// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200806
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
奴隷商と自動化。
SUBTITLE:
~ Slave trader. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
201016
 
 ようやく引越しの手続きをする。
 足利市から前橋市に引越すときは、友人のBPの手を借りたが、しばらく前に、不倫に忙しいようなことを彼が言っていたので諦めて、引越し業者の手を借りることにした。
 彼が不倫をしているから手を借りないのではない。彼が忙しいと言っているから手を借りないだけである。
 
 僕も、ゲームや昼寝、料理や焚き火やお風呂で忙しいときがある。
 もちろんガールとぱやぱやするなんていえば半日は潰れてしまう。
 ぱやぱやするときに他の予定を同時に実行するなんてことは考えたこともない。忙しいからである。
 忙しいのだから、他の予定の入る隙間はない。
 友達なのだから、相手の予定や優先度を優先するのは当然だと僕は思う。
 ために不倫で忙しいBPの時間を奪うようなことはしない。
 
 僕には忙しさを他人に説明するとき、理由に序列がない。
 昼寝だって、どうしても必要な昼寝があるし、同様に、してもしなくてもよい仕事や経済活動だってあるだろう。
 食事や家事、勉強や人間関係の付き合いごとなども同様だ。
 これは夢の話にも似ている。
 
 たとえば僕はインテリアとして女性下着を飾るのが好きなのだけれど「綺麗な女性下着があと5着くらい欲しい」という欲求と「自転車で日本一周したい」という欲求を同列に扱う。
 だから恋人や友人に「綺麗な女性下着があと5着欲しい」と言うことができる。
 もちろん、たいていはそんな発言をする必要などないのだけれど、たとえば恋人が「身に付けるよりも飾った方がいい下着」を着けていた場合、「その下着を飾りたいので置いて帰って、私に頂戴」くらいのことは言う。
 
 今の夢は何ですか? と尋ねられたら「裏庭の木の剪定」と答える。それは日本一周よりも切実で喫緊で重要だ。
 でも人によっては、自分の欲求の強さに関係なく「語ってカッコいい欲求」を夢として語るだろう。
 もちろん、いいカッコをすることが悪いとは思わない。
 ただ、そういう夢は叶わない。
 
 自分をカッコよく見せるために、他人に語るべく用意された夢は、他人に語るという目的しか持っていないからだ。
 他人に語ることで満たされる欲と夢は、そこで煙のように熱を失うから、カタチを持つことはない。
 単純なメカニズムである。
 
 僕にとっては、夢と欲求はだいたいセットになっていて、そもそも必要もないのに夢を語らない。
「将来の夢は」と尋ねられても、いい加減なことしか言わないだろう。
 夢を語って熱量を下げるなんて自殺行為をしたくない。
 だから、本当に欲しいものや本当にしたいことを、僕は他人には滅多なことでは言わないのだ。
 それを手に入れて、実現して初めて「これがしたかった」と言う。
 悩みを誰かに相談しないのも、同じメカニズムである。愚痴もほとんど言わない。
 
 忙しさも同様で、他人に語る忙しさはだいたい時間の無駄である。
 他人に語ることができる忙しさ、他人に語るための忙しさ、いったいどうして忙しいのだろう。
 それは無能だからだ。
 
 僕の手帳はだいたい空白だらけなのだけれど、他人に忙しさを説明しても伝わらないのだ。
 僕には通販サイトで女性下着を見たり、屋内用暖炉をホームセンタで見繕ったり、昼寝をしたり、ゲームをしたり、焚き火をしたり、猫と遊ぶのに忙しい。
 にもかかわらずわ多くの人は、それを忙しいとは言わないらしい。
 他人向けに語る用の、もっともらしい言い訳がないと、友達の誘いも断れない人が多いのは、そういう理由だろう。
 それでもそれを友人関係と呼べるのは、弱さなのか強さなのか。過敏なのか鈍感なのか。
 
 いずれにしてもそのようにして、多くの人は、世間体とまでいかないくらいの、こじんまりとした他人の倫理に左右されて生きているようだ。
 それはそれで本人の望む幸せのカタチだろう。
 もっともらしい言い訳をしなくてはならないくらいたくさんのお誘いがあって、もっともらしい自分を演じることで繋がっているたくさんの友人に囲まれ、きっと寂しくないのだろう。
 退屈もしないし、時間の無駄も感じないのだろう。
 
 僕は、そういうのがとてもチープで寂しくて無駄で退屈だと感じるので「昼寝に忙しい」と言えば笑ってくれる友人や「じゃ、添い寝に行く!」と宣言する恋人しかいない。
 
 どちらもハッピーだと思う。
 僕は親しい友人にまでもっともらしい嘘をつきたくないから、そういう人間関係を構築しているというだけである。
 
>>>
 
 無職になって、だいたい18ヶ月が過ぎた。
 もうこれが僕には普通のことになってきている。
 だいたい5〜6年前に、ブログでふと「モテは飽きたから次はオカネモチーになろう」と言っていたのだけれど、こんなカタチで自分を買い戻せるとは思っていなかった。
 もちろんその時からかなり真剣に「オカネモチーになる手段の自動化の策定」を始めたわけだけれど、僕は元々オカネモチーではないし、会社を立ち上げたり、過重な労働をして賃金を貯めたりする気はなかった(それはコガネであって多分、普通に消費してしまう)し、ギャンブルも宝くじを買うこともしないので、どうしてオカネモチーになる道が出来上がったのか、未だによく分からない。多分、運が良かったのだろう。
 
 いずれにしても、奇跡的に僕は経済そのものから僕自身を買い戻すことができた。
 経済というのは奴隷商みたいなものだから、経済が人間を支配している社会(資本主義って、そういうことである)において、僕らは基本的に経済の奴隷である。
 
 僕という無職者をひっそり養うだけの経済力があればそれでいい。
 僕は財界で有名になったり、市場を通して世界をコントロールしたりしたいとは思わない。
 
 街の飲み屋でチヤホヤされることに興味がない(できればどこでも、隅にいる一見さんでいたい)し、友人や知人や恋人は少ない方がいい(一人でいいとは言っていない)。
 
 無名のまま、もっと接する人を少なくして、誰知らず死を迎えたい。
 できれば自動化された葬儀には、誰も出席しないくらいが丁度いい。
 
 オカネモチーの思考回路を具現するのにあたって、僕はそういったデザインをした。
 デザインしたとおりの思考を手に入れて、デザインした程度に近いオカネモチーを実現した。
 オカネモチーというのは基本的に、現実世界の根が深いようだ。
 現実世界に強く深く関わらないと、そういうふうにはいられないのかもしれなくて、それが少し煩わしい。
 現実世界と僕との接点を、少しずつ引き剥がすのが今後の目標である。
 
>>>
 
 この(あまりにも人と接することの少ない)状態から再びモテに転身したら面白いとは思う。
 どんな自動化がそれを実現するのだろう。
 
 ときどき考えるのだけれど、引越しの荷物の仕分けの方が、今の僕には大事で忙しい。
 梱包も開梱もお任せするシステムはあるらしいのだけれど、僕は自分の持ち物を誰かに見られることを極端に恐れているようなので、恥ずかしくて恐くて、自分でするプランにした。
 
 対面に座して話を聞いていたら驚かれた。
 何でも最近は、相見積りのため複数の業者を呼びつける人が多いらしい。
 キッチンで料理をしながら、片手間に説明を聞く人もいるそうだ。
 みな忙しくて、人を人とも思わない社会に加担していることさえ自覚がないのだろう。
 
 ひとことで言えば情けないことである。
 
>>>
 
 運送業者である以上、下げられるのは人件費である。
 それを値切って得をした気持ちになるのだろう。
 それはそれて一つの道である。
 人を値切って買えば、自分が値切られる契約書にサインをしているのと同義である。
 僕らはなべて等しく経済の奴隷なのだから。
 
 そんな世界など滅びてしまえと、僕はボクの中の悪魔に囁く。
 ときどき世界を変容させてしまう僕の自動化プログラムは、悪魔がペダルを漕いで動作しているにちがいない。
 それなら経済も悪魔も、ひとしくペダルを漕げばいい。
 ガールとのぱやぱやに忙しい僕のために、ペダルを漕いで世界を前進させればいい。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Link-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Design-Friend-Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20201015
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
自己愛とストーカーと既読スルーとお歳暮
SUBTITLE:
~ Defect tumbler. ~
Written by BlueCat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 
 10日前、母上は死んだ。
 母上についてはすでに書いたし、母上についての悲しみを僕は悲しみ終えたので特に書くことがない。
 強いていえば「生きているのに生きていない、死んでいるのに死んでいない」そういう空白地帯が生命にはあって、それを感覚するのが悲しいのではある。
 
 なのできちんと死んでいる状態に至った今、僕は安堵する。
 僕は母上を嫌いなわけでも憎んでいたわけでもないのだけれど、生きているよりも死んでいる方が適切だと僕が判断する状況に対して、生きていることを認識するのはストレスを感じるのだろう。
 そのストレスが悲しみという感情として発露するのである。
 あるいは人によってそれは怒りになり、あるいは消沈になり、一般的な状態の僕ならば(ストレスに対する表現手段の手持ちが少ないため)笑うだろう。
 
 母上は死に、一度死した人間はもう死なない。
 死んでしまうかもしれないし、快復するかもしれない(あるいは現状だけでも維持できるかもしれない)というグレイゾーンの状態はかなりのストレスである。
 
 僕以外の多くの人間がどうなのかは分からないが、僕にとっては、失われたものよりも、失われる「かもしれないもの」のほうがストレスになるのだ。
 観察した範囲でも、幼いときほど「失われたもの」に対するストレスが高く、「失われるかもしれないもの」に対するストレスは少ないようだ。
 これは予測能力(経験)の欠如が原因だろう。
 経験を重ねることでストレスに対して対策を取れるようになるが、同時に「失われたもの」に対するストレスに怯えて回避するような思考回路が構築されるのだろう。
 結果として、大人になり経験を積んでいる人の方が「失われたもの」についてのストレス耐性は強くなり、「失われそうなもの」について過剰に反応するようになる。
 その反応の過剰さが、すなわちストレスの高さだ。
 
 僕の場合もこのモデルに合致して「失われるもの」が現実として失われる頃には、すでに慣れて諦めている。
 ただ僕は「失われるかもしれないもの」に対する過剰反応が少ないように思える。
 これは「失ったもの」についての記憶(の一部、あるいは全部)をつぎつぎ忘れてしまうからだろう。
 
 人間は、自身が大きな価値や財産を(潜在的にであれ)持っていると思いこんでいる。
 もちろんその意識があればこそ、認識の中心たる自身を重要視し、さまざまな欲を満たすことで社会の発展に寄与したりもできるわけである。
(僕にはその意識が希薄なので、社会の発展には寄与できそうにない)
 しかし、個体の価値などたいしたものではないのだ。
 100年と経たないうちに名前すら消え、数十年と経たないうちに自身の中での記憶さえ曖昧になり、頻繁にやりとりがなければ数年のうちに他者の記憶から消えるちっぽけなものが、「自分」なのではないだろうか。
 
 必死に努力して誰かに自分を売り込み、記憶してもらうことよりも、誰にも記憶されない方が適切で、そのために努力しようと僕が判断する理由の、それはひとつである。
 
>>>
 
「新盆に贈った花について、お礼の電話がない」という内容の電話が、存命中のある伯母(といっても僕にとっては一族最後の伯母である)から妹宛にあったそうだ。
 そういえばその伯母の娘(僕にとっての従姉妹)からの「一周忌はされますか?」というメールを僕は無視してしまっている。
 その従姉妹を嫌っていてメールを無視したのではない。
「察してくれ」と思っている部分もある。
「法要等についてはこちらからご案内します」と最初に言ったものでもある。
 相続手続きが終わったらそのまま埋葬せずに寺院に永代供養として納める予定であることも説明してある。
(そして伯母が亡くなってからまもなく1年が過ぎるのに相続手続きが終わらないので、納骨処理ができないのでもある)
 言い訳ならいくらでもできるが、それが言い訳であろうとなかろうと説明することそのものに僕は疲れてしまったから、放置した。
 そもそも法要というのは、する側が案内すればいいのだと思うし、僕は死んだ人間よりも生きている人間を重視したいし、縁遠い血縁者より縁近い他人の方を重視する。
 
 その結果、僕に何かあったのではないかという探りを含めて妹に電話が掛かってきたというわけである。
 僕は時節の贈答品をやりとりしないし、誕生日にプレゼントを贈る文化に接していたのは3歳くらいが最後である。
 だから結婚式の引き出物や、葬儀の香典返しさえ、迷惑に感じるタイプの人間である。
 端的にいえば、お返しなんて欲しくない。
 どうしても贈りたいものがこちらにある場合、たしかに勝手に買って勝手に贈るけれど、その事実を、自身のエゴを、たいそう恥ずかしく思うのでもある。
 
「贈りたい」というのは贈る側のエゴである。
 受け取る側は、欲しくないものを受け取るのかもしれない。場合によって、それは単なるゴミにしかならない。
 ゴミを受け取った相手に喜んでいるフリをさせて、感謝の言葉という嘘を吐かせるのは、けっこう重い罪ではないだろうか。
 恥ずかしげもなく、自分のエゴを押しつけておきながら自分が「与える側」であることを誇示するのは、ずいぶん下品な行いのように思えるのだ。
 
>>>
 
 もちろん、もちろん。
 贈る「モノ」ではなく「贈りたいという気持ち」が大事だ、という向きもあろう。
 それなら電話やハガキでいいではないか。
「元気にしてる? 最近どう? あっそー、じゃあねー」でいいではないか。
 あるいは「もらえるモノならなんでも喜んでもらうし、嬉しい」という貧しい発想の人間もいる。
 
 自分が「本当に欲しい」「本当に必要」と思っていないモノが身近にあることを不快とも思わない、その鈍感さには感心するが、そういう人同士でやりとりしていればいいことだから巻き込まないで欲しい、とも思う。
 年賀状程度でもやりとりしないと消えてしまうと気にする人もいるが、そんな希薄な関係なら、消えた方が自然なのだ。
 その自然に逆らう気持ちは、不自然で人工的で、無理矢理のメカニズムは脆弱ですらある。
 今の時代、人間にとって過剰なのは他人の存在だ。
 だからそんなものは削ってしまえばいいのだ。なくしてしまえばいいのだ。
 
 僕は、自分が「欲しい」あるいはせめて「あっても文句はないかな?」と思えないレベルのモノであれば、新品だろうと誰から贈られたものであろうと、すぐに捨ててしまう。
 役に立つかどうかなんてことは関係がない。
 他人から押しつけられた(自分にとって価値のない)ゴミなんて、売りに行く手間を掛けることさえもったいない。
 つまるところ、誰かに勝手に贈り物をするというのは(それがたとえ商品券のような汎用性を持っているのだとしても)ちょっとしたエゴの押しつけだと思うのである。
(一番便利なのは現金なのだけれど、これをこともなく授受する関係を作るのは、じつはとてもむつかしい。なぜなのだろう。プレゼントの多くだって、経済で交換しているのは明白だというのに)
 
 だから僕は、贈り物を贈りたいと思った相手には、受け取ってもらえたらそれだけでたいそう感謝する人間である。なぜといって、自分の醜いエゴを快く受け容れてくれたからだ。
 なんという寛容。
 なんという愛情。
 それが僕に対してだけの受容であったとするならば、僕が完全なる愛されキャラの証ではないか。
 そんな誤解を自ら招かないためにも、できるだけ贈り物なんてしたくないのである。
 
 ところが自分のエゴでモノを贈っておいて、「受け取らない」だの「お礼を言わない」だのと文句を言うような無神経で恥知らずな人間は地獄に堕ちろ、と思うのである。
 お前のエゴで私を強姦するな、と思うのである。
 
 これがタイトルにあるとおり、時節の贈り物と既読スルーと呼ばれる行為に通じる現象である。
(ちなみに僕はLINEなるアプリケーションをインストールすることさえ嫌っているから、あまり意味を理解していないかもしれない)
 たとえば相手をねぎらったり、おもんぱかる内容のメッセージであっても、それを送るのは自分のエゴである。
 自分の中で発生した欲や決定した意思である。相手に責のないことである。
 心配していようと、思いやっていようと、自分のためのメッセージである。
 だから仮に、返信(感謝の言葉や、現状の報告)が欲しいと思っていたら、それは自分のための欲である。
 とくにねぎらいの言葉や睦言程度のものであるならば、受け取ってもらった、読んでもらっただけで目的は果たされ、僥倖のはずである。
 しかしそこで返信がない(さらにいえば「自分の思ったとおりの理想的な返信」がない)と憤ることは、自分の欲に任せて強姦しておきながら「どうしてこんなに僕が君を愛しているのに、君は僕をなぜ愛さないの? それどころかなぜ泣いて拒絶するの?」と言うことと一緒である。完全に狂っているのだ。
 
 ストーカーが意中の相手にプレゼントを贈る。
 贈ったら、相手がそれを受け取ってくれた。
 自分の醜いエゴを相手が快く受け容れてくれた。
 なんという寛容。
 なんという愛情。
 それが僕に対してだけの受容であったとするならば、僕が完全なる愛されキャラの証ではないか。
 つまり僕は愛されているのだから、ナニをしたって許されるに違いないだってプレゼントを受け取ってもらえたのだから僕は愛されているのだから僕の愛に応えてくれないはずがないそれどころか僕の愛をもっと求めているに違いないそれならば僕は僕は僕は僕はもっとこの愛を伝えた方がよいに決まっていてそうしたら相手は必ずその愛に応えてくれるに違いなくてああなんていう幸せなのだろう僕は僕は僕は僕は。
 
 ── ざっとこんな感じ。
 プレゼントを贈って受け取ってもらうことを履き違えるって、とんでもなく恐ろしい。
 つまりプレゼントを贈ることって、その時点で相当に恐ろしい。
 
 それらのプレゼントは自分が相手に与える愛情のように見せかけた、愛情を求める餓鬼の精神の具現である。
 自分の手だけで埋まらない自己愛の穴を、誰かに満たして欲しいというエゴである。
 そしてその無自覚な自己愛を自分の求める相手が埋めるのは当然であり、埋めない相手は非常識で排斥すべき敵であると見なす幼稚で愚劣で独善的な醜い欲である。
 
 だから。
 相手がプレゼントを受け取らなければ人は傷つき。
 相手がお礼を言わなければ人は憤り。
 相手がプレゼントを捨ててしまうと人はショックを受ける。
 
 なぜなら。
 自身の愛するいちばん大切な自分が拒絶され、
 自身の愛するいちばん大切な自分の好意をないがしろにされ、
 自身の愛するいちばん大切な自分の痕跡を消されるから。
 
 恥を知れよこの醜いエゴイストども。
 悔い改めよこの愚鈍な強姦魔ども。
 
 己の自己愛を満たすために「優しくて思いやりがあって愛情に満ちたワタシ」という強者を演じて「施しを受けてワタシに跪くべき弱くて醜いアナタ」という劇場を作るな。
 哀れな自己愛の飢えを満たすために他人を道具にするな。他人を喰いものにするな。
 
>>>
 
 念のために補足しておくと、僕は親しい人(だいたい友人くらいの親しさ)からもらったプレゼントは大切にしている。
 そもそも知り合う段階で、僕には「プレゼントしづらい」「めんどくさいヤツ」オーラが漂っているはずだから、もともとプレゼントを受け取る機会がほとんどない。
 にもかかわらず、そのハードルを乗り越えて贈られる品々とそこに込められた情念は、食べ物のような消費物であったとしても、ただただ飾るためのオブジェクトだとしても、私にフィットする。しないはずがないのだ。
 
>>>
 
 自分の身の回りのモノを買うときだって、自分に対して贈り物をするのと同じだと考えれば少しは変わるのではないだろうか。
 
 気に入ってもらえれば嬉しいし、それを大切にしてもらえたらもっと嬉しい。
 だから自分で「本当に気に入って」「本当に大切にできるモノ」を自分に贈るのである。
 すると贈った自分も、贈られた自分も、満たされる。
 
 自己愛というのは、些細な自身に対する思いやりの集積である。
 それは尊大に他人に対してつまびらかに誇示する類のものではないし、そもそも自身の価値とは他者に認めてもらわないと完結しない類のものではない。
 
 だから自己愛が満たされれば、それが溢れて他人の器に流すこともできるようになる。
 たったそれだけのことなのだ。
 
 ために自分を卑下する必要もないし、虚飾する必要もない。
 自分のことについて嘘を吐く必要はないし、他人に嘘を吐かせないようにすることもできるようになる。
 
>>>
 
 この「他人に嘘を吐かせる」ことについて多くの人は鈍感だ。
 
「嘘そのもの」に敏感になるあまり、「嘘を吐かせた原因」については思考が至らないのだろう。
「嘘を吐かれること」がストレスなために、その原因を見落としているように思える。
 結果的に、嘘を吐く人間が悪くて、嘘を吐く原因は野放しになるから、この社会から嘘がなくなることがない。
「人をして嘘を吐かせた原因」が、嘘を責め立てる自分自身のエゴだとしたらなお、嘘を吐かれた上で自身の抱えたその罪を認められる人がどれほどいるのだろうか。見たことがない。
 
 だいたいの正論好きな善人どもは嘘を吐いた人を断罪して終わりだ。
 真実を隠しているのはどちらなのかと可笑しくなってくる。
 
 優しくて、心のこもっていない嘘は、単なる欺瞞である。
 欺瞞が世界を覆って、経済を回しているのではないかと、ときどき思うことすらある。
 
 自己愛で満たされていれば、他人に嘘を吐く必要は感じなくなるし、他人に嘘を吐かせることを申し訳なくも思う。
 
 プレゼントを相手のために贈る? それは嘘でしょう。
 自分のためでしょう。
 
 それなのに、どうして相手に感謝を強要するのでしょう。
 そんなにあなたは、穴だらけだった?
 
 注いでも注いでも、漏れ出てしまうから足りないくらい。
 そんな不完全な器だった?
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Diary-Ecology-Interface-Link-Mechanics-Style-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Reactor-Transistor-
 
[Object]
  -Human-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
 
 
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20201002
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
母上のこと。
SUBTITLE:
Liebesfreud. ~
Written by Bluecat
 

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::忘れちゃえばいいんだよ、リセットボタン押すみたいにポチっと。
 ポチポチっと。
 そしたら心が軽くなる ── 。
 覚えてたって意味ないもん。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 オクラの実をひとつ、格別大きいものを幹に残して育てている。
 たぶん枯れれば種子が採れるだろう。
 そんな理由で、キュウリも1本、とんでもなく肥大した実をそのまま残している。
 
 季節は秋。
 これから死が蔓延り、いとおしい、静寂の冬が訪れる。
 
>>>
 
 以前書いたことがあるが、母上とは、僕が生まれてから5〜6年ほど一緒に暮らしただけである。
 ふたたび行き来をするようになったのはそれから5年ほども経った頃だろうか。
 あの頃は1日が苦痛で、1年が長かった。
 なので記憶がほとんど残っていない。
 
 人の死についてあまり感情の動かない僕は、母上が癌に罹患しても、放射線治療の結果、下半身不随になっても「あれ。ステージ4ってこんなに元気なのか」と、むしろ驚いていたものである。
「来週とかに死んでしまうのとちゃうのん?」と思っていたから、元気な様子で電話が来るたび、困惑してさえいたものだ。
 
 僕と妹が知らされてから、およそ4ヶ月が経ったろうか。
 もうじき、母は死ぬ。
 混濁した意識なのだろう、目は虚ろに天井までのどこかをたどり、眠っているのか起きているのかも分からず、うわごとのような会話をしている。
 
 訳あってひと月ほど、顔を合わせなかったうちに、すっかり変わってしまった。
 母は、もうじき死ぬ。
 
>>>
 
 僕はもっと、自分がドライだと思っていた。
 人の死について、あまり感情が動かないと思っていた。
 親との位置関係に対して、もっと醒めた理論構築をしていると思っていた。
 だって僕は。
 機械に繋がれたまま1ヶ月も眠る父上を看ていて動じなかったし、予想どおりに死を迎えても、それを必然として容易に受け容れたからだ。
 
 まして数年しか一緒に暮らさなかった、生活に馴染みのない人なのだ、母は。
 
 なのにたとえようもなく悲しくて、僕はときどき、涙を流す。
 自宅療養をしている姉の家に見舞っている間は、大丈夫なのだ。
(それでも最初はショックで、次の見舞いに行けるまで3日ほど必要だった)
 むしろ笑って「はいはい。ほたる水(どうやらそういうものがあるらしい)だね、持ってくるよ」とか「あら。菜箸が必要だとは思わなかった。持ってくるからね。あ、もう要らないの? じゃ片付けてくるね」とか、ベッドのわき、母の夢幻の世界に腰掛けて、話し相手をしている。
 
 それでもときおり苦しそうな表情で「背中が痛い」と訴える。
 気休めにしかならないのだろうけれど再び別の夢が彼女を支配するまで、その骨張った、固く冷たく痩せた身体を、抱くようにして撫ぜる。
 やがて彼女は次の夢にたどり着く。
「そんな角に置いたら危ないよ!」
「あはは、はい、ごめんなさい。動かしましたよ。これでどう?」
「そっちじゃないよぅ!」
 そんな調子である。
 
>>>
 
 感情は、いつも理由があって、その因果関係を集めた理屈を構築できて。
 理屈にもとづいた反応が感情であるならば、理屈を理解すれば感情をバイパスすることも、キャンセルすることもできる。
 そう思っていた。
 
 でもときどき、どうしようもない感情があって。
 理屈のない感情の数々を、僕はあまたのフィクションによって知っていたのではある。
 フィクションのストーリィを追っているときのように、だから僕は、純粋な感情のままに自身をまかせることもできるようになった。
 だから僕は、母上の前で、静かに泣いた。
 
 考えてみれば、慕わしさしかない関係だったのだ。
 親子喧嘩をするような年齢も、互いの人間性に厭気が差すような年数も、僕たちは共有していなかった。
 ただ僕にとっては母親で、彼女にとっては息子だったのだ。
 それだけのまま、離れて暮らして。
 それだけのまま、再開したのだ。
 そしてその間にたまたま、ボクは母親のいない僕を演じることに順応した。
 
 煩わしさがほとんどなかったから、だから僕はイヤな記憶のないままに悲しいのかもしれない。よく分からない。
 ただ慕わしさだけの記憶しか持たない僕が確かにそこにいて、そのころの僕の記憶を操作する必要なんて、今までなかったのだ。
 だからただただ子供が甘えるように、慕わしさに無邪気に身を寄せるように、僕はひとりのとき、ひっそりと涙を流すことにした。
 
 ちょうどよく僕は、僕自身にとってすら、何者でもないから、なにかを取り繕う必要もない。
 もともと僕の両親は一度として「男なんだから、泣くものではありません」なんて言うことはなかった(多分、仕事が忙しかったのだろうけれど)。
 
 僕に「泣いてはいけません」なんていうのは、だいたい、外の世界のイキモノたちだった。
 僕にオトコやオトナやコドモやコウハイやシャカイジンや、そういった雑多な役割を他人に押しつけるイキモノたち。
 ボクのことなどナニもシらないニンギョウたち。
 
>>>
 
 じつのところ悔しくもないし悲しくもないのだ。
 いや悲しいのだけれど、それは深く激しい悲しみではなくて、慕わしさがあらためて失われることに対する記憶の残滓なのかもしれないけれど、そういう理屈が僕の中でこね回されるたび(いやちょっと違う気がするんだけど)と、ボク自身にダメ出しされるのではある。
 
 理屈もなくて、整理もつかない悲しみが、ときどきやってくる。
 なるほど、目覚めたら母のいなかったあの日、僕はこんなに悲しかったのかと、思い出す。
 だれも満足な説明をしてくれなくて、だれもぼくの訴えを拾いあげてくれなかった。
 
 なにもわからなかった。
 なにもかなわなかった。
 なにもかわらなかった。
 ぼくのねがいはいつも、ことばにするたびに、するするとゆびのあいだからこぼれおちてゆく。
 
 送りたかったハガキは郵便局員の手にたまたま取り上げられて突き返され、けっきょく届かない。
「ぼくは元気です」たったそれだけの届けたかった言葉さえ伝わらない。伝えることができない。
 ぼくは誰にも「その人はぼくの母で、どこに住んでいるか分からないけれど、どうしてもそれを送りたい」とはいえない。
 教師にも、社会科見学先の郵便局員にも、クラスメイトにも、母と同じく所在の知れない姉にも、もちろん父上にも。
(だからといって、そのハガキが届けられなかったことを郵便局のせいにしているのは、そのほうが茶目っ気があるからというだけなのだけれど)
 
 そして8歳の秋、僕は忘れることにしたのだ。
 その記憶やら感情やらが日常の足枷にしかならないなら、目立たないところに仕舞い込んでおこうと思った。
 そしてそれらすべてを忘れようとしたことすらも計画通りに忘れたのだ。
 
 だからぼくは、なにもいわない。
 だから僕は、何も願わない。
 願いを言葉にしないし、決してそれを誰かに聞かせたり、まして訴えたりなどしない。
 この世界には、神も悪魔も親もおらず、僕の記憶は穴だらけなのだから。
 
>>>
 
 秋はきっと、すぐに終わる。
 オクラとキュウリは、やがて枯れる。
 種は採れるだろうか。
 来年、蒔いたら芽が出るのだろうか。
 
 今年の夏、僕が育てた野菜を母は「美味しかったよ」と言っていた。
 弾むように、笑っていた。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::ねーねー、お母さん。
::ん? なあに?
::「愛の喜び」と「愛の悲しみ」があるのに、どうしていつも「愛の悲しみ」を弾くの?
::それはね、公生 ── 悲しみに慣れておくためよ。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 引用は、
 文頭部「第33話 トワイライト」From「四月は君の嘘 第9巻」(p.43)
 文末部「第25話 つながる」From「四月は君の嘘 第7巻」(p.38)
(著作:新川 直司 / 発行:講談社)
 によりました。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Color-Convergence-Darkness-Diary-Interface-Life-Link-Love-Memory-Recollect-Season-Stand_Alone-
 
[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Resistor-
 
[Object]
  -Garden-Human-Memory-Night-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-暗闇エトランジェ-:-いのちあるものたち-
 
 
 
//EOF
 人間は、道具を使うゆえに、我を見失うことがある。
 人間は、環境の改変を望むゆえに、己を見失うことがある。

 人間にとって、道具は外部である。
 だから道具を使う自分は、己の本体であり中心であると思い込んでいる。
 己の中心がどこにあるのかを知る者は驚くほど少ない。
 己の中心について無自覚であるがために己自身を知らず、己を知らぬ者は自身が己のための最初の道具であることを知らない。

 人間にとって、人は環境でもある。
 だから改変を望む自分は他者にとっての環境であり、改変を望むことそのものが、己にとっての環境である。
 克己とは、己が自身に見せる環境と、己という道具と、己の正体を知ることでもあるのだろう。

 己というものは、そのように分離している。
 己を切り離すことは、容易ではないかもしれない。
 しかし瞳を保護する濁った膜のように、眼前の障害のように、切り離さなければ見えないものがある。
 飛行機やロケットがそうするように、切り離して身軽にならなければ、到達できない場所がある。

 今日のむつかしい話はここまで。

>>>

 目覚めると6時半。
 おかしい。

 僕が消灯したのは3時頃のはずだ。
 けれども再び眠ることができなかったので、1時間ほどゴロゴロしてから起き出した。

 最近、布団やベッドのマットレスを2つ並べることで、擬似的ダブルマットレス状態を作っている。
 20代の頃からダブルのマットレスで寝ているので、シングルサイズは窮屈なのである。

 シーツはどうやらシングルサイズが2枚しかないことが判明した。
 2枚を使うと予備がない。
 客用布団が、部屋でトランポリンをしても良さそうなほどあるので、遠慮なく使うことにする。

 これから先、大人数が集まることは社会的にも少なくなるだろうから。
 もとより僕は、これまでもほとんど一人で寝起きしているのだから。

 それにしても朝の時点で分かる。
 今日は昨日より暑く、そして日中はそれなりの高温になるだろう。

 しかし37℃の気温でも動作はできるので、ジャンプスーツを着て、片付けをする。

>>>

 朝から草取り。
 振動式草取り機も併用する。

 僕を穏やかで理知的だと思っている人たちはそれなりにいる。
 学校の先生みたいだとか、葬儀屋のように礼儀正しいと言われることもある。

 実のところ僕は、自身をかなり激しい感情の持ち主で、しかもかなり攻撃的な部類と見なしている。
 道具は多く持っているが、執着というほどのものはわずかにしかない。
 大事なものの大半は、アタマの中に入っているからだ。
 だから破滅的な思考や行動もしかねない。

 それでも身体が弱く、周囲とのバランスを計る環境が最初にあったので、僕は暴力的な育ち方や、腕力を使った人間関係の構築の仕方をしなかった。
 文明が発達しているほど、弱者である方が有利である。今の社会も、まだ弱者を守ることを大切にしている。
 反抗期が来る前に、僕はその事実に気づいたので、誰かと衝突するようなエネルギィの使い方を無駄だと考えるようになった。

 ただ時々、交渉らしい交渉の通用しない人間もいる。
 正義というのは基本的に幼稚なものだ。
 0か1かの二元論的な(あるいは勧善懲悪な)価値観の中で、中間を許さないというのは。
 あるいは単純に論理と威圧を履き違えている人間もいる。
 なるほど物理的/心理的な力は、有無や大小で単純に計測が可能なのだろう。
 多角的なレンジを必要とする複雑な社会に僕たちは生きているようだ。

 芸能人や政治家が不倫をすると騒がれるのは、そのシンプルな正義の共有によるものだろう。
 当事者たちがよしとしているならば、それぞれに器が深い(器が深い?)というような発想はない様子で興味深い。
 ゲーム理論というのが一時流行ったが、いずれもシンプルだ。
 それが多数決的に社会を構成する。
 小さなビット素子の0と1によって、しかし俯瞰的に描かれるのはグレーの絵だ。

 多数決は、それを白か黒かで塗りつぶす。
 良いとか悪いとかいうことではなく、そういうシステムだということ。
 ために人間は社会を構成する上で、幼稚さを超えて成熟し、二元論を超えたグレースケールで水墨画のように未来を描ける人間を育てる必要がある。
 なぜなら、少数派とは弱者のことだからだ。

 弱者だけを優先すれば多数決のシステムが逆転しているだけで何も変わっていないし、多数決だけで押し通すのは幼稚さや単純さを増長するかもしれない。

 芸術や文化というのは、モノクロームの記号にグラデーションを与え、1ビットの情報に速度を加えることでカラーを再現する技術のことだろう。
 単一に秀でたスペシャリストが、多角に才を発揮するジェネラリストに及ばないこともあるのはそのためだ。
 単一の能力で彼我を圧倒できるとしても、黒だけでは水墨画も描けない。

 作業中、脈拍が上がり体温も上昇する。
 火を使うから尚更で、水分は摂っていたが熱中症を起こしかける。
 この身体は低血糖や血管ストレスの耐性が高いようで、ゆらゆらしながら家に入って水分を補充、シャワーも使って冷却したら正しく疲労感が出てきた。

>>>

 実のところ、叔母の形見分けをしていない。
 叔母が亡くなった当初は、形見分けをする予定を立てるつもりだったが、こちらから従姉妹たちにアクセスする必要がないような気もしてきた。

 従姉妹たちに罪はない。
 あるとすれば、ぎくしゃくするような禍根を振り撒くことを選んだ叔母にあるだろう。

 僕にとってはどちらでもいい。
 亡くなった人は意思を持っていない。
 罪を問う実体もない。
 約束があれば従うのだが、反故にされた約束を前に、僕は処理しあぐねいている。
 なので、次々と処分している。

>>>

 夕刻、ゲーム(Ghost of Tsusima)をプレイしたくて買い物に出るが、本体がどこにも売っていない。仕方なくソフトだけ買って戻る途中、BP(高校時代からの友人)の家の前に彼がいるので暗くなるまで立ち話。
 叔母夫婦の家から徒歩数分の場所なのだが、なかなか会う機会がないので放っておいた。

 僕はひとりのことが多いが、友人や恋人は大切にする方だろうと自分のことを評価している。

 それにしても、外堀から埋める巡り合わせが僕の日常なのだろうか。
 説明書の入っていないパッケージを眺めてぼんやりする。
 人間は、自身に合わせて環境を構築するが、その能力を飛躍的に向上させたのが道具の存在である。
 外敵を排除し、雨や風、暑さや寒さを和らげ、食品加工のバリエーションを豊かにし、加熱処理によって毒性を減じた。
 人間は、貧弱な肉体のまま環境に適応してゆき、その力をより大きく、精度も高めた。

 それでもなお、人間にとってもっとも有用な道具は人間だった。

 群れを作り、社会を構成する動物は他にもあるが、人間の持った道具という概念は、同胞を道具にする思考を生み出した。
 動物や昆虫のような本能ではなく、しきたりや契約、当事者同士の力関係によって、支配者層と奴隷層が生まれ、人間は人間を道具とし、人間の道具となった。

 それは社会を社会たらしめ、発展させる基盤となった。

 今日の役に立ちそうな話はここまで。
 さぁ、よい子は家に帰って眠る時間ですよ。

>>>

 目覚めたら、さほど暑くなかった。
 気温が体温より低くなったのである。

 ゆえ、チェーンソウをとうとう稼働することにした。
 納屋の前には切り落とした枝がいつくか散らかりっぱなしである。

 オイルを注いで稼働させてみる。
 思ったより回転は遅く、切れ味も格別良いわけではない(そもそもいつ替えた刃なのか不明である)が、安定してラクに木を切ることができる。
 少なくとも、手動のレシプロソウ(普通のノコギリ)よりはラクである。

 ついでに薪ストーブ(という名の焼却炉)もフル稼働である。
 まずは前回の灰を掻き出して。

 木製の使わない家具や段ボール(最近の古紙回収車はこれを拒否する)を分解して焼却できる。
 もちろん納屋の前に積まれた枯れ草も燃やす。

 燃やしながら、大きく育ったキュウリ1本とオクラ2本を収穫し、表庭に育ちつつあるいわゆる雑草と、横庭に繁々している猫じゃらしどもを抜いてゆく。
 水分を補充しつつ、一輪車2台分まで。

>>>

 草の根を分ける、というと、
 地道な聞き込み調査。
 首を傾げる商店街の八百屋の主人。
 夜の街を走る新人刑事。
 殺人現場。ヒツジのような鑑識の群れを手刀で切り開いて奥に進む神妙な顔つきのベテラン刑事。
 ビル群に沈みつつある夕日を、ブラインドに指を挟み広げて顔をしかめる刑事課長。
 夜の街を走るパトカー。

 そんな風景が浮かぶかもしれない。
 そんな風景が浮かぶのは、間違いなく昭和生まれか、西部警察の再放送を見たことのある人間だけだろう。浮かばない人の方が多いことを理解した方がいい。

 庭のいわゆる雑草を抜くとき、自生している可憐な花をつける草についてはなるべくそのままにしているのだが、どうしても誤って抜いてしまうことがある。
 そのときに草の根を分けて「こっちは抜いていい猫じゃらし。こっちは抜いていけない可愛い子」としてしまうと、実に草取りが楽になることが分かった。

 つまるところ草の根を分けるというのは、辞書にあるように「あらゆる手を尽くして、隅々まで捜す」というのではなく「最初からそうしておけば労少なくしてこうかはばつぐんだ!」ということのようである。
 
>>>

 家庭菜園ティスト1年生の僕からすると、専業農家というのはもはや雲の上の存在(物理で?)である。
 よく、農家の人は土地に縛られるという。
 悪くいえば執着している人もいるだろう。
 年齢を重ねて、誰も耕すことさえなくなったその土地を手放さないのは、ときに愚かにさえ感じられると僕などは思っていたものだ。

 しかし土を作り、生態系をコントロールしてゆくこと(その結果として、作物が手に入るの)が農業だとするならば、たしかに自分の先祖が大事に育てて、自身も大切に使ってきたそれを手放したくなくなるのは必然なのだろうと、合点がいった。

 その場合、土地というのは不動産ですらなくて、土であり、菌類や昆虫、雨や風や気温、水質、動植物の棲息圏をまるっと含んだ大きな装置であり、簡単に替えがきくものではないのだと納得できるのだ。

 もっともここまで天候が変化し、外来種の生き物に脅かされたりもするようになると、それまでは最適だった道具が、何の役にも立たなくなってしまうこともあるだろう。
 何より、荒れ放題にして使わない道具なら、捨てるなり譲るなりした方が良いこともあるようには思うが。
 人間の執着というのは、基本的に、どうしようもないものだ。
 益体のない、といってもいいかもしれない。

 しかしそれこそがときに、その人の自我の輪郭を形成するわけで、まぁでも、ボクはそういうの、要らないかなぁ、とか思いつつ。

>>>

 休憩時間に畳を一枚、持ち上げてみる。

 とても重いが、無理な仕事ではない。
(これでも某有名運送事業者で1年くらいは働いたのだ。身体を壊したが)

 畳の下は、安い板張りで、まぁなんというか、そっと畳を置いた。

 板張りにするには大量の板を輸送する必要がある。
 するとそのためには軽トラの入手を急がなくてはならない。
 軽トラを買いに行くのが、なんとなく面倒である。
 いつか行けばいいんじゃないだろうか。

 ユルユルな現場監督を叱咤する人がどこにもいないことについて、しばし空を仰ぐ。
 もちろん、空は何も答えてくれない。


面倒にゃ!

 人間は、環境を変える力を身につけて、進化することを回避している。

 今日の日記で役に立つ記述はここまでなので、ページを閉じるがよいぞ。

>>>

 そんな僕の環境改善タスクリストは、およそ10ほどの項目を抱えつつ、イマイチ進行しない。
 多分、監督者がユルユルだからだろう。僕には容易に想像がつく。

◯ 6部屋ある畳張りのうち3部屋を、板張りもしくは混合式に変える。
(一部屋は畳/板/石の混合を考えている。薪ストーブを屋内に設置したら面白そうだから、という狂気じみた思いつきのせいだ)

◯ 引き上げた畳のうち、程度の良いものを、朽ちかけのものと交換する。

◯ 朽ちた畳を分解し、燃やすか、そのまま畑の土に組み込む。

◯ 回転式本棚とプルダウン型本棚を設計する。

◯ 軽トラを買う。

◯ 作業台を設計し、設置する。

◯ 本棚を設置する。

◯ PCを買う。
(現在は自作 hackintosh 構築まで考えている。既存の製品に欲しいものがないから仕方ない。PCを自作したことがないのが悩ましい。僕の無知な分野はマザーボード、電源、冷却システム、BIOSで、CPUやメモリ、ストレージ、グラフィックボードは多少心得があるのでなんとかなるだろう)

◯ 薪ストーブを設置する。

◯ 土壁の凝固剤を塗る。

◯ 分水栓に分岐栓を付けて食洗機を使える状態にする。

◯ 雨水の貯水タンクを設置する。

◯ 日焼けで朽ちかけた床板をオイルキュアする。

◯ シーツを買い足す。
(やはりない)

◯ カーテンを買い足す。
(ない)

 といったところだろうか。



 10代の頃にお小遣いを貯めて買い(20代になって拡張パーツを買って増設した)重宝していた本棚を叔母に捨てられてしまったため、今の僕は書架を持たない。
 ありとあらゆる場所に本を散らかしてゆく僕にとって、書架は必要不可欠であり、とても重要な家具である。
 同等の製品を探したが、どこにもない。

 天井に突っ張る高さ可変型のものだったのだが、この家専用に設えるならワンオフで作ってしまおうと思った次第。

 ちょうど四方に出入り口のある納戸様の部屋がある。
 その中央にハンコ屋のハンコ棚のような回転型を設えればよいではないかと思っている。
 200mm程度のベアリング回転板も見繕ってはある。
 中央は鉄パイプなどを軸にして剛性を持たせればいいだろう。
 4つの棚を、上から見たとき風車のような配置にして、棚の回転端部設置面にキャスタでも付けておけばよいだろう。
 あとは材質と設計なのではある。

 ただ、僕はモノを作るのが遅い。
 飽きっぽいから余計で、致命的に遅くて、しまいに放り出したりする。
 今までそれが明るみに出ていないのは、計画を放棄したことによって被害を受けるのが僕しかいないからだ。

 我ながら、その点だけは計画的だと思う。

 連日あづい。

 僕は長風呂のせいかかなり汗が出やすい。
 運動中などは「筋肉は塩分と糖分と水分でうごいているんだな」とはっきり自覚できるほど、水分が排出される。

 肌の過敏さが相まって、自分の皮脂や塩分で炎症を起こすこともある。
 ためにこの数日、できる限り部屋から出ない。

 それでも暑い。
 エアコンを使っていても暑いから、室外機に水を掛けたりして遊ぶ。
 穴が開いている箇所は少ないが、障子を張り替えれば多少は日を防げるし、網戸を張り替えれば、夜に外気を取り込んで排熱することもできるだろう。
 しかしあまりに暑くて、作業する気にならない。
 足りない材料があったら、エアコンの効かない車に乗って出かける必要がある。
 それも考えたくない。
 なので気温が40℃近くなった日から、家から可能な限り出ないでゴロゴロしていた。

>>>

 雨が降らないからなのか、きゅうりの出来が急に悪くなった。念のため断っておくが駄洒落ではない。
 オクラ、ナスもしかり。
 こやつらは水を与えてやるべきなのかもしれないと思い、一度与える。すると翌日はよい実がひとつ獲れた。
 トマトは水を与えないと聞くのでそのままにしている。

 それぞれの根の周辺に、草を焼いた灰を撒く。
 土づくり用の穴にも撒く。
 本来ならここで土を返してやるのだろうが、暑いからしない。
 僕はやはりぐうたらなので、農家には向かないだろう。

>>>

 女やもめに花が咲き、男やもめに蛆が湧くとは言われるものの、僕はどちらでもないので庭の草花を取ってコップに活ける。


 どの草花も名を知らない。
 多分、覚えないのだろう。

 赤い猫じゃらしは、土に鉄分が含まれていたのだろうか。
 それとも誰かの血を吸ったのだろうか。

>>>

 自分で初めて育てたきゅうりを収穫したとき、とてもドキドキした。
 蔓は臍の緒のようで、それをハサミで切るのに、どこを切ろうか躊躇した。
 刺々して、産毛がキラキラしていて、まるで子猫のようだ。

 捨て猫を拾うように、そっと3本、抱いて持ち帰り、水で洗って、ヘタを切り落として、おそるおそる、口に含んだ。
 よく知っている、キュウリの味と香りと舌触りである。
 僕の育てた、子猫のような、キュウリである。

 毎回、味わうつもりでもなく、しかし慎重に、緊張しながら、味わって食べる。

 茗荷が獲れたときも同様、ドキドキした。
 Webで調べたら、ときどき寄生虫がいるらしく、ますますドキドキした。

 庭で獲ったものを食べるのは、いつも緊張する。
 注意深く食べるからなのか、すぐに満腹を感じる。

>>>

 最近は、夕方までには食事をするようになった。
 明るいうちからお酒を飲んでしまうこともあるが、すぐに満足してしまって、あとは水を飲んで、夜中に眠る。

 朝に空腹を感じることがあるが、耐え難いことはまずないので、そのまま過ごしている。

 ナスが獲れるとそれも浅漬けにするのだが、変色を防ぐためにアスコルビン酸(いわゆるビタミンC)を買った。
 純粋なアスコルビン酸(カリウムだったか)の粉末である。Amazonだと安いのだが、携帯電話で買い物をしたくないので、薬局で買った。
 次亜塩酸ナトリウム(水道等に含まれる、いわゆる塩素)を分解する効果もあるので、最近は風呂に500mgほど入れる。
(入浴後、塩素を入れるので多すぎると中和してしまう)

 アスコルビン酸を水に溶いて飲むと美味しいこともわかったし、ナスの変色を防ぐのに、ミョウバンがなくても問題ないことが証明される。

>>>

 周囲をざっと観察して気付く。
 弟子の言っていたように、僕と同程度の年齢で、無職の人はほとんどいないように観察される。

 しかし僕はほとんど家に引きこもっているわけであり、だから僕ではない無職の同世代の誰かもまた、家に引きこもっているのではないだろうか。
 だからお互い、その存在を確認できずにいるのだ。

 それはなんというか、微笑ましい世界だと感じて、猫を撫ぜて昼寝をした。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200818
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
Epic Games と Apple とのあれこれについての雑感。
Written by Bluecat
 

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::「相手と理解し合えたら戦いにならないなんて、まだ勘違いしてるわけでもないよな」
「理解したって、衝突するのがはっきりするだけってこともあるだろ。でもさ、そこまで分かって【まだ手を伸ばす】ことには“意味”があるんじゃないか」
「お前は、自分が思ってるよりずっと、政治家向きだよ。おかしな話だな。お前がこんな大きな障害になるなんてな」
 緊張の限界に達した空気が、強い酸のように肌を刺激する。気がつくと、アラトにとってリョウの才覚がまばゆいように、リョウの視線も揺れていた。
「敵みたいに言うなよ」
 いつだって、アラトは手を伸ばす。そうやって、ずっと生きてきた。
 ゆるやかにリョウが繋いだ集団が、誰もアラトの顔を見なかった。この建物を出たら、背中から撃たれるのだと、理解した。
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 本文に登場するいくつかの単語、及び、背景にある出来事について、興味のある方は勝手に調べてもらいたい。
 とくに時系列的な部分や背景、Web上のコメント、技術的なことや固有名詞、関連して思いついたことなどは、あくまで現時点における僕の曖昧な記憶に基づいていたり、個人的な感想であるに過ぎない。
 またゲームに興味のない人は、今回はブラウザバックした方がいいかもしれない。
 
 ただ、もし、少し興味が湧いたなら。
 ちょっと調べてみてほしい。
 あえて今回のニュースや関連動画のリンクを貼らないので。
 
 久しぶりに僕は胸がワクワクしていて、今後の動向に注目している。
 なぜって、そこにあるのは復讐劇だからだ。
 
>>>
 
 僕はゲーマーである。
 基本的に、ゲームが好きである。
 ただ、ネット対戦型ゲームは精神的ストレスが高いことが多いので(結果的に、それは人々を熱狂させるのではあるが)僕はプレイしない。
 
 今回取り上げるのは「Fortnite」というタイトルのバトルロワイヤル形式のゲームの開発元「Epic Games」についてである。
 よって僕はそのゲームをプレイしていないし今後もしないが、大事なのはそのゲームそのものについてではなく、開発元がどのようなことをどのような環境で行ったか、そしてその背景にはどのような意図があるように思えるか、である。
 
>>>
 
 Youtube のスーパーチャット(略称:スパチャ)しかり、ユーザがコンテンツに課金する際、オンラインプラットフォーマ(Youtube なら運営会社である Google)へ支払われるロイヤリティ(バックマージン)は30%というのが現在の主流のようだ。
(Steam などについては知らない)
 
 Apple ストアも同様で、つまりゲームを買ったり、ゲーム内コンテンツを追加購入する際、30%はプラットフォーマである Appleに支払われる仕組みになっているようだ。
 僕たちゲーマをはじめ、コンテンツ消費者が(本だろうが動画だろうかTVだろうが)、そのコンテンツにお金を払うとき、そのロイヤリティ比率は果たして適正なのだろうか。
 提議されている表向きの問題はそのように観察される。
 
 その独占的状態に反旗を翻すかのごとく、プラットフォームを介さない課金システムを導入し、Apple ストアから Fortnite が規約違反アプリとして削除されたのが今回の出来事の発端だ。
 
 Epic Games は、かつての Apple のCMをパロディにした動画(じつによくできている)まで、訴訟とほぼ同時に展開。
 リーガルカウンタも織り込んで準備していたことは明らかだ。
 
>>>
 
 国内におけるネットの反応で僕にとって面白かったのが
「契約は契約なのだから、アプリ排除は当たり前」
「Fortnite に夢中になっていて子供たちが家族とコミュニケーションしない、勉強しない。あんなソフトは無くなってしまえ」
 というもの。
 しかもこれがそれなりに多かった。
 
 すごく凡人的、あるいは斬新なほど的外れな気がして、とても愉快である。
 
 比較的理解しやすかったのは、
「プラットフォーマはその品質維持にそれなり以上の費用が掛かる。その土台を利用して成長/発展しておきながら、掌を返すなんてただの独善的な暴走であり反逆だ」
 というもの。
 
 いずれも端的に「愚図だな」とは感じたが、他者の評価なんてそんなものだ。
 
>>>
 
 僕の意見としては、いいぞやっちまえ、である。
 ざっと観察しても、Epic Games は、Apple と敵対するために今回の騒動を起こしているのではない。
 肥大化して小回りが効かなくなり、既存のモノしか作れなくなったクリエイタ集団としての Apple に対する激励に僕には見えるのだ。
 
 たとえばパロディにするなら、スターウォーズを起用してもよかった筈だ。
 暗黒面に堕ちるのが特定の個人になるのか、リンゴマークの人形なのかは分からないけれど、メッセージとして分かりやすい。
(もちろん、純粋なスターウォーズファンからバッシングされそうだけれど)
 それをしないのはあのCM(及び、小説「1984年」)のテーマが「悪は滅びろ」というメッセージではないからだ。
 
 支配体制は続かないこと、それは何らかの崩壊をもたらすこと、クリエイティビティとは真逆の方向性をもつものであること、それを訴えているのだ。
 
 まして子供からも、たかだかチャットごときの機能からでさえ、経済を1/3近く巻き上げるシステムを、いつまで当たり前のことにし続けるつもりですか? という問いかけでもある。
 
 Epic Games は今や多くのゲーム開発に利用されている開発環境「unreal engine」を、確か基本無料で提供している。(うろ覚え)
 
 それはASCⅡキャラクタベースのRPG「Rogue」がそうであったように、ゲームは、皆に開かれて楽しまれるべき(フリーであるべき)という思想を体現しているようにも思える。
 
>>>
 
 この事象を通して感じることは人それぞれだろう。
 興味のない人には、何の意味もないものに見えるだろうし、経済大好きっ子たちは今からチャートボードに張り付いたり、巨頭同士のマネーゲームに興味なし、なんてうそぶいていることだろう。
 
 阿呆なガキどもはプレイできない不安に怯え、その阿呆を育てた阿呆な親どもは、自分の無能さをさておいて胸を撫で下ろしているかもしれない。
 
 僕は、どのようなロードマップの上でストーリィが展開され、どんな結末を迎えるのか、楽しみで仕方ない。
 
>>>
 
 ここから諸君の大好きな経済の話を。
 ただし青猫工場流なので、儲け話には繋がらない。
 
 僕たちは、誰に、どのくらいの割合で、気持ちを渡したいのだろうか。
 
 ストーリィにおける感動を。
 演出における情動を。
 表現による感覚を。
 体験による興奮を。
 
 そのコンテンツを作った作者と、そのプラットフォーマに、どのような割合でいくら支払いをしたいだろう。
 
 小説で。マンガで。映画で。陶芸で。音楽で。ゲームで。ニュースで。料理で。
 ありとあらゆるもの(きっと性体験すらそういうものである)が、人に感覚させることを価値にしている。
 
 その価値を、感動を、評価を、どのように数値化し、どのように支払って、それは誰に、どのくらいの割合とするのが適切だと思うだろう。
 
 ロイヤリティ30%問題とは、つまりプラットフォーマに対する反抗であると同時に、ユーザに対する意識の問いかけでもある。
 
 あなたは、その体験について、誰にいくら払いたいのか考えたことがありますか? と。
 
 シェアウェアなどが全盛であった頃などは「優れたものには相応の対価を」という文化が根底にあった。
 コンピュータ、ひいてはWebが、情報や技術を基本的に無料とし、それに対する対価はユーザが決める文化だった。
 クリエイタを支えると同時に、みんなでアプリケーションを育てる文化だった。
(もっとも日本人は、著作権や著作/開発物に対する意識が低く、プロテクトブレイカをはじめとする違法コピーが蔓延してもいたが)
 
 共有という機能がもたらす経済的な帰結は、多くの場合、価格の低廉化を招く、それと同じである。
 情報文化は、経済に逆行する仕組みなのだ。あるいは経済の行動が情報の本質に逆行すると言ってもいい。
 
>>>
 
 僕は「商業的に失敗した」といわれる Apple G4 cube という機体を愛用していた(今も大事に保管して、また使う機会を窺っている)。
 同時発表されたモニタ(僕のお気に入りは液晶ではなくCRTのほうである)も含め、その美しさはコンピュータにあるまじき静謐とした凛々しさと可憐さと艶かしさを持ち合わせていた。
(製品的な弱点や、機能や拡張性に比して高額だったのは確かだが、体験を含めれば相応だった)
 商業的に失敗したとしても、そんなことは僕の体験には関係ない。僕はあの製品も、それにまつわる体験も、支払った対価も、十分に価値があると思っている。
 
 現在の Apple 社の製品はどうだろう。
 一時期の日本車のように、見た目がたいして変わっていないのにフルモデルチェンジとか言って自慰行為に耽る中学生がごとく勝手に盛り上がっているように観察される。
 
 いくつかの技術革新はあるのだろう、しかしそれが僕の日常にどれだけドキドキをもたらしてくれるか想像がつかない。今までとの違いがまったく見えてこないのだ。
 
 だからコンピュータを買い換えたいのに、いざ何を買うかとなると、まったく欲しいものがない。
 仕方ないから無職なのにお金を貯めて Mac Pro でも買うか、となってしまう。
 そんな理由で選ばれるようなレベルに、コンピュータと周辺機器業界はふたたび落ちぶれている。
 惚れない相手に愛情なんて湧かない。
 愛情の湧かない相手にお金を払って抱くほど、僕は鈍感なイキモノではない。
 
 UNIXユーザから「Mac ユーザはガジェットと浪費が好きなガキばかり」と揶揄されても「外見の美しさに見惚れて、内面のキュートさに惹かれて、いったい何が悪いのか」と、今の僕には言い返せない。
 Apple の製品は、いや Apple に限らずほとんどのコンピュータも、テクノロジィも、僕をドキドキさせなくなってしまった。
 
 最近の若い子は、つまらないガールばかりになったな、といった感じだろうか。
 僕の身体が昔より、大人になったからなのか。
 
>>>
 
 話が逸脱した(ことをわざわざ指摘するのは珍しいことである)が、そのようなわけで、 Epic Games は Apple に対し、表面に見られる以上のものを訴えているように思える。
 
 それは周到にして胸熱なレジスタンスの物語であり、本来、志を同じくする同志に対する訴えであり、寝ぼけたユーザに対する叱責のように僕には見える。
 
 結末までが楽しみだ。
 本当に、ほんとうに。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::「あのな、ユカ。あのとき本当はお兄ちゃん、レイシアが美人だったから拾ったんだ」
 本当は、レイシアがhIEだと聞いたとき、うれしかったのだ。彼女を「欲しい」と思った。そうでなければ契約も、家族がいる家に連れて帰ることもなかった。
「最低だ!」
「今はそれだけじゃないけど、あのときはそうだったって話だよ!」
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 
 
 引用は、
『Phase 11「protocol love」』
(文頭部:p.469 / 文末部:p.434)
From
「BEATLESS」
(著作:長谷 敏司 / 発行:角川書店)
 によりました。
 
なお、引用原文中の傍点強調は『【】墨付き括弧』にて記述しています。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
 
[ Traffics ]  

  史上、最も無駄に美しかった Apple 専用モニタ。

 

  あとは自分で探せ。
 
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Derailleur-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Form-Interface-Link--Love-Memory-Recollect-Rhythm-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-
 
[Object]
  -Computer-Game-Human-Koban-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-コントローラと五里霧中-
 
 
 
 
//EOF
 ときどき書いているが、僕はあまり劣等感というものがない。
 強いていえば、生きている時点、男である時点、ヒトの皮をかぶっている時点、実は猫である時点で、劣っているといえば劣っていて、だから劣等コンプレクスを感じてもいい。

 しかし死んでいることは、女であることは、事実の人であることは、猫でないことは、果たしてそうでない事に比して優れているのか。
 右より左か。下より上か。マイナスよりプラスか。オスよりメスか。モノより思い出か。キャッシュレスより現金か。カネか。やっぱりカネが好きか。俺よりカネの方が好きなんだな!
(あ。ここ笑うところです)

 比較できない対称性を持つものを比較して、あっちの芝が青い〜! て言うなら向こうと同じ芝を育てろよ。

>>>

 あるいは僕は仕事がない。
 結婚して家庭を持っていない。
 隠し子がいるらしい。
 恋人がいっぱいいると言いつつ、1人もいない可能性がある。
 ときどき2つの家のどちらかで、ガスや電気が止まることがある。
 親戚づきあいを人並みにすることができない。
 友達も少ない。
 郵便物がきちんと目的地に到着することが未だに信じられない。
 経済という概念の使われ方の一部を憎んでいる。
 死んだ人間を憎んでいる。
 ゆえに心が広い方ではない。
 憎しみは個人的には生きるエナジィだと思っているから、もしかしたら精神的にとても歪んでいる可能性を否定できない。
 狂人かもしれない。否定できない。
 無職でも暮らしていける程度の経済力しかないので、所有している自動車は自転車よりはるかに古くて安く、エアコンは壊れて直す気にならない(まともに直すと購入金額の倍以上掛かる)。

 いろいろな意味で、他人にありのままを話すと「ダメ人間」の烙印を押されそうである。
(押させるもんか!)

 僕は相対的に、ある一定の基準のもと、他者と比較した場合、多くの人より劣っているのだろう。
 でもそれをなんとも思わない。

 競争して勝つことに意味を見出さない。
 世界で一番猫っぽい! とかいうレベルになれるなら競争する価値はある。
 でもレースには会場があって審判がいて、出場選手はごく僅かだ。
 仮にその出場者の中で一番になったとして、出場していない誰か(あるいは本物の猫)に負けている可能性だってある。
 年々、僕の中の猫らしさが衰えるとしたらどうだろう。レースは明日にでも開催したい。
 むしろ今しよう、すぐしよう。

 しかしそんなレースは無意味だ。
 100匹の猫には100匹の猫らしさがある。

 だから不便を感じない限り、電気が止まっていようが、郵便受けがいっぱいになっていようが、車がボロでクーラが使えなかろうが、気にしない。
 そういうのを恥ずかしい、という人の気持ちや価値観は分かる。
 でもその価値観を僕まで持つ必要を感じない。
 その価値観に魅力を感じないのだ。

 もちろん公共料金などは気がつけばなるべく払う(だからときどき忘れる)し、郵便受けはときどき大事な通知やマスク(奥さん。冗句ですよ、冗句)が入っているのでできるだけ毎日覗くし、車は道交法に触れたり、生命に危険を及ぼさないレベルに整備する。
 春ごろエンジンから煙が出たことがあって驚いたが、僕はそういうボロい車を可愛いと感じるのだ。いきなり電源が切れる12年前のPCを愛用しているのと同じように。

 だから多くの人の、劣等感がよく分からない。

 劣等感を埋めるために誰かを腐して、その同意を求められたりすると疲れてしまう。
(あの人のああいうやり方は違うと思わない?)
(いいえ、私は何とも思いません)
 自身を蔑んで無意識のフォローを求められるとぐったりする。
(私ってブスだし)
(勝手に決めつけないで欲しいし君の外見に興味ありません)

 優越感を過剰に演出するための自慢やそれに類する見せつけ行為も下品で好きではない。
 そんなにまでして、それほどにまで自分のことが好きなんだから、ちゃんと言ってやれよ! 告白しろよ! 告っちゃえ!

「第一印象から決めてました! 大好きです。愛してます。一生大切にするのでボクと付き合ってください!(この言い回しが面白いと感じるのは昭和生まれの証です。平成生まれは何のことか理解が及びません)」て言え、言ってしまえ。他ならぬ自分自身に言え。他人に言われるのを待つな、自分で自分に言ってやれ。ほれ好きなんだろ?

 ぼかぁそのくらいの段階はとうの昔に終えているので、自分と相思相愛なのである。
 だから自分の凄さや魅力を、いちいち他人に伝えたりする必要は感じない。自己愛が過剰になって自分ノロケを始めるなんて狂気の沙汰だ。
 自分のダメな部分も然り。
 いちいちあげつらうくらいなら別れちまえそんな奴。他の相手を探せ。

 ダメなところも可愛いし、凄いところは尊敬する。
 それが普通なのではないかと、自己愛過剰なワタクシは思ってしまうものですから、自己愛を他人の力で満たそうとする人を見ていると怖気が走るのである。

 だって本人は他人を喰いものにしてる意識がないんだもん。
 被害者ヅラして同調圧力を掛けるなんてそれこそ狂気ですよ狂気。

 ということを書いて「ああ、やっぱりそういう愚劣なヒトたちに比べて青猫様はやはり素敵で賢くて素晴らしく思慮深い方なのですわ!」という周囲の反応を誘導してボクの劣等コンプレクスを満たすのであります。

 ……けっ!
 いいんだよ。
「電気代くらいちゃんと払え」とか
「隠し子がいるなんて信じられないのび太さんのエッチ!」とか
「新しい車くらい買え、貧乏人め」と諸君はボクを罵れば。

 僕がいっぱい褒めそやかして育ててしまったのだから。この僕を。
 諸君からのヤサシサなんて信じないんだからなぁ、信じないぞぉ〜。ほんとだぞぉ〜。


 にゃ!

 久しぶりに、睡眠期に突入したようだ。
 いや、いつもこのくらい眠いのだろうか。

 やたらと暑い気候のせいもあるのかもしれない。
 世には新型コロナとかいう流行り病が浸透しつつあるらしい。
 それもこれも、すべて夢なのかもしれない。

 眠い。

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 妹と、となりのトトロをTVで見る。
 妹と見る、といっても、自宅でTVを見ながら「オジャマタクシ!」とか「あなたトトロっていうのね!」とか「ちょっと飛ぶから、俺の胸につかまりな」「ぴと」とか「夢だけど〜」「ユメジャナカター」「なんで外国人化?」といったやりとりをメールしあうだけである。
(僕はLINEをインストールさえしていない)

 数年に一度くらい、同じTVプログラムを見て、メールしあうことがある。
(あまり頻繁だと、それはそれで関係性がキモチワルイように思う)
 妹から「今日、◯時からTV見ようよ!」と誘われるときはこの形式である。
 僕が一人暮らしを始めてからだから、かれこれ20年ほどか。
 流行りのリモートとかは関係ない。

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 やはり眠い。
 惰眠を貪ることにする。


 僕に寝る場所をください。