【中野剛志】「ハイエクは保守ではない」ではない【ちゃんと読んだ?】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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そういう想いのブログです。

 何が保守なのか。何がリベラルなのか。

 政治的にも言論的にも、思想の位置づけが混乱している。

 私も思想には苦手意識がある。

 そんな中、「正論 2018年2月号」に「左派vs右派を超えて」という思想に関する小企画が組まれ、2本の論考が掲載されていた。

 遠藤司氏のものを見てみたら、これが興味深い(264~273ページ)。

 特に、フリードリヒ・ハイエクに関する記述だ。

 

 

 

 

 

 

 遠藤氏はハイエクを保守の文脈に位置づけるが、

「ある人から、ハイエクは保守ではない、「なぜ私は保守主義者ではないのか」と題する論文を書いたじゃないかという反論をされたことがある。」

と言う(268ページ)。

 私が思い当たったのは、「TPP亡国論」で有名な中野剛志である(https://goo.gl/fbCSGY)。

 ひょっとしたらこの「ある人」は、中野の「保守とは何だろうか」を読んだのではないか(https://goo.gl/CQQVBA)。

 中野は、この中でハイエクをミルトン・フリードマンと並べて新自由主義に位置づけ、保守主義と敵対するものだとする。ハイエクの「私は、保守ではない」という記述も紹介している。

 中野は、ジョン・グレイなる政治哲学者を引いて、マーガレット・サッチャー、ロナルド・レーガン、中曾根康弘は新自由主義と結託して保守を死に追いやったとする(なお、サッチャー政権とレーガン政権はハイエクの影響を受けていた。渡部昇一「朝日新聞と私の40年戦争」(PHP研究所、2015年)64~67ページ。https://goo.gl/fKj9UTにて引用)。

 中野は資本主義体制と保守は矛盾関係に立つとし、しまいには新自由主義は「独裁権力と結託する」という。

 明記していないが、中野に従うとハイエクは保守を殺した独裁思想ということになる(なお、故・渡部昇一氏はハイエクを「マルクス主義を殺した哲人」とする。https://goo.gl/NMio7t)。

 ハイエクに詳しい人にはこれだけで目眩や吐き気を催すかもしれない。

 

 

 

中野剛志 「保守とは何だろうか」 (NHK出版、2013年)

 

12ページ

「資本主義それ自体が革新の運動であるのだから、資本主義体制を維持しようとする「保守」は、「革新を保守する」という自己矛盾に陥ってしまうのである。」

 

14,15ページ

「 戦後は、世界恐慌の経験に立ち、政府が需要を管理するケインズ主義の考え方が主流となった。また、労働市場や金融市場に対する規制や、福祉国家といった制度により、経済成長と経済的平等の両立が図られていた。これに対し、ハイエクやフリードマンら新自由主義者たちは、ケインズ主義や福祉国家といった「大きな政府」は、経済を非効率にし、個人の自由を侵害するものであると批判したが、その頃は、人々に広く受け入れられることはなかった。

 しかし、一九七〇年代にスタグフレーション(インフレーションと不況の同時発生)が起きると、ケインズ主義や福祉国家といった考え方に対する信頼が揺らぎ、新自由主義の影響力が急速に強まった。一九七〇年代末から八〇年代にかけて、イギリスのマーガレット・サッチャー政権、アメリカのロナルド・レーガン政権、日本の中曾根康弘政権など、新自由主義にのっとった経済政策を実行する政権が相次いで成立したのである。

 ここで、保守と新自由主義が結びつくことになる。サッチャー、レーガン、中曾根は、いずれも保守政党の党首であり、しかも、彼らは、伝統的な婚姻制度や家族制度の重視、勤勉精神や愛国心の称揚など、保守的な価値観を前面に押し出していた。」

「グレイは、この新自由主義との結託こそが、保守の死をもたらしたのだと主張した。」

 

22,23ページ

「保守主義」対「新自由主義」

 二〇世紀に入ると、全体主義や共産主義が台頭し、保守にとっての新たな脅威となった。そこで、保守と自由主義者とは、全体主義や共産主義という共通の敵を前にして、手を結ぶようになった。しかし、保守は、自由市場に対する警戒を怠ったわけではなかった。

 第二次世界大戦後の保守は、ハイエクやフリードマンのような新自由主義者とは異なり、ケインズ主義的な経済運営や福祉国家までも全体主義への道であるとして否定することはなかった。一九七〇年代のスタグフレーションの中で、ケインズ主義に対する信頼が揺らぎ、七〇年代後半から、新自由主義が影響力を強めていったのは先述の通りだが、それでもなお、その当時においては、保守の中には、新自由主義の台頭を懸念する声があったのである。」

 

27,28ページ

ハイエクの保守観

 このように、一九世紀以降の保守の歴史を辿ってみると、保守と新自由主義の結びつきは、必ずしも自明ではないことが分かるだろう。それどころか、一九八〇年代初頭からの三〇年間を除けば、保守は、自由市場や個人主義といった新自由主義の主たる価値観に対して懐疑的であり、敵対的ですらあったのである。

 しかも、ほかならぬハイエク自身が、「私は、保守ではない」と明確に述べている。それが、『自由の条件』の最終章である「私はなぜ、保守ではないのか」というエッセイである。

 

220~222ページ

なぜ新自由主義は独裁権力と結びつくのか

(中略。ナオミ・クラインの「ショック・ドクトリン」の新自由主義批判の紹介等。なお、「ショック・ドクトリン」の元ネタはマルクス主義地理学者デヴィッド・ハーヴェイの「新自由主義」。上念司「経済用語 悪魔の辞典 ニュースに惑わされる前に論破しておきたい55の言葉」 (イースト・プレス、2015年)69~73ページ。https://goo.gl/A3rw1uにて引用)

 最小国家を唱え、自由を尊重し、個人主義を信奉する新自由主義者が、なぜ、よりにもよって独裁権力や恐怖政治と結託するのか。その理由は簡単である。新自由主義者は、抽象的な理論から導き出されたに過ぎない自由市場を実現しようとする。だが、現実の経済においては、数々の規制、制度あるいは既得権益が存在しており、完全に自由な個人が競争する市場などというものは存在しない。完全なる自由競争市場を実現するためには、その障害となっている規制、制度、既得権益を破壊しなければならない。その破壊のためには、強大な権力が必要となる。こうして新自由主義者は、独裁権力と結託するのである。」

 

 

 

 

 

 さて、この「ある人」に対し、遠藤氏はどう答えたのだろうか。

「ちゃんと読んだ?」

であった。

 ハイエクは、保守の祖のエドマンド・バークに依拠し、「体制保守」の「保守主義者」を批判したのである。

 中野的な言い方をすれば、「体制保守」は社会主義とも結託でき、保守に死をもたらし得るのである(私見だが、例えば北一輝が挙げられよう。北は国粋主義者・右翼と認識されがちだが、その主張は天皇を戴いた社会主義であった。上念司「日本再生を妨げる売国経済論の正体」(徳間書店、2011年)185ページ、渡部昇一「本当のことがわかる昭和史」(PHP研究所、2015年)142~146ページ)。

 ハイエクは「(正統)保守」に位置づけることができる。

 そういうハイエクに対して中野は新自由主義のレッテルを貼り、敵視する。

 思うに、保守における自由の重要性を了解できないと、中野のような新自由主義批判に流されてしまいやすいだろう。

 ハイエクを保守に分類してよいか否かについては争いのあるところだとは思うが、とりあえず、自由を重視しない中野を「真正の保守」(「保守とは何だろうか」40ページ)とするのは困難であろう。

 

 

 

遠藤司 「寛容な保守「リベラル」…政治理念の乱れを読み解く」(正論2018年2月号、産経新聞社) 267~272ページ

 

リベラル=「左」の起源

 

 次に、リベラルが「左」を意味するようになった経緯を見てみたい。アメリカにおいて、ニューディール政策を推し進めた民主党出身のフランクリン・ルーズヴェルト大統領は、大きな政府と、労働者階級寄りの政策をもって「アメリカのリベラリズム」と呼んだ。人民を物質的な欠乏から「自由」にすることを目指す政策だから、という論理である。どうやらこのときに、一般に「リベラル」が「左」のことを意味するようになったようである。なお、アメリカの文脈においても、共産主義は「リベラル」に含まれない。共産党も含め「リベラル勢力」と呼ぶ今の日本の政治的状況は、やはりおかしい。

 リベラル=自由主義者とは、本来的には「保守」の立場のことである。ノーベル経済学賞を受賞した「保守」の経済学者、フリードリヒ・ハイエクらは、ルーズヴェルトが唱えたリベラル、モダン・リベラルに対抗し、古来の意味におけるリベラル、クラシカル・リベラルを再生させようと、モンペルラン・ソサエティを結成した。ハイエクは、西洋諸国の衰退は「有害な」モダン・リベラルの理念にあることを確信していたのである。問題意識は、次のようなものであった。

「個人ならびに自由意思による集団の立場が、恣意的な政治権力の伸張によって蝕まれてしまった。思想の自由と表現の自由が、権力を追求する少数の者どもによって脅かされている。あらゆる絶対的な道徳規準を否定し、法の支配に疑問を呈し、さらには私有財産と競争市場に対する信頼を損ねる歴史観によって、このような悲惨な状況が助長されてしまったのである。」

 モダン・リベラルは、言葉の上ではリベラルを名乗ってはいても、実際には自由を圧殺するのである。ハイエクらは、古来のよき価値が危機に瀕していることを危惧し、本当の「リベラル」を取り戻そうとしたのである。

 ある人から、ハイエクは保守ではない、「なぜ私は保守主義者ではないのか」と題する論文を書いたじゃないかという反論をされたことがある。筆者の返答は「ちゃんと読んだ?」であった。なぜならハイエクは、明らかに「保守」の祖であるエドマンド・バークの立場に依拠しているからである。ハイエクの言わんとしたことは、「保守主義者」らは当時の状況において、別の道を与えることができないということであった。

「保守主義は時代の傾向に対する抵抗により、望ましからざる発展を減速させることには成功するであろうが、別の方向を指し示さないために、その傾向の持続を妨害することはできない」

 ハイエクの言うところの「保守主義者」たちは、その保守性のゆえに、どこへ向かわなくてはならないかを問うことができなかった。変化を恐れ、新しいものそれ自体に対する不信感をもつ彼らは、あくまでも過去に目を向けており、未来のビジョンを描くことができない。そうであるからハイエクは、より積極的に自由を擁護する者として、自らを自由主義者=リベラルと呼んだ。変化を受け入れ、それに対応する姿勢をもつ自由主義者として振る舞うことを、ハイエクは選んだのである。

 ようするにハイエクは、保守的な態度をもつ「保守主義者」を批判しているのである。保守的な態度は、体制に対する保守を指すものであるから、理念において「左」のそれを選び取る危険から逃れられない。体制に対する保守は、確かに社会主義と妥協し、その考え方を横取りしてきた。集産主義的信条の大部分を、受け入れてしまった。そうではない「保守」としての「リベラル」であることが、自由を守るためには必要である。そうであるからハイエクは、まぎれもない「保守」であったといえよう。バークをはじめとする「真の自由主義者」らを「保守」と呼ぶところの思想を、ハイエクはもち合わせていたのである。ハイエクはバークがフランス革命と戦う際に標榜したように、自らを「オールド・ホイッグ(古来の自由党員)」とみなした。「ニュー・ホイッグ」ではない古来の自由主義者、バークと、自身とを重ね合わせたのである。

 二種類の「保守」が存在することがわかってきた。一方は、いわば「体制保守」と呼ばれるものであり、守旧派のそれと同じ態度をもつ保守である。もう一方は「正統保守」であり、政治的信念をもち、それを堅持する姿勢をもつ保守である。前者には理念がない。後者には理念がある。社会主義とか共産主義といった政治的イデオロギーとの対立軸において「保守」を捉えるならば、われわれが参考とすべきは、バーク的な「正統保守」のほうであろう。「体制保守」は、それが現在まで続いてきたという理由だけで、社会主義を受け入れてしまうのだから。

 

正統の保守主義

 

 ハイエクの言うように、バークは自由主義者であった。「保守」を語る上で、自由というキーワードはきわめて重要である。なぜなら、自由を圧殺する体制、全体主義体制を、「保守」の対極に位置づけなければならないからである。ときにナチスを「保守」ないし「右」の一角に数えることがあるが、全体主義は「保守」の最も嫌うところである。実際に、歴史上「保守」は、全体主義と戦ってきた。だいたいナチスは、国家社会主義ドイツ労働者党と名乗っているではないか(※下線部分は原文では傍点)。明らかに「左」であり、極左である。

 人々が自由であるためには、自由を守る体制が必要である。それは、実際に自由が守られている国家の体制であろう。実のところ愛国心は、「保守」であるための十分条件ではない。愛国を掲げながら、現存する社会を転覆させることもまた、可能だからである。人間の理性は全幅の信頼を寄せるにはあまりにも弱く、したがって新規に社会を設計したとしても、うまくいく保証はない。抽象的推論によってより自由な社会が描き出されても、その実験が失敗してしまったならば、自由は脅かされてしまう。そうであるから「保守」は、ハイエクのいうところの「自生的秩序」のほうを信じるのである。人間社会は混乱に陥ったとしても、平穏な秩序を保とうとする力が働く。それは人間の本性に合致した社会であって、そのゆえに自由は守られる。だから、大きな政府は志向してはならない。人間理性よりも社会の秩序維持機能のほうが、ずっと優れているのである。

 たしかに国家は、法律を制定する。しかし「保守」の観点からいえば、国家は法を発見し、それに形を与えるにとどまるべきである。チェスタトンの言うように「人間は、この世界に住むのが快適かどうか考え始めるより前に、すでにはじめからこの世に住んでしまっている」。そうであるから、すでに人々に受け入れられている共通の規範としての法が、人間社会のうちには存在する。それらの法に背く法律は、制定されるべきではない。立法とは、法の発見に他ならないのである。

 社会は常に変化している。よって、何らかのひずみが生じる。そのひずみを取り除き、秩序を維持せんとするのが「保守」の政治的態度である。バークは言う。

「何らかの変更の手段を持たない国家は、自らを保存する手段をもたない」

 目的は保存であって、手段として変更を加えるのである。たしかにバークは過去から継承したものをこそ擁護する。しかしバークは、未来への配慮を忘れてはいない。現存するものは変化することで、新たな伝統をつくり上げる。所与の社会に変更を加えるのは、その社会を未来へとつなぐためである。斧よりもはさみを用いて、問題となっている部分を切り取り、新たに接ぎ木する。それが「保守」のなす改革である。

(中略)

 全体主義者に言わせれば、全体を機能させるためには、個を全体に従属させる必要があるのだろう。しかし「保守」は、人々の自由を積極的に認める。人間が自由に振る舞うべきなのは、社会のうちで自身の能力を発揮し、社会に貢献することで、自己の実現に至るためである。よって自由は、権利というよりは、義務に関わるものである。人は、正しいことを行う自由がある。正義をなす自由がある。バークは言う。

「自由と正義がいったん分離すれば、そのどちらも安全ではない」

 古来よりまっすぐ受け継いだよき価値を守り、よき生を送るためにこそ、自由がある。そうであるからわれわれは、この社会を守り抜いてきた祖先を意識して行動しなければならない。バークの言うように、つねに聖化された祖先の眼前にあるように行動することで、われわれの自由は気高き自由となるのである。」

 

 

 

 

 

 念のため、他の評論も見てみた。

 これによると、ハイエクは保守主義の文脈に位置づけられ、新自由主義に位置づけるのは不適切であるとのことだ。

 ハイエクは「法の支配」を重んじ、独裁権力とも結びつかない。

 

 

 

宇野重規 「保守主義とは何か 反フランス革命から現代日本まで」 (中央公論新社、2016年)

 

79~83ページ

 

「 ハイエクは保守主義者か

 続いて、オーストリア出身で、のちに英国やアメリカで活躍した経済学者フリードリヒ・ハイエク(一八九九ー一九九二)について検討してみたい。すでに触れたように、もし二〇世紀の保守主義にとって最大のテーマが社会主義との対決であったとすれば、その代表的な人物としてハイエクの名をあげることは、きわめて適切な人選であろう。

(中略。ハイエクの社会主義批判の概略)

 とはいえ、はたしてハイエクを保守主義の文脈に入れることは妥当なのだろうか。実際、ハイエクは自らを自由主義者であると称しており、保守主義者であることを明確に否定している。彼が残したエッセイ「なぜわたくしは保守主義者ではないのか」が文字通りそのことを示しており、これをまず検討することが必要になる。

 このエッセイのなかでハイエクは保守主義者に対する共感を示しつつ、自分があくまで自由主義者であることを強調する。ただ、ハイエクは同時に、現代で一般にいわれる自由主義と、自分のいう自由主義が異なることについても指摘している。裏返していえば、ハイエクにとって、社会主義者でないことこそはっきりしているものの、自由主義と保守主義という一般の二分法では、自分をうまく位置づけられないと告白していることになる。これは実に興味深い発言といえるだろう。

 

 変化を歓迎する自由主義

 なぜハイエクは自分を保守主義者だといわないのだろうか。「それは保守主義がまさにその本質から、われわれの向かっている方向に代わる別の道を与えることができないことである。保守主義は時代の傾向にたいする抵抗により、望ましからざる発展を減速させることには成功するであろうが、別の方向を指し示さないために、その傾向の持続を妨害することはできない」(「なぜわたくしは保守主義者ではないのか」)。要するに、保守主義はブレーキをかけるだけであって、未来に向けてのアクセルに欠けているというのである。

 これに対し、自由主義はけっして後ろ向きの主義ではないとハイエクはいう。自由主義はむしろ変化を歓迎する。もちろん、すべての変化がいいというわけではない。しかしながら、長期的に見た場合、人間の努力により新しい手段を生み出し、知識を前進させていくことなしに、社会の問題や困難は解決されない。その意味で、進化による変化を嫌うことがないのが自由主義の特徴であるとハイエクは主張した。

 ただし、ハイエクのいう進化とは、政府の統制によって設計された変化ではない。変化はあくまで人々が自発的になしたもの――自生的(spontaneous)なもの――でなければならないというのがハイエクのポイントであった。進化はけっして計画できないのである。

 人間の理性には限界があり、すべてを見通すことはできない。そうである以上、各個人が自分なりに幸福を追求すべきであり、そのための寛容が重要である。ハイエクはこの点で、保守主義と自由主義の接点と違いを見出した。たしかに保守主義もまた、人間の理性への過信を批判する。しかしながら、保守主義があくまで階層秩序を好み、特定の階層の人物を指導的地位につけることを推奨するのに対し、自由主義はエリートの存在こそ否定しないものの、誰がエリートであるかをあらかじめ決定することはないとハイエクは論じた。

 ハイエクが否定するのは、変化を拒絶し、階層秩序に固執する保守主義であったといわねばならない。もし保守主義がそのようなものではなく、個人の自由と、それに基づく変化を許容するならば、ハイエクにとって保守主義を拒絶する理由はなくなる。例えば、このエッセイのなかで、ハイエクはしばしばバークの名をあげ、彼への共感を隠さない。ハイエクにとってバークはあくまでホイッグであり、自由主義者であった。バークをもって保守主義の正統とみなす本書の視座からすれば、ハイエクもまたその継承者としての一面をもっていたといえるだろう。

 

90~92ページ

 

「 「法の支配」

 ハイエクは『自由の条件』のなかで、「法の支配」について本格的に検討している。この本でハイエクはまず、自由を「強制の欠如」として定義する。そのようなハイエクにとって、もっとも恐れなければならないのは、政府による恣意的な権力行使によって人々の自由が失われることであった。

 ハイエクが重視したのは、人間の行動の所産ではあるが、意図の結果ではないような複雑な秩序であった。このような秩序をハイエクは「自生的秩序」と呼ぶ。自生的秩序を形成するのは、歴史的に形成された制度や慣習といったルールであった。そのような制度や慣習は、人々が日常的に使用し、活用することで歴史的に試されてきた。それらはいわば、過去の経験に対する個別の適応の所産である。その意味で、過去からの制度や慣習を活用する人間は、それと知らずに過去の誰とも知らない人間の知恵を活用していることになる。

 現在、無意識にそのような制度や慣習に従っている人間は、なぜそのような制度や慣習が存在するのかを知らない。知らないが、現実との間にとくに問題を起こすまでは、それを放棄することもない。その意味で、制度や慣習はつねに歴史のなかでふるいにかけられ、そこで生き残ってきたものである。ハイエクの考える「進化」とは、制度や慣習といった「ルール」の進化であった。このようなハイエクの秩序像が、きわめて保守主義と親和性が高いものであったことはいうまでもない。

 ハイエクは、このような「進化」で中心的な役割をはたすものを「法」と呼んだ。この場合の法とは、特定の立法者が意図的につくり出したものではなく、歴史的に形成されてきた振る舞いの一般的ルールを指す。ハイエクが法のなかでとくに重視したのは「一般性」であった。個別的な対象に対する立法は、対象とされる個人や集団に対する強制に等しい。法は特定の対象を狙い撃ちにするものであってはならないのである。その意味で、一般的なルールは強制を最小にするとハイエクは考えた。人々はあらかじめ示された一般的なルールを前提に、自らの判断をなす。逆にいえば」、個別的な立法や、恣意的なルールの変更は、そのような個人の選択に対する制約にほかならない。」

 

94ページ

「 このようにハイエクの思想的展開を振り返るとき、新自由主義的な思想家としてハイエクを捉えることがいかに不適切かわかるであろう。ハイエクの思想の本質は人間の知の有限性やローカル性を重視する懐疑主義であり、多様性や選択の自由を重視する自由主義である。その政治的主張の中心は、憲法によって政府による恣意的な立法を抑制しようとする立憲主義にあった。このようなハイエクの思想に、バーク以来の英国保守主義の現代的展開を見てとることができるはずである。

 

 

 

 

 

 遠藤氏は、ハイエクについて述べた後で、反米感情に流されることの危険性について付言している(273ページ)。

 中野は反米感情を煽るアメリカ陰謀論を唱え、これに流される保守系の人々が少なくないが、遠藤氏はかかる状況を意識しているのではないか。

 かかる反中野とも受け取れる論考を載せた「正論」には好感が持てる。今後もこういう論調であってほしいと思う。

 逆に、中野に発言を求める「Hanada」には疑念を抱いている。同誌は保守論壇誌で最も売れているそうだが、同誌編集部は「TPP亡国論」を一体どのように考えているのだろうか。

 

 

 

 中野の保守論はマルクス主義と親和性が高いように思える(https://goo.gl/b3voe5)。

 あらためて上念司氏の、マルクス主義地理学者であり新自由主義批判の祖であるデヴィッド・ハーヴェイに関する解説を聞いてみたところ、どうやらハーヴェイもハイエクを新自由主義に位置づけて敵視しているようである。

 新自由主義とは社会主義の敵ということであり、新自由主義批判は社会主義に親和性を有する。

 ハイエクに新自由主義のレッテルを貼って敵視する態度は、思想の根本が歪んでいる証左であろう。

 中野は真正保守どころか保守を偽装したアカだと疑った方がよいというのが私の見方だ。

 

 

 

「第30回 新自由主義批判を点検する!~【歴史歪曲】ケインズ経済学は共産主義です!~」 YouTube2014年1月12日

https://youtu.be/dlVf2eNUAis?t=5m20s


 

 

 

 ところで、上記遠藤論考のちょうど1年前の「正論2017年2月号」で、西部邁氏の連載「ファシスタたらんとした者」が終了した(https://goo.gl/n4pyru)。

 ここで西部氏は自分の死に方について論じている。その前号の「正論2017年1月号」でも西部氏は死に方について論じている。

 そして今月21日、西部氏が死去した。自殺のようである。

 

 

 

「評論家の西部邁さん死亡 自殺か 現場に遺書」 NHKニュースウェブ2018年1月21日

https://goo.gl/ZKUUpc

 

「21日朝、評論家の西部邁さん(78)が、東京都内の多摩川で意識不明の状態で見つかり、搬送先の病院で死亡しました。警視庁は、現場の状況から西部さんが自殺したと見て調べています。

21日午前6時40分ごろ、東京・大田区田園調布の多摩川で評論家の西部邁さんの長男から、「父親が川に飛び込んだ」と警察に通報が入りました。警察官が川から西部さんを引き上げましたが、意識不明の状態となっていて搬送先の病院で死亡しました。現場には遺書が残されていたということで、警視庁は西部さんが川に飛び込んで自殺したと見て調べています。

西部さんは北海道出身で、東京大学在学中に日米安全保障条約の改定をめぐる「60年安保闘争」で、学生運動の指導的な役割を担いました。東京大学の教授を辞職したあとは、保守派の論客として辛口の評論で活躍し、民放番組の「朝まで生テレビ」など多くのテレビ番組に出演し、大衆社会への批判を軸にした評論活動を展開しました。

また、執筆活動にも盛んに取り組み、自伝的エッセーを集めた著書「サンチョ・キホーテの旅」で、平成22年に芸術選奨の文部科学大臣賞に選ばれています。

 

保守派の論客として辛口評論で活躍


西部邁さんは北海道出身で、東京大学在学中に日米安全保障条約の改定をめぐる「60年安保闘争」で、学生運動の指導的な役割を担いました。昭和61年に東京大学教養学部の教授に就任しますが、昭和63年にみずから辞職し、その後、保守派の論客として辛口の評論で活躍します。

西部さんは民放番組の「朝まで生テレビ」や、みずからの名前がついた「西部邁ゼミナール」など多くのテレビ番組に出演したほか、雑誌や新聞などでも大衆社会への批判を軸にした評論活動を展開しました。

また、執筆活動にも盛んに取り組み、自伝的エッセーを集めた著書「サンチョ・キホーテの旅」で、平成22年に芸術選奨の文部科学大臣賞に選ばれています。」

 

 

 

 中野は西部氏が主催する表現者塾の門下生であった(https://goo.gl/EmTSUp)。

 西部氏はハイエクを新自由主義に位置づけるが、新自由主義は歴史を重んじるとし、自由放任や市場原理主義とは区別している。

 また、新自由主義者は為政者の勝手な制定法に信を置かないという。とすると、独裁主義とも結びつくまい。

 西部氏は、大衆社会や市場機構に対する疑念が希薄だとハイエクを批判しつつも(なお、全体主義批判を優先したのだろうと理解を示している)、ハイエクは「ほとんど保守主義者」「隠れ保守主義者」「首尾一貫せる保守主義」だったと評する。ということは、ハイエクは保守とは敵対するものではない。

 西部氏のハイエク観は、中野のそれとは印象がかなり異なるはずだ。中野は西部氏の本を「ちゃんと読んだ」のだろうか。

 私が上で紹介した遠藤氏・宇野氏のハイエク観など信じられないという人は、故人を偲ぶ意味でも、西部氏のものでも読んでみたらいかがか。

 そして、ハイエクは保守ではないのか、保守とは何だろうか、中野剛志は真正保守か、彼を信用してよいのか、考えてみるといい。

 

 

 

西部邁 「西部邁の経済思想入門」 (左右社、2012年)

 

216~218ページ

 

「 新自由主義者の自由

 古典的な自由主義が自由放任を唱えたのは不幸な結末を招いた。つまり、いかなる秩序の制約にも服さない自由という観念を膨らましたのである。ハイエクを代表者とする新自由主義 neo-liberalism の思想は、自由放任を否定して、法の下における自由を主張する。また古典的な自由主義がスミスのいう自然的自由を唱えたのも不幸な結果をもたらした。つまり、自然を強調するあまり、歴史というものにたいする配慮がないがしろにされたのである。新自由主義は法が歴史のなかで時間をかけて形成されるものであることを強調する。

 普通法 common law あるいは慣習法 custom law が新自由主義者が従おうとする法である。ということは、為政者なり世論などが合理的改革の名の下に策定しようとする法律には信を置かないということを意味する。なぜなら、そうした制定法は個別集団の利害経産によって動かされがちのものであり、また制定に当たっての合理的計算というものも長期的には過てるものであることが起こりうるからである。

 新自由主義の解釈によれば、市場機構こそは、人々が自己および自己の周辺にかんする限定された情報を用いて自由に行為する場であり、それらの行為が社会的に調整されて、個々人が意図することのなかったよりよき成果を社会全体に及ぼすのである。それは人類の最大の発明品というべきものだというわけだ。市場機構は慣習法にもとづく自由交換の結果として、社会に漸進的な進歩をもたらす。それは、理性的人為によって社会を設計するのではなく、経済的知恵の自生的な蓄積によって社会を歴史的に構成するのである。」

 

220ページ

 

「 一九九〇年代から今世紀初頭にかけて猛威をふるっているのは自由主義経済の思想がある。それは、世間ではネオリベラリズム(新自由主義)と名づけられている。しかし、ハイエクらのそれを新自由主義と呼んだからには、正しくはネオネオリベラリズム(新々自由主義)と命名されるべきであろう。

 

 市場原理主義

 

 新々自由主義の俗名は市場原理主義 market fundamentalism である。この場合の原理とは、市場が(社会的慣習や政治的制度によって)安定化させられているか否かを問わずに、すべての経済取引を自由放任 laissez-faire の形で市場の自由交換に委ねるのが正しい、とする考え方である。」

 

 

 

西部邁 「思想の英雄たち 保守の源流をたずねて」 (文藝春秋、1996年)

 

235ページ

 

「彼(※ハイエク)の全著作を読み通すと、とくに「習慣、伝統、道徳」へのこだわりにおいて、彼は変化におけるラディカリズムつまり急進主義に同調してはいなかったのであろうと推察される。その意味で彼はほとんど保守主義者である。(中略)おそらくは、全体主義に逆らう動きをまずもって肯定するという政治的な構えにもとづいて、彼は大衆社会への嫌悪を心のうちに隠したのであろう。要するに、良かれ悪しかれ、ハイエクは隠れ保守主義者であったと私には思われるのである。」

 

242ページ

 

「 ハイエクは、市場というみごとな自生的秩序だけで社会を運行させていくには、その前に社会を落ち着いたものにしなければならない、といいたかったのではないか。その意味で、彼はトランキライザーつまり「事態を鎮静させる人」だったのだと私は思う。

(中略)ハイエクが警告を発したのは、不確実性が大きいから組織の必要が高まるのではなく、組織を設計しようとする野望が高まるからこそ不確実が大きくなるということにたいしてであったのであろう。

 そうだとするとハイエクは首尾一貫せる保守主義だったということになる。彼が保守せんとしたのは、もちろん、既存の秩序そのものではない。既存の設計された秩序の奥底にあって歴史をつらぬいて持続してきた自生的な秩序、彼が保守せんとしたのはそれである。」