【三橋貴明】グローバリズムの定義【後編】 | 独立直観 BJ24649のブログ

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 前回の記事で、三橋氏が「グローバリズム」について、定義等に変節が見られることを紹介した(http://u0u0.net/oRp7)。
 三橋氏は、10月8日のブログ記事で、グローバリズムを「構造改革と緊縮財政を合わせて行うこと」と定義したhttp://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12081823180.html)。
 国境を越えるという要素がなく、珍しい定義の仕方だ。珍説だと言える。
 三橋氏は、このグローバリズムによって、欧州経済が混沌としている旨を言う。
 そこで、三橋氏が過去にこれについてどう定義していたのか、どう論じていたのかを振り返ってみた。
 平成22年の参院選前に出された「日本の未来、ほんとは明るい!」では、三橋氏は、「グローバルスタンダード」を「自分たちの価値観を外国に押し付けること」と定義し、「日本も、自分たちの価値観を世界に押し付ければいい」と言う。
 グローバリズム(上の三橋氏の定義とは違うが)に賛成する立場だと解することができる。
 その半年後であり、菅直人内閣総理大臣(当時)がTPP交渉参加を表明した後に出版された「経済ニュースが10倍よくわかる 日本経済のカラクリ 円高がわかれば日本経済がわかる」では、三橋氏は、「グローバルスタンダード」を同じ標準で作れば誰でも同じ物が作れることと定義し、「グローバリズム」を「貿易が拡大するということ」と定義し、「グローバル化など大間違い」と言いつつも、サービスと農業の輸出の拡大には積極的な態度を見せる。
 グローバリズムに反対しつつも、従来の賛成論を捨て切れておらず、揺らぎが見られる。
 前回の記事ではここまで紹介した。

 「経済ニュース~」の2年後の平成24年11月に、つまり野田内閣末期・第二次安倍内閣誕生直前に、三橋氏は以下の2冊の本を書き上げた(両書とも第二次安倍内閣発足前に出版)。
 ここにもグローバリズムの定義が書かれている。
 なお、平成23年3月に中野剛志氏が「TPP亡国論」(集英社)を出し、三橋氏もTPP反対論に加わり、この時には代表的論客の1人となった。


三橋貴明 「2013年 大転換する世界 逆襲する日本」 (徳間書店、2012年11月) 

16ページ
「グローバリズム(市場原理主義)」

22,23ページ
「 グローバル化あるいはグローバリズムとは、おもに以下の3つについて、国境線を越えた移動の自由を認めることである。

 ①モノやサービスの輸出入(貿易)
 ②資本の移動(直接投資、証券投資)
 ③労働者の移動

 要するに、経済の3要素であるモノ(&サービス)、カネ、ヒトが、国家を超えて自由自在に動きまわることを認めるというのがグローバリズムだ。モノ、カネ、ヒトが国境線を越える際に、できるだけコストをかけないようにするべし、という発想になるため、グローバリストは基本的に小さな政府を志向する。」

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三橋貴明 「脱グローバル化が日本経済を大復活させる」 (青春出版社、2012年12月) 20,21ページ

「 グローバリズムとはそもそもどんなものなのだろうか。根底には、以下の三つの国境を越えた動きを「完全に自由化する」というコンセプトがある。

 (1) モノ(製品)やサービスの輸出入
 (2) 資本の移動(直接投資の自由化、証券投資の自由化)
 (3) 労働者の移動

 ユーロ圏内では、まさにこの三つがほとんど自由化されてしまっている。
 関税の撤廃でモノの輸出入を完全自由化し、マーストリヒト条約により非関税障壁の多くも撤廃された。さらに、資本移動は直接投資、証券投資に限らず規制がなく、シェンゲン協定により人の移動にも制限がかけられていない。
 要するに、生産の三要素である「モノ」「カネ」「ヒト」の三つが、国境を越えて自由自在に動き回ることを認めよう、というのがグローバリズムなのである。
 国境で可能な限り制限を設けず、モノ、カネ、ヒトが猛スピードで動き回れば動き回るほど経済は発展するという考え方」

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 この頃はまだ国境を越えることをグローバリズムの要素としていた。
 「経済ニュース~」での定義「貿易が拡大するということ」は、両書に挙げられている1番目の要素だけであり、これに2番目・3番目の要素が加わったと言える。
 考えようによっては、かつては1番目の要素だけを満たせばグローバリズムにあたっていたが、これに2つの要素が加わったわけで、グローバリズムにあたる場合がより限定されていると言える。
 一応変節ではあるが、定義自体は妥当ではなかろうか。こういう定義をする人は他にも存在するようである(下記上念引用部分)。
 ただ、グローバリズムに対する態度が変わり、三橋氏はグローバリズム反対の立場を明確に固める。
 三橋氏は、「グローバリズム(市場原理主義)対民主主義という対立構造」を見出す(「2013年~」16ページ)。
 そして、「グローバル化とは、つねに国内の格差を拡大する働きをすることで民主主義を破壊するのではないか、という疑問」があると言う(同19ページ)。
 どういう経緯で民主主義が破壊されるかというと、

「グローバリズムとは、基本的には供給能力を引き上げ、物価を押し下げる政策である。バブル崩壊後のデフレに苦しむ国がグローバリズムに突っ走ると、デフレは深刻化する。結果的に、失業率が高まり、国民のあいだに不安感、絶望感、閉塞感が蓄積されていき、最終的には民主主義が壊れてしまう。」

とのことだ(同44ページ)。
 すさまじい変節だ。
 前回の記事で紹介したが、三橋氏は参院選に出た当時は、

「日本も、自分たちの価値観を世界に押し付ければいい。それこそが”グローバルスタンダード”なのだ。」
「「ジャパニーズスタンダードこそがグローバルスタンダードですよ」と堂々と口にして言えばいい。できないはずがない。」

と、グローバル化を推進して他国の価値観を変えろ、海外に打って出ろ、ということを言っていたのだ(「日本の未来~」171~175ページ)。
 それが今や、いわば価値観を押し付けるグローバル化は「民主主義の破壊」ということになってしまう。
 かつての三橋氏は、民主主義を破壊する悪魔の思想に取り憑かれていたということだろうか。
 主張の正当性自体を考えるに、確かに、デフレ不況が閉塞感を生み、最終的には革命が起きて民主主義が壊れる、というおそれはあるとは思う。
 しかしグローバル化は個別価格の問題であって一般物価の問題ではなく、グローバリズムとデフレ深刻化はあまり関係ないだろう(https://youtu.be/g3zXcELzgew?t=24m50s)。
 また、革命が起きたり国政で共産党が与党になったりしない限り、たとえ(三橋氏から見て)不合理な選択であっても、民主主義の枠内なのであって、民主主義が壊れるというのは言い過ぎなのではないか。
 むしろ、不合理にTPP反対を煽って共産党が政権を担う「国民連合政府」を後押ししてしまっている三橋氏こそが民主主義を壊しているのではないか。

 「2013年~」で、三橋氏は、TPP反対論に立ちつつ、

「自民党は・・・、わが国にとって不要なグローバル化であるTPPについては、
「聖域なき関税撤廃を前提にするかぎり、交渉参加に反対する」
「自由貿易の理念に反する自動車などの工業製品の数値目標は受け入れない」
「国民皆保険制度を守る」
「食の安全安心の基準を守る」
「国の主権を失うようなISD条項には合意しない」
「政府調達・金融サービスなどは、わが国の特性を踏まえる」
 という、事実上の反対方針を表明している(これらの条件がすべて満たされるなら、筆者としてもTPP交渉への参加に反対はしない。というよりも、聖域なき関税撤廃がなくなった時点でTPPではないわけだが。)。」

と言う(313ページ)。
 今年10月5日、TPP交渉が大筋合意に達した(http://u0u0.net/oRpa)。
 同月20日、「TPPにおける関税交渉の結果」が公表された(http://u0u0.net/oRp8)。
 「TPP交渉参加各国の関税撤廃率」を見ると、日本は95%だ。つまり、関税撤廃に聖域があるということだ。
 そして、ISD条項も特に問題ないとのことだ(http://ameblo.jp/hirohitorigoto/entry-12082195658.html)。
 工業製品の数値目標については特に情報を見かけていないが、その余の項目についても問題は特にないようだ(https://twitter.com/typeXR/status/658252554791350272)。
 ならば、三橋氏はTPPに大筋で賛成すべきはずだ。
 にもかかわらず、三橋氏はTPP反対のネタを血眼になって探し回っているという様相だ(http://ameblo.jp/typexr/entry-12085681999.html)。
 安倍内閣の成果は是が非でも認めないという頑なな態度だ。
 大方、TPPをネタにして安倍叩きをするという「ドミナントストーリー」を描いていたのだろう(http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-10722440426.html)。
 思うに、菅内閣と安倍内閣とでは、TPPに臨む姿勢が全く違う。
 菅内閣は、「平成の開国」を掲げてTPPに臨んだ。思うに、自国を開けば開くほどよいというのは、他国の要求を飲めば飲むほどよいということであり、他方で相手の国を開く意思もなく、国益を守るためにタフな交渉をすることは期待できなかった。なので、当時は「TPP亡国論」はそれなりに意味があった(TPP賛成派の竹中平蔵氏も、菅内閣のTPP交渉参加には警戒心を示していた。http://ur0.pw/oRHM)。
 安倍内閣は、「瑞穂の国の資本主義」を掲げてTPPに臨んでいる。「瑞穂の国」というわが国の価値観を守るという決意をもった上で、タフな交渉をしてきた(http://u0u0.net/oRpb)。平成25年2月22日の日米首脳会談で関税撤廃に例外が認められる余地ができ、TPPは変質したのだ(http://ameblo.jp/khensuke/entry-12087822860.html)。
 今は「TPP亡国論」が出た当時と政府の態度が全く違う。下記の「日本の未来~」の表現で言えば、「環境変化」の一種だ。そしてこれに対応するのが「実践主義」だ。
 なので、むしろTPP反対論については三橋氏は変節した方がいい。
 しかし、三橋氏は変節する機会を失してしまった感がある。

 そして今、平成27年、上記の通り、三橋氏の「グローバリズム」の定義から国境を越えるという要素が消えた。
 思うに、安倍内閣打倒の結論から逆算して、この定義を導き出したのではないか。
 従来の主張を変えて、しかも独自の主張をするということには、何らかの意図があるはずだ。
 国境を越える要素がなくてもグローバリズムだと認定できれば、安倍総理大臣をグローバリストと認定して叩きやすくなるとは考えられる。
 それにしても、国境を越える要素があるからこそ、自国のみで政治的意思決定ができなくなるという主張が説得力を持ち、グローバリズムと民主主義の対立構造に説得力が与えられたわけだが、この要素を消して、三橋氏はこの主張を維持できるのだろうか。

 と思った傍から、10月25日、三橋氏は「グローバリズム」を「2013年~」の定義に戻して安倍叩きをした。


「新・鉄のカーテン」 三橋貴明ブログ2015年10月25日
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12088024428.html

「 改めて、現在のヨーロッパを考えると、結局、「モノ・サービス」「ヒト」「カネ」という経営の三要素の国境を越えた移動の自由化、すなわちグローバリズムは、「平時」においてしか通用しないということが分かります。現在のヨーロッパは明らかに非常時ですが、国民の権利や生活が大いに脅かされているような時期においては、各国が「国境」で自分たちを守ろうとせざるを得ないという話です。」

「 日本の政治家の皆さん、特に、安倍総理大臣。現実を見て下さい。

 これから世界に訪れるのは、国境や国籍にこだわらざるを得ない時代です。

「もはや、国境や国籍にこだわる時代は過ぎ去りました。などと、寝言を言っていられる時代は過ぎました」
 というのが真実なのですよ、安倍総理。」


空き地ツイッター 2015年10月25日
https://twitter.com/akichi_3kan4on/status/658129589001060357


 平時に通用するならいっそのことグローバリズムに原則として賛成した方がいいような気もする。
 ただ、今の三橋氏はグローバリズムが成り立つにはリカードの比較優位論が成り立つ必要があるとし、これが成り立つための前提条件を欠いているという立場だから、結局、平時かどうかに関係なく反対するということになるだろうhttp://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11575739641.html参照。なお、三橋氏の挙げる前提条件などなくても比較優位論は成り立つ。http://ameblo.jp/khensuke/entry-12062041210.htmlhttp://ameblo.jp/hirohitorigoto/entry-12080999363.html)。
 三橋氏は、難民が押し寄せてきた時は平時ではないという考え方をここでしており、そして平時ではないということは有事だということになるが、果たして難民が押し寄せてくることが有事にあたるという識者がどれだけいるのか、素朴に疑問だ。難民が来るのは、その中にテロリストが扮する偽装難民が混ざっているかもしれないが、基本的に敵国の軍隊が攻めてくるのとは違う。
 従来通り、リカードの比較優位論を否定しておれば、三橋氏はグローバリズムを否定できるのに、なぜあえて平時であることという条件を出したのか。そこに何らかの意図を感じる。
 おそらく、持論の移民亡国論と難民問題を結びつけようとしているのではないか。似て非なるものを一緒くたにした論法になっている気がする。
 そもそも、難民が押し寄せてくることはグローバリズムとは関係ない。
 確かに、ヒトが国境を越えて移動しているが、難民は経済活動のために移動しているのではない。ここが移民とは違う。
 今回の難民問題は、中東での紛争で住処を追われた難民が、グローバリズムを行っている欧州に入ってきたということであり、グローバリズムを行っているから難民が欧州に入ってきて(社会問題を引き起こして)いるのではない。
 いわば、因果関係が逆さまだ。
 難民問題をもってグローバリズムの是非を言うのはおかしいのではないか。
 ソマリアからの難民がケニアに入ってきて、そしてケニアがソマリア難民を追い返そうとしても、「難民流入はグローバリズムだ。難民を追い返しつつ国境線を高くするのはグローバリズムの否定だ。」などと考える人はいないだろう(http://u0u0.net/oRpe参照)。
 難民問題とグローバリズムとは切り離して考えた方がいいと思う。

 三橋氏の言論活動の軸の1つはグローバリズム反対論であるが、変節を重ね、無理やり安倍叩きに結びつけるという、質の悪いものになっている。
 今の三橋氏は、アベ政治について「悲観主義」をばらまいている。
 「悲観主義」について、三橋氏はかつてこんなことを言っていた。


三橋「日本の未来~」176~180ページ

「 筆者が大好きな言葉の一つに、フランスの哲学者アラン・コーナーが「幸福論」において述べた、
「悲観主義は気分のものであり、楽観主義は意志のものである。およそ成り行きに任せる人間は、気分が滅入りがちなものだ」
というものがある。
 日本のマスコミで発言をしている人々は、どうも「悲観主義的な論調」を語ればエリートに見えると、妙な勘違いをしているように思える。別に、悲観的な主張をすることでエリートになれるはずがないし、そもそも彼らはエリートではない。
(中略。マスコミは「お前たちはダメだ。お前たちはおしまいだ」という悲観主義を流し続けているが、ユーザーはマスコミ離れを起こしている。)
 ちなみに、筆者は「悲観主義」の逆を「楽観主義」とは定義していない。悲観主義の逆は楽観主義ではなく、「実践主義」である。
 問題をセンセーショナルに騒ぎ立てることをせず、数値データや事実ベースできちんと把握し、適切なソリューション(解決策)を構築する。環境が変化した際には、当然ながら正しいソリューションも変化する。問題を正しく認識したうえで、環境変化に適応しつつ、ソリューションを実践していく。これこそが「実践主義」だ。
 現在の日本には「悲観主義」が溢れている。マスコミや政治家が、イメージ中心に問題を捉えようとするために、解決のときが次第に遠ざかりつつあるのである。
 素晴らしいことではないか。
 既存の「自称エリート」たちが悲観主義を叫び、問題を解決しようとしないのであれば、国民自らがすればいい。自称エリートたちが希望を語らないというのであれば、国民自らが語ればいい。
(中略。庶民が自分の頭で政治や社会について考えた時に日本は反映へ向かう。)
 自称エリートの御託につき合い、悲嘆に暮れるのはもうやめにしよう。物事を成り行きに任せて落ち込むのは、もうやめにしよう。
 問題を正しく認識し、環境に適したソリューションを構築、実践する。ただ、これだけで日本が世界の中心になる可能性すらあるのだ。
 著者は、このとてつもない可能性を秘めた「現在の日本」に生を受けたことを、皮肉なしで心の底から感謝しているのである。

 二〇一〇年五月吉日
三橋貴明」


 「亡国論」を煽る今の三橋氏からは考えられない。今の三橋氏はセンセーショナルに騒ぎ立てている。
 今の三橋氏は、失業率の改善を伏せて、(デフレ脱却過程における)実質賃金低下を殊更に問題視し、悲観主義を叫び、安倍内閣を攻撃する(http://ur0.pw/oRI0http://ur0.pw/oRI6)。
 それでもマスメディアと異なり、三橋氏がユーザーを保っていられるのは、「お前たちはダメだ」とは言わずに、「お前たちは正しい。正しくないのは安倍だ」と言っているからだろう。
 「三橋貴明の御託につき合い、悲嘆に暮れるのはもうやめにしよう」。
 そう言いたい。

 この記事を書いている最中にネタを投下してくれて困るのだが、翌日である10月26日、三橋氏はこういうブログ記事を書いた。
 字数制限の都合上少ししか引用しないが、ひどい内容だ。


「ポーランドの「法と正義」」 三橋貴明ブログ2015年10月26日
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12088407675.html

「 グローバリズムは、国民を二分化します。

 すなわち、国民経済で生きる国民と、グローバル経済で生きるグローバリストの二つに、国民を分断するのです。国民経済で生きる国民とは、
「国境を意識し、日本語を話し、日本国内で所得を稼ぎ、日本国という共同体に属して生きていく国民が豊かになる経済」
 に属している人々になります。

 そして、国民経済の対語になるグローバリズムは、
「国境を意識せず、グローバル言語(英語)を話し、利益を最も稼ぎやすい国で所得もしくは資本利益を稼ぎ、共同体に属さず生きていくグローバリストを富ます経済」
 でございます。


 今回は「グローバリズム」に「グローバル言語(英語)」の要素が入ってきている(今まで気がつかなかったが、5月25日時点で既に英語の要素が定義に入っていた。http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12030807825.html)。
 もはや「グローバリズム」という言葉はブラックボックスと化しており、何でもアリだ。
 ではグローバリズムの代表格のEUが英語を共通言語にしているかというと、「欧州連合(EU)の加盟国には、加盟国間の平等の精神と多言語主義に基づき、自国の公用語をEUの公用語(official languages)として申請する権利があります。」「EUでは、ある特定の国の公用語であるか否か、また話者人口の規模や、言語が話されている地域に関わらず、どの言語に対しても等しく価値を認めて尊重する多言語主義が採用されています。」とのことだ(http://eumag.jp/question/f0712/ 「EUには共通言語政策というものがない」。http://ur0.pw/oRHd)。
 英語はEUの共通言語になっておらず、多言語主義がとられている。
 本質的に、グローバリズムと英語化はあまり関係ないはずだ。


空き地ツイッター 2015年10月26日
https://twitter.com/akichi_3kan4on/status/658475909511380992


 三橋氏はグローバル資本家と一般大衆を対立構造に置く。
 これはマルクス主義の、資本家と労働者を対立構造に置く論法を彷彿とさせる。

 かつての三橋氏は過当競争による供給能力向上は良いことだとしたが(「経済ニュース~」116~118ページ)、今の三橋氏は競争は制限すべきものだとし(タクシー料金が典型)、政府の市場への介入に肯定的だ。
 三橋氏のグローバル化反対論を聞いていると、ソ連が思い浮かぶ。
 グローバル化は、考えようによっては、市場を拡大し、労働意欲を高めるという面を持つ。その弊害として、格差を拡大するという面も持つ。格差が拡大しすぎると格差が固定化し、これはこれで労働意欲の低下を招きかねないので、再分配政策が必要になる。
 ソ連は「平等」(格差がない)を志向し、労働意欲を低下させたのではなかったか。ソ連が存在した頃、「頑張って働こうが働かなかろうが給料が変わらないんだったら、頑張って働かないよね。」みたいな話を聞いた覚えがある。
 グローバリズムに反対する今の三橋経済論は、労働意欲を下げる傾向がありそうな気はする。
 かつては競争の大変さを認識しつつもそこから得られる利益を重視していたのに対し、今は利益を軽視している感がある。
 「経済ニュース~」で三橋氏は、農業振興には農業を儲かる産業にすることだと言っていたが、これは労働意欲を高めようという話だとも解される(129ページ)。

 かつては三橋氏と共に言論活動をしたが、今は対立している上念司氏が、グローバリズムについて以下の説明をしている。


上念司 「経済用語 悪魔の辞典 ニュースに惑わされる前に論破しておきたい55の言葉」 (イースト・プレス、2015年) 215~219ページ

グローバリズム 【globalism】

 反対派が「市場万能主義や搾取の国際化であり、進めれば進めるほど人々の暮らしは苦しくなる」と信じて疑わない言葉。グローバリズムほど立場によって捉え方や定義が異なるものはない。
 賛成派の捉え方は、人やモノやカネのやりとりを世界規模で自由化することや、環境、国際的な犯罪やテロに対して国家の枠を超えて連携して対処することである。これに対して反対派は、グローバリゼーションによって企業はより安い人件費を求めて海外に流れ、失業や貧困、格差などの問題や環境破壊を引き起こすという。」

「 失業や貧困の原因はグローバル化というより国内の経済政策や税制などの失敗である。グローバル化という外的な事象にすべてを押しつけたところで問題は解決しない。」

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 これまで見てきたように、三橋氏はグローバリズムの「捉え方や定義」に変節が見られるが、「立場」が変化していることの表れだろう。
 どのように「立場」が変化したのかについて確たることは言えないが、(中野氏の影響を強めるにつれ、)責任ある政治家から、無責任な言論ビジネス屋に変化している気はする。
 グローバリズム反対派に対する批判は、三橋氏にもかなり当たっている。
 三橋氏は、グローバリズムは国民所得を引き下げる「底辺への競争」だとする(「脱グローバリズム~」29~31ページ)。
 グローバル化によって失業や貧困の問題が深刻化するというのと大差ないと言えよう。
 三橋氏が安倍総理大臣はグローバリズムに陥っているとみなしているとすると、グローバリスト安倍の政策によって失業率や名目賃金が改善しているとは口が裂けても言えないのだろうな、などと思う。
 それで、失業率や名目賃金の改善を無視して(名目賃金・実質賃金の推移につきhttp://ameblo.jp/akichi-3kan4on/entry-11989395344.html)、デフレ脱却過程にもかかわらず、実質賃金の低下を殊更に問題視するようになるのではないか(https://youtu.be/A6nyyNdSNuI)。
 「色々な話が「繋がっている」と思われませんか」(http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11557123377.html)。

 ついでに、上念氏の新自由主義の説明を紹介する。


上念同上69~73ページ

しんじゆうしゅぎ 【新自由主義】

 思想的に左右双方から目の敵にされている考え方。ただし、その批判者が対象としている「新自由主義」なるものは、現実に実施された政策とは別のイエティとかビッグフットといった系統の何かのようである。
 なぜ、私が「何かのようである」としか言えないのか? その理由は批判者たちの定義の曖昧さにある。新自由主義を批判している人たちに「新自由主義の定義」を聞いてみると、ある人は「新古典派経済学的な政策」と言い、ある人は「グローバリズム」と言い、ある人は「国際金融資本」だと言う。

「 新自由主義を解説するためには、ある程度は一般的な定義が必要だ。とりあえず、ステレオタイプな新自由主義批判にありがちな定義を使ってみよう。それは、いわゆる反グローバリズム闘争などで使われるおなじみの定義だ。それは簡単に言うと「人々は少数の資本家によって搾取されていて、新自由主義というのはその搾取を助長するものだ」というものである。
 助長するために具体的に何をするかと言うと、大企業に有利な規制や補助金とか、労働組合に不利な法改正とか、結果的に大企業ばかりが儲かるような国営企業の民営化などだ。1991年にソ連が崩壊して以降、旧社会主義諸国で実際に起こったことなどがこの事例にあたるらしい。
 だとすると、新自由主義とは社会主義に対立する概念であり、新自由主義を批判しているのは社会主義者だというのが論理的な帰結となる。しかし、日本においては社会主義者とは対極に位置するはずの自称保守派のなかに激しい新自由主義批判をしている人がいる。彼らの本籍は社会主義で、保守を自称するのは本籍隠しなのだろうか?
 そういえば、戦前、近衛文麿のまわりには、国粋主義者を偽装した社会主義者がたくさんいたらしい。おそらくその流れを汲む者たちなのだろうか。
 新自由主義批判が社会主義、共産主義の陣営から出ていることを示す文献的な証拠はたくさんある。たとえば最近の新自由主義批判のバイブルとして名高い『新自由主義』という本がある。著者はデヴィッド・ハーヴェイ氏というイギリスのマルクス主義地理学者だ。この本はナオミ・クライン氏のベストセラー『ショック・ドクトリン』の元ネタになった本であり、反グローバリズム闘争の歴史的な意義を説いた名作(迷作)である。内容は歴史の再定義から始まり、いま起こっている現象をすべて階級闘争というひとつのフレームワークを読み解こうとするおなじみのやり方だ。
 同書は似非ケインジアンの項(20ページ)でも説明したとおり強引な結論を導くために数々の歴史歪曲や事実の恣意的な解釈を連発している。ハーヴェイ氏の根拠のない断定のせいで、いちばん迷惑を被ったのはミルトン・フリードマン氏ではないだろうか。
 フリードマン氏はハーヴェイ氏やクライン氏によって新自由主義という悪魔の思想の教組に祭り上げられてしまった。

「 日本の新自由主義批判においてフリードマン氏のポジションにいるのは慶應義塾大学教授の竹中平蔵氏である。

「 新自由主義という言葉はとても便利な言葉であるが、「あいつは悪いやつだ」という以上の意味は持たない空虚な言葉である。こういう言葉の使用には気をつけたい。」


 「ショック・ドクトリン」は、「TPP亡国論」の本家本元の中野剛志氏が重視する文献だ(https://youtu.be/bHt0kEBgWe4、中野剛志「反官反民」(幻戯書房、2012年)342ページ)。
 三橋氏もその影響を受け(http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-10857200536.html[平成23年4月10日の記事])、今なおその影響は残っている(http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12012428650.html)。
 中野氏によって三橋氏はマルクス主義の方向に誘導されていると言えよう。
 三橋氏は、「新自由主義」という言葉自体はあまり使わないが、「新古典派経済学的な政策」を批判し、フリードマン氏や竹中氏を糾弾するようになる。
 その典型例の1つがこれだろう。三橋氏にしては珍しく「新自由主義」を用いている。


「ミルトン・フリードマンの採点」 三橋貴明ブログ2012年9月2日
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-11344066719.html

「 わたくしがこれまで大阪の橋本市長や「大阪維新の会」などについて書かなかったのは、よく分からなかったためです。原発やTPPもそうですが、よく知らないことをいい加減に書くことはできません。

 特に政党については、「何をやりたいのか」「公約」が明らかにならなければ、論評など成り立たないわけです。というわけで、ようやく「維新八策」の最終案の全文がオープンになったようなので、取り上げたいと思います。(とりあえず、社会保障と経済分野だけ)

(中略。維新八策全文)

 わはははは(笑)

 最初に上記「維新八策」の社会保障や経済分野の公約を読んだときは、思わずリアルで笑ってしまいました。何しろ、新自由主義的というか、サプライサイド(供給能力)政策というか、グローバリズム的というか、とにかく物価を押し下げる「インフレ対策」のオンパレードなのです。

(図略。http://members3.jcom.home.ne.jp/takaaki.mitsuhashi/data_37.html#IDGAP

 規制緩和、競争力強化、既得権益の打破、自由貿易、グローバリズム、TPP参加、社会保障のバウチャー化、ベーシックインカム、社会保障の「効率化」、雇用の流動性強化、ゾンビ産業の淘汰、などなど、社会や経済の効率性を高め、供給能力を高め、「インフレギャップ」を縮小し、物価を抑制する政策としては、ミルトン・フリードマンも80点を付けてくれると思います。」

「 あまりにも「竹中チック」なので、どういうことなのかと思っていたら、こんな記事が流れています。

(中略。新聞記事の引用)

 あ、なんだ。竹中氏はやはり維新の会のブレーンで、八策策定でも助言を行っているわけですね。まあ、そりゃあそうなんでしょうが。

 結局、維新の会は、
「保守的な発言、政策で保守層の支持を得た上で、ばりばりと新自由主義的な政策を実施していく」
 という、日本の小泉政権、韓国の李明博政権、フランスのサルコジ政権などで繰り返されたパターンを踏襲しようとしているわけです。」

「 三橋は「維新八策」の経済政策には、明確に反対をさせて頂きます。」


 反グローバリズムの立場を取り、新自由主義批判を行い、フリードマン氏をハーヴェイ流・クライン流に解釈し、竹中氏をも嫌悪する。
 上念氏の説明の典型例だと言える。
 ていうか、「よく知らないことをいい加減に書くことはできません。」って、竹中平蔵氏の著作とか、ちゃんと読んでるのかな・・・。
 竹中氏は三橋氏を無視しているが、竹中氏が三橋氏を名誉毀損で訴えたら、竹中氏が勝つのではないかと思う。

 という繋ぎから、三橋氏と倉山氏の訴訟ネタに話を持っていきたかったのだが、三橋氏がまたグローバリズムネタを投下し、これを論じてしまうと字数制限に引っかかってしまうため、訴訟ネタはカットすることとした。
 もうネタ投下は勘弁してほしい。
 ていうか、本当に勘弁してほしいと思う、冗談抜きで恐ろしい内容の記事だ。


「ドイツ第四帝国の支配と崩壊」 三橋貴明ブログ2015年10月28日
http://ameblo.jp/takaakimitsuhashi/entry-12089130834.html

「 本書のテーマは、ズバリ二つ。すなわち「ドイツ」と「新帝国主義(グローバリズム)」になります。

 帝国主義ということばについて、日本国民の多くは、
「欧米諸国がアジア、アフリカを侵略して、軍事的に支配する植民地と化して・・・」
 と、ステレオタイプ的な見方をしていると思います。そういう一面があることを否定はしませんが、帝国主義の定義は、
「帝国主義とは、相手国の「住民」から主権を奪い、あるいは主権を与えず、所得を継続的に吸収する仕組みを構築することを意味する。相手国の「住民」の主権を奪い取る手段は、何も軍事力の行使には限らない。」
 だと考えています。そして、「所得を継続的に吸収する仕組みの構築」こそが、まさにグローバリズムです。帝国主義とは、実は「グローバリズムの固定化」なのです。」

「 「前」のグローバリズムの時代、欧米諸国の帝国主義について、幸徳秋水が自著「帝国主義」において、以下の通り書いています。」


 グローバリズムの定義に相手国の主権を奪うという要素が加わった。
 定義がコロコロ変わる。
 「相手国の「住民」の主権を奪い取る」という表現は、「住民」に政治の決定権があるという意味にも取れ、外国人参政権を肯定する考え方が背後にある表現に思えるが、三橋氏は経済論のみならず、国家観についても怪しい感じではないか(最高裁判所第三小法廷平成7年2月28日判決参照。日本国憲法93条2項の「住民」に外国人が含まれるかが争点になった。最高裁は、外国人は含まれないと判示した。)。
 この表現こそ、国民と外国人を区別しないグローバリズムの究極のような気がするが。
 ここで大問題なのは、グローバリズム批判という、三橋氏の言論活動の中心の1つに、幸徳秋水が入り込んできたことだ。
 幸徳は、国賊中の国賊であり、彼に依拠するのはアブない。
 倉山満氏によれば、幸徳は日本史上初の「天皇や皇族個人ではなく、皇室そのものを滅ぼそうとする勢力」である(倉山満編「総図解よくわかる日本の近現代史」(新人物往来社、2010年)144,145ページ[倉山執筆])。
 幸徳の政治経済思想は、社会主義から無政府主義に傾倒し、最期は天皇暗殺計画の首謀者として処刑された(大逆事件。無罪説も有力。なお、幸徳は法廷で皇室を侮辱した。)。幸徳はマルクスの「共産党宣言」の翻訳もした(堺利彦との共訳。日本初の翻訳。http://ur0.pw/oRZu)。
 幸徳は日露戦争に際して日露両国の労働者に反戦を呼びかけたが、幸徳の「非戦論を含めた一連の行動はあらゆる戦争に反対する非戦論ではない。社会主義革命に必要な日本国打倒の手段であり、社会主義理論に基づく反帝国主義の文脈である」。
 幸徳の帝国主義批判は社会主義革命を実現するという文脈で展開されたものだ。
 三橋氏は幸徳の帝国主義批判に共感しているが、社会主義に傾倒しているから違和感をおぼえないのではないか。
 まさに上念氏の言う「本籍」が現れているのではないか。
 三橋氏の主張はマルクスの「共産党宣言」と類似しているという指摘があり、これに対して三橋氏は共産主義を嫌悪すると言ったが、まさか「共産党宣言」の訳者である幸徳に依拠することになろうとは(http://ur0.pw/oRIghttp://ur0.pw/oRIl)。全然嫌悪してないじゃん・・・。

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三橋「日本の未来~」23,24ページ

「 定義が曖昧なまま交わされる言葉があまりに多すぎるのではないだろうか。解決すべき問題の定義が曖昧な状態で議論をしても、噛み合わないのは当然であるし、有効な解決策が生まれようもないことは、子供にでもわかる道理だろう。」


 三橋貴明氏には改めて、5年前の自身の言葉を贈りたい。