<数値目標>
https://www.youtube.com/watch?v=GAlv_aVMdIU&list=PLrWxcegPNiyj-M05glrorpUrXekNDKejm&index=4
HSK1~2 #2~#4背了三十五分钟单词。
https://www.youtube.com/watch?v=kdHBscqnYdE&list=PLPJh8_1ABGf8__S-OjKDIl0Zc6w4e9_f2&index=7
中国まる見え情報局, 十三分钟。
https://www.youtube.com/watch?v=-6LqOs2kZDI
誰でも簡単!ネイティブ中国語専門チャンネル,7.5min~end。听写三十八分钟句子。一共一个小时二十六分钟。
とりあえず、補習完了ということで(汗)来週から頑張ろう!
さて今夜はsalsonならぬ、ハロウィンパーティー🎉 都可以 何方でもOK🙆♀️
<船原古墳>
金曜日は今ひとつ勉強する気分にならなかったので、OFF日に行く予定だった九州歴史資料館で開催されていた『特別展示「船原古墳とかがやく馬具の精華」』を観に行った。
https://kyureki.jp/event-information
内部は撮影禁止なのでこれだけ。今の時代、撮影禁止ておかしくないか? 別にフラッシュ焚くわけでもないのに?!
船原古墳は6〜7世紀初頭に建設されたものと考えられている前方後円墳で。2013年の調査で様々なものが発掘されたようだ。
正直言って展示品と説明の少なさにがっかりしたが、それでもどうやら馬が半島から導入されたことが非常な重要なこととして、当時の列島における「画期」として受け取られていることが古墳内部の壁画や装飾品を通じて感じることができた。
当時の馬は宮崎の天然記念物に指定されている御崎馬に似ていて小型で、5〜6歳馬でも、私の胸の部分に背があるのでそのまま簡単に股がれそうだ。サラブレッドに比べるとかなり小型。金属馬具の他に歯も沢山見つかっている(但し馬の骨は見つかっていないよう)ので、多分遺伝子解析も進められているはずだ。今後の研究が待たれる。
展示品は1時間もかからず全部見ることができたが、館外に出て周囲を散策して色々な発見があった。
資料館の展示館は下のGoogle Earthの赤で囲った部分のみ、それ以外は研究棟のよう。
まず目に入ったのが裏で栽培されている穀物類。多分イネが何種類かプラスチック箱別に植えられていた。箱に番号が付けられ、穂先がそれぞれ異なるので別の品種だろう。2つの明らかに違う種類が確認できた。下の写真の穂先で分かる。
稲は多年生植物で遺伝的特性を保持するには株分けがベストだが、越冬できるのは一部なので水田に疎に植わり、また収穫時期もズレるので収率を上げるために毎年の田植えになったのは当然のことだろう。
その他、様々な石人の複製品。
研究棟裏には大きな入口があり、ここから発掘物とかを搬入トラック等で搬入するのだろう。
『神功皇后伝承を歩く』下2
後半はいよいよ、近所の神社の話。宇美神宮のように隅から隅までよく知っている神社もあれば、何度か行ったことはあっても、全然知らない神社もある。後者については実地見聞ができる。
当時皇室は<末子相続の風習があった>という。p128
これは今の皇位継承制度とは異なる。むしろ遊牧民の風習。何となくここらも皇室の古代のルーツを感じるところ。当時は天皇の子供が沢山いた。古代は出生率と幼児死亡率から当然の仕組みだが、逆にこれが皇位継承を巡って血で血を洗う闘争に繋がる。因みに正室の子供が皇位を継ぐことは珍しかった。其れゆえ、男子継承となれば側室は当然とされたわけだ。
三韓征伐?後に直接、豊浦(とゆら)宮に行かず現在の北九州の地に長く留まる。これも上の皇位継承を巡る、香坂(かごさか)王と忍熊(おしくま)王との戦いがある。p130
ここで面白い社史の記録がある。其れはここで神功皇后が皇太后になったというもの。この記載の2年後に応神天皇皇太子になるので辻褄が合わない。これに答えるのが中国の史書。『新唐書、日本伝』(AD1060)、『宋史、日本国伝』(AD1345)その中では15代天皇は神功天皇と記載されている。つまり神功皇后は応神の前に天皇になったということ。p159
これらは日本から伝えられた年代記を書写したものなのでこちらが正統だろう。事実これまで見たきた幾つかの神社縁起(社史)にはそのような記述がある。p159
ではいつこれが改竄されたのか? 神功天皇は大正15年(AD1926)に詔により外されたとか! 全然知らなかった!! というか、余り知られていないのではないか??
話を元に戻すと、神功天皇は2皇子が待ち構えているリスクを感じて、行き道を戻らず大分の東の今川を下ったとされる。つまり行橋市側に、瀬戸内海側に出たらしい。p136
この後に続くのが、この2皇子、香坂王と忍熊王との戦いである。