【愛国無罪】反グローバリズムの陥穽【共産主義】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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流行に浮かされずに独り立ち止まり、素朴に真っ直ぐに物事を観てみたい。
そういう想いのブログです。

 保守系の人たちの間で人気のある言説と言えば「反グローバリズム」だ。

 なんとなく外国勢力から日本を守るという響きを感じるためであろう。

 しかし、反グローバリズムに基づく主張は、どこまで当たっているのだろうか。

 相当おかしな言説が反グローバリズムの名目で通用してしまっている気がしてならない。

 グローバリズムとは何なのか。何を根拠にグローバリズム・グローバリストの認定をしているのか。曖昧で、強気の主張が好まれやすい。

 反グローバリズムを煽る人たちの主張は本当に正しいのか、特に彼らの安倍政権批判は正しいのか、疑ってみた方がいい。

 

 

 

 例えば、国家戦略特区だ。

 三橋貴明はグローバリズムと国家戦略特区を絡める(https://goo.gl/kPXpLL。新自由主義と絡めることもある。https://goo.gl/ApxbSq)。

 では、下に示す愛知県の特区はグローバリズムなのか?

 グローバリズム反対・国家戦略特区反対ということでこれを潰してよいのか?

 ひょっとして反対論者はアメリカ資本の手先?w

 そういう馬鹿馬鹿しい話にもなってしまう。

 確かに外国人材に関する特区もあるが、それは特区の一部に過ぎない(https://goo.gl/A8ZD9F)。

 本質的に国家戦略特区がグローバリズムなる理念に基づいているかというと、そうではないと見た方が適切だろう。

 三橋自身、「オオカミが来るぞ」の愚かさを言うことがあるが(https://goo.gl/DrPvua)、不当に国家戦略特区への不安を煽り、また、不当に安倍叩きに結びつけている感がある(https://goo.gl/uCvjLz)。

 ちなみに、国家戦略特区で話題になっているものと言えば加計学園問題だが、これに関する三橋ブログ記事を見たら、「安倍総理の「依怙贔屓のグローバリズム」の方針は、結局は国民のルサンチマンを煽り、「自分」に矛先が向くようになってしまうという話です。」「ルサンチマンに基づく民主主義の「暴走」こそが、実はグローバリズムを抑制する「平和的な唯一の方法」ではないかという、救われない話です。」と書かれていた(https://goo.gl/X6zCPL)。安倍政権を打倒して民共連合政府を樹立することもやむなし、と言っているようなものでは…。よくもまぁ安倍総理大臣はこんな三橋を会食に呼んだものだ…(https://goo.gl/5TLG7Q)。

 

 

 

「完全な無人運転へ 愛知県が描く「自動走行」の未来図 実証実験進む「自動走行実証推進事業」の現在とこれから」 ビジネスエコシステム2017年6月8日

https://goo.gl/SU37gF

 

「人の運転操作が不要な「自動運転車」に関する話題が、世界的な盛り上がりを見せている。実用化を目指して先行する欧米諸国に対し、やや後れを取った感のある日本も自動運転を成長戦略の要素と位置付け、急ピッチで環境整備を推進中だ。政府が定めた国家戦略特区の一つである愛知県では、これまで企業、大学などが個別に実施していた自動走行の研究開発事業をスケールアップし、官民挙げての大型プロジェクトを展開している。

 

「無人運転、愛知で公道実験 14日、幸田で全国初「レベル4」」 中日新聞ウェブ2017年12月5日

https://goo.gl/Dvygu8

 

「 愛知県は、運転席にドライバーが座らない状態での自動運転車の公道実験を、同県幸田町で十四日に実施する。アクセル、ブレーキ、ハンドル操作のすべてを人工知能(AI)に任せる「レベル4」の段階で、通常と同じ公道での実験は全国初。

 関係者によると、幸田町民会館周辺で実施。運転席に人が座らない車が時速十五キロほどで約七百メートルを周回する。三次元地図と、数センチ単位で周囲の物体との距離を確認できるレーザーを使い、AIが歩行者や対向車、障害物の有無を確認しながら車が進む。

 実験時、歩行者や車の通行規制はしない。万一の場合は人が遠隔操作で車を止める。

 愛知県は昨年末、公道でのレベル4実験を、全国に先駆けて今夏に実施することを決定。ただ運転席に人がいない車の公道走行が法的に認められていなかったため、県は、警察庁によるガイドライン作成などを待っていた。

 県は二〇一五年度、近未来技術実証の国家戦略特区に指定。AIがすべて操作するが、運転席にドライバーが座る「レベル3」の実験を一六年度、十五市町で重ねた。一七年度は十月に刈谷市で、閉鎖された道路でのレベル4の実験に成功。公道での実証実験は幸田町に続き、一七年度中に名古屋、春日井市でも予定する。

 

 

 

 竹中平蔵氏は反グローバリズムの人たちに蛇蝎の如く嫌われているが、竹中氏のグローバル化の説明はかなり当たっていると私は思う。

 様々な技術が進歩すれば交易は盛んになる。世界全体が1つのマーケットになっていく。

 「国境を低くしよう」という思想がユダヤ人にあったということは否定しないとしても(WiLL2016年10月号43ページ・渡部昇一発言)、そんなものとは関係なく技術が進歩すれば経済活動は国境を越えるようになる。

 グローバル化は進んでいくものであり、グローバリズムなる理念を持っている何者かが推進して実現しているものとは考えがたい。

 竹中氏に対して保守を自認する人たちが口汚く罵っているが、果たしてどれだけのものが正当な批判たりえるのだろうか。

 

 

 

竹中平蔵 「日本経済こうすれば復興する!」 (アスコム、2011年) 56~58ページ

 

[5] 「グローバル化はアメリカ主導である」のウソ

 

 「グローバル化」や「グローバリゼーション」という問題に対して、日本ではいまだに腰が引けている人が少なくありません。「グローバル化はアメリカが主導したもので、背後には金融・情報資本がある」とか「グローバル化はアメリカの陰謀だ。そんなものに日本が付き合う必要はない。日本には日本の道がある」といった言い方をする人が、、依然として多いのです。これはまさに、いい加減な人が、いい加減なことを言っている典型例です。

 2008年のダボス会議で、アメリカのライス国務長官はこう断言しました。

グローバリゼーションは選択の問題ではなく、事実なのだ」(Globalization is not a choice but a fact.)

 ライスさんが述べたように、グローバル化は現前たる事実であって、選ぶ選ばないという問題ではありません。事実とは、市場経済が27億人から60億人のものに拡大し、厳しい競争とチャンスが生まれたことです。これは「貿易大国のウソ」でも述べました。ここまでで「グローバル化はアメリカ主導」が大ウソであることはおわかりでしょう。

 たとえば92年、中国の鄧小平さんは中国南部の大都市や経済特区を精力的に視察して、改革開放路線を強調しました。いわゆる「南巡講話」ですが、これも世界のグローバル化につながる動きです。これがアメリカ主導で、中国やロシアの市場経済化も全部アメリカ主導ならば、アメリカに苦労はありません。もちろん、グローバリゼーションとアメリカナイゼーションは、まったく違う話です。

 ところが、世界全体が一つのマーケットになり、国境を越えて物や資源が移動し、フラット化していくグローバル化の現実に対してどうするのかが問われているのに、日本はその入り口で、アメリカ主導は受け入れられないなどと文句を言っています。グローバル化と正面から向き合うことを拒んできたのです。

 グローバル化の進展とともに強調すべきは、技術体系の大激変がグローバル化に拍車をかけていることです。大激変とは、IT(情報通信技術)やパソコン・インターネット・携帯電話などが象徴する「デジタル革命」ともいうべき一大技術革新です。

(後略)」

 

 

※「某CS」=日本文化チャンネル桜。なお、同局のCS放送は11月30日に終了した(https://goo.gl/znYo6h)。

 「社長」=水島総

 「暗黒卿」=高橋洋一

 

 

 

 三橋は、上でリンクを貼った国家戦略特区をグローバリズムと絡める記事で、「種子法廃止」もこれと絡めている。

 では、三橋の主要農作物種子法廃止反対論は本当に正しかったのか。

 「原種」の意味もろくに理解せず、遺伝子組換え農作物の法規制の知識も怪しく、共産党と歩調を合わせた反安倍デマだったと私は疑っている。

 デマを流して「安倍政権は行政を歪めた」と言うのであれば、加計学園問題の前川喜平と似たようなものだ。

 反グローバリズムで誤魔化されていないか。

 

 

 

<拙ブログ>

 

●4月7日

 「【三橋貴明】「モンサント法」のレッテル貼りに反対する【主要農作物種子法廃止法案】」

 https://goo.gl/ojQ5AY

 ※ 三橋の種子法廃止反対論は赤旗と妙にシンクロ。

 

●4月13日

 「【三橋貴明】続 「モンサント法」のレッテル貼りに反対する【主要農作物種子法廃止法案】」

 https://goo.gl/oM1HYH

 ※ 三橋の種子法理解の怪しさ。特に「原種」の理解が間違っており、育種を全体的に誤解しているのではないか。もはや経済評論家ではなく煽動芸人の様相。

 

●5月26日

 「【三橋貴明】「売国のモンサント法」という矛盾【主要農作物種子法廃止法・農業競争力強化支援法】」

 https://goo.gl/y2TA8d

 ※ 種子法は外資規制の法律ではない。遺伝子組換え農作物の規制はカルタヘナ法等が中心(https://goo.gl/z2B1xr[農林水産省HP])。三橋は遺伝子組換え農作物の規制を全体的に誤解しているのではないか。三橋の「モンサント法」というレッテル貼りは不当だと考えられる。

 

●8月26日

 「【三橋貴明】「おなじみのノリ」の煽動に気をつけよう【水島総】」

 https://goo.gl/4kZDz7

 ※ 青山繁晴参議院議員の「虎ノ門ニュース」での発言を紹介。チャンネル桜が種子法廃止反対特番のために取材した野口種苗研究所は共産党系の疑いありではないか。

 

●9月26日

 「【青山繁晴】日本共産党系の運動も入り込んでいることもご存じでしょうか【主要農作物種子法廃止法】」

 https://goo.gl/NNkApX

 ※ 青山議員のブログを紹介。「種子法廃止に反対する運動のなかに、日本共産党系の運動も入り込んでいることもご存じでしょうか。」とのこと(https://goo.gl/8tdUPu)。

 

<稲作農家の農民(さんとへ)さんのブログ>

 

●4月29日

 「『種子法廃止は「モンサント法」なのか』に関する補足」

 https://goo.gl/JgybYP

 

●5月23日

 「某ブログにコメントしてみた」

 https://goo.gl/AgVKxN

 

●6月2日

 「遺伝子組換え生物等の使用等の規制による生物の多様性の確保に関する法律の一部を改正する法律案」

 https://goo.gl/GxSZHb

 

●9月6日

 「『種子法廃止は「モンサント法」なのか』に関する補足(2)」

 https://goo.gl/eutXpx


 

 

 

 倉山満氏と上念司氏が、保守系に蔓延る「天皇陛下万歳と言った後は残りはすべて共産主義」を批判している。

 TPP亡国論が例に出されているが、反グローバリズムが広くこれにあたるだろう。

 三橋は今上陛下の譲位に関して「皇統を守る」というブログ記事を書いている(https://goo.gl/mcmPmL)。「天皇陛下万歳」だ。

 他方、三橋は幸徳秋水に依拠して反グローバリズム論を唱える(https://goo.gl/pXnKzb)。

 幸徳は、「大逆事件」の反天皇共産主義者だ。

 「反グローバリズム=保守」などと思っていると、いつの間にかアカへ誘導されてしまう。

 前者の記事で三橋は皇統断絶とグローバリズムを絡めるが、両者は無関係だと考えた方がよいだろう。幸徳は皇室を滅ぼそうとしたわけだが、反グローバリズムの側だ。

 このように、「グローバリズム=反日」「反グローバリズム=保守」と思い込んでいると、主敵を誤認し、共産主義勢力が視界に入らなくなるおそれがある。

 なぜ反グローバリズム論者は共産主義・共産党に近づいてしまうのか。その論拠を私なりに言うとこうだ。

 反グローバリズムは反新自由主義とセットだ。反新自由主義は、「新」とは言うが自由主義・資本主義に反する。だから反グローバリズムは共産主義に親和する。

 したがって、保守系の人が反グローバリズムを唱えていると、天皇陛下万歳と言いながらマルクスに接近ししまう危険があるということだ。

 元外交官の馬淵睦夫氏が「共産主義とグローバリズムは同根」と言っているらしいが、あまり真に受けない方がいいと私は思う。「TPP亡国論」の中野剛志の師匠とも言える西部邁は、「経済のグローバリズム(…)はあくまで資本主義(…)の態度によってつらぬかれている」と述べる(「西部邁の経済思想入門」(左右社、2012年)241ページ)。また、共産党の機関紙「しんぶん赤旗」には反グローバリズムの論説が載っている(https://goo.gl/bFbLuj)。「同根」ではないと思う。

 「【保守とは何だろうか】 中野剛志とマルクス【共産党宣言】」を公開したのは3年前になるが(https://goo.gl/b3voe5)、TPP亡国論の行き着く先は、結局、マルクスの「共産党宣言」を翻訳した幸徳であり、そして、新社会主義宣言であった(https://goo.gl/uLKspK)。

 保守論壇の重鎮であった故・渡部昇一氏はフリードリヒ・ハイエクを「マルクス主義を殺した哲人」と評した(https://goo.gl/NMio7t)。そのハイエクに、中野は新自由主義のレッテルを貼って嫌悪の対象とする(「保守とは何だろうか」(NHK出版、2013年)23ページ)。また、新自由主義批判の出所の一つはマルクス主義者のデヴィッド・ハーヴェイだ。

 反グローバリズム・反新自由主義が真正保守だと思い込んでいると、いつの間にか偽装保守の仲間入りをしていたというオチになりかねない。

 

 

 

「特別番組「天皇陛下万歳と言った後は残りはすべて共産主義」上念司 倉山満【チャンネルくらら・12月10日配信】」 YouTube2017年12月12日

https://goo.gl/UorqwP

 

倉山満編 「総図解 よくわかる日本の近現代史」 (新人物往来社、2010年) 144,145ページ

 

幸徳秋水 こうとく・しゅうすい(1871~1911)

 

 幸徳秋水は明治初期の社会主義思想かであり、最後はテロリストとして処刑された。豪商の家に生まれたが、生涯を通じて反体制派に与した。日露戦争では「非戦論」の主唱者であったために、現代では賛美されることも多い。

 少年時代から自由民権運動に関心を持ち、自由党幹部の林有造や「東洋のルソー」こと中江兆民に師事する。自由新聞社を皮切りに、いくつかの新聞社を経て、明治31年に黒岩涙香の『萬朝報』論説委員となる。この頃には社会主義ジャーナリストとなっていた。

 この間に結婚するが、妻千代子の父は、幕末に尊皇攘夷運動で活躍した平田派国学者であり、「足利三代木像梟首事件」の首謀者の師岡正胤である。

 明治33(1900)年、自由民権運動の担い手であった自由党系代議士たちが伊藤博文の立憲政友会に参加したことを批判して『万<ママ>朝報』に「自由党を祭る文」発表し、決別を宣言する。

 幸徳は、『廿世紀之怪物帝国主義』の出版、社会民主党の結成など、反体制活動を続けていく。明治36年、『萬朝報』が日露非戦論から開戦論に転じたために退社し、週刊『平民新聞』を発行する平民社を創立した。

 開戦後の明治37年3月、平民新聞に「露国社会党に与ふる書」を発表して日露両国の労働者階級に反戦のための連帯を呼びかけた。同年11月には堺利彦との共訳でマルクス『共産党宣言』を掲載し、即日発禁処分となる。過激な反日的反戦活動により入獄するが、クロポトキンを読んで無政府主義思想に傾倒した。出獄後は渡米し、無政府主義者や社会主義者たちと交流した。

 非戦論を含めた一連の行動はあらゆる戦争に反対する非戦論ではない。社会主義革命に必要な日本国打倒の手段であり、社会主義理論に基づく反帝国主義の文脈である。幸徳はあらゆる暴力を否定した訳ではなく、直接行動論を唱えて片山潜(後にスターリンの親友、コミンテルンの大幹部)と袂をわかってもいる。

 千代子と離婚後、かつての同志である荒畑寒村と離婚した社会主義運動家菅野スガと東京で同棲を始めた。明治43年6月、菅野らによる天皇暗殺事件計画に連座して検挙、首謀者とみなされ翌年1月に大逆罪で処刑された。大逆事件(幸徳事件)である。この事件に関しては、幸徳無罪説も根強い。なお、幸徳の法廷での「今の天皇は、正統である南朝の子孫を滅ぼして三種の神器を奪った北朝の子孫ではないか」との皇室への侮辱発言を契機に、南北朝はどちらの朝廷が正統かという南北朝正閏問題が起こり、南朝が正統とされて教科書が一斉に書きかえられた。

 日本史上初めて、天皇や皇族個人ではなく、皇室そのものを滅ぼそうとする勢力が出現した。

 (倉山満)」

 

 

 

上念司 「経済用語 悪魔の辞典 ニュースに惑わされる前に論破しておきたい55の言葉」 (イースト・プレス、2015年) 69~73ページ

 

しんじゆうしゅぎ 【新自由主義】

 思想的に左右双方から目の敵にされている考え方。ただし、その批判者が対象としている「新自由主義」なるものは、現実に実施された政策とは別のイエティとかビッグフットといった系統の何かのようである。
 なぜ、私が「何かのようである」としか言えないのか? その理由は批判者たちの定義の曖昧さにある。新自由主義を批判している人たちに「新自由主義の定義」を聞いてみると、ある人は「新古典派経済学的な政策」と言い、ある人は「グローバリズム」と言い、ある人は「国際金融資本」だと言う。

(中略。ユダヤ陰謀論について)
 とはいえ、新自由主義を解説するためには、ある程度は一般的な定義が必要だ。とりあえず、ステレオタイプな新自由主義批判にありがちな定義を使ってみよう。それは、いわゆる反グローバリズム闘争などで使われるおなじみの定義だ。それは簡単に言うと「人々は少数の資本家によって搾取されていて、新自由主義というのはその搾取を助長するものだ」というものである。
 助長するために具体的に何をするかと言うと、大企業に有利な規制や補助金とか、労働組合に不利な法改正とか、結果的に大企業ばかりが儲かるような国営企業の民営化などだ。1991年にソ連が崩壊して以降、旧社会主義諸国で実際に起こったことなどがこの事例にあたるらしい。
 だとすると、新自由主義とは社会主義に対立する概念であり、新自由主義を批判しているのは社会主義者だというのが論理的な帰結となる。しかし、日本においては社会主義者とは対極に位置するはずの自称保守派のなかに激しい新自由主義批判をしている人がいる。彼らの本籍は社会主義で、保守を自称するのは本籍隠しなのだろうか?
 そういえば、戦前、近衛文麿のまわりには、国粋主義者を偽装した社会主義者がたくさんいたらしい。おそらくその流れを汲む者たちなのだろうか。
 新自由主義批判が社会主義、共産主義の陣営から出ていることを示す文献的な証拠はたくさんある。たとえば最近の新自由主義批判のバイブルとして名高い『新自由主義』という本がある。著者はデヴィッド・ハーヴェイ氏というイギリスのマルクス主義地理学者だ。この本はナオミ・クライン氏のベストセラー『ショック・ドクトリン』の元ネタになった本であり、反グローバリズム闘争の歴史的な意義を説いた名作(迷作)である。内容は歴史の再定義から始まり、いま起こっている現象をすべて階級闘争というひとつのフレームワークを読み解こうとするおなじみのやり方だ。
 同書は似非ケインジアンの項(20ページ※)でも説明したとおり強引な結論を導くために数々の歴史歪曲や事実の恣意的な解釈を連発している。ハーヴェイ氏の根拠のない断定のせいで、いちばん迷惑を被ったのはミルトン・フリードマン氏ではないだろうか。
 フリードマン氏はハーヴェイ氏やクライン氏によって新自由主義という悪魔の思想の教組に祭り上げられてしまった。クライン氏は前掲書のなかで「チリのアウグスト・ピノチェト政権の経済顧問を務めて不当逮捕、拷問、弾圧などの人権侵害に目をつぶってきた」とか、「フリードマンの教え子たち(シカゴ大学OB)が数多く経済ブレーンとしてチリに帰国し、政府資産を二束三文で資本家に売り渡して巨額の利益を得た」とか、さまざまな状況証拠を使ってフリードマン氏を悪魔のように批判した。

 しかし、早稲田大学教授の若田部昌澄氏によれば、フリードマン氏がピノチェト大統領の経済顧問であったことはない。フリードマン氏は1975年3月に6日間だけチリを訪問してピノチェト大統領と45分間会談した。しかも、その会談とは一対一の会談ではなく、大勢の訪問団の一員としてのものだった。

 このとき、たしかにフリードマン氏は「ショック療法(緊縮財政)」の必要性を提唱した。しかし、これは、あくまでも高すぎるインフレ率を抑え込むために必要な「ショック療法」を語ったにすぎない。クライン氏が言うような目隠しして電気ショックを与えて洗脳するなどという方法をフリードマン氏が指示したという事実はないのだ。

 この当時、南米諸国は総じて貧富の差が激しく、インフレが際限なく進行していた。経済を正常化するにはステップがある。まずは通貨の信任を取り戻すことが大事であり、フリードマン氏の言う「ショック療法」には意味があった。また、供給力が不足した状況ではインフレが進行しやすいため、経済を自由化して多くの人が利益を得るためにビジネスを始めやすくすることも重要だ。
 日本の新自由主義批判においてフリードマン氏のポジションにいるのは慶應義塾大学教授の竹中平蔵氏である。竹中氏に対しても「郵政民営化は日本人の富をアメリカに売り渡す」とか、「人材派遣のパソナの会長を務めているのに、労働自由化について政府に影響をおよぼすのは利益相反だ」などという批判がある。

 郵政民営化で日本の預金がすべてアメリカに吸い上げられたであろうか? アメリカ国際を「買い支えている」と陰謀論で語られる基金は外国為替特別会計だ。変動相場制の国にはとっくに不必要な為替介入の資金をプールするところである。推定130兆円と言われる巨額資金は財務省のオイシイ天下り先を確保するために、いまだに積み上げられている。

 竹中氏が労働自由化の実現について、どれほどの職務権限を持っていたのだろうか? 収賄が成り立つと言うなら、少なくとも収賄罪の刑法上の構成要件を満たす必要がある。おそらく刑法の条文を一度も読んだことのない人が「利益相反だ!」と聞きかじった言葉で騒いでいるのだろう。ならば、逆に派遣法つぶしに躍起になっている「正社員」の組合の連合から票をもらっている民主党議員は、利益に忠実に行動しているので利益相反にはならないということなのだろうか?
 新自由主義という言葉はとても便利な言葉であるが、「あいつは悪いやつだ」という以上の意味は持たない空虚な言葉である。こういう言葉の使用には気をつけたい。」

 

※ 「似非ケインジアン」についてはhttp://u0u0.net/xJEaで引用した。

 

 

 

 

 

 三橋貴明や水島総を好む人は、彼らと袂を分かった倉山氏らの言うことなど信用しないかもしれない。まして竹中氏になど聞く耳すら持つまい。

 では、チャンネル桜に出演し、頑張れ日本!全国行動委員会の東京・荒川支部の相談役を務める潮匡人氏の著書を紹介しよう(https://goo.gl/NtdqVP)。

 「新自由主義批判」「反米」は「反グローバリズム」と置き換えても意味は通じる。

 これらの言説は陰謀説じみた反知性主義だということだ。

 

 

 

潮匡人 「「反米論」は百害あって一利なし」 (PHP研究所、2012年) 216~221ページ

 

保守論壇は何を見失ったのか

 

 果たして、最近の保守論壇はどうか。残念ながら、反米感情や反韓感情をむき出しに、陰謀説を掲げて恥じない論者が増えた。ファクトも、ロジックも、レトリックもない俗論がやたら増えた。左翼セクトのアジビラのごとき文体まで目につく。ネット「保守」の言語空間に至っては、救い難い。<<これほどまでに日本語を貶める雑誌に、「保守」を語る資格があるのだろうか>>との批判は、休刊した雑誌ではなく、現在のネット空間に向けられるべきであろう。

 いかに正しい言論とて、アジを繰り返すだけなら、いずれ廃れる。「初めに結論ありき」なら、展望はない。「閉ざされた言語空間」では、いずれ希望の灯が消える。ハイエクはこう書いた。

<希望は性質上「進歩的」である人びとを説得し支持を得ることにもとづかなければならない。これらの人たちは現在でこそ間違った方向への変化を求めているかもしれないが、少なくとも現行のものを批判的に検討し、必要であれば変化を望む>

 日本の進歩派にも、こう言えるか。自信はないが、諦めてはなるまい。ニヒリズムこそ悪魔の囁きである。たしかに保守言論は変容してきた。変化を望む人々を説得しようとする構えが絶えて久しい。自戒を込めて、そう思う。

 保守論壇はなぜ、往時の輝きを失ったのか。それは保守自身が守るべき垂直軸を見失ったからではないだろうか。世論に阿り、保守論壇までが甘く危険な経済政策を唱道した。「改革が格差を生んだ」との喧伝が「生活が第一」なる俗論に力を与えた。実際、そう叫んだ政治勢力は、あっさりリベラル政権に与した。忘れてはならない、彼らも「保守」と呼ばれていたことを。「保守」の「新自由主義批判」がなければ、政権交代は起きなったかもしれない。

 教科書問題などで、保守陣営が内紛を重ねた経緯も大きい。党派的なイデオロギーを掲げ、教条的なアジテーションを叫び、分裂を内ゲバを繰り返すのは、唾棄すべき左翼の悪弊である。なのに、保守論壇が、そうした戦場と化した。

 真理を追究する建設的な論争なら歓迎しよう。論壇はそのためにある。だが多くは、水平次元で非難応酬を繰り返すだけではないか。狭い保守論壇で内紛を重ねて、どうする。喜ぶのは、敵陣営だけではないか。

 ちなみに、前掲本を除けば、これまで私を批判したのは、すべて「保守」の著名人である。それも「バカ」「似非保守」「親米ポチ」「○○の提灯持ち」「○○のスパイ」等々。すべてレッテル貼りに終始した。そこには、反米陣営の本性が垣間見える。

 もはや言論人というより、運動家のごとき言動ではないのか。読者層も、やせ細った。多くの読者が、名実ともに薄っぺらなベストセラーに飛びつく。上丸本ではないが、日本語を大切にしないと保守など、それ自体が矛盾している。多くの場面で、言論が政治運動の道具と堕している。本末転倒ではないのか。

 保守なら断じて、反知性主義に陥ってはならない。恥ずかしげもなく、言論を出世や保身の道具にする者も多い。

 事実、リベラル政権に秋波を送り、官職や審議会委員などに就いた「保守」が多数いる。「復興のため」などの免罪符で、永田町でも大連立が模索された。その動きに抗した「保守」政治家は少ない。

 

反米論ではなく、希望を語ろう

 

 リベラル派は水平次元でしか生きられない。そこには、永遠もなければ、真理も救いもない。だから、醜い嫉妬が蠢く俗世間での成功や保身を図って恥じることがない。

 専門外の分野で、軽々しく評論する御仁も増えた。社会科学の素養もない者が、歴史から外交まで論じる。それを「保守」が重宝する。TPPアメリカ陰謀論にせよ、「脱原発」にせよ「核武装」にせよ、経済にも、原子力にも、軍事にも疎い経歴の方々が次々と極論を展開する。

 戦後、保守陣営は、進歩派の護憲論を「非現実的な理想論」と非難してきたが、その同じ口が「理想論」を語るのは自殺行為ではないのか。

「保守的であるとは、自己のめぐりあわせに対して淡々としていること、自己の身に相応しく生きていくことであり、自分自身にも自分の環境にも存在しない一層高度な完璧さを、追求しようとはしないことである」(オークショット)

 われわれ保守派は水平次元に迷い込むべきでない。地上で理想を実現しようとすれば、世俗にまみれ、聖なる軸を見失う。かつて小泉純一郎内閣が進めた改革を「新自由主義」「市場原理主義」とのレッテルで非難し、「格差是正」という名の、忌むべき平等化政策を叫んだのはリベラル陣営だけではない。

 そうした勢力は今も「保守」に健在である。それどころか勢いを増している。右も左も「反米」を合唱する。

 本来、拠るべき垂直軸を、あえて漢字で表せば<聖>であろう。最下部の「壬」は、爪先立って、神に祈る姿勢を表す。神の声を聞く「耳」、祝詞を入れる器が「口」、以上で「聖」となる。文字通り、神に祈るような姿勢で希望を語る。そうした”聖論”が聞かれなくなって久しい。聖論が廃れば、俗論が横行する。陰謀論が渦巻く。言葉は力を失う。その先に希望はない。

 光の道を進む、ただ一つの杖は言葉である。言葉を失えば、「開かれた社会」は扉を閉ざす。杖を失えば、「隷属への道」に迷い込む。光は輝きを失い、闇が支配する。そこに救いはない。

 いま語るべきは、希望である。それは文字通り、まれな望みである。なかなか叶わない。だからこそ、希望は光り輝く。聖なる垂直軸は、悠久の歴史伝統に根ざす。だから苦難に耐え、倒れることを知らない。希望に向かって、永遠に伸びていく。そう信じて、ともに耐え、それぞれの場で練達するのが、我々の使命ではないだろうか。

 ともに希望を語ろう。陰謀論で益するものは何もない。本書がその一助となることを祈ってやまない。」

 

 

 

 

 

「愛国心ゆえの反グローバリズムだ。ハズれた方がいい最悪の事態を想定して警鐘を鳴らした。ハズしていても構わない。」

 もしそう言うなら、言いたい放題やりたい放題を許せということであり、もはや「愛国無罪」ではないか。支那に似通ってくる。

 「TPP亡国論」は、愛国無罪で水に流すのではなく、検証が必要だと思う。三橋は「検証・アベノミクスとTPP」(廣済堂出版、2013年)という本を出しているが(関岡英之との対談)、TPP亡国論も多大な影響力があったのだから検証はすべきだろう。しかし、保守論壇誌がこれを検証したところを見たことがない。

 愛国を装った私利私欲の人気取り。いたずらに安倍政権を攻撃して反日勢力を利する。反グローバリズムの言説には軽薄さをおぼえることがある。

 反グローバリズムの言説を追い続けていくうちに、アカい方へと誘導されていき、「天皇陛下万歳と言った後は残りはすべて共産主義」になってしまう。ひいては「一番保守的なのは共産党」(by適菜収)と錯覚するようになり、赤旗と似通ってしまう(https://goo.gl/fGHBXYhttps://goo.gl/b5HAz7)。

 愛国無罪。共産主義(偽装保守)。それが反グローバリズムの陥穽(落とし穴)だと私が考えるところだ。

 

 

 

 反グローバリズムの言説はわかりやすいと言えばわかりやすい。

 しかし、反グローバリズムは信頼できる保守の目印というよりは、取扱注意のアブないものだと見た方がよいと思う。

 渡部昇一氏は(反)グローバリズムという言葉をほとんど使っていなかったのではないか。反グローバリズムに謙抑的な識者の論説にあたった方がよいと思う。別の言い方をすれば、戦前のブロック経済に批判的な歴史観の識者を見るのがよいと思う(https://goo.gl/gLs3sN。中野はこの歴史観に立たない(「TPP亡国論」(集英社、2011年)137~139ページ)。中野はこの記述の中でピーター・テミンを詐欺的に誤用しているとのこと(https://goo.gl/gA4Q3uhttps://goo.gl/LUXinp))。

 民主党政権末期までの「失われた15年(または20年)」の中、不況の原因が様々に論じられた。その中で「小泉・竹中の規制緩和(構造改革)が原因ではないか。」「アメリカが日本に規制緩和を要望している。」ということで、反グローバリズム(・反新自由主義)が賛同を得たのだと思う。

 しかし、第二次安倍政権が金融政策を引締めから緩和に転じたことで景気が回復に転じたことから明らかなように、原因の多くはデフレ・ターゲットとすら言える日本銀行の失政にあった(https://youtu.be/YY-d8j8g_bc?t=15m4s)。

 もはや景気低迷の原因をグローバリズム(・新自由主義)に求めるのは誤りであることは明らかであり、反グローバリズム(・反新自由主義)は迷信だったと言えるだろう。グローバリズム(・新自由主義)という妖怪など存在しなかった。仮に存在するとしても過大視していた。そういうことではないか(輸入デフレ説、生産性向上デフレ説は誤り。岩田規久男「デフレと超円高」(講談社、2011年)96~105ページ)。

 かつて三橋は「成長こそが全ての解」と言っていた(三橋ブログを検索すると2015年6月17日を最後にこの言い回しが出てこなくなる。)。安倍政権が経済成長を実現していけば、なぜ日本経済は成長しないかということを気にする人は減っていき、次第に反グローバリズム(・反新自由主義)の言説も力を失っていくだろう。

 反グローバリズム論者は、まさに言を左右にし、グローバリズムの意義を拡大して、妖怪を大きなものとして見せ、不安を煽って人気を保とうとしているように思えてならない。

 反グローバリズム(特に安倍政権批判を伴うもの)は疑うべきだ。