「神語」の解釈について | 瑞霊に倣いて

瑞霊に倣いて

  
  『霊界物語』が一組あれば、これを 種 にしてミロクの世は実現できる。 
                            (出口王仁三郎)  

 “昭和六年の夏でしたか、海外宣教について出口聖師は、次のようにお話になりました。

 「大本の宣伝使は先ず「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」と唱えあげる「神語」が含んでおり、かつ顕わすところの御神徳をひろめて行きさえすればよい。仏教は六字の称号をとなえてアレだけ多くの衆生を救った。大本の神語「惟神霊幸倍坐世」は、名は実の主なりというごとく、ことごとく有名有実であり、絶対権威がある。したがって神語は決して講釈してきかせたり、解釈を定めたり、説明を加えて内容を限定することは良くない。日本人たると外国人たるとを問わず、誰にも、「カムナガラタマチハヘマセ」とそのまま奏上するように知らせるとよい。外人にはローマ字で書いてそのままを覚えさせ、そのままに発声奏上するように知らせるとよい。そうすれば神語奏上によって、無限大の御神徳は、随時随所、唱うる人々の相違によって、それぞれの御神徳が現われ来たり、どんな人も必ずや何等かの体験を得させていただくことが出来るものである」と、‥‥‥”

 

        (「おほもと」昭和31年12月号 竹山清『世界改造の経綸』より)

 

 

*祈りの言葉「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」については、実は戦前の「神の國」誌等で、出口聖師自らその意味を解説しておられます。そうすると上の記事とはと矛盾するようにも思われますが、要は想念を限定しないように、ということだと思います。「霊界物語」も同じく、誰であろうとも、決して断定的な解釈は許されないとされています。

 

*同じように真言宗の真言陀羅尼も、完全に正確に訳することは不可能とされ、梵語の発音のままで唱えられています。

 

*上の記事を読むと、「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」と唱えさえすれば、別に「霊界物語」を拝読する必要はないのか、という疑問が生じますが、出口聖師は、信徒たち、特に宣伝使には「霊界物語」の拝読を厳命されており、「『霊界物語』を嫌う者がどうして瑞霊(救世神)の天国には入れるかい」という言葉もあります。むしろこの「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」という祈りの言葉との感応道交の境地を達成するためにも、「霊界物語」の拝読は必要です。

 

 

 “わたしにその癖があったからでしょうが、「学校で学級的に研究するように読んでも霊界物語はわからん、もっと素直に受けとれ」と聖師は言われる。「霊界物語には特別に上品なところから、下劣きわまりないところまでいろいろある。だからすべてを素直に受けとるわけにはいかない」と私がくい下がると、聖師は、「上品なところから下品なところまで一切を網羅してあるのが霊界物語だ。お前の心身にしてもそうだろう。非常に高貴な面もあれば下劣な面もあるが、すべてが寄りあってお前の人格となっているじゃろ。それと同じように考えて霊界物語を読めば、立派な神書だということが理解できるはずだ」というようなことを言われた。”

 

     (「いづとみづ №103」『大国以都雄に聞く 全時空を包含する霊界物語』より)

 

 

 “祝部神は、事もなげに答へて云ふ。

 『宇宙万有を創造し給うた全智全能の大神の経綸は、吾々凡夫の窺知する所ではない。吾らは唯々神の教示に随つて、霊主体従の行動を執ればよい。第一に吾々神人として、最も慎むべきは貪欲と瞋恚と愚痴である。また第一に日月の高恩を悟らねばならぬ。徒(いたずら)に小智浅才を以て、大神の聖霊体を分析し、研究せむとするなどは以ての外の僻事(ひがごと)である。すべて吾々の吉凶禍福は、神の命じたまふ所であつて、吾々凡夫の如何とも左右し難きものである。之を惟神(かむながら)といふ。諸神人らはわが唱ふる宣伝歌を高唱し、天津祝詞を朝夕に奏上し、かつ閑暇あらば「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはへませ)」と繰返すのが、救ひの最大要務である。吾々はこれより外に、天下に向つて宣伝する言葉を知らない』

と云つた。”

 

           (「霊界物語 第五巻 霊主体従 辰の巻」『波上の宣伝』より)

 

 

・妙好人、三河のおその

 

 “このおそのが、あるとき田舎道をいつもの通り「南無阿弥陀仏」、南無阿弥陀仏」と言って歩いておった。すると一人の若い女が行き過ぎて、おそののその姿を見て大いに軽蔑して、「ああ、またおそのさんの空(から)念仏か」と申しました。するとおそのはそれを聞いてその女の方へ駈け出していきました。若い女は、空念仏かと悪口を言ったのですから、定めし怒って来たのだろうと思って、「そんなに怒らんでもいいが」というと、おそのは、「いやいや怒るのではない、実はあなたにお礼が言いたくてあとを追ったのだ。それはもしも私の言う念仏が充実した念仏であって、それが手柄となって救われるというのならば、私のような愚かなものは、何としても救われる値打はない。しかしあなたは空念仏ということをおっしゃった。自分の念仏ではなくて空念仏となってこそ、初めて救われるのだということをあなたが教えて下さったので、こんなありがたいことはない」。こう言って非常に厚く礼を述べたということです。これはやはり念仏の真意を、非常によくとらえた言葉だと思うのです。私が念仏するというのならば、もはや自力的な念仏なのでありまして、私がからっぽになっている念仏だと言えると思うのです。

 法然上人に、沢山の人々が念仏とは何だということを繰り返し聞いたという話ですが、いつも法然上人は簡単に「ただ申すばかり」と言われたと申します。ただ南無阿弥陀仏と言えばいいのだ、こう教えられているのであります。この「ただ」ということに千鈞の重みがあるわけでして、何か意味あって言う念仏であるならば、それは本当の念仏ではないのであります。”

 

               (「柳宗悦 妙好人論集」(岩波書店)より)

 

 

*「大本神諭」は、もともとは平仮名で書かれたものであり、葦原万象先生が言っておられたように、むしろ漢字こそがルビに相当します。漢字を当てはめることによって、文章の意味はよくわかるようになりますが、「言霊」ということを考えると、漢字によって想念が限定され、言霊が、いわば封じ込まれてしまうように思えます。つまり、漢字を使わねば意味がよく伝わらず、かといって漢字を使えば言霊が損なわれてしまうというジレンマが生じています。「霊界物語」についても、本来は口述されたものであり、同じことが言えるようです。言霊とは霊的な力であり、意味を理解するというよりは、それに感応することが大切であり、「霊界物語」も読んで知的に理解するのではなく、素直に耳を傾けることによって、その言霊=霊的な力が聞き手の中に流入し、神界との感応道交の境地に至ることができる、ということだと思います。