東京都文京区に鎮座されている根津神社にお参りしました。
東京大学のキャンパスがあるこの辺りは、同じ東京都に住んでいても、私にとってはかなり縁遠い地域です。ですので、東京十社のひとつ根津神社の存在は知っていましたが、参拝するのは初めてでした。
「根津神社」というよりは「根津権現」の方が聞き慣れた感じがあります。同様に、「神田神社」よりも「神田明神」の方が何となく親しみやすいと感じるのは、私だけではないと思います。
「権現」も「明神」も両方とも神仏習合における称号だとされています。
「権現」とは「仏様の仮の姿」という意味で、まさしく本地垂迹説の神髄を表わす言葉ですが、それに対し「明神」は本地垂迹説が勃興する平安時代後期から鎌倉時代の期間よりも以前から使われていたようで、例えば住吉大社の神様である底筒男命、中筒男命、表筒男命の3柱を「住吉大明神」と呼ぶように、代表格的な神様は「明神」とされ、それが後に「そんな有名な明神は仏の化身に違いない」という具合に後付で解釈されたのかもしれません。
神仏習合というのは、日本人的宗教心のおおらかさを表わすと言っても良いかと思いますが、面白いのは、あくまでも外国から来た仏教が「主」で神道が「従」という位置付けです。
しかし、それはおかしいということで、鎌倉時代の中期に神が「主」で仏が「従」であるという神本仏垂迹説というのが興り、「神風」により勝利した元寇の頃には一時期大流行するのですが、その後メジャーに至ることはありませんでした。
明治時代になって、国家神道を押し進める当時の政府によって、神仏分離が徹底され、「権現」や「明神」という言葉はタブー視され、禁止用語になったようです。
ですが、戦後に復活して、今でも根津神社よりは根津権現、神田神社よりは神田明神の方が「音」として心地良いと感じる人が多いのは、それだけ神仏習合という思想が日本人には合っているという証左なのかもしれません。
根津神社はおよそ1900年前に、千駄木に日本武尊が創祀したとされる古社で、主祭神は素戔嗚尊(十一面観音菩薩)、大山咋神(山王大権現→薬師如来)、誉田別命(応神天皇→八幡大菩薩→阿弥陀如来)の3柱です。
現在、根津神社があるこの土地はもともと甲府徳川家の江戸屋敷があったところだそうです。5代将軍の綱吉には当時嗣子がなく、甲府徳川家の徳川綱豊が6代将軍家宣となりました。根津権現を深く信仰していた家宣は甲州徳川家の江戸屋敷を神社に献納し、新しく立派な社殿を建てました。今も残るこの社殿は権現造(本殿、幣殿、拝殿を一体として造る)の傑作だそうです。
私が訪れた日はちょうど「つつじ祭」が行われており、非常に多くの参拝者で賑わっていました。
江戸の街は東京という近代的な大都会に生まれ変わり、高いビルが建ち並んでいますが、神社だけは相変わらず、昔の姿のままで同じところに鎮座されているというのは、とても貴重なことであると思います。