山梨県甲州市の恵林寺にお参りしました。
恵林寺と言えば、武田信玄の三年秘喪明りの葬儀が盛大に行われたお寺として知られています。
織田・徳川連合軍による武田氏滅亡直後、織田信長が恵林寺に逃げ込んだ佐々木次郎(六角義定)の引き渡しを要求しますが、恵林寺側はこれを拒否したため焼き討ちにあいます。この際に、快川和尚が燃えさかる三門の上で詠んだとされる「安禅必ずしも水を須いず、心頭滅却すれば火も自ら涼し」はとても有名で、現在の三門の扁額として掲げられています。
武田家が力を持っていたうちは、六角氏だけではなく織田信長に敗れた勢力の当主たちが甲斐国内に逃れて寄宿していたようです。
ところで、信玄の葬儀を取り仕切った喪主は後を継いだ武田勝頼です。
勝頼の母親は諏訪頼重の娘で「諏訪御料人」と呼ばれ、映画やドラマではいろんな女優さんが演じていますが、とても美人だったようで信玄の寵愛を一身に受けます。
諏訪家は文字通り諏訪を拠点にしており、諏訪大社を司る名家で、信玄の時代は武田家とは敵対していました。しかし、当時当主だった諏訪頼重は信玄によっていわば謀殺されるような形になり、諏訪は武田の傘下となります。
ですので、諏訪御料人にとっては、信玄は父親の仇ということになります。
二人の間にできた勝頼は、名目上は武田家と諏訪家を結ぶ絆の象徴として、「諏訪勝頼」と名乗り、諏訪家を再興する形になるのですが、あくまでもこれは形式的なことであって実質的には武田家の配下ということになります。
本来なら、武田家は信玄の本妻との長男である武田義信が継ぐべきところなのですが、武田家が今川領を攻める際に父子の関係が悪くなり、義信は結局廃嫡となります。
そこで後嗣に指名されたのが勝頼で、「武田勝頼」と名乗るようになる訳ですが、譜代の重臣からすと、若干「外様感」というのがあったかもしれません。
それを払拭するためでしょうか、勝頼は無理をして、武田家の歴史のなかでは最大の版図を築きます。しかし、あの「長篠の戦い」を境に衰退し、平安時代からの源氏の流れを汲む武田家が滅亡することになるのです。長篠の戦いは太平洋戦争でのミッドウェー海戦のようなもので、武田家にとっては優秀な武将を一挙に失う手痛い敗戦でした。
このように、勝頼の代で短期間に武田家が滅亡したのは、私は諏訪頼重の呪いがあったのではないかと思っています。
恵林寺を訪れたのは1月の中旬で、本堂の廊下を歩いているときは足の裏がとても冷たく、「冬のお寺はこんなものだ」と子どもの頃に短期間でしたけど、お寺で過ごした記憶がよみがえってきました。
本堂の隣りの明王殿には「武田不動尊」が安置されています。この不動明王は確か大河ドラマ「風林火山」のオープニングに出てきたものだと思います。
明王殿から本堂に戻る途中に「冥歩禅」という瞑想路があります。「マジでこの通路を歩くのか」というくらい、真っ暗で、最初は右側の壁伝いに恐る恐る歩いていったのですが、袋小路に迷い込んだ感じで不安になり、引き返しました。ここで諦めてはいけないと思い、次は左手の壁を伝って暫く歩いていくと、奥にオレンジ色の光りが差し込んできて、何とか突破することができました。この数年の間では、ドキドキした経験のなかで一番だったかもしれません。
境内には「信玄公宝物館」があり、川中島合戦屏風や鎧や兜、太刀などが展示されています。武田というと合戦前に、新羅三郎義光から武田家に伝わったとされる鎧の前で「御旗盾無(みはたたてなし) 御照覧(ごしょうらん)あれ」と皆で唱和し、勝利を誓ったとされています。もちろん、宝物館には「風林火山」の旗もあり、戦国時代のロマンにどっぷりと浸ることができます。