寛永寺(東京都) | yampoo 御朱印集めの旅 

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現在、NHKのBSで毎週月曜日にアンコール大河ドラマ「篤姫」が放映されています。

小さい頃から大河ドラマはよく観ていて、記憶のなかで一番古いのは第3作目の「太閤記」です。豊臣秀吉は確か緒形拳が演じていました。そういう根っからの大河ドラマ・ファンなのですが、第47作目となった「篤姫」は、私のなかでは5本の指に入るくらいのお気に入りです。強く印象に残る台詞が多く、素晴らしい脚本だったと思います。

於一(おかつ:後の篤姫)は島津の分家の身でありながら、将来、将軍家に輿入れするために、まずは島津斉彬の養女になるわけですが、その話しが持ち上がった際に、於一がその運命に戸惑い躊躇います。

 

「女の道は一本道にございます。定めに背き引き返すは恥にございます。」

 

これは今和泉島津家の老女である菊本が、於一にかけた言葉で、これによって於一は運命に立ち向かう覚悟を決めるのです。

そしていよいよ、於一が島津本家に向けて旅立つとき、長塚京三が演じる父親の島津忠剛が自由奔放に育ちお転婆だった娘に対して、別れを惜しみこのように言います。

 

「そなたの父で…… 何というか…… とても…… 愉快であった。」

 

これは大河ドラマ史上名場面のひとつではないでしょうか?

このシーンを観ながら、最後に「愉快」という言葉を聞いたときに、思わず微笑んだと同時にちょっと涙も出てきました。父親の娘に対する愛情が溢れ出た名台詞です。

そして本来、子育てというのは大変ですけど、「愉快」の一言に尽きるべきことなのかもしれないと思いました。

ということで、今回は篤姫に由縁のあるお寺、寛永寺にお参りしました。

 

ところで、寛永寺をネットで検索すると、根本中堂やら輪王殿、清水観音堂、弁天堂など印象としては、それぞれの間には結構な距離があり、点在しているような感じがして、どこへまずは行ったら良いのか判然としませんでしたが、しかし、それもそのはず、現在の広大な上野公園の全てが昔は寛永寺の寺域だったということを後で知りました。

 

寛永寺は江戸城からは北東の方角、つまり鬼門に位置し、東の比叡山ということで「東叡山」と呼ばれます。

徳川宗家の菩提寺としては芝の増上寺もありますが、増上寺は中世の頃から存在していたのに対し、寛永寺は江戸時代に入ってから南光坊天海を開山とする天台宗関東総本山として建てられました。

歴代の住職には、皇子あるいは天皇の猶子が勤め、「輪王寺宮」と呼ばれ、徳川御三家と並ぶ格式と絶大な宗教的権威を持っていたそうです。

万が一、西の勢力が天皇を担いで江戸に攻めてきたとき、幕府側は輪王寺宮を還俗させて東の天皇とし、これに対抗しようという計画が秘かにあったらしいです。

それが現実となったのは戊辰戦争のときです。

篤姫の尽力もあり江戸城は無血開城になったものの、幕臣旗本で主戦派は、輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)を擁立し、彰義隊を結成して寛永寺に立てこもります。

そして彰義隊と官軍との戦い、いわゆる上野戦争によって寛永寺の大伽藍はことごとく焼け落ちてしまう結果となります。戦後、かつての寺域のほとんどは上野公園となりますが、寛永寺の全面的な復興に至らなかったのは、やはり徳川家の菩提寺だったというということと、廃仏毀釈の運動の影響だろうと思われます。

 

寛永寺にお参りした日はちょうど春分の日でした。

今年の3月は寒の戻りで桜の開花が例年よりも遅れているのですが、開花を待ちきれない多くの人々で上野公園は賑わっていました。

江戸の庶民が見ていただろう寛永寺の壮大な姿は、もはや想像するしかありません。しかし、不忍池に浮かぶ弁天堂や京都の清水寺を模したのであろう清水観音堂でしばらく佇むと、江戸時代にタイムスリップしたような感覚を覚えました。