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// TimeLine:20200619
// NOTE:神様と猫と猫のカミサマと私について。
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TITLE:
見えざる手は誰のもの。
SUBTITLE:
~ Invisible handler. ~
Written by Bluecat


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::ここで日本企業が、新興市場に進出するとどうなるだろうか。繰り返しだが、インドやアフリカ諸国では「賄賂が常識」のところも多い。その環境で、現場を知らない日本の本社から「賄賂は絶対にするな」と命じても、それは現地のレジティマシーに合致せず、競争に参加すらできない。結果として政府案件を失注し、絶対に勝てるはずの裁判に敗訴し、許認可が得られずライバルにスピードで負ける、という状況に陥るのだ。




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//[Body]
 目醒めると、蛙の重唱が聴こえている。
 田畑の多い地域で生まれ育った僕にとって、子供の頃でこそ入眠を妨げる耳障りな雑音であったそれは、今では柔らかな郷愁と眠りを誘う子守唄である。
 知っている人もいるかもしれないが、田畑での蛙の鳴き声というのは、いつの間にか始まって、あるときピタリと止む。
 それは、その群衆のそばを自動車(あるいは大型の生命体)が通りすぎたからなのかもしれない。その場合、彼らの演奏は一定の静寂ののち再開される。
 あるいはその日の演目が終わって、閉演の時間がやってきたときも、やはり同様の静寂が訪れて、きっと聴衆や演者たちはめいめい、帰途につくのだろう。
 あるものは自らの寝ぐらへ、あるものは新しいパートナーとの褥(しとね)へ、あるいは私のように、微睡みの水面へ。

 もっとも今日は思いのほか早寝になってしまったため(一昨日、ワークアウトの余韻が皮膚を醒ましてまったく眠れなかったのが理由である)、微睡みの水面は再び柔らかい抱擁をもって僕を受け入れてはくれず、僕は僕の猫の神様とともに起きることにした。じつに深夜の2時。

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 冷蔵庫のフレッシュライムとトニックウォータ、冷凍庫に眠るジンを使ってジントニックを作る。
 ジントニックはステア(要は軽く混ぜること)によってできる簡単なカクテルだが、同じ材料を使っても作り方で味が変わる。
 僕が特に好きなのは、ライムをグラスの内面を一周するように搾ってからグラスのふちをぐるりと撫でて今度は皮目をしっかりとグラスの奥に絞ってから落とし、ジンを注いで、氷を入れて、トニックウォータを注いで軽くステアするパターン。
 ライムの香りと酸味が主体の、ジュースのように飲みやすい(あるいはジンを増やしてキックをより高めた)ものにできる。

 もともとジンは大嫌いな酒だったのだが、ある時を境に好きになり、今ではロックでも楽しめるようになった。そのきっかけが、ジントニックである。

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 嫌いといえば煙草も、もともとは嫌いであった。
 飲み物や飴、ガムなどの添え物なしには楽しめなかったし、味も匂いも好きになれなかった。
 愛煙家になったのは、正しい吸い方を学んでからである。
 シガレット(広く流通している紙巻き煙草)であっても、正しく加湿し、正しく着火し、正しく火の温度を保って味わえば、同じ煙草でもまるで別物のような味と香りをもたらしてくれる。
 このあたりも、カクテルに似ているだろう。
 シンプルなものほど奥が深いから、手軽に味わおうとして雑に扱えば、その粗雑さはそのまま自分に返ってくる。

 人間もかようにシンプルなありようを体現したいと思うものだが、僕のようなキメラは魑魅魍魎としてしか扱われない。シンプルになりたいなどとはおこがましい望みなのだろう。

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 煙草と酒に共通しているのは、人間を酔わせることである。
 しかしそれ以外にも人間を酔わせるものはあり、たいていある程度以上には毒である。
 権力や経済、美や知識。
 異性なども僕にとっては十分に強い毒で、酔わされることがある。
 あるいは法的に禁止されている薬物も、きっと似たような作用は持っているだろう。
 つまるところ、毒に対して酔ってしまうメカニズムが、僕らには備わっているといえる。常用し、依存するようにもなれば中毒である。人間をやめる前に、己を律したいところだ。
 もっとも人間をやめてしまったイキモノがこれを書いているのだが。

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 酒や煙草、さらに一部の薬物(を抽出できる原料)は、宗教と深い関わりがある。
 酒は神からの贈り物であり、神に捧げるものであり、それを作ることは神の行いであった。
 煙草は、インディアンの神聖な儀式の中で、神(正確には霊父/グレートスピリッツ/大いなる神秘、だったか)との交流のためになくてはならないものである。
 またシャーマンたちの多くは、幻覚作用を持つ植物やキノコを用いて精霊たちと 交信したといわれ、中南米の宗教では砂糖(砂糖が希少な時代の人体にとって、精製糖は濃密な薬品である)が向精神薬として機能したという記述を読んだことがある。

 これらは、法律はともかくとして「近代的な」神々には忌み嫌われ、禁止されている。
 カフェインも向精神薬であるから、何らかの宗教では儀式に使われたであろうし、一部の「近代的な」神々によって禁止されている。
(ちなみに「近代的な神々」とは、WHOのことではない)(皮肉です)

 おそらく、これらの毒の酩酊状態が「人に魔を差す」からだろう。
 一部の「近代的な神々」は、異性との性交も禁止している。やはり魔が差すのだろうと推測される。酔って正常な判断を鈍らせるのかもしれない。
 魔が差した上、さらに魔を体現してしまうと、不浄になると考えられているものと想像する。
 そうした考えが行き過ぎれば、女性が不浄であるとか、女性が魔の体現のように扱われることもあっただろう。

 かくも人間は、己の欲すら外部からの圧力なしには律しきれない、弱い存在なのかもしれない。

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 僕は比較的、宗教にはフラットに接しているので、親しい人間に誘われると、宗教の行事や集会に同席することがある。
 たとえばモルモン教は、金曜の午後に英会話のレッスンがあったり、日曜の集会やクリスマスのイベントは一般人も参加できた。英会話のレッスンにいたっては無料で、しかも宗教が全然関係しない(笑)。

 他のキリスト系の宗教だと、エホバの王国だったか、その集会には参加したことがある。
 キリスト系の教会における週末の集会は、おもに聖書の勉強であり、経験上、聖書の解釈について議論することが多いようだ。これらには僕も興味深く参加した。
 文書に記された文には僕のような一般人にも意味を見出すことができて、それは信者であろうとなかろうと、知性レベルによっては特定の事象における一般解のようなものを導くことができる。たとえば「人は何も信じないよりも何かを信じていたほうが内面的に豊かに過ごせる。また内面的な豊かさは物質的な豊かさを創造することが可能だ」といったような形で。
(当然のように、この一般解は異論の余地こそあるだろうけれど、一般解たりうるだけの割合/確率的正当性を持ち、経験則だけでなく実証も容易で、想像するだけでも心地よい)

 日本だと、今のアパートの近所に禅寺があり、小冊子を無料でいただけるのでそれを読む。説法や集会があれば(少々の浄財程度で許されるなら)参加してみたいものだ。
 それ以外の日本の宗教も一般公開しているイベントはあるものの、果たして参加する価値があるかというと、個人的には時間の無駄になるとは思う。

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 ちょっとカミサマの話題からは逸れるものの、後半に言葉を(いつになく)濁してる宗教は、はっきり言えば人間を、すなわち個人を崇拝している。
 もうこの時点で相当にダメダメである。
「キリストかってそうやーん!」という人もいるかもしれない。
 でもキリスト教はまだ、ギリギリ「神様」が最初にいて、それを崇拝している。
 その神様と人間との歴史の中でキリストが出てくるだけである。
 国内の、比較的勧誘を一般の信者さんがしてくる宗教は「神が遣わした誰か」のうち「神」ではなく「誰か」が主体で、これを崇め奉っている。
 個人的にはキモチワルイ。

 しかも。歴史書がある。
 その「誰か」がいかに神(や仏)たらしめ、いかに神(や仏)の意志を体現し、いかに苦節を乗り越え、いかに人を超越せしめたかの歴史書である。

 たとえば僕は第2次世界大戦を知らない。
 いや、知識では知っているけれど、体験していない。
 だから第2次世界大戦が本当にあったかどうかについては、たとえば歴史書や映像フィルム、戦争体験者の体験談や原発ドームを見ることでしか知ることができない。
 では第1次世界大戦は?
 十字軍の遠征は?
 それが実在した事実であることを証明するのは、各国に保存された文献を含む史料のうち「一切矛盾せず完全に一致しているもの」に限られる。

 いくつかの宗教において崇め奉られることを約束された「誰か」には、にわかには信じがたい歴史が存在しているようで(私に対して実証されていないそれは「存在しており」とは表記できない)、さらには信者の解釈も議論もなく「押し付けられる教育」が存在している。
 まるでそれぞれの国の文化や教育スタイルのように、各宗教の中における「お勉強」は存在しており、この国のそれらは、ただ純然として存在することになっている教科書と(弾圧や湾曲によって闇に葬られた)歴史をただ享受し、暗記し、盲信することを余儀なくされる。
 一部の人間はその歴史が「弾圧された/されている」という概念だけで情念を燃やして盲信してしまえるようなのだけれど、科学的に検証不可能な歴史を「史実だ」と強要し広めることこそ狂信的なファシズムの走りのように僕には思える。
 少なくともそれは「科学的な歴史」などとは到底呼べないだろう。

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 宗教における建築やその技術、審美の体現は、僕に構造体としての興味を抱かせる。
 またそれらの空間に集まってくる人々は、特定のキャラクタを演じてでもいるのか清潔感があって穏やかな空気の演出に一役買っている。
 仮にそれらのすべてが偽りであり、主宰者による計算と個々の自己承認欲による演技の賜物だったとしても、自由で気ままで、ために猥雑で下品で低俗になりがちなそこいらのショッピングモールに出かけるよりは精神衛生上心地よく、穏やかにいられる。

 宗教の意味合いのひとつに、それを信奉するもののありようやふるまいの方向性を誘導する、というものがあるとするならば、僕はそれを信じることはできなくても理解することはできる。

「宗教の意味合い」を「宗教の機能」と言い換えればどうだろう。
 たとえば僕は、掃除機やその存在の意味を崇め奉ったりはしないが、掃除機の機能を理解し、その機能を信用することはできるし、そのとき掃除機は「信頼に値する」だろう。
 宗教の機能を理解し、その機能が信頼に足るものであるならば、その宗教は崇め奉る対象にはなり得なくとも、その根本の発想や思想、具現したい目標を信頼することはできる。

 各宗教家の人がいたならば申し訳ないのだけれど、僕にとっての宗教は、基本的に掃除機程度のものでしかない。
 それは周囲(あるいは少なくとも観察者とその認識)を清潔に保つ機能を持ち得て、かつ、清潔に保つことを心地よくさせる機能が求められ、その本体すら自浄作用を持つことが根本的に望ましいだろう。

 仮に、宗教の対象を権力/政治/経済/恋愛/健康/美容/ファッション/猫/科学/神/社会として考え、それを当てはめても同じ事が言えはしないだろうか。

 だから神や天国や極楽浄土を僕は信じてはいないけれど、それらを信じる(あるいは信じたい)という人間の情念は理解できるし、その情念の昇華された作用も含めての機能を考えればまあ「嘘も方便かな」と信用できる。

 崇め奉ることは妄信であり、すなわちバカでもできることだから、そういう同調圧力によって、機能を理解しない人間にも同様の結果を発揮させるという意味では役に立つだろう。
 しかし知性が人間に残っているならば、そこには疑念があるべきで、疑問に対する答えが与えられて然るべきだろう。
 機能があって、それを疑われるとき、それは試験される。
 人が試されるのではなく、神が、宗教が試されるべきなのだ。
(100年後に名言として残りそうな言い回しだな「人が試されるのではない。神が試されるのだ」なんて)

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 今日は疲れたのでこのあたりでおしまい。






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::ここで困難に直面するのが、新興市場に進出した先進国企業(例えば、日本企業)だ。先進国で、賄賂はご法度である。倫理的にいいか悪いかの問題ではなく、賄賂をしないことが「空気のような常識」なのだ。企業コンプライアンスが強化されている日本も、その風潮は強い。




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[出典]
~ List of Cite ~

 文頭文末の引用は、

「第28章 社会学ベースの制度理論」(p.529-530)
 From「世界標準の経営理論」(著作:入山 章栄 / 発行:ダイヤモンド社)

によりました。




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[NEXUS]
~ Junction Box ~
[ Cross Link ]

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[Engineer]
  -青猫α-/-黒猫-/-BlueCat-/-銀猫-

[InterMethod]
  -Algorithm-Convergence-Darkness-Derailleur-Ecology-Life-Mechanics-Memory-

[Module]
  -Condencer-Reactor-Resistor-Transistor-

[Object]
  -Camouflage-Cat-Human-Poison-
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[Cat-Ego-Lies]
-いのちあるものたち--夢見の猫の額の奥に-



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