【三橋貴明】「グローバリズムは民主主義よりも尊いのか?」を考える上で【オークショット】 | 独立直観 BJ24649のブログ

独立直観 BJ24649のブログ

流行に浮かされずに独り立ち止まり、素朴に真っ直ぐに物事を観てみたい。
そういう想いのブログです。

 三橋貴明が例の如く反グローバリズムを煽っている(https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12379901612.html)。

 反グローバリズムは共産党的な気もするが、これが保守を自認する人たちにもウけている。

 三橋の鉄板ネタの1つと言っていい。

「保守だったら反グローバリズム、保護主義」

「自由市場、自由貿易は新自由主義であり保守の敵。保守だったら国家社会主義」

 そんなノリの人たちが三橋の反グローバリズムを支持しているのではないだろうか。

 

 

 

 

 

https://twitter.com/hirohitorigoto/status/999449864156016643

 

 

 

 三橋は「TPP亡国論」で有名な中野剛志の影響を強く受けていると見られる。

 「TPP亡国論」に加わる前後で変節が散見されるからだ(例えば「実質賃金ガー!」(https://ameblo.jp/bj24649/entry-12172456468.htmlhttps://ameblo.jp/bj24649/entry-11909293500.html)、「グローバリズム」(https://ameblo.jp/bj24649/entry-12087974314.htmlhttps://ameblo.jp/bj24649/entry-12088354131.html))。

 グローバリズムと民主主義を対立関係に置くという図式も中野の影響であろう(https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-10895008766.html)。

 中野は「保守とは何だろうか」で、フリードリヒ・ハイエクマイケル・オークショットを対立関係に置く。

 保守主義者オークショットと対立する新自由主義者ハイエクは保守の敵だという図式だ(中野がハイエクを保守主義と敵対する新自由主義とする点につきhttps://ameblo.jp/bj24649/entry-12345761876.html)。

 この本は三橋も読んでいる(https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12027195349.html)。

 


 

中野剛志 「保守とは何だろうか」 (NHK出版、2013年) 232,233ページ

 

保守主義と新自由主義の境界線

 コールリッジは、社会科学の理論あるいは理性が、社会全体の秩序に関する一般原則を示すのみであるという点に関してはハイエクに同意するだろう。しかし、コールリッジは、次の二点において、ハイエクとはまったく立場を逆にする。

 第一に、コールリッジは、自由な活動が自生的秩序を形成するというハイエクの理論を拒否する。第一章から第三章までみてきたように、自由市場は、決して自動的には均衡に向かわず、放置すれば経済全体を不安定化させてしまうものであった。そして、ハイエクの自生的秩序の市場理論は、一九世紀の金融循環や世界恐慌といった歴史、そして現在の世界経済危機という事実によって、反証されている

 第二に、コールリッジは、社会科学は抽象的な一般原則しか示せないことを認めるが、だからこそ、個別具体的な状況を扱う政治の世界には直接適用すべきではないとするのである。この点で、保守主義は、ハイエク的な新自由主義とは決定的に袂を分かつ。マイケル・オークショットが強調したように、理性が示した抽象的な原則を政治に適用すべきであるという「政治のおける合理主義」を拒否し、実践的な政治を重視することこそ、保守主義の政治哲学の要諦である

 もっとも、ハイエクもまた、合理主義を批判してきたことで知られている。彼は、共産主義の計画経済の基礎にある合理主義の認識論的な誤謬を激しく攻撃してきたのであり、その点でオークショットなど保守主義者と共闘しうるのは事実である。また、そのことは、ハイエクの思想が保守主義とみなされてきた理由のひとつでもあろう。

 だが、実際には、ハイエクもまた、理論が導き出した一般原則に忠実に従って統治を行うべきだと考えていたのである。ハイエクの自由主義とは、共産主義とは別種の「政治における合理主義」であったのだ。そのことに気づいていたオークショットは、ハイエクの主著『隷従への道』を、こう評している。「あらゆる計画に抵抗する計画というのは、その反対のものよりもましかもしれないが、結局、同じ政治のスタイルに賊しているのである(※21)」。

 

249ページ

「※21 Mechael Oakeshott, Rationalism in Politics and Other Essays, Indianapolis: Liberty fund, 1991, p.26.」(※)

 

※ 「1991」となっているが、初版は1962年に出版されている。下記邦訳版が1991年より前の1988年なのはそのため。ちなみにオークショットは1990年に死去している(https://goo.gl/2Zfssn)。

 

 

 

 

 

 

 ところで、三橋・中野読者で、オークショットを読んだことのある人はどれだけいるのだろうか。

 保守主義のオークショットは、中野のように自由経済を危険視する反ハイエク・反新自由主義なのだろうか。

 オークショットの著作を見れば、全く異なる印象を抱くのではないか。私にはむしろハイエクに近いとすら思える。

 「政治における合理主義」において、なぜオークショットはハイエクをあのように批判したのかと私は理解に苦しんだ。これは別の機会に考えてみようと思う。

 オークショットは「自由の政治経済学」という論文を書いている。「政治における合理主義」と同じ本に収録されている。

 今回は、その中の、グローバリズムに関する、すなわち貿易に関する記述を紹介する。

 自由貿易は保守の敵であり、保護主義が保守であり、貿易は国家が管理すれば安心だ、などとオークショットは言っているだろうか。私にはオークショットは逆の方向性を有しているように思える。

「集団主義に固有な政府権力が得たものの中でも、おそらく外国貿易の政府独占から生ずるものこそ自由にとってもっとも危険であろう。貿易の自由こそ共同社会が過度な権力に対してもつ最も貴重で最も効果的な安全装置だからである。」

 ちなみに、オークショットはここで社会主義も国家社会主義も否定している(「経済民主主義」は聞き慣れないが、ドイツ労働総同盟やドイツ社会民主党が掲げた理念らしい。http://hamachan.on.coocan.jp/hrmics25.html)。

 そして、オークショットは、社会主義等の集団主義の源泉は「自由への愛ではなく戦争への愛」とし、「戦争の予感は集団主義への大きな誘引となる」と警戒する。我が国の場合、「戦争の予感」は、「震災等の大災害の不安感・危機感」に置き換えても通ずるだろう。

 また、オークショットは、「独占というものは…隷従を生みやすい」としており、そしてこの独占は政府による統制を受けるものを含んでおり、いわば規制緩和(自由化)反対は「隷従への道」の方向性を有するとも解されよう。

 他方、新社会主義を宣言する三橋は、「三橋貴明の第一原則」を示している。「規制緩和・グローバル化と安全保障の強化は、両立しえない」とするものだ(https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11955827441.html)。

 従来、三橋は「デフレ期にはデフレ対策、インフレ期にはインフレ対策」とし、インフレ期には規制緩和に賛成できるという立場であったのに(https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-10628445069.htmlなど)、安全保障と結びつけてしまうと、安全保障の弱体化などできないわけで、規制緩和(自由化)に賛成することができなくなる。これも「TPP亡国論」を境にした転換だと見ることができるだろう(https://ameblo.jp/bj24649/entry-11957167061.html)。

 三橋の論法は、戦争などの危機感を集団主義・隷従への誘引として用いるものと解され、オークショットによれば警戒の対象であろう。三橋(・中野)が新自由主義批判の際に引く「ショック・ドクトリン」は三橋自身にあてはまるのではないかと、「自由の政治経済学」を読んで私は思った(https://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-10857200536.html)。

 

 

 

M. オークショット著、嶋津格ほか訳 「政治における合理主義」 (勁草書房、1988年)

 

「自由の政治経済学」より

 

56~59ページ

 

「 我々が知っているように、現代の二つの大きな、相互に排他的な、自由主義的社会の敵は、集団主義(collectivism)とサンディカリズムである。両者とも独占の創出と維持による社会統合を勧める。いずれも権力の分散にはなんらの長所もないと考える。しかしこの二つは相互に排他的な自由社会の敵とみなさなければならない。なぜならば、サンディカリズムの好む独占は集団主義的社会も自由な人間たちの社会もともに不可能にしてしまうようなものだからである。

 現代世界における集団主義にはいくつかの類義語がある。集団主義といえば管理社会を意味するし、その別な名義は共産主義であり、国家社会主義社会主義、経済民主主義であり、中央計画であるといった具合である、しかし、集団主義という呼び方がもっとも感情的でない名前なので、我々としてはこれを使うことにしよう。それから我々は、高度の自由を享受している社会に集団主義的な編成を課すという問題を解決することに成功していると想定しよう。つまり我々は現在必要な合意<原文では傍点。以下同じ>が達成されたと想定するわけである。これは決して法外な想定ではない。なぜなら、きわめて逆説的なことに、集団主義は、我々の社会においてみんなが自由の障害だと認めている諸要素を我々から除去してやろうと熱心に申し出ているからである。自由主義者の関心は、集団的編成と彼の知っている自由とが両立可能であるかどうかということを探求することに向けられる。簡単に言ってしまえば、集団主義と自由はまったく二者択一的なものであって、一方を選べば他方を持つことはできないのである。だから自由を愛するように教えられた社会に、継続性を破壊しないかのような装いの下に、集団主義を課すことができるのは、ただ人々が自由への愛を忘れている場合だけである。これは無論決して新しい考え方ではない。現代集団主義の性格が次第に明らかになりつつあったとき、トクヴィル、ブルクハルト、アクトンといった観察者たちに見えていた事態は以上のようなものだったのである。

 集団主義に対して向けられるもっと外聞の悪い告発もあるがそれはここでは触れないことにして、集団主義的制度に内在する(自由の観点からすると)欠陥についてだけ考察しよう。自由に対する集団主義の敵対は、権力の分散と多くの純粋に自発的な結社によって組織された社会という観念全体への集団主義的立場からの拒絶にまずあらわれる。独占を治癒するために提案されているのは、より数多くのより広範な独占を創出しこれらを力で統制することである。社会に課される組織は政府を構成する人たちの頭脳から出てきたものである。それは包括的な組織化であってゆるやかに設定された目標とか統制されざる活動などというものは、不可避的に全体の構造を損なうものであるから、無能力の結果だとみなされざるをえない。そしてこの組織を包括的に統制するために巨大な権力が必要とされる。この権力たるや、単に、過度に強力な単一の権力集中が登場したときにこれを解体するのに充分であるだけでなく、集団主義者が創出した諸々の巨大な権力集中を普段に統制するのに充分でなければならないとされるのである。集団主義的社会の政府は、その計画に対してきわめて限定された反対派しか許容しえない。実際、反対派と反逆者の厳密な区別(それは我々の自由の一要素である)は否定され、服従でない行為はサボタージュだとみなされる。政府以外の社会的産業的統合の手段をすべて無力化してしまっているので、集団主義的政府はその発した命令を強制するかさもなくば社会を無秩序状態に陥るままにしておくしかない。それがいやならば、権力行使の節約の伝統に従って、平和の代価として役得を要求しうるグループを引き立ててやることによって政治的反対派を育成してやらねばならないはめになるだろう。以上のことはすべて明らかに自由の障害物である。だが言っておかねばならぬことがもっとある。集団主義はものごとを行うにあたって、法の支配に加えて、あるいはしばしばこれにかえて、裁量権をむやみに使うことに頼る。集団主義が社会を組織化していくというとき、社会の方にはそれを進める力はなんら内在していない。それは種々雑多な介入を日々繰り返していくことによって進めていくしかない。即ち、価格統制、諸々の活動をするに土江の免許制度、製造業や農業を営んだり、買ったり売ったりするときの許可制度、配給量の不断の再調整、特権・免除の配分などがそれであり、要するに、誤用と腐敗のきわめて生じやすい権力を行使せざるをえないわけである。法の支配に固有な権力の分散は、集団主義的社会を操作するには不十分な権力しか、政府に与えない。更に、集団主義は我々の自由のひとつである競争による統御と政治的統御の分業を廃止してしまうことを意味することがわかる。もちろん政治が強化sれても競争は、痕跡的な形で変則に生き残るかもしれない。しかし基本的には企業は、ただ競争的でない場合にのみ、即ちこの企業が中央当局の道具として役立つ企業組合の形態をとるか、あるいは割当てと価格統制のシステムによってリスクなど本来の企業にふさわしい諸要素を奪われた比較的小さな事業体の形態をとる場合にのみ、許容されるにすぎない。ここでは、組織化の一形態としての競争は、まず活力を奪われ、次いで破壊される。競争が我々の社会で果たしている社会統合の仕事は政府の機能へと編入され、かくして政府の権力を増大させ、政府を社会のなかで生ずべきあらゆる利害紛争にまきこむ。そして競争が消滅するということは、我々が我々の自由の最も重要な要素の一つとみなしてきたものが消滅することになるわけである。しかし、集団主義に固有な政府権力が得たものの中でも、おそらく外国貿易の政府独占から生ずるものこそ自由にとってもっとも危険であろう。貿易の自由こそ共同社会が過度な権力に対してもつ最も貴重で最も効果的な安全装置だからである。国内での競争の廃絶が政府を紛争に引き込む(それによって紛争を増幅せしめる)のと同じように、集団主義的外国貿易は政府を競争的商取引にまきこみ、国際的不調和の機械とその程度を増幅する。それから、集団主義は社会を一元的な行動に動員するものでる。現代世界では集団主義は不完全な競争から生ずる不完全な自由を救済するものとして登場しているが、しかしそれは自由を殺してしまうことによる救済を意図している。このことは何ら驚くに足りないのであって、集団主義の真の源泉は自由への愛ではなく戦争への愛なのである。戦争の予感は集団主義への大きな誘引となるし、戦争行為は巨大な集団主義化過程にほかならない。更に言えば、大規模な集団主義は本質的に好戦的である。ここにこそ集団主義にとって好都合な存在条件がついに登場するのである。それは自由の喪失に向って二重の機会を提供している。つまり、集団主義的組織化それ自体とその組織化が向けられている目的とである。集団主義は自分のことを「福祉」の一手段だといって売り込むのだけれども、それが追求しうる唯一の「福祉」、即ち集権化された国家的「福祉」は、国内にあっては自由に敵対的であり、対外的にはこれに張り合う組織がでてくるという帰結を生む。

 集団主義は我々の自由のすべての要素に無頓着であり、その若干のものに敵対的である、というぐあいである。これに対してサンディカリズムこそは、我々が知っている自由な生活様式の真の反対物である。」

 

62ページ

 

集団主義の信奉者は当然戦争をのがすべからざる好機とみる。社会を動員解除することなど彼のプログラムのなかにはない。」

 

64ページ

 

「競争が統御の装置としてうまく機能しえない事業は公共による施行に移されなければならない。そこでこの政策と集団主義的政策の違いが考察されなければならない。まず第一に重点の置きどころが違っている。集団主義者は、究極においてその「国有化」が克服しがたい技術的困難を示さない事業はどれでも引き継ごうとするが、自由主義者は、なんらかの独占が不可避であるときに限って、政府による統制をうける独占を創出しようとする。集団主義者が独占を好むのは、それが政治的統制の拡張の好機となるからであるが、自由主義者は破壊できる独占はすべて解体しようとする。このような重点の置き方の根拠は明らかである。自由主義者にとって独占というものはすべて高くつくものであり、隷従を生みやすい。

 

 

 

 

 

 中野は、オークショットを、ハイエクを攻撃し、新自由主義批判をするための出汁に使ったと解される。ハイエクを批判する点で共通するとしても、中野とオークショットとは大きく異なる。

 「保守とは何だろうか」から受けるオークショットの印象と実際の彼の著作から受ける印象とは、大きく異なるであろう。

 同書において中野は、①「保守は自由市場に懐疑的・敵対的」、②「保守はプラグマティズム(実践的な政治)」、③「ハイエクは福祉という正統な権力の行使を否定している」などとしている。

 ①確かにオークショットも政府による自由市場への規制を認めているが、それは、独占(政府によるものも含む)を生じさせず、「実効的な競争」を維持・促進して自由を保障するためだ。また、②確かにオークショットはハイエクの「隷従への道」を批判したが、プラグマティズムについては「奴隷状態の徴表」と危険視しており、むしろこれの方が「隷従への道」だということとなろう。③集団主義者の「福祉」の主張をオークショットが「自由に敵対的」と批判しているところは既に引用した。

 オークショットによれば、中野の保守論は肯定されないであろうし、むしろその欺瞞性が浮かび上がるであろう。

 

 

 

中野「保守とは何だろうか」27ページ

 

「 このように、一九世紀以降の保守の歴史を辿ってみると、保守と新自由主義の結びつきは、必ずしも自明ではないことが分かるだろう。それどころか、一九八〇年代初頭からの三〇年間を除けば、保守は、自由市場や個人主義といった新自由主義の主たる価値観に対して懐疑的であり、敵対的ですらあったのである。

 

 

 

オークショット「政治における合理主義」

 

「自由の政治経済学」より

 

52~54ページ

 

「 所有の考察とともに我々は社会の経済的組織の考察にはいってしまった。所有制度はある程度まで社会の生産及び配分の活動を組織するための仕組みでもある。我々の伝統の上に立つ自由主義者にとって主要な問題は、彼が賞揚しているところの自由を破壊することのない仕方で生活を組み立てる企てをいかに規制したら良いかということであろう。もちろん彼は自由にとって全く好都合なこの企てを組織する手段を我々の私有財産制度の中に認めるだろう。独占あるいはそれに近い状態はすべて彼にとっては自由に対する障害であり、私的所有は我々と独占の間にある制度のうちの随一のものである。独占に関しては彼はいかなる幻想も持たない。独占がその権力を乱用しないように望むといったふうに楽観的に独占を考えようとはしない。彼の考えるところでは、いかなる個人にも、いかなるグループ、結社、結合にも、多くの権力を託すことはできないのであり、絶対的権力が濫用されたからといって不満を言うのはその人の愚かしさを示すものにすぎない。絶対的権力なるものは濫用さるべく存在しているものだからである。従って自由主義者は、かかる権力の存在を阻害する制度にのみ信をおくのである。言いかえれば、彼の愛好している自由を切り縮めることのないように生活を組み立てる企てを組織するには、実効的な競争の確立・維持によるしかないと考える。実効的な競争というものはひとりでに生じてくるものではないこと、競争もそれに対するいかなる代案もともに法の創造したものであること、に彼は気づいている。しかし、彼は法によって(しばしば不注意によって)独占その他の自由に対する障害が創造されるのをみてきているので、同じように法によって実効的競争を想像し維持するという既に存在ししている伝統に依拠することは決して彼の社会の能力をこえたことではないと考える。しかしまた彼は、競争を実効的なものにするという課題と生活を組み立て欲求を満足せしめるという(実効的競争自体によって遂行さるべき)課題とを混同することはいかなるものであれ彼が知っている自由にとって即座に致命傷になる、ということを認識している。というのは、競争(市場)の行う活動の統合を政治的統制でおきかえることは、独占を創出することであり、また自由と不可分な権力の分散を破壊することでもあるからである。たしかにこの点に関して自由主義者は、彼の経済システムが財を生産するときの効率性を彼が考えにいれてこなかったという不満に耳を傾けなければなるまい。我々はいかにして自由と効率性という二つの相矛盾する要請をおりあわせるべきであろうか、考えてみねばならない。しかし回答の準備はできているのだ。考慮さるべき唯一の効率性は人々が購入したいと思う物をできるだけ経済的に供給する方法である。これが最大限になる状況は形式的には経済行為が実効的に競争的であるところに存在する。その場合には企業家は財の消費者とサービスの売り手との仲介者にすぎないからである。そしてこの理想的な想定の下では、意味のある比較は、改良された(しかし未完成の)競争経済の効率性水準と完全に計画化された経済の効率性との比較ではなくて、改良された競争経済と唯一実効可能な代替案である一種の計画経済(無駄や機能不全や堕落をともなう)との比較である。要するに、独占、準独占及びあらゆる巨大な権力集中といった、自由に敵対的なものはどれも、考慮に値する効率性を阻害するものでもあるのだ。

 

61,62ページ

 

「 しかし今やサイモンズが、このような明確に定式化された政策をもって登場してきた。そうしたのは彼が初めてではない。しかし自由の共はみな彼の言うところをよく考えることで必ずや得ることがあるであろう。サイモンズほど自由の現状に不満を持っていた者はいないだろう。彼の提案は単に自由主義的であるだけでなく、彼自身も指摘しているように多くの点で集団主義者の計画よりもラディカルである。種々雑多な介入と裁量的権限の使用によって変革を企図するプランナーは、自由を破壊するばかりであり、法の支配を拡大し強固なもおにしようとする自由主義者よりも改革に役立つことが少ない。サイモンズはその政策を「レッセ・フェールのための積極的プログラム」と呼んでいるが、その主な理由は、この政策が、実効的な競争が不可能であることが証明されない限り競争を実効的なものにすること、今やあらゆる種類の独占の前に大幅な妥協を強いられている権力分散を再建すること、及び我々の自由の秘密である競争による統御と政治的統御との分業を保持することを、狙っているからである。しかしイギリスでもアメリカでも、彼が一九三四年に提案した計画は、今では部分的には歴史的意味におけるレッセ・フェールのプログラムだということになるであろう。つまり、集団主義者がいなかったからではなく、まさに集団主義者の仕業によってできてしまった競争の特殊な制限を取り除くためのプログラムである。そうはいっても、レッセ・フェールと混同され、言うにこと欠いた集団主義者が物笑いの種にするところの全く制約のない競争などという想像上の条件とは、サイモンズの提案はもちろん何の関係もない。学校に行っている子なら誰でも知っているように、実効的競争が存在するとすれば、それはそれを促進する法体系によってはじめて保障されるのであり、独占が出現してしまうのは法体系がそれを阻止しなかったからにほかならない。無規制の競争などというものは幻想であると知ること、競争を規制するということは競争による統御という操作を損なうこととは違うのだと知ること、そしてこの二つの行いの違いを知ること、これらのことは自由の政治経済学の初歩である。

 

※ 中野は1980年代以前は保守は自由市場に懐疑的・敵対的だったとしているが、「自由の政治経済学」の初出は1949年であり、これが収録された「Rationalism in Politics and other essays」の初版は1962年。

 

中野「保守とは何だろうか」31ページ

 

「 たしかにハイエクの言う通り、伝統的に、保守は、抽象的な理論や一般原則に対して懐疑的であるのは事実である。ギルモアも、ハイエクが侮蔑的に指摘した保守の属性は、保守にとってはむしろ誇るべき美徳であると反論している。ハイエクが場当たり的とみたものは、環境に応じて適切に反応するプラグマティズムである。ハイエクが政府権力の乱用とみたものは、国民の福祉を増進するための正統な権力の行使である。

 

 

 

オークショット「政治における合理主義」

 

「自由の政治経済学」より

 

54ページ

 

「我々が関心をもっている社会は、昨日今日にできたものではなく、特定の性格と活動の伝統を既にもっている社会である。かかる状況においては、社会目標の達成は、諸条件の変化を念頭におきつつ社会の性格によって規定されまたは示唆された次のステップを感知し、このステップを、社会が壊れないように、かつ将来の世代の〔自分のことを自分で決めるという〕特権が大きく損なわれることのない仕方で、踏むことなのである。すると、この社会は、その道標を、あらかじめ認識された目的ではなく、継続性の原理(それは過去、現在、未来のあいだの権力の分散を意味する)及び合意の原理(それは現在のさまざまな正統な利害のあいだの権力の分散を意味する)に見出すことになろう。我々は、我々による現在の願望の追求によって過ぎ去りしものへの共感が失われることがないがゆえに、自分たちのことを自由であるというのである。賢人のごとく我々は我々の過去と和解して在るのである。少しでも動くことを頑として拒否する態度、人民投票的民主主義にみられるようなまったくのプラグマティズム、伝統とは「前回」したことをするにすぎないという短絡した認識、そして一歩一歩訓練を積むよりも近道をしたがる選好、こうしたもののいずれにも我々は奴隷状態の徴表を見出すのである。また我々は、遠くはなれた予測もできないような未来のために現在を犠牲に供することも、うつろいゆく現在のために間近の予見しうる未来を犠牲に供することも、したくないのであり、短見にも陥らず、かといってあまりに先を見すぎもしないがゆえに、自分たちを自由であると考える。更にまた、見解の自発的一致を背景としたゆっくりとした小さな変化への選好、反対派を抑圧することなく分裂に抵抗できる能力、及び社会が速くあるいは遠くに動くことよりも社会がともに動くことのほうが重要であるという認識に、我々は自由を見出す。我々は我々の決定が誤りのないものだなどとは主張しない。実際、完成ということについて客観的ないし絶対的な基準が存在しない以上、不可謬ということはなんら意味をもたない。我々が必要としているものは、変化の原理と同一性の原理のうちに見出されるのであって、それ以上のものを我々に提示する人々、つまり、多大の犠牲を我々に要求する人々、及び我々に英雄的性格を課したがる人々を、我々は疑ってかかる。」

 

 

 

 オークショットを保守主義として理解するか否かにも議論があろうが、中野の師匠の故・西部邁氏は保守主義として理解している(西部邁「思想の英雄たち 保守の源流をたずねて」(文藝春秋、1996年)245~259ページ。「オークショットは崩れてゆく保守の城塞の最後の守り手となった。」「私たちは、オークショットの言説から、保守思想はまだ死滅してはいない、という朗報を得ることができるのである。」(246ページ))。

 そのオークショットが自由を重んじ、貿易についても上の論述をしている。

 私としては、「オークショットは保守。ハイエクは保守の敵。」とするほど両者に決定的な相違はないと思うし、西部氏もハイエクを保守主義に入れている(同229ページ以下。https://ameblo.jp/bj24649/entry-12345761876.htmlにて引用)。

 むしろ中野こそオークショットと決定的に相違しているように思う。中野の保守論に従えば、「オークショットは新自由主義であり保守ではない」という話にすらなってしまうのではないか。

 オークショットは重要なイギリスの政治学者であるが、上記引用でもわかる通り読みにくいせいもあって、我が国では知名度は高くない(宇野重規「保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで」(中央公論新社、2016年)96ページ)。保守系の政治談義を聞いてもオークショットの名を耳にすることは稀であろう。

 そういうところに中野は付け入ってくる(ピーター・テミンに関する「詐欺的記述」につきhttps://ameblo.jp/tilleulenspiegel/entry-11518873396.html)。

 保守にとって三橋・中野は信用の対象か。果たして反新自由主義・反グローバリズムは「保守主義の政治哲学の要諦」なのか。むしろ偽装保守を推認させるものではないか(https://ameblo.jp/bj24649/entry-12323716295.html)。

 オークショットを参考にしてみてはいかがだろうか。