// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200724
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
ただの過敏症です。

Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 電動チェーンソウを使おうと思って、気がついた。
 本体の根本で、電源コードが剥き出しになっている。
 被覆が破損したりはしていないが、内部で断線やショートがあってはいけないと思い、使う前に分解して確認すると、被覆の一部が傷んでいる。
 ショートするには至っていないが、いつか断線してしまいそうだ。

 そんなわけで、工具箱を前橋のアパートから持ってきて、修理の準備を始めた。
 問題は圧着端子で、これはホームセンタで買い足した。
(ここまでにひと月くらい掛かったが、これは急ぐ必要がないからだ。外はたいてい雨だし)

 ここで問題が発生した(ように錯覚した)。
 トリガ部品がスイッチ端子を押す設計なのだが、電源から見てスイッチの手前に比較的大きなコンデンサが設定されており、しかもそれが、どう見てもショート回路になっているのである。
 電気に詳しい人なら「当たり前のことで驚くな」と笑うかもしれないが、僕は工業高校卒なのに電気に疎い。
 卒業してから20年ほどになったこともあるが、学校で学んだことを活かす職場はほとんどなかったし、日常生活でも、あまり役立てられたことがない。
 職場のアプリケーションに対して、かなり大規模なマクロプログラムとインタフェイスを独学で構築し、仕事を干されたりしたことはある。
 また僕の使う端末は、だいたい僕以外の人が使えない(キーボードでタイピングすることさえ思い通りにできない)ようにしてしまうので、退職後に大騒ぎになることもあるが、それらはいずれも独学だ。

 とにかく学生当時から電気の授業は苦手だったし、弱電回路の勉強も満足に理解できなかった。
 半導体素子についても、ほとんどうろ覚えで得意なのはいつもソフトウェアの方だった。
 なので、いろいろ調べて確認した。

 コンデンサがスイッチ手前でショートしているのは、交流電源を直流にして、かつ整流するためだったのだ。
 となると内部のモータは直流モータということになる。

 ちなみに、弟子は僕と同じ高校を経て、工業大を卒業したので、DC(直流)モータにAC(交流)電源を与えた場合の挙動について質問したところ、分からない、と答えた。
 おそらく駆動しないのだろうと僕は予測する。

>>>

 姉の中で、まだまだHSP問題がアツいらしい。
 彼女にとっては、HSPの存在を知ったことで、自身についての理解が深まったらしく、ために興奮醒めやらぬようなのだ。

 とはいえ、僕はそういった「己に対する定義づけ」に執心する人の熱量に、少々冷ややかだ。
(人に対して、なのではない)

 もちろんHSPのことは自分なりに調べたし、僕や姉がHSPであろう事も分かる。
 光や音や人の機微に対して過敏なこと、それによる感受性の高度化、さらにはそれを他者と共有し直す(他人の機微に敏感になっても、他人は自身の機微にさえ比較的鈍感な場合が多い)ための表現力の上昇。

 ジェンダー問題と同様、このフレームも、何かを解決するものではないと僕は考える。
 HSPの人間が、いくら自身を「私はHSPなのです」といったところで、一般的な感覚の持ち主に、その感覚は理解できない。
 せいぜい「過敏症の面倒なヤツが来た」としか思えないだろう。

 蛍光灯やブラウン管、劣化した半導体素子の待機ノイズ、太陽光の忌避、暗闇の中の微細光や音の反響による空間把握、他人の脈動や体温の変化を触れずに感覚したりできたところで、そんな感覚を持っていない人にとっては不気味で邪魔なだけである。
 たとえば蛍光灯の下で眠れる人がいる一方、蛍光灯があると眠れず、仮に眠れても浅い人がいるような場合、両者が一緒にいると、時には感覚の違いが積み重なって感情的なトラブルになることもあるだろう。

 HSPの人間にとって、自身がHSPであることを宣言するなど「私はめんどくさいヤツです」と言うに等しいように思えるのだ。
 宣言した本人は、それで理解なり協力なりが得られると期待するかもしれない。

 でも、知らない感覚について、人はどこまでも残酷になれる。
「なぜ光があるくらいで眠れないの? 私は平気だし、そんな人めったにいないよ?」
 といった具合に、自身の経験則だけで物事の道理を一意的に押し付けるのはよく見る光景だ。
 その上この社会は、人数が多いか、何らかの実用的な力を持つものの道理が優先される(資本主義で多数決主義なのだから当然に)。

>>>

 だから僕は、自分をHSPだと、他人にアピールしたりはしない。
「過敏で、神経質で、めんどくさいヤツなんです」と先に謝ってしまう。
 説明したから理解できるだろう/してほしい、というのは乱暴な気がするのである。
 理解してほしいなら、(比較的)鈍感な人の感覚を理解して、それに対する礼節をわきまえてからだと思うのである。

 だからHSPの人や、HSCの親の一部に「敏感で困ってるんですぅ」という被害者姿勢や、「感覚が先鋭的ですごいでしょう?」と得意になっているフシが見えると、たとえそれが顕在的なものでなくてもげんなりしてしまうのである。
 そーゆーのがいるから、HSPに憧れたり、反動で非難する人間が出てしまうのではないの? と。

 HSPは体質である。
 過敏なことが凄いなら、鈍感なことだって凄いのだ。
 熱した天ぷら油に指を入れて、温度を計る料理人を何人か知っている。
 だいたい5℃か10℃単位の正確さで、揚げるものに適当な温度をコントロールする。
 それは鈍感で、かつ敏感なのだ。
 たかだか敏感なだけで、あるいは鈍感なだけで、自身や誰かを特別視したり、あるいは蔑む必要などないのだ。

 ジェンダー問題もいつか触れるが、自分たちを特別視したくてアツくなっている人と、外から見て困惑している人に大別されるような気がする。
(もちろん穏やかに周囲と調和を保っている人のほうか多いものとは想像するが)

>>>

 実際のところ、僕自身はHSPで得をしたと思ったことはほとんどない。
 またHSPという定義が自分に当てはまると認識して、自身に対する理解が深まったわけでもない。

 暗闇で、僅かな光や音の反響を頼りに移動できるとして、光源なんていくらでもあるのだ。
 味や匂いに敏感だからといって僕のか弱い胃腸を守る以上の働きはしていない。
(20年ほど前から鼻炎になったので、現在の嗅覚は鈍いが)

 言語能力が高いことが相まって、人から「気取っている」とか「意味がわからない」と言われたりする。
 ガールと身体を重ねるとき、性器での性感ばかりを中心に展開される性交が虚しく感じてしまうことがある。
(性風俗に行かないのはそういう理由)

 個において役に立たず、他者とのコミュニケーションで齟齬を生む。

 もちろん、年々鈍くなってきていて、僕は人並みに鈍感になったのではないかと思う。
 それでも皮膚を撫でることが僕にとっては(抱えている病のためにも)重要で、だから、そういった部分は、あまり鈍くなっていないのかもしれない。

 いずれにしても僕がHSPであろうとなかろうと、僕という感覚器の外には出られないし、他の人が入るわけにもいかない。

>>>

 僕にとっては、この身体の感覚しか知らないから、この身体をコントロールできればそれで問題がないし、存える方法を自分なりに考えて対処している。
(存えさせない方法は、とても簡単なので)

 たとえば熱めの風呂に入って水を浴びたり、なるべく自分の皮膚をくまなく撫でまわすのは、毛細血管の梗塞を解消するためであったり、あるいは微細な血栓が肥大する前に固着させないためであったりする。
 もちろん、心臓と血管に掛かる負荷はそれなりにあるから、多くの人はこんなことはしないだろうし、僕も勧めたりはしない。

 それでもこれらは、僕の体験の中で、僕の体調維持に有用である。

>>>

 肉体的、あるいは心理的アイデンティティについて、ヒトはアツくなりがちだ。
 過激なヒトであれば、少数派にあっては「我々を理解し受け入れろ」と声高に叫ぶし、多数派にあってはそれを嘲笑し、差別する。

 ただ、いずれにも穏健派がいて、静かに互いを尊重しながら、日々を過ごしている。
 少なくとも僕は、世の中がそういうものだと思っている。

>>>

 おそらくADHDや発達障害、ジェンダー問題のように、HSPもいつかは普通の、当たり前のものになっていくか、世俗に埋没してゆくのではないだろうか。
 少なくとも、そう願っている。

 今は過渡期だから、みんな目新しくて、それに該当する人は自分の中に発見した要素に興奮しているのだろう。

 僕にはこれらが、血液型のような扱いになればいいと思っている。
「え、なに猫クンHSPなの? じゃ、過敏で神経質なんだねぇ。こちょこちょしちゃうぞぉ!」みたいな。そんなふうにガールにかまって欲しい、という願望があるわけではないと思うが、されるのが嫌だと言うつもりはない。むしろしてもらってもいい。いいえしてくださいお願いします。

>>>

 結線を終えて試運転したところ、問題がなさそうである。
 しかしwebで確認していたら、どうやらチェーンソウはオイルを入れて使うものらしい。
 今度はオイルを買いに行くとして、いったいいつになったら稼働できるのだろう。


今日の猫。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~

// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -BlueCat-

[InterMethod]
  -Blood-Darkness-Diary-Ecology-Form-Interface-Life-Link-Mechanics-Recollect-

[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Reactor-

[Object]
  -Tool-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
  -暗闇エトランジェ-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200622
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
虚のもの、実のもの。
SUBTITLE:
~ Fat in your body is burned. ~
Written by BlueCat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::いかなる政体を持つ国家であろうと、それゆえ、国家を維持していこうと望む者は、自国民を武装させ、自国民による軍隊を持たねばならない。
 これは、歴史上、力を使って大きな効果をあげたすべての人に、共通して見られる特色である。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 最近、仕事を請けるとき、タダで引き受けている。
 まさかこれが経済という概念に対する復讐であるとは、誰も気が付かないであろう。
 僕にとっての復讐とは、目立たず、気付かれず、いつの間にか根底から外堀からなにもかも覆っている状態を作ることだ。
 何が成されたかが肝要なので、誰がしたかなんて関係がない。だから、僕が何かをしなくてもよい。

 復讐という言葉を使っているからといって、誰かを呪ったり殺める必要はない。
 憎悪はそれなりに必要だけれど、大事なことは計画や理想、理念である。
 理想のない復讐は空しい。計画のない復讐は成功しない。
 けれども夢想する未来があるなら、そこに向かって人は進むことができる。
 どんな場所だっていい、どんなに荒唐無稽な理想でもいい。
 アヤしいセミナーみたいになってしまうかもしれないが、僕はそんなふうに、理想に向かってのんびりぼんやり生きている。

 ちなみに、僕は理想を持たず、計画性がないとよく弟子に叱られる。
 飛行機旅に重い荷物は要らない、というのが僕の信条ではあるから、間違ってはいない。

>>>

 僕は実(じつ)としての経済についてを、良いものとして評価している。
 しかし経済は本来的に概念であり、それは貨幣によって暫定的なカタチを持つ。
 キャッシュレス化によって、貨幣はカタチを失いつつあるのかもしれないが、同時に経済の本来の姿に近づこうとしているのだろう。僕は現金主義だけれど。

 ときどきwebニュースで「実業家の○○氏が」なんてあったりするが「実業家」なんて肩書きは、若すぎて何だか分からなかったことが非常にリアルに胡散臭く感じてしまうこの頃だったりします。お歳を召されましたねぇ。
 実業と虚業の狭間の、どちらかというと虚業寄りに金融業があるようにも感じるわけで、これをもって経済が概念的で本来的に胡散臭いものであることの証明に代えさせていただきたいと思います。(発想が乱暴)
 要は実業家という言葉自体がすでに虚ろで胡散臭いということ。

 そんな私は最近、名刺を作ろうかと真剣に悩んでいます。
 職業は「思想家」。猫なのに、詩人にして思想家にして技術者だなんてカッコイイんじゃないのか、ただそれだけの理由ですが。

>>>

 人は基本的に、虚のものを嫌う。
 当然だろう、虚のものとは実在しないものであり、ために役に立たない、実用をなさないものであり、ときに他者を陥れ、欺き、詐取するためにさえ使われる。
 ゆえ当然に、実のものを人は好む。
 概念的にも、虚のものが、後ろ暗いものであるのに対して、実のものは明るく堅実である。

 しかし実のものとて、盲信していれば単なる宗教と変わらない。
 宗教の定義は手元の辞典によると、以下のように定義されている。

神仏などを信じて安らぎを得ようとする心のはたらき。また,神仏の教え。
経験的・合理的に理解し制御することのできないような現象や存在に対し,積極的な意味と価値を与えようとする信念・行動・制度の体系。

 現代においては宗教も即物的になって、実を伴い、経済で交換されるのが必然のようだ。
 だから科学も、経済も、法律も、倫理も、道徳も、宗教的だと僕は揶揄する。
 いや揶揄などではない。事実それを信仰して、崇拝している人たちは少なくない。いや多い。それどころか全員そうだろ白状しろ(ばぁん!)(机を叩く音)

 多くの人が思考することをやめ、検証することなどせず、無条件に礼賛するようになれば、それがこの国では宗教だ。
 だからこの国では、宗教が嫌われることになった。
 思考することをやめ、検証することを非難し、無条件に礼賛しない者を排斥するようなありようは、不誠実でファシスティックだから、ということだろう。
 しかし本来の宗教のその多くは、信念が必要で、意味と価値を見いだす行動の中には思考と検証が必須で、ために無条件に礼賛するものだけに門戸を開くような制度をよしとしない、とても哲学的なものだ。
 つまり宗教が悪いのではなく、排他的に盲信してゆくアタマワルさが悪いのである。
 無知が罪なのではない、考えないことが罪なのだ。
 だから結局、宗教嫌いという信仰にどっぷり浸かっている人もいる。
 僕はまぁ、自由なイキモノなので、猫の神様以外はどうでもよいのですが。

 それにしても思考せず、検証せず、批判者を排斥するのは、日本の国民性か、あるいは人間の特性か、あるいは生命の本質か、もしくは何者かの誘導によるものなのだろうか。

 考えもせず、検証もせず、排他を繰り返せば、それは虚になる。
 実があることを盲信し、実がなくなることを確認せず、虚が混じることを疑わない集団は、あっという間に誰かにとって都合のよい装置になってしまう。
 歴史にいくつも悲劇があるではないか。
 なぜ歴史を学んでおいて、歴史からは学ばないのだろう。
 それが人間だというのなら、はぁ左様ですか、としか答えようがない。
 人間やめて猫になっておいてよかった、と安堵する場面だろうか。

 本来的に人間が嫌っていたはずの虚なるものが、実なるものであると盲信させられるうちに、実になるのである。
 だから赤信号はみんなで渡れば怖くないし、大々的な宣伝を行えば経済が動いてもいた。

 しかしいずれも、不誠実ではないだろうか。

 食品はまだしも、薬剤や洗剤などの成分表示をきちんと確認する人を、僕はあまり知らない。
(僕はかなりまじまじと見るが)
 たとえばお風呂の洗剤と食器洗い洗剤とトイレの洗剤と洗濯洗剤の違いを、どれだけ知っていますか、ということ。
 知っていれば、それらを使い分ける理由はある。
 機能には原理があって、理由があるからだ。
 しかし機能や原理を知らなければ、どれを兼用したところで、その人は気づかない可能性がある。
 だから使い分ける理由を、持っていないことになる。

 原理を知らず、理由もないのに、なんとなく「それがそれである」と思っていること、トイレはトイレ洗剤でないと綺麗にしてはいけない、ならないと盲信していることは、不誠実ではないのだろうか。

 経済現象の多くも、結果が先にあって、原理は後付けされるものがほとんどだ。
 なぜならそれは人間の行為であり、集団によって形成される現象だからだ。
 それなのに原理が先にあって、それを理由に、結果を導けると思っている馬鹿がいる。

 それはたとえるならば、競馬などで「この馬が統計的により先頭に立つ(勝率が高い/配当倍率が低い)からこの馬に賭ける」というのと同じくらい、現実的で馬鹿げている。
 物価を上げれば経済が回るなんていうのは「漏斗を使えばバケツからペットボトルに水を移せるのだから、そのまま上下を逆さにすれば、ペットボトルの水をバケツに移せる」というのと同じくらい乱暴で馬鹿げているということ。ペットボトルから直接注げよ阿呆か。

 現象から原理を憶測し、検証もなく、批判も受け容れずに強行するのは、つまり狂信的であるということだ。

 特に政治を批判するつもりはないが、経済という虚のものは、そのくらい、実のものとして社会に浸透しているということ。
 人々の多くはそれを「経験的・合理的に理解し制御することのでき」ないまま、にもかかわらず経済に対して相も変わらず「積極的な意味と価値を与えようと」躍起になっている。そういう体系が、この社会を構成している。
 みんなも信じているでしょう、お財布の中の貨幣を。
 だからこの世界は経済という共通の宗教を崇拝していて、その中には考えもせず、検証もせず、排他的に盲信する人間がいるのだ。
 そしてそういう人間がこの国では多数派になっている。

 さらにいえば、僕は無条件に少数派に立ち位置を取ろうとするから、経済を盲信する行為を批判するのである。

>>>

 ゆえに僕は経済に反旗を翻しているようには一切見せず、復讐を果たしてゆく。
 仕事をタダでこなすことは、誰かからすれば「馬鹿げたこと」であり「損なこと」であり「無駄なこと」である。
 申し訳ない、頼めない、という人もいるから、そういう人は、好きなように僕に何かを与えればいいし、それが貨幣であったところで僕は文句を言わない。
 ただ「経済ありきの人間の存在」を僕は疑っていて、もしも人間が「経済ありき」の存在だと定義されているなら、それには反対したいのだ。人間は人間であって、現金輸送車でもなければ財布でも金庫でもない。

 経済が僕に値段を付けることを僕が否定することによって、人は僕を経済で動かせなくなる。
 僕は経済から引きはがされて、その人と僕との関係が残って浮かび上がる。
 そうして初めて、人は、人との関係や経済の姿をそれぞれ独立したモノとして認識できるようになるのではないだろうか。
 すると虚に肥大した経済は、ようやく実を取り戻すことになる。

 それに「僕を経済以外で使う」ことは、経済至上主義者にとって、非常にありがたいものである。タダで労働力や知識が手に入る。
 そして僕は、関係性を手に入れる。
 経済でしか動けない人間は関係性を使えない(コネクションの問題ではなく、忠義の問題である)から、僕は僕の気分でその労働を放棄できるだけの関係性を手に入れる。
 経済で動かない人間を動かすためには、もう、紙幣を積んでも通用しない。
 ために、少なくとも僕の周囲で経済はその価値を失う。
 僕にとってはそれが、僕という者を経済から引き剥がす手段であり、経済を根底から否定する価値観の提示になる。

 もちろん、もちろん。
 僕は経済を憎んでいるのではない。
 人間を経済と癒着させて、正体の分からないイキモノにさせてしまうメカニズムを憎悪しているのだ。

 経済から自分を引き剥がして周りを見るがいい。
 世にいる多くのオカネモチは、ただお金を持っているだけであって、名士とも君子とも限らないことが分かってくる。
 もちろん中には本当に人間として上品で、素晴らしいと思える、後塵を拝したいと思える人もいる。
 またお金のない人たちは、たかだかお金がないくらいのことで萎縮する必要などないということも当然に分かるし、そうした人の中に君子が埋もれている可能性だって充分考えられる。人は最初から君子として生まれたりはしないからだ。
 自分が経済によって使われる人間であるのか、人間に依頼されて経済が発生する人間であるのか、そういった立ち位置も決められるだろう。

 経済的にいえば、薄利多売の競争をするのは悪業だと僕は考えている。
 その上で僕は、僕が経済から切り離されるだけの自由と経済を必要として、今の位置に立っている。
(結果として無職だけどな!)

>>>

今日の猫:「なんでやねん!」

>>>

 人間と経済が渾然一体となることは、人間がモノや現象や数値として扱われるということだ。
 しかもそれを扱うのは、必然に人間なのだ。
 そうされることを許せるという人は、経済に毒されているのだろう。
 もちろん誰が経済を崇拝しようとかまわない。
 僕はそれを尊重する。
 経済そのものは愛情と同じくらい、人間の関係や感情に寄り添ったモノのはずだ。
 だから僕は、本来的な経済は好ましいものだと思っている。
 誰かに感謝したり、喜びを伝えたり、心配していて力になりたい想いをカタチにできるのは経済の力のひとつだ。
 
 だから、僕は経済を崇拝しない。
 経済と癒着したイキモノも、イキモノと癒着した経済も、信じない。
 僕は経済と人間が癒着したイキモノを許さない。
 虚に肥え太るメカニズムがそこに見えたなら、僕は復讐を始めるだろう。
 道具が人間を超え、その上人間を支配すべきではないと、僕は思っているから。
 ましてそれが、一部の人間の私利私欲のためだとしたら、誰がそれを許そうか。

 真面目に語ってしまえばしまうほど、きっと無謀な抵抗に映るだろう。
 いかんせん多勢に無勢で、非常識で、荒唐無稽で、つまりは虚のものだ。非現実的だ。
 だから僕は、基本的に、誰にもこんな絵空事を言わない。
 絵空事、虚言、妄信、それこそが私の心に巣食っていると誰かが嗤ったとして、共に笑うだろう。
 みんな経済に支配されているから。
 実と信じる経済が、そこにいるから。
 誰もこんな復讐を理解しないだろうから。
 そして人間を信じているから。

 だから僕は、のんびりぼんやり、今日も僕を生きている。
 暗闇でひっそりと、復讐を誓いながら。




 



// ----- >>* Escort Division *<< //


::金銭で傭(やと)うことによって成り立つ傭兵(ようへい)制度が、なぜ役立たないか、の問題だが、その理由は、この種の兵士たちを掌握できる基盤が、支払われる給金以外にないというところにある。
 これでは、彼らの忠誠を期待するには少なすぎる。彼らがその程度のことで、傭い主のために死までいとわないほど働くと期待するほうが、甘いのだ。
 だから、指揮官に心酔し、その下で敵に勇敢に立ち向かうほどの戦闘精神は自前の兵士にしか期待できない。




// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
 文頭文末の引用は、

「第一部 君主篇」(p.130)
 From
「マキアヴェッリ語録」
(著作:塩野 七生 / 発行:新潮文庫)

 によりました。

なお、引用文中のルビ文字は『()小括弧』にて記述しています。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-青猫α-/-赤猫-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Chaos-Derailleur-Diary-Ecology-Engineering-Interface-Kidding-Recollect-Stand_Alone-Technology-

[Module]
  -Condencer-Generator-JunctionBox-Transistor-

[Object]
  -Camouflage-Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-夢見の猫の額の奥に-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200627
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
お近付きのしるしはありません。
SUBTITLE:
~ Its mine is mine. ~
Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 ひと月ほど前からうすうす感じてはいたのだけれど、食欲不調を起こしているらしい。
 味覚や嗅覚はそれなりにあるので、何かを食べれば味がするし、消化することで身体が疲れるから、体調のリズムも生まれる。
 それでも空腹を感じないし、満腹感もない。

 1日1回から2回、食事をする。
 料理を作るのは好きだ。
 もっともこの季節はうっかりしていて、作ったものが無駄になることもある。

 空腹感は主に、血糖値低下による注意力散漫や、軽い貧血、手足の痺れや体温の低下で計っている。
 決まった時間で食事をしてもよいのだけれど、日ごとの消費カロリィは運動量などによって異なるし、頭だけ使っている日は糖分だけでも問題がない。いかんせん、僕の燃料効率はハイブリッド自動車よりも優れている。
 随分前から、満腹感も感じなくなっていて、ひどい膨満感や吐き気が発生するまで食事をすることもある。

 食事の回数がもともと少ないから、適切な量がどれくらいなのか計りにくい。
 体調によって、少し食べたらもう食べたくなくなることもあるし、大量に食べて膨満感に苦しみながらももっと食べたい(咀嚼したい、何らかの味を感覚したい、何かを吸収したい)欲求が消えないこともある。

 定期的に、身体を撫ぜる必要があるのはこのためだ。
 一般的な日本人はスキンシップが少ないらしいが、僕はもともとスキンシップを多く必要とするようで、皮膚接触の信号は他の感覚の自律の役に立っている。
 たとえば睡眠時間の安定。たとえば食欲の正常な感覚。性欲にも当然影響するのだろうし、視覚や嗅覚の劣化、毛細血管の梗塞も防いでいる気がする。
 そんな文献は見たことがないので一般的ではないのだろうけれど。僕たちの(少なくとも僕の)感覚は、それぞれがそれぞれ、感覚器や身体機能の自律や健常性を保つために相関的に役立っている。
 昔から「ガールに背中を撫でてもらわないと」と書くことがあるが、つまりはそういうことである。
 ただ、僕は恥ずかしがり屋なので、みだりに人に肌を見せないし、触れさせもしない。
 表皮、筋繊維の境目、骨と肉のあいだ、骨の表面、可動接合部、脂肪の向こう側。
 過敏な触覚に、みだりに触れられるのは、だからはばかられる。

 いずれにしても日々、感覚は希薄になり、やがて次々と消失し、何も感じなくなる。
 無感覚は、虚しささえも呑み込んで、この身体をただのオブジェに変えてゆく。
 無感覚に身を委ねて眠っていると、僕はやがて餓死してしまうので、だから食事をする。

>>>

 僕らは感覚を、能動的に感じている。
 機械ではないから、感じようとしたものを、感じようとしたように感じることができる。
 だから、補正能力のない旧来のカメラが捉える夜景は、肉眼で捉えるそれより鈍くくすんでいるし、テープレコーダは人の声に温度を感じたりしない。
 味覚も、本来の味よりも記憶に補正されて感覚されているし、そのとき身体が求めているものによって、如実に感覚を変える。だから体調が悪いときに、消化能力を必要とする食品は、ときどきひどい味覚をもたらす。
 触覚も、十全に全身をスキャンし続けることはできないから、気が付いたら蚊に刺されていたり、アリに上られていたりする。
 受動的に、どうしようもなく感覚するもののほうが、もしかしたら少ないのだろう。

 つまり僕たちは、感覚を、自らの意思によって、選択的な能動によって感覚している。

 同様に感情も、能動的に感じている。
 受動的に、どうしようもなく、十全に感覚するような感情も、同様に少ないのだろう。
 僕たちは、選択的に感覚し、選択的に感情する。

 他者によって、感覚させられていることも、感情させられることも、本来的にはないのだ。

 そうした意味において、たとえば自身の中に湧き起こる不快感を、短絡的に誰か(あるいは何か)の責任にして吊るし上げようとしたりする人間は、客観的な観察力が欠如しているといえる。できればお近付きになりたくないタイプだ。
 少なくとも僕は、この手の独善的な人間によって、何度か、ひどい経験をしている。

>>>

(しゅたっ! としている今日の猫:ソックス)

>>>

 客観という主観的感覚は、ほとんど先天的な素養があるのではないかと時々思う。
 知識の多さも、頭の回転の速さも、機転もさほど影響しない。
 自身と他者に対する冷静な(あるいは公正な)洞察によって為されるもののように感じる。

 それはどちらかといえば動物的な本能に近い気もするのだが、人間以外の動物のほとんどは、客観性を持たないように観察される。
 詳細は省くが、おそらく共通言語がないためだろう。

 共通言語は、便利な一方、情報を偽ることもできる。
 論理を構成するときにも、多くは言語を使う人が多いだろう(ベン図や論理式を使えば、もっとシンプルな気がするが)。
 このとき、言語の揺らぎによって論理が狂うこともある。

 けれども感情や主観によって論理を構築していると、答えが自分の中に先にあって、それに対して理論補強する作用を思考回路はもたらしがちである。

 こうした場合、出来上がる理屈は主観の域を出ない。
 自分に都合の悪いことを考えたり、感じたりすることが、まずできない人も多い。

 殺人、暴行、テロ、窃盗、詐欺、その他諸々、社会的に良くないことについても、自分がそれをするなんて考えるのもおぞましい、という人がいる。
(そういう人ほど、TVのワイドショーやニュースが好きだったりする)
 起こす前提を考えなければ、予防や対策はできない。
 自分だったらどうするだろう、そもそもなぜそんなことをしたくなるのだろう、と考え、合点がゆくことは対策や事後処理の上で重要である。

 アタマの中で、自分をどこまでもキレイに保ちたいと願うのは悪いことではない。
 しかし、無思慮に他人を踏み台にしつつ、その上、踏みつけた相手にまで清廉潔白な自己イメージを押し付けるに至っては、犯罪に等しいように思う。

 地に足が着いていない、とは、そういう人のことだろう。
 いい加減、他人を踏みつけにしている事実くらいは自覚してほしいものだ。

>>>

 ちなみにこういうことを書くと、読んだ人が傷つくことがある。
 私のことではないか? とドキドキするらしい。
 断っておくと、僕は、これを読んでいるあなたのことをほとんど何も知らない。
 身近には、そういうアタマオカシい人間を近づけないように気を付けているから、身近な人の話でもない。
 単に、抽象的な論理を展開しているだけで、身の回りの人や知り合いも含め、誰に不満があるわけでもない。
(不満があるときは、当人にきちんと言います)

 前述のとおり、何も知らない人のことだとしても、自己イメージを完結するための踏み台にすることを僕は嫌う。
 それでも自分が何か非難されているように感じる人がいるとすれば、その人自身の中に、清廉潔白な自己イメージがあって、それを壊されることに怯えているのだろう。

 大丈夫、こわくないよ。
 僕は噛み付いたりしないから。
 ただ、お近付きにはなりたくない。








// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Chaos-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Life-Mechanics-

[Module]
  -Condencer-Connector-Convertor-Generator-Transistor-

[Object]
  ----
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-ひとになったゆめをみる-:-暗闇エトランジェ-:-夢見の猫の額の奥に-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200727
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
誕生日を記憶したくない。あと、電灯の話。
Written by Bluecat

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 気が付いたら今年も誕生日を過ぎていた。
 もっとも今年は妹と姉からお祝いメールをもらったので、忘れなかったが。

 年によっては、それぞれ忙しかったりで、誕生日メールが届かないこともある。
 もっとも返事に困るので、来なくても構わないのではあるが。

 ちなみに僕は、妹以外では一部の恋人の誕生日をかろうじて記憶しているが、家族でない人間の誕生日は記憶するものではないと思っている。
 誕生日というのは4桁の数字で、自分の誕生日を起点に相対指標でも記憶できる。
 たとえば僕の誕生日が0715であり、「+0/+6」で「0721」といった具合に。

 数字というのは記憶するのに必要な領域がとても小さいので、忘れるのに苦労する。
 だから最初から覚えないことにしていて、恋人になる人には「誕生日を覚えられない」と説明している。

 もちろん誕生日を覚えていても、カレンダーを見てすぐに(今日は〇〇さんの誕生日だ)とは思わない。
 今日が何月何日であるかなんて、僕にとってはゴミの日の確認と、予定の喚起にしか使われない。

 にもかかわらず、妹以外に少なくとも8人くらい、誕生日を記憶している。
 誰のものか定かではないものも多いので、8件と呼んだほうがいいかもしれない。
 誰のものかさえ分からない数字を、いつまで覚えていたところで、なんの役にも立たない。

 もちろん恋人になるとき、彼女たちは言うのだ。
「ずっと一緒だよ!絶対に離れないもの。だから私を記憶して。誕生日も覚えて、顔も記憶して」と。
 しかし実際のところ、変な記憶の残滓だけが、雨漏りをしている天井のシミのように残っているだけである。
 できることなら離れて欲しいし、消えて欲しい。天井板を張り替えるしかないか。

 僕にとっては、顔と名前とストーリィくらいはすぐに忘れられる。
 もともと弱い相貌失認だし、名前に興味がないから、付き合い始めて2年くらい恋人の本名を知らなかったこともある。

 たとえるなら、クローゼットから出したスーツに袖を通したところ、ポケットから、ハンカチが出てきたようなものだ。
 ハンカチであることは分かるのだ。
 僕に関連したものであることも分かる。
「で、今日、それ使うの?」

 僕のヘンテコな記憶は、このように不便である。

>>>

 太田の家には蛍光灯しかなくて、前橋のアパートも基本的に蛍光灯しかない。
 とうとう耐えられなくなって、叔母の家の照明を変えた。
 足利市から引っ越したこの5年間ほど、僕はほとんど照明を使わないようにしていた。
 蛍光灯は、ひどく疲れて、神経質になって、精神的に荒んでしまうから。

 新しい照明器具は以前のように白熱球を使おうかとも思ったが、フィラメント電球型LEDにしてみた。
 ファッション的な意味合いもある。とにかく僕の感覚が騙されるなら何だっていい。

 剥き出しでは少し眩しかったので、シェードを自作することにした。
 100円ショップで半紙と針金を買って、2日ほどで作った。


 まともな真球型になどしようとは思っていなかったが、針金が柔らかめであることと、球の芯材に巻きつけるようなことをしなかったので、デタラメな造型に。
 半紙はテキトーなサイズに切って、テキトーに貼った。
 最初は隙間なく貼り付けようと思っていたのだが、隙間がある方が心地よい気がして、穴だらけになった。追加で貼り付けるのは簡単だからだ。

 かれこれひと月ほど使っているだろうか。
 蛍光灯よりはるかに気分がいいし、今のところ、情緒が不安定になることもない。

 家中の照明器具となると、まだ先になりそうではあるが、少しずつ手を加えている。
 この家は電源コンセントと電気スイッチの配置設計が致命的に無能なので、人感センサライトも増やした。

 玄関の室内灯を変えようと思ったら、こちらは電気工事が必要な気配。
 材料はそろえてあるので、時間を作って工作しようと思う。







// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Blood-Darkness-Diary-Ecology-Engineering-Eternal-Link-Memory-Stand_Alone-

[Module]
  -Condencer-Reactor-Transistor-

[Object]
  -Night-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-工場長の設計室:-ひとになったゆめをみる-



//EOF
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200706
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
あなたは「買える人間」でしょう?
SUBTITLE:
~ Are you the economy? ~
Written by BlueCat
 

// ----- >>* Lead Division *<< //
 
 
::侍は戦うものだ、という基本がある。それが、侍の価値だと教えられる。だから、戦わないことは、自らを否定することに等しい。だが、侍も人間、侍も生き物だ。動物は、けっして戦いを好まない。意地というものはない。それは、人間が教えられた道理であって、頭の中で描いているただの幻。その幻のために自分の命があると信じ、ときには、生きることよりも死を尊ぶ。
 生きるとは負け続けること、死ぬとはもう負けぬこと、という言葉がある。
 生きる死ぬはわかる。わからないのは、勝つ負けるだ。
 
 
 

// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 たまにはみんなの大好きな経済の話を。
 はっきりいえばこれはサービスであるが、誰もこんな内容は信用しないだろうし、そもそも読者は少ないので何を書こうと問題ないだろう。
 
 僕は以前に書いたとおり経済活動としては消費するくらいしかしていない。
 一般認識でいうところの投資や投機はしていないし、YouTuberでもない。無職なので経済的労働もしていない(まだ公開している文書にはないが、依頼された仕事も無償でこなしている)、相続そのものは完了していないので、相続した預貯金なんてものもない。
 米と塩を買ってささやかに暮らしている。
 だから、ホームレスのように経済から縁遠い。そういう人間の語る、白昼夢のうわごととでも思ってもらっていた方がいい。
 
>>>
 
 経済が先進国を席巻しているのは誰でも知っているとおりである。
 また、法整備が進むほど人間の命に値段を付けていることも知られているだろう。
 たとえば最低賃金というのは、労働に適応した人間の命が、労働している状況下において1時間あたりどれくらいの価格になるかについての規定である。
 バブル期以前は「人間の命に値段は付けられない」とされていたが、現在では「生活保護制度なんかやめてしまえ」という風潮である。
 つまるところ、経済価値を持たない人間は値段という価値がつかない。
 その意味において、僕は安いオトコである。1円にもならない。
 早くて安くても、ウマければモテるらしいから、そういう方面に特化するのもアリだろうか。
 
 もとより自身を「遺伝によって高額な医療費が掛かったり(そして制度によってそれが減免されたり)、重度障害を負う可能性が高い」と、子どもの頃から把握して生きてきた。
 だからどちらかといえば、社会(あるいは集団)が、そのリソース(経済については、あまりリソースとして認識したことがないが)を個体に対して過剰に浪費することには抵抗があった。
(明言したことはないかもしれないが、ために結婚や子供を作ることに抵抗があったし、この血を根絶することはちょっとした生きる上での楽しみ(あるいは目標)ではある
 だからある程度以上、生活を自立できない個体を生かすことは社会のリソースの消耗でしかない、というようにも思っている部分があった。
 
 その思想は行き過ぎれば、介護や福祉を必要とする人間を、社会に寄生する者として排斥することが、社会全体の優位性や健全性、公平性を長期的に維持するという極端なものにも行き着くだろう。
 優生保護法や、過去に介護施設であった殺傷事件なども似たような思想が根底にあるように感じている。
 
 社会が未来に先細りを感じるとき、現状の弱者は不要なものと見なされ、切り捨てられる可能性がある。
 生活保護受給に関するネットニュースなどでの否定的なコメントでは「最低限の生活をする権利」を不正に利用する人間に対する怒りや憎しみを超えて、社会的弱者が、相対的には強者である社会全体のリソースを無益に使っていることを非難している光景を見ることもある。
 
「生まれたばかりの赤ん坊が何の役に立つでしょうか」と言ったのは、ファラデーだったかフランクリンだったか、僕には曖昧なのだけれど、弱者を切り捨てることは、豊かさを失うこと、あるいは失っている状態そのものなのだろう。
 
 経済的に自立して、社会に貢献している個体以外は必要ない、というのは刹那的な経済至上主義である。
 義務教育も不要だとなりかねないし、定年を迎えたら自活できない個体は自害しろということだろう。
 幼稚園や保育園の数が足りない、あるいは教育者の就労条件が粗末なものである、にもかかわらず国家が「可能な限り人間は年齢に関係なく労働し続けましょう」としているのは、すなわち国家がすでにジリ貧なのだろうとさえ感じさせる。
 
>>>
 
 経済というものの位置づけが、変わるだろうと僕は思っている。
 仮想通貨(現在は暗号資産に名称が変わった)というものが現れたとき、現行の経済とは異なる信用の担保によっているから、現行通貨による経済を変化させるかな、とは思っていた。
 もっとも僕は端で眺めているだけなので、投機も含めて暗号資産に手出しをしたことはないが。
 ただ、結局のところ多くの人はイデオロギィより己の損得の方が好きなようで、暗号資産そのものは現行経済の掌握下になろうとしているように観察される。
 つまり本来的に現行経済という権力/勢力に対抗する目的を含んでいたはずの新興経済が、その反抗の芽を摘まれたように見える、ということである。
 
 経済は、その手続きがあらゆるものを数値化するために利便性を高め、それを利用しているはずの人間そのものの価値さえも裁量し、時に人間を支配するようになっている。
 もちろんそれは経済が悪いのではなく、経済の運用方法、位置づけが悪いのではある。
 けれども経済至上主義というのは結局、そうしないと人間が生きられないという錯覚を植え付けることによって成り立っている。お金がなくても生きていけるという発想を、僕たちは経済によって殺されている。不可能だと決めつけている。
 頭のイカレた恋人が「あなたは私がいなければ生きられない」という状況を作るためにせっせと環境を整備するのにも似ている。斧で脚を切らないでください。
 
 人間同士がやりとりするための道具であり、味方であったはずの経済が、いつの間にか、経済をより多く持つ者が経済をより持たない者を支配するための道具になってしまった。
 だから大きな資産を持つものを人は羨むし、自分よりも給料が安い人間を、仕事をする上で価値が低い道具だと考えるようになる。
 大きな屋敷の奴隷が、小さな屋敷の奴隷をして蔑むようなものである。
 
 人間の価値とは、時間的な将来に社会や集団にもたらしうる多様性や有益性ではなく、頭脳の中で展開される新しさや窮状を打開する勇気でもなく、つまりポケットに入っている小銭の量で決まるらしい。
 よってより多く持つ者ほど、結局のところ経済に支配されていることには変わりがない。
 それはそうだろう。経済があれば人間を支配できるのだから。
 
>>>
 
 このからくりに気が付いて、厭気がさしている人も少なくはないだろう。
 インフレになることが必然で、インフレに向かうことが適切な場面ですらインフレに向かわないのは、インフレになればなるほど、現行の経済をより多く持つ者は損失の幅が大きくなるからだ。
 あるいは人間を安く買い叩くことができなくなるから、それを恐れているようにさえ思える。
 経済の均衡を保つ機能を経済は内包しているという信仰があるが、それは経済に対する信用を担保する人間が多い場合の話だ。
 
 経済の信用を担保する人数が減れば、経済の価値(あるいは存在の影)が薄くなる。
 人と人との間で、モノやコトをバイバスするのが経済だから、人数が減れば減るほどネットワークの端末が減って、端末間のやりとりが減って、つまりバイパスする意味が失われてゆく。
 人数が最後の一人になれば、経済は全くその価値(あるいは意味)を失う。
 人は点で、それを結ぶ関係性が線になって、経済がそこに乗っている。
 電信柱が電線を結んで、電気が流れるように。
 
 それがやがて人と人を結ぶ経済に、後付けの関係性が乗っているように昨今は認識できる。
 ビジネス、コマーシャルの世界がそれである。
 経済が先にあって、人が末端に形成される、そう錯覚される。
 家電製品はプラグを繋げば動く。
 末端のモノやコトだけ見ているぶんには、電線も電柱も必要のないものだ。
 電気を使う人間にとっては、電気があれば、末端の機械が自分の不満を満たせばそれでいいのだ。
 なに諸君の居住区では電柱が地中化されている?
 つまりそれだけ「人間の存在がなくても良いもの」になっていることの象徴ではないのか。
 
 少なくとも日本の人口は今後も減少を続ける。当然だろう。
 この国は、人間の顔に値段が書いてあるのだ。
「人間は金で買える」という信仰の元では、人間は足りないときに金で買えばいいモノになるのだから。
 金で買える人間は、電車にやっとで乗せたベビーカーの中で泣いたりしないし、保育園に集まってみんなで遊んだり騒いだりする必要がないし、レストランでおむつを交換する必要がない。
 金を作らず金で買えない人間は価値がないのと同じだから、目障りだという人間が、すでにいるのだ。
 
 人間が少なくなって、経済の信用がその担保を弱めているにもかかわらず、人間はまだ人間よりも経済を信じている。
 人間が減少を続けるのは道理だろう。
 人間自身が、すでに、人間よりも別のもののほうが有用で、必要だと言っているのだから。
 
 障害者だろうが老人だろうが赤子だろうが関係はない。買えない人間には価値がない。
 経済を持つものが買える側の人間で、かつ、経済で何かを買える人間だけが人間である、と見なしているのが経済至上主義社会だろう。誰かに買われることがなく、何かを買うことのない人間は、存在しないのと同じであり罪人だとみなされる。
 だから無職の者や無銭の者を、社会は蔑む。人間よりも経済がエライからだ。
 電信柱より電気がエライのだ。当然だろう。電気を流すための電線で、そのための電柱なのだから。
 
 そういう人間たちが、社会を構成して、経済を動かして、社会を操舵しているように僕には観察される。
 経済の位置づけが今のままなら、国家が滅ぶのは必然だ。
 つまり人間の位置づけが今のままなら、本来の柔軟な文化や精神を持つ日本人というものは存在しなくなるだろう。
 
 僕がここに書いたことを極論だと思う人もいるだろう。
 でも表を歩いてすれ違う、多くの人が(買う側か買われる側かはともかく)「買える人間」である。
 僕たちは知っているのに、目を閉じている。
 だから札束で頬を叩く人はいつまでもそのまま、経済に使われている。
 
 電気や通信インフラがなければアイデンティティの存続さえままならないなら、それは電気や通信に支配されているのだ。
 経済がなければ社会が存続しないなら、経済に関与しない人間は不要なのだ。
 
 けれどもそうした必要必須のものから外れたところに、芸術があり、基礎研究や先進技術がある。
 それらの多くは、本来的には「お金にならない」ものだ。
 それでも誰かの心に深みや豊かさを与え、社会を牽引する応用科学の芽になるのは、そうしたものではないだろうか。
 だから古来、貴族は芸術家のパトロンとなり、技術者は製品が社会を満たすことで賞賛を受ける。
 そうした「金にならないモノ」や「現状に相反するモノ」を受け容れ、育てる素養こそが社会における文化であり、文明だろう。
 風刺も批判も抹殺され、ルール違反も狂気も画一的に矯正されてゆく清浄な世界は、だからファシスティックで禍々しい。
 
 人間の根底にある情動や、理由の分からない好奇心、何かが素敵な何かに繋がっているという予感。
 外から与えられ、規定されるものではなく、内から湧き上がる「ナニカ」が人間の正体であろう。
 少なくとも人とは経済をバイパスするために組み立てられたデバイスなどではない。
 
 よって経済と人間とを切り分ける思考を、社会は再び手に入れるだろう。
 それが合理であり、理想的なことだからだ。
 人間が人間の価値を取り戻さなければ、人間は経済によって、最後のひとりまで買い取られるからだ。
 人間を貪るものを、古来、悪魔と人は呼ぶ。
 刈られた魂がどこに行き、誰が呑み込んでいるのか、人は知っているのだろうか。
 
>>>
 
 僕はこれまで「現実を見なさい」というお説教を受けたことがたびたびある。
 10代の頃もあったし20代の頃もあった、30代になってもまだあった。
 まるでダメ人間の典型のようである。猫だからいいもん。
 
 どうも彼ら/彼女たちは、現実がよほど素晴らしいものだと教育されていたらしい。
 まぁだいたいは現実世界で現実に生きている現実的な現実の人間だったように記憶している。
 もちろん僕の目にだって、相応に現実が見えているはずである。
 それでも僕が現実を見ていないように見えるのだとすれば、それは僕にとって現実よりも先に見るべきもの、価値のあるものが僕の中にあったからだろう。
 現実ばかりを見ていても、結局、現状がよりよいものにはならないのだから。
 それにここでいう「現実」を「経済」に置き換えても、同様のことがいえる。
 
 僕は現実を見ない。経済も見ない。
 それらはすべて実体のない影だ。
 エナジィがナニカを運動させたときに見える残像だ。
 そんなものを見ていても、もうそこにはない。
 見えない先に、もうそれはあるのだから。
 
 だから僕は思うのだ。
 みんないい加減に理想を見てはいかがでしょうか。と。
 
 
 
 
 
 
 

// ----- >>* Escort Division *<< //
 
 
::勝つことで安らぎを失う、とカシュウが言っていた。戦に勝った者は、これまで以上に守りを固め、敵の反撃に怯えなければならない。負けた者には、この心配がない。いずれが得をしたことになるのか、と問われた。
 そもそも、戦というのは、勝つことを望んで向かうものではないのですか、ときき返すと、カシュウは首をふった。多くの戦は、戦わないことを避けたい、ただそれだけのために戦ったのだと。
 
 
 

// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~
文頭文末の引用は、
 
「episode 3: Beads string」(p.222-223)
 From
「The Skull Breaker」
(著作:森 博嗣 / 発行:中央公論新社)
 
 によりました。
 
 
 
 
 

// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -青猫α-/-BlueCat-
 
[InterMethod]
  -Algorithm-Ecology-Engineering-Mechanics-Style-Technology-
 
[Module]
  -Condencer-Convertor-Generator-JunctionBox-Transistor-
 
[Object]
  -Human-Koban-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-青猫のひとりごと-:-夢見の猫の額の奥に-
 
 
 
//EOF
 あるブログで、コールスローサラダの記事があった。


 僕はコールスローサラダをよく知らない。
 ファストフードの、付け合わせに、みじんにされた野菜くずのマヨネーズ和えのようなサラダがあって、それがコールスローと呼ばれていて、なかなか美味しい、ということをかつて、恋人(27人のうちの23番目くらい)に教えてもらった。
 前橋でよく行っていた店の、春メニューにもざく切り(けっこう大きめに切られた)コールスローがあった。
 マヨネーズと酢と胡椒、コーンか砂糖で甘みを出して物足りなければめんつゆでも掛けておけばいいだろうと推測した(我が家に顆粒状うまみ調味料というものはない)。

 時を同じくして、高野豆腐の煮物がちょっとしたブームである。主に俺の中で。
 ためにテキトーな野菜と高野豆腐の煮物、およびテキトーなコールスローを、かれこれ4日ほど、食べている。

 最初の頃はいまひとつな味だったが、野菜の水分を利用すればいいのだと気づいて、塩を少し足した。ライトなピクルスにマヨネーズを加える感じでイメージして。あと、甘さが大事だから、カッコつけないで砂糖を加える。僕は他人が驚くくらい甘みに鈍感である。

 このところ、諸般の事情で空腹感と満腹感を喪失している。
 全く感じないので、低血糖を認識したら食べて、膨満感で食べ止んでいる。
 理由は理解しているつもりなので、現象が収まったら、それについて何か書くかもしれないし、何も書かないかもしれない。

 ちょうど2年ほど前にも、この時期に、呪われたようにキャベツを食べあさっていた記録を読む。
 春でも冬でもなく、夏のキャベツ。
 トマトやキュウリやオクラの走りを食しては、触発されるように、物足りないと言わんばかりに、夏キャベツ。



 ただ。
 僕は黒酢か、なんちゃってバルサミコ酢しか持っていないので、白くて綺麗なコールスローは、永遠にできない。
 醤油マヨネーズのような、マダムの矯正下着のような、ベージュに染まった野菜くずを眺めて、少し呆れたように微笑む。
 パプリカ、ピーマン、コーン、オリーブ、ニンジン、そして夏キャベツ。

 大きなボウルに作ったそれを、晩と朝とで食べ尽くす。
(高野豆腐以外は野菜か酒なので、目覚めると栄養偏向を体感するから、そういう朝は軽く食べる)

 夏に生まれたのに、夏が好きになれない。
 この「何人目かの僕」は、きっと冬に生まれたのだろう。
 母上のことをよく知っている僕の記憶が、ときどき僕を困らせる。
 価値観セットを人格にまで起こしていないからなんとも言えないけれど、彼は多分、夏が嫌いではないのだろう、そんな気がする。

// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200620
// NOTE:
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
パラレルかくれんぼの鬼は、君を見つけることがない。
SUBTITLE:
~ Parallel paralyzed Palladium. ~
Written by 銀猫


// ----- >>* Lead Division *<< //


::ねえ渡。僕は宮園さんがとても好きだよ。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 たくさんの本を読む理由は、何度も何度も何度も何度も読み返すことのできる、たった1冊の本を探すためだ。
 だから、1冊目で、そういう本に出会えた人は幸せであろう。
 そして、100冊読んでもまだ見つからない人もまた、幸せであろう。

 あるいは友人や恋人ならどうだろう。
 死ぬまで一緒にいられる誰かを、生きている間に見つけられる人は幸せだろう。
 100人友達ができて、100人恋人ができて、そのぶんの別れや痛みを抱えて孤独に死ぬのもまた、幸せなことだろう。
(基本的な倫理観に欠け、さらに人見知りで引きこもりを自称している生命体がこれを書いている)
 
 あるいは、自分はどうだろう。
 自分は、自分を一度しか生きられないだろうけれど。
 一生のあいだに自分を何度も、あるいは自分以外をも何度となく。
 生きられたら楽しいだろう。
 何度も自分を繰り返したいと思える自分ならなおさら。

>>>

 そんなことはできないと思っている人はたくさんいる。
 たとえばゴキブリを嫌いな自分しか知らない人は、ゴキブリを好きな自分を知らない。好きになろうともしない。

 たくさんを、並行して生きていると、すべて、じつのところどうでもよいものの集積のようにも思えてくる。
 たくさんの自分というのは、突き詰めれば、誰でもあるということでもあり、誰でもないということでもあり、それは自分などないということでもある。
 たくさんの自分でさえ自分でないなら、単一の自分が自分であろうはずもない。
 その矮小こそが、自分である。
 自分と呼ばれるもの、自我の本質だろう。

 僕らは自分こそが自分であると思い込んでいるわりに、なにが自分というものの必須要素であるかを知らないし、理解もしない。しかもたいていそのまま死ぬ。
「自分は、自分が自分だと感じるから自分だ」というのは、「AはAだからAだ」というのと同じで、なにも説明していない。
 それが愚かだとか、悪いということではない。
 ただ、自分が自分であることを証明するのは、じつのところ簡単ではないようだということである。

>>>

 僕は並列して、自分を失ってゆく。
 失われゆく並列化された僕は、そして僕ですらなくなってゆく。

 自我を失うことなく、より強固に己という意識を強めてゆく人たちを見て、だから僕は「なんて欲のない人たちなのだろう」と、皮肉でなしに思う。考える。

 たったひとりの自分でいいだなんて。
 たった1回の経験でこと足りるなんて。
 たった1つの価値観でいいだなんて。
 たったひとつの答えで満足できるなんて。
 ただ一方向の感情でいいだなんて。
 単なる一方的な視点でいいなんて。
 ほんのわずかな他人でこと足りるなんて。
 昨日とおなじ自分で飽きないなんて。
 朝と昼と夜の食事が同じだと、飽きたり、場合によっては文句を言う人たちなのに。
 朝とおなじ自分でいいだなんて。

 なんて謙虚で、なんて無欲なのだろう。

>>>

 並行して、たくさんの僕が、また僕に飽きてしまう。
「もういいんじゃない?」

 それはさながらかくれんぼのようだ。
「もういいかい?」
「まーだだよ」

 本当に?

 本当は、もういいんじゃないの?

 隠れた子たちは、もう誰も。
 どこにもいなくなっているのではないの?








// ----- >>* Escort Division *<< //


::ばか。知ってるよ。
::……うん。



// ----- >>* List of Cite Division *<< //
[出典]
~ List of Cite ~


 文頭文末の引用は、
「第40話 手と手」(p.177-178)
 From
「四月は君の嘘 第10巻」(著作:新川 直司 / 発行:講談社)
 によりました。






// ----- >>* Junction Division *<< //
[NEXUS]
~ Junction Box ~
// ----- >>* Tag Division *<< //
[Engineer]
  -工場長-/-赤猫-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Blood-Chaos-Darkness-Life-Recollect-Rhythm-

[Module]
  -Convertor-Generator-

[Object]
  -Memory-
// ----- >>* Categorize Division *<< //
[Cat-Ego-Lies]
-いのちあるものたち-:-ことばの毛糸玉-



//EOF
 このところ毎日(昼寝を含め)誰と一緒に寝るかを迷う。
 姉の退院が決まったので、姉から預かっている3匹のうちの誰かにするか、レギュラのアヲにするか、アヲ以外の2匹のいずれかにするか。

 2匹以上を寝室に連れてゆくと必ず安眠を妨害されるので(遊び始めるのだ)1匹しか連れて行かないことにしている。

 また、5匹を同じ部屋にしておくと大騒ぎになることがあるため、就寝中のみ2〜3部屋で2、3匹ずつに分かれてもらっている。
 人間と同じように、徒党を組むと規律を無視したり、気が大きくなって愚行に走る者が出るようなのだ。

 さらに、きちんと躾を身に付けたはずの子が、馬鹿の子といるうちに、躾けたことを忘れたりもする。
 ああ、子育てするときに友達関係にも言及する親がいるのはこういう心理からかと納得する。

 じつに、1番の問題児(?)は、仔猫たちの母親なのではあるが……。
 一緒に寝る子と、残りの子たちの部屋分けとが、なかなかに悩ましい問題である。
 こんなことで悩んでいるのは、相当に平和な証ではあるが。
// ----- >>* Initialize Division *<< //
// TimeLine:20200619
// NOTE:神様と猫と猫のカミサマと私について。
// ----- >>* Header Division *<< //
TITLE:
見えざる手は誰のもの。
SUBTITLE:
~ Invisible handler. ~
Written by Bluecat


// ----- >>* Lead Division *<< //


::ここで日本企業が、新興市場に進出するとどうなるだろうか。繰り返しだが、インドやアフリカ諸国では「賄賂が常識」のところも多い。その環境で、現場を知らない日本の本社から「賄賂は絶対にするな」と命じても、それは現地のレジティマシーに合致せず、競争に参加すらできない。結果として政府案件を失注し、絶対に勝てるはずの裁判に敗訴し、許認可が得られずライバルにスピードで負ける、という状況に陥るのだ。




// ----- >>* Body Division *<< //
//[Body]
 目醒めると、蛙の重唱が聴こえている。
 田畑の多い地域で生まれ育った僕にとって、子供の頃でこそ入眠を妨げる耳障りな雑音であったそれは、今では柔らかな郷愁と眠りを誘う子守唄である。
 知っている人もいるかもしれないが、田畑での蛙の鳴き声というのは、いつの間にか始まって、あるときピタリと止む。
 それは、その群衆のそばを自動車(あるいは大型の生命体)が通りすぎたからなのかもしれない。その場合、彼らの演奏は一定の静寂ののち再開される。
 あるいはその日の演目が終わって、閉演の時間がやってきたときも、やはり同様の静寂が訪れて、きっと聴衆や演者たちはめいめい、帰途につくのだろう。
 あるものは自らの寝ぐらへ、あるものは新しいパートナーとの褥(しとね)へ、あるいは私のように、微睡みの水面へ。

 もっとも今日は思いのほか早寝になってしまったため(一昨日、ワークアウトの余韻が皮膚を醒ましてまったく眠れなかったのが理由である)、微睡みの水面は再び柔らかい抱擁をもって僕を受け入れてはくれず、僕は僕の猫の神様とともに起きることにした。じつに深夜の2時。

>>>

 冷蔵庫のフレッシュライムとトニックウォータ、冷凍庫に眠るジンを使ってジントニックを作る。
 ジントニックはステア(要は軽く混ぜること)によってできる簡単なカクテルだが、同じ材料を使っても作り方で味が変わる。
 僕が特に好きなのは、ライムをグラスの内面を一周するように搾ってからグラスのふちをぐるりと撫でて今度は皮目をしっかりとグラスの奥に絞ってから落とし、ジンを注いで、氷を入れて、トニックウォータを注いで軽くステアするパターン。
 ライムの香りと酸味が主体の、ジュースのように飲みやすい(あるいはジンを増やしてキックをより高めた)ものにできる。

 もともとジンは大嫌いな酒だったのだが、ある時を境に好きになり、今ではロックでも楽しめるようになった。そのきっかけが、ジントニックである。

>>>

 嫌いといえば煙草も、もともとは嫌いであった。
 飲み物や飴、ガムなどの添え物なしには楽しめなかったし、味も匂いも好きになれなかった。
 愛煙家になったのは、正しい吸い方を学んでからである。
 シガレット(広く流通している紙巻き煙草)であっても、正しく加湿し、正しく着火し、正しく火の温度を保って味わえば、同じ煙草でもまるで別物のような味と香りをもたらしてくれる。
 このあたりも、カクテルに似ているだろう。
 シンプルなものほど奥が深いから、手軽に味わおうとして雑に扱えば、その粗雑さはそのまま自分に返ってくる。

 人間もかようにシンプルなありようを体現したいと思うものだが、僕のようなキメラは魑魅魍魎としてしか扱われない。シンプルになりたいなどとはおこがましい望みなのだろう。

>>>

 煙草と酒に共通しているのは、人間を酔わせることである。
 しかしそれ以外にも人間を酔わせるものはあり、たいていある程度以上には毒である。
 権力や経済、美や知識。
 異性なども僕にとっては十分に強い毒で、酔わされることがある。
 あるいは法的に禁止されている薬物も、きっと似たような作用は持っているだろう。
 つまるところ、毒に対して酔ってしまうメカニズムが、僕らには備わっているといえる。常用し、依存するようにもなれば中毒である。人間をやめる前に、己を律したいところだ。
 もっとも人間をやめてしまったイキモノがこれを書いているのだが。

>>>

 酒や煙草、さらに一部の薬物(を抽出できる原料)は、宗教と深い関わりがある。
 酒は神からの贈り物であり、神に捧げるものであり、それを作ることは神の行いであった。
 煙草は、インディアンの神聖な儀式の中で、神(正確には霊父/グレートスピリッツ/大いなる神秘、だったか)との交流のためになくてはならないものである。
 またシャーマンたちの多くは、幻覚作用を持つ植物やキノコを用いて精霊たちと 交信したといわれ、中南米の宗教では砂糖(砂糖が希少な時代の人体にとって、精製糖は濃密な薬品である)が向精神薬として機能したという記述を読んだことがある。

 これらは、法律はともかくとして「近代的な」神々には忌み嫌われ、禁止されている。
 カフェインも向精神薬であるから、何らかの宗教では儀式に使われたであろうし、一部の「近代的な」神々によって禁止されている。
(ちなみに「近代的な神々」とは、WHOのことではない)(皮肉です)

 おそらく、これらの毒の酩酊状態が「人に魔を差す」からだろう。
 一部の「近代的な神々」は、異性との性交も禁止している。やはり魔が差すのだろうと推測される。酔って正常な判断を鈍らせるのかもしれない。
 魔が差した上、さらに魔を体現してしまうと、不浄になると考えられているものと想像する。
 そうした考えが行き過ぎれば、女性が不浄であるとか、女性が魔の体現のように扱われることもあっただろう。

 かくも人間は、己の欲すら外部からの圧力なしには律しきれない、弱い存在なのかもしれない。

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 僕は比較的、宗教にはフラットに接しているので、親しい人間に誘われると、宗教の行事や集会に同席することがある。
 たとえばモルモン教は、金曜の午後に英会話のレッスンがあったり、日曜の集会やクリスマスのイベントは一般人も参加できた。英会話のレッスンにいたっては無料で、しかも宗教が全然関係しない(笑)。

 他のキリスト系の宗教だと、エホバの王国だったか、その集会には参加したことがある。
 キリスト系の教会における週末の集会は、おもに聖書の勉強であり、経験上、聖書の解釈について議論することが多いようだ。これらには僕も興味深く参加した。
 文書に記された文には僕のような一般人にも意味を見出すことができて、それは信者であろうとなかろうと、知性レベルによっては特定の事象における一般解のようなものを導くことができる。たとえば「人は何も信じないよりも何かを信じていたほうが内面的に豊かに過ごせる。また内面的な豊かさは物質的な豊かさを創造することが可能だ」といったような形で。
(当然のように、この一般解は異論の余地こそあるだろうけれど、一般解たりうるだけの割合/確率的正当性を持ち、経験則だけでなく実証も容易で、想像するだけでも心地よい)

 日本だと、今のアパートの近所に禅寺があり、小冊子を無料でいただけるのでそれを読む。説法や集会があれば(少々の浄財程度で許されるなら)参加してみたいものだ。
 それ以外の日本の宗教も一般公開しているイベントはあるものの、果たして参加する価値があるかというと、個人的には時間の無駄になるとは思う。

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 ちょっとカミサマの話題からは逸れるものの、後半に言葉を(いつになく)濁してる宗教は、はっきり言えば人間を、すなわち個人を崇拝している。
 もうこの時点で相当にダメダメである。
「キリストかってそうやーん!」という人もいるかもしれない。
 でもキリスト教はまだ、ギリギリ「神様」が最初にいて、それを崇拝している。
 その神様と人間との歴史の中でキリストが出てくるだけである。
 国内の、比較的勧誘を一般の信者さんがしてくる宗教は「神が遣わした誰か」のうち「神」ではなく「誰か」が主体で、これを崇め奉っている。
 個人的にはキモチワルイ。

 しかも。歴史書がある。
 その「誰か」がいかに神(や仏)たらしめ、いかに神(や仏)の意志を体現し、いかに苦節を乗り越え、いかに人を超越せしめたかの歴史書である。

 たとえば僕は第2次世界大戦を知らない。
 いや、知識では知っているけれど、体験していない。
 だから第2次世界大戦が本当にあったかどうかについては、たとえば歴史書や映像フィルム、戦争体験者の体験談や原発ドームを見ることでしか知ることができない。
 では第1次世界大戦は?
 十字軍の遠征は?
 それが実在した事実であることを証明するのは、各国に保存された文献を含む史料のうち「一切矛盾せず完全に一致しているもの」に限られる。

 いくつかの宗教において崇め奉られることを約束された「誰か」には、にわかには信じがたい歴史が存在しているようで(私に対して実証されていないそれは「存在しており」とは表記できない)、さらには信者の解釈も議論もなく「押し付けられる教育」が存在している。
 まるでそれぞれの国の文化や教育スタイルのように、各宗教の中における「お勉強」は存在しており、この国のそれらは、ただ純然として存在することになっている教科書と(弾圧や湾曲によって闇に葬られた)歴史をただ享受し、暗記し、盲信することを余儀なくされる。
 一部の人間はその歴史が「弾圧された/されている」という概念だけで情念を燃やして盲信してしまえるようなのだけれど、科学的に検証不可能な歴史を「史実だ」と強要し広めることこそ狂信的なファシズムの走りのように僕には思える。
 少なくともそれは「科学的な歴史」などとは到底呼べないだろう。

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 宗教における建築やその技術、審美の体現は、僕に構造体としての興味を抱かせる。
 またそれらの空間に集まってくる人々は、特定のキャラクタを演じてでもいるのか清潔感があって穏やかな空気の演出に一役買っている。
 仮にそれらのすべてが偽りであり、主宰者による計算と個々の自己承認欲による演技の賜物だったとしても、自由で気ままで、ために猥雑で下品で低俗になりがちなそこいらのショッピングモールに出かけるよりは精神衛生上心地よく、穏やかにいられる。

 宗教の意味合いのひとつに、それを信奉するもののありようやふるまいの方向性を誘導する、というものがあるとするならば、僕はそれを信じることはできなくても理解することはできる。

「宗教の意味合い」を「宗教の機能」と言い換えればどうだろう。
 たとえば僕は、掃除機やその存在の意味を崇め奉ったりはしないが、掃除機の機能を理解し、その機能を信用することはできるし、そのとき掃除機は「信頼に値する」だろう。
 宗教の機能を理解し、その機能が信頼に足るものであるならば、その宗教は崇め奉る対象にはなり得なくとも、その根本の発想や思想、具現したい目標を信頼することはできる。

 各宗教家の人がいたならば申し訳ないのだけれど、僕にとっての宗教は、基本的に掃除機程度のものでしかない。
 それは周囲(あるいは少なくとも観察者とその認識)を清潔に保つ機能を持ち得て、かつ、清潔に保つことを心地よくさせる機能が求められ、その本体すら自浄作用を持つことが根本的に望ましいだろう。

 仮に、宗教の対象を権力/政治/経済/恋愛/健康/美容/ファッション/猫/科学/神/社会として考え、それを当てはめても同じ事が言えはしないだろうか。

 だから神や天国や極楽浄土を僕は信じてはいないけれど、それらを信じる(あるいは信じたい)という人間の情念は理解できるし、その情念の昇華された作用も含めての機能を考えればまあ「嘘も方便かな」と信用できる。

 崇め奉ることは妄信であり、すなわちバカでもできることだから、そういう同調圧力によって、機能を理解しない人間にも同様の結果を発揮させるという意味では役に立つだろう。
 しかし知性が人間に残っているならば、そこには疑念があるべきで、疑問に対する答えが与えられて然るべきだろう。
 機能があって、それを疑われるとき、それは試験される。
 人が試されるのではなく、神が、宗教が試されるべきなのだ。
(100年後に名言として残りそうな言い回しだな「人が試されるのではない。神が試されるのだ」なんて)

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 今日は疲れたのでこのあたりでおしまい。






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::ここで困難に直面するのが、新興市場に進出した先進国企業(例えば、日本企業)だ。先進国で、賄賂はご法度である。倫理的にいいか悪いかの問題ではなく、賄賂をしないことが「空気のような常識」なのだ。企業コンプライアンスが強化されている日本も、その風潮は強い。




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[出典]
~ List of Cite ~

 文頭文末の引用は、

「第28章 社会学ベースの制度理論」(p.529-530)
 From「世界標準の経営理論」(著作:入山 章栄 / 発行:ダイヤモンド社)

によりました。




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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]

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[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Darkness-Derailleur-Ecology-Life-Mechanics-Memory-

[Module]
  -Condencer-Reactor-Resistor-Transistor-

[Object]
  -Camouflage-Cat-Human-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
-いのちあるものたち--夢見の猫の額の奥に-



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200617

 晴れ。
 ゴミの日ではないのでのんびり起きる。
 身体じゅうが鈍く痛くて怠い。
 筋肉痛である。
 大臀筋トレーニングを組み込んだので、臀部に慣れない怠さがある。

 起きて台所に行って気がついた。
 昨晩、芽が出ているニンニクを発見したので、植えようと思い、株分けしたものをボウルの水に浸けておいたのだ。

 猫の餌とトイレ掃除(目覚めて最初の日課である。多い日は1日に3回掃除する)を済ませ、花壇に行く。
 納屋の片隅に、鍬があることは数ヶ月前に気が付いていた。

 しかし躊躇はあった。
 そもそもこの家の敷地内には花壇てきなものしかない。
 畑がないのだ。
 花壇を勝手に耕して畑にしてもよいのか。
(書類の名義が変わったところで、いまだに自分の家に棲んでいる気はしない。可能なら出て行きたい)
 そういう迷いである。
 植物全般に詳しくないので、どれが「いわゆるよい草花」で、どれが「いわゆる雑草」か見当もつかない。
 庭のあちこちに自生し繁茂し勢力を広げている植物のうちには、可憐な花を付けるものもいる(数年前、それが大繁殖したので刈り取った記憶がある)。

 分からない。
 どれを生かしてどれを殺せばよいのか。
 どれを生かしてどれを殺すべきなのか。
 さっぱり分からない。
 Googleセンセィがこんなときに役に立たないことは分かるが、あとは分からない。
 誰かに尋ねろって? 冗談じゃない。
 庭師でもないのに他の誰かの望む庭を作ってどうする。

 ために庭の蜜柑の木の枝を剪定などしながら様子を見ていた部分もある。
 そして、おおよそ空白地帯であろう場所が分かってきた。
「いわゆる雑草」類が繁茂し、それ以外の芽を見たことのない領域があるのだ。
 これらの領域を畑にしてしまえばよい。
 草花の良し悪しなんて、惚れちゃったガールみたいに勘で選べば9割がたは上手くいくのだから、なんとでもなる。
 よし掘ろう! いま掘ろう! すぐ掘ろう!

 と鍬を探りながら、しかし別の危惧もアタマに浮かぶ。

 過去に、アパートのベランダにプランタを置いて作物を育てようとしたこともあるのだが、平素のものぐさが災いし、実現しなかった。
 プランタも買った。
 土も買った。
 肥料も買った。
 プランタの底にメッシュを敷いて、土を入れて均した。
 そして急に飽きてしまったのだ。
 土を手で触ったり、種や苗を植えたり、虫がついたらそれを除けたり、水をやったりするのが、急にどうでもよくなってしまったのだ。やりたくなくなってしまったのだ。

 しかしボウルの中には芽の出たニンニクがいるのである。
 とりあえず植えてしまうには、今しかないのだ(今しなかったら、もうしないだろうから)。

 かくして鍬を振るう日が、この僕にやって来たのである。

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 数分と経たないうちに、音を上げる。
 鍬は重い。
 ここ数ヶ月ワークアウトをしているし、独自開発の「ぱやぱや運動」のおかげで腰まわりの筋肉も多少は発達した。
 だから、腰が痛くなったりはしないが、引きこもりなので有酸素運動に弱い。ついでに愛煙家である。呼吸器系が弱いのである。

 腕も腰も肩も、たいして疲れないのだが、マスクをしているのも相まって、とにかく呼吸が苦しい。
 持ち方も振るい方も、角度も力加減も姿勢も分からないので余計である。
 柄と刃の角度が鋭角なので、どうしても重心を低くしなくてはならないから、これも非常に面白い。

 そのうえ土が固い。
 庭木の根が、横に伸びているのである。
 しかし刃を上手に振るうと、断ち切ることができる。
 鋭角になっているので、てこの原理で持ち上げたり、柔らかい土なら引き流すだけで畝らしきものを作ることもできる。
 しかし今は土が固い。とにかく固い。

 なのでほんの僅かな領域なのに(勘だけれど、体感で30分くらい掛かった気がするので)10分ほど掛かったように思う。

 無事にニンニクは植えられたが、何も分からないので調べながらいたしてみようと思っている。

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 妹と姪が遊びに来る。
 だいたい週の半分くらいはやってくる。
 猫と遊んで帰ったので、買い物に出かけ、酒のためのライムとトニックウォータ、そして安かったのでカブを買う。

 ちなみに昨晩(今朝?)寝る前にペンネアラビアータを食べてみたのだが、やけに甘かった。
 玉ねぎを炒めるときに少量の砂糖は加えたが、味に出るはずもない。
 よくよく考えて、新玉ねぎであったことと、濃いめの茶色になるまで炒めたせいだと気付く。

 この場合、トマトは酸味やえぐみのある方が合うだろう。最近は缶詰でも、なかなかそういうホネのあるトマトには当たらないので諦めている。
 玉ねぎも多かったのかもしれない。
 まぁ、不味くはない。はっきりいえば美味しい。
 毎日(つまり僕にとって毎食)食べて問題ないレベルであり、むしろ変化がなくてつまらない気もする。

 などと考えながらカブと冷蔵庫に眠っていた人参を煮て、高野豆腐を最後に加えた。
 市販の廉価な白だしを使うことが増えたのだが、なかなか調整がむつかしいと感じる。

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 BEATLESSの文庫版を、しばらく前から読んでいる。
 加筆訂正部分が多く、同じ骨格の、別モデルのようで楽しい。

「4月は君の嘘」を読み返したい気持ちはあるのだけれど、重くて読むのを躊躇っている。
 たとえるなら、めっちゃ眼鏡の似合うガールにデートを申し込まれているのだけれど、その子はデートの最中に毎回気絶してしまって救急車を呼ぶ羽目になるような。
 いや、この喩えはつまらないな。

 綺麗で大好きな話なのだけれど、とにかくテーマが重くて、繰り返し読める耐性がまだできない(かれこれ3回は通しで読み直しているのに)

 ことほど左様、僕は「飽きっぽい」と自称している割に、物覚えが致命的に悪いため、多くの人より一つの物事を長く続けたり、慣れずに最初の感覚を忘れないままでいたりする。

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 半年以上、薬を飲んでいない。
 先日は、風呂上がりに見当識がおぼろになって、面白いので家の中を歩き回ったりした。
 右足の先端の痺れも、改善の気配はない。
 視力がこの数ヶ月でひどく衰えている(ゲームのしすぎかもしれないが)。

 僕の脳は、明らかに梗塞を起こしていて、僕はそれをわざと誘発させている。
 熱めの湯に浸かって、冷水を浴びるのは、血管や循環器にかなりの負荷を与えるのだけれど、これをわざと続けている。

 なぜなら、定期的に、小規模の梗塞を誘発させることで、不意の大きな梗塞に備えられると思っているからだ。

 水分循環系、呼吸器系、心肺機能、血管強度、それぞれにささやかな負荷を与えてトレーニングしておけば、自転車で走っている最中に倒れにくくなるという考えである。

 気が向いたら、病院に行ってこようと思う。
 私が早死にすると、弟子や妹がうるさいので。

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 明日はゴミの日なので早起きをしなくてはならない。

 風呂から上がったら、アラビアータと煮物と煙草をつまみに、ジントニックを飲むであろう。
 そんな予感がする。
 日本酒がなくなってしまったので。



 ニンニクが育つのは、来年になるということをネットで調べて愕然とする。