平等往生 〔法然上人〕 | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “生死だといっても、ただ生まれて死ぬだけなら迷いですね。人間に生まれてきた値打ちはない。損だ得だ、いい悪いと、せぬでもいいけんかや戦争までしている。それを離れると悟りですね。けんかはひとつもせぬのです。それが条件で、生死を離れんとすればどうしたらいいかというと、しばらく差しおく。南無阿弥陀仏をするという決め手の前に、しばらく差しおく「閣」という言葉を使って、今を取り組んでいくのです。

 カントは、十二の範疇をつくりましたが、その最後のをモダリテートというのです。法然上人のなさったように可能性、その次に必然性、そして現実性となれば、一番いいのです。しかし、カントは、可能性の次に現実性を持ってきて、その次に必然性を持ってきた。可能性(メグリヒカイト)、現実性(ウィルクリヒカイト)、必然性(ノートウェンディヒカイト)で十二の範疇のしめくくりをつけようと思っているのですが、現代の哲学では、この順序は間違いだと言っているわけです。必然性が次にきて、現実性は最後だといっています。

 ウィクリヒというのは、ドイツ語で真実ということです。イスト・ダス・ウィルクリヒといったら、「それは真実か」ということです。それを「現実」と訳せぬことはない。

 法然上人は、「速やかに生死を離れんと欲わば」と可能性をまず第一にして、必然性を第二にして、現実性を第三にした。現代の西洋哲学では、そうでなければならぬという方向に位置づけておるのです。法然上人の「略選択(りゃくせんちゃく)」は、「選択集」の全体をニ、三行にまとめたところですから、一番大事なのですが、その「略選択」の数行は、現在の西洋哲学に対しても、教えてあげられるような内容のものです。

 そういうことを、私が哲学論文に書くから、外国からの反応もわかるのだけれども、法然上人のお考えは、そういう組織的、体系的な構造です。ただひとつの考え方の思いつきや見方ではないので、全体構造の組み方が、まさに我われ専門家が見て哲学的なのです。

 法然上人は西洋哲学を知っておられるわけではないが、そうなっておるのが、かえって尊いじゃないですか。そうなっておらねば、我われの日常生活を自分なりに実らせ切っていくことは出来ないのです。必ずしようと思ったところで、そうならなければだめだから、現実に、真実に、自分がそれをするために生まれてきたように生きておる。それが真実性、現実性です。

 たいていは現実といっても、ただ人まねをしてみたり、ごまかしてみたり、本当にうろうろしているだけです。自分は何のために生まれてきたかを考えなければいけないのです。昨日もちょっと言ったように、キリストさまは何のために生まれてこられたかを初めて哲学的に取り組んだのがクザーヌスです。それで近世のルネサンスの道が開けた。

 ドイツ人は何のために、フランス人は何のために、イギリス人は何のために、イタリア人は‥‥‥、と各民族が自分の民族の方向を近世の初め、四百年前に考えたのです。

 今日は、こういうように世界中どんな民族でも行ったり来たり、またその国の人と結婚したりしているから、民族的な単位ではなしに、一人ひとりが何のために生まれてきているかを考えなければならないようになってきているでしょう。それを第二のルネサンスと、私は言っておるのです。そのときに、平等ということがいよいよ生きてくるのです。一人ひとりなりに生まれてきた値打ちを実らせていく生き方です。

 だから、法然上人は、第一のルネサンスの道を開いたと同時に、第二のルネサンスを打ち出している方なのです。

 平等ということは、民族的にも無論言えますよ。朝鮮民族は日本民族と同じように考える事はできませんから、民族ごとにそれぞれの生き方の特色がある。それでいいですね。ところが、同じ日本人といっても、いろいろな方がいなさるから、一人ひとり自分が生まれてきたわけを実らすことができるような生き方ができなければ、その人は半分も、三分の一も自分の値打ちを実らすことができないでしょう。十が十するにこしたことはない。そういうことを平等というのですから、法然上人の平等往生の中には、民族的な考え方は無論可能だし、一人ひとりが生きるその方向も含まれているのです。

 そういう意味で、法然上人の宗教体系を一口に言うと、平等往生です。平等往生という言葉は「選択集」の第三巻に出てきます。この前の席で申し上げたように、第一章では道綽禅師ですが、この方も南無阿弥陀仏一筋に生きた方です。その記録はすばらしいです。そのお弟子が善導大師です。大師がまた二十四時間念仏三昧で暮らした方です。二十四時間念仏のうちに仕事もするのです。道綽、善導の師弟はともに、ずっと念仏で生きた方ですから、「選択集」は、第一章は道綽禅師、第二章は善導大師となっているのです。

 そういうように、平等に、誰でも生まれるわけであるから、生まれてきておるのです。それを、ひとまねをしてみたり、ひとをうらやんだり、そのために争ったり、戦争までしておったら、自分が生まれてきたわけの仕事を半分もできませんね。今は半分どころではない、三分の一もできないのです。本当に惜しいことです。

 法然上人は、八百年も前に、平等往生ということで、その体系を訴えておられるのです。私はすばらしいと思いますよ。そういうことが南無阿弥陀仏の裏づけです。南無阿弥陀仏で平等往生といったところで、何のことか、普通はわからぬけれども、自分が生まれたからには、生まれたわけがどうしてもある。そのわけが全うできるような生き方は、自分に責任があるのです。

 私は、どんなに念仏を勧めても、押しつけているのではないですよ。これだけ大勢の方が、一人ひとりなりに生まれてこられたわけがある。南無阿弥陀仏というのは、そのわけが一人ひとりなりに全うされる生き方なのです。

 南無阿弥陀仏と言えば極楽に行けるといったところで、極楽というところがあるのじゃない。自分の生れてきたわけが全うされるところを極楽というのだから、極楽は自分の極楽しかないのです。他人(ひと)のは他人(ひと)の極楽です。しかし、それが照らし合い、つながり合って、ああいう極楽も尊いといって、ひとさまが拝めるように、ひとさまの仕事に頭が下がるようになるのですよ。

 そういう生き方を我われがしていくと、けんかは無論せずに済むし、どれほど軍備があっても、お金があっても、戦争まですることはないから、結局、軍備もなくていいことになる。戦争は無論ない。ただ口で平和論を唱えていても、何もならないですよ。かえってけんかになる。自分がそのような生活をするといいということなのです。

 それをするのには、しばらく差しおく「閣」ということしかないのですよ。けんかや戦争になるようなことをしているから、しばらく差しおいてということを三つ並べていくのです。一遍、二遍、三遍と並べていって、南無阿弥陀仏をしようということに結んでいくのが「略選択」です。すばらしい一文です。”

 

     (山本空外講述「念仏はいのちのうたごえ 無への飛躍」(光明修養会)より)

   (山本空外上人)
*山本空外上人(1902~2001)とは、浄土宗の僧侶で、山崎弁栄上人の法燈を継承された方です。書にもすぐれ、昭和の三筆の一人とも謳われています。東京帝国大学文学部哲学科を首席で卒業され、英語、ドイツ語、フランス語、ギリシャ語、ラテン語、ヘブライ語、サンスクリット語、パーリ語、それらすべてに堪能で、文部省の在外研究員として、ハイデルベルク大学、ケルン大学、パリ大学で学ばれ(ハイデッガーとも交流しておられたそうです)、帰国後は東京大学の教授となられ、岡潔、湯川秀樹などの錚々たる方々から師と仰がれていました。常に念仏を称えられ、寝言までが念仏であったといわれています(書を書かれるときも、念仏を称えながら書かれたそうです)。レーガン大統領が国賓として来日されたとき、山本空外上人の書を欲しがったが、日本側は政治家も官僚も誰のことかわからず、ただ島根県出身の竹下登だけが上人の名を耳にしたことがあり、それでなんとか事なきを得た、という話が伝わっています。空外上人によれば、「南無阿弥陀仏」の「阿」というのは無、否定の意味で、「弥陀」は計量をすると言う意味、よって「阿弥陀」で計量を越えるという意味になり、これは「無量寿」とも訳せます。つまり「南無阿弥陀仏」とは、無限の存在、計り知れない尊い生命の根源に帰依しますという意味になり、あらゆる宗教を超越した真理の言葉だということです。また空外上人は、「般若心経」とくにその中の「色即是空・空即是色(色は空なり、空は色なり)」が仏教のエッセンスであると言われています。現代の著名な仏教学者ですら、「色即是空」は真理であるが、もうそれだけで十分で「空即是色」は余計な付け足しだと言っておられる方もあるようで、空外上人が達しておられた境地の深さを感じます。

 

*リブログ先で紹介させていただいておりますが、戦前に開催された、岡崎市での宗教博覧会で、仏教の各宗派がことごとく皇道大本の参加に反対したとき、ただ浄土宗の知恩院のみが大本を支持してくださったという話があります。その後、両教は提携することになったのですが、このときの知恩院の管長であった山下現有猊下は、生涯を念仏に捧げた方で、山崎弁栄上人とも交友がありました。さらに当時の知恩院の役職にも弁栄上人の高弟の方がおられたそうです。やはり霊性の高い方々には互いに通じ合うものがあるようです。

 

 

・ヴィシュヌ神の化身、クリシュナの言葉

 

 “愚者は妄想にとらわれてアートマンとグナを混同する。彼等は感覚とそのはたらきにとらわれる。

 無知の熱病を振り払え。世俗の報酬を望むな。汝の心をアートマンに固定せよ。自我の意識を捨てよ。すべての行動を私に捧げよ。前進せよ。そして戦え。

 私の教えに心から従い、疑惑をいだかない者はカルマの鎖から解放される。しかし私の教えを軽蔑して従わない者は迷う。彼等には分別がない。すべての知識は妄想である。

 賢者でさえ、自己の性質に従って行動する。万物はすべて自己の性質に従う。自制して何になろう。感覚はおのずからその対象に魅力や反発を感ずる。しかしこのようなことに負けてはいけない。これは人の敵である。

 他人の義務を引き受けて成功するより、たとえ不完全であっても汝自身の義務をおこなえ。汝の義務をなしとげて死ね。他人の義務は汝にとって極めて危険である。”

 

          (「バガヴァッド・ギーター」(ヴェーダーンタ文庫)より)

*グナとは、精神界と物質界を構成する三つの因子のことで、サットヴァ(善性)、ラジャス(動性)、タマス(惰性)の三種があります。