人間は、道具を使うゆえに、我を見失うことがある。
 人間は、環境の改変を望むゆえに、己を見失うことがある。

 人間にとって、道具は外部である。
 だから道具を使う自分は、己の本体であり中心であると思い込んでいる。
 己の中心がどこにあるのかを知る者は驚くほど少ない。
 己の中心について無自覚であるがために己自身を知らず、己を知らぬ者は自身が己のための最初の道具であることを知らない。

 人間にとって、人は環境でもある。
 だから改変を望む自分は他者にとっての環境であり、改変を望むことそのものが、己にとっての環境である。
 克己とは、己が自身に見せる環境と、己という道具と、己の正体を知ることでもあるのだろう。

 己というものは、そのように分離している。
 己を切り離すことは、容易ではないかもしれない。
 しかし瞳を保護する濁った膜のように、眼前の障害のように、切り離さなければ見えないものがある。
 飛行機やロケットがそうするように、切り離して身軽にならなければ、到達できない場所がある。

 今日のむつかしい話はここまで。

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 目覚めると6時半。
 おかしい。

 僕が消灯したのは3時頃のはずだ。
 けれども再び眠ることができなかったので、1時間ほどゴロゴロしてから起き出した。

 最近、布団やベッドのマットレスを2つ並べることで、擬似的ダブルマットレス状態を作っている。
 20代の頃からダブルのマットレスで寝ているので、シングルサイズは窮屈なのである。

 シーツはどうやらシングルサイズが2枚しかないことが判明した。
 2枚を使うと予備がない。
 客用布団が、部屋でトランポリンをしても良さそうなほどあるので、遠慮なく使うことにする。

 これから先、大人数が集まることは社会的にも少なくなるだろうから。
 もとより僕は、これまでもほとんど一人で寝起きしているのだから。

 それにしても朝の時点で分かる。
 今日は昨日より暑く、そして日中はそれなりの高温になるだろう。

 しかし37℃の気温でも動作はできるので、ジャンプスーツを着て、片付けをする。

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 朝から草取り。
 振動式草取り機も併用する。

 僕を穏やかで理知的だと思っている人たちはそれなりにいる。
 学校の先生みたいだとか、葬儀屋のように礼儀正しいと言われることもある。

 実のところ僕は、自身をかなり激しい感情の持ち主で、しかもかなり攻撃的な部類と見なしている。
 道具は多く持っているが、執着というほどのものはわずかにしかない。
 大事なものの大半は、アタマの中に入っているからだ。
 だから破滅的な思考や行動もしかねない。

 それでも身体が弱く、周囲とのバランスを計る環境が最初にあったので、僕は暴力的な育ち方や、腕力を使った人間関係の構築の仕方をしなかった。
 文明が発達しているほど、弱者である方が有利である。今の社会も、まだ弱者を守ることを大切にしている。
 反抗期が来る前に、僕はその事実に気づいたので、誰かと衝突するようなエネルギィの使い方を無駄だと考えるようになった。

 ただ時々、交渉らしい交渉の通用しない人間もいる。
 正義というのは基本的に幼稚なものだ。
 0か1かの二元論的な(あるいは勧善懲悪な)価値観の中で、中間を許さないというのは。
 あるいは単純に論理と威圧を履き違えている人間もいる。
 なるほど物理的/心理的な力は、有無や大小で単純に計測が可能なのだろう。
 多角的なレンジを必要とする複雑な社会に僕たちは生きているようだ。

 芸能人や政治家が不倫をすると騒がれるのは、そのシンプルな正義の共有によるものだろう。
 当事者たちがよしとしているならば、それぞれに器が深い(器が深い?)というような発想はない様子で興味深い。
 ゲーム理論というのが一時流行ったが、いずれもシンプルだ。
 それが多数決的に社会を構成する。
 小さなビット素子の0と1によって、しかし俯瞰的に描かれるのはグレーの絵だ。

 多数決は、それを白か黒かで塗りつぶす。
 良いとか悪いとかいうことではなく、そういうシステムだということ。
 ために人間は社会を構成する上で、幼稚さを超えて成熟し、二元論を超えたグレースケールで水墨画のように未来を描ける人間を育てる必要がある。
 なぜなら、少数派とは弱者のことだからだ。

 弱者だけを優先すれば多数決のシステムが逆転しているだけで何も変わっていないし、多数決だけで押し通すのは幼稚さや単純さを増長するかもしれない。

 芸術や文化というのは、モノクロームの記号にグラデーションを与え、1ビットの情報に速度を加えることでカラーを再現する技術のことだろう。
 単一に秀でたスペシャリストが、多角に才を発揮するジェネラリストに及ばないこともあるのはそのためだ。
 単一の能力で彼我を圧倒できるとしても、黒だけでは水墨画も描けない。

 作業中、脈拍が上がり体温も上昇する。
 火を使うから尚更で、水分は摂っていたが熱中症を起こしかける。
 この身体は低血糖や血管ストレスの耐性が高いようで、ゆらゆらしながら家に入って水分を補充、シャワーも使って冷却したら正しく疲労感が出てきた。

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 実のところ、叔母の形見分けをしていない。
 叔母が亡くなった当初は、形見分けをする予定を立てるつもりだったが、こちらから従姉妹たちにアクセスする必要がないような気もしてきた。

 従姉妹たちに罪はない。
 あるとすれば、ぎくしゃくするような禍根を振り撒くことを選んだ叔母にあるだろう。

 僕にとってはどちらでもいい。
 亡くなった人は意思を持っていない。
 罪を問う実体もない。
 約束があれば従うのだが、反故にされた約束を前に、僕は処理しあぐねいている。
 なので、次々と処分している。

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 夕刻、ゲーム(Ghost of Tsusima)をプレイしたくて買い物に出るが、本体がどこにも売っていない。仕方なくソフトだけ買って戻る途中、BP(高校時代からの友人)の家の前に彼がいるので暗くなるまで立ち話。
 叔母夫婦の家から徒歩数分の場所なのだが、なかなか会う機会がないので放っておいた。

 僕はひとりのことが多いが、友人や恋人は大切にする方だろうと自分のことを評価している。

 それにしても、外堀から埋める巡り合わせが僕の日常なのだろうか。
 説明書の入っていないパッケージを眺めてぼんやりする。