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// TimeLine:20200806
// NOTE:
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TITLE:
なぜ本を読むのか。
SUBTITLE:
~ Flight. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::私を見て ── 。
 顔を上げて私を見て。下ばかり向いてるから五線譜の檻に閉じ込められちゃうんだ。
 大丈夫。君ならできるよ。
 ずっと昼休み聴いてたでしょ。譜面はいつも目に入る所にあったでしょ。
 私達ならできる。

 モーツァルトが空から言ってるよ「旅に出ろ」って。
 旅の恥はかきすて。おもいっきり恥をかこうよ、2人で。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 僕は数学嫌いだった。
 なのに30代半ばにしてある日突然、三角関数を理解し(急に座標系がアタマの中に降りてきたのだ)、微分積分を学び(とても情緒的な関数だと今の僕は思う)、今は経営と経済の本を読んでいる(無職のくせに)。

 弟子は言う。何故ですか、と。
 何故、嫌いなものを ── ときに嫌悪し、憎悪さえして、復讐を企てていることもあるというその対象を ── 学び、理解しようとするのですか、と。
 それは「何故、学生の時は真面目に勉強せず、今頃(仕事もしなくなって)」という意味もあるのだろう。

 それは小学2年の時に、僕が算数に感じたことと同じ疑問だ。
 四則演算までならともかく、分数以降の算数や、合同、相似、比例、角度の法則といった幾何や証明を解く能力が、いったい実社会で何の役に立つのだろうかと。
(僕は幾何や証明が好きだったが)
 マーケットに出かけて、1本66円のキュウリを3本買うのと、3本セット200円のキュウリを買うのとどちらが得で、500円を出した時のお釣りがいくらになるか分かればいいのではないかと。
 僕はそう思っていて、だから。普段の宿題なんてものはまったくしなかった。
 それでも授業をおおむね理解できて、成績も上位のことが多かった僕は、ちょっとした神童だったのだろう。

 現に、四則演算より以上の概念を学ぶ必要や価値を、明確に示してくれた教師はいなかった。
 僕は自分の心のままに、すべての価値を決めることができた。

>>>

 人は(あるいは僕のような猫が)なぜ本を読むのか。
 それは、本を読むことで少しずつ、自由になることができるからだ。
 知識を増やし、経験則を集積し、普遍の法則を知り、ありきたりな人間の機微を知る。
 そしてヒトは、己以外を知る。すなわちそれは他者との境界を知り、己を知ることでもある。

 自由とはなんだろう。
 それは己を知り、己の居る位置を知り、己以外を知り、それらの運動を見切ることだ。
 それを完全に理解できれば、自身の次の一手が見えるだろう。
 未来予知のように、物事の今のありようと、将来の姿が見えるだろう。
 何をすべきで、何をしてはいけなくて、何ができるか、その幅も見えるだろう。

 己の意志を知り、それを体現するための立ち居振る舞いを、思い描く通り完璧にできるならば、それが舞であろうと、斬撃であろうと、なすがままにあることができるだろう。

 人目を集める時には完全に収束し、人目を忍ぶときには気配さえ感じさせないことができるだろう。

 あるがままにあり、思うままに無いことができる。
 それが自由だ。
 つまり強くあり、美しくあること。
 そして弱くあり、醜くあること。
 それが自在であること。

 葉が枯れ落ちる道理を知らぬものには、その葉を捉えることができない。
 だから不自由の道理を知り、不自由に染まらない必要がある。
 自由の道を知り、自由に溺れない技術が要る。

>>>

「自己啓発本叩き」があって久しい。
 なんでも「そういうもの」を読む人は、読んだ直後は自分がちょっと凄くなったような気分になれて、にもかかわらず大抵は即実行するような気概がないから、結局日常が変わらず、自己啓発本ループによって、宗教的な、あるいは薬物中毒的な多幸感に浸っているだけの、作家と出版社のエサでしかないと腐す運動である。

 たしかにそれはそうである。
 アタマで理解できても、それを「自分の日常に行動として組み込む」というのは、簡単ではない。

 僕自身、今でこそ普通に、飲食店やコンビニのトイレ掃除を当たり前にするし、レジでのコミュニケート(こんにちは、お願いします/◯円でお願いします/恐れ入ります/ありがとうございます)や、飲食店の注文時のコミュニケートを当たり前にしているが、最初は恥ずかしかったし、挨拶することさえろくにできなかった。
 5回に1回くらい挨拶できるようになって、少しずつその回数を増やして。
 今ではマイバッグを出して「こちらにお願いします」と声をかけ、お財布を出しながら「えーとそしたら……」なんて前振りまでしている。

 僕はそれを本から学び、そして自由になった。
 たとえば汚れたトイレを目にして用を足す不快感から自由になった。綺麗なトイレで心地よく用を足せる。

 機械のように他人を使役するとき、人はただの機械になる。
 だって、自販機を前に挨拶や世間話なんて、みんなしないでしょう?(僕はするけれど
 黙々とお金を入れて、黙々と目的のものを手に入れる。
 自販機を前にして、人は「ただ買う機械」になる。
 それはそれで問題ないけれど、相手が人間だったら、本来は違うはず。

 僕はそこにいる人を、単なる道具や機械ではなく人間として扱う。
 人間ということは、親がいて、友達がいて、今の体調や気分の良し悪しがあって、悩みや夢や理想があって、想いや願いや希望があって、絶望や悲しみや閉塞感があって、笑う時があれば涙を流すことがあって、褒められれば嬉しくて、けなされれば悔しくて、大切な人や憧れる人がいて、苦しい記憶や楽しい思い出があって、好きな人がいて、そういう人とずっと一緒にいたいと思っている人なんだろうな、って思う。

 そんな人を相手に、タッチパネルから料理を注文して届いた料理をただ黙って受け取るとか、買い物カゴをどんっ!て渡して黙ってお金を払っていそいそと立ち去るとか、そういうことを僕はしたくなかった。
 そんなことが当たり前だった日常は、だから、僕自身をひどく不自由にした。

 僕は機械ではいられなかった(猫だ)から、僕以外の人間が、人間に見えてしまった。
 時世があって、だからレジでのやりとりは最小限にはなったけれども、それでも僕は挨拶をし続ける。
 相手が僕を単なる「財布と商品を持ったユニット」と思っていようとそれは構わない。

 コンビニなどでドアを開けて通路を譲るとき、相手が会釈もせずに通り過ぎることを、僕は快く思う。
 譲りたくて譲っている僕の誘導に従ってもらえて、僕は嬉しいからだ。
 お礼をしたり会釈をされても、それはそれで快くいられる。
 誘導に従ってもらえる時点で僕は満足なので、ついお礼を返しそうになったりしてしまうが。

 何かを譲ったり、贈った時にお礼や挨拶がないと怒る人がいる。礼儀を知らないという、それはそれでもっともな理由でもある。
 けれども、誰かに何かを与え、受け取ってもらうのは、その時点ですでに満足のゆく結果ではないのだろうか。

 僕は子供の頃から年賀状の返事も出さず、プレゼントを交換したこともない。
 贈られたときは貰いっぱなし。
 贈るときは贈りっぱなしである。
 お歳暮やお中元のように、世俗が集中しているときだからこそ手に入るものもあるが、僕は基本的に天邪鬼なので、そういうものは無視し続けている。
 そうこうするうちに世俗でも一般化されたようだ。

 プレゼントも、思いついて手に入ったら贈ってしまう。それでいいと思う。
 何より、物を贈るより、何かを一緒に体験することで楽しんでもらうのが好きである。

 たとえばベーコンの肉をベランダに干してある風景は、普通はなかなか見られない。
 燻煙が目や鼻に滲みること、作りたての燻製は、実はさほど美味しくないこと。
 揚げたての厚揚げが、とんでもなく美味しいこと。
 それを作るのは結構、大変であること。

 僕自身、物をそれなりに持っているけれど、結局、その物で何を体験できるか、どんな時間を過ごせるかが大事なのだ。
 焼却炉を買ったら、草や土を燃やして、灰を畑に還して、どんな変化が生まれるか、この手で作って体験したい。

 道具は、その道を切り開くモノでしかないのだ。

 だからモノありき、礼儀ありきになってしまえば、人の心は居場所を失うことがある。
 何より何かを人に譲ったり贈ったりすることは、ある種の強制をしているのだから。
 そういう謙虚さのない人間ほど、贈った自分が偉いと勘違いして他者を責める。まったく恥知らずなことである。

>>>

 僕は自分が自由であり、機械ではないことを確認するために、人を人として、僕よりもよほど人間らしい存在(事実そうなのだが)として、対応する。

 僕はそれをひとつひとつ、本で学んだ。

 たとえば自己啓発の本で学んだことを、すぐに実行できない人も多くいるだろう。
 それでも、読まないよりは読んだ方が、何かを知る機会は増えるし、考える機会も増えるだろう。すなわちその葛藤は、自分のありようを変える種だ。
 もともとできる人が、できない人を揶揄するぶんには仕方ないかもしれない。
(あいつ、読む本だけは立派なのに、やっていることはいつまでも変わらないな)とかいったふうに。

 しかし完全に完璧にできる人が、果たして「道の途上にある人」をそのように揶揄するのだろうか、と僕は考えてしまう。

>>>

 親や学校が教えるべきだとする風潮も、僕はちょっと疑問に思う。
 親というのは、その大半が、やはり「道の途上にある人」だ。
 それに対して、子供は親を絶対的なものとして感覚せざるを得ないように思う。
 もちろん「親といっても、私はそれほど優秀じゃないからねぇ」なんて言っていると大人を舐めて掛かるような阿呆になることもあるわけで、その辺りの匙加減は実に絶妙だ。

 たしかなことは、親は(物理/遺伝/経済的に)絶対かもしれないが、親の教えは絶対ではないということだ。
 とくに義務教育以降は、完全に他人だろう。

 学校に至っては、単なる教育機関であり、それこそ自販機なのだ。
 機械の中に自分の子供を押し込めて、これは人間なんですと言い張る自身の機械化した思考を知れと僕は思う。

 いずれにしても人間は、最初は不自由であるべきだろうとは思う。
 そして実際に、物理的な部分や経済的な部分で、子供は不自由だ。
 大人がいなければ、大人が危険な範囲を囲って守らなければ、迷ってどこかに落ちてしまうこともある。
 だから、大人は子供を不自由にしなくてはならない。それこそは義務だろう。

 その押しつけられた不自由を、切り開いて、探究して、新しいものを作ったり、考えたこともなかった気持ちを知ることが、自由なのだと思う。

 たとえば山奥の、満点の星空を見て「じんましんみたいで気持ちわる〜い!」と嫌悪する自由。
 オナラの匂いを嗅いで「やだうんちくさ〜い!」と言って笑いはしゃぐ自由。
 キャンプ場で作った料理をして「不潔で食べたくない」と泣いて拒否する自由。
 綺麗なものを見て「綺麗だ」としか言えない、言わせない、思えない、思わせない不自由から、飛び出したっていいのだ。
 人が嫌悪するものを見て、心惹かれて、それを愛でて集めてもいいのだ。

>>>

 僕はたまたま親が自営業で、離婚したあとは尚更のこと、躾らしい躾をほとんどされなかった。
 正座と、箸使いくらいだろうか。

 周囲との文化の違いに悩まされたこともあったけれど、思い込みに操作されている人や子供の姿を見ながら、僕は僕のありようを考えることができた。

 人の心の機微は、やはり苦手だけれど、たくさんの物語が、僕の記憶を彩っている。

 宇宙の物理法則は、驚くほど無個性に協調性があって、幾何学模様のように美しい。
 数学という見えない概念は、それを舞台裏で支えているのだ。

 人間の心にも法則性があって、だから、人間社会にも法則性がある。

 大事なことは、法則そのものを嫌わず、理解してあげること。
 そして、だからといって盲目に従う相手ではないと知ることだろう。

 僕らは空を飛び、遠く離れた人と言葉をやりとりしたり、見ているものを共有できる。
 これらの魔法を、この世界は科学によって達成した。

 魔法にだって、様々な制約や法則、禁忌もある。
 ひとつだけ確かなことは、学ばぬものに自由はないのだ。

 僕はもっともっと、僕自身からも自由になりたくて、だからあれこれ考えてしまう。
 好きなこと、好きな人、好きな言葉、好きな物語、好きな気持ち、綺麗と感じるすべて。
 あるいは嫌いなこと、嫌いな概念、醜悪ななストーリィ、嫌いだという気持ち、嫌悪し、憎悪し、この世から消し去りたいそのすべて。

 もっともっと、好きなものからも嫌いなものからも切り離されて、自由でいられるように。









// ----- >>* Escort Division *<< //


:: ── 天真爛漫。奇想天外。ジェットコースターみたいに僕は振り回されてばかり。
 この人自身が、行き先のわからない旅のよう ── 。

 君は自由そのものだ。

::違うよ。
 音楽が自由なんだよ。

 さあ旅に出よう。
 サン=サーンスが私達を待ってるよ。



// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


 引用は、
「第5話 暗い海」(文頭部:p.20-23) (文末部:p.25-26)
From「四月は君の嘘 第2巻」(著作:新川 直司 / 発行:講談社)
 によりました。





// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-青猫β-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Diary-Engineering-Form-Life-Link-Love-Mechanics-Stand_Alone-Style-Technology-

[Module]
  -Condencer-Connector-Generator-Resistor-Transistor-

[Object]
  -Camouflage-Human-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-衛星軌道でランデヴー-:-いのちあるものたち--夢見の猫の額の奥に-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200806
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ハーレム育ちと女の子のニオイのするボディソープ。
Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 晴れが増えた。
 相変わらず、夏は夏だ。
 暑いが仕方ない、今日も厚手のジャンプスーツを着て、頭にタオルを巻いて、ゴーグルを着けて、長靴で庭に出る。

 数年前、省エネと室内水冷装置の実験を兼ねて、なるべくエアコンを使わない夏、というのを過ごした。
 延べて3回ほどの夏を過ごしたろうか。

 熱交換効率が低く、自動化されたシステムの実現まで漕ぎつけず、計画は中断している。そう、中断しているだけである。
 やはりラジエータ等に見られるコンデンサフィンを持つ金属製の熱交換器を数箇所設置したいし、ファンも必要になるだろう。
 熱発電システムを構築できれば完璧だが、光発電の方がまだ主流であることから、このあたりはむつかしい。
 そもそも、電気は抵抗により熱を発生する。
 熱電変換素子を使おうとする場合、温度差を作るには冷却液による温度差を利用しなくてはならないが、モータに充分な電力を供給できるかは疑わしい(やってみないと分からないが)。

 いずれにしても僕(と実験に付き合わされたかわいそうな恋人)は、汗だくだった。水風呂で身体を冷却し、それでも僕は汗疹になった。

 ために今はエアコンを遠慮なく使う。
 家にいるのは僕と猫だけなのに、3台ものエアコンが稼働している。
 ときどき忘れてしまうが、僕の肌は僕が思う以上に敏感だからだ。
 部分欠陥住宅になっていることも影響している。いかんせん気密が低い。
 この家で新しいのは、エアコンとバスルームとトイレ(完全リフォームされている)と住人だけだ。
 畳は紫外線に焼けて朽ち、土壁はひび割れ粉をこぼし、窓枠は歪み、天井や壁の所々に雨漏りの染みが浮かんでいる。
 なぜこんなになるまで放って暮らしていたのか疑問ですらある。

>>>

 納屋に焼却炉を設置し終えた。
 煙突は、窓を開けて伝わせ、使用しないときは、連絡部を外して格納している。
 冬になれば、メガネ石を取り付けようと思うが、いつかの地震の影響で母家同様、窓枠は傾いている。
 
 試運転時は煙突が足りず、ほとんど室内排気で燃焼させた。
 2度目の燃焼は少し間が空いたが、昨日、煙突を完全に設定し終えて、大量の煙を道路に放出した。消防が来なくて良かった。
 3度目の今日は、不完全燃焼を回避して、見事に運用。
 災害時は上蓋を外して調理もできる。
(屋外用薪ストーブの名称は事実であろう)

 焼いている時間を使って、キュウリを収穫したり、いわゆる雑草を取ったり、バッタを殺したりして哲学する。

>>>

 あるブログで「DEOCO というボディソープを使うとガールの体臭がして背徳感がすごい」とあり、面白いので買った。
 なにせこちらは汗まみれのうえ、火燃しのために薫香をまとっている。
 ついでに、同世代の同性たちは、口をそろえて「俺たちはオッサンになった」「僕らおじさんは……」というのであるから、きっと僕の身体も(かなり薄い体臭だとガールたちは言うのだが)おじさんの臭いがしているかもしれない。

 実際のところ、僕は5歳までは少女だった。
 家は正しい意味のハーレムのごとく、女性ばかりの集団だった。
 男嫌いだったボクは後年、男の子の友達を作るのにたいそう苦労したが、ほぼ男子校みたいな高校に行っても(人見知りの引きこもりなのに)別の学校のガールと恋人になったり、放課後のマクドナルドで12人の後輩ガール(やはりいずれも他校)に囲まれて過ごしていた。
 ひとことでいうと、僕は男と連んでいるよりも、ガールに囲まれている方が落ち着くのだ。この歳になってもそれは変わらないし、5歳までは少女だった自分の自我も残っている。

 ある意味、恋人が次々増えるのも、その方が落ち着くからなのではある。

 ゆえに、ガールの匂いといったらホームポジションのようなものだ。
 ならばこれは買いだ!

 と、買いに走った次第。

>>>

 買って最初に、手を洗ってみた。
 メントール、ハッカ油、シトラス系オイルのような刺激が肌に残る。
 普段、純石鹸しか使わない僕の身体が、拒否を起こさないか心配であった。

 ニオイは、たしかに女の子のそれである。
 ガールたちから発散される匂い。
 美少女の香りというよりは、もっと広義に、女の子の香りである。

 実際にお風呂でも恐る恐る使ってみる。
 刺激を感じる成分は、殺菌剤か香料、あるいは肌を引き締める成分だろう。
 ちくちく、ピリピリする。
 よくすすいでも、少し残る。
 洗顔や粘膜付近には使えない気がする。

 ただ、ケミカルな保湿剤はほとんど使われていないようで、肌はベタつかず、かぶれない。
 そしてふと気付く。

 14歳までのボクの体臭やんかこれ。

 嗚呼。
 ボクの少女時代は、5歳ではなく14歳まで続いていたのか。

>>>

 僕は自分の性自認をきちんと持っていない時期がほとんどである。
 肉体は男性だから女性としか身体を重ねないが、ガキと馬鹿が嫌いなので、相性の良い人は限られる。
 男性相手に恋情を持つこともあるが、身体を重ねてもいいと思えたのは今まで1人だけだ。
 もちろん相手はストレートだし、僕もストレートだから、そんな展開にはならなかったが。

 結局のところ、誰かを抱きたい/抱かれたいという根源的な情動は、相手がどれだけ魅力的であるかということの重みが大きい。

 だから美人なだけでアタマの中がすっからかんの女にも、大言壮語の自慢げな男にも、性的な魅力は感じない。
 箸の使い方や歩き方、何気ない日常の動作にこそ色気があると思うのは僕だけでしょうか(ここで生徒会長立候補口調)。

 性自認が曖昧だからこそ、僕は5歳まで14歳まで、少女だったのだ。

>>>

 お風呂から上がって、なんともいえない心地よさを感じる。
 ボクの着けているヒトの着ぐるみは、45歳のオスであるから、肉眼で観察するかぎりオジサンであろう。
 それでも心地よい。
 女の子のニオイである。

 しかし同時に、14歳まで少女だったボクの感じる、心地よさがある。
 それは14歳までの少女だったボクを感じる心地よさでもある。
 そりゃ、女だった経験のない男性にとって禁断の香りであり、背徳の芳しさと感じられるのもうなずける。

 ひとりで居ながらにしてハーレム気分。
 身体を拭いて猫たち(すべて女の子である)のところに近づいたら、驚くほど喉を鳴らして擦り寄ってくる。
 いつもと食いつきが違う。
 まさにハーレム。

 ……あれ?
 君たちもしかして。オジサン嫌いなの?


今日のにゃんこ。








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[NEXUS]
~ Junction Box ~

[ Traffics ]

リアル君の名は。おっさんが女の子の匂いを買ってきて身につけたら、たまらない背徳感を味わえた

◯女性の「若い頃のニオイ」を解明!「若い頃の甘いニオイ」の正体は「ラクトンC10/ラクトンC11」
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫β-/-黒猫-/-BlueCat-/

[InterMethod]
  -Blood-Chaos-Color-Darkness-Diary-Kidding-Maintenance-Memory-

[Module]
  -Connector-Generator-JunctionBox-Reactor-

[Object]
  -Camouflage-Cat-Garden-Memory-Tool-
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[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-
//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200728
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
根っこがないから平気なこと。
SUBTITLE:
~ TheFootless. ~
Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 庭の、いわゆる雑草を抜いていた。

 今年の雨は長く、災害も多かった。
 幸い、僕の両手の届く範囲はいつも、比較的つつがない。
 トイレのロールペーパーがコアレスだ、という自慢をしているのではない。
 漢字にすると「恙ない」であって「筒がない」のではない。

 もちろん、次姉は難病だし、母上は癌にかかって下半身不随だし、僕は無職だ。
 僕たち姉妹は、ときどき、どうしようもないくらい、人間として破綻しているように思えることがある。僕自身も例外ではない。
 端的に、僕たちには、コアがない。
 自分の核が無いから、その穴を埋めるために、どうしようもなく、何もかもを駄目にしてゆく。
 全員とはいわないが、そういう部分が顕著な者もいる。かくいう僕だって、まともな精神構造をしているとは思っていない。

 でも僕に限っていえば、死ぬほど苦しいことや悲しいことなんて、もうないような気がする。
 いちばん悲しい出来事は、遠い昔に過ぎ去ったのだ。
 セミが殻を破って飛び立つように。

>>>

 家庭菜園ティスト1年生の僕は、庭を耕して、キュウリとナスとトマトとオクラとブロッコリィとニンニクとモロヘイヤを植えた。

 おかげで、このところ毎日、2〜4本のキュウリを食べている。
 浅漬けにして、食べている。
 最初に食べるときは、本当にどきどきした。
 初めて恋人とキスするときでさえ、こんなにはどきどきしなかったのに。
(まぁそれは、いずれ書くかもしれない)

 そして、どういうわけかニンニクは全滅した。
 ブロッコリィは葉脈のいちばん硬い芯を残して食い散らかされた。

 僕は毎日のように、トウガラシをアルコールに溶かしたものを希釈した防虫液を、それらの葉にかけていた。
 雨が洗い流してしまうから、時に葉を裏返して噴霧した。

 アブラムシはほとんど付かなかったし、イモムシも、わずかにしか見なかった。
 それなのに、柔らかい葉や芽を持つブロッコリィは、徹底的に食い散らかされた。

 そして今日、草を取りながら気付いたのだ。
 たしかバッタも作物に食害を及ぼすのではなかったか。
 じつにいるいる、あちこちに細長いバッタが。

>>>

 ああ、神よ。
 かのものは、我に直接仇為すものにあらず。
  されどもワタクシは、復讐と名のつくものすべて徹底してゆくサダメなのである。言い換えると、そういうポリシィってことね。

 かくして目についたバッタを、ある時は踏み付け、ある時は収穫ハサミで剪断し、少しずつ少しずつ、駆逐を開始したのである。
 しかしこれは心が痛む。

 もともと僕は昆虫が嫌いである。
 ゴキブリ、クモ、ムカデ、手足が4本でないすべての生き物を、ことごとく恐れる。
 それは本能の恐怖だ。

 それでも僕は、その恐怖や嫌悪を克服しようとしてきた。蜘蛛なんか、今は可愛いと思うこともある。
 いろいろなものを傷つけて生きている。
 いろいろなものを殺して生きている。

 生きる気力がほとんどないから、寿命を交換したいという人がいたら譲りたいくらいだ。
 もちろんそんなことは不可能だし、だからといって積極的に死ぬ理由もない。
 僕に繋がる僅かな人たちは、僕が生きることをどういうわけか望んでいる。

 きっと同じだ。

 自分の手で、魚を捌いたり、家畜を屠ったりしたくないから。
 間接的にバッタを殺すことさえ、ひとたびその行為に疑問を挟めば心が痛む。
 壊れている僕ですらこの有様だから、まともな人にはそんな殺生は無理なのではないだろうか。
 少なくとも僕は、自分の作物を守るための間接的な積極性によるバッタ殺しがつらい。
 だから考えずに殺すようにした。
 
 きっとみんな、直接、身近な人の死を見たくないだけなのだろう。
 見えないところで殺された、そのあとの素材がそこにあれば、痛くも痒くもない。
 たまたまバッタは、それを殺しても、誰も僕を非難せず、法に触れて逮捕されもせず、その係累の心に僕に対する復讐の炎が灯されたりもしない。

 それでどうやら葉っぱを食べてしまうから。
 だから僕は殺す。
 僕の周りの人は、僕が自死することを許さない。
 僕にはその重さの違いが、いまいちよく分からない。

 四捨五入で半世紀生きたのにこれである。
 きっと何も分からないまま死ぬのではないかと、ときどき情けなくなる。

>>>

 弟子に言われることがある。
「猫氏は、今の世の中を想定して、準備していたのですか」と。

 今の時勢、職を失って、次の職が決まらないなんてザラだろう。

<<<

 2020年、新型コロナウィルス(COVID-19)によって、人間社会は世界的な危機的状況に陥った。詳細は省く。

<<<

 たまたま僕は「新しいMac Proを思いつきでポンと買える」ほどには裕福でないけれど(僕の希望する最低限の構成で800k円する)「仕事もしないでのんびり余生を過ごす」程度の経済力を手に入れた。

 以前のブログで「モテは理解できたから、次はオカネモチーだなぁ」という発言が、どういうわけか叶ってしまった。

 まだ、理由や仕組みが分かっていない。
 モテと同じ原理で世の中が動くと想定して、そのレールに乗るように振る舞ったらこういうことになってしまった。

 だからときどき、僕はこの世界が、僕の妄想で仕上がっているような気がすることがある。

 バッタだって、ひとたび完全に駆逐してしまえば、来年から数が減るだろう。
 それ以外の害虫やいわゆる雑草、植物の病気も、僕は根絶しようと思ったらできるようにする。

 弟子にすると、そういうのは努力であるらしい。
 でも、僕は努力なんて大嫌いだし、努力した覚えがない。

 モテようとして、それを実行したらモテになったように、オカネモチーになろうとして実行したらそうなり、バッタを根絶しようとして実行すればそうなる。
 努力なんてどこにもない。

 僕は本来の僕のポリシィ(バッタといえども、みだりに殺生しない)を簡単に捨てて、新しいポリシィ(バッタは殺す。できる限り徹底的に、できることなら間接的に。ただし直接殺すことを躊躇わない)で上書きする。

 僕にとって、僕のアイデンティティがないというのは、こういうことだ。
 僕の、誰にも譲れないコアなんて、どこにもないんじゃないだろうか。
 必要さえ感じれば、なんだって譲って差し出してしまう。
 悪魔に魂を売って「これだけでいいの?」なんて言ってしまいそうだ。

 実際に、それで26人の恋人をフったし、それによってひどく傷付けた相手もいる。
(もちろん、そのまましれぇっとしている相手もいる。数年に一度しかやり取りのない恋人というのは、そういうものだ)
 26人も一度に傷付けるなんて、大企業のリストラよりよほど少ないとは思う。
 でも本来の僕は、そんなことをしたいわけでも、できるわけでもないのだ。
 もちろん、必要だと思ったからしたのだが。

「必要だと思って、したくないことすらするのは努力です」と弟子は言う。

 でも、努力したからといって幸せになれるわけではない。
 最初からそれは知っているけれど、それでも、僕よりアタマノワルい人間が介在すると、その欲で、何かが歪んでしまうのかもしれない。

 それに、必要だと思っていたことが、本当に、絶対に必要だと、どうやって判定するのか、僕にはまだ分からない。


今日の猫。


>>>

 草を抜いていて、気付く。
 地面から、ミョウガが、頭を覗かせている。
 面白くなって、たくさん集める。
 地面に這いずって、虫に悲鳴を上げ、泥と汗にまみれて、集める。
 ちいさなボウルいっぱいに採れたそれを、キュウリと一緒に浅漬けにして、夕刻、食す。
 庭に自生しているミョウガなんて、僕はとてもじゃないけれど信じられなくて、スリリングな気持ちの夕食だった。
 たとえるなら、バーで隣に座った美人と親しくなって、どこかに連れて行って欲しいと言われるような気持ちだ。
 悪くないけれど、絶対に信用できない。

 1日1食のままなので、浅漬けだけで満足して数日になる。
 三食絶対主義者なら、また眼を三角にして僕に怒るのだろう。
 でも、そんな人たちはみな、僕のそばには居なくなった。

 まだ生かしておくべきなのだろうか。
 幸せを感じるアイデンティティすら、どこかに置いてきてしまった僕を。
 抜け殻のように、佇むだけのそれを。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Cooking-Darkness-Derailleur-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Life-Link-Love-Mechanics-Memory-Stand_Alone-

[Module]
  -Connector-Convertor-Generator-Reactor-Resistor-Transistor-

[Object]
  -Garden-Human-Koban-Memory-Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-家庭菜園ティストの狂気-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200724
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ただの過敏症です。

Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 電動チェーンソウを使おうと思って、気がついた。
 本体の根本で、電源コードが剥き出しになっている。
 被覆が破損したりはしていないが、内部で断線やショートがあってはいけないと思い、使う前に分解して確認すると、被覆の一部が傷んでいる。
 ショートするには至っていないが、いつか断線してしまいそうだ。

 そんなわけで、工具箱を前橋のアパートから持ってきて、修理の準備を始めた。
 問題は圧着端子で、これはホームセンタで買い足した。
(ここまでにひと月くらい掛かったが、これは急ぐ必要がないからだ。外はたいてい雨だし)

 ここで問題が発生した(ように錯覚した)。
 トリガ部品がスイッチ端子を押す設計なのだが、電源から見てスイッチの手前に比較的大きなコンデンサが設定されており、しかもそれが、どう見てもショート回路になっているのである。
 電気に詳しい人なら「当たり前のことで驚くな」と笑うかもしれないが、僕は工業高校卒なのに電気に疎い。
 卒業してから20年ほどになったこともあるが、学校で学んだことを活かす職場はほとんどなかったし、日常生活でも、あまり役立てられたことがない。
 職場のアプリケーションに対して、かなり大規模なマクロプログラムとインタフェイスを独学で構築し、仕事を干されたりしたことはある。
 また僕の使う端末は、だいたい僕以外の人が使えない(キーボードでタイピングすることさえ思い通りにできない)ようにしてしまうので、退職後に大騒ぎになることもあるが、それらはいずれも独学だ。

 とにかく学生当時から電気の授業は苦手だったし、弱電回路の勉強も満足に理解できなかった。
 半導体素子についても、ほとんどうろ覚えで得意なのはいつもソフトウェアの方だった。
 なので、いろいろ調べて確認した。

 コンデンサがスイッチ手前でショートしているのは、交流電源を直流にして、かつ整流するためだったのだ。
 となると内部のモータは直流モータということになる。

 ちなみに、弟子は僕と同じ高校を経て、工業大を卒業したので、DC(直流)モータにAC(交流)電源を与えた場合の挙動について質問したところ、分からない、と答えた。
 おそらく駆動しないのだろうと僕は予測する。

>>>

 姉の中で、まだまだHSP問題がアツいらしい。
 彼女にとっては、HSPの存在を知ったことで、自身についての理解が深まったらしく、ために興奮醒めやらぬようなのだ。

 とはいえ、僕はそういった「己に対する定義づけ」に執心する人の熱量に、少々冷ややかだ。
(人に対して、なのではない)

 もちろんHSPのことは自分なりに調べたし、僕や姉がHSPであろう事も分かる。
 光や音や人の機微に対して過敏なこと、それによる感受性の高度化、さらにはそれを他者と共有し直す(他人の機微に敏感になっても、他人は自身の機微にさえ比較的鈍感な場合が多い)ための表現力の上昇。

 ジェンダー問題と同様、このフレームも、何かを解決するものではないと僕は考える。
 HSPの人間が、いくら自身を「私はHSPなのです」といったところで、一般的な感覚の持ち主に、その感覚は理解できない。
 せいぜい「過敏症の面倒なヤツが来た」としか思えないだろう。

 蛍光灯やブラウン管、劣化した半導体素子の待機ノイズ、太陽光の忌避、暗闇の中の微細光や音の反響による空間把握、他人の脈動や体温の変化を触れずに感覚したりできたところで、そんな感覚を持っていない人にとっては不気味で邪魔なだけである。
 たとえば蛍光灯の下で眠れる人がいる一方、蛍光灯があると眠れず、仮に眠れても浅い人がいるような場合、両者が一緒にいると、時には感覚の違いが積み重なって感情的なトラブルになることもあるだろう。

 HSPの人間にとって、自身がHSPであることを宣言するなど「私はめんどくさいヤツです」と言うに等しいように思えるのだ。
 宣言した本人は、それで理解なり協力なりが得られると期待するかもしれない。

 でも、知らない感覚について、人はどこまでも残酷になれる。
「なぜ光があるくらいで眠れないの? 私は平気だし、そんな人めったにいないよ?」
 といった具合に、自身の経験則だけで物事の道理を一意的に押し付けるのはよく見る光景だ。
 その上この社会は、人数が多いか、何らかの実用的な力を持つものの道理が優先される(資本主義で多数決主義なのだから当然に)。

>>>

 だから僕は、自分をHSPだと、他人にアピールしたりはしない。
「過敏で、神経質で、めんどくさいヤツなんです」と先に謝ってしまう。
 説明したから理解できるだろう/してほしい、というのは乱暴な気がするのである。
 理解してほしいなら、(比較的)鈍感な人の感覚を理解して、それに対する礼節をわきまえてからだと思うのである。

 だからHSPの人や、HSCの親の一部に「敏感で困ってるんですぅ」という被害者姿勢や、「感覚が先鋭的ですごいでしょう?」と得意になっているフシが見えると、たとえそれが顕在的なものでなくてもげんなりしてしまうのである。
 そーゆーのがいるから、HSPに憧れたり、反動で非難する人間が出てしまうのではないの? と。

 HSPは体質である。
 過敏なことが凄いなら、鈍感なことだって凄いのだ。
 熱した天ぷら油に指を入れて、温度を計る料理人を何人か知っている。
 だいたい5℃か10℃単位の正確さで、揚げるものに適当な温度をコントロールする。
 それは鈍感で、かつ敏感なのだ。
 たかだか敏感なだけで、あるいは鈍感なだけで、自身や誰かを特別視したり、あるいは蔑む必要などないのだ。

 ジェンダー問題もいつか触れるが、自分たちを特別視したくてアツくなっている人と、外から見て困惑している人に大別されるような気がする。
(もちろん穏やかに周囲と調和を保っている人のほうか多いものとは想像するが)

>>>

 実際のところ、僕自身はHSPで得をしたと思ったことはほとんどない。
 またHSPという定義が自分に当てはまると認識して、自身に対する理解が深まったわけでもない。

 暗闇で、僅かな光や音の反響を頼りに移動できるとして、光源なんていくらでもあるのだ。
 味や匂いに敏感だからといって僕のか弱い胃腸を守る以上の働きはしていない。
(20年ほど前から鼻炎になったので、現在の嗅覚は鈍いが)

 言語能力が高いことが相まって、人から「気取っている」とか「意味がわからない」と言われたりする。
 ガールと身体を重ねるとき、性器での性感ばかりを中心に展開される性交が虚しく感じてしまうことがある。
(性風俗に行かないのはそういう理由)

 個において役に立たず、他者とのコミュニケーションで齟齬を生む。

 もちろん、年々鈍くなってきていて、僕は人並みに鈍感になったのではないかと思う。
 それでも皮膚を撫でることが僕にとっては(抱えている病のためにも)重要で、だから、そういった部分は、あまり鈍くなっていないのかもしれない。

 いずれにしても僕がHSPであろうとなかろうと、僕という感覚器の外には出られないし、他の人が入るわけにもいかない。

>>>

 僕にとっては、この身体の感覚しか知らないから、この身体をコントロールできればそれで問題がないし、存える方法を自分なりに考えて対処している。
(存えさせない方法は、とても簡単なので)

 たとえば熱めの風呂に入って水を浴びたり、なるべく自分の皮膚をくまなく撫でまわすのは、毛細血管の梗塞を解消するためであったり、あるいは微細な血栓が肥大する前に固着させないためであったりする。
 もちろん、心臓と血管に掛かる負荷はそれなりにあるから、多くの人はこんなことはしないだろうし、僕も勧めたりはしない。

 それでもこれらは、僕の体験の中で、僕の体調維持に有用である。

>>>

 肉体的、あるいは心理的アイデンティティについて、ヒトはアツくなりがちだ。
 過激なヒトであれば、少数派にあっては「我々を理解し受け入れろ」と声高に叫ぶし、多数派にあってはそれを嘲笑し、差別する。

 ただ、いずれにも穏健派がいて、静かに互いを尊重しながら、日々を過ごしている。
 少なくとも僕は、世の中がそういうものだと思っている。

>>>

 おそらくADHDや発達障害、ジェンダー問題のように、HSPもいつかは普通の、当たり前のものになっていくか、世俗に埋没してゆくのではないだろうか。
 少なくとも、そう願っている。

 今は過渡期だから、みんな目新しくて、それに該当する人は自分の中に発見した要素に興奮しているのだろう。

 僕にはこれらが、血液型のような扱いになればいいと思っている。
「え、なに猫クンHSPなの? じゃ、過敏で神経質なんだねぇ。こちょこちょしちゃうぞぉ!」みたいな。そんなふうにガールにかまって欲しい、という願望があるわけではないと思うが、されるのが嫌だと言うつもりはない。むしろしてもらってもいい。いいえしてくださいお願いします。

>>>

 結線を終えて試運転したところ、問題がなさそうである。
 しかしwebで確認していたら、どうやらチェーンソウはオイルを入れて使うものらしい。
 今度はオイルを買いに行くとして、いったいいつになったら稼働できるのだろう。


今日の猫。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -BlueCat-

[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Ecology-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-

[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-

[Object]
  -Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  -暗闇エトランジェ-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200622
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
虚のもの、実のもの。
SUBTITLE:
~ Fat in your body is burned. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::いかなる政体を持つ国家であろうと、それゆえ、国家を維持していこうと望む者は、自国民を武装させ、自国民による軍隊を持たねばならない。
 これは、歴史上、力を使って大きな効果をあげたすべての人に、共通して見られる特色である。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 最近、仕事を請けるとき、タダで引き受けている。
 まさかこれが経済という概念に対する復讐であるとは、誰も気が付かないであろう。
 僕にとっての復讐とは、目立たず、気付かれず、いつの間にか根底から外堀からなにもかも覆っている状態を作ることだ。
 何が成されたかが肝要なので、誰がしたかなんて関係がない。だから、僕が何かをしなくてもよい。

 復讐という言葉を使っているからといって、誰かを呪ったり殺める必要はない。
 憎悪はそれなりに必要だけれど、大事なことは計画や理想、理念である。
 理想のない復讐は空しい。計画のない復讐は成功しない。
 けれども夢想する未来があるなら、そこに向かって人は進むことができる。
 どんな場所だっていい、どんなに荒唐無稽な理想でもいい。
 アヤしいセミナーみたいになってしまうかもしれないが、僕はそんなふうに、理想に向かってのんびりぼんやり生きている。

 ちなみに、僕は理想を持たず、計画性がないとよく弟子に叱られる。
 飛行機旅に重い荷物は要らない、というのが僕の信条ではあるから、間違ってはいない。

>>>

 僕は実(じつ)としての経済についてを、良いものとして評価している。
 しかし経済は本来的に概念であり、それは貨幣によって暫定的なカタチを持つ。
 キャッシュレス化によって、貨幣はカタチを失いつつあるのかもしれないが、同時に経済の本来の姿に近づこうとしているのだろう。僕は現金主義だけれど。

 ときどきwebニュースで「実業家の○○氏が」なんてあったりするが「実業家」なんて肩書きは、若すぎて何だか分からなかったことが非常にリアルに胡散臭く感じてしまうこの頃だったりします。お歳を召されましたねぇ。
 実業と虚業の狭間の、どちらかというと虚業寄りに金融業があるようにも感じるわけで、これをもって経済が概念的で本来的に胡散臭いものであることの証明に代えさせていただきたいと思います。(発想が乱暴)
 要は実業家という言葉自体がすでに虚ろで胡散臭いということ。

 そんな私は最近、名刺を作ろうかと真剣に悩んでいます。
 職業は「思想家」。猫なのに、詩人にして思想家にして技術者だなんてカッコイイんじゃないのか、ただそれだけの理由ですが。

>>>

 人は基本的に、虚のものを嫌う。
 当然だろう、虚のものとは実在しないものであり、ために役に立たない、実用をなさないものであり、ときに他者を陥れ、欺き、詐取するためにさえ使われる。
 ゆえ当然に、実のものを人は好む。
 概念的にも、虚のものが、後ろ暗いものであるのに対して、実のものは明るく堅実である。

 しかし実のものとて、盲信していれば単なる宗教と変わらない。
 宗教の定義は手元の辞典によると、以下のように定義されている。

神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また,神仏の教え。
経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し,積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。

 現代においては宗教も即物的になって、実を伴い、経済で交換されるのが必然のようだ。
 だから科学も、経済も、法律も、倫理も、道徳も、宗教的だと僕は揶揄する。
 いや揶揄などではない。事実それを信仰して、崇拝している人たちは少なくない。いや多い。それどころか全員そうだろ白状しろ(ばぁん!)(机を叩く音)

 多くの人が思考することをやめ、検証することなどせず、無条件に礼賛するようになれば、それがこの国では宗教だ。
 だからこの国では、宗教が嫌われることになった。
 思考することをやめ、検証することを非難し、無条件に礼賛しない者を排斥するようなありようは、不誠実でファシスティックだから、ということだろう。
 しかし本来の宗教のその多くは、信念が必要で、意味と価値を見いだす行動の中には思考と検証が必須で、ために無条件に礼賛するものだけに門戸を開くような制度をよしとしない、とても哲学的なものだ。
 つまり宗教が悪いのではなく、排他的に盲信してゆくアタマワルさが悪いのである。
 無知が罪なのではない、考えないことが罪なのだ。
 だから結局、宗教嫌いという信仰にどっぷり浸かっている人もいる。
 僕はまぁ、自由なイキモノなので、猫の神様以外はどうでもよいのですが。

 それにしても思考せず、検証せず、批判者を排斥するのは、日本の国民性か、あるいは人間の特性か、あるいは生命の本質か、もしくは何者かの誘導によるものなのだろうか。

 考えもせず、検証もせず、排他を繰り返せば、それは虚になる。
 実があることを盲信し、実がなくなることを確認せず、虚が混じることを疑わない集団は、あっという間に誰かにとって都合のよい装置になってしまう。
 歴史にいくつも悲劇があるではないか。
 なぜ歴史を学んでおいて、歴史からは学ばないのだろう。
 それが人間だというのなら、はぁ左様ですか、としか答えようがない。
 人間やめて猫になっておいてよかった、と安堵する場面だろうか。

 本来的に人間が嫌っていたはずの虚なるものが、実なるものであると盲信させられるうちに、実になるのである。
 だから赤信号はみんなで渡れば怖くないし、大々的な宣伝を行えば経済が動いてもいた。

 しかしいずれも、不誠実ではないだろうか。

 食品はまだしも、薬剤や洗剤などの成分表示をきちんと確認する人を、僕はあまり知らない。
(僕はかなりまじまじと見るが)
 たとえばお風呂の洗剤と食器洗い洗剤とトイレの洗剤と洗濯洗剤の違いを、どれだけ知っていますか、ということ。
 知っていれば、それらを使い分ける理由はある。
 機能には原理があって、理由があるからだ。
 しかし機能や原理を知らなければ、どれを兼用したところで、その人は気づかない可能性がある。
 だから使い分ける理由を、持っていないことになる。

 原理を知らず、理由もないのに、なんとなく「それがそれである」と思っていること、トイレはトイレ洗剤でないと綺麗にしてはいけない、ならないと盲信していることは、不誠実ではないのだろうか。

 経済現象の多くも、結果が先にあって、原理は後付けされるものがほとんどだ。
 なぜならそれは人間の行為であり、集団によって形成される現象だからだ。
 それなのに原理が先にあって、それを理由に、結果を導けると思っている馬鹿がいる。

 それはたとえるならば、競馬などで「この馬が統計的により先頭に立つ(勝率が高い/配当倍率が低い)からこの馬に賭ける」というのと同じくらい、現実的で馬鹿げている。
 物価を上げれば経済が回るなんていうのは「漏斗を使えばバケツからペットボトルに水を移せるのだから、そのまま上下を逆さにすれば、ペットボトルの水をバケツに移せる」というのと同じくらい乱暴で馬鹿げているということ。ペットボトルから直接注げよ阿呆か。

 現象から原理を憶測し、検証もなく、批判も受け容れずに強行するのは、つまり狂信的であるということだ。

 特に政治を批判するつもりはないが、経済という虚のものは、そのくらい、実のものとして社会に浸透しているということ。
 人々の多くはそれを「経験的・合理的に理解し制御することのでき」ないまま、にもかかわらず経済に対して相も変わらず「積極的な意味と価値を与えようと」躍起になっている。そういう体系が、この社会を構成している。
 みんなも信じているでしょう、お財布の中の貨幣を。
 だからこの世界は経済という共通の宗教を崇拝していて、その中には考えもせず、検証もせず、排他的に盲信する人間がいるのだ。
 そしてそういう人間がこの国では多数派になっている。

 さらにいえば、僕は無条件に少数派に立ち位置を取ろうとするから、経済を盲信する行為を批判するのである。

>>>

 ゆえに僕は経済に反旗を翻しているようには一切見せず、復讐を果たしてゆく。
 仕事をタダでこなすことは、誰かからすれば「馬鹿げたこと」であり「損なこと」であり「無駄なこと」である。
 申し訳ない、頼めない、という人もいるから、そういう人は、好きなように僕に何かを与えればいいし、それが貨幣であったところで僕は文句を言わない。
 ただ「経済ありきの人間の存在」を僕は疑っていて、もしも人間が「経済ありき」の存在だと定義されているなら、それには反対したいのだ。人間は人間であって、現金輸送車でもなければ財布でも金庫でもない。

 経済が僕に値段を付けることを僕が否定することによって、人は僕を経済で動かせなくなる。
 僕は経済から引きはがされて、その人と僕との関係が残って浮かび上がる。
 そうして初めて、人は、人との関係や経済の姿をそれぞれ独立したモノとして認識できるようになるのではないだろうか。
 すると虚に肥大した経済は、ようやく実を取り戻すことになる。

 それに「僕を経済以外で使う」ことは、経済至上主義者にとって、非常にありがたいものである。タダで労働力や知識が手に入る。
 そして僕は、関係性を手に入れる。
 経済でしか動けない人間は関係性を使えない(コネクションの問題ではなく、忠義の問題である)から、僕は僕の気分でその労働を放棄できるだけの関係性を手に入れる。
 経済で動かない人間を動かすためには、もう、紙幣を積んでも通用しない。
 ために、少なくとも僕の周囲で経済はその価値を失う。
 僕にとってはそれが、僕という者を経済から引き剥がす手段であり、経済を根底から否定する価値観の提示になる。

 もちろん、もちろん。
 僕は経済を憎んでいるのではない。
 人間を経済と癒着させて、正体の分からないイキモノにさせてしまうメカニズムを憎悪しているのだ。

 経済から自分を引き剥がして周りを見るがいい。
 世にいる多くのオカネモチは、ただお金を持っているだけであって、名士とも君子とも限らないことが分かってくる。
 もちろん中には本当に人間として上品で、素晴らしいと思える、後塵を拝したいと思える人もいる。
 またお金のない人たちは、たかだかお金がないくらいのことで萎縮する必要などないということも当然に分かるし、そうした人の中に君子が埋もれている可能性だって充分考えられる。人は最初から君子として生まれたりはしないからだ。
 自分が経済によって使われる人間であるのか、人間に依頼されて経済が発生する人間であるのか、そういった立ち位置も決められるだろう。

 経済的にいえば、薄利多売の競争をするのは悪業だと僕は考えている。
 その上で僕は、僕が経済から切り離されるだけの自由と経済を必要として、今の位置に立っている。
(結果として無職だけどな!)

>>>

今日の猫:「なんでやねん!」

>>>

 人間と経済が渾然一体となることは、人間がモノや現象や数値として扱われるということだ。
 しかもそれを扱うのは、必然に人間なのだ。
 そうされることを許せるという人は、経済に毒されているのだろう。
 もちろん誰が経済を崇拝しようとかまわない。
 僕はそれを尊重する。
 経済そのものは愛情と同じくらい、人間の関係や感情に寄り添ったモノのはずだ。
 だから僕は、本来的な経済は好ましいものだと思っている。
 誰かに感謝したり、喜びを伝えたり、心配していて力になりたい想いをカタチにできるのは経済の力のひとつだ。
 
 だから、僕は経済を崇拝しない。
 経済と癒着したイキモノも、イキモノと癒着した経済も、信じない。
 僕は経済と人間が癒着したイキモノを許さない。
 虚に肥え太るメカニズムがそこに見えたなら、僕は復讐を始めるだろう。
 道具が人間を超え、その上人間を支配すべきではないと、僕は思っているから。
 ましてそれが、一部の人間の私利私欲のためだとしたら、誰がそれを許そうか。

 真面目に語ってしまえばしまうほど、きっと無謀な抵抗に映るだろう。
 いかんせん多勢に無勢で、非常識で、荒唐無稽で、つまりは虚のものだ。非現実的だ。
 だから僕は、基本的に、誰にもこんな絵空事を言わない。
 絵空事、虚言、妄信、それこそが私の心に巣食っていると誰かが嗤ったとして、共に笑うだろう。
 みんな経済に支配されているから。
 実と信じる経済が、そこにいるから。
 誰もこんな復讐を理解しないだろうから。
 そして人間を信じているから。

 だから僕は、のんびりぼんやり、今日も僕を生きている。
 暗闇でひっそりと、復讐を誓いながら。




 



// ----- >>* Escort Division *<< //


::金銭で傭(やと)うことによって成り立つ傭兵(ようへい)制度が、なぜ役立たないか、の問題だが、その理由は、この種の兵士たちを掌握できる基盤が、支払われる給金以外にないというところにある。
 これでは、彼らの忠誠を期待するには少なすぎる。彼らがその程度のことで、傭い主のために死までいとわないほど働くと期待するほうが、甘いのだ。
 だから、指揮官に心酔し、その下で敵に勇敢に立ち向かうほどの戦闘精神は自前の兵士にしか期待できない。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 文頭文末の引用は、

「第一部 君主篇」(p.130)
 From
「マキアヴェッリ語録」
(著作:塩野 七生 / 発行:新潮文庫)

 によりました。

なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Derailleur-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Recollect-Stand_Alone-Technology-

[Module]
  -Condencer-Generator-JunctionBox-Transistor-

[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-夢見の猫の額の奥に-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200627
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
お近付きのしるしはありません。
SUBTITLE:
~ Its mine is mine. ~
Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 ひと月ほど前からうすうす感じてはいたのだけれど、食欲不調を起こしているらしい。
 味覚や嗅覚はそれなりにあるので、何かを食べれば味がするし、消化することで身体が疲れるから、体調のリズムも生まれる。
 それでも空腹を感じないし、満腹感もない。

 1日1回から2回、食事をする。
 料理を作るのは好きだ。
 もっともこの季節はうっかりしていて、作ったものが無駄になることもある。

 空腹感は主に、血糖値低下による注意力散漫や、軽い貧血、手足の痺れや体温の低下で計っている。
 決まった時間で食事をしてもよいのだけれど、日ごとの消費カロリィは運動量などによって異なるし、頭だけ使っている日は糖分だけでも問題がない。いかんせん、僕の燃料効率はハイブリッド自動車よりも優れている。
 随分前から、満腹感も感じなくなっていて、ひどい膨満感や吐き気が発生するまで食事をすることもある。

 食事の回数がもともと少ないから、適切な量がどれくらいなのか計りにくい。
 体調によって、少し食べたらもう食べたくなくなることもあるし、大量に食べて膨満感に苦しみながらももっと食べたい(咀嚼したい、何らかの味を感覚したい、何かを吸収したい)欲求が消えないこともある。

 定期的に、身体を撫ぜる必要があるのはこのためだ。
 一般的な日本人はスキンシップが少ないらしいが、僕はもともとスキンシップを多く必要とするようで、皮膚接触の信号は他の感覚の自律の役に立っている。
 たとえば睡眠時間の安定。たとえば食欲の正常な感覚。性欲にも当然影響するのだろうし、視覚や嗅覚の劣化、毛細血管の梗塞も防いでいる気がする。
 そんな文献は見たことがないので一般的ではないのだろうけれど。僕たちの(少なくとも僕の)感覚は、それぞれがそれぞれ、感覚器や身体機能の自律や健常性を保つために相関的に役立っている。
 昔から「ガールに背中を撫でてもらわないと」と書くことがあるが、つまりはそういうことである。
 ただ、僕は恥ずかしがり屋なので、みだりに人に肌を見せないし、触れさせもしない。
 表皮、筋繊維の境目、骨と肉のあいだ、骨の表面、可動接合部、脂肪の向こう側。
 過敏な触覚に、みだりに触れられるのは、だからはばかられる。

 いずれにしても日々、感覚は希薄になり、やがて次々と消失し、何も感じなくなる。
 無感覚は、虚しささえも呑み込んで、この身体をただのオブジェに変えてゆく。
 無感覚に身を委ねて眠っていると、僕はやがて餓死してしまうので、だから食事をする。

>>>

 僕らは感覚を、能動的に感じている。
 機械ではないから、感じようとしたものを、感じようとしたように感じることができる。
 だから、補正能力のない旧来のカメラが捉える夜景は、肉眼で捉えるそれより鈍くくすんでいるし、テープレコーダは人の声に温度を感じたりしない。
 味覚も、本来の味よりも記憶に補正されて感覚されているし、そのとき身体が求めているものによって、如実に感覚を変える。だから体調が悪いときに、消化能力を必要とする食品は、ときどきひどい味覚をもたらす。
 触覚も、十全に全身をスキャンし続けることはできないから、気が付いたら蚊に刺されていたり、アリに上られていたりする。
 受動的に、どうしようもなく感覚するもののほうが、もしかしたら少ないのだろう。

 つまり僕たちは、感覚を、自らの意思によって、選択的な能動によって感覚している。

 同様に感情も、能動的に感じている。
 受動的に、どうしようもなく、十全に感覚するような感情も、同様に少ないのだろう。
 僕たちは、選択的に感覚し、選択的に感情する。

 他者によって、感覚させられていることも、感情させられることも、本来的にはないのだ。

 そうした意味において、たとえば自身の中に湧き起こる不快感を、短絡的に誰か(あるいは何か)の責任にして吊るし上げようとしたりする人間は、客観的な観察力が欠如しているといえる。できればお近付きになりたくないタイプだ。
 少なくとも僕は、この手の独善的な人間によって、何度か、ひどい経験をしている。

>>>

(しゅたっ! としている今日の猫:ソックス)

>>>

 客観という主観的感覚は、ほとんど先天的な素養があるのではないかと時々思う。
 知識の多さも、頭の回転の速さも、機転もさほど影響しない。
 自身と他者に対する冷静な(あるいは公正な)洞察によって為されるもののように感じる。

 それはどちらかといえば動物的な本能に近い気もするのだが、人間以外の動物のほとんどは、客観性を持たないように観察される。
 詳細は省くが、おそらく共通言語がないためだろう。

 共通言語は、便利な一方、情報を偽ることもできる。
 論理を構成するときにも、多くは言語を使う人が多いだろう(ベン図や論理式を使えば、もっとシンプルな気がするが)。
 このとき、言語の揺らぎによって論理が狂うこともある。

 けれども感情や主観によって論理を構築していると、答えが自分の中に先にあって、それに対して理論補強する作用を思考回路はもたらしがちである。

 こうした場合、出来上がる理屈は主観の域を出ない。
 自分に都合の悪いことを考えたり、感じたりすることが、まずできない人も多い。

 殺人、暴行、テロ、窃盗、詐欺、その他諸々、社会的に良くないことについても、自分がそれをするなんて考えるのもおぞましい、という人がいる。
(そういう人ほど、TVのワイドショーやニュースが好きだったりする)
 起こす前提を考えなければ、予防や対策はできない。
 自分だったらどうするだろう、そもそもなぜそんなことをしたくなるのだろう、と考え、合点がゆくことは対策や事後処理の上で重要である。

 アタマの中で、自分をどこまでもキレイに保ちたいと願うのは悪いことではない。
 しかし、無思慮に他人を踏み台にしつつ、その上、踏みつけた相手にまで清廉潔白な自己イメージを押し付けるに至っては、犯罪に等しいように思う。

 地に足が着いていない、とは、そういう人のことだろう。
 いい加減、他人を踏みつけにしている事実くらいは自覚してほしいものだ。

>>>

 ちなみにこういうことを書くと、読んだ人が傷つくことがある。
 私のことではないか? とドキドキするらしい。
 断っておくと、僕は、これを読んでいるあなたのことをほとんど何も知らない。
 身近には、そういうアタマオカシい人間を近づけないように気を付けているから、身近な人の話でもない。
 単に、抽象的な論理を展開しているだけで、身の回りの人や知り合いも含め、誰に不満があるわけでもない。
(不満があるときは、当人にきちんと言います)

 前述のとおり、何も知らない人のことだとしても、自己イメージを完結するための踏み台にすることを僕は嫌う。
 それでも自分が何か非難されているように感じる人がいるとすれば、その人自身の中に、清廉潔白な自己イメージがあって、それを壊されることに怯えているのだろう。

 大丈夫、こわくないよ。
 僕は噛み付いたりしないから。
 ただ、お近付きにはなりたくない。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Life-Mechanics-

[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Transistor-

[Object]
  ----
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-:-暗闇エトランジェ-:-夢見の猫の額の奥に-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200727
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
誕生日を記憶したくない。あと、電灯の話。
Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 気が付いたら今年も誕生日を過ぎていた。
 もっとも今年は妹と姉からお祝いメールをもらったので、忘れなかったが。

 年によっては、それぞれ忙しかったりで、誕生日メールが届かないこともある。
 もっとも返事に困るので、来なくても構わないのではあるが。

 ちなみに僕は、妹以外では一部の恋人の誕生日をかろうじて記憶しているが、家族でない人間の誕生日は記憶するものではないと思っている。
 誕生日というのは4桁の数字で、自分の誕生日を起点に相対指標でも記憶できる。
 たとえば僕の誕生日が0715であり、「+0/+6」で「0721」といった具合に。

 数字というのは記憶するのに必要な領域がとても小さいので、忘れるのに苦労する。
 だから最初から覚えないことにしていて、恋人になる人には「誕生日を覚えられない」と説明している。

 もちろん誕生日を覚えていても、カレンダーを見てすぐに(今日は〇〇さんの誕生日だ)とは思わない。
 今日が何月何日であるかなんて、僕にとってはゴミの日の確認と、予定の喚起にしか使われない。

 にもかかわらず、妹以外に少なくとも8人くらい、誕生日を記憶している。
 誰のものか定かではないものも多いので、8件と呼んだほうがいいかもしれない。
 誰のものかさえ分からない数字を、いつまで覚えていたところで、なんの役にも立たない。

 もちろん恋人になるとき、彼女たちは言うのだ。
「ずっと一緒だよ!絶対に離れないもの。だから私を記憶して。誕生日も覚えて、顔も記憶して」と。
 しかし実際のところ、変な記憶の残滓だけが、雨漏りをしている天井のシミのように残っているだけである。
 できることなら離れて欲しいし、消えて欲しい。天井板を張り替えるしかないか。

 僕にとっては、顔と名前とストーリィくらいはすぐに忘れられる。
 もともと弱い相貌失認だし、名前に興味がないから、付き合い始めて2年くらい恋人の本名を知らなかったこともある。

 たとえるなら、クローゼットから出したスーツに袖を通したところ、ポケットから、ハンカチが出てきたようなものだ。
 ハンカチであることは分かるのだ。
 僕に関連したものであることも分かる。
「で、今日、それ使うの?」

 僕のヘンテコな記憶は、このように不便である。

>>>

 太田の家には蛍光灯しかなくて、前橋のアパートも基本的に蛍光灯しかない。
 とうとう耐えられなくなって、叔母の家の照明を変えた。
 足利市から引っ越したこの5年間ほど、僕はほとんど照明を使わないようにしていた。
 蛍光灯は、ひどく疲れて、神経質になって、精神的に荒んでしまうから。

 新しい照明器具は以前のように白熱球を使おうかとも思ったが、フィラメント電球型LEDにしてみた。
 ファッション的な意味合いもある。とにかく僕の感覚が騙されるなら何だっていい。

 剥き出しでは少し眩しかったので、シェードを自作することにした。
 100円ショップで半紙と針金を買って、2日ほどで作った。


 まともな真球型になどしようとは思っていなかったが、針金が柔らかめであることと、球の芯材に巻きつけるようなことをしなかったので、デタラメな造型に。
 半紙はテキトーなサイズに切って、テキトーに貼った。
 最初は隙間なく貼り付けようと思っていたのだが、隙間がある方が心地よい気がして、穴だらけになった。追加で貼り付けるのは簡単だからだ。

 かれこれひと月ほど使っているだろうか。
 蛍光灯よりはるかに気分がいいし、今のところ、情緒が不安定になることもない。

 家中の照明器具となると、まだ先になりそうではあるが、少しずつ手を加えている。
 この家は電源コンセントと電気スイッチの配置設計が致命的に無能なので、人感センサライトも増やした。

 玄関の室内灯を変えようと思ったら、こちらは電気工事が必要な気配。
 材料はそろえてあるので、時間を作って工作しようと思う。







// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Link-Memory-Stand_Alone-

[Module]
  -Condencer-Reactor-Transistor-

[Object]
  -Night-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-工場長の設計室:-ひとになったゆめをみる-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200706
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
あなたは「買える人間」でしょう?
SUBTITLE:
~ Are you the economy? ~
Written by BlueCat
 

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::侍は戦うものだ、という基本がある。それが、侍の価値だと教えられる。だから、戦わないことは、自らを否定することに等しい。だが、侍も人間、侍も生き物だ。動物は、けっして戦いを好まない。意地というものはない。それは、人間が教えられた道理であって、頭の中で描いているただの幻。その幻のために自分の命があると信じ、ときには、生きることよりも死を尊ぶ。
 生きるとは負け続けること、死ぬとはもう負けぬこと、という言葉がある。
 生きる死ぬはわかる。わからないのは、勝つ負けるだ。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 たまにはみんなの大好きな経済の話を。
 はっきりいえばこれはサービスであるが、誰もこんな内容は信用しないだろうし、そもそも読者は少ないので何を書こうと問題ないだろう。
 
 僕は以前に書いたとおり経済活動としては消費するくらいしかしていない。
 一般認識でいうところの投資や投機はしていないし、YouTuberでもない。無職なので経済的労働もしていない(まだ公開している文書にはないが、依頼された仕事も無償でこなしている)、相続そのものは完了していないので、相続した預貯金なんてものもない。
 米と塩を買ってささやかに暮らしている。
 だから、ホームレスのように経済から縁遠い。そういう人間の語る、白昼夢のうわごととでも思ってもらっていた方がいい。
 
>>>
 
 経済が先進国を席巻しているのは誰でも知っているとおりである。
 また、法整備が進むほど人間の命に値段を付けていることも知られているだろう。
 たとえば最低賃金というのは、労働に適応した人間の命が、労働している状況下において1時間あたりどれくらいの価格になるかについての規定である。
 バブル期以前は「人間の命に値段は付けられない」とされていたが、現在では「生活保護制度なんかやめてしまえ」という風潮である。
 つまるところ、経済価値を持たない人間は値段という価値がつかない。
 その意味において、僕は安いオトコである。1円にもならない。
 早くて安くても、ウマければモテるらしいから、そういう方面に特化するのもアリだろうか。
 
 もとより自身を「遺伝によって高額な医療費が掛かったり(そして制度によってそれが減免されたり)、重度障害を負う可能性が高い」と、子どもの頃から把握して生きてきた。
 だからどちらかといえば、社会(あるいは集団)が、そのリソース(経済については、あまりリソースとして認識したことがないが)を個体に対して過剰に浪費することには抵抗があった。
(明言したことはないかもしれないが、ために結婚や子供を作ることに抵抗があったし、この血を根絶することはちょっとした生きる上での楽しみ(あるいは目標)ではある
 だからある程度以上、生活を自立できない個体を生かすことは社会のリソースの消耗でしかない、というようにも思っている部分があった。
 
 その思想は行き過ぎれば、介護や福祉を必要とする人間を、社会に寄生する者として排斥することが、社会全体の優位性や健全性、公平性を長期的に維持するという極端なものにも行き着くだろう。
 優生保護法や、過去に介護施設であった殺傷事件なども似たような思想が根底にあるように感じている。
 
 社会が未来に先細りを感じるとき、現状の弱者は不要なものと見なされ、切り捨てられる可能性がある。
 生活保護受給に関するネットニュースなどでの否定的なコメントでは「最低限の生活をする権利」を不正に利用する人間に対する怒りや憎しみを超えて、社会的弱者が、相対的には強者である社会全体のリソースを無益に使っていることを非難している光景を見ることもある。
 
「生まれたばかりの赤ん坊が何の役に立つでしょうか」と言ったのは、ファラデーだったかフランクリンだったか、僕には曖昧なのだけれど、弱者を切り捨てることは、豊かさを失うこと、あるいは失っている状態そのものなのだろう。
 
 経済的に自立して、社会に貢献している個体以外は必要ない、というのは刹那的な経済至上主義である。
 義務教育も不要だとなりかねないし、定年を迎えたら自活できない個体は自害しろということだろう。
 幼稚園や保育園の数が足りない、あるいは教育者の就労条件が粗末なものである、にもかかわらず国家が「可能な限り人間は年齢に関係なく労働し続けましょう」としているのは、すなわち国家がすでにジリ貧なのだろうとさえ感じさせる。
 
>>>
 
 経済というものの位置づけが、変わるだろうと僕は思っている。
 仮想通貨(現在は暗号資産に名称が変わった)というものが現れたとき、現行の経済とは異なる信用の担保によっているから、現行通貨による経済を変化させるかな、とは思っていた。
 もっとも僕は端で眺めているだけなので、投機も含めて暗号資産に手出しをしたことはないが。
 ただ、結局のところ多くの人はイデオロギィより己の損得の方が好きなようで、暗号資産そのものは現行経済の掌握下になろうとしているように観察される。
 つまり本来的に現行経済という権力/勢力に対抗する目的を含んでいたはずの新興経済が、その反抗の芽を摘まれたように見える、ということである。
 
 経済は、その手続きがあらゆるものを数値化するために利便性を高め、それを利用しているはずの人間そのものの価値さえも裁量し、時に人間を支配するようになっている。
 もちろんそれは経済が悪いのではなく、経済の運用方法、位置づけが悪いのではある。
 けれども経済至上主義というのは結局、そうしないと人間が生きられないという錯覚を植え付けることによって成り立っている。お金がなくても生きていけるという発想を、僕たちは経済によって殺されている。不可能だと決めつけている。
 頭のイカレた恋人が「あなたは私がいなければ生きられない」という状況を作るためにせっせと環境を整備するのにも似ている。斧で脚を切らないでください。
 
 人間同士がやりとりするための道具であり、味方であったはずの経済が、いつの間にか、経済をより多く持つ者が経済をより持たない者を支配するための道具になってしまった。
 だから大きな資産を持つものを人は羨むし、自分よりも給料が安い人間を、仕事をする上で価値が低い道具だと考えるようになる。
 大きな屋敷の奴隷が、小さな屋敷の奴隷をして蔑むようなものである。
 
 人間の価値とは、時間的な将来に社会や集団にもたらしうる多様性や有益性ではなく、頭脳の中で展開される新しさや窮状を打開する勇気でもなく、つまりポケットに入っている小銭の量で決まるらしい。
 よってより多く持つ者ほど、結局のところ経済に支配されていることには変わりがない。
 それはそうだろう。経済があれば人間を支配できるのだから。
 
>>>
 
 このからくりに気が付いて、厭気がさしている人も少なくはないだろう。
 インフレになることが必然で、インフレに向かうことが適切な場面ですらインフレに向かわないのは、インフレになればなるほど、現行の経済をより多く持つ者は損失の幅が大きくなるからだ。
 あるいは人間を安く買い叩くことができなくなるから、それを恐れているようにさえ思える。
 経済の均衡を保つ機能を経済は内包しているという信仰があるが、それは経済に対する信用を担保する人間が多い場合の話だ。
 
 経済の信用を担保する人数が減れば、経済の価値(あるいは存在の影)が薄くなる。
 人と人との間で、モノやコトをバイバスするのが経済だから、人数が減れば減るほどネットワークの端末が減って、端末間のやりとりが減って、つまりバイパスする意味が失われてゆく。
 人数が最後の一人になれば、経済は全くその価値(あるいは意味)を失う。
 人は点で、それを結ぶ関係性が線になって、経済がそこに乗っている。
 電信柱が電線を結んで、電気が流れるように。
 
 それがやがて人と人を結ぶ経済に、後付けの関係性が乗っているように昨今は認識できる。
 ビジネス、コマーシャルの世界がそれである。
 経済が先にあって、人が末端に形成される、そう錯覚される。
 家電製品はプラグを繋げば動く。
 末端のモノやコトだけ見ているぶんには、電線も電柱も必要のないものだ。
 電気を使う人間にとっては、電気があれば、末端の機械が自分の不満を満たせばそれでいいのだ。
 なに諸君の居住区では電柱が地中化されている?
 つまりそれだけ「人間の存在がなくても良いもの」になっていることの象徴ではないのか。
 
 少なくとも日本の人口は今後も減少を続ける。当然だろう。
 この国は、人間の顔に値段が書いてあるのだ。
「人間は金で買える」という信仰の元では、人間は足りないときに金で買えばいいモノになるのだから。
 金で買える人間は、電車にやっとで乗せたベビーカーの中で泣いたりしないし、保育園に集まってみんなで遊んだり騒いだりする必要がないし、レストランでおむつを交換する必要がない。
 金を作らず金で買えない人間は価値がないのと同じだから、目障りだという人間が、すでにいるのだ。
 
 人間が少なくなって、経済の信用がその担保を弱めているにもかかわらず、人間はまだ人間よりも経済を信じている。
 人間が減少を続けるのは道理だろう。
 人間自身が、すでに、人間よりも別のもののほうが有用で、必要だと言っているのだから。
 
 障害者だろうが老人だろうが赤子だろうが関係はない。買えない人間には価値がない。
 経済を持つものが買える側の人間で、かつ、経済で何かを買える人間だけが人間である、と見なしているのが経済至上主義社会だろう。誰かに買われることがなく、何かを買うことのない人間は、存在しないのと同じであり罪人だとみなされる。
 だから無職の者や無銭の者を、社会は蔑む。人間よりも経済がエライからだ。
 電信柱より電気がエライのだ。当然だろう。電気を流すための電線で、そのための電柱なのだから。
 
 そういう人間たちが、社会を構成して、経済を動かして、社会を操舵しているように僕には観察される。
 経済の位置づけが今のままなら、国家が滅ぶのは必然だ。
 つまり人間の位置づけが今のままなら、本来の柔軟な文化や精神を持つ日本人というものは存在しなくなるだろう。
 
 僕がここに書いたことを極論だと思う人もいるだろう。
 でも表を歩いてすれ違う、多くの人が(買う側か買われる側かはともかく)「買える人間」である。
 僕たちは知っているのに、目を閉じている。
 だから札束で頬を叩く人はいつまでもそのまま、経済に使われている。
 
 電気や通信インフラがなければアイデンティティの存続さえままならないなら、それは電気や通信に支配されているのだ。
 経済がなければ社会が存続しないなら、経済に関与しない人間は不要なのだ。
 
 けれどもそうした必要必須のものから外れたところに、芸術があり、基礎研究や先進技術がある。
 それらの多くは、本来的には「お金にならない」ものだ。
 それでも誰かの心に深みや豊かさを与え、社会を牽引する応用科学の芽になるのは、そうしたものではないだろうか。
 だから古来、貴族は芸術家のパトロンとなり、技術者は製品が社会を満たすことで賞賛を受ける。
 そうした「金にならないモノ」や「現状に相反するモノ」を受け容れ、育てる素養こそが社会における文化であり、文明だろう。
 風刺も批判も抹殺され、ルール違反も狂気も画一的に矯正されてゆく清浄な世界は、だからファシスティックで禍々しい。
 
 人間の根底にある情動や、理由の分からない好奇心、何かが素敵な何かに繋がっているという予感。
 外から与えられ、規定されるものではなく、内から湧き上がる「ナニカ」が人間の正体であろう。
 少なくとも人とは経済をバイパスするために組み立てられたデバイスなどではない。
 
 よって経済と人間とを切り分ける思考を、社会は再び手に入れるだろう。
 それが合理であり、理想的なことだからだ。
 人間が人間の価値を取り戻さなければ、人間は経済によって、最後のひとりまで買い取られるからだ。
 人間を貪るものを、古来、悪魔と人は呼ぶ。
 刈られた魂がどこに行き、誰が呑み込んでいるのか、人は知っているのだろうか。
 
>>>
 
 僕はこれまで「現実を見なさい」というお説教を受けたことがたびたびある。
 10代の頃もあったし20代の頃もあった、30代になってもまだあった。
 まるでダメ人間の典型のようである。猫だからいいもん。
 
 どうも彼ら/彼女たちは、現実がよほど素晴らしいものだと教育されていたらしい。
 まぁだいたいは現実世界で現実に生きている現実的な現実の人間だったように記憶している。
 もちろん僕の目にだって、相応に現実が見えているはずである。
 それでも僕が現実を見ていないように見えるのだとすれば、それは僕にとって現実よりも先に見るべきもの、価値のあるものが僕の中にあったからだろう。
 現実ばかりを見ていても、結局、現状がよりよいものにはならないのだから。
 それにここでいう「現実」を「経済」に置き換えても、同様のことがいえる。
 
 僕は現実を見ない。経済も見ない。
 それらはすべて実体のない影だ。
 エナジィがナニカを運動させたときに見える残像だ。
 そんなものを見ていても、もうそこにはない。
 見えない先に、もうそれはあるのだから。
 
 だから僕は思うのだ。
 みんないい加減に理想を見てはいかがでしょうか。と。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::勝つことで安らぎを失う、とカシュウが言っていた。戦に勝った者は、これまで以上に守りを固め、敵の反撃に怯えなければならない。負けた者には、この心配がない。いずれが得をしたことになるのか、と問われた。
 そもそも、戦というのは、勝つことを望んで向かうものではないのですか、ときき返すと、カシュウは首をふった。多くの戦は、戦わないことを避けたい、ただそれだけのために戦ったのだと。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
 
「episode 3: Beads string」(p.222-223)
 From
「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 
 によりました。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-BlueCat-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Engineering-Mechanics-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-JunctionBox-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
//EOF
 あるブログで、コールスローサラダの記事があった。


 僕はコールスローサラダをよく知らない。
 ファストフードの、付け合わせに、みじんにされた野菜くずのマヨネーズ和えのようなサラダがあって、それがコールスローと呼ばれていて、なかなか美味しい、ということをかつて、恋人(27人のうちの23番目くらい)に教えてもらった。
 前橋でよく行っていた店の、春メニューにもざく切り(けっこう大きめに切られた)コールスローがあった。
 マヨネーズと酢と胡椒、コーンか砂糖で甘みを出して物足りなければめんつゆでも掛けておけばいいだろうと推測した(我が家に顆粒状うまみ調味料というものはない)。

 時を同じくして、高野豆腐の煮物がちょっとしたブームである。主に俺の中で。
 ためにテキトーな野菜と高野豆腐の煮物、およびテキトーなコールスローを、かれこれ4日ほど、食べている。

 最初の頃はいまひとつな味だったが、野菜の水分を利用すればいいのだと気づいて、塩を少し足した。ライトなピクルスにマヨネーズを加える感じでイメージして。あと、甘さが大事だから、カッコつけないで砂糖を加える。僕は他人が驚くくらい甘みに鈍感である。

 このところ、諸般の事情で空腹感と満腹感を喪失している。
 全く感じないので、低血糖を認識したら食べて、膨満感で食べ止んでいる。
 理由は理解しているつもりなので、現象が収まったら、それについて何か書くかもしれないし、何も書かないかもしれない。

 ちょうど2年ほど前にも、この時期に、呪われたようにキャベツを食べあさっていた記録を読む。
 春でも冬でもなく、夏のキャベツ。
 トマトやキュウリやオクラの走りを食しては、触発されるように、物足りないと言わんばかりに、夏キャベツ。



 ただ。
 僕は黒酢か、なんちゃってバルサミコ酢しか持っていないので、白くて綺麗なコールスローは、永遠にできない。
 醤油マヨネーズのような、マダムの矯正下着のような、ベージュに染まった野菜くずを眺めて、少し呆れたように微笑む。
 パプリカ、ピーマン、コーン、オリーブ、ニンジン、そして夏キャベツ。

 大きなボウルに作ったそれを、晩と朝とで食べ尽くす。
(高野豆腐以外は野菜か酒なので、目覚めると栄養偏向を体感するから、そういう朝は軽く食べる)

 夏に生まれたのに、夏が好きになれない。
 この「何人目かの僕」は、きっと冬に生まれたのだろう。
 母上のことをよく知っている僕の記憶が、ときどき僕を困らせる。
 価値観セットを人格にまで起こしていないからなんとも言えないけれど、彼は多分、夏が嫌いではないのだろう、そんな気がする。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200620
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
パラレルかくれんぼの鬼は、君を見つけることがない。
SUBTITLE:
~ Parallel paralyzed Palladium. ~
Written by 銀猫


// ----- >>* Lead Division *<< //


::ねえ渡。僕は宮園さんがとても好きだよ。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 たくさんの本を読む理由は、何度も何度も何度も何度も読み返すことのできる、たった1冊の本を探すためだ。
 だから、1冊目で、そういう本に出会えた人は幸せであろう。
 そして、100冊読んでもまだ見つからない人もまた、幸せであろう。

 あるいは友人や恋人ならどうだろう。
 死ぬまで一緒にいられる誰かを、生きている間に見つけられる人は幸せだろう。
 100人友達ができて、100人恋人ができて、そのぶんの別れや痛みを抱えて孤独に死ぬのもまた、幸せなことだろう。
(基本的な倫理観に欠け、さらに人見知りで引きこもりを自称している生命体がこれを書いている)
 
 あるいは、自分はどうだろう。
 自分は、自分を一度しか生きられないだろうけれど。
 一生のあいだに自分を何度も、あるいは自分以外をも何度となく。
 生きられたら楽しいだろう。
 何度も自分を繰り返したいと思える自分ならなおさら。

>>>

 そんなことはできないと思っている人はたくさんいる。
 たとえばゴキブリを嫌いな自分しか知らない人は、ゴキブリを好きな自分を知らない。好きになろうともしない。

 たくさんを、並行して生きていると、すべて、じつのところどうでもよいものの集積のようにも思えてくる。
 たくさんの自分というのは、突き詰めれば、誰でもあるということでもあり、誰でもないということでもあり、それは自分などないということでもある。
 たくさんの自分でさえ自分でないなら、単一の自分が自分であろうはずもない。
 その矮小こそが、自分である。
 自分と呼ばれるもの、自我の本質だろう。

 僕らは自分こそが自分であると思い込んでいるわりに、なにが自分というものの必須要素であるかを知らないし、理解もしない。しかもたいていそのまま死ぬ。
「自分は、自分が自分だと感じるから自分だ」というのは、「AはAだからAだ」というのと同じで、なにも説明していない。
 それが愚かだとか、悪いということではない。
 ただ、自分が自分であることを証明するのは、じつのところ簡単ではないようだということである。

>>>

 僕は並列して、自分を失ってゆく。
 失われゆく並列化された僕は、そして僕ですらなくなってゆく。

 自我を失うことなく、より強固に己という意識を強めてゆく人たちを見て、だから僕は「なんて欲のない人たちなのだろう」と、皮肉でなしに思う。考える。

 たったひとりの自分でいいだなんて。
 たった1回の経験でこと足りるなんて。
 たった1つの価値観でいいだなんて。
 たったひとつの答えで満足できるなんて。
 ただ一方向の感情でいいだなんて。
 単なる一方的な視点でいいなんて。
 ほんのわずかな他人でこと足りるなんて。
 昨日とおなじ自分で飽きないなんて。
 朝と昼と夜の食事が同じだと、飽きたり、場合によっては文句を言う人たちなのに。
 朝とおなじ自分でいいだなんて。

 なんて謙虚で、なんて無欲なのだろう。

>>>

 並行して、たくさんの僕が、また僕に飽きてしまう。
「もういいんじゃない?」

 それはさながらかくれんぼのようだ。
「もういいかい?」
「まーだだよ」

 本当に?

 本当は、もういいんじゃないの?

 隠れた子たちは、もう誰も。
 どこにもいなくなっているのではないの?








// ----- >>* Escort Division *<< //


::ばか。知ってるよ。
::……うん。



// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「第40話 手と手」(p.177-178)
 From
「四月は君の嘘 第10巻」(著作:新川 直司 / 発行:講談社)
 によりました。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-赤猫-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Blood-Chaos-Darkness-Life-Recollect-Rhythm-

[Module]
  -Convertor-Generator-

[Object]
  -Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-いのちあるものたち-:-ことばの毛糸玉-



//EOF