“さてこの仏の色身相を見るといふ事になると、観経(観無量寿経)に色々と第十三観まで種類をあげて、荘厳・燦爛・微妙の限りを極めて描写してあるけれども、これは現実に此の世界に於てこの色身相を見ようと執する事になると、幻覚・心霊現象・迷信の世界に頭を突っ込む事になり、弊害と混乱とが百出するばかりでなく、これを見るといふ事自体が決して誰にでも容易に出来るものでない。自分の心を仏教の具象的な、色・形・音・光等の感覚的雰囲気でつつみ、その中に没入するといふ目的ならばいいけれども、往生のためには仏の色身相を見ねばならぬといふ條件になると、これは又別の難行となってしまふ。それでは形のないための難行を、形のあるための難行に置きかへるに過ぎない。そこで浄土宗では、往生の條件としての念仏はただ唱名、声の念仏のひとつにしてしまひ、その往生する行くさきの極楽浄土は、阿弥陀経に描いてあるやうな、色・形・光・音を以て、感覚的に荘厳された、此の上もなく美しい浄土であり、其処に於て見仏することの出来る仏は、観経の十三種の色身相観にあるやうな美しい相を具へた仏であり、しかも見仏のみならず、自らかかる仏と成る、すなわち成仏することも出来ると信じるのである。
さういふ事情があるから、法然は此の「一枚起請文」で「観念の念にもあらず、また学問をして念の心をさとりて申す念仏にもあらず」と、観念の念仏、見仏の念仏、難修の念仏を、悉く忌み、斥けて、自宗の念仏の立前をはっきりと宣言したのである。
しかしここに注意すべきことは、法然はかやうに、往生の条件としての見仏、すなわち仏の色身相を見るとか、さまざまの奇瑞・不思議をあらはすとかいふやうな事は忌み、斥けたけれども、往生極楽のために一心不乱に唱名した自然の結果として、三昧が発得すると、仏の色身を見たり、奇瑞があらはれたりする事を否認してはゐないといふ事である。現に法然の伝記にはかういふ記事が随所にある。
そして法然が自分で書いた『三昧發得記』には、さういふ不思議が沢山記録してある。
建久九年正月、恒例の一七日の別時念仏を営んだ折、初日に光明を少し現じ、第二日に水想観が自然に成就し、又瑠璃地相が少しく現はれた。第六夜に到って、宮殿相が現はれて、それらの相がはっきりしてゐた。
それについて法然が自ら思ふのに、
「顧ふに、我平生念仏六萬遍を課し、不退勤修す。此れに由って、今これらの相現はるるか」(三昧發得記)
と云ってゐる。
三月二十五日には目から赤囊の如きもの、瑠璃の壺の如きものが出た。そして目を開いても、閉じてもはっきり見えた。その後右眼から白光が現はれ、光端は青色を帯びていた。又壺の形をした瑠璃光を出した。内に赤い華があって、寶瓶のやうであった。又日没に四方を望むと赤・青の寶樹があって、或は四五丈、或は二三十丈もあって、経に書いてある通りであった。
八月朔日に日課の念仏六萬遍を勤めたが、二日に自分の坐って居る下が瑠璃池になった。
正治二年の頃には、この地相が、坐臥意のままに現じるやうになった。建仁元年二月八日夜半には、極楽衆鳥並びに琴笛の音を聴いた。
翌二年の正月からは仏身を見るやうになり、初めは勢至菩薩や阿弥陀仏が、頭面だけ現はれたり、丈六の真身が現はれたりしてゐたが、遂に元久三年正月朔日から、恒例七日の別時念仏を勤めた四日目に、念仏して居る間に、阿弥陀仏・観音・勢至の三尊が一緒に大身を現はした。
これらの異象の記事は法然が自分で書いたのであるから、さういふ事実があったといふ事は間違ひない。又かういふ事実があるといふこと、今日では、心霊現象の科学で研究され、資料が夥しく蒐集されて、有名な科学者の間にも認められてゐる。ただその事実の解釈如何については、学者の説がまちまちであって、或は幻覚であるとか、潜在意識や、副意識の作用であるとかいふ心理学派と、別に此の現象界以外の別世界を立てて、その両世界の交渉としてでなくては説明出来ないと主張する心霊学派とがあって、いづれとも決しられない。しかし法然のやうな場合には、単に、精神異常者の幻覚としては、あまり時日、前後の関係等がはっきりとした意識的生活の中に現はれて居るのと、平常の性格が実に理路整然とした、健全無比の、理性的な、平静な人であるだけに、心理学派の説明では、首尾相応しない観がある。
法然自身の書いたものでなく、弟子たちや、信者たちの書いたものには、かういふ不思議は到るところにある。
「法然上人行状書図」によれば、
或る夜更けに、法然が高声に念仏してゐるので、正信坊が老体を痛はしく思って、何か用事でもと思って、そっとやり戸を開けて見ると、法然の身体から赫奕として光りが現はれて、坐ってゐる畳二畳に一ぱいさしてゐる。その明らかなことは、夕暮れの山を望んで夕陽を見る如くであって、身の毛もよだつばかりであった。
元久二年四月五日法然が月ノ輪殿に参って法談をして帰る時、見送った兼實が庭の上に崩れ、ひれ伏して法然の後姿を拝した。そして涙にむせびつつ、「上人がただ今虚空に蓮華を踏んで歩かれた。そしてうしろに頭光があらはれてゐた。お前たちは見なかったか。」と云った。
右京入道と尋玄阿闍梨が側にゐたけれども見なかった。
或る人が法然から念珠を貰って竹釘にかけて置いたところ、家の中が妙に明るいので、ただしてみると、その念珠から出た光りのためであった。
かういふ類の異象・奇瑞は枚挙にいとまない程であるが、注意すべき事は、法然自身がそれを否定せず、門弟たちが奇瑞を見た話をすると、
「さういふ事もあらうか」
とか、
「皆さういふ身にしてやりたいものだ」
とか答へた事である。
これで見ると、法然は往生極楽のための仏の色身相を見るといふことは斥けたけれども、念仏を称へ称へて三昧となった暁に、自づと色身相を見ることは忌はなかったばかりでなく、「さうありさうなこと」或は「さうありたいこと」位に考へてゐたらしい。観無量寿経に、紅、紫、白、色とりどりの曼荼羅の如く、絢爛と展開されて居る水想観・樹想観・地想観その他を、念仏の功のつもりつもった結果として見得るに到ることは奇特な事としてゐたやうである。しかしこれ等を見る事が出来なくては往生出来ぬとか、見得るために往生出来るとかいふ考へは、全然排斥するのである。さういふ點、法然は実に公平無私であり、理性的であって、好んで劣機をあげて、勝機をおとすのとは相違する。
それは前に伝記の所で述べた「大原問答」の時には、
「ただこれ涯分の自證を述ぶるばかりなり。またく上機の解行を妨げんとには非ず。」
といふ謙虚な、無私な態度であった。”(五章『まじりなき念仏』、六章『三昧發得』、七章『法然にともなふ異象』)
“それでは法然の念仏の申し方はどうであったか。彼れ自身は
「法然は念仏長日六萬遍の行者である」
と云った程で、常に怠らず念仏を唱へ、晩年には餘事を捨てて、念仏のみ申し、七萬遍となった。訪客ある時にもただその声が低くなるのみであった。
「一念猶ほ生まる。況んや多念をや」
とか、
「一念も猶生まると信じて無間に修すべし」
とかいふ態度であって、唱名を一つの勤行と見て居り、平常の外にも「別時念仏」といって、特に一七日とか、三七日とかいふやうに日限を設けて念仏を励んだのであり、その三昧發得して、仏の色身相を見たのは多く此の別時念仏を勤めた時であった。
法然はいはゆる一念義の説には反対で、「一念義停止の起請文」といふものも公にした程で、
「懈怠無残の業をすすめて、捨戒還俗の義を示す」
と非難し、
「いづれの法か、業なくして證をうるや」
と責めている。
そして臨終正念といふ事に深く關心し、諸仏の来迎を心に期している事も特色である。そして身は一生独身で、持戒であり、常に恭敬であった。法然自身をつつむ空気、人となりは貴族主義、理想主義、道徳主義であった。
「罪は十悪をもきらはじと知って小罪をも犯さじと願ふべし」
とか、
「悪人猶生まる。況んや善人をや」
とかいふ健全な、用心深い態度であった。
しかし法然の念仏の申し方には今一つの特色のあることを見逃してはならない。
それは機にしたがって念仏申すことである。
法然は無理と不自然とを何より嫌った。心の静かさを破り、我が身を鞭打ち、搔きむしって無理に念仏申すやうな事は好まなかった。
それは却って至誠心に反すると思った。
「ただ内の心をまことにて、外をばとてもかくてもあるべき也」
といふ態度であった。”(十九章『念仏と世の渡り様』)
(倉田百三「法然と親鸞の信仰」より)
*戦前の浄土宗の聖僧山崎弁栄上人は、『誰でも毎日四時間づつ、七年間お念仏申すとみ仏が拝める』と申されていますが、そこまではできなくとも、念仏中にお香の匂いを嗅いだり、夢で浄土の光景を見せられたりする方は結構いらっしゃるようです。「別時念仏会」は、現在も全国各地で行なわれておりますので、特に浄土宗信徒の方は参加されてみるのもよいと思います。
*文中の『悪人猶生まる。況んや善人をや』とは、法然上人の法語のひとつ「一紙小消息」のなかにある言葉(『罪人猶生まる。況んや善人をや』)の引用です。有名な親鸞上人の「歎異抄」のなかの言葉、悪人正機説の『善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや』は、この言葉をふまえてのものらしく、結局は同じことを言っているのですが善人と悪人の意味を逆転させており、よりインパクトのある表現となっています。
*皇道大本は、真言宗だけでなく浄土宗とも浅からぬ因縁があるように思います。山崎弁栄上人の高弟、笹本戒浄上人は信徒たちに、『将来、ふるいにかけられる時が来ます。その時にふるい落とされぬようしっかり精進するように』と言われていますが、もしかしたら「大峠」のことかもしれません。
・浄土宗本山知恩院と皇道大本
窪田 法然が京都で居をかまえた場所は、八坂神社の北側の、今の知恩院ですね。
知恩院の前にある瓜生石は、素戔嗚尊が最初に地球に降りてこられた場所だといわれ、そこに本坊をもたせてもらった由緒もある。
そして昭和五年の岡崎で開かれた宗教博覧会ではね、東西両本願寺などは大本の参加に反対したのに、知恩院は大本を押したのですね。あの展覧会から大本は宗教団体として認められていく。
そこで聖師さまは、「大本信者は知恩院に足を向けて寝てはいかん」とおっしゃっていたというね。(以下略)
(「神の国」№161 『ますます浮上してくるスサノオの世界』より)
・皇円阿闍梨
“その昔洛外比叡山において皇円阿闍梨と法然上人とが問答した結果、皇円阿闍梨はみろく出現の聖代に遇わんものと思ったが、人身にては長命がむずかしいからと言って、遠州桜ヶ池に身を投じて蛇身と変じ、その時期を待ったという伝説が残っている。その阿闍梨はすでに今日大本に出現している。お筆先にもしめしてある通りである。(昭和七年七月)”
(加藤明子編「出口王仁三郎玉言集 玉鏡」より)
・大本と知恩院両教の提携 法然上人劇化を機に
(「万朝報」昭和六年七月二十一日所載記事、『更生日記』 七の巻)
大本教と浄土宗本山知恩院とは、昨春の宗教博覧会でやゝ提携の機運を醸したが、今回浄土宗宣伝のため京都祖山の教務所庶務部寺西聴学師作「法然上人」を劇化し、二十四日から三日間京都南座で上演し、続いて全国巡演に上がることになっているが、寺西師はこの程亀岡に出口王仁三郎氏を訪れ、両教は愈々完全に提携することになった。而して出口氏並びに親交のある頭山満、内田良平の三氏から同演劇部に幟を寄贈することになり、大本教後援の意義を明らかにするため寺西師監督の下に十八、九の両日亀岡町亀岡座で試演することゝなり、同時に同教内に法然上人の遺什を陳列し、教縁を永遠に結定する事になった。
(「出口王仁三郎 歴史に隠された躍動の更生時代」みいづ舎より)
・山崎弁栄上人の言葉
「東京にきて見れば旧仏教の連中、空祖当時の叡山の僧党のそれと同じく、わが国民の心霊上のことには毫も介する所なく、ただ己が野心をたくましうして、己が肉あるの外なんの考えもなく、言語道断のふるまいにて候。天はわが国民の腐敗を救わんがために、新しく芽を出す兆候は見ゆれども、そわ神道がわにて候。」(明治45年)
(田中木叉「日本の光(弁栄上人伝)」光明修養会刊より)