを考えることができた。

 人の心の機微は、やはり苦手だけれど、たくさんの物語が、僕の記憶を彩っている。

 宇宙の物理法則は、驚くほど無個性に協調性があって、幾何学模様のように美しい。
 数学という見えない概念は、それを舞台裏で支えているのだ。

 人間の心にも法則性があって、だから、人間社会にも法則性がある。

 大事なことは、法則そのものを嫌わず、理解してあげること。
 そして、だからといって盲目に従う相手ではないと知ることだろう。

 僕らは空を飛び、遠く離れた人と言葉をやりとりしたり、見ているものを共有できる。
 これらの魔法を、この世界は科学によって達成した。

 魔法にだって、様々な制約や法則、禁忌もある。
 ひとつだけ確かなことは、学ばぬものに自由はないのだ。

 僕はもっともっと、僕自身からも自由になりたくて、だからあれこれ考えてしまう。
 好きなこと、好きな人、好きな言葉、好きな物語、好きな気持ち、綺麗と感じるすべて。
 あるいは嫌いなこと、嫌いな概念、醜悪ななストーリィ、嫌いだという気持ち、嫌悪し、憎悪し、この世から消し去りたいそのすべて。

 もっともっと、好きなものからも嫌いなものからも切り離されて、自由でいられるように。









// ----- >>* Escort Division *<< //


:: ── 天真爛漫。奇想天外。ジェットコースターみたいに僕は振り回されてばかり。
 この人自身が、行き先のわからない旅のよう ── 。

 君は自由そのものだ。

::違うよ。
 音楽が自由なんだよ。

 さあ旅に出よう。
 サン=サーンスが私達を待ってるよ。



// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


 引用は、
「第5話 暗い海」(文頭部:p.20-23) (文末部:p.25-26)
From「四月は君の嘘 第2巻」(著作:新川 直司 / 発行:講談社)
 によりました。





// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Engineering-Form-Life-Link-Love-Mechanics-Stand_Alone-Style-Technology-

[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Resistor-Transistor-

[Object]
  -Camouflage-Human-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-衛星軌道でランデヴー-:-いのちあるものたち--夢見の猫の額の奥に-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200806
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ハーレム育ちと女の子のニオイのするボディソープ。
Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 晴れが増えた。
 相変わらず、夏は夏だ。
 暑いが仕方ない、今日も厚手のジャンプスーツを着て、頭にタオルを巻いて、ゴーグルを着けて、長靴で庭に出る。

 数年前、省エネと室内水冷装置の実験を兼ねて、なるべくエアコンを使わない夏、というのを過ごした。
 延べて3回ほどの夏を過ごしたろうか。

 熱交換効率が低く、自動化されたシステムの実現まで漕ぎつけず、計画は中断している。そう、中断しているだけである。
 やはりラジエータ等に見られるコンデンサフィンを持つ金属製の熱交換器を数箇所設置したいし、ファンも必要になるだろう。
 熱発電システムを構築できれば完璧だが、光発電の方がまだ主流であることから、このあたりはむつかしい。
 そもそも、電気は抵抗により熱を発生する。
 熱電変換素子を使おうとする場合、温度差を作るには冷却液による温度差を利用しなくてはならないが、モータに充分な電力を供給できるかは疑わしい(やってみないと分からないが)。

 いずれにしても僕(と実験に付き合わされたかわいそうな恋人)は、汗だくだった。水風呂で身体を冷却し、それでも僕は汗疹になった。

 ために今はエアコンを遠慮なく使う。
 家にいるのは僕と猫だけなのに、3台ものエアコンが稼働している。
 ときどき忘れてしまうが、僕の肌は僕が思う以上に敏感だからだ。
 部分欠陥住宅になっていることも影響している。いかんせん気密が低い。
 この家で新しいのは、エアコンとバスルームとトイレ(完全リフォームされている)と住人だけだ。
 畳は紫外線に焼けて朽ち、土壁はひび割れ粉をこぼし、窓枠は歪み、天井や壁の所々に雨漏りの染みが浮かんでいる。
 なぜこんなになるまで放って暮らしていたのか疑問ですらある。

>>>

 納屋に焼却炉を設置し終えた。
 煙突は、窓を開けて伝わせ、使用しないときは、連絡部を外して格納している。
 冬になれば、メガネ石を取り付けようと思うが、いつかの地震の影響で母家同様、窓枠は傾いている。
 
 試運転時は煙突が足りず、ほとんど室内排気で燃焼させた。
 2度目の燃焼は少し間が空いたが、昨日、煙突を完全に設定し終えて、大量の煙を道路に放出した。消防が来なくて良かった。
 3度目の今日は、不完全燃焼を回避して、見事に運用。
 災害時は上蓋を外して調理もできる。
(屋外用薪ストーブの名称は事実であろう)

 焼いている時間を使って、キュウリを収穫したり、いわゆる雑草を取ったり、バッタを殺したりして哲学する。

>>>

 あるブログで「DEOCO というボディソープを使うとガールの体臭がして背徳感がすごい」とあり、面白いので買った。
 なにせこちらは汗まみれのうえ、火燃しのために薫香をまとっている。
 ついでに、同世代の同性たちは、口をそろえて「俺たちはオッサンになった」「僕らおじさんは……」というのであるから、きっと僕の身体も(かなり薄い体臭だとガールたちは言うのだが)おじさんの臭いがしているかもしれない。

 実際のところ、僕は5歳までは少女だった。
 家は正しい意味のハーレムのごとく、女性ばかりの集団だった。
 男嫌いだったボクは後年、男の子の友達を作るのにたいそう苦労したが、ほぼ男子校みたいな高校に行っても(人見知りの引きこもりなのに)別の学校のガールと恋人になったり、放課後のマクドナルドで12人の後輩ガール(やはりいずれも他校)に囲まれて過ごしていた。
 ひとことでいうと、僕は男と連んでいるよりも、ガールに囲まれている方が落ち着くのだ。この歳になってもそれは変わらないし、5歳までは少女だった自分の自我も残っている。

 ある意味、恋人が次々増えるのも、その方が落ち着くからなのではある。

 ゆえに、ガールの匂いといったらホームポジションのようなものだ。
 ならばこれは買いだ!

 と、買いに走った次第。

>>>

 買って最初に、手を洗ってみた。
 メントール、ハッカ油、シトラス系オイルのような刺激が肌に残る。
 普段、純石鹸しか使わない僕の身体が、拒否を起こさないか心配であった。

 ニオイは、たしかに女の子のそれである。
 ガールたちから発散される匂い。
 美少女の香りというよりは、もっと広義に、女の子の香りである。

 実際にお風呂でも恐る恐る使ってみる。
 刺激を感じる成分は、殺菌剤か香料、あるいは肌を引き締める成分だろう。
 ちくちく、ピリピリする。
 よくすすいでも、少し残る。
 洗顔や粘膜付近には使えない気がする。

 ただ、ケミカルな保湿剤はほとんど使われていないようで、肌はベタつかず、かぶれない。
 そしてふと気付く。

 14歳までのボクの体臭やんかこれ。

 嗚呼。
 ボクの少女時代は、5歳ではなく14歳まで続いていたのか。

>>>

 僕は自分の性自認をきちんと持っていない時期がほとんどである。
 肉体は男性だから女性としか身体を重ねないが、ガキと馬鹿が嫌いなので、相性の良い人は限られる。
 男性相手に恋情を持つこともあるが、身体を重ねてもいいと思えたのは今まで1人だけだ。
 もちろん相手はストレートだし、僕もストレートだから、そんな展開にはならなかったが。

 結局のところ、誰かを抱きたい/抱かれたいという根源的な情動は、相手がどれだけ魅力的であるかということの重みが大きい。

 だから美人なだけでアタマの中がすっからかんの女にも、大言壮語の自慢げな男にも、性的な魅力は感じない。
 箸の使い方や歩き方、何気ない日常の動作にこそ色気があると思うのは僕だけでしょうか(ここで生徒会長立候補口調)。

 性自認が曖昧だからこそ、僕は5歳まで14歳まで、少女だったのだ。

>>>

 お風呂から上がって、なんともいえない心地よさを感じる。
 ボクの着けているヒトの着ぐるみは、45歳のオスであるから、肉眼で観察するかぎりオジサンであろう。
 それでも心地よい。
 女の子のニオイである。

 しかし同時に、14歳まで少女だったボクの感じる、心地よさがある。
 それは14歳までの少女だったボクを感じる心地よさでもある。
 そりゃ、女だった経験のない男性にとって禁断の香りであり、背徳の芳しさと感じられるのもうなずける。

 ひとりで居ながらにしてハーレム気分。
 身体を拭いて猫たち(すべて女の子である)のところに近づいたら、驚くほど喉を鳴らして擦り寄ってくる。
 いつもと食いつきが違う。
 まさにハーレム。

 ……あれ?
 君たちもしかして。オジサン嫌いなの?


今日のにゃんこ。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

[ Traffics ]

リアル君の名は。おっさんが女の子の匂いを買ってきて身につけたら、たまらない背徳感を味わえた

◯女性の「若い頃のニオイ」を解明!「若い頃の甘いニオイ」の正体は「ラクトンC10/ラクトンC11」
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫β-/-黒猫-/-BlueCat-/

[InterMethod]
  -Blood-Chaos-Color-Darkness-Diary-Kidding-Maintenance-Memory-

[Module]
  -Connector-Generator-JunctionBox-Reactor-

[Object]
  -Camouflage-Cat-Garden-Memory-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200728
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
根っこがないから平気なこと。
SUBTITLE:
~ TheFootless. ~
Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 庭の、いわゆる雑草を抜いていた。

 今年の雨は長く、災害も多かった。
 幸い、僕の両手の届く範囲はいつも、比較的つつがない。
 トイレのロールペーパーがコアレスだ、という自慢をしているのではない。
 漢字にすると「恙ない」であって「筒がない」のではない。

 もちろん、次姉は難病だし、母上は癌にかかって下半身不随だし、僕は無職だ。
 僕たち姉妹は、ときどき、どうしようもないくらい、人間として破綻しているように思えることがある。僕自身も例外ではない。
 端的に、僕たちには、コアがない。
 自分の核が無いから、その穴を埋めるために、どうしようもなく、何もかもを駄目にしてゆく。
 全員とはいわないが、そういう部分が顕著な者もいる。かくいう僕だって、まともな精神構造をしているとは思っていない。

 でも僕に限っていえば、死ぬほど苦しいことや悲しいことなんて、もうないような気がする。
 いちばん悲しい出来事は、遠い昔に過ぎ去ったのだ。
 セミが殻を破って飛び立つように。

>>>

 家庭菜園ティスト1年生の僕は、庭を耕して、キュウリとナスとトマトとオクラとブロッコリィとニンニクとモロヘイヤを植えた。

 おかげで、このところ毎日、2〜4本のキュウリを食べている。
 浅漬けにして、食べている。
 最初に食べるときは、本当にどきどきした。
 初めて恋人とキスするときでさえ、こんなにはどきどきしなかったのに。
(まぁそれは、いずれ書くかもしれない)

 そして、どういうわけかニンニクは全滅した。
 ブロッコリィは葉脈のいちばん硬い芯を残して食い散らかされた。

 僕は毎日のように、トウガラシをアルコールに溶かしたものを希釈した防虫液を、それらの葉にかけていた。
 雨が洗い流してしまうから、時に葉を裏返して噴霧した。

 アブラムシはほとんど付かなかったし、イモムシも、わずかにしか見なかった。
 それなのに、柔らかい葉や芽を持つブロッコリィは、徹底的に食い散らかされた。

 そして今日、草を取りながら気付いたのだ。
 たしかバッタも作物に食害を及ぼすのではなかったか。
 じつにいるいる、あちこちに細長いバッタが。

>>>

 ああ、神よ。
 かのものは、我に直接仇為すものにあらず。
  されどもワタクシは、復讐と名のつくものすべて徹底してゆくサダメなのである。言い換えると、そういうポリシィってことね。

 かくして目についたバッタを、ある時は踏み付け、ある時は収穫ハサミで剪断し、少しずつ少しずつ、駆逐を開始したのである。
 しかしこれは心が痛む。

 もともと僕は昆虫が嫌いである。
 ゴキブリ、クモ、ムカデ、手足が4本でないすべての生き物を、ことごとく恐れる。
 それは本能の恐怖だ。

 それでも僕は、その恐怖や嫌悪を克服しようとしてきた。蜘蛛なんか、今は可愛いと思うこともある。
 いろいろなものを傷つけて生きている。
 いろいろなものを殺して生きている。

 生きる気力がほとんどないから、寿命を交換したいという人がいたら譲りたいくらいだ。
 もちろんそんなことは不可能だし、だからといって積極的に死ぬ理由もない。
 僕に繋がる僅かな人たちは、僕が生きることをどういうわけか望んでいる。

 きっと同じだ。

 自分の手で、魚を捌いたり、家畜を屠ったりしたくないから。
 間接的にバッタを殺すことさえ、ひとたびその行為に疑問を挟めば心が痛む。
 壊れている僕ですらこの有様だから、まともな人にはそんな殺生は無理なのではないだろうか。
 少なくとも僕は、自分の作物を守るための間接的な積極性によるバッタ殺しがつらい。
 だから考えずに殺すようにした。
 
 きっとみんな、直接、身近な人の死を見たくないだけなのだろう。
 見えないところで殺された、そのあとの素材がそこにあれば、痛くも痒くもない。
 たまたまバッタは、それを殺しても、誰も僕を非難せず、法に触れて逮捕されもせず、その係累の心に僕に対する復讐の炎が灯されたりもしない。

 それでどうやら葉っぱを食べてしまうから。
 だから僕は殺す。
 僕の周りの人は、僕が自死することを許さない。
 僕にはその重さの違いが、いまいちよく分からない。

 四捨五入で半世紀生きたのにこれである。
 きっと何も分からないまま死ぬのではないかと、ときどき情けなくなる。

>>>

 弟子に言われることがある。
「猫氏は、今の世の中を想定して、準備していたのですか」と。

 今の時勢、職を失って、次の職が決まらないなんてザラだろう。

<<<

 2020年、新型コロナウィルス(COVID-19)によって、人間社会は世界的な危機的状況に陥った。詳細は省く。

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 たまたま僕は「新しいMac Proを思いつきでポンと買える」ほどには裕福でないけれど(僕の希望する最低限の構成で800k円する)「仕事もしないでのんびり余生を過ごす」程度の経済力を手に入れた。

 以前のブログで「モテは理解できたから、次はオカネモチーだなぁ」という発言が、どういうわけか叶ってしまった。

 まだ、理由や仕組みが分かっていない。
 モテと同じ原理で世の中が動くと想定して、そのレールに乗るように振る舞ったらこういうことになってしまった。

 だからときどき、僕はこの世界が、僕の妄想で仕上がっているような気がすることがある。

 バッタだって、ひとたび完全に駆逐してしまえば、来年から数が減るだろう。
 それ以外の害虫やいわゆる雑草、植物の病気も、僕は根絶しようと思ったらできるようにする。

 弟子にすると、そういうのは努力であるらしい。
 でも、僕は努力なんて大嫌いだし、努力した覚えがない。

 モテようとして、それを実行したらモテになったように、オカネモチーになろうとして実行したらそうなり、バッタを根絶しようとして実行すればそうなる。
 努力なんてどこにもない。

 僕は本来の僕のポリシィ(バッタといえども、みだりに殺生しない)を簡単に捨てて、新しいポリシィ(バッタは殺す。できる限り徹底的に、できることなら間接的に。ただし直接殺すことを躊躇わない)で上書きする。

 僕にとって、僕のアイデンティティがないというのは、こういうことだ。
 僕の、誰にも譲れないコアなんて、どこにもないんじゃないだろうか。
 必要さえ感じれば、なんだって譲って差し出してしまう。
 悪魔に魂を売って「これだけでいいの?」なんて言ってしまいそうだ。

 実際に、それで26人の恋人をフったし、それによってひどく傷付けた相手もいる。
(もちろん、そのまましれぇっとしている相手もいる。数年に一度しかやり取りのない恋人というのは、そういうものだ)
 26人も一度に傷付けるなんて、大企業のリストラよりよほど少ないとは思う。
 でも本来の僕は、そんなことをしたいわけでも、できるわけでもないのだ。
 もちろん、必要だと思ったからしたのだが。

「必要だと思って、したくないことすらするのは努力です」と弟子は言う。

 でも、努力したからといって幸せになれるわけではない。
 最初からそれは知っているけれど、それでも、僕よりアタマノワルい人間が介在すると、その欲で、何かが歪んでしまうのかもしれない。

 それに、必要だと思っていたことが、本当に、絶対に必要だと、どうやって判定するのか、僕にはまだ分からない。


今日の猫。


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 草を抜いていて、気付く。
 地面から、ミョウガが、頭を覗かせている。
 面白くなって、たくさん集める。
 地面に這いずって、虫に悲鳴を上げ、泥と汗にまみれて、集める。
 ちいさなボウルいっぱいに採れたそれを、キュウリと一緒に浅漬けにして、夕刻、食す。
 庭に自生しているミョウガなんて、僕はとてもじゃないけれど信じられなくて、スリリングな気持ちの夕食だった。
 たとえるなら、バーで隣に座った美人と親しくなって、どこかに連れて行って欲しいと言われるような気持ちだ。
 悪くないけれど、絶対に信用できない。

 1日1食のままなので、浅漬けだけで満足して数日になる。
 三食絶対主義者なら、また眼を三角にして僕に怒るのだろう。
 でも、そんな人たちはみな、僕のそばには居なくなった。

 まだ生かしておくべきなのだろうか。
 幸せを感じるアイデンティティすら、どこかに置いてきてしまった僕を。
 抜け殻のように、佇むだけのそれを。








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