201105
母上の月命日ではあるのどけれど、特に何をするでもなく、朝方まで東京に遊ぶ。
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先週、立て続けに身の回りの愛用品が壊れた。
まずダンヒルのガスライター(オークションで安く手に入れたものだけれど、使っているうちに気に入って現在に至る)。
ついで革のトランクケース(小さいものだが20年近く使っている)。
最後に iPhone。
一週間、携帯端末がなくて、たいそう清々した気分だった。
僕はこの一週間、食事に出たり買い物をしたりiPhone の修理に出たりする以外で他人に用がなかった。
ではひと月ならどうだろう。
一年なら?
正直なところ、電話やメールでやりとりをする相手に ── およそ僕からは ── ほとんど何の用もないのである。
もちろん端末でやりとりをする相手には、姉や妹、弟子、古い付き合いの友人、最近知り合った人もいる。
しかしいずれも、僕からは特に用がない。
これまでの観察の範囲では、彼ら/彼女たちは、暇つぶし、あるいは愚痴を聞いてほしくて、あるいは単に僕と接触(しかも端末で事足りる範囲の「接触」)のために僕にアクセスする。
一番多いのは、愚痴である。
心配や悩み相談も愚痴と同じように対応する僕にとって、相手のトーキングオナニーに付き合わさせる事象はだいたい愚痴である。
もちろん妹は日常の笑い話を必ず聞かせてくれるし、弟子はアドリブで探り合う音楽セッションのような緊張感のある会話に付き合わせてくれる。
いずれも実益はないし、もっと面白いことならたくさんあるから、裏庭に穴でも掘って叫んでいればいいのに、と思うこともある。
ちょうど僕が、自分の愚痴を独りで処理するように。
もっとも僕が昼寝に忙しい場合などは電話に出ないことも皆知っているし、それが許されるキャラであり立ち位置をずっと保っている。
無職の僕にあれこれ指図するのは、いまや役所と銀行くらいであるが、それも来年には解決するだろう。
ようやく憧れだった「用もない(あるいはお金のためだけの煩わしい)人間とのやりとり」をやめられるようになったのだ。
しかもその「やりとり」は、どういうわけか「後輩らしさ」や「男らしさ」「大人としての良識」「社会人としての当たり前」などという、定義不可能な物差しで一方的に評価される。
ご本人様が得意満面に「すごいでしょ!」と言ってくれば、僕は褒める。「すごいね」くらいは言うだろう。
ところが「こんなじゃまだまだです」と言っている相手に「まぁ、確かに改善の余地はあるのでしょう」というと、怒られるのである。僕にはこれが理解できない。(いやできるけれどね)
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いずれにしても1週間、のんびりと引越しの準備をしたり遊んだりして新しい端末を待ったが、予想どおり、妹に電話を掛けたら泣くほど心配していた。
姉や弟子は、僕が自殺する前に独りになる環境を是が非にでも構築しようとすることを知っているので(実際に見ているわけだし)、気にしていなかった。
僕がたまたまこうしてのんびりぼんやり過ごしていることは、確かにいくつかの偶然があったのだけれど、偶然だけではもちろんないことに最近気がついた。
(弟子などからは度々、僕の超自然さえ感じさせられる天才性について指摘を受けるし、以前付き合っていた恋人にも、僕を「天才」と褒めそやしてくれる人がいたが、身近でしかも損得関係のある人間の発言なんて5年前から過去に遡ってアテにしないことにしているので、てっきり僕はただのボンクラだと思っているのだ、僕を。しかしどうだろう)
僕の周囲の人たちがたらい回しのように逃げ回ったその挙句、独りひっそり暮らす僕にバトンが回ってきて、僕は「これはちょうどいいからそのリレー、乗った」としたわけである。
僕のところにそのバトンが来たのは、最後の最後であるが、オカネモチー自動化プログラム構築プロジェクトを牽引してきた(そして力なく腰砕けになって途方に暮れる気力もなかった)僕にとっては、ちょうど役に立てそうだった。
だから皆が敬遠したり、あるいは疑心に駆られて不安になっている中で僕だけは、こともなく、決定ができた。
もちろん僕はいくつかの社会的/心理的力学に基づいた直感で物事を判断するので、ときどき致命的なミスを冒すこともある。
それでも僕は勘で判断する。
データより勘が正しいといつも思っている。
まして他人が持ってきた「見せたいモノを投影しただけの」データなんて、見る価値もない。
もちろん「見たいモノ」を私自身に投影してくる迷惑千万なイキモノも中にはいるわけで、今の僕は手負いのケモノのようにそれを警戒している。
今日、叔父の本棚に転がっていた自己啓発的なことを書いてある本に「目指すところに到達するためには、考え方と習慣を変えればいい」と書いてあった。
僕がずっとしていることはこうして、本にも書いてあるのだ。
僕だってその法則をもしかしたら本から学んだのかもしれない。そのくらい僕にとっては「当たりまえのこと」なのだ。
でも多くの人は、自分の考えを変えられない。
習慣だって変えられない。
価値観が変わらない。
記憶も変えられない。
そう思い込んで、いらない記憶に足を引っ張られているのではないだろうか。
だから「近づくヤツらは敵と思え」という、過剰反応を抑えられないのではないか。
そう思って少しずつ、僕は、新しい友達を作ることにした。
なあに恋人にならなければ怖いことは何も起こらないのだ。
いや、恋人になって僕に酷い思いをさせた人間が(覚えている範囲で)どれだけいたか。
そう。
いないのである。
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ライターとトランクは修理することにした。
端末は(あろうことかPCより先に)新調したわけだけれど、これが僕の持っているMacと同期できなくなっていた。
6sのときはOSのバージョンこそ古くても、認識して、データのやり取りができたのに、もはや音楽データを移動することもできない。
だから新しいMacを買う必要度が、さらに上がってしまった。
問題は、必要な性能を備えた適度な価格のMacがないことだ。
複数台の Mac mini で妥協するのか。
もう時代遅れになりつつある Mac Pro を自動車みたいな価格で買うのか。
こればかりはさすがに決断できない。
